第2話 幼児期の渚の記憶
両親との喧嘩もしだいに麻痺していき、怒鳴り合いも間を置くようになる。
そのあいだに職安へ行ったかだって?もう俺はあそこで断られている。怒鳴り合いの喧嘩もあってすっかり心が折れてしまった。
怒鳴り合いと言っても食わしてもらってる俺が怒鳴り返しているわけではないが。
面接へ行った求人欄の会社は正社員もアルバイトも相変わらず求人を出し続けている。一体誰を採用するのだろう。
時間の出来た俺は自分の物語を書き留めるのも良いと思って、幼い頃の記憶を辿ってみた。
そうでもしなければ正気を保てる状態でもなかった。うつ病や適応障害、広場恐怖症に詳しい医者を紹介してほしいと言う状態だ。
赤ん坊の頃の記憶は思い出そうも、一度もその覚えがあると感じたことはない。
ただ布団の角の縫い目の硬くなったところが好きで良く触っていた。若き母が「あんたは乳が好きだから、それに似た布団の角が好きなんだよ」と言っていた。
この言葉からもう俺が離乳してからの話だとわかる。
生まれた町には海がないので、母の強い要望で家族連れで海水浴に行ったことを良く覚えている。
後に聞いた話だが、駐車場の問題があるとかで公共の交通機関で行ったとのこと。その旅程については覚えていない。
海水浴場らしいが海で泳ぐのではない。海は遊泳禁止で、時々海とつながる汽水の沼が人の入る水のようだ。しかしその沼に入っている人を見た覚えはない。
この沼から海に面したところ全体が砂浜となっていて、夏季の海開きしたときだけ行楽の人々が集う。
沼の対岸は大きな茶色の岩石が連なる丘で、この風景も良く覚えている。
まだ2〜3歳の赤子だった俺は先輩にあたる小学生たちの群れ集まる人と大人も老若問わず訪れていたのを覚えている。
誰かわからないが赤子の俺をこの沼に入れようとして、俺は恐怖で恐れおののいた。
先輩の子供たちは少し向こうの海に面した砂浜で波と戯れていた。
この美しい海岸の光景を今でも良く覚えている。既視感(デジャブ)のある感覚で受けとめられる、まるでそこに帰って行くかのような気のするもので、たった2〜3歳でどうしてこのように自然の情景を心に刻むのだろうか。
長い人生歩んできて一度も説明のつく答えが見つからない事象である。
記憶が物心ついてから色がついたと言うものでもない。なぜなら、それから数年もしないうちにまた他の海岸に来て気づくのだから。
2〜3歳児がテレビで見た砂浜の風景に感銘を受けるのも考えられないし、大体テレビでのその記憶がない。
記憶の少ない幼児時代の写真はあるのだが、どうもどれも記憶しているのと合わない。
近所の同じくらいの年齢の子供と遊んでいたこととか、鉄道の鉄橋のかかった河原のない川、姉の幼稚園に行った時牛乳を飲むのにわざわざ近いからと母が砂糖を家に取りに行って、砂糖牛乳を飲んだこととかを覚えている。
4歳の頃父の仕事の関係で遠い町に引っ越しになり、それからの記憶はわりと覚えていることになる。
その町も海から遠く、幼児期に行った沼のある海は太平洋だが、この町から車で2時間くらいのところにある海は日本海である。
この海も親に連れられて海水浴に行っているが、あの海での感銘はまるでない。少々曇っていたのもあるが、渚のキラキラとした情景がまるで感じられなかった。
太平洋と日本海の違いは幼い感覚にはそう映るのであろうか。
その2〜3年前の陽光に照らされた渚の美しさは一体幼児の俺にとって何だったのだろうか。
家族構成は父と母、2歳年上の姉がいて至ってシンプルなものだった。
この頃はまだ幼いながら姉との関係も良好だった。家族の中に飼っている猫がいてしきりに猫の話題を姉としていたことを覚えている。
父との関係も特に変わったことは覚えていない。父と行動したことも覚えているし、母は母で今考えても当時は普通の母だったように思う。
ネグレクトだとか虐待だとか言う話はまだなかったように思う。
それから記憶では子供の理解出来ない言動を親はするようになる。
どこか覚えていない公的な場所だと思うが、幼い俺にしきりに母が耳うちをする。
4〜5歳の頃で俺は多分幼稚園にも入っていない頃だと思う。
「お父さんをイライラさせないの」
この言葉を何度も何度も俺に言うのだ。
そう言われて何をすると、あるいは何をしないと父はイライラするのだろうか。
もしかしたらイライラと言う言葉ですら俺は理解出来ていなかったかも知れない。
何か母が俺の行動を父を理由にして制限しているとは理解出来たが、大人しく座っていることだけをする以外なかったのを覚えている。
でも確かに父は歯を見せて、食いしばってイライラしている。
この頃からどうも自分は何かにつけて悪いことをしている人なんだと認識するようになった。
それからかは覚えていないが、おそらくは虐待が始まっていたのだと思う。
何故そう言えるかと言うと、どうも小学生時代には自分の思いの中に自分の周りで起こる悪い感情の原因は自分にあると信じるようになったからだ。
殴られる度に自分の落ち度を深く考え分析し、殴られたり怒鳴られたり怒られたりしないために自分はどうすべきかをずっと考え込んでいた。
しかし幼すぎるゆえ、その他人の感情がどうして自分に対してぶつけられるのかまるでわからなかった。
生まれた土地は平原だが、街なかで建物の記憶しかない。その町で引っ越したかどうかわからない。
両親は結婚を機に彼らの実家と同じ町のどこかに家を借りて住んでいたらしい。
両親が結婚した当時や、姉が生まれたから俺が生まれから物心付き始めるまでのあいだの家の事情はあまりわからない。戸籍を見てもあまり詳しく書いていないようだ。
先述したとおり写真に自分が映っている事実はあれど、写真に映っている風景の記憶はない。
記憶で残っているもうひとつの風景は、おそらく学校か学校のあった場所の側に住んでいただろうことである。
今思えば学校のグラウンドとしては狭すぎるスペースがあって、子供たちがボール遊びをいつもしている風景が記憶にある。
その敷地内に肥溜めではないが、雨水が溜まった槽があって、その水面に無数のボールがプカプカと放置されていた。
幼児の俺は黙って見ていて、そこに落ちたボールを誰も拾おうともしないことを不思議に思っていた。
水は澄んでいるのに何故誰もボールを拾わないのかと。
子供たちと言えども幼児の俺にとってずっと年上の先輩たちである。
ボール遊びと言ってもテニスボールか何か柔らかいものばかりだったろう。
先輩たちがどのようなゲームをしていたかはわからないが、ソフトボールなどをする程の大きなスペースはなかったと思う。
ドッチボールもバレーボールも記憶にない。子供の頭に当たっても怪我をしない程度の小さく柔らかいボールだったと思う。
軟式野球のボールはあったが、3歳児の存在するスペースで打球を飛ばせるイメージがわかない。
ここは全く失われた記憶の中にも赤ん坊ゆえに無条件に大人からのご機嫌とりをされていただろう余韻がある場所でもある。
それは1歳か2歳かわかないが、大人が赤ん坊にする言葉使いをし、頬の赤いところを指でちょんちょんとするあれである。
これが数年後には痛烈な痛みを伴うゲンコツに変わる。
この町から家族は引っ越すのだが、ここは少しばかり田舎になる。
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