第10話

「ガソリン? あるにはあるが、あれは危険物として城の地下に貯蔵しているぞ。少しの火気ですぐに燃える。……まさか竜の頭にぶちまけるつもりか?」


 予備兵の訓練も一段落した昼食の席で私は、はい、と答えた。車が発明されていない世界だからないかと思ったけど、思ったよりあるらしい。灯油とかでも良いけど、やっぱり手っ取り早く火のつくガソリンの方がよっぽど向こうには脅威を与えるだろう。

 バルタザールさんは気球の型紙を作っているし、アクセルさんとエーギルさんは食事もとらずに石弓の改造をしている。とりあえず一機から。大砲もあるにはあるけれど、さすがにあれは持って行けまい。まだ車が付いていないのだ、引っ張っていけない。


 そっちを先に提案すべきだったかな、でも城を護る兵器は残しておいた方が良いだろう。もしかしたら城まで攻めて来るかもしれないんだから、それは手段として残しているべきだ。火薬も爆弾にして投げ付ければ良いかと思うけど、その生成法を私は知らない。知らない事って罪だなあと思うばかりだ。大体竜に風で押し返されたら見る影もない。


「確かにそこに火を落とせば効くかもしれないが……随分大胆な事を考えるようになったものだな、グレタ。本当にお前なのか疑いたくなるよ」


 疑っても良いですとも本物じゃないんですから。否、ここが天下り先だと言うのなら、私は本当にグレタなのだろう。彼の瑠璃色の瞳に心ときめかせたグレタなのだろう。


 自分の中にあったのがちやほやされたいお姫様への憧れだったのなら、父母の愛を一身に受けたグレタの記憶は確かに皮肉なほど私向けの設定だ。でも私は戻ってしまった。黒井真珠に戻った。戦地は私を必要としている。でもそれは現代兵器を扱うためじゃないはずだ。それならエーギルさんとかを領主にした方が良い。勿論これは反駁の意味ではないけれど、適材適所ではないと思う。

 それでも私は兵器開発に関わり、歴史を捻じ曲げるような案件を立案している。まったく、とんでもない辺境伯夫人だ。


「とりあえず外に出しておいてください。使う時には使えると思います。でも、ランプなんかを持っては行かないようにしてくださいね。気化したガソリンが爆発するかもしれませんから」

「気化?」

「空気に溶けることです。量があるなら危険でしょうから、城の傍のなるべく風通しのいい場所に」

「……解った。しかし俺が、お前に戦術を教えられるとはな」

「ただの思い付きですよ、全部。やってくれてるのはバルタザールさん達です。戦うのはエーギルさん達。私は何も、していません。簡易な外科の手当だけ」

「お前の自己認識は随分変わったな」

「それほどでも。戦地に向かう夫の一助となれば良いと思っているだけです」

「は、一助か。二にも三にもなっていると思うがな」

「でしたら光栄ですわ、クリストファー様」


 にっこり笑いかけると、食えないな、と苦笑いをされた。そう言えば最初に戦地から帰って来た時より、随分柔らかい顔をするようになってきているな、なんて気付く。目元も優しく、それは人を評価している眼差しだ。敬愛するような眼差しだ。ちょっと照れてはむっとクロワッサンを食べる。

 サラダにスープにパン、それが現在の辺境伯家の精一杯らしい。勿論兵達も同じものを食べている。今度は食費に口を出してみようかと思ったけれど、これ以上手を広げるのは面倒だからやめておいた。大体私も食事を作るのは得意じゃない。看護学校の寮では寮母さんがいたからだ。病院の方は流石にいなかったけれど、コンビニ弁当か酒場で済ませていた覚えしかない。


 うーん、グレタの事を言えないぜ真珠。病院の購買も使ったっけなあ。そう思うと健康的な食事をしている。グレタはスレンダーだけど、私はただの飢餓状態だったんだろう。目の前にある物は食べる。お勤め品は爆買いする。一週間の食事の目安すら付けていなかった。あれを食べなきゃ、それを食べなきゃ、と言うより、腹が満たせれば良かったのだ。私は。

 本当そう言うところだわ、私。メイドが呼びに来てくれなかったらバルタザールさんと気球の型紙作ってたところだもの。そう言えばあの三人はちゃんと食べているだろうか。自分の心配より他人の心配。悪いところだな、これも。直していかなくちゃ。でも今の私は貴族様だからなー。多少は威張っていた方が、良いのかも。


 とにかく詰め込むように食べてしまうのは止めよう。早食いは身体に良くない。つい誰か急患が出た時を考えてしまう、看護師の悪い癖だ。いや、本当はちゃんと食べる時間は確保されていたんだけれど、どうしても放っておけなくてすぐに出られるようにしてしまうのだ。職業病、と言っても良いだろう。

 私がいなくたって現場は回る。解ってるんだけど手も足も頭まで突っ込みたい。それが黒井真珠の悪いところ。退屈にすら飽きてこのご時世に新しいドレスだの宝石だのに手を出し、それでも満たされなかった。それはグレタの悪いところ。


 私たちが一緒になって、そのどちらかを、或いはどちらもを矯正出来ればそれは良い事だ。せっせと働きながらも休養はたっぷりとる。そうすれば健康的な毎日が待っているだろう。最後の一口のパンを食べて、スープも飲んでしまう。サラダは季節じゃない野菜はなかった、と言うか、季節の野菜も採れないのだろう、シンプルだったからぱくぱく食べた。

 スープも本当はお皿を傾けて最後まで飲みたいものなのだけれど、流石にそれはマナー違反であることも知っている。勿体ないな、とせめて浮いているコーンを掬って飲んだ。よし。昼食終わり。アクセルさんとエーギルさんの様子を見て来よう。その前に病室で食欲を無くしている人がいないかを確認しなくちゃ。予測では明日明後日にまた魔物が軍勢を作ってやって来ると言うのだから、それまでに私に出来る事を。本職の方を、やって行かなければ。


「では俺は午後の部の訓練に出る」

「私は病室に行ってきますね」

「エーギル達の方は良いのか?」

「私がいなくても、プロフェッショナルがいれば問題はないでしょうから」

「ではお前は看護のプロフェッショナルなのか?」


 くす、とからかう様に笑われて、私は鉄壁の笑顔だ。


「はい、そうですよ。ですから午前の訓練で傷が開いていないか、確認させてくださいね」

「む」

「はい腕上げてー」


 立ち上がって歩いて行き、その腕を掴んで袖をまくり上げる。油紙にはちょっと染みが広がっていた。兵の手本として頑張ったのだろう。よしよし。それは良い事だけれど、無茶をするのは頂けない。


「誰か、水と布巾、ワセリンと油紙を持って来て下さいな」

「用意してあります、奥様!」


 私付きのメイドの子だ。ふんっと鼻息を荒くして、まるで褒めて欲しい犬のようだと思ってしまう。失礼だなそれは流石に。でも可愛い。

 水を布巾に含ませて、ワセリンと血の混じったものをゆっくりと拭いて行く。クリストファー様は少し痛そうに目を顰めさせたけれど、声は上げなかった。偉い偉い。

 傷はやっぱり深くない。新しくワセリンを塗って、油紙を取り換えた。おしまい、とばかりにぽんっと傷を戻した袖の上から叩く。


「ご無理は禁物ですよ。いくらいつも先頭に立って戦わなければならない身とはいえ」

「お前の新兵器も楽しみだしな。やぐらと気球、楽しみにしている」

「しないで下さい。言ったじゃないですか、私は素人です。玄人に任せてそれが駄目だったら、私の責任。その時は宝石でも何でも売り払って、みんなの治療代に当てますわ」

「本当に――変わったな、お前」


 す、と顎を持たれて無防備に顔を上げる。

 何だろう、と思ったら、額にキスをされた。

 初めての、それ。

 かつてのグレタがいくら強請ってもしてくれなかった、甘いもの。


 ぼっと頬が熱くなる。クリストファー様は自分も耳を赤くして、私に背を向け、食堂を出て行った。

 きゃーっとしているのはメイド達。私だってきゃーって言いたい。奥様奥様、とメイドが両手で私の手を握って来る。


「良かったですね、念願成就ですね! いつも『クリストファー様に好かれるよう可憐なドレスを』、ってオーダーしてたのに、クリストファー様新しい事にも気付いてくれなくて……それがキス! キスですよ! きゃー、すごいもの見ちゃった! あのクリストファー様が! メイドネットワークに流さなきゃ!」


 そんなゲットにワイルドなもんがあるんかい。思いながら私もちょっと引かない頬の赤みを取るために、さっきクリストファー様の傷を拭いた布巾に顔を突っ伏す。血の匂いだ、と思うと、スンッとした心持ちになった。

 さて、とりあえず、病室だ。破傷風のワクチンは怪我の度合いが比較的浅い人に優先してもらったから、重症患者は熱を出しているかもしれない。もっとも昨日はそんな人いなかったけれど。置いて来たのかな、と思うと、またスンスンスンッとメートルを下げた感情で、私はメイドにタオルを渡す。


「オキシドールで洗っておいてちょうだいな。私は病室に行ってくるわ」


 はいっと頷いた顔は、私――グレタより少し年下のようで、その可愛らしさに頭をポンポンと撫でてしまった。

 きゃーっとまた喜ばれた。

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