第三章 穿石

甲亜の息を吸い込む音と、乙也が鎖を離さないように手首に巻く音が重なった。もう一つ、若い男のはっという微かな声が二人の耳には届いていた。

甲亜は足にぐっと力を込めて手すりに乗り、一番高さのある箪笥に飛んだ。

乙也は鎖を握り締めて階段を駆け下り、微動する影を睨み甲亜と挟み撃ちできるような場所についた。

男の影は動揺したように動き出す。彼の顔は窓と板から漏れ出た光に照らされた。

一瞬、乙也の目に男の顔が映った。どこかで見たような記憶を懸命に探れば思い当たるものがありそうなそんな顔をしていた。

甲亜は箪笥の上に留まって、男の様子を伺った。

光の当たり方からして男の身長は甲亜やジンよりも低い。少年と見えた。

乙也の脳裏に、靄のかかった深の顔が浮かぶ。いやそんなことはないと頭を振って目の前の戦闘に集中した。

そうだ、これは戦闘なのだ。

甲亜の言った通り、この世の全ての生物は一つの命を持っているだけだ。目の前の男は、獣とも獣人とも自分とも同じ生命を持っているだけだ。乙也は唾を飲み込み、一歩踏みだす。

殺して、生きるだけだ。

甲亜が動く。跳ねるように箪笥から飛んで男に近づいた。

「起きちゃったの?」

細く若い声だった。男とも言えない、少年のような声。

「消毒液の匂いがする。研究班の軍人だな?」

甲亜が確信を持ちながらも問う。甲亜が男の前に立った以上、乙也は後方での支援に回る。乙也は息を殺して、鎖を握る手の力を強める。

「そうだけど。ねえ、来ないの?」

いくら言葉が人間らしくなったと言えど甲亜はこれまでを森で暮らしてきた獣人である。男の挑発に素直にのって伸びた爪を彼の首に突き立てた。

男は身軽に飛び跳ねて後ずさった。暗闇に身を溶け込ませ、姿の輪郭が滲んでいくのがわかる。

甲亜には見えていて、このままでも十分不自由ないのだとわかっていたが光がなければ男の顔も、動きも乙也には見えなかった。

乙也は部屋の真ん中の窓の前に駆け寄り、貼り付けられた板を肘で突いて穴を開けた。それを何度か繰り返すと、箪笥や棚の正確な位置と部屋の奥行きが見て取れた。

甲亜が見つめる先には、男。

彼女の頭ひとつ分くらい小さい少年だった。

空軍の若き作戦参謀、ロヴィン。

乙也はその顔の全部を見て彼のことを思い出した。

水岐が気に入っていた十六歳の軍人だ。

「ロヴィン、水岐参隊長に唆されたか。」

「分隊長だからって、そんなこと言っていいと思ってるの?」

ロヴィンは右手に掴んだナイフを乙也に向かって振り翳した。乙也は鼻先に触れる直前で身を引いて避けた。

「乙也っ」

甲亜は乙也の肩を強く掴み、自分の背後へ投げるように突き放した。

これは後方支援していろという意味だろうか、もしくは乙也ではロヴィンに敵わないと思っているのか。

乙也の心の中で、疑いの念が渦を巻いた。

「後ろ!」

甲亜の声が薄暗い部屋に響く。乙也はその時やっと同じ空間にいる二人目の敵対者の気配に気がついた。奥歯を噛み締め、その気配の元に鎖が巻き付いた拳で殴った。

手の甲と腕に、肉の表面とぶつかった感触がした。

気配は小柄な女になり、小さな呻き声を漏らした。

「栄華弍隊長。」

「…挨拶もしないで逃げてしまうなんて…二日もお世話してあげたんだからお礼くらい言ってみたらどうなんです?」

「冗談が得意だな!」

彼女は刀を踊らせるように振り回し、乙也の身を刻もうとした。

栄華は飛び上がり、頭上から刀を落とす。乙也は鎖を両手で引っ張りながらその切先に当てがい、動きを止める。栄華の攻め入る力と乙也の拒む意志が擦れ合い、閃光を飛ばし、ぎりぎりと不快な音を立てた。

その横で、ロヴィンと甲亜は無言で睨みつけ合っていた。

ロヴィンは甲亜のことを慈しむように、目を細め柔らかい表情を見せながらもナイフはかたく握っていた。甲亜は呼吸をも止めているかのように、静寂を貫き、鋭く彼の動きを観察している。二人は目を凝らさなければ動いていることすらわからないほどの遅さで空間をゆっくりと漂っていた。

「君は乙也の飼い犬?」

乙也と栄華の鎖と刀が触れ合う金属音の間から、ロヴィンは甲亜に向かって高らかに言った。それはまるで聖典を読み上げるかのような声色だった。

「無駄口を叩いていると怪我をするぞ!」

甲亜はそれに対抗するかのように、狼が唸るように低い声で言った。雷が森林の静けさを突き破るような怒号だった。

それを彼女は自らの歩調で抑えた。ゆっくりとした足並みで、ロヴィンとの距離を詰めていく。

息を吸った刹那、甲亜は噛み付くように彼を襲った。首に腕を回し、肩に足を乗せてロヴィンの白い頬に歯を立てた。

尖った歯が突き刺さった肌からはとろりとした鮮血が、赤い足跡を作って首元に隠れていく。

ロヴィンは涙を流しながら、痛い痛いと呻いた。

涙と血液が穏やかに混じっていく。それを彼は指先でかき集めながら

「水岐ぃ、水岐ぃ助けて水岐ってばぁもう!」

と嘆いた。

乙也はそれに気が散って、ロヴィンのことを一瞥した。その隙に栄華が剣を縦横に振り回した。乙也のいくつかの箇所の皮膚が切れて赤い微量の液体が飛沫した。

「目移りなんて許さない!」

「お前は意外と嫉妬深いんだな。水岐参隊長もご苦労なさっているだろう。」

すぐさま体勢を戻し、頬の血を手の甲で拭うと連続で何発か彼女の顔と体を殴った。

脇腹と鳩尾に拳が入ると、栄華は泣き喚いた。子供がするように足をジタバタとさせて彼女もまた慕う上司の名を繰り返し言った。

「水岐さん…体が痛くて痛くて…もうやぁ…」

涙の混じる声を聞いても尚乙也は放つ拳の動きを止めない。頭を強く殴った後、腕で首を締め上げ鎖を巻きつける。

乙也の目は夏の日光に照らされている海の表面のようにギラギラと悪どい輝きを放っていた。手の甲は太い血管が浮き上がり、鎖で傷ついた指先は赤く滲んでいた。

獣の喘ぎのような声とも言えない音を喉から出して、栄華は自分の首に巻かれた冷たい鎖を爪で引っ掻く。次第に美しい楕円に整えられていた爪は端が欠け落ち、先に凹凸ができていった。

右手はまだ刀を固く握っている。無闇に振り回すと、乙也の肩に切り傷を作った。

乙也は呻きながら

「甲亜!」

と力一杯に叫んだ。振り返ればすぐそこにいるのに、遠く離れているかのようなその声は傷故の苦しさと切なさを感じさせた。

甲亜は回転して場所を移動し、栄華の目の前に立った。乙也は腕の力を緩め栄華との距離を作った。彼の眼前には今ロヴィンがいる。

水岐、水岐、とまるで恋人を呼ぶかのように醜悪な声を発し続けている。

乙也は構わず拳を振るった。ロヴィンの頬が抉られたように歪み、華奢な体がよろめいた。

甲亜は咳き込む栄華の首に爪を突き立てる。元から細い首が甲亜によって、さらに不健康的なほど薄くなっていく。

しばらくそのまま甲亜が指先に力を込め続けると栄華は握っていた剣を落とし、気を失ってしまった。

ロヴィンは右頭部を乙也に殴られ、甲亜の爪に首を突き刺された。彼の口から漏れ出る掠れた声は冬の風に似ていた。

「水岐、み…」

甲亜が首から指先を抜くと血飛沫が彼女と乙也に降りかかった。横殴りの雨のように強い感触がする。乙也はそれを服で拭き取ると鎖を握り直した。

「お前の飼い主は来ない。私たちが殺すからだ。」

乙也と甲亜は生死を彷徨うロヴィンの閉じた瞼と、床に這った栄華の気が失ったことを確認すると階段を探した。

乙也は暗闇に足を踏み入れて、前に進む。今度は彼が甲亜を先導した。消毒液の匂いが濃くなるのを感じた。鼻の奥がつんとする。

「窓の外を覗いてみたが、ここは十四メートルくらいだ。建物だと何階になる?」

「三階ほどだな。まだあと二つ階があることになる。」

階段を降りながら、甲亜が乙也の耳元で囁く。

乙也に耳には彼女の声と息遣いしか聞こえていない。彼女の足音、余分な殺気、焦った様子などは感ぜられなかった。

下った先の部屋は、窓から光が差していた。先ほどとは打って変わって明るかった。壁の窓は美術品のように縁が美しく、それに日光に当たると滑らかさが引き立った。

埋め込まれた石は奔放な輝きを反射させていた。その反射光が一人の青年に当たる。

小麦色の頬に。濃紺の瞳に。生成りのシャツに。

光が散っている。斑点になって彼の存在を浮き出させている。

「ラキ。」

乙也は目を見張る。

青年の頭には鹿の角が生えていた。それも普通の茶色と白の混じったものではない。

片方は綺麗な金色、もう片方は灰色に濁った色をしていて先の方が折れていた。

不完全な完全体だった。金色の鹿の角は全ての厄災を祓うのだという言い伝えが、創造説の中で提唱されている。この言い伝えはおとぎ話のような創造説では珍しく、信憑性がある。この国では新年には皆金色の鹿の角を模した飾りを買い、大病を患った際には角の粉末を食事に混ぜる。飾りを家の至る所に祀れば一年無事に暮らすことができ、粉末を一ヶ月も食し続ければほとんどの病は治っていくのだ。

甲亜にラキと呼ばれた青年はその半分を持っており、その半分を蝕まれていた。

彼は口角を不自然に引き上げ、卑しく笑った。

「よお。百獣の少女。」

乙也は甲亜を守るように彼女の前を腕で遮った。

「鹿の獣人…」

「こいつが、甲亜を捕まえた。」

「おいおい、言い方。連れてきてくれたって、言えよ。」

ラキはじりじりと歩み寄る乙也と甲亜を鼻で笑いながら、ナイフを振り回した。まるで大道芸や手品のように、宙で踊らせその切先で螺旋を描き最終的には手のひらに戻っていった。甲亜はそれを見てシュユを思い出した。

主人と父のために戦う忠犬。

ラキもまた何かのためにその手を泥沼に沈めているのだ。

「何だよ、その目。」

ラキは顔を顰めて穏やかに言った。甲亜の皮膚を震わせる。攫われた時のあの注射器の感触が深い傷痕のようにまだ残っていた。

甲亜は奥歯を強く噛み締めて爪先を一層鋭くさせた。乙也は金色の角を睨みながらそれがどう動くのか予想をした。

折れている方の角は役に立つのだろうか。もし大した使い物にならないのなら、彼の左側から攻めた方がいいだろう。乙也はゆっくりと姿勢を低くして襲うタイミングを見計らった。甲亜の前に出した腕はしまわずにいた。

「おい、動くなよ。」

冷たい碧眼に見下されて、乙也の心臓の奥は荒れ狂った。心の大河の水が氾濫している。

「乙也、ラキの言う通り動かないでいてくれ。」

一瞬、甲亜は鹿の獣人に寝返ったのかと乙也は寒気がした。獣人を捉える瞳は敵を見つめる色をしていると確信を得た時に、やっと返事をすることができた。

「わかった。私は、水岐参隊長を探す。」

「ああ、頼んだ。ここは甲亜が、」

彼女が唾を飲む音が微かに聞こえた。勢いの増していく憎悪と殺気を感じた。

ゲリデのことを守ろうとした、あの時の彼女と似ていた。あの時乙也に向けた視線を今は同じ獣人である彼に向けている。

「私が、こいつを仕留める。」

乙也は甲亜の言葉に頷き、階段を探して走り出した。ラキがそれに反応して手に握ったナイフを乙也に向かって投げようと腕を上げる。しかし甲亜が一瞬でその刃先を蹴り飛ばす。

ナイフは宙に浮かんでから、床に乾いた音を立てた。

乙也は階段を見つけるとじりじりと降りた。劣化が進み、今にも支柱から壊れてしまいそうだった。乙也は冷たい空気を肺の中に取り込み、音もなく吐いた。

自分の小さな足音を耳で拾った。それ以外には、甲亜と鹿の獣人が戦う様子が音となって聞こえるだけだった。

水岐らしい足音や、息遣いや気配はまだ感じない。

手のひらで壁を伝って降りていく。消毒液の匂いが濃く密度のあるものになっていくのがわかった。

研究室の匂いと同じである。

乙也は一歩、また一歩と踏み出すたびに水岐が甲亜を攫ったことは事実であると見せつけられている気がして苦しかった。

これまで彼はこちら側の人間で、仲間だったのだ。よくも裏切りやがったという憤りの次に込み上げてくるのはなぜこんなことを、という純粋な悲しみだった。

その時、何かが擦れたような軽快な音がした。

乙也はびくりと跳ねた肩を抑えて、もう一段降りる。消毒液の空気に混じって、茶のような芳しい香りが漂ってくる。

もしや有毒な香料かガスかと身を構えたが、そのようなことはなくただ茶葉の香りがするだけだった。もう一歩踏み出すとその香りが鼻の先をつついてきた。

その次から気泡が空気に晒されて、連続して破裂していくようなボコボコという音が微かに聞こえてくる。

耳を澄ませば他にも陶器が触れ合う音、液体が落ちる音、布の擦れる音、様々な音が聞こえてくる。まるでそこで生活しているかのようだった。心を落ち着かせてみれば穏やかな状況を想像できてしまうほどである。

しかし乙也は一層体の力を強めて、階段を降った。茶の匂いが彼の脚を引き寄せる。

「美味しい。水岐さん、もう一杯ください。」

「自分で注げ。口は慎め。」

「は、はい。」

水岐と、もう一つの声だった。とてもか細く、集中しなければ聞き取れないほどの小さい声だった。少女のようである。

「さあ、いと、お客さんがお見えになったからそこを退いて熱々のお茶を淹れて差し上げろ。カップとソーサーも一級のものを用意しろよ。」

「はい。」

気づかれている。乙也は見えぬように屈んでいた体勢を戻して、背筋を伸ばした。

広いテーブルに幾つかの椅子が並んでいる。テーブルの上には三段のケーキスタンドと、二つのカップがソーサーに乗っていた。他にも茶漉しや茶葉、ミルクや砂糖などが瓶に入れられている。

窓からの光をいっぱいに浴びて、二人はそこに居た。

水岐と、少女の顔は逆光でよく見えない。

「水岐参隊長。」

「乙也壱隊長、来られましたね。まあ座って。」

乙也は水岐が何かを装備していないか立ち止まって、彼の全身を上から下まで見た。

ベルトを巻いてナイフでも刺しているのか、ふくらはぎあたりが膨らんでいた。着ているのは軍の制服ではない。シャツにループタイを締めて、ベストを羽織り濃い灰色のズボンを履いていた。脚を組んで悠然とした様子で品定めするかのようにこちらを眺めている。

「頬の鮮やかな赤がよくお似合いですね。」

嫌味ったらしい声を聞きながら、警戒して近づく。椅子には座らなかった。

水岐は手に何か握っているようだった。乙也はその角度からはその全部は見えず、首を捻る。

「ええ、あなたの部下に作られましてね。」

乙也がそう返すと水岐は乾いた笑い声を発した。

少女のもみあげからは兎の耳が垂れていた。薄い灰色の髪を二つに分けて編んでいる。黒くて大きい目に、噤んだ唇。白いワンピースの裾を揺らしてちょこちょこと移動した。

「あの子はいとと言うんです。耳も良くて脚も速いが少々要領が悪くてね。」

いとと呼ばれた少女は乙也の方を向いて一礼すると、こちらの棚からあちらの流しまで忙しなく動いた。

水岐が命じた通りに美しいカップとソーサーを食器棚から出し、瓶に入った茶葉を選んでいた。

「兎の獣人ですか。…あなたは一体何をしたいんです?獣人を集めて、軍を巻き込んで。」

怪訝な表情をせずにはいられなかった。乙也は鎖を持ち替えて水岐の瞳を見つめた。

手が伸びて、その中へ引っ張られてしまいそうな程濃度の高い黒い色をしていた。乙也は唾を飲み込んで、彼の言葉を待つ。

「私は恵まれた家庭で育ちました。しかし外を見渡し、路地裏を覗けば生きる希望を捨てた子どもばかり…だから全ての子どもが仕事をもち、生活に困らない国制度と軍の在り方について長い間考えてきました。そこで、獣人です。」

彼の手の先は、働くいとを指している。

まるで母性を宿しているかのような、頗る柔らかな表情に乙也は驚いた。

「彼ら彼女らは危険だ野蛮だと人々から恐れられ迫害され殺され続けているが、実際そうなのでしょうか。上手く使えばいい、仕事道具になるものです。私はそう思い立って…十年も前になりますね、ある一人の研究者に出会いました。美しい人です。その人は獣人の製造を行っていました。人間の遺伝子と卵子、そして獣の遺伝子と精子を組み合わせて幾度も獣人の誕生に挑戦を重ねていらした。私は大変感銘を受け、初めて獣人の製造に成功した際、彼に訊いたんです。後天性の獣人は作れないか、と。孤児を獣人にして、小さき命を救いたいのだと。その方はやってみようと仰ってくださいました。いとも、ラキも、そしてティ…あの鷹の獣人も後天性の獣人ですよ。あの子たちは元々、貧民街で厨芥を貪っていた孤児なのです。しかしシュユばかりは、その方が最初に作られた山犬の純粋な獣人ですけれどね。」

これまで隠れていた彼の本心がはらはらと殻を落として、見えていく気がした。乙也はこのような水岐の笑顔を見たこともなければ、楽しげな声色を聞いたこともなかった。

乙也は意味がわからなかった。

いや、正確には彼の言っていること言葉としてはわかっていた。しかしその本質が理解できない。

水岐は恐らく、孤児に能力を取り付け価値のあるものにし軍や国に利用させることによって人間と同等の生活を行えるようにするという考えを持っているらしい。乙也は混乱する頭の中でも必死に答えを見出した。

「しかし、後天性の獣人になった孤児たちはどうなんです。人間としてでなく、獣人として生きていかなければならない。そんなの…」

「そんなの、一時的な対処だとお思いですか。それは安直すぎるかもしれないですね。現に、あなたは上で甲亜とラキを戦わせてここにいるでしょう?聞こえますね。ナイフと牙の擦れ合う音が。」

乙也は水岐との会話の背景で、無論あの二人が交戦している音と動きを感じていた。

「これだって、立派に行使しているでしょう。ご自分が人間だから、甲亜より偉いと思って彼女と近い軍の立場を利用してあの子を爆薬のように戦いの場に投じた。」

「違う!そんなことは…」

乙也はテーブルを両手で強く叩いた。自分の荒れた息遣いが聞こえる。水岐の顔が卑しく歪む。口角が虫が這うようにねっとり上がって、白い歯と赤い舌が見えた。意識が散乱して視界がちかちかとした。乙也は耐えきれず椅子に座り込む。

「だ、大丈夫ですか?」

兎の獣人が乙也に駆け寄り、目の前に空のカップとソーサーを置く。乙也へ小さな手をおずおずと伸ばし、彼の肩を撫でた。

乙也の焦点が定まり、呼吸が落ち着いてくるといとは安心した表情で手を離してカップにお茶を注いだ。

「お花のお茶です。気が休まりますよ。」

蝶の羽ばたきのような声だった。今の乙也には目の前にいる少女は、天使か何かなのかと思えた。

カップの中を覗き込むと、赤の混じった落ち葉色が揺れて光に照らされていた。

カップとソーサーの花と曲線の模様が、乙也を手招いているようだった。乙也は口の中に溜まった唾液を飲み込む。つかえるような感覚があった。

乙也はゆっくり手を伸ばし、指を細い持ち手に絡めた。お茶の温度が移った陶器の温もりを静止して僅かな間感じた。

お茶の香りと、自分の手の感覚がやっと眼前にあるのは水岐の手駒にしている獣人が淹れたものなのだ、ということが実感できた。

意識と体が少々乖離してしまっている。乙也は一瞬でも茶を飲もうと自分の手が動いたことに慄いていた。

乙也は手を引っ込めて、勢いよく立とうとする。視界と脳が激しく揺れるのがわかった。

「わ、大丈夫ですか?そんな急に…」

いとが乙也の腕に手を伸ばした。二人の方と指先が触れ合うと、乙也はすぐさま振り払った。

「私の気が昂っているとでも思うのか!私を宥めなければと本気で思っているのか!」

喉から、荒々しい声が空気を分断するような勢いで発せられた。乙也は吠えた後、首元を手のひらで押さえた。乾いた喉が強く痛んだ。

いとは怯えきってしまっていた。顔を歪ませて、泣きそうになりながら後ずさって乙也から距離を取ると水岐に駆け寄った。

「いとは弱いんだから、離れちゃいけないといつも言っているだろう?」

乙也は目を拭いながら、水岐の声を聞いた。どうにも怒りに似た感情が治らない。

「はい。ごめんなさい。」

少女の声には悲しげな涙が混じっていた。

「いやはや、よく効きますね。」

「…は、はあ?」

そう訊き返すのでやっとだった。跳ねるように鼓動を打つ心臓を胸の上からぐっと手のひらで窮屈に押さえた。

「部屋の四隅に穴を開けたんです、そこに管を通してガスを出すために。大丈夫、死ぬほど有毒なガスではないです。私は研究班として様々なガスに触れてきましたから、耐性がついてしまいました。いとは獣人です。獣人の能力を持った日から、ガスが効かない体になりました。ほら、すごいでしょう?」

水岐は恍惚とした表情で両腕翼のように広げ、乙也のことを諭した。

乙也は目が眩んだ。水岐の細くなった目が溶けたようにぐにゃりと歪んで地にその液体と化した眼球が落ちる。乙也にはそんな風に見えた。迫る吐き気を堪えながら、額の汗を拭った。

乙也は膝をついて、乱れる呼吸を繰り返した。不規則に胸と肺が激しく動く。

水岐はそんな彼の姿を哀れむ視線でなぞりながら立ち上がった。

聖歌を口ずさむように静かに言葉を零した。

「獣人の血液は薬になるんです。このいとの首にでも噛み付いて血を飲み込んだら、あっという間に治りますよ。」

乙也は床に伏した顔を重く持ち上げて、水岐の顔を見ようとした。まだ溶けているばかりで固まっていなかった。

「あとね、これは知っていますか?獣人たちの肺の構造は複雑で、有毒なものを取り除くことができるのですよ。だから生かしおくだけで森林の毒の混じった霧も、戦時用のガス弾も綺麗にしてくれるんです。死んだ後だって肺を加工して空気洗浄機に作り替えればいいし、血液を全部抜いて薬にしてしまえばいい。牙は高値で売れるでしょう。国の発展にもってこいなんですよ。獣人っていうのは。」

彼の声は上ずっていた。愉快そうに少々早口になってもいた。

少なくとも乙也にはそう聞こえた。ガスによって聴力もおかしくなっているやもしれないが、乙也の鼓膜にはしっかりそう届いていた。

「後天性獣人の製造を行い、その一生を国のために捧げてもらうことで安全な生活を約束する。能力のない者に与えるんですよ、社会的な存在意義を。」

朦朧とする意識の中、ふつふつと煮えくりかえる憤りを感じて乙也は唇を噛み締めた。血の味が、口の中に広がる。

水岐の脚が、ゆっくりと動き乙也はその靴裏を見た。眉間に皺を寄せつつ、身を構える。

ああ、自分はこれから踏みつけられるのだ。

手のひらにある鎖を痛いほど握った。これがあっても今や何も抵抗ができない。まるで何か別の存在に意識を乗っ取られてしまったかのように、時にぼんやりと霞み時に熱を帯びた怒りが湧いた。

水岐の靴の裏がねじ込まれるように、擦り付けられるように乙也の肩を踏む。

「ああっ…」

乙也が重い痛みに情けない呻き声を上げた時、鈍い音が彼の脳内に響いた。

水岐と何かの影が乙也の前で交差している。時折、水が弾け飛ぶような気配と水岐の声が聞こえた。何を言っているのか彼にはさっぱりだった。

完全に瞼を閉じ切った乙也の前で、水岐と対峙していたのは甲亜だった。

彼女は切り刻まれたシャツを脱ぎ捨て、身軽なトップス一枚になって長い爪先を水岐に向かって構えた。爪は赤い液体にべっとりと濡れ、外からの光が当たってテラテラとしている。

背中には茶色と深い灰色が混ざる翼が伸びていた。

「き、奇襲ですか…。」

水岐は右肩を押さえて甲亜を睨みつけた。

乙也が水岐に踏まれた瞬間、甲亜は翼を広げ階段を飛び降り、水岐の頭にまず拳で衝撃を与えると次はその爪で肩の皮膚を抉り取った。

もう一度腕を大きく振りかぶる。甲亜の瞳はいつしかのゲリデのように、荒々しく光っていた。日に照らされた宝石のように、七色の光を乱れさせ散りばめさせていた。

彼女の手は水岐の目元を掻っ切る。鮮血が火花のように、美しく弾けて飛んだ。

唸りながら倒れ込む水岐を強く睨みつけた。甲亜は彼が腹這いになるまでしっかりと見つめていた。速かった呼吸が死に近づき、遅くなっていくのを確認して、ふっと目を逸らし乙也に駆け寄った。

「おい、大丈夫か。息が浅すぎる。早くここを出なきゃ…」

乙也は彼女の顔に焦りが表れているのを見た。こんなに不安そうに眉を顰めて、脂汗を額に浮ばせ唇を噛んでいる甲亜の姿を見るのは初めてのことだった。どこか安心に似た、解ける感覚を覚える。

変だ。乙也は溶けていく意識の中で思った。

死に際に甲亜のこんな顔を見て、そのような感覚に陥るだなんて。

「甲亜…。」

掠れる乙也の声に、彼女は

「何だ。喋るな、あまり…」

と答えた。皮膚を切り刻まれているような心底苦しい表情で乙也を見つめている。

乙也の視界はもう曇って彼女の影しか見えなくなっていた。しかし声色から察するに、甲亜が涙を堪えているのは安易に想像できた。

放つ言葉の節々に、鼻を啜るぐずっという音が紛れていた。

乙也は震える手を伸ばして、彼女の影に触れようとした。仄かな温もりが乙也の呼吸を正していった。

甲亜の頬に乙也の手が添えられる。甲亜は涙をいっぱいに目に溜めて、それを自らの手で包み込み首を激しく振った。

「嫌だ。必ずここから出て軍に帰る。帰らないと。」

乙也は、甲亜の居場所が森だけでなく軍にもあると言うことを彼女自身が自覚していることが嬉しかった。

「甲亜、あなたこれから生きづらくなりますよ…」

床に這いつくばりながら水岐はそう言った。もう目の機能が失われている赤く汚れた顔を歪ませた。なぜこの男は笑っている。乙也は眉を顰めた。

「森の中で生きることに辛さを感じることなどなかったでしょう、そこがあなたの居場所だったんだから。でもここは違う。あなたはいずれ、苦しくなるはずだ。」

水岐は教えを説くかのように穏やかに喋った。甲亜は処刑の前日、水岐がジャックという詩人の詩集を見せてくれたことを思い出した。

暗示のように、彼の言葉が甲亜の心に巻きつく。それが縄みたいに窮屈になって、彼女を苦しくさせた。

「あなたは百獣の少女だ、いつでもどんな存在にでもなることができる。」

水岐はそう言うと自分のズボンの裾を引き上げて右ふくらはぎを露わにした。生白い、滑らかな肌に黒いものがしがみついている。長方形から二つのベルトが伸びていた。

「何だよ、それ…」

乙也はもう笑うしかなかった。その長方形の物体は爆薬だった。

それは熊種の誘導を行った際起きた爆発に使われたであろう爆薬と非常に似ていた。シンプルな形状、持ち運びのしやすい大きさ。

それは、埜環がやはり水岐と繋がっており共謀していたのだと感じさせるのには十分だった。

水岐はここで自決でもすると言うのか。

「乙也何だあれは、爆薬か?」

水岐のことをじっと見つめていた甲亜はふっと振り返ってその慌てた表情を見せた。

彼女は乙也の腕を引っ張って担ごうとした。その様子を見て、水岐が高らかに笑う。空気が割れるほどの笑い声だった。

半狂乱になったのか、爆薬のピンをそこで抜いた。

「そうか、あなたにはもうこの軍人しか見えていないんですね。恐らく彼を信じることも難しくなってきている。いやどちらにせよここのか弱い獣人は助けるつもりがないようだ。獣側につく獣人の役はもう終わりですか?」

「うるさい!」

甲亜は涙を散らして乙也を背負うといとに向かって

「来い!」

と吠える。乙也は引きずられながら前に進み、いとは水岐と甲亜を交互に見やってから決意したように拳を握りしめて追いかけてきた。

「大丈夫だから放せって。」

乙也は甲亜の足手纏いになりたくなくて、腕を引き剥がそうとするも彼女は首を振った。

「いいからもたれながら走れ。」

甲亜は右腕で乙也を引き寄せると駆け寄ってきたいとを左腕で抱き上げ、鷹の羽を素早く広げて窓を打ち破り外に出た。

三人の後を追うように爆発音が耳に響いた。

「水岐さん!ラキくん、ロヴィンくん…」

いとの声が寂しげだった。甲亜は歯を食いしばって、二人を離さないように腕に一層力を込めた。

三人は爆薬の煙幕を掻い潜りながら宙に浮いていた。乙也は地上をふと見て背筋を凍らせる。

たくさんの木々で地面こそ見えないが、落ちたら枝に体を引き裂かれてしまうのではと思うと肌の表面が寒かった。

「お、おい。このまま飛んで移動するって言うのか。」

乙也は自分の声が裏返っているのを感じて情けなかった。甲亜は真っ直ぐと遠くの空を見つめている。

乙也は隣にいる少女を見やった。いとは震えてしまって目の焦点が定まっていなかった。

「やっとここの場所がわかった。軍の寮から遥か北部だ。あの森が、甲亜の生まれた…」

今飛んでいる場所からさらに北部。彼女の視線の先を辿ると巨大な森林があった。

それらからは金色の粒のようなものが舞い上がっていっている。

「…何だあれは。希少樹林ばかりじゃないか。」

「希少樹林って何だ。」

「大変価値が高い上に見かけることの少ない樹林のことだ。あれはコルの木か…。」

乙也は息を飲んだ。希少樹林最重要項目に分類されるコルの木が視界いっぱいに広がっていた。

コルの木は岩に根付く樹林である。金色の粒は糸のような筋を残してまっすぐ空へと向かっていく。これは木の発する胞子であった。

ベーリー茶というのはコルの木の根から取れる。根をしっかり乾燥させ粉末にすることで茶葉になる。

「…降りるのか?」

乙也は甲亜の切なげな表情を見て、本当はそうしたいのだろうと思った。しかし彼女には乙也と、いとという枷が両手に嵌っている。しかし出会ってばかりのいとはともかく乙也をここで置いていく理由はない。

乙也はそう思いながらも、彼女を行かせたらもう帰ってこないのではないかなどという一種の疑いめいた考えを持たずにはいられなかった。心の大河は氾濫するばかりだ。

「二人は当然ついてきてもらうことになる。」

甲亜は翼を大きく揺らしながらその場に止まった。彼女の寄った愁眉と、きゅっと結んだ唇と、僅かの望みを抱く瞳の色が美しく見えた。

「行こう。私たちも足手纏いにはならない。」

「え。」

いとはまるで猫が鳴いたような声で驚きを示した。

「いと、お前は私が見張る。勝手に動くなよ。」

「う…。」

「乙也、ありがとう。いと、お前は心配しなくていい。乙也は人間にしては割と話の通じる方だから。」

そんな風に思っていたのか。乙也はこんな状況でも、少し口元を綻ばせることができた。彼女はつくづく獣人なのだと思うと、心地のいい感じがした。理由は乙也自身にもわかりかねた。

「お前の家族は居るだろうか。」

「居たらいいな、と思う。でも」

甲亜は風に乗って緩い曲線を描きながらゆっくりと下降していった。髪を靡かせながら口を開く。

「でもあまりにたくさん居たら、どうだろう。帰りたくなくなるかもしれない。」

彼女の人間らしい言葉選びが、乙也には寂しげに響いた。心臓の奥が痛かった。

乙也は飛び降りていく彼女を引き止めたかった。しかし自らの体を甲亜に預けてしまっている以上何もできない。

乙也は歯を食いしばりながら、風を感じた。コルの木が発する冷気が頬を撫でて、髪の毛を揺らした。

三人は木々の間を掻い潜って、地上に降り立った。いとは腰が抜けてしまったようで不安げな表情で座り込んでいた。

「高いところが怖かったか。」

乙也がいとの正面にしゃがんで言葉をかけると、少女は無言で頷いた。

甲亜は四方八方を見渡して、家族の影を探していた。

「…気配はあるか?」

「獣の匂いはする。面識があるかはわからないけど。」

もしその獣がこちらに反逆してきたらどうしようか。乙也は頭を捻る。自分は丸腰、いとは戦闘向きではない獣人と見える。甲亜は自分だけを優先すれば助かるだろうが彼女は恐らくそんなことはしない。乙也といとを置いてまで逃げようなどとはしない。

乙也はこれまでの甲亜と関わってきた上でそれほどの信頼関係は築いてきたつもりだった。

「獣がこちらに攻撃をしてきたらどうする。お前だってずっと飛べる体力は持ち合わせていないだろう。栄華の言った通り二日拘束されていたのならその間食事をとっていないことになる。まずは何か食えるものを…」

乙也がそう言いかけたとき、いとははっと思い出したような顔をして服のポケットの中に手を突っ込んだ。

「水岐さんにここへ連れてこられるときに、水岐さんの尊敬する方から内緒だよってもらったものがあります。腹持ちのいいお菓子だそうで。」

いとがポケットから取り出したのは生成りの巾着だった。中を開けると、ごろごろと大きめの焼き菓子が入っている。

それはジイロのスコーンだった。少し赤みの混じった生地はしっかりと重いものの膨らんでいて美味しそうだった。

「くれるのか。」

「はい、ちょうど六つありますから今一つずつ食べましょう。あとでもう一つずつ…」

少女が愛おしいものを見るような顔で、巾着の中を覗き込んだ。彼女はもう一つあとで食すことができると、それまで三人欠けることなく生きていると思っているのだ。

乙也は心臓が竦むように痛む思いがした。

「どうぞ。」

「悪いな。甲亜も食っておけ。」

「ああ。」

いとは座り込んだままスコーンを取り出して甲亜に手渡した。もう一回巾着に手を突っ込み、一つ取り出す。これは乙也に渡された。

「美味い。見た目の割に中がぎっしりしてるな。」

「ジイロの甘酸っぱさもちょうどいい。誰がくれたんだ?」

いとは二人を交互に見ながら、一生懸命口の中のスコーンを飲み込んでから喋り出した。

「長い髪のお兄さんです。確か、ツジモリとかいう…」

乙也の心の大河が、乱れた。

二つにも三つにも四つ五つにも分かれ、乙也の意思を惑わした。

十守とかいう、だと?

そんなことあり得るだろうか。先ほどいとは水岐が尊敬する方と言った。

しかし十守があちら側、と決まったわけではない。十守は軍に所属していた頃は水岐の上司として彼の面倒を見ていた。接点は大いにある。それからの交流があっても納得ができた。

しかし、連れられてくる時に内緒だよと言われて手渡されるだなんて水岐が何をしでかそうとしているのか知らなければやらないことではないだろうか。

「乙也、どうした。」

乙也はしゃがみ込んで、顔を伏せ両手で頭を抱えてしまった。そのまま小刻みに震えて動けないでいる。甲亜はそっと手を伸ばし、彼に触れると一瞬肩が跳ねた。

「どうした。」

甲亜はその時彼に問いかけながら、背後に大きな気配を感じた。

「う、後ろ…」

いとが甲亜の後ろを指す。ああやはりそうか。

甲亜は確信した。この匂いは狼の匂いだ。

甲亜は振り返った。そこには白い巨体が静かに立っていた。

「…フレデ!フレデだろう?」

甲亜は高まる気持ちを抑えきれずに駆け出した。フレデと呼ばれた一級ほどの狼は柔和な視線で彼女を包んだ。

「ああ、フレデ。私の大切な…」

甲亜はその狼に抱きついた。頬を白く長い毛に埋めて擦り寄って、笑いながら泣いていた。

乙也はそんな姿を見て、微笑むと共に体の毛がよだった。

甲亜が父として慕っていたゲリデよりも巨大な狼が、危険獣が目の前にいる。

もし、このフレデと呼ばれた狼が甲亜を攫ったら?甲亜のことも甲亜と認識できず反抗したら?そもそもこちらはそれに対して歯向かうことができない。戦えたとして勝てるのだろうか。

乙也は不安を瞳に宿しながらフレデという狼を観察した。右手が自然といとの前方を遮る。

いくら獣人とはいえ十やそこらの少女二人、守れなければ軍人としていや男として名が廃る。乙也は左手で固く拳を作った。

甲亜はフレデと意思の疎通を行っているようであった。彼女は小さな含み声で話していたため内容は乙也には聞き取れなかった。

一人と一体の姿を見つめていると、彼女が振り返った。

花が咲いたような満面の笑みを浮かべこちらに向かって

「助けてくれるって。」

と言った。声が嬉々として上ずっているのが乙也にもわかった。

「そうか。」

「他の仲間も連れてきてくれるって!」

乙也は返答に困ってしまった。仲間というのは以前甲亜が話していた獣たちのことだろう。

鷹や鷲に豹など手強い獣ばかりだったはずだ。果たして彼らは甲亜のことを覚えているだろうか。

その時、空気が揺れ動くのがわかった。コルの木はざわめき、金色の胞子が一層舞い上がった。

空から大きな翼がはためいているような風の音が聞こえる。

「ルフェルとフレスが飛んできた!ほら、あれを見ろ。」

甲亜は天を仰いで指先を高く突き上げた。

その先には二級の鷲と鷹が飛び回っていた。

「いつも喧嘩ばかりの二人なんだ。」

甲亜は目を細めてそう言った。乙也には眼球が潤んでいるようにも見てとれた。

果たしてそれは太陽の光が眩しいからなのか、久方ぶりに会う家族を目の前にして打ち震えているのかどちらなのだろう。

乙也にはその答えはわかっているはずだった。しかし心が頑なにそれを認めようとしない。

獣人らしく獰猛とした目を光らせていれば自らも弓矢を構え、人間らしく洗練された言葉を巧みに使えば切なさを感じる。

そしてまた、かつては森の住人だった者としての彼女を見れば複雑な心境に陥っている。

ふと水岐が口にしていた生きづらくなるという言葉が蘇る。

ああ、こういうことか。乙也はその感覚を噛み締めた。

人間と獣との狭間で、未だ出生もはっきりとせずどのような仕組みで獣人となり得ているのかがわからない存在。かつ知性と言語、そして高い身体能力を持っているのだ。

人間は味方につくことも敵に回ることもできる。

軍に戻ったら、街に帰ったら何が待ち受けているのだろうか。

鷲と鷹は螺旋を描くように舞い降りて、甲亜の目の前に立った。

「久しぶり。ずっと顔を見せられてなくてすまない。」

甲亜は愛おしいものを見る表情を彼らに向けてそう言った。逞しい手で鷲の頬を、鷹の胸を撫でた。

鷹がこちらを盗み見る。乙也は一瞬慄きながらも平静を保とうと努めた。いとは横でまた腰を抜かしている。

「お前、獣人のくせして獣がだめなのか。」

そう小声で訊くと目に涙をいっぱいに溜めて

「…怖いに決まっています!あんなおっきくて凶暴なの…」

乙也が宥めた後も変わらず泣いていた。

乙也は仕方ないので他にこちらへ向かってくる個体はいないか周りを見渡した。木と木を通り抜ける風が森の息遣いとなって、乙也の耳を撫でた。

くすぐったくなって、乙也が手の甲で耳を拭うと鷲のルフェルが振り向いてこちらを真っ直ぐと捉えた。

まるで獲物を見つけてしまったかのような、心の高ぶりが伝わる目つきだった。乙也は拳を構える。

それ以外にできることがないのが情けなくもあった。

「ルフェル、あいつは甲亜の仲間だから大丈夫。そんな風な目で見るな。」

甲亜は鷲の体によじ登り、頭にしがみつくと彼の目を両手で覆った。いやただ被せたと行った方がいいだろう。三級の眼球は甲亜の手に比べると見るからに巨大で、水晶のようだった。

甲亜が彼の目に両手を当てたおかげでルフェルの視線は幾分か柔らかいものになった。

「乙也も、その拳を下ろしてこっちに来てみろ。」

甲亜の言葉に曖昧に応答して右足を踏み出す。

歩み寄ったら近づいてしまう、当たり前のことが乙也には怖かった。

息を止めながら一歩、また一歩と距離を詰める。その度に獣たちの息遣いが荒くなる気がして恐れずにはいられなかった。

「そんなに怖がらなくて大丈夫だから。」

甲亜は少し乙也の方に近寄って、汚れている軍服の袖口を掴んで引っ張った。

「お、おい。」

乙也は内心冷や汗をかきながら獣の眼前に立った。乙也も背丈は高い方だが、三級の獣と比べてしまっては虫のようなものだった。いつ踏みつけにされてもおかしくはない。

いや獣と人間というのはこれまでそういう関係だったのだ。獣が人間を無自覚に傷つけるが故、人間らはがむしゃらに戦うしかない。

冷や汗は出るのに、口の中が渇ききってしまって上手く話せそうになかった。

「街の近くまで乗せてくれるそうだ。どうだ、頼まないか?」

「…の、乗せっ?」

やはり上手く舌が回らなかった。乙也は咳払いをしてもう一度訊き直す。

「乗せてくれるって。街に近づけば近づくほど他の者に見られる機会が多くなる。お前らは獣人だからともかく、獣伐軍分隊長の私が獣になんて乗っかっているところを誰かに見られればその噂は瞬く間に広がるだろう。それがどういうことかわかるか?国民からの軍への信頼が著しく損なわれることを意味するんだ。これまで軍が行ってきた功績を全て投げうって」

乙也の右頬に弾けるような衝撃が走る。

「馬鹿!」

甲亜は乙也を睨みつけていた。その視線は怒りを含んでいるはずなのに、どこか切なげな美しさがあった。

甲亜は乙也の頬を叩いた左手をぎゅっと握りしめて言った。

「こんな生きるか死ぬかの時に何を言ってるんだ。フレデがせっかくいい提案をしてくれたのに、その気持ちを無下にするなんて。乙也、お前は大馬鹿だ!」

初めて、甲亜の口から馬鹿という言葉を聞いた。乙也の脳内で他の者に言われた同じ言葉よりも最も強く響き、染み付く音だった。

「…ああ、すまない。こんな言葉を使って。」

甲亜はフレデとルフェル、フレスの体を撫でて頭を下げた。

乙也はその甲亜の動きに、一つの予想を巡らせた。

「まさかこの獣たち、お前の家族は言葉がわかるのか?」

そう問うと彼女はさも当然かのように軽く首を縦に振って

「そうだけど、どうした。」

と答えた。

乙也は動揺を隠せずにいた。いとを振り返ると、彼女もまた特段驚きもせず逆に何がどうしたのという顔をしていた。間抜けな面で棒立ちになっているのは乙也しかいなかった。

「いいから、乗らせてもらえ。街の、ある程度近くまで森を伝っていこう。」

甲亜は近くにいたフレデに飛び乗った。いとも怯えながらも鷲のルフェルに手を伸ばし、よじ登っていた。

乙也はフレスの方を見やって、ぎこちなく微笑んだ。言葉が通じるなら何か挨拶でもした方がいいだろうか、いやしかし獣相手にそのような仰々しい…

乙也はいくつかの考えを浮かばせながらもフレスの体に腕を伸ばした。

フレスは乙也が登りやすいように右肩を下に傾けてくれた。

「あ、ありがとう。」

色々と考えて、口にできたのはその言葉だけだった。

「乙也、いと。しっかり掴めているか。」

「問題ない。」

「た、多分大丈夫です。」

甲亜は真っ直ぐとした眼差しで二人の顔を見て頷いた。それから自分の乗っているフレデの瞳を覗き込んで言葉のない会話を交わした。

「さて行こうか。二人とも振り落とされるなよ!」

その時の彼女の掛け声は乙也が聞いたどのそれよりも、明るく快活で甲亜らしかった。


「乙也壱隊長が拉致されて今日で三日目か…」

深は重いため息を吐く。隣に座った行もまた浮かない表情で、豆のスープを匙でかき混ぜていた。

真昼の食堂、何人もの軍人が食事をしていると言うのにその空間には沈黙が広がっていた。喋られない、そんな状況にはなれないと言ったような淀んだ空気だった。

乙也と甲亜が攫われた今、獣伐陸軍壱の戦力は衰えつつあった。

臨時の長は陸軍弐隊長の椿が務め、やりきれない業務は伴俐が行っていた。

ジンは水岐の企てた甲亜拉致に無自覚ながらも協力したことで椿から謹慎処分を受け、寮以外に出れずにいたが今日でそれが丁度定められた期間を満了したので食堂に訪れ、行の向かいに座っていた。

「水岐参隊長は、一体なんのためにこんなことを…」

ジンが茶の入ったカップを両手で包み込み、不安げな表情でそう漏らした。

「そりゃあやはり政治だろう。国の制度を変えたいんだよあの人は。」

テーブルに軽く腰をかけていた伴俐は姿勢を直してから、面倒だと言わんばかりの表情で言葉を吐き捨てた。彼は眉間を摘みながら嘆くように言った。

「水岐さんは自分のやっていることは全て正しいことだと誤認している。人間、全ての行為を正当化することなどできやしないのに。後ろ盾がいるはずだ。だからあんなに自分の中にある正しいことを信じていられる。」

行は頷きながらスプーンで掬ったスープを飲み込んだ。

中途半端に砕けた豆が舌の上にざらざらと残る。そばにあったグラスに瓶から水を注いでそれで流してしまう。

「後ろ盾って、埜環空軍弍隊長みたいに軍内部にいるってことでしょうか?」

深は伴俐に問いかける。

伴俐とジンがほぼ同時に首を捻って、途中で目が合う。

「いや、どうだろうな。」

「そうとは限らない…かもしれないですね。」

「ああ。」

伴俐はテーブルに置いていた自分のカップを持って窓辺に歩み寄った。

眺めるだけのつもりだったが、ふと遠く森が気になって覗き込んだ。

「狼煙だ…」

北の方向だった。薄く見えるだけだが、あれは確かに狼煙である。伴俐は唾を飲み込んで周りの軍人に吠える。

「見ろ!狼煙だ。」

行が最初に立ち上がり、その後に深とジンが続いた。伴俐の頭の横から窓の外を覗く。

「遠くてよく見えないけど確かにそうですね。まだベルも鳴ってない。今さっきのことなんだ。」

深が独り言のように呟く。

「北部基地の軍人たちは何をしているのかしら。」

「…もしかしてまた奇襲でしょうか。」

ジンの言葉にハッとして行がそう口走る。伴俐は神妙な面立ちで唸ると

「まずは牡丹弍隊長に報告して、向かってみようか。」

とそこにいた陸軍人たちに告げた。


「フレデがいて助かったな。おかげで上手く燃えて綺麗に狼煙が上がっている。」

「ほら、乗せてもらうことにして正解だろう?」

乙也が空に登った煙を振り返って見ると、甲亜は得意そうな顔をしてそう言った。

地上を走るフレデの背中に揺られている甲亜は空を飛んでいるルフェルとフレスに跨る二人を見上げた。

「で、でも高いとこ怖いです…」

いとは涙の混じった声で嘆いた。

ルフェルの首周りの羽をひしと掴んで、頭を擦り寄らせる。いとは段々獣たちに打ち解けているらしかった。

乙也は一向に慣れない。広い背中に跨っても、温もりのある羽の下に手のひらを入れてみてもただヘクトの乗り心地と手綱の感触が蘇って虚しさが込み上げてくるだけであった。

「流石に街まで乗せられるわけにはいかない。どこかで下りて、そこからは徒歩で向かいたいものだが…甲亜、お前走れるか。」

乙也は自分と彼女の間を隔てる風に遮られぬよう、声を張ってそう聞いた。

乙也はいとの体力がどれだけのものか、想像ができないでいた。華奢な体躯からして、そこまであるとは思えないが獣人であるため拘束されていた乙也よりも動ける可能性も十分ある。

そうであれば甲亜といとを走らせ、自分はどちらかに担いでもらって…などと考え始めてしまった乙也は頭を小刻みに横に振って思考を払い除けた。

「問題ない。いと、お前はどうだ。」

「す、少しの間なら…走れると思います。」

乙也は頷きながら前方を見渡した。

木々が少しずつ低く少なくなってきて、芝に覆われた地面が広がっているのが見える。街の姿はまだ完全に見えてはいないが、人が住んでいそうな家屋は何軒かあった。甲亜といとに獣の耳を隠させてここで降りていけば住民たちが助けてくれるやもしれない。

「それか、今ここで降りてしまおうか。一度森へ入って、フレデたちは身を隠せばいい。二人はその耳と尾をしまえ。」

「今ここで?」

「ああ、あそこに家屋が見えるだろう。あれは典型的な一般国民のための造りをした家屋だ。手入れもしてあるから人も住んでいるのだろう。流石に馬車はないだろうが、小さな馬房がそばにある。馬を貸してもらえるかもしれない。」

乙也は一通り喋ると、フレスの耳元で林の方で一旦下ろしてくれないかと囁いた。フレスは理解できたようで、軌道を変えて螺旋を描きながら下降した。フレスに続いてルフェルも降り、フレデも木々の陰に身を隠した。

「少し待っていてくれ。」

甲亜は腰を落としたフレデに声をかけた。

乙也は甲亜といとを先導し、家屋に近づいていった。

「耳と尾、隠したか。」

乙也がそう言うと、二人は獣の耳の代わりに人間の耳が生えた頭を縦に振った。

柔らかい土を踏んで前に進む。芝生は短く刈られ、庭にはたくさんの花木が植えられていた。

「突然すまない。獣伐軍の者だが。」

乙也は扉を見つけるとそれを三度ノックし、声を投げかけた。

「誰かいるか?」

もう一度声を張ってそう言うと、中から足音に重なって返事が聞こえてきた。

馬房の中を少し覗くと、二頭の馬が繋がれて黙々と草を食っているのが見えた。

「軍人さん!」

扉を開けて出てきたのは中年の女だった。

生成りのワンピースを着て、その上に薄汚れたエプロンをしている。料理でもしていたのか、両手は白い小麦粉にまみれていた。

「こんな辺鄙なところにどうされたんですか?…そちらのお嬢さんたちも軍人さん?」

「まあそんなところで…」

乙也は腕を伸ばして、甲亜といとの前を遮った。もし獣人であることを悟られたり勘付かれたりでもしたら全てが上手くいかなくなる。

「見回り中に馬が逃げてしまいまして、寮に帰れないんです。よかったら馬を貸してもらえませんか。必ずお返しに参ります。」

乙也がそう言った時、女の後ろから一人の男¬—おそらく夫だろう—が顔を出した。

乙也は頭を軽く下げて挨拶をする。

「突然申し訳ない。」

「馬がいなくなってしまって、帰れないんですって。」

「それは大変だな。」

男は同情してくれたのか頷きながら外に出てきて、馬房の戸を開けた。

「二頭で足りますか?」

「ええ、十分です。」

男は鞍や腹帯などを棚から取り出すとそれを馬に装着させながら話をした。

「そちらのお嬢さん、白い頭が綺麗ですなあ。」

甲亜のことだ。乙也はぎこちなく笑ってから話を逸らそうとした。

「いい馬ですね、毛並みが実に美しくて」

「そういえば、こんな話聞いたわ。」

背後で女が粉のついた手をエプロンで拭いながら乙也の言葉を遮った。突然であったのと、振り向いたらすぐそこに立っていたので乙也の心臓を高鳴らせるのには十分だった。

「白髪に、水色と緑の混じったような瞳の娘さんは病を治してくれるこの世の道標だって。」

男の視線もこちらを、いや甲亜を捉えた。

女も甲亜の姿を舐め回すようにじっとりと見た。乙也は無意識のうちに右手を握りしめる。

「ああ、確かそうだった。」

水岐だ。水岐が甲亜の話を伝染させたのだ。―甲亜、あなたこれから生きづらくなりますよ…

彼の言葉が蘇る。中年夫婦のただならぬ視線を感じ、乙也は甲亜の肩を咄嗟に掴み馬の綱を無理やり引いて男を蹴った。

「何てことするのよ!」

女が乙也の服にしがみついて吠える。今さっき扉を開けた時の形相とはまるで別の、他の生物のようだった。赤い歯茎を剥き出しにして

「その小娘をよこしなさいよ!あの人は森の霧を吸い込んで今肺を腐らせかけてんのよ!血を!そいつの血をよこして!」

「放せ!甲亜、いとも馬に跨がれ!」

甲亜は乙也に蹴られ、倒れた男の姿を苦しい顔で見つめながら馬を繋いでいた縄を解き、馬房の外へ出ていとの腕を引っ張った。

「乗り方くらいわかるだろ。」

そう言いながら甲亜は黒い方の馬に跨る。

いとは茶色い毛の馬に必死になって乗った。

「う、うん。」

乙也は女の腕を引き剥がして振り落とし、甲亜の乗った馬に自らも跨ると甲亜を包むようにして綱を握った。

「いとは先に行け。甲亜、これを着ろ。」

いとは不安げな表情で一度だけ頷き、南の方に向かって馬を走らせて行った。

乙也は汚れたジャケットを脱いで、軽く払うと甲亜の頭に被せて顔が見えないようにした。

「行くぞ。」

「待って!」

甲亜はジャケットを被ったまま馬から飛び降りて横たわっている男に歩み寄った。

「おい、」

「すぐだから待ってくれ。」

男は小さな声で呻いていた。甲亜は自分の左手の親指の皮膚を噛むと滲んだ血液を溜めて、その男の口に入れ込んだ。

終わると本当にすぐ駆け戻ってきて、元のところに跨り乙也に目配せをした。行っていいということらしい。

乙也は馬の肩を叩いて、前の方で走っているいとを追わせた。

「血を飲ませたのか。」

そう訊くと甲亜は真っ直ぐと前を見据えて、呟いた。

「役に立つかわからないけれど。」

その時の彼女の顔は、何かを覚悟しているようにも見られた。


「あれは馬でしょうか。」

行が眉間に皺を寄せ、前を見やる。

「だな。二頭走っているようだが…乗っているのは…」

伴俐は一瞬自分の目を疑った。しかし何度目を擦ってみても、見えるのは同じものだった。

耳上で切り揃えられた前髪。しっかりとした体格。それに守られている白い頭。

伴俐は口を縦に大きく開けた。伴俐の馬が立ち止まるので、後ろにいた行とジン、深も前進を止めた。

「どうされました?」

ジンが伴俐の顔を覗き込む。

伴俐はもう一度、自分の目元を手の甲で拭ってから口を開く。

「乙也壱隊長だ。甲亜もいる!」

「え?」

「二人が自力で帰ってきたってことですか?」

「まさか…じゃああの狼煙はやはり助けを求めるものだったんですね。」

伴俐たちは慌てて馬を走らせ、前から向かってくる影に近寄った。

「乙也壱隊長!」

「乙也さん!」

「ねえ甲亜でしょう?」

皆口々に言う。


乙也は重い腕を上げて、仲間の声に応えた。

馬に乗り一時間ほど走り続けた時だった。人を乗せた四頭の馬が遠くから駆けてくるのが見えた。

その時の乙也にはもはや声を上げて、こちらだと呼びかける気力は全くなかった。

それは甲亜やいとも同じだったようで、いとに関してはほぼ眠りながら馬に揺られていた。

本当は走れやしないのに、さっきはハッタリを言ったのだと思うと僅かではあるが顔を綻ばせることができた。

「乙也壱隊長!よかった、会えて…」

「お怪我はしていませんか。」

「そ、その少女は誰です?」

「そんなに一気に訊くなよ、頭に響く。」

乙也は半笑いしながら抱きつく部下をあやして、甲亜の体を伴俐に引き渡した。

意識はあるものの、獣人や水岐とやり合ったのが仇になったのか随分と疲れた様子になっていた。

乙也は茶色い馬の方に近寄り、いとに声をかけた。

「私の仲間だ。こちらから伴俐、行、ジン、深。素性は明かしても大丈夫だ、とって食ったりなどしないから。」

そう言うといと心配げな顔をしながらも頷いて、伴俐たちの方を向いて頭を下げた。

「こんにちは。兎の後天性獣人です。いとと言います。」

いとの頭から、灰色の兎の耳が伸びて下に垂れる。

軍人らは一瞬の動揺を見せたものの、彼女には凶暴性がないことを即座に理解して手を差し伸べた。最初は伴俐だった。傷だらけの手をいとは笑顔で握った。

「この獣人は監視という形で保護ですか。」

「まあ、そうなる。」

まるで一年も二年も、会えていなかったような気さえする。ジンの声がじわりと心に染み渡っていった。

「乙也さんに色々お聞きしたことがあります。水岐参隊長のことや、最近街で出回っている噂のこと…」

乙也は伴俐の言葉に頷いた。

「私からも伝えなければならないことが山ほどある。」

「しかししばらくは部屋でお休みになってください。お身体が心配です。長く森の方にいらっしゃったのなら、有害な霧も吸い込んでいるでしょうし…」

乙也は馬の手綱を握り直し、その言葉には首を振った。

一馬身前に行って、皆を振り返る。

「私は街に帰ったらまず行かなければならないところがあるんだ。」

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