第14話

 救援が駆け付けたその日はどんちゃん騒ぎだった。城に詰めていた兵達も安心したのだろう、久し振りのお酒や肉料理に泣き出す人までいて、もうしっちゃかめっちゃかだった。確かに肉料理はなかったな、この一週間。辺境伯夫妻がそうだったのだから、その辺の人達に回ってくるはずもない。私はローストビーフを一つまみだけ食べて、あとは自分で食べられない人の介助を行っていた。その人たちも、うまい、うまいと泣いている。

 そう言えば胃の関係で入院してきた人がやっと普通食になった時もこんな感じだったなあ。思いながらせっせといつものワンピース姿で給仕を手伝っていると、おい、と声を掛けられた。威圧的なそれにきょとんとして振り向くと、背の高いオジサマが私を見て空のグラスをぷらぷらさせている。


「酒も注げんのか。兵士はすぐに食えるようになるだろう、そのぐらいの食糧は持って来た。良いからこちらに来て愛嬌でも振りまいておけ」


 びきっと来る。食べられるときに食べなきゃ食べられなくなるに決まってるだろう。胃腸が弱ってしまうかもしれない。そうなってからは介護食から始めなきゃいけないんだから、二度手間だ。あと単純に態度デカいのがむかつく。

 確か救援物資を持って来てくれた隊の隊長で、ハンスさんといったと思う。私がワンピース姿でばたばたしているから、召使かとでも思ったんだろう。でもお生憎様、私は看護師で辺境伯夫人なのだ。にっこり笑って心の中では唾を吐く。てめー女が給仕しか出来ないと思ってんじゃねーぞ。


「生憎ですが愛嬌は夫と負傷兵たちに振り向いていますので、在庫がございませんの。自分で食べられるものは自分で食べて下さいな、ハンス卿」

「可愛げのない女だな。誰だその夫とやらは。教育してやらねばならん」

「クリストファー・セルシウス辺境伯ですが、どんな教育を?」

「へ、辺境伯夫人!?」


 にわかに援軍の兵達がざわつく。髪だけは留めてあるぐらいで装飾品も付けていないし、化粧もしていないから驚いたのだろう。こんな時にそんな用意整えていられるかっての。格好も市井と変わらないワンピース姿だし、そのぐらいには忙しいと思ってもらいたい。

 ざわざわ、ざわざわ。ハンス卿は慌てて背を正し、病室の床に膝を付いた。いきなりそこまでされる覚えもないのだけど、と生ハムとチーズのホットサンドイッチの乗ったトレイを見る。早くしなきゃ冷めちゃうんですけど。


「後方に遣られた兵達からお噂は伺っています、『白衣の天使』殿。私の兵も大分世話になりました。初期処置のお陰でまた隊に加わって来られた者もいます。ご無礼をどうか、お許しください」


 白衣の天使?

 こっちに来てその言葉が出ちゃう?

 ぷっと笑って私は軽く膝を折る。


「天使でも何でもありません、私は私に出来る事をしているだけです、どうか顔をお上げ下さい、ハンス卿。卿の援軍、私もクリストファー様もとても助かっています。士気が下がらないことが、戦場では何よりも大切ですから」

「おお……! やはり天使か! なんともお優しい言葉、ハンス・オーバリ身に染みる思いでございます!」

「良いから温かいうちに食べちゃって下さいね。勿体ないですから」

「はい! 畏まりました!」


 いちいちご飯食べるのに畏まられてもなあ、思いながら私はホットサンドイッチを持って行く。オーガに両腕をやられた人だ。単純骨折全治二か月って所だろう。足は無事だったから、トイレには自力で行けるけれど、そっちもやっぱり紙パンツとかがないのが不便だと思う。催して、痛い手で何とかパジャマのズボンを下ろして、また上げる。

 洋式トイレで良かったよなーと私は思う。そもそも和式のない世界なのか。和式の国があったらぜひ訪れてみたいけれど、そんな新婚旅行は戦いに決着がついてからだ。それまでに世界地図とか他国の服装とか調べよう。それが辺境伯夫人らしい、のんきな考え方だ。偶にはグレタっぽいことしないと怪しまれる。


 しかし白衣の天使。とんだ字名が付いたものだ。かつてそうだった私には、偶然とは思えないほど。出来ればさっさと終戦させて、その名前から逃げよう。白衣。同じ白のドレスなら、ウェディングドレスが良い。

 思いながら患者さん、もとい兵隊さんの口にホットサンドイッチを近づける。はむっと嚙み切って、びろーんと伸びるチーズに笑い合う。と、視線がどこかから向けられているのに気付いた。きょろ、と見渡すと、病室のドアの所でクリストファー様がこっちを見ているのに気付く。はむ、はむっと急いでパンを食べた兵は、くすくす笑っていた。


「さっきからずっとこっち見てるんですよ、クリストファー様。奥様が取られたみたいで寂しいんですかね」

「そんな歳でもないでしょうに、仕方のない人ですねえ。精々愛嬌振りまいて新しい兵達に媚びを売っている所ですのに」

「でも自分の妻がいきなり天使扱いされてたら、ちょっとは危機感覚えるんじゃないですか?」

「危機感?」


 何の危機だと言うんだろう。グレタは、私は、クリストファー様にべったりだと思うけれど。食べ終わったお皿を置いて、次はサラダにしようかと病室を出た所で、がしっと腕を掴まれる。闇にも分かるクリストファー様の金髪だ。どうしたんだろう、きょとんと首を傾げると、ずりずりと引きずられて行ってしまう。

 着いたのは玄関ホールだった。病室の喧騒はほぼ聞こえないし、キッチンともお手洗いとも逆方向。持って来てもらった大砲が十門、所狭しと並んでいる。


「クリストファー様?」


 名前を呼んでみる。

 振り向いた彼は、ちょっとぶーたれていた。

 子供のように口唇を突き出して、むっすりしている。

 もしかして妬いている顔なのかもしれない。

 まさかね。あのクリストファー様が。


 と、ぎゅうっと抱き締められる。身長差で踵が浮いた。え、え、と状況を掴めずにいると、顔中にキスを落とされる。ちゅ、ちゅと何度も何度も。鼻の頭、額、両頬、顎、どこにでもせわしなく。

 そして口唇に触れられた瞬間、どんっと私は爆発した。


 男っ気の少ない学校や職場だったから、私は男の人とお付き合いしたことは無かった。キスだって初めてだ。ぶわわわわっと湧いてくる記憶、グレタはいつもクリストファー様にねだっていた。しなを作って腕に取りつき、その身長差では叶わないキスを欲しがっていた。でもクリストファーは応えてくれなかった。彼が落ちて来るまで待たなくてはならなかった。結婚したのに寝室も別。勿論夜のむぎゅぎゅ……もナシ。この二年、グレタが渇望していたのはこういうクリストファー様の嫉妬だったのかもしれない。

 それにしてもいきなり舌を入れるのは卑怯じゃないですかクリストファー様。はぷ、はぷっと呼吸を逃がしながら、私はその舌から逃げる。でも分厚くぽってりとしたクリストファー様のそれからは逃げられない。鼻で呼吸するんだと恋愛小説には書いてあったけれど、そんなの唐突な攻撃に晒されていては役に立たない知識だった。


 官能小説でも読んどきゃ良かったか。でもああいうのって基本的に男性向けだし、買うとしたら通販だけど履歴が残るの恥ずかしいし。ああそんな事どうでも良い、誰かこの魔獣を止めて。魔獣。まさに。苦しい。やめて。でも舌は、気持ち良い。のかな? 初めての感覚で、全然分かんないよ、こんなの。

 涙が目の横を零れて行く。頬が熱い。爪先立ちになってる足がふるふると震える。ぷはっとやっと口を離すと、今度はまたぎゅーっと抱きしめられた。


 子供返りしたようなその仕種に、驚かされるのは私だ。白衣の天使、なんておだてられているのが気に障ったのだろうか。でもそれは私が自分で名乗ったわけじゃない。我は我が力の限り、我が任務の標準しるしを高くせんことをつとむべし。私は私の出来る事をして来ただけなのに。嫉妬されてしまうのは、ちょっとだけ困りものだ。

 でも悪く無いかも、思ったところでやっと身体が離れていく。唾液が垂れるのを舐め上げられ、ひゃっと声が出た。くすくす、クリストファー様は笑っている。そりゃ今までのグレタからは考えられない反応だろうけど、けどけど。

 グレタは私で私はグレタ。だとしたら喜んでおくべきなのか? これは。でも、突然唐突はあり得ない。親しき中にも礼儀あれ。やっと床に戻った靴の踵、ぽくんっとその胸を殴ってみると、くつくつ笑われた。


「生娘のような反応だな、グレタ」

「史実生娘です。あなたが手を出して下さらないから」

「欲しいのか?」

「こんなに人がたくさんいるところでは、要りませんっ!」

「そうか、まあ、また場所を選んで食ってやろう。他の男を跪かせたり給仕してやったりするのならな」

「看護出来ないじゃないですか、食事の介助も禁止だなんて……」

「メイド達にやらせればいい」

「過剰労働は禁止です。めっ」

「ふふっ」


 クリストファー様が笑うので、私も苦笑いをしてしまった。

 舌に残るのはクレソンの苦み。

 もうちょっと何とかならなかったのだろうかと、思ってしまっても仕方ないだろう。食後すぐはないよ、そう言うところですよ、クリストファー様。

 でもまあ。

 悪くない、ファーストキスだった。

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