第23話
鉱山のニュースはあっという間に広がり、兵役が終わった人々が次の稼ぎ口としてどんどん山に入って行った。その間に屋敷で治療していた人々も減り、今はもう三・四人を残す程度だ。するとわざわざ城の大部屋を使わなくても済むので、街の病院に入院してもらう事になった。
あの喧騒が嘘のようになっている。ハンス卿も自らの領地に戻り、連れられてきた兵達もそれぞれの故郷に帰る。ダイヤで一発当てたい人達は残ったけれど、彼らには街の宿を使ってもらう事になった。回せ経済。金は天下の回り物。毎日ざっくざっく掘ってるのに尽きることがない原石は、研磨師を喜ばせた。そこでも経済が回る。
トルソーに掛けていた黒い花嫁衣装はいくつかの小さなダイヤが見付かって、それがどれも辺境伯領内だったので、地図に印をつけた捜索隊が次々に森に入って行った。そして数日も立つと荷車いっぱいの原石を持って来るから、すっかり父母は参ってしまって、自宅に帰って行った。
悪いことしちゃったかな、と思うけれど、それでも私にとっては領地がどんどん潤って行くのが嬉しかった。クリストファー様もだろう。書類仕事はまだ一段落とまではいかないけれど、ダイヤの産出は中央に届けていた。すると買い付け人が来て、また街が潤う。食事もすっかり豪華になって、私はピーマンの肉詰めやズッキーニの炒め物なんかも食べられるようになっていた。やっぱりうちのコックは上等で、何でも美味しくしてくれる。まだ庶民の食卓だと言われているけれど、十分だ。肉、うまし。
不覚にも攫われた私が着て来たウェディングドレスで領地が潤っているのは、クリストファー様には複雑な心地みたいだけれど、日々お腹いっぱい食べられる私はその根源を気にしていなかった。最近はクリストファー様とお茶の時間も楽しめている。じっくり続けるよりも少しの休養を入れた方が効率的なのだと嘯いていたけれど、どこまで本気なのだろう。
私と一緒に居る口実だったら良いな、と思いながら、私は左手の薬指にはめられて指輪を眺める。細かい模様が掘られたプラチナのそれは、ダイヤ産業の産物だ。結婚指輪はシンプルに。婚約指輪は貰っていないけれど、あのグレタだった私に今更必要もないものだろう。色んな宝石は実家から持って来てある。質入れしたものも買い戻した。それで十分。
レモンティーに少しだけ砂糖を入れて、掻き混ぜる。クリストファー様はストレート。あまり甘いものは、と言っていたけれど、ケーキはきっちり食べる。糖分は頭の働きをよくするのだ。あー、レアチーズケーキにレモンティーは最高の組み合わせだー。ちょっと酸っぱいのが良いのよね。うむうむ。うまうま。
「お前はそんなに美味しそうに食べるのだったか?」
くす、と笑われて、その瑠璃色の眼に映る自分を意識すると、薄緑のデイドレスの自分がちょっと所帯じみて見えた。所帯。いや持ってるけどさ、この人と。ちょっと赤くなると、くっくと笑われる。そして彼もケーキを一口。
人に言えないぐらい美味しそうに食べてると思うんだけど、その辺りどうなんだろう。じと、っと見ちゃうと、すまして紅茶を飲む姿があるだけだ。そして笑われる。なんだ。
ほんのひと月前まで私はこの人を知らなかった。突然できた夫に戸惑ったりもした。異世界だと言う事に驚いたりもした。エーギルさんをはじめ、ユリウスなんかの同じ境遇の人が結構いることに驚きもした。だけどそれらが今では殆ど遠い昔に思える。クリストファー様は私に気軽に接してくれるようになったし、エーギルさんは今日も剣の訓練を若手達とやっている。ユリウスは――ちょっと確信が持てないけれど、多分、本気だ。本気で私を口説きに来ている。
だけど図書室で見付けた本で自衛できそうだから、それはもうちょっと後でのことだ。今を楽しまなくては損と言うもの。『白衣の天使』は名実ともに脱ぎ捨てた。黒衣の花嫁になるつもりはない。もう少し落ち着いたら、私達も王都で結婚式をする予定だ。それから領地に帰ってからも、各地を巡って行く。そして屋敷に帰って来たら、まあ、夫婦として過ごすのだろう。今も変わらないけれど、先日大きなベッドがクリストファー様の部屋に運び込まれるのを見たし。ちょっと進んだ夫婦関係が、嗚呼。まだちょっと覚悟が足りないな。
元の世界でも男っ気なんて同僚ぐらいしかなかったから、緊張するのは当然だろう。でも跡取りはちゃんと作らなきゃならないし、貴族の夫婦ってそう言うものなんだと思う。思うけど、ちょっとその自覚の足りない私は自分がどうされてしまうのかと思ってしまう。
クリストファー様遊んでない堅物っぽいしなあ。グレタだって奔放だったけれど、そっちの方には貞淑だった。オトメでなければいけないと、やっぱり思っていたんだろうか。その辺はちゃんと貴族してたのね。いやでも貴族って公娼が許されてるっていう話も聞いたことあるな。こっちではそんな人いなかったみたいだけれど、こっそり色んな所で関係を持っている人って言うのはいるのかもしれない。それもまた、取引だ。
「そろそろ俺は書斎で仕事に戻るが、お前はゆっくりしていて良いぞ。溜まったらお前にも回すかもしれないが、その覚悟だけはしておいてくれ」
「え、それって私が触って良いものなんですか、クリストファー様」
「辺境伯夫人なのだろう? 社交シーズンには外交も任されると思っておいてくれ。俺はああ言うのがどうにも苦手でな」
「求められることのハードルがいきなり高すぎる!」
「だから書類から慣らして行ってもらおうと思っているんだ。頼んだぞ、グレタ・セルシウス」
念を押すようにフルネームで呼ばれ、私は、はぁい、と返事をする。せっかくのティータイムが台無しになっちゃった気がするから、大口ではむっとケーキを食べた。控えていたメイド達がくすくす笑っていて、でもそれが嗤っているわけではないのがまだ救いだ。二人っきりの時間なんて殆ど無い。一人ぼっちの時間も無い。
それは良い事なんだろうけれど、やっぱり二人っきりともなるとあれこれそれだよなあ。考えると一人でお茶を飲んでいる今が一番落ち着くのかもしれなかった。
部屋に戻るともう夕焼けの時間帯だった。バルコニーに向かう窓のカーテンが開けっ放しなのはわざと。この方が捕まえやすい。思って私はベッドに座る。いつもメイドさん達が綺麗にピンと張ってくれているシーツが心地よかった。エーギルさんの所に行こうかな。彼は一応警護団長らしい。もっとも年老いて名前だけだと言っていたけれど、ちょっとした護身術を学ばなければならないのだ。多分今日辺り、『彼』は来る。
練習用の木剣は一本借りてあるから、それを使って。否、もうちょっと小回りが利く方が良いのかな、私の場合。身体も華奢だし力もない。アメジストの指輪をチェーンで首からぶら下げる。魔除けの石だと聞いた事がある、こっちでは。プラチナの指輪も。
まあ『彼』相手にどこまで抵抗できるものかは分からないけれど、と、私は庭に向かって一人ひたすら木剣を振るっているエーギルさんの元へ行く。時々向こうの話をしたりして戦時じゃなくても仲良くしているけれど、それはバルサダールさんやアクセルさんもだ。平時だからこそ武器の開発や運用には気を付けなくてはならない。いざとなってからバタバタ動くんじゃ意味がない。武器職人にも休みがないなあ。
思いながら私は庭に出て、エーギルさんに声を掛ける。汗一つ書いていないのは流石職業軍人だな、と思わされた。そう言えばエーギルさんが前居たのはスイスだから、国民皆兵なのだ。その頃の要領で鍛えていれば、若者にも負けないのかもしれない。最初に傾聴した時も、思えば結構筋肉の付いた身体してたし。歳の割には。
「なんじゃい看護師さん。おっと、もうただの辺境伯夫人じゃったの」
「はい、ちょっと護身術を教えて欲しくて」
「護身術? 何か不穏な気配があるならわしが寝ずの番ぐらい出来るが」
「いえ、秘密にしたいんで。寝転んでる時でも大丈夫なのって、何かあります?」
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