四話 ⑨
今、必要なのは理屈ではない。理屈では理は超えられない。
「アウラ」
シラヌイはアウラの腰に片方の手を回し、抱き寄せた。
アウラはシラヌイを見上げ、微笑む。
シラヌイはもう片方の手でアウラの頬を包み、花のような美しい唇に口づけした。
アウラは驚かない。シラヌイの唇を、当たり前のように受け入れている。
唇を離したシラヌイは、今度は額と額を触れ合わせて、言った。
「愛している。アウラ」
その言葉を、シラヌイがアウラに向けて口にしたのは、これが二度目だった。一度目の時にはアウラは眠っていたから、実質的にはこれが初めてともいえる。
言いたいとは何度も思っていた。
しかし、もし自分の口から出たその言葉が空虚に聞こえてしまったら……と考えてしまい、言えなかった。
アウラを愛している。その気持ちに嘘も偽りもないはずなのに、シラヌイ自身が、自分の心を信じきれていなかったのだ。
「わたしもです。愛しています。あなた」
アウラが言葉を返してくれた。
その声は、シラヌイの心に、どこまでも晴れやかに響き渡った。
シラヌイを見つめる青く美しい瞳には、一点の曇りもない。
(私は、本当に愚かだ)
アウラは、ずっとそうだった。
シラヌイに、愛情と信頼を向け続けていた。
心を重ね続けてくれていた。
シラヌイは今それを、頭ではなく心で理解した。
(私はアウラを愛している。アウラは私を愛してくれている。私たちは紛れもなく夫婦だ。最強の夫婦だ!)
魔力が、より深く深く同調する。
シラヌイとアウラは、互いの両手を握り合い、目をヤマに向けた。
これまでは技術で同調させていた魔力が、今は息を吸って吐くような当たり前の感覚で同調できている。まるで一心同体であるかのように。
「アウラ」
「はい」
言葉は不要だった。
シラヌイは、さらに大きく強く、魔力を練り上げる。
魔力の同調に割いていたリソースを、魔力の増強に回す。
アウラはシラヌイの意図を瞬時に理解し、シラヌイと同様に魔力を練っている。
魔力が、自己の限界を超えていくのがわかる。
だが、まだだ。
ふたりの魔力を完全に同調させ、限界以上に練り上げてもなお、理を超えるには足りない。
(もう少しだ。本当に、あと少しなんだ)
ふたりの魔力は、理にまで届いてはいる。理の扉に、手は掛かっているのだ。足りないのは、扉を開けるための、鍵。
「夢を、見ました」
アウラが言った。
「小さな女の子の夢です。右目が赤くて、左目が青い。あの子はきっと、わたしたちの娘です」
シラヌイは頷く。
「私も同じ夢を見ました」
「わたしたちは、未来を夢に見たのでしょうか」
シラヌイは小さく首を横に振る。
「私たちに、巫女様のような未来を予知する力はありません。それでも、未来を思い描くことはできる。望んだ未来に向かって、歩いていける」
「……シラヌイさん。わたし、あの子に会いたいです」
シラヌイの手を握るアウラの手から、わずかに力が抜けた。
ふたりは今、魔力が自己の限界を超えたことで、精神が肉体を凌駕した状態にある。肉体的な感覚が麻痺している。おかげで身体の痛みも疲労も感じなくなっているが、感じないだけで、疲労しないわけではない。
アウラもシラヌイも、実際には、今、立っているのが奇跡的なほどに消耗していた。
シラヌイの手からも力が抜けつつあったが、力の入らない手で、それでもシラヌイはアウラの手を握りしめた。
「私もです。あの子に、会いたい」
「夢の中で、シラヌイさんはあの子の名前を呼んでいました」
「はい。あの子の名前は――」
シラヌイとアウラは見つめ合い、一つの名前を口にする。
『ユメ』
その名前が響く。届く。理に。理の、その先に。
開いていく。理の扉が。
不可能が、覆る。
シラヌイは深く息を吐き、吸って、言葉を紡ぐ。
「始原にして終焉の赤。刹那にして永劫の青」
ふたりの繋いだ手の先に、赤い光点が生まれた。赤い光点を青い光が包み込み、二色が溶け合って紫に変わる。
「相克は鍵、理の扉は今開かれた」
紫の光が、白い輝きを放つ。
「人智は白紙の未来へ至れり」
白い輝きが無数の色を帯びる。この世すべての色を宿し、光は輝きを増していく。
ヤマが不意に動きを止め、歪で巨大な頭を、シラヌイとアウラに向けた。
全ての目と口が大きく開かれる。口腔の奥に、赤黒い光が灯った。光はたちまち膨れ上がり、強烈かつ濃厚な死の気配をほとばしらせる。
シラヌイは理解する。あれは、ヤマの最大攻撃だ。
シラヌイとアウラの異様な魔力を危険と判断し、全力で排除しようとしているのだ。
あれが撃ち出されてその破壊力を存分に発揮した暁には、アウラリアの街も城も、跡形もなく消し飛んでしまうだろう。
シラヌイはしかし、怯まない。怖れない。
「万物よ、在るべき無へと還れ」
為すべきことは変わらない。そして、為すべきことは、既に為し終えている。
あとはただ、最後の言葉を紡ぎ、解き放つのみ。
シラヌイの声に、アウラの声が重なる。
不可能とされてきた奇跡の名を、ふたりは高らかに叫んだ。
『
あらゆる色が入り交じった光が、奔流となってヤマに向かう。
それはまさに極彩色。呪晶石と同じ、この世の理を超えたものの色だ。
同時に、ヤマの口からも赤黒い光が発射された。
甚大な魔力が、正面からぶつかり合う。
しかし、そこにせめぎ合いは発生しなかった。
極彩色の光は、行く手を阻むものなど、まるで存在していないかのように突き進み、ヤマを呑み込んだ。さらに、その背後に聳える呪晶石をかすめて、地平の彼方に消えていった。
シラヌイは目を見開く。
極彩色の光が通り過ぎたその後には、何も残されてはいなかった。
ヤマの歪な巨体は跡形もなく、地表も消失している。
炎と氷。相反する二つの属性が互いを打ち消し合おうとする力を利用して、という概念を事象化する。
あの極彩色の光は、という概念そのものであり、それに触れたものは、どんな強固な存在であれ、もれなく虚無の彼方へと消え去る。
呪晶獣という、この世界の理から外れた生き物であっても、例外ではない。
呪晶石でさえも。
シラヌイは見開いた目を呪晶石に向ける。光がかすめた部位が、削れている。
「やっ、た……」
これまで幾多もの英雄が、賢者が、国家が、あらゆる手を尽くしても壊せなかった呪晶石を、部分的にではあるが、破壊した。
「やり、ました、ね……」
シラヌイとアウラは顔を見合わせ、がっくりとその場に膝から崩れ落ちた。
足にまったく力が入らない。
麻痺していた肉体の感覚が戻ってくる。今まで味わったことのない疲労感が、全身を支配していた。
シラヌイとアウラは繋いだ手をそのままに、この場にいるもう一人に、目を向ける。
ヤマに必死の攻撃を繰り返していた彼女は、シラヌイとアウラの魔力の高まりに危険を察知し、大きく跳び退いていた。
彼女――メイアは、落としていた三角帽子を拾い、被って、シラヌイたちに杖を向けた。
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