三話 ④

 勝利を確信したのか、ヤマはゆっくりと歩み寄ってくる。


「落ち着け」


 自分に言い聞かせる。シラヌイの武器は魔術だ。片腕が折れたとしても、たいした問題ではない。

 魔術も、まったく効いていないわけではない。


「落ち着け」


 改めて言い聞かせる。荒く速くなっていた呼吸が、静まっていく。


「この程度の敵に、狼狽えるな」


 死闘には慣れている。目の前の異形よりも手強い相手と、シラヌイは実に百一度もの死闘を繰り広げてきたのだ。

 ヤマが、三つの眼を、まるで笑むように細めた。


「余裕のつもりか。人間を見くびるなよ、呪晶獣。おまえがこの地の王でいられるのも、今日までだ」


 シラヌイは笑みを返しつつ、魔力を練る。


紅炎天焦クリムゾン・フレア!」


 赤く紅い火球がヤマを呑み込み、火柱が天を焦がす。

 苦悶の咆哮が響き渡る。


「いい加減に、燃え尽きろ!」


 シラヌイは戦術を変えなかった。星光華炎スターライト・エクスプロ―ジョンで動きを止めて、紅炎天焦クリムゾン・フレアをくらわせる。

 今ので、七発目。

 大魔術によるダメージは、着実に積み重なっていた。

 ヤマの巨体は全身が焼け爛れ、肉が崩れ落ちている部位もあった。

 それでも、倒れない。倒しきれない。


星光華炎スターライト・エクスプロ―ジョン!」


 苦悶の声を発しつつも火柱の中から出てきたヤマの動きを、攻撃で封じる。


「紅は始原。紅はしゅうえ……っ」


 すかさず、紅炎天焦クリムゾン・フレアを撃とうとして、シラヌイは片膝をついた。


「ぐ……ああっ!」


 声をあげずにはいられないほどの激しい痛みが、身体中を駆け巡っている。


(魔力が暴走を始めたか……!)


 大魔術の行使には膨大な魔力が必要になる。それを、七発分。加えて、強力な魔術を多用している。

 絶え間なく膨大な魔力を練り続けたことで、魔力がシラヌイの意思とは無関係に増幅し、体内で暴れ回っているのだ。

 魔力の暴走状態。魔力の制御が未熟な魔術師や、魔術を自己の限界を超えて使用した際に起こる現象だった。

 痛い。骨も筋肉も痛くてたまらないが、特に酷いのが頭だ。割れるような、どころか、金槌で滅多打ちにされているかのような壮絶な痛みに、シラヌイは倒れてのたうち回った。

 ヤマが吠えた。


(やられる……!)


 異形が拳を振りかぶって迫る。

 シラヌイにはもう、避ける術がない。


(アウラ……!)


 逃れられない死を前に、シラヌイが心の中で叫んだのは、妻の名だった。


堅牢氷壁アイス・ウォール


 シラヌイがこれまでに放った魔術で熱された空気を、凜とした声が切り裂いた。

 重い衝撃音が響き渡る。

 シラヌイは苦悶に喘ぎながら見た。

 ヤマの拳を受け止めた分厚い氷の壁と、その手前に立つ、黒髪の女の後ろ姿を。


「アウ、ラ……」


 顔だけを振り向かせて、言った。


「あなたを死なせはしません」


 そして、アウラは、シラヌイのほうに後じさりながら、


堅牢氷壁アイス・ウォール


 新たな氷の壁を、最初に作った壁の後ろに、重なるように作り出した。

 二重になった氷の壁が、ヤマの拳を、文字どおり堅牢に阻む。


「魔力が暴走しているのですね」


 シラヌイの傍らまで下がってきたアウラが、身を屈めてシラヌイの額に手をかざした。


「なに、を……」


 シラヌイの問いかけに微笑みで応えたアウラは、冰眼を見開いて、かざしていた掌を、シラヌイの額に当てた。


「……!」


 アウラから、凄まじい魔力のほとばしりを感じて、シラヌイは目を剥いた。

 身体の痛みが、引いていく。


「あ……」


 アウラが何をしたのか、シラヌイは瞬時に理解した。

 アウラは、自らの魔力をシラヌイの魔力に同調させることで、暴走していたシラヌイの魔力を静めたのだ。

 魔力を操る技術に長け、かつ、自分の魔力の大きさが、相手の魔力のそれを明確に上回っていなければできない芸当だ。


「これで、大丈夫ですね」


 アウラは見開いていた冰眼を細め、閉じて、ぐらりと身体を傾けた。

 シラヌイは咄嗟に身を起こしつつ、折れていない右腕でアウラを抱き止めた。

 立ち上がり、アウラを肩に担いでヤマから離れる。

 後方の街中に、シラヌイは逃げ込んだ。

 ヤマには眼があった。眼でシラヌイの動きを追っていた。なら、障害物の多い場所に隠れてしまえば、時間を稼げるだろうという判断だ。

 シラヌイは建物の壁にアウラを背もたれさせた。


「シラヌイさん……」


 アウラは気を失ってはいなかった。微笑んではいるが、その顔には濃い疲労の色が見て取れた。

 当然だった。シラヌイとアウラの魔力の総量に大差はない。暴走していたシラヌイの魔力を静めるために、アウラはシラヌイのそれを遥かに上回る魔力を練り上げ、消費したのだ。それは、命を削るにも等しい行為だったはずだ。


「アウラ、どうして……」

「心配で、追いかけちゃいました」


 シラヌイは項垂れる。


(情けないな、私は……)


 大見得を切っておいて、この様だ。アウラの助けがなかったら、死んでいた。


(どうする……?)


 ヤマが追ってきている気配は、今のところはない。

 魔力の暴走が治まったおかげで、魔術は使える。

 朱雀を召喚してアウラを連れて退却する、というのが、一番堅実な選択だろう。

 しかし。


「情けない、なんて思わないでくださいね」


 アウラが言った。シラヌイの心の声が聞こえていたかのように。


「逃げる必要もありません。シラヌイさんなら、必ず、あの呪晶獣を倒せます」


 アウラの手が、シラヌイの頬に触れた。疲労のせいか、その指先は氷のように冷たい。


「……信じてくれるのですか、私を」

「もちろんです。だって、わたしの夫は、世界一の魔術師……いいえ、賢者ですもの」

「アウラ……」


 シラヌイは頬に触れるアウラの手をつかみ、軽く握った。


「あなたがそう言ってくれるなら、私は神さえも屠ってみせよう。神ならざる呪晶獣など、敵ではない」


 シラヌイの言葉に、アウラは安堵の笑みを浮かべて頷いた。

 名残惜しくはあったが、シラヌイはアウラの手を放して立ち上がる。

 振り返り、折れた左腕に右手をかざす。


再生の炎リバース・ファイア


 火のように揺らめく赤い光が左腕を包み、消えた。

 シラヌイは左腕を持ち上げ、指の開閉を繰り返した。

 多少の痛みはあるが、動かすには問題ない。

 再生の炎リバース・ファイアは、自己治癒力を一時的に高める術だ。代償として患部に強い熱感を覚えるために、他人に使用するのは難しいが、シラヌイにとって熱は祝福だ。


「ここで待っていてください」


 背後のアウラにそう声をかけて、シラヌイは戦いの場へと舞い戻る。


 ヤマは、初めに朱雀を突撃させた時と同じように、呪晶石の傍らにいた。

 じっとうずくまっているようにも見える。

 呪晶石から遠く離れられないという性質があるとはいえ、街は十分ヤマの行動範囲に入っているはずだ。

 にもかかわらず、ヤマがシラヌイを追ってこなかったのは何故か。

 呪晶獣の生態には不明な点が多い。個体差も大きいから断言できるものではないが、深刻なダメージを受けているから、というのが、シラヌイの見立てだ。

 ヤマの全身は、今も焼け爛れている。呪晶獣の中には、深手もたちまち治ってしまうような、驚異的な再生力を持つ個体もいるらしいが、ヤマはそうではないらしい。

 ヤマがおもむろに顔を上げた。シラヌイの姿を認め、三つの眼を見開く。


「決着をつけよう」

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