第20話
「グレタ! しっかりしろ、グレタ!」
ぺんぺんと頬を叩かれて目を開けると、そこはもう魔族の城じゃなかった。かと言って人間の領域とも思えない、粗末な砦。もしかしてユリウスが撤退したって言うあの砦かな、思っていると顔を掴まれて覗き込まれる。
クリストファー様だった。金髪に瑠璃色の目。私はぽかん、としてしまう。だって昨日いた王城からは、馬で二日の距離だ。私が二日も寝こけていたと言うのだろうか。それは流石にあるまい。と、ドレスを見ると漆黒のそれに代わっていた。誰に着替えさせられたんだ。まあ血まみれよりはマシな方かと思う。
ぎゅっとクリストファー様に抱きしめられて、けふっと一つ咳が出る。ユリウスに眠らされていたのかな? そんな気配は感じなかったけれど、私は魔族と相対したことが無いので何とも言えない。否、昨日大量の面倒を看たか。それで疲れて眠ってしまって――なんだってこの砦に?
きょとんとした顔を続けていると、クリストファー様に心配そうに見下ろされる。というより私が心配なのはクリストファー様の方だ。早馬でマラソンでもして来たんだろうか、目の下に濃いクマが出来ている。髪は乱れ、ぼさぼさだ。その髪に指を入れて梳いてみると、はぁーっと長い溜息の後で深呼吸された。
やっぱり心配掛けちゃったよなあ。悪い事をした。『白衣の天使』、なんてちやほやされてた自分が引き起こしたことだから、クリストファー様には単純に申し訳ない。ぽんぽん、と手を背中に回して撫でてみる。あまり意味はないかもしれないけれど、少しでも落ち着いてくれたら良いな。
「……グレタ、そのドレスは何だ?」
「え? ああ、私にもよくわかりませんけれど……昨日のドレスは血まみれになってしまったから、その代用だと思いますわ。流石に血まみれのドレスで横たわっていたら、クリストファー様もご心配になられるでしょうし」
「誰に着せられた」
「さあ」
「誰にその肌を触らせた?」
「クリストファー様?」
「グレタ! 砦でお前が見付かったと報を受けて俺がどれほど脱力したか解るか? どれほど安堵したか解るか? お前の両親に焚き付けられて、馬を一晩中飛ばして来た俺の気持ちが、お前に分かるか!?」
びくっと身体を震わせてしまう。私は別にクリストファー様を心配させたかったわけじゃない。ユリウスによる不可抗力だと思っている。だけどクリストファー様はそうじゃない。心配して、心配して心配して心配し続けてくれたのだろう。それはちょっと照れ臭くて嬉しい事だったけれど、そんな事に喜んではいられないだろう。
私は彼を傷付けたんだと思う。そんな繊細な所があったのかと思うのも仕方ないだろう、私はこの人に無視されて来た。それが変わってまだ二週間も経っていない。この人が私に素を晒してくれるようになってから、それっぽっちしか。この恋が始まってから、たったそれだけの時間しか経っていない。
恋。恋、なんだろうなあ。グレタが好きだったクリストファー様に、私も恋をしている。一緒のベッドで眠るぐらいには信頼もしている。そんな人が私には今までいなかった。男っ気のない生活。そもそもそんな暇もなかった。仕事をして日々の糧を得る。そんな普通の日々を送ってきた私に、辺境伯夫人なんて勤まるか不安に思ったことも、なくはない。
でも私は自分の身に付けた術で生きて来た。ここでだってそうだ。ユリウスの城ですら、それで潜り抜けた。私は私自身を理解していると言えるのだろうか。こんなに愛されておいて意外に思っている私は。頬が熱くなっている私は。
「怪我はないんだな?」
「ありません」
「魔王にも何もされなかったんだな?」
「はい、何も」
「ではお前は何故拉致された?」
「魔物の手当て要員だったみたいです。破傷風を起こしている竜や、傷を負ったゴブリン達の。代わりにこちらには進軍しないとも言ってもらいました。大丈夫です、クリストファー様」
「魔物の怪我などお前の範疇ではあるまい」
「生物なんてみんな同じですよ。傷が出来たら傷を洗って消毒をして、血止めをして、包帯を巻く。人間に出来て魔族に出来ないと言う事もありません。でも敵に塩を送ることになってしまいました。それは、申し訳ございません」
「本当に、何もされていないんだな?」
「本当に、何もされていません」
ドレスが変わってたらそりゃ心配にもなるだろうけれど。と、私はクリストファー様から身体を離し、ドレスのスカート部分を見た。金色の刺繍で書かれているのは、この辺りの地図だ。その中に、ひときわ光るダイヤが埋められている。
もしかして、ユリウスの言っていた『その辺はちゃんと考えてある』?
「クリストファー様、この辺りに鉱山ってありますか?」
「鉱山? 何年か前にすべて廃坑になったと思ったが。今は産油が主な資源だ」
「このドレスの地図、もしかしたら鉱山かもしれません。丁度国境沿いですし、まだ生きている場所があるのかも」
「そうか……、身代金と言ったところだな。それでもお前を連れ去ったことに変わりはないが」
「私は無事ですよ。だからユリウスや他の魔族を責めるのは、お止しになって下さい。それを止めなければ、一生戦いが続くことになってしまいますわ」
「……本当に、何もされていないんだな? グレタ」
「はい。ちょっと求婚されただけです」
「ぶっ」
「クリストファー様汚い」
「おまっお前、それに何と答えた!?」
「絶対嫌です、と」
「そうか……」
あからさまにほっとされて、ああこの人に愛されていると胸が温かくなる。立ち上がった身体、クリストファー様も一緒にそうして、私は砦の中にいた兵達を見下ろした。二階の窓辺にいたらしい。こっそり置いて行かれたのか。
しかしこの服に着替えさせたのは、本当に誰なんだろう。冷血っぽいベネディクトさんかな。変な気は起こさなかっただろうし。ユリウスだったら危険だけど、そこまで空気の読めない人でもあるまい。多分。多分? 多分……。
二歳の魔王。どうせならもうちょっと話してみたかったかもしれない。何かもっと穏やかな話も出来ない事はなかったんじゃないだろうか。同じ転生者同士、話題もあったかもしれない。でもそれは多分、叶わない事だ。協定があるし、クリストファー様も許すまい。
瑠璃色の目が立ち上がって私を見下ろす。肩を掴まれて。ひょいっとお姫様抱っこされた。昨日のユリウスと同じだ。そして階段を下りて行くのは、ちょっと怖い。
「誰か、この辺りの地図を持っているものはいないか」
「こちらに、クリストファー様」
「ふむ……、この山を少し掘ってみてくれ。何か出たら知らせるように。俺は取り敢えずグレタを城に連れ帰る。それから仮眠をとるが、それは気にしなくて良い」
「く、クリストファー様?」
「言っただろう、徹夜で馬を飛ばして来たんだ。俺もさすがに疲れた。それと、お前付きのメイドが錯乱しかけていたから、戻って来たら声を掛けてやると良い。良いな? グレタ。それから城を出ることはないように。散歩も駄目だ。あの魔王がお前を攫って行くかもしれない」
「ユリウスはもうそんなことに興味はないようでしたけれど」
「随分かばうな」
じろっと見下ろされて、苦笑いをする。
でもユリウスが本当にやって来るかは分からないよなあ。あれだけ派手に城のガラスぶっ壊したし、『白衣の天使』を攫っても行っちゃうし、人間に喧嘩売ってる所が否めない。まあ魔族だからそこは仕方ないんだろう。魔王なんだから当然の事なんだろう。結婚。私はこの人の妻なのだろうか。それらしいことは殆どしていない。
精々がキスだけど、それだってちょっとした嫉妬から来たものだ。そういう相手が居なくなったら、また淡白な夫になってしまうんじゃないか、なんて私はちょっと不安になる。外に出るとハンス卿がいて、おお、と私の両手を掴んで跪いた。
「『白衣の天使』……ご無事で何よりです」
「今は黒衣ですけれど、まあ無事で私も良かったです。ご心配おかけしました、ハンス卿」
「いえ、いいえ! 私達の心配など、クリストファー様に比べればちっぽけなものです! 昼に帰って来るなり砦に兵をやって、あなた様を見付けられて……あれほど安堵したこともございません」
「ハンス卿、余計な事は言わなくて良い。私はただ妻の無事を確認しただけの夫だ。それ以上も以下もない」
ちょっと頬を赤らめたクリストファー様を見上げて、私はくふふっと笑ってしまった。
「笑い事じゃないぞ、グレタ」
「へ?」
「お前の両親がお前を実家に連れ帰そうとこちらに向かっている」
ええええええ!?
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