二話 ⑦

 応えるシラヌイを遮って、ブランは、声をさらに小さくして言った。


「姉さんを不幸にしたら、許しませんよ?」


 声も、耳にかかった息も、氷のように冷たかった。


「僕の力ではあなたに勝てない。でも、あなたを苦しめる方法はいくらでもあります」


 そう言って去ろうとしたブランの腕を、シラヌイはつかんだ。


「私は、私の全てを賭してアウラを愛すると心に決めている」

「う……ぐっ!」


 ブランは顔を歪めてつかまれた腕を振り上げようとしたが、シラヌイの手はビクともしない。


「この緋眼に誓って、アウラを不幸にはしない」


 シラヌイは緋色の双眸を大きく見開き、その目をブランに向けた。


「同時に私は、私の民を誰一人として不幸にしないと誓っている」

「ひっ……!」


 目が合うと、ブランは息を呑んでたじろいだ。


「シラヌイさん? ブラン?」


 アウラが振り向く。その時には、シラヌイの手はブランの腕から離れていた。


「なんでもありません。行きましょう」


 つかまれていた腕を抱え、青ざめているブランを尻目に、シラヌイはアウラの隣に並んだ。


 アウラとシラヌイの姿が見えなくなると、ブランはその場に崩れるようにしゃがみ込んだ。


「おい、ブラン。大丈夫かよ」


 声をかけてきたノルドに、


「少し疲れただけだ。おまえたちはもう戻れ」


 ブランは顔は向けず、追い払うように手を振った。


「でもよ……」

「いいから、行けって!」


 苛立った声をぶつけられたノルドは、渋々、立ち上がって歩き出す。他の四人も、ブランを気にしつつ去っていった。

 一人その場に残ったブランは、うなだれ、大きく息を吐いた。


「兄様を怒らせないほうがいいよ?」


 ブランの隣に、ヒバリが腰を下ろした。

 この場にはもう自分以外は残っていないと思っていたブランは、軽く驚いた。


「ああ見えて、怒ると怖いから」

「……それは、思い知らされたよ」


 ブランは右腕の袖を捲くって見せた。

 今し方、シラヌイにつかまれた箇所が、赤く焼けている。

 服は焼けていない。その下の腕だけが焼けている。魔術は使っていなかった。魔力だけでやってのけたのだから、凄まじい技量だ。


「ねぇ、一つ訊いていい?」

「……なに?」


 ヒバリは立てた膝に頭を載せ、ブランの顔を下から覗き込むようにして訊いてきた。


「ブランくんは、アウラさんと結婚したかったの?」


 ブランは奥歯を噛み、顔を背けて答える。


「……する、つもりだった」

「姉弟なのに?」

「……僕と姉さんに、血の繋がりはないよ」


 ブランはため息交じりに生い立ちを語った。

 ブランの両親は、ブランが三つの時に里の外で魔獣に襲われて命を落とした。

 ブランは当時頭領だったフロロに引き取られ、同じくフロロの元に身を寄せていたアウラと姉弟として暮らしていくことになった。


「長老……フロロ様が、どうして僕を引き取ったのか、わかるかい?」

「わかるよ。アウラさんの結婚相手のするため、でしょ?」


 ブランは背けていた顔をヒバリに向けた。


「冰眼持ちのアウラさんには、子供を生んでもらわなきゃだもんね。その子が冰眼を受け継いでいてくれるのを期待するのは当然だし、父親になる男の人が才能のある魔術師なら、冰眼持ちの子供が生まれやすくなるかもしれない。冰眼持ちじゃなかったとしても、両親から魔術の才能を受け継げば、その子は優秀な魔術師になって、いずれは頭領になる」

「……そのとおりだよ。僕には、姉さんほどじゃないけれど魔術師の才能があった。長老は僕を姉さんの結婚相手にするつもりだったし、僕もそのつもりだった。姉さんの夫に相応しい男になりたい一心で、魔術の修行に明け暮れてきたんだ」


 あはは、と笑ったヒバリに、ブランは顔をしかめた。


「……笑い話をしたつもりはないんだけど」


 ヒバリは首を振った。


「ごめんね。ブランくんを笑ったんじゃないの。あたしたちって、本当に境遇が似てるなーって思って、笑っちゃった」

「…………」


 たしかに、ブランは頭領の弟で副頭、ヒバリは妹で副頭と、極めて似通った立場にある。年も近い。

 だが、ヒバリの物言いは、外にも共通点があるように聞こえた。


「もしかして、君も?」

「うん。あたしも、兄様とは本当の兄妹じゃないんだ。それにね、うちの長老も、兄様が自分で結婚相手を見つけられなかったら、あたしをお嫁さんにって考えてたみたい」

「……嫌じゃなかったのかい?」


 ヒバリは首を振った。


「嫌だって思ったことはなかったな。子供の頃からずっと、あたしは兄様のお嫁さんになるんだって思ってた。その未来を、信じてた。だからね、実は今、けっこう混乱してるんだ。兄様があたしじゃない女の人と結婚するなんて、これっぽっちも思ってなかったから」


 えへへ、と笑ったヒバリの顔は、悲しげだった。


「……わかるよ。すごく、わかる」


 ブランも、ヒバリと同じ表情で笑った。


「あたしたちも戻ろっか」


 ヒバリがぴょんと立ち上がり、ブランに手を差し延べた。


「自分で立てるよ」


 ブランはヒバリの手を取らずに立とうとしたが、足に力が入らず、尻餅をついた。


「……っ」


 思っていた以上に疲労していた。


「無理もないよ。あれだけたくさん魔術を使ったんだから。大魔術だって」


 ヒバリが再度差し出した手を、ブランは払いのけた。


「立てるって言ってるだろ!」


 しかし、身体は言うことを聞いてくれない。立てない。


「くそっ……! くそっくそっ」


 悔しさと情けなさに、涙が滲んだ。

 朱雀の頭領シラヌイ。戦ったところで勝てないことはわかっていたが、まるで歯が立たなかった。

 火の精霊を封じ、妹を人質に取った。卑怯な手を使ったことを恥ずかしいとは思わない。

 なんとしても確かめたかった。本当に、あの男が、姉に相応しいかどうか。

 結果は残酷だった。

 シラヌイ以上に、姉の夫に相応しい男はいない。

 立ち上がれないブランの隣に、ヒバリが再度、腰を下ろした。

 ヒバリの手が、ブランの丸まった背中を、ぽんぽんと労るように叩いた。

 そして、ヒバリは言った。


「大丈夫」


 何が大丈夫なのか、ブランにはわからない。何も大丈夫じゃないのに。


「大丈夫」


 優しい声で、ヒバリはその言葉を繰り返す。背中を叩く手も優しい。

 その優しさに、余計に涙が出た。


 森を抜けると山肌が見えた。その手前を川が流れており、湯煙が上っていた。

 アウラによると、川底から温泉が湧いており、それが川の水と混ざり合うことでほどよい温度になっているのだという。


「昔から、打ち身や切り傷だけでなく万病に効くと言われていて、親しまれているんですよ」


 シラヌイは納得する。寒さの厳しい土地だけに、この温泉はまさに命の湯なのだろう。

 ブランは名所を案内すると言っていたが、まったくの嘘というわけでもなかったようだ。


「あの小屋で着替えましょうか」


 川原には小さな小屋が建てられており、中には手拭いが用意されていた。

 シラヌイは服を脱ぎ、腰に手拭いを巻いて小屋を出た。

 手拭い一枚のシラヌイを見たアウラは、気恥ずかしげに顔を背けた。

 気恥ずかしいのはシラヌイも同じだった。

 裸に近い姿を見られたのは、これが初めてだ。シラヌイは、アウラの薄い夜着姿を初夜の際に目にしているが、あの時、シラヌイのほうは装束を脱いではいなかった。


「す、すみません。男の人の裸は見慣れていなくて」

「い、いえ。見苦しくなければいいのですが」

「見苦しいだなんてそんな! シラヌイさんの身体は、とても逞しくて、その、素敵です……」

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