第2話

 ぽつぽつと落ちてしまった血の染みをオキシドールに漬けると、化学反応であっさりとその色は落ちた。メイド達もそれを見ておおっと唸る。あなた達もエプロンに取れない血染みがあったらこうすると良いわよ、と告げると、はいっと返事が来た。外科も担当することがあったから、こういう知識は一応ある。

 最近は入院病棟で特に何もなく過ごしていたけれど、外科外来や救急外来では流血沙汰も結構あったのだ。うちの病院は浅い傷なら流水で洗ってワセリンにラップをかけて保湿していた。


 多分この世界にラップは無いだろうから油紙で代用したけれど、まあ大丈夫だろう。城の中のベッドのある部屋に寝かされた兵士達は、メイド達が当番制で看ている。実に見慣れた戦場だ、私には。ほぼ病院と一緒だ。

 クリストファー様も自室で休養している。痛くて眠れない、と言う人がいないのは今の所良いけれど、これからもそうだとは限らない。毒も幸い今回は使われなかったらしいけれど、準備は必要だろう。破傷風にならないためのワクチンだって必要だ。初期治療が出来ない状態に追い込まれたら、厄介なことこの上ない。水も持ち歩けるように水筒が要る。


 と、もやもや考えながら朝食を済ませ、私は外出着に着替えた。あまり目立たないタイプのドレスで、お化粧道具はあったから自分で適当にメイクする。派手なものじゃなくて良い、地味で一応メイクしてますよ、と解る程度の薄化粧。ネイルはしていないからそのまま。長い髪をどうしようかと悩んで、サイドボードにあった鈴をちりんっと鳴らすと、間もなくメイドがやって来た。そから私の姿を見て唖然とする。


「お、奥様?」

「来てくれてありがとう。髪を上げたいんだけれど、やって貰えるかしら。出来れば帽子も見繕ってくれると助かるわ」

「そ、れは構いませんけれど、その、いつもと大分違う装いですね」


 派手好きなグレタが持っていたドレスは殆どが綺麗なカラードレスだった。でも今はそんなの関係ない、ただの買い物に行くだけなのだから。書き出したリスト、自分でも不思議と書けて読めるこちらの字。兵は全部で何人ぐらいいるのか、予備役なんかもいるのか、その辺も詳しく知らなくては。あとセルシウス家の現在の家計。それは一番気にしなければならない所だ。


 アップにしてもらった髪をピンをいくつか使って留め、帽子をかぶる。ドレッサーの鏡を見ると朝とは別人のような『貴族の夫人』が完成していた。これが私かあ。なんか気恥ずかしくていけないな。でも早い所慣れないと、と、びくついた風なメイドに声を掛ける。


「メイドを何人かと一番大きい馬車、それとお金をたっぷり用意してもらえるかしら。買い出しに行きたいの」

「そ、それでしたら私たちが仕りますが」

「自分の目で見ないと安心しないのよ。ドレスなんかもそうでしょう? 自分で見て、触って、そうしなきゃ納得が出来ない。取り敢えずこれらが売っている所に行きたいから、御者に渡しておいてちょうだいな。城のメイドを一時的に減らすことになってしまうけれど、御免なさいね」

「い、いえ! 奥様のお言い付けならば! それにしても奥様、ご自分でメイクも着替えもされるなんてその、珍しいですね。も、勿論お似合いですけれど! 私たちに任せていただいても良かったのに」

「ありがとう。でも自分で出来る事は自分でしなくては、怠け者になってしまうわ。旦那様も傷を負っているのだから、後方としてこちらもおざなりには出来ない。それが辺境伯夫人の務めではなくて?」


 昨日までのグレタなら舌を噛んでも言わないことをすらすら言うと、メイドの目に輝きが灯る。戦争をしている所なのだ、ここは。せめて後方からの援護になることをしなければ、あっという間に形勢を変えられてしまう。それは駄目だ。銃後の守りは出来るだけ完璧に。そうでなくては、兵も安心して戦えない。

 架空戦記物の小説を十代の頃に読み込んで来た私にはその心構えは当たり前だった。そしてナイチンゲール誓詞を唱えてきた私にも、当たり前だった。いつ誰がどうなるかしれないからこそ、備えあって憂いなし。


 出掛ける前に備蓄庫を見てみると、やっぱり医薬品は足りていないようだった。消毒液は問題ないとしても、ワセリンが圧倒的に足りない。一番使うものになるだろうから、これは買い込まないとな。あとは包帯、油紙。ワクチンを打ってくれる医者。問題はこの世界にワクチンがあるか分からない事だけれど、それは町医者に訊いてみることにしよう。でなければ仕方ない、消毒液を入れる水筒で一時凌ぎだ。そう言う時は使えるから、まあ良いだろう。

 ワセリン、水筒、ワクチン、油紙、解毒剤。どんな毒を使って来るのかは分からないけれど、それも初期治療の消毒液で取り敢えず乗り切ってもらおう。こうなると消毒液は前線向きの装備だな。邪魔かも知れないけれど水とは違うボトルに入れて持って行ってもらおう。


 今朝帰って来た兵士は五十人ほど。大体それぐらいで戦っているのなら、水筒が足りないって事にはならないだろう。ワクチンが問題だ。予備役合わせて百人分はないといけないし、補給物資にも入れて貰いたいから早く援軍に連絡をしなければ。


 と言う訳で一番最初に行ったのは町医者だった。慣れた消毒薬の匂いがして、看護師としては逆に落ち着いてしまう。


「ワクチン? ですか? 破傷風の?」

「ええ、在庫があれば城の兵たちに打ってもらいたいの。傷は手当てしたのだけれど、黴菌なんかは防げないから」

「あることはありますが、せいぜい三十人分が良い所で……」

「三十人分ね。解ったわ、全部持って城に来て下さいな。それとこれを早馬に持たせて下さい。ワクチンを通りがかりの街で打ってくるよう書いてあるものです」

「はい、解りました。熱を出している兵があればそれも私が診ましょうか」

「助かりますわ。もう発症している者がいるようなら、お医者様がいて下さった方が安心ですもの」

「しかし――こう言うのもなんですが、奥様がわざわざ足をお運びになるような案件ではないのではないですか?」

「私には出来ることが少ないもの。今も物資の買い出しのついでに寄っただけです。用事は一気に済ませた方が簡単ですわ」

「そう、ですか。では私は準備をして来ます」

「それと毒消しも念のために持って行ってくださいませんか? 敵の毒がどういったものかは分かりませんが、魔族ですからどんなものを使って来るか分かりませんので」

「注射になりますが構いませんか?」

「針の使いまわしが無ければ構いません」

「個包装のものですよ。ご安心ください」

「では料金を」

「金貨三枚ですな」


 高いのか安いのか分からないけれど、グレタのドレスは一着金貨三十枚とか言う記憶があるから、安い方だろう。グレタが無駄遣いしすぎなのかもしれないけれど、クチュールのドレスは着回しが効かないから質屋にも売れない。精々つけている宝石を取って来たけれど、これもどれだけになるやらだ。


「このご時世ですからな、金貨五枚が限界です」

「そんな値段で買って下さるのですか!?」

「え? え、ええ、ですがカッティングに濁りの無さなら、平時は金貨七枚はしますよ」

「平時ではないのですから構いません、ありがとうございます」

「はあ……いやはや、グレタ奥様、どこか変わりましたな」

「え?」

「否、以前でしたら少しでも高く売りつけようと兵を連れて来ていたものですから、それがメイドも付けずにいらっしゃるとは思わず」

「メイドは馬車に乗っておりますわ。それに今は時期が時期、贅沢は言っていられませんし、終戦になったらまた買い戻しに来れば良いだけですもの。勿論その間に売れてしまっても、構いません」

「本当に……お変わりになられた。これは心づけです、金貨を一枚足しておきましょう」

「ありがとう! これで他の買い物も捗るわ! お金はまわしてこそですもの、ね!」


 にっこり笑って手を取ると、初老の鑑定士はちょっと頬を赤らめた。そう言えば手袋はしてくるの忘れたな。まあ小春日和でそう寒くもないし、良いだろう。駆け足で路上に待たせてあった馬車に乗り込み、私は残りの買い物を済ませて行った。

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