第19話
息も出来ないぐらいの速さでユリウスが飛ぶのに、私は口元を押さえて呼吸を確保した。クラバットが揺れるどころかタキシードに貼り付いているぐらいの速さ。馬なんか比べ物にならないそれに、自分はどうされるんだろうと不安がこみ上げて来てさあっと頭が冷たくなる。
見せしめの処刑? なぶり殺し? そんな事ばかりが湧いてきて頭をブンブン振る。こら、とユリウスに窘められた。その声は怒っている風じゃなく、極めてニュートラル。笑いすら含んでいるかもしれない。
「あまり身体を動かすな。俺はまだこの姿にしかなれないんだ、落としたら一巻の終わりだぞ、『白衣の天使』」
「私は天使なんかじゃ、……ただのグレタです、一介のただのグレタです! 何にも出来ませんし何の価値もありません! 夜道でも良いから下ろしてっ解放して下さい!」
「それは今更出来ない相談だな。もう辺境伯領も近いぞ」
「早ッ! ちょ、真面目に怖い! 二日掛かるんですよ、うちまで!」
「はっはっは、今の所俺は飛ぶ以外能が無い、生まれたての魔王だからな」
「は!?」
なんだ生まれたての魔王って。どういう意味だ。私はどうされるんだ。魔王。生まれたて。まさか。
「あなたも転生して来たんですか……?」
聞こえるように呟くと、ほう、とユリウスは目を細めて私を見る。
「あなたも、って事は、お前もかグレタちゃん。そう、俺は元々向こうの世界の侵略を考えていてな。その為に転生していたんだ」
「なっ」
「だが向こうの世界は思ったほど良くもない。だからさっさと諦めてこっちに戻って来たんだが、部下が勝手に戦端を開いていた。生まれてから二年でここまで成長するのは結構きつかったんだぜ。やっと姿を変えることが出来るようになって、莫大な魔力も示せるようになってから、お前たちに休戦協定を突き付けた。我ながら長い二年間だった。おまけに近代兵器めいたものも使い出した時にはぞっとしたな。早く戦争を終わらせないとこっちが滅ぼされるってよ。冬になって感染症の流行まで来たら大変なことになる。その前に迅速に手当てをしなきゃならない」
「迅速な手当て……まさか、私に魔族の介護をしろとでも!?」
「そのとーりだグレタちゃん。話が早くて助かるぜ」
「なんだって私がそんな事しなきゃならないんですか! 言ったはずです、私はただのグレタ! 看護師だった過去生は持ちますが、大規模な外科手術なんかの経験は少ないんです!」
「少なくとも見たことはあるって事だろ? 十分だ。それに魔族は痛みに強い。そう罪悪感も覚えずにいれるだろうよ」
「敵の世話自体が問題です!」
「あれー? セルシウス辺境伯は休戦協定にサインしたよな? もう俺達は敵じゃなく隣人のはずだろ? なら問題はないんじゃねーかなあ」
「あります! 互いの領地に入るのは不可抗力の時だけ、あなたは今私を攫って来た! 十分な協定違反じゃありませんか!」
「まあその辺はちゃんと考えてあるから、お前さんは考えなくて良いよ。ほいここからが魔族の領地」
「マジで早えなオイ!」
「貴族の奥様の口のきき方じゃねーなあ、はははっ」
ぎいっぎいっと夜の鳥が鳴く中、連れて来られたのは石造りの黒い城のバルコニーだった。すぐに窓が開けられて、トカゲ系の魔族が頭を下げる。思わず返してしまうと、ユリウスはくっくっくと喉で笑って見せた。しまった、つい癖で。こんな癖が出たのも久し振りだけど。
「さて、早速だが治療室は一階だ。必要なものを言え」
「傷も見てないのにそんなこと言われたって……とりあえず消毒液と綺麗な水としか」
「だそうだ。ベネディクト、頼むぞ」
「承知仕りました、陛下。『白衣の天使』殿はこちらへ」
「グレタです。その名前で呼ぶのはおやめください」
「失礼を」
二本足で歩く爬虫類っぽいその魔族は、声にも温度が無いようだった。敵である私がこうして城にやってきていると言うのに、なんの感情も見せない。挙句私はこちらでは悪名を轟かせているらしいのに。ドレスを持ち上げて下の階に向かうと、呻く声が大量に聞こえた。城の外では竜達が喘いでいる。
破傷風だろう。こちらでは魔族にまでワクチンは行き届いていないだろうし、そもそもその存在を知っているかどうかだ。私はドレスの袖をまくり上げ、竜の羽の内側を見る。矢は貫通しているらしかった。案外薄いのだな、と思いながら、わたしはベネディクトさんの方を見る。
「メスでこの羽は切れますか?」
「出来ない事は無いかと」
「ではその用意を。ごめんね、毒を出すために傷口を広げるけれど、我慢してね」
熱で呻く竜の頷きに、獣医ではないんだけれどな、なんて思う。そっちの知識は無いけれど、基本的には人間と同じようにしていればいいだろう。思いながら私はメスを傷に入れていく。痛そうな声。聞きたくない。
なんだってこんな事に。最初からこうするつもりで私の同道を求めたのだろうか。だとしたら結構な策士だ。どっちがかは分からないけれど、私がここに居る間はその安全を考えて辺境軍も迂闊に手を出せないだろう。おまけにまた二日掛けて領地に戻らなければならないのがクリストファー様だ。心配させてしまうだろうな、思いながら毒と一緒に血を出していく。
膿は出ないみたいだ。水で流して、消毒液を掛ける。それから針と糸とで傷を塞いだ。医療用の物じゃないからやりにくかったけれど、これで竜一体の看護は終わり。もう一匹いたけれど、そっちも羽を貫かれているようだった。同じ作法で傷を絞り、消毒をして、縫って行く。明確な『毒』に対しては、消毒薬は役に立つのだ。ただの切り傷凪傷はワセリンの方が効きやすい所があるけれど。
その切り傷凪傷を負っているのは、歩兵のゴブリンたちだ。粗末な木の鎧をはずして、水で洗ってあげる。
「ワセリンと油紙って用意ありますか?」
「はい、こちらに」
「ありがとうございます。それと、水をもう一杯」
「はい」
ベネディクトさんは何も逆らわずに私の要望を聞いてくれる。魔族の中でも反戦派とかあったのかな、なんて考えたりした。人間の力は未知数だ。この時の私の作戦にしたって、ガソリン頭からぶっかけられるなんて思ってもみなかっただろう。そして着火。火傷した竜はいない。多分全員堕ちたんだろう。魔王の幼馴染も一緒に。
名前をもって認識しちゃうとダメだな。ユリウスもベネディクトさんも、過去を考えてしまう。現在を考えてしまう。どんな立場でここに来て、これからはどうするつもりなのか。人間を襲わないと言うのなら良いけれど、攫われてきている私がいる。それってどうなんだろう。協定に違反してないかな。思いながら次々にゴブリン達を手当てしていく。
包帯の入っていた箱は空になっていた。夜明けも近付いている。じっと私が働くのを見ていたベネディクトさんとユリウスが、ふあ、と欠伸をした。昼は魔族の時間帯じゃない。ここで逃げ出して見るのもありか?
駄目だ、城の中にはゴブリンが、外には竜が控えている。囲まれているのと同じ状態だ。私は逃げられない。悔しいなあ。こんなことでまさかクリストファー様の足手まといになるだなんて。私は無傷のゴブリンの一人を呼んで、手伝ってもらう事にする。水で血の出ている傷を洗い流して、ワセリンを塗って、包帯を締める。こくこく頷かれたので、お願いね、と私は次のゴブリンの手当てに掛かった。傷が乾燥して血が固まっている。これはこのままでも大丈夫だな。他の傷も。うん、自然治癒に向かっているものが多い。
一通り終わってふーっと息を吐くと、またドレスが血まみれになっているのに気付いた。白衣の天使どころかブラッディー・マリーだ。由来はよく知らないけれど、この血まみれさはそれを連想させる。赤いカクテル。トマトが苦手な私はあまり好きじゃない。ピザに乗ってるトマト。あれはトマトじゃない。私調べ。
「やあやあ見事な手際じゃないか。見惚れてしまうほどだったぜ、グレタちゃん」
「これで、全員看ました。早く私を辺境伯領に戻してください。でないとまた、とんでもないことになる。こっちはまだ戦争の準備をしていたのですから」
「つれないねー。ねぇグレタちゃん、物は相談なんだけどさ」
「何ですか」
「うちに嫁に来ない? ほら、人間と魔族の協定の証としてさ。『白衣の天使』ぐらいのネームバリューがある女が来てくれると助かるんだけど」
「絶対嫌です」
つまんねーの。言ってユリウスは笑い、ベネディクトさんは息を吐いて初めてちょっと油断した姿を見せてくれた。
大体私、人妻だっつーの。百も承知の癖に、趣味が悪いったらない。前世ではきっとあらぬ恋をしたんだ。でなきゃ魔王になんて生まれ変わってくるまい。
否どうなんだろうな。元々魔王だったのかな。それで自分の血統に生まれ直したとか?
まあそんなことはどうでも良い。私も疲れた。うと、と眠気に襲われる。
「しばらくは眠ってて良いよ。グレタちゃん」
その声に引きずられるように、私は目を閉じていた。
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