二話 ③

「たしかに、以前は冬に命を落とす民もいました。でもでも、わたしが頭領になってからの十年は、一人も亡くなっていないんですよ」


 冬には氷の精霊の力が特に強くなるが、アウラが白虎の里と、その周辺の土地の氷の精霊に干渉し、力を抑えることで、寒さを緩和しているのだという。

 その話に、シラヌイは舌を巻いた。冰眼を持つアウラにしかできない荒業だが、冰眼があればできるというものではないだろう。アウラの魔術師としての技量の高さを、改めて思い知らされた。

 一通り里を見て回った後、シラヌイはアウラの家へと案内された。


「こ、これでも片付けはしたんです。一応……」


 アウラの家は一階に三部屋、地下室を加えて合計四部屋あったが、いずれの部屋も魔術関係の書物で埋め尽くされていた。


「わかります。こうなりますよね」


 シラヌイが驚きも呆れもしなかったのは、シラヌイの家も全く同じ状態だからだ。

 しかし、の度合いでいうなら、アウラの家のほうがより酷いように見えた。


「炊事場も書物で埋まっているようですが、アウラはどこで食事を?」

「食事は、隣の、ブランの家でとっています。えっと、その……」


 アウラは恥ずかしげにうつむいて言った。


「わたしは家事の類いが苦手で、料理も弟に任せっきりで……」

「私も同じです。家事の一切は妹頼みでしたから……」


 アウラはブランと住居を分けているようだが、シラヌイはヒバリと同居していた。炊事場にまで本が積まれていないのは、ヒバリのおかげだ。


「私たちが一緒に暮らすようになったら、大量の本をどうするか考えないといけませんね」

「ですね……」


 本を処分するという選択肢は、シラヌイにはない。アウラもそれは同じだろう。

 一体、何室の書庫が必要になるか……。

 それ以前に、ふたりが一緒に暮らす家は、どこになるのか。いつから一緒に暮らせるのか。具体意的なことは何も決まっていなかった。


「あ、あの、シラヌイさんは、今晩は、ここに泊まっていかれるんですよね……?」

「特に決めていませんでしたが、そうさせていただけるのでしたら」


 アウラとふたりっきりで夜を過ごせるのであれば、それは子作りの好機(チャンス)だ。


「ヒバリには、どこか別の宿を」

「それでしたら、叔母様に部屋を貸してもらえるようお願いしてみます」

「助かります」

「でも、いいんですか? ヒバリさんも、うちに泊まっていただいて……」


 アウラは言いながら部屋を見回し、


「……す、すごく狭いかもしれませんが……」


 言葉尻を弱めた。

 足の踏み場もないほど本だらけのこの家で、唯一、本が積まれていない場所が、寝室のベッド周りだった。だが、ベッドは一つしかなく、布団を追加で敷けるだけのスペースもない。


「……やっぱり、ヒバリさんには、叔母様の家に泊まっていただいたほうがいいですね……」


 アウラはがっくりと項垂れた。


「片付けられない女ですみません……」

「おかげで夫婦水入らずの夜を過ごせるのですから、私にとっては僥倖です」


 シラヌイはアウラの頬に触れ、うつむいていた顔を、そっと上げさせた。


「シラヌイさん……」


 アウラの頬が、熱く、赤くなっていく。


「アウラ……」


 シラヌイが顔を近づけると、アウラは目を閉じた。


(よし、このまま……!)


 口づけでアウラをその気にさせる。抱きかかえてベッドまで運び、子作りに至る。

 今はまだ夜ではないが、昼に子作りに励んではならないという理はないはず。

 互いの吐息が鼻先にかかる距離にまで顔が近づいたところで、シラヌイは重大な事実に気づく。


(そもそも、私はアウラと口づけをしたことがなかった……!)


 その事実に気づいたとたん、緊張で全身が強張った。

 それ以上、顔を近づけられない。アウラの唇は、吸い寄せられずにはいられないほどの魅力を放っているというのに。


「……!」


 不意に、家の外に人の気配を感じて、シラヌイは目線だけを動かした。同時に、アウラも閉じていた目を開けた。

 ドンドンドン! 激しく扉を叩く音がした。


「頭領、大変だ!」


 男の緊迫した声。


「この声は、ヘイグさん?」


 アウラは積まれた本の隙間をぬって玄関まで歩き、扉を開けた。

 訪ねてきたのは、三十路手前といった年頃の男だ。


「何かありましたか? ヘイグさん」

「フェンリルです! 湖に、フェンリルが出たんです!」

「フェンリルが?」


 フェンリルは魔獣の名称だ。


「この辺りに、フェンリルが出るのですか?」


 シラヌイの問いに、アウラは微妙な表情をみせた。


「はい。フェンリルは氷の精霊の力が強い場所を住処にする魔獣ですから、里の付近に現れることもあります。ですが、初夏のこの時期というのは初めてじゃないかしら……」


 シラヌイの知識でも、フェンリルは寒冷地……それも、極寒の地に棲息する魔獣だ。


「里に入ってきたら大事だ! 頭領の力で追い払ってくださいよ!」

「私が行きましょう」


 シラヌイは片手を上げ、言った。


「フェンリルは氷の魔獣。私の火の魔術が有効でしょう」

「いえ」


 アウラは小さく首を横に振った。


「白虎の里を守るのは、わたしの役目ですから」


 そう言ったアウラは、紛れもなくの目をしていた。民の生命と平穏に責任を持つ者の目だ。

 シラヌイは、ただ頷くしかなかった。

 ここでシラヌイがフェンリルを退治すれば、白虎の民から信頼を得るための、いい点数稼ぎになるかもしれないと考えたが、シラヌイがアウラの立場なら、同じ返答をしただろう。


「シラヌイさんは、ここで待っていてください。すぐに戻ります」


 シラヌイとしてはせめて同行したかったが、アウラはヘイグを伴い、行ってしまった。

 アウラの身の心配はしていない。フェンリルは危険な魔獣だが、アウラにとっては子犬も同然だろう。


「さて、私はどうしたものか」


 もう少し、白虎の里を見て回りたいが、朱雀の頭領が一人で歩き回るのは障りがあるだろう。

 幸い、ここには大量の魔術書がある。それを見せてもらってアウラの帰りを待とうか、と考えていたシラヌイは、扉の外に人の気配を感じた。

 アウラではない。ヘイグという男でもない。この気配は。

 シラヌイは扉を開けた。

 その人物は、扉から些か離れたところに立っていた。まるで、シラヌイが気配を察知して出てくることがわかっていたかのように。


「ブラン」


 その人物――ブランは、シラヌイに名前を呼ばれると薄く笑った。


「シラヌイ様に紹介したい、白虎の里の名所があるんです。ご一緒願えませんか?」

「ヒバリの姿が見当たらないようだが」


 ブランは一人。彼に白虎の里を案内してもらっているはずのヒバリがいない。


「ヒバリさんには、先に名所でくつろいでもらっています。僕についてきていただければ、会えますよ。ちゃんとね」


 シラヌイの返答を待たず、ブランは踵を返した。シラヌイに選択肢などないと言わんばかりに。


「わかった。案内をお願いしよう」


 歩き出したブランに、シラヌイはついていく。


「アウラの所在を訊ねないのか?」


 前を歩くブランの背中に、シラヌイは問いを投げた。


「そういえば姉の姿がありませんね。どこに行ったんです?」


 顔だけを振り向かせて答えたブランの口ぶりに、シラヌイは眉根を寄せる。


「湖の近くにフェンリルが現れたという報告を受けて、対処に向かっている」

「フェンリルですか。この時期に珍しいですね。まあ、姉さんなら問題ないでしょう」


 ブランは驚きもしない。


「シラヌイさんは、どうか安心して名所を楽しんでください」

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