二話 ⑧

 アウラは顔を真っ赤にして訴えた。言っている途中で気恥ずかしさが極まったのか、語尾は消え入るようだった。


「あ、ありがとうございます」

「わ、わたしも服を脱いできますね。シラヌイさんは、先に温泉に入っていてください」


 アウラに促されて、シラヌイは温泉に向かった。

 川原の石は、素足で踏むと思いの外熱かった。湯煙の量も多い。アウラはほどよい温度と言っていたが、なかなか熱そうだった。実際、火の精霊の力を強く感じる。白虎の里は氷の精霊が強い土地だが、ここは例外のようだ。

 実際に足を入れてみると、


「うっ」


 やはり、熱い。


「しかし、これは……心地のいい熱さだな」


 シラヌイは湯に身体を沈め、手近な岩に背をもたれた。


「はーっ……」


 自然と、息とともに声が出た。

 溜まり、固まっていた疲労が、湯に溶け出ていくのがわかる。


「シラヌイさん」


 声がして、シラヌイは無意識のうちに閉じかかっていた目を開けた。

 湯煙の向こうから、アウラが歩み寄ってきた。

 シラヌイは、思わず息を呑んだ。

 アウラは手拭いを身体に巻いて――はいなかった。

 手拭いで前面を隠してはいるが、アウラの豊かな肢体を覆い隠すには、手拭いは小さすぎた。


「裸を見られるのは、やっぱりまだ少し恥ずかしいですね」


 照れ笑いを浮かべつつも、アウラは湯に足を入れた。


「そっちに行ってもいいですか……?」

「も、もちろんです」


 ゆっくり湯に浸かったアウラが、身を寄せてくる。

 腕と腕、脚と脚が触れ合い、シラヌイは弛緩していた全身を硬くした。


「お湯加減はどうですか?」

「少し熱くも感じますが、心地良いですよ」

「ああ、やっぱり里の外の人には少し熱いんですね。わたしたち里の者は慣れてしまっているので、これがちょうどいいんですけど……」


 アウラがほんのり上気した顔を向けてくる。

 目が合うと、アウラは微笑んだ。


(やはり、美しい)


 アウラの顔を間近で見る度に、思う。見惚れる。

 白虎の男たちが嫉妬するのも当然だ。

 こんなにも美しいを、妻にしたくない男がいるものか。

 こんなにも美しいが、妻になってくれたのだ。

 その美しい妻と、手拭い一枚を身につけただけの姿で、肌を触れ合わせている。 


(こ、これは……もしかしなくても、子作りのチャンスなのでは……⁉)


 夜を待たずして機会が訪れた。

 シラヌイはゴクリと喉を鳴らした。


(いや、しかし、こんな屋外で? それではまるで獣ではないか)


 日は既に沈みかけているが、まだ明るい。


(ど、どうする……?)


 迷っていると、


「ああんっ!」


 どこからか女の声がして、シラヌイはビクッと震えた。


「い、今の声は?」

「先客がいたみたいですね」


 狼狽えるシラヌイに、アウラは鷹揚に答えた。


「先客⁉」

「里の人たちは、みんなこの温泉が大好きですから。今の声は、たぶん、あの岩の向こうからですね」


 アウラが下流のほうを指さした。

 湯煙で視界が悪いが、たしかに、少し離れたところに大きめの岩が見える。


「あん! ああんっ! いいよ! いいよっ!」

「はぁはぁ! こうか! 奥か! 奥がいいのかっ!」


 女の声に重なるように、今度は男の声も聞こえてきた。バシャバシャと水音もする。


「この声は、リョートとイーニーですね。ふたりは新婚夫婦なんですよ」


 新婚夫婦。裸の状況。つまり、あの声は――。


「子作りに励んでいるのでしょうか」


 アウラの発したその一言に、


「どどどど、どうでしょう」


 シラヌイは動揺した。


「あん! あっ! ああんっ!」

「おう! おおおおお! おうっ!」


 喘ぎ声も水音も、激しさを増していく。


「ふたりとも、楽しそう」

「ま、まあ、楽しんではいるのでしょうね」


 アウラには男女の営みに関する知識がない。男女が夫婦となり、仲良くしていれば子供ができると思っている。

 岩の向こうで行われている営みに関しても、新婚夫婦が仲良く楽しく何かをしている、という解釈なのだろう。


「それに、なんだかとっても――」


 アウラが言った。シラヌイの肩に頬を載せて。


「気持ちよさそう……」

「げほっごほっ!」


 シラヌイは息を呑んだ拍子に湯気を思いっきり吸い込み、むせた。


「だ、大丈夫ですか? シラヌイさん」


 シラヌイは片手を上げて大丈夫であることを伝えつつ、己の胸をさすった。咳はすぐに止まったが、呼吸が速い。

 岩の向こうから聞こえる声は、いよいよ絶頂に達しようとしていた。


「逝くとか果てるとか言っていますが、ふたりは大丈夫でしょうか……?」

「逝くも果てるも、そういう意味ではないので、大丈夫でしょう」


 私は大丈夫ではありませんが! とシラヌイは心の中で付け足す。

 全身を巡る血が、煮えたように熱くなっている。

 理性と本能が殴り合っている。

 理性が訴える。

 がこんな屋外でいいのか? しかも、近くに人がいるんだぞ?

 本能が叫ぶ。

 場所なんて関係あるか! ここでやらないのはただの意気地なしだ!


「ぐぐ……」


 本能のほうが声が大きい。


(しかし、あの岩の向こうの夫婦も頃合いだ。こっちに気づかれてしまうぞ……!)


 シラヌイはどうにか理性側の支援を試みようとしたが、


「うおお! このまま二回戦に突入だ!」

「あなた、素敵! ああん! ああんっ!」


 岩の向こうから、さらなる嬌声と激しい水音が聞こえてきた。

 本能が叫ぶ。

 気づかれる心配はない! いける! いけ! やれ! 男になれ!

 一方的に殴られた理性が、あっけなく白旗を上げた。


(そうだ、シラヌイ! 己の使命を思い出せ! 子を成して世界を救え!)


 シラヌイはアウラの両肩をつかんだ。


「ア、アウラっ!」

「は、はいっ」

「私たちも、ここで子作りを!」


 煮えた血が頭に集まってきている。

 息が荒い。どんどん速くなっている。


(いかん! これは……)


 シラヌイは我が身に起きている事態に気づいた。

 興奮と湯の熱さで、のぼせている。

 緋眼を持つシラヌイは火や熱で傷つくことも苦しむこともないのだが、湯は例外だった。湯は水の精霊が主体であるために、熱湯を浴びれば火傷をするし、熱い湯に長く浸かればのぼせもする。

 視界が揺らいできた。


(これでは、初夜の時と同じではないか……!)


 シラヌイは歯を食いしばり、遠ざかる意識を懸命に繋ぎ止める。

 同じ失敗を繰り返してなるものか。


「シラヌイさん」


 アウラの手が、白い指先が、シラヌイの胸板を撫でる。


「わたしを、イーニーみたいに」


 上気し、朱を帯びた顔に蕩けるような笑みを浮かべて、アウラは言った。


「気持ちよく、してください」


 その一言で、辛うじて繋ぎ止められていたシラヌイの意識は、現世の果てにまで吹っ飛び、木っ端微塵に砕け散った。


「う……お……お……」


 茹で蛸の如く全身真っ赤になったシラヌイが、ずるずると湯に沈んでいく。


「シラヌイさん? 大丈夫ですか⁉ シラヌイさーんっ!」


 温泉に、アウラの悲鳴が響き渡った。

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