第二章 水源

「シュユ。」

部屋の暗がりから踏み出される右足。シュユは響く男の声に肩を震わせて、瞬きを繰り返した。

自分の名前を呼んだ声におずおずと返事をする。

「…はい。」

「百獣の少女を、取ってこれなかったな?」

声を放つのは水岐であった。

「お前は自分を買い被りすぎだ。自分は能力が高いんだと思っているだろう?違うぞ。お前は一番最初に製造された獣人だから、少し可愛がってやっているだけだ。」

「はい、すみま」

「申し訳ございません、でしょう?」

水岐の手がシュユの白い頬を強く打つ。叩かれた箇所はみるみると痛々しい赤みを帯びていった。シュユは顔を歪ませて、呻くような声で呟く。

「…申し訳ございません。」

「嫌な青い目だ。暗闇でも光って目立つから戦闘に適さない。」

水岐は跪いたシュユをじらじらと眺めながら目の前の一人がけのソファに深く腰をかける。

「お茶でもお淹れしましょうか。」

「ああ、頼む。栄華。」

水岐に近寄り、声をかけたのは栄華であった。軍服を脱いで白い寝巻きに身を包んでいる。

名前を呼ばれた彼女は水岐の瞳の奥を見つめて

「どうされましたか?」

と返した。水岐は無言で指先を彼女の輪郭に這わせてそれをぐっと寄せた。

水岐の色の薄い唇と栄華の花びらのように瑞々しい唇が音も立てずに密着した。

「お前が好きな茶葉で淹れたらいい。」

手と口を離すと、水岐は火照る栄華にそう言い聞かせた。栄華は恥ずかしそうにぎこちなく微笑むと扉を開けて部屋から出ていった。

「何としても甲亜を処刑させる訳にはいかない。新しい爆薬はいい調子だったな。お前より確実に役に立つ。」

水岐は脚を組んでシュユの顔を厨芥でも見るような顔で眺めた。ぬっと手を伸ばしてシュユの首輪を引っ張る。

「い、痛い。」

「うるさい。…これはお前の父親からの贈り物なんだろう?父親に気に入られたいんだろう?なら百獣を取ってこい。」

「…はい。」

毒矢を放たれたって、自分以上の能力を持つ獣人と対峙したって恐れなど感じない。シュユはただ、今目の前にいる自分の主に打たれることと最愛の父親に嫌われることだけが恐ろしかった。

手指が震える。春の冷たい夜の空気が、シュユのことを月影と一緒に嗤った。


眩しい光が窓から差して、空中に舞う埃を煌びやかにさせている。窓の扉は半分ほど開いて、カーテンを膨らませたり外に持っていかれたりしていた。爽やかな空気が甲亜を目覚めさせる。薄い瞼が隠していた灰色の瞳を露わにした。長いまつ毛が微かに震えている。深い森の緑と、空の青さが滲んだようなその灰色は石のように透き通っていた。髪の毛が音も立てず頬を流れた。

甲亜は天井から窓へと視線を動かして、しばらくの間ずっとカーテンが動くのを見ていた。起き上がりもせず、寝返りを打つこともなく太陽の放つ光に陶然としたようにただ眺めていた。

口を開いて、その光が溶け込んだ空気を吸い込む。肺の内側が温もりでいっぱいになる感覚がした。甲亜は呼吸を繰り返して、父親に思いを馳せた。濃い灰色の毛並み、美しい眼、光る鋭い爪、あの温かい大きな体。

ゲリデ…大好きなゲリデ。もうここには居ない。相棒だったフレデは、今はどこの森に棲んでいるだろうか。何を食って生きているだろうか。ロクに礼が言いたかった。言葉を教えてくれてありがとう。昨日は特別に街の方まで下りて、人間の子供たちと獣人だということを隠して遊んだ。言葉がなかったら会話ができなかった。子供たちと川の魚を釣って食うのは楽しかった。柔らかい芝の上をみんなで走り回るのはあんなに幸せなんだ。鷹のルフェルと鷲のフレスが飛んで速さを競い合っていたのは、勝ちたかったからじゃない。それがそれ以上にない幸福だったから。帰り道に乙也が甲亜をヘクトに乗せて、歌を教えてくれた。ディアノは知らないだろうなあ。羊飼いの歌だ。乙也は色々なことを話してくれた。両親のこと、軍に入った頃のこと、ヘクトのこと、飯のこと、獣のこと、弓矢の操り方、本当は自分はどうしたいのか。

「本当は、私だって殺してばっかりでは嫌だって最近やっとそれを思い出したんだ。」

甲亜はそれを意外だと思いながらも言わずにただ聞いた。そこには普段の通りガイも伴俐も行もジンも居た。

基地に帰るとジンはいつもと変わらず甲亜の部屋に来て、話をした。ジンには兄が居た。その話を遅くまで飽きずにずっと喋っていた。兄は強くて優しくてジンを喜ばせるのが好きで色々なことをしてくれたそうだ。

しかしそれでよく無茶をして、父親に叱られたんだと困ったように笑っていた。

「兄のことが、好きなんだな。」

そう甲亜が言ったらジンを涙を溜め、一度だけ頷いて

「青い目が綺麗なの。私のためにどこかで今も苦しんでる。いつか見つけて一緒に暮らすのが夢なの。」

と呟いた。

寝る前になると、ガイがベッドに座って自分の娘の話をした。いつか会いたいという思いを叶えるために街で店を出したんだそうだ。娘は歌うのが好きだから酒場に小さなステージでも設ければいつかひょっこり顔を見せに来るんじゃないか、父さんここで歌いたいと言いに来るんじゃないか。そんな風に考えたんだと自分を笑うように言っていた。

「今あそこで歌っているのは娘じゃないが重ねちまう。情が湧いてずっと面倒を見てやりたくなる。お前もやっぱり、俺の娘に似ている。」

そう目を細めて、甲亜の頭を大きな手で撫で回した。

まだその温かさが髪の毛に残っている気さえする。

甲亜は心の中での長い静かな独白に終止符を打って、おもむろに起き上がった。

今日は、処刑の日だ。


熊種の森への誘導に成功したあの日、陸軍壱の全ての軍人は豪華な食事を口にした。

戦闘をせずに獣の戦意を奪い、鎮める。

過去にもこういった事例が数少なくはあるが存在した。その時森へ帰って行った危険獣は街へは下りてこない。幾度も砲弾や弓矢やガス弾を使うよりも、粘り強く森へ帰す方が血を流さずに済む。しかしこれまでの獣を誘導する役目を担った軍人は、肝が据わっていなかったり誘導中に他の獣に殺されてしまったりする者が多く、なかなか適任が見つからずにいた。森へ誘導して戦意が失われるなど偶然だと言う者も軍の中に多くいた。

けれど甲亜がその適任で、それも偶然などではなく確実に戦意を喪失させることができたのだ。甲亜は獣人でありながらも言語と知性と獣との交渉力を持つ重要な人物になりつつあった。

食堂のテーブルの端から端まで、料理で埋め尽くされた。数え切れないほどの皿をつつき、酒の瓶をいくつも開けて、軍歌を歌いながら騒いだ。甲亜は何人もの軍人に珍しそうに見られながらもまあ、よくやったんじゃないかと背中を叩かれた。何度も叩かれた背中が痒かった。心の表面も何だかむず痒くって甲亜は顔が赤くなるのを感じた。

父を殺めた集団、いやしかし実態は血の通った生命の集合体に過ぎないのだった。

甲亜はそれからより自由が効くようになり、ヴィズスの首輪を常時つけていれば研究班が所有する庭にも好きな時に出ていいという許可が出された。

甲亜は庭に時々やってくるリスや野うさぎと戯れたりそこでジンと食事を取ったりした。一度水岐が顔を出して、甲亜の隣に座って文字の読み方を教えた。ジャックという詩人の、分厚い詩集を甲亜に貸すと言って渡すとすぐに研究室へ戻ってしまった。

幾度か討伐にもついていき、危険獣の森への誘導を成功させた。着実に軍内部では甲亜の存在が重要なものになってきていた。

しかしやはり、甲亜の気持ちは変わらない。

ゲリデの、父の所へ行きたい。行くのだという意志は曲げることはできなかった。

甲亜は部屋の中で静かに呼吸を繰り返す。

今日の朝の食事はない。

あと一時間したら、甲亜は乙也に殺される。乙也は弓矢が得意だから、脳天を矢で射抜かれるのかもしれない。甲亜はそんな予想をした。

「甲亜、そろそろ移動する時間だ。」

ガイは部屋の扉を開けて、そう告げた。

「わかった。」

討伐の際にいつも着ていた軍支給の衣服を身にまとい、靴の紐をきつく締めた。深く息を吸って、勢いよく立ち上がると部屋を出て先導するガイについていった。

ガイの背中はいつも広い。服の上からでもその逞しさがわかる形は甲亜の心を自然と満たす。甲亜はその肩の縁を視線の先でなぞりながら、口を開いた。

「今日は晴れていて、気持ちがいいな。」

彼の肩がひくりと震える。しかし返ってくる言葉はなかった。甲亜は構わず続ける。

「乙也が教えてくれた歌、あれかなり頭の中に残るな。ずっと離れないで今もここにいる。」

右手で自分の頭を撫でてみると、髪の毛が指に絡まって温もりが伝った。廊下には二人の足音がただ響くだけでガイの返事はない。甲亜は彼の規則正しい呼吸の音に耳を澄ませた。

甲亜は自分もそのテンポに呼吸を合わせてみた。踏み出す足も揃えてみた。ガイの息の吸い方を模して、歩き方を真似して、同じように動いてみると彼の見ている世界を自分も感じられた気がして気持ちが良かった。

「ガイ。」

名前を呼んでも、彼は歩みを止めない。窓からの光が二人の間を埋める。甲亜は立ち止まってもう一度彼を呼んだ。

「ガイ。」

「なぜそうやって普段通りでいられる。」

ガイは振り返って苦しげな表情を見せた。握った拳は微かに震えている。甲亜は黙って続きを聞いた。

「今日、お前死ぬんだぞ?天気の話なんて今しなくたって、」

「望んだことだ。甲亜が、親離れできてないからゲリデのとこに行きたいって思っただけだ。」

「そんなの、お前の父親が許してくれるはずがない。」

「わかっている。ゲリデに会えたら叱られるつもりでいる。」

「わかってない!」

ガイは激しく首を振って怒鳴った。皮膚がぴりっと波打つような怒号だった。彼の顔をそっと覗き込むと目元が少し濡れているのが見えた。甲亜は驚いてのけぞるとガイは

「何だよ。」

と苛立った声で反応した。

「…ガイも泣くのか、と思って。」

彼女の呟きは日差しに吸収されて消えていってしまった。甲亜は足を止めたガイを追い抜くと振り返って催促をした。

「早く連れてってくれ。」

そう言うとガイは眉根を寄せて、古傷が痛むような顔をしてから微かに頷いた。

歩き出した彼の背中はやはりいつものように大きくて、広かった。


連れて行かれたのは地下室だった。石で作られた壁は甲亜から熱を奪い取る。甲亜は指先が冷たくなっていくのを感じた。

階段を下ると一層温もりのない空気が甲亜の体の表面にまとわりついた。ぞぞぞっと腕の皮膚が粟立つ。甲亜はそれを摩りながらガイが歩いた所を踏んで進む。

その先には見覚えのある顔の軍人たちがばらばらに立っていた。皆甲亜の姿を凝視している。

甲亜はその中にジンの姿を見つけた。彼女は目が合うと素早く逸らして、視線が混じり合うのを拒んだ。甲亜は胸の内側に痺れるような痛みを感じながら、ガイの指示を聞いた。

「この扉の先に、乙也が居る。」

甲亜は今にも崩れてしまいそうな腐りかけの木造の扉のノブにそっと手を伸ばした。折れないようにゆっくり捻って押すと、ガイの言った通りそこには乙也が居た。

剣のブレイド部分をしっとりとした布で包み込んで、丁寧に磨いていた。彼の視線はまっすぐとその動作を捉えていた。傾いた顔に黒い髪の毛がさらりと落ちてくる。甲亜はしばらく何も言わずそれを眺めていた。

ああ、なるほど。腹切りか首を刎ねるかの二択なのだろうな、と考え死に直面しながら。

「よく来た。そこへ座れ。」

乙也は寂しそうに置かれた木の椅子を指差してそう言った。甲亜がそれに腰をかけると、乙也ももう一つの椅子に座った。二人は向かい合って、お互いがお互いの姿を見つめた。

「やっと、ゲリデの所へ逝ける。」

「…本当は、お前を生かしておきたい。」

「いいから。」

「危険獣との戦闘においてお前の存在が重要だという声も、軍の中で多く上がっている。」

ため息が混じった甲亜の言葉を否定するように乙也は語気を強めて言った。

乙也の甲亜を捉える視線は、いつも彼が放つ矢のように強く真っ直ぐとしていた。

甲亜はそれを緩く被りを振って弾いた。口の両端をきゅっと結び、腕を伸ばして剣を持つ乙也の手を撫でた。

「おい。」

乙也は胸に針が刺さったような表情で、ひくりとその手を震わせた。甲亜は構わずそれを握ると自分の方へ寄せて剣の切先を顔に近づけた。

「やめろ。」

「いいから早く。」

「俺だってお前にはもっと、」

その瞬間乙也の切なげな声を吹き飛ばすような轟音が地下室を襲った。音は余韻と振動を残して軍人たちを混乱に陥れた。複数の同様する声が重なり合って渦のように彼ら彼女らをいじめる。

「何だ今のは。もしや爆発か。」

乙也は瞬時に立ち上がり部屋の外に立ち並ぶ軍人たちに問うた。地下室全体が未だ微かに揺れている。

熊種の誘導に成功したあの日、一つ不可解であったのは途中起きた爆発だった。山犬の獣人が逃走の際軍人らを撹乱させるために用いたものだろうと推測されたがそれにしては威力が高すぎた。森の一部が削り取られてしまうほどの被害で、東南部の村は今も復旧作業を続けている。軍で捜査がなされたが依然として細かい情報はわかっていない。

あの日の爆音に似ている。乙也は確信した。腹の底がぶるぶると震えるような感覚がする。

「出口が崩れるとまずい。」

乙也は部屋の外に居たジンの腕を引っ張って甲亜の見張りをさせると、地下室の出入り口に向かって駆け出した。

狼狽して喚く軍人を掻き分けて階段を登り、扉のノブを捻るが手応えがしない。乙也はため息をついてから階段を下って軍人らに指示をした。

「どうにかして突き破る。皆、手を貸せ。」

「裏口を使えばいいのではないでしょうか。」

伴俐の提案に乙也は首を振った。

「あの通路はあまりにも長い割に整備が整っていない。爆発の影響で崩れたら今度こそ確実に閉じ込められる。」

甲亜は椅子から腰を浮かせて軍人たちの会話を聞こうとした。その時手首をひしと掴まれてよろめいた。

「な、何だよ。」

甲亜の手首を掴んだのはジンであった。

「いいから、これ着てあっちの裏口から逃げて。」

ジンは自分の軍服のジャケットとズボンを脱いでそれを甲亜に押し付けた。下にはシャツを着て短いキュロットを履いていた。

「え?」

甲亜は彼女の言っていることが理解できなかった。頭の中で糸状のものが絡み合って渦を巻いていくような感覚がした。

「どういうことだ?」

説明を求めてみてもジンは黙って甲亜の腕を掴んで無理矢理ジャケットの袖に通させた。ジン以外の軍人は誰も甲亜のことを見ていない。

甲亜は困惑しながら今着ている服の上からズボンを履いてボタンを閉めた。

ジンとは背丈がほぼ変わらない。そのためぴったりと肌に張り付いて気持ちの悪いほどだった。甲亜はジンに二の腕を掴まれてその裏口とやらのドアの前に引き摺られた。

甲亜が入った部屋の左手に人一人分ほどの奥行きの窪みがありそこに扉はあった。

「もう爆発は起きない。ここはすごく脆いけど爆薬は反対側に仕込んであったから崩れはしない。大丈夫、安心して。」

彼女の目は血走っていた。自分の腕を掴む力が強くなっているのを感じながら甲亜は頷いて見せた。

「よし、行って。」

「ま、待て。これはどこに出るんだ。爆薬の場所を知っているならなんで乙也に言わない。今のジン、何か変だ。」

「いいから!」

ジンはまるで怒鳴るような調子で囁いた。ジンが扉を押すと、そこには狭く緩い登り階段が伸びていた。水とカビと苔の匂いが充満する冷たい場所だった。灯りがほとんどない。どこから漏れ出ているのか、石の階段に落ちる水音が妖しく響いている。

「これを持って、走って。」

ジンはキュロットのポケットからマッチと蝋燭と小さな燭台を取り出して甲亜の手に握らせた。

「行けばすぐにわかる。助けてくれるから。ね。」

彼女は甲亜を強引に扉の中へ入れ込んでふわりと微笑んだ。まるで花びらが風に吹かれていくみたいな、少し儚げな微笑だった。甲亜がそれに見惚れている隙にジンはドアを引いた。鍵をかける音が扉の向こうで聞こえて、甲亜は暗がりの中少しの間呆然としていた。

「ジン…なぜ。」

箱から一本マッチを取り出して頭薬の部分を側薬と擦り合わせると勢いよく火がついた。甲亜はマッチを右手に持ち、しゃがみ込んで左手に掴まされた燭台に蝋燭を刺してその芯に火を移した。

暗い階段に仄かな炎が灯る。甲亜は重い足を一歩、もう一歩と踏み出してジンが走ってと言っていたことを思い出した。

意味がわからない。崩れないとわかっているのに急がせる理由もわからない。

しかし甲亜は階段を登る足を速めた。湿った石の階段を靴で走ると滑りそうで怖かった。

甲亜は駆けながら、いつからこんな風になってしまったのかと自分を問い詰めた。

人間と関わって人間の服を着て人間の言うことに従っている。別に蝋燭に火なんてつけなくたって、獣の目を使えばある程度まで見えるのに今自分は燭台を片手に、それが消えないように心を配りながら走っている。

甲亜は自分が何なのかわからなくなってしまった。生まれ持っていくつもの獣の力を使うことができた。幼い頃自分は獣で生まれてくるつもりが人間の体を持ってしまっただけなのだと思っていた。

それが今、まるで人間のような格好で人間の作った階段を人間みたいに燭台なんて持って靴裏をこつこつ言わせて走っている。

ジンが行けばすぐにわかる、助けてくれると言った場所に向かってただ無心で駆けている。

ジンにここへ押し込まれて鍵をかけられてしまった時、熊の手を使えば扉を破壊することなど容易いものだったはずだ。けれど甲亜はそれをしなかった。頭の中の糸がさらに絡まっていく。

しばらく走って、甲亜は脚を止めた。ふと振り返っても淀んだ空間が伸びているだけで、誰もいない。水音と自らの呼吸以外、音は聞こえない。体の向きを戻して再び走り出す。

ああ、自分はどこへ向かっているのだろう。甲亜は脚を動かしながら漠然と考えた。

階段は滑らかな曲線を描いていた。どの方向がどの方位なのか、地下室に入った時は当然のようにわかっていたのに、今は自信がなくなってきていた。

もう甲亜は自分が獣なのか人間なのか獣人なのかわからなくなっていた。

大勢の人間の中に入り込みすぎた。彼ら彼女らの体温を感じすぎた。甲亜はこれまでを思い出し、後悔しながら走り続けた。吸い込んだ冷気が肺を痛めつけるのがわかる。

地上が近くなって来たのか、少しずつ明るくなってきたので甲亜は燭台の灯りに息を吹きかけて消した。

顔を上げるとガラスが埋め込まれた壁が見えた。その奥に扉があった。あそこが出口らしい。甲亜は脚の速度を落として最後はゆっくり登って行った。

耳を澄ませると、二つの息遣いが聞こえた。それが誰のものなのかまではわからない。甲亜は今更引き返すこともできず、ドアノブに手をかける。冷たい金属が彼女の手のひらに包まれて、傾けられる。押し開けるとそこは木々に囲まれた明るい場所だった。

「よお。」

今まで聞いたことのない少年のような軽快な声が甲亜に挨拶をした。

甲亜の真正面に立っている太い木に寄りかかって腕を組んでいる彼が、その声の主らしかった。暗い黄みを帯びた茶髪に濃い瑠璃色の瞳。髪と同じ色のした眉毛は吊り上がっていて活発そうな印象を受ける。砂色のシャツを着て濃い茶色のズボンを履き腰回りにはベルトやスカーフを巻いていた。ズボンの短めの裾からは鹿の足が覗いていた。当然毛がみっしりと生え、分厚い蹄が伸びている。靴は履いていなかった。

甲亜は警戒しながら静かに扉を閉めると彼に話しかけた。

「…誰だ。」

「自分から名乗ったらどうだ?」

甲亜は口の中の唾を飲み込んで彼の言葉に答えた。

「甲亜。お前は誰だ。」

「ラキ。鹿種の獣人だ。お前は百獣なんだってな?旦那に聞いてるよ。」

「誰なんだ、旦那とか主とか父親とか。」

「旦那はそこにいるよ。」

ラキと名乗った彼は甲亜の左側を顎で指した。

「私を顎で指すか。偉くなったな。」

温度のない声に戦慄せずにはいられなかった。

聞き覚えのある声だ。甲亜の隣で詩集を開いて文字を読み上げてくれた声だ。無愛想な調子で本を差し出してくれたあの男だ。

おもむろに振り返るとそこには水岐がいた。

「…なぜ。」

「簡単なことだ。お前の血液はイオフィピネルが混じっている。高値で売れるから商売に使える。そしてその銀髪は薬草と同じ成分が含まれていた。病気のマウスに毛髪を混ぜた液体を注射したらなんと、病原菌が殺されたのだ。お前はまだ生きていなければいけない。」

「待って、待ってくれ。そうだとしても甲亜はゲリデの元に逝くことを望んでいるし、わざわざ甲亜だけを逃すような真似を何でするんだ。」

甲亜の問いに、水岐は重いため息を吐いた。後頭部を右手で掻きながら少し離れたところにある切り株に腰をかけて脚を組んだ。

そこから甲亜の眼球の奥を見据えて、詩を朗読するのと似た声色で言った。

「獣人が死に方を選べるとでも思っているのか?」

甲亜は腑を抉られたような衝撃を感じながら口を開いた。

「どういうことだ…?」

二人の会話を遮るようにラキは駆け出して甲亜の背後に近づいた。甲亜は彼が振り翳した武器を躱しながらその腕を掴んだ。

しかしその瞬間、首裏に僅かな痛みが走った。振り向くと水岐の手が伸びているのが見える。

甲亜の首筋に注射器を突き刺し、蔑むような目で彼女を見据えていた。

甲亜は無意識の中に溶け込んでいく自分の精神を必死に引き戻そうとしたが上手くいかなかった。落ちていく瞼、強くなる痺れのような痛み。

甲亜が雪崩るように倒れてしまうと、それをラキが抱え上げた。ラキは瞼の閉じた彼女の顔を見つめながら歩き出した水岐の後ろをついていく。

「父さん、喜んでくれるかな。」

水岐は木に縛った馬の手綱を解くとラキの言葉を鼻で笑った。

「お前は足も隠せない出来損ないだから、どうだろうな。」

「…別に、俺は旦那に打たれても怒鳴られてもいいよ。父さんに喜んでほしいだけだから。」

ラキは甲亜の首に付けられたヴィズスの首輪を噛みちぎるとそれを林の陰った場所に放り捨てた。

水岐が跨った馬に、ラキは甲亜を乗せて自分も飛び乗った。三人は東南部の森へと消えていった。


「ジン。お前がこんなことをするとはな。」

乙也は椅子に縛り付けられたジンを壁に寄りかかって眺めた。

鉄格子を掻い潜って差し込んでくる陽の光に照らされている彼女の横顔は、細かい雨に打たれる小さな花のようだった。

「すみません。」

「誰からの指示だ?」

乙也がそう問うても彼女は俯くばかりで返事をしようとはしなかった。

「なぜ甲亜を逃した?今あいつはどこにいる。」

ヴィズスの首輪は裏の出口である南側の森林に捨てられていた。甲亜の捜索を指示された陸軍壱の若い軍人が先ほどそれを発見し、乙也の元に報告をしに来た。

首輪は無理やり引っ張ったように千切れていた。乙也が研究班に分析を頼むと唾液は獣人のものだということがわかった。

乙也は研究室に栄華と数名の軍人しかいないことを奇妙に思い、水岐がどこにいるのか栄華に尋ねたが

「部屋で休んでおいでです。」

と冷たくあしらわれてしまった。

爆薬が仕込まれていたのは資料室であった。地下室は資料室の出口の隣にある階段を下って入る。資料室が一部崩れて歪んだため、地下室の扉が開かなくなったのだ。

乙也は仲間と扉を壊す作業に励みながら、落ち着かない挙動のジンを見て声をかけた。その時ジンの服が先刻と変わっていること、甲亜が部屋にいないことに気づき地下室から脱出できた後彼女を尋問室に引き摺り込んだ。

捜査班、そして陸軍の軍人らは今甲亜の捜索をしている最中だ。しかし首輪以外の新しい情報は乙也の元に届いていなかった。

「何を考えている?甲亜に自分の軍服を着せたのだろう?それは軍の中でも村でも獣人ということを隠して行動しやすくするためだ。なぜそんなことをする。」

責め立てると、ジンは苦しい表情をした。

乙也が知っている幼気な泣き顔ではなく、どこか静かな哀情が垣間見えるような姿だった。乙也は皺の寄った眉間を指先で摘んでから、彼女の向かいの椅子に座り再び口を開いた。

「話してくれ。いずれ調べればわかる。」

乙也が右手を伸ばしてジンの短い髪に触れようとしても、彼女はそれを拒まなかった。

説明を促すように嫋やかな茶髪に指を通していると彼女はふと唇を動かした。呆けたように口を半開きにして、眼にいっぱいの涙を溜めている。ジンは縋り付くように乙也の腕を強く掴んで、嗚咽混じりに泣いた。乙也は自分の掌が濡れていくのを感じながらもう一方の手で彼女の背中を摩ってやった。

そうするとジンは吐き出すような勢いで話し始めた。

「私、私兄がいるんです。十歳の時に別れてそれっきりの兄がいるんです。一つ上だから今は十九歳になっているはずです。後もう一人の兄がいます。同い年ですけど。私の家族は最初その一つ上の兄と同い年の兄と父の三人でした。それから二人の妹と一人の弟が家族に加わりました。母親はいません。」

「少し待て、何の話だ。」

乙也は突然打ち明けられた家族の内情を上手く咀嚼できず口を挟むと彼女は即座に首を振って答えた。

「いいから、聞いていてください。私たちに母親はいません。大きな家でみんなで育ちました。でもある日、一つ上の兄が言ったんです。ここを出て、獣伐軍の基地に行きなさいって。そこに行けば孤児を引き取ってもらえる施設があるからと。兄が私に何をさせようとしているのかわからなかった。でも、兄の真剣な眼差しを見て首を縦に振ることしかできなかったんです。兄が描いてくれた地図を大切に持ってここに向かって歩き出したんです。途中、見回りをしていた軍人に見つかって保護されました。それから軍の施設で育てられて…十二歳になった年保護してくれた軍人に憧れて軍の訓練を受けることを決心しました。それに…」

ジンは言葉を区切って、深呼吸を挟んだ。鉄格子を見上げては一層表情を曇らせる。

「それに、街の喫茶店で店番をするより軍に入って馬に乗れるようになった方が兄を見つけることができるかもしれないと思いました。兄は人に探すのを頼めるような人じゃないんです。だって、」

ジンは乙也の目を真っ直ぐと見つめてはぐっと距離を詰めて言った。

「兄は獣人なんです。山犬の獣人。」

その言葉は乙也の中で、頭に木刀が直撃した時のような鈍痛に似た響き方をした。

目の前のジンの姿が上から垂れてきた黒い粘着質の液体に包まれていくように見えた。黒い粘着質のそれは鉄格子からの光にテラテラと照らされて乙也の目を眩ませるようだった。乙也は目元を手のひらで覆いながら肺の中の空気を吐き出すとジンに問うた。

「あの、シュユとかいう名前の個体か。」

ジンが確かに頷きを返すのを見て乙也の脳みそはぐらぐら揺れた。

「兄ということは、お前ももしや獣人なのか?」

「…兄さんほど能力は高くないですが。」

ジンはそう答えると乙也の目の前で身震いをして、髪と同じ色をした山犬の耳を見せた。

甲亜がするみたいに頭部からするすると伸ばした。

腰からは長い尾を生やしている。東南部で戦闘をしたあの山犬の獣人と同じ耳と尾の形だった。

「すみません。騙して。」

その時、ジンは懺悔するように頭を垂れて肩を震わせながら泣いた。山犬の耳が萎れていくのを見て、乙也は責めることができなかった。ジンへの情はとっくに移りきっている。今更彼女の純真な思いを非難するようなことはできない。

あの残忍な獣人はジンが愛する兄なのだ。

そしてまた乙也たちの敵、危険獣らは甲亜の家族なのだ。唸る声がどれだけ恐ろしかろうとそれがゲリデなら甲亜のたった一人の父なのだ。

乙也は山犬の獣人がどれだけ惨く、どれだけ狂暴な戦い方をしていたかを思い出した。

でもやはりそれを口に出して部下が愛するものを謗るようなことは、乙也にはできなかった。

「このことを知られてしまって、脅されました。甲亜を逃す手助けをしたら黙っていてやるからって。」

「誰に。」

ジンはその問いに一瞬躊躇うも、隠すのを諦めた様子で素直に答えた。

「水岐空軍参隊長、です。」

ジンが獣人だという事実を突きつけられて、感覚が麻痺してしまったのか驚くことができなかった。

乙也は研究室に水岐がいなかったことを思い出して、そういうことかと頷いた。恐らく甲亜を持ち出して逃亡しているのだ。

「その耳と尾はもういい、しまえ。他の者に見られでもしたら騒ぎになる。」

「…え、私のこれ、告発なさらないんですか。」

「お前への罰は、死ぬまで私に仕えることだ。もう他の者の言いなりになどなるんじゃない。」

自分の部隊からジンを失うのはかなりの痛手になる。軍の中で突出しているというわけでもないが、ジンの立ち回りにも冗談を言い合える砕けた関係にも乙也が助かっているのは本当のことだった。

「水岐参隊長のことは無論、己臣隊長と入相隊長に報告する。水岐参隊長が甲亜をどう使うつもりなのかは聞いているか。」

ジンは山犬の耳をしまった頭を振って

「いいえ、詳しいことは知りません。でもよくない風に使われるんだろうとは思っていました。」

と言った。

「だろうな。お前以外に水岐参隊長の言いなりになっているような者は居たか?」

「栄華空軍弍隊長でしょうか。他にはわかりません。」

ジンはいつものように真っ直ぐと背筋を伸ばして真剣な表情で乙也を見据えた。頬に伝った涙はもう乾いている。

乙也は返ってきた言葉に頷くと、彼女を縛っていた縄を素早く解いてやった。

「私、もう乙也壱隊長を裏切るような真似しません。一生あなたにお仕えします。」

手足が自由になった彼女は乙也の前に膝をつき、右手で左胸を押さえて頭を垂れた。

鉄格子から漏れた光が穏やかにそのジンの体を温めた。


「戻りました。百獣の少女の捕獲、無事に終了しました。」

水岐は暗闇の中水槽を眺めている背中に声をかける。水岐の目にはその体躯は病的なまでに細く、しかし美しいものに映っていた。

その美しい体を持つ者はゆっくりと水岐の方を振り返った。水槽の中にいるのは魚の獣人である。水岐はそれを一瞥してから口を開いた。

「甲亜には、どの部屋を与えましょうか。」

近づいてきたその者は喋る水岐を黙らせるように彼を優しく抱きしめた。水岐は相手の腕の温もりに戸惑いながら首を振る。

「よくないです。」

「いい子だ。よくやった。」

そよ風のように柔らかい声が水岐の耳元で響く。水岐は自分よりも低い背を持つその人の手に頭を撫でられて、どうしていいかわからなかった。

優しい体温が髪の毛に移っていくのを感じながら瞼を閉じ、そっと呟く。

「あなたが言うなら、そうなのかもしれないですね。」


乙也はジンに話を聞いた直後、彼女を連れて己臣の部屋を尋ねた。入相は己臣に呼ばれていたのかもうすでにそこに居た。

ジンが甲亜を逃した理由はなるべく事実に近しい、けれどもジンが獣人であることは隠すことのできるものを用意した。

乙也はジンから直接それ話させて、二人で頭を下げた。

「申し訳ございません、私の教育不足です。」

「私が全部悪いんです。水岐参隊長の言うことを突っぱねていたらこんなことには、」

「黙ってくれ。」

乙也とジンの謝罪を、己臣の温かみのない声が遮った。彼はため息をついて呆れたような目で二人を眺める。

「部下を痛めつける趣味はない。女に罰を与えたくもない。」

独白のように静かな声色だった。乙也はこのような己臣の声を聞くのは初めてであった。

乙也には彼に、鞭を振るう真似をしてこちらの反応を楽しむといった普段の余裕がないように見受けられた。

何かと葛藤しているような神妙な顔つきでただ重い息を吐いたり、二人に対して視線を向けたりしている。乙也は手に汗を握りながら彼が放つ言葉を待った。

「乙也はジンのことを気に入っているんだろう。今回は処刑などしない。けれど、次やったら終わりだ。いいね?」

己臣の顔には当然、笑みがない。乙也は口に溜まった唾液を飲み込んではいと返事をした。

「しかしそんなことを水岐が指図しただなんて、私は信じられないがね。」

入相も険しい顔つきで本音を漏らした。

「まず、水岐の部屋を調べる。乙也は栄華とその周りの軍人を見張っていなさい。決定的な場面で問い詰める。」

「はい。」

己臣の指示に乙也は頷いた。隣のジンが

「私は何をすればいいでしょう。」

と前のめりになる。

「栄華と埜環の視界に入るようなことは避けるべきだろう。」

彼の発言に乙也と入相は顔を顰めた。

「己臣隊長、埜環も水岐参隊長に協力していると言いたいんですか?そんなこと…」

乙也の心の大河が濁っていく。幼い頃から共に軍の訓練を受けてきた。彼のことなら何でも知っているつもりだった。埜環の好物は乙也と同じコラトルの菓子だった。肉をスープに入れて煮込んだ料理も好きだ。反対に穀物は好まないので主食が極端に取れておらずバランスがよくないと訓練期間中に教官から指摘されていた。どんなところでもぐっすりと眠れる粗野な性格だけれど、手のひらで目元を覆わないと寝つけない。髪の長い美人が好きだ。セレナに対しても鼻の下を伸ばしていた。以前埜環は緑の黒髪の美しく若い軍人に恋をしたことがあった。しかし一年もしないうちに工場に嫁いでいってしまった。その翌日の討伐では、やけになって動いたからか返り血が酷かったけれど一番の成果をあげることになった。

時には剣術の相手になり、時には一つの寝床を奪い合い、時にはお互いを励まし、時には意志をぶつけた。

乙也は彼のことを最も親交が深い戦友だと思っていた。その感情は今、己臣の言葉によって強い風に吹き飛ばされかけている。

「あの埜環が…」

「己臣お前、私の軍がそんなに信用ならないか?」

「可能性の話をしたまでだ。」

頭を抱える乙也の前で入相は声を荒げた。己臣の胸ぐらを掴みかかるような勢いだった。

「お前の監督不足が招いた結果だろう?」

「うるせえよ。」

入相は猛獣のように吠えると腰に刺した鞘から小刀を抜いて己臣の眼前に突きつけた。

瞬間、四人の間の空気は痺れるほど緊迫なものになった。

己臣は口を固く結び小刀の切先をしばらく凝視した後、入相の灰色がかった瞳の奥を睨んだ。

乙也は俯いた顔をなるべく動かさずに、前髪の隙間から二人の姿を見ていた。

ジンはその様子を見ることさえもできず震える手を握りながらただ黙って事態が収まるのを待っていた。

「人間同士ではあまり血を流したくない。」

「よく言う。」

入相はそう吐き捨てると小刀を鞘にしまい、勢いよく立ち上がると扉に向かって大股で歩いた。彼はドアノブを乱暴に掴むと振り返りざまに

「水岐の部屋でも栄華の挙動でも埜環の隠し事でも何でも好きに調べたらいい。」

と言い残して扉を強く閉めて行ってしまった。

己臣は両手を組み、その上に額を乗せてじっと下を見た。

乙也は体勢を直し、ジンは詰まっていた息を吐く。二人は表情の見えない己臣が今何を考えているのかがわからなかった。故に恐怖した。乙也は自分の口の中が異様に乾いて、何か声をかけようにもかけられない。奥歯をぎりぎりと噛んで自分への苛立ちを解消しようとしたが上手くいかない。

「…怒らせてしまった。あの目はもうだめだ。一生口を利いてもらえないかもしれない。」

己臣のか細い声が乙也とジンを困惑させた。

若干涙が混じっているようにも聞こえる。乙也が

「己臣隊長?」

と遠慮がちに呼んでみると彼は

「乙也、私はどうしたらいいだろう。」

と弱音を漏らした。乙也は開いた口がまるで塞がらなかった。陸軍の全てを統べる男が、こんな威厳さを欠如したような言葉を発するだなんて思っていなかった。

「入相はああなったらもうだめだ。あいつは人から信用されないことをとても嫌がる。俺はあいつの神経を逆撫でてしまった。」

背中を丸めて泣きべそをかく彼は、あまりにも無様だった。乙也は己臣が可哀想になってしまい、入相が座っていたソファに失礼しますと言って浅く腰をかけると彼に声をかけた。

「水岐参隊長が軍に反したことは事実ですし、栄華弍隊長がそれに協力しているであろうという推定も根拠のあるものです。…先ほどは私も取り乱しましたが確かに埜環が関係している可能性も考慮しなければなりません。だから、そんなに気を落とされずに、ね。」

「そうですよ…!入相空軍隊長も今頃、己臣隊長への対応を後悔なさっているかもしれませんし。」

ジンも声をかけた。二人でかけ続けた。

己臣はそれを聞いて段々と上体を起こし曇った顔を両手で叩いた。

「乙也、ジン。ありがとう。恥ずかしいところを見せて申し訳なかった。私は水岐の部屋を調べる。乙也は栄華に尋問をし、必要に応じジンは他の空軍を足止めしてくれ。」

「はい。」

「頑張ります!」

乙也とジンは普段通りに戻った己臣を見てそっと胸を撫で下ろす気持ちだった。

三人はそれぞれの目的地に急いだ。


入相は己臣の部屋を出て、自分の部屋に駆け込んだ。灯りも点けず奥の暗い寝室に入ると軍服を床に脱ぎ捨て、大きなベッドに倒れるように横たわった。うつ伏せになり布に包まれながら重い息を吐くと、それが染み渡っていくような心地がした。胸の中の漣が少しずつ収まっていく。

入相は乱れていた呼吸を整え、緩やかな時の流れに身を任せているうちに耐えがたい後悔の念に苛まれた。

「己臣はもう俺に本心を見せないだろうな。やはり俺に統率者なんて向いていないんだ、最初っから。」

入相の自責の言葉はシーツに落ちて、染みを作り浸透していく。

入相は危険獣の討伐数で這い上がってきた戦闘派の軍人だった。軍の幹部や官僚や政治家などを代々、世に送ってきた己臣の家とは違い、入相の両親は農家をやっていた。

その影響で入相は狩猟が得意だった。狐を弓矢で仕留めて家に持って帰るとその日は母親がそれを使って煮込み料理を作ってくれた。父親は入相をやりすぎるほど褒め倒した。

ある日猟の帰りに山で三級の鹿種と遭遇した。少年だった入相はとにかく矢を放ち続けた。しかしそれも尽きて木の上で息を潜めていると一本の毒矢が横切った。その毒矢は鹿種の右目を射抜き、動きを制した。

それを放ったのが己臣だったのだ。

入相は己臣と出会って、獣伐軍が如何なる組織なのかを知った。彼と共に危険獣の討伐の仕方を学び、訓練を重ねているうちに彼よりも戦闘の能力が上がっていた。

二人は親友同士だった。もう幾度も互いの生誕を祝い、寄り添い、歩みを共にしてきた。

入相はふと昔のことをふと思い出して、瞼をそっと閉じた。

彼はしばらくの間そのままの格好で眠りの浅瀬に浸かっていた。


「陸軍隊長を通さないつもりか。」

「水岐参隊長は部屋でお休みになられていますから。」

「己臣陸軍隊長でもお通しすることはできかねます。」

数人の軍人が水岐の部屋に立ち塞がり、己臣を囲んでいた。

彼らは皆同じようないかめしい顔つきをして並んでいる。己臣はため息を吐き、後頭部を指先で掻いた。

「立場をわかっているのか?」

「私たちは空軍です。あなたの部下ではない。」

数人いる中で一番背の高い、歳を重ねていそうな軍人が己臣に一歩近づき語気を強めて言った。

「入相が好きにしろと私に言ったんだよ。」

「そんな。」

「あり得ないですよ。」

「じゃかあしい!いいから通せ!」

己臣は我慢ならずに軍人たちの肩を掴んで掻き分けながら前に進んだ。己臣の体を一人の軍人が抱きついて止めようとするが上手く行かない。獲物を追いかける狼のように獰猛とした彼の歩みを阻める者はそこにいなかった。

己臣はいくつもの手に服を引っ張られながらドアノブを掴んで捻った。突っかかりがあり開かない。鍵がかかっているのだ。

腰からナイフを取り出すと刃の部分を下に持ち大きく振りかぶって、ノブの上部分に突き当てた。それを繰り返すたび、ノブとナイフが擦れるきんっという金属音が何度も耳の奥を刺してくる。己臣や他の軍人は鼓膜のあたりがじんじんと痛むのを感じた。

軍人たちは耳を塞ぎながら己臣の邪魔をしようと手を伸ばした。しかし指を跳ね飛ばされそうになり、引っ込めること以外できなかった。

己臣は眼光をまるで夏の太陽のようにぎらぎらとさせて、扉の突破に奮闘し続けた。

段々と扉に穴が開いていった。ノブが鈍い音を立てて床に転がる。しかしそれには見向きもせずに己臣はひたすらにナイフを刺し続けた。

軍人らはざわめくばかりで何をすることもできずに、ただ呆然としていた。

己臣は十分な大きさの穴が開くとナイフを鞘にしまって手袋をはめた手をその穴に通した。

内側の鍵を開け、ノブの取れた扉を足の裏で力一杯に蹴った。木が軋む音とドアが部屋の中に倒れる音が廊下に響く。

己臣は扉を踏みつけて部屋に入った。無論そこに水岐はいない。

「え、水岐参隊長がいない…?」

「お前、知らなかったのかよ。」

「知らないって何を。」

「栄華女史に聞いてないのか?」

「黙っていろ。」

己臣は口々に喋る軍人たちを咎めた。

机の上は整頓され、本棚にはジャックの詩集ばかりが並べられていた。反対に危険獣や獣人などの資料は少ない。

机の側にある窓は閉まっているが、鍵がかかっていなかった。

ここから逃亡して、外から長い棒状の物で閉めたのだろう。己臣は納得して一人で頷いた。

次に己臣は机の中を調べた。

一段目の引き出しには書類と印鑑と朱肉。何本かのペンにインク。至って特別なものは何もない。己臣は机の上のランプに火をつけて、それにインクや書類をかざしたり、ペンの中を見たりした。

しかし異物が入っていたり、文章が浮かんきたりなんていうこともなかった。

裏も手のひらでなぞってみたが、凹凸はなく異変も見られなかった。

二段目の引き出しには重要な手続きの書類やまだ印が押されていない書類が積み上げられて入っていた。己臣はそれを一度全部出して、机の上に広げて一枚一枚目を通した。

己臣が把握している情報もあれば、空軍内でのみ共有されているであろう事柄も含まれていた。もしや文章が暗号になっているのかと思い、いくつかのやり方で解読を試みたが文として成立はしなかった。

空になった二段目引き出しの裏も手で確認した。次に側面に指を這わせる。

その時、ごく小さな段差が己臣の小指に当たった。奥の右側面だった。まるで切り抜いたところに同じ形を嵌めているかのように、段差は円を描いている。

己臣はひくりと口角を上げた。

引き出しを取り出した。やはり、丸い形のした木が側面に嵌っていた。木目はずれていない。普通の人間が見て確認するのは難しいだろう。

己臣は周りの者より五感が優れていた。これは幼少期からの一種の能力のようなものだった。

己臣は円の縁を爪で引っ掻いてそれを取り出した。

そこには空洞があった。中を覗くと紙の筒のようなものが貼り付けてあるのが見えた。

「しめた。」

己臣は椅子にどっかりと座って引き出しを膝の上に乗せた。筒が底に落ちてしまわないように慎重につまみ出す。

それを広げると両手が覆われるほどの大きさになった。向こう側がうっすら見える、透けた紙だった。

青みのあるインクで地図が描かれていた。

道をなぞる矢印は東南部の森林を指している。己臣は紙を持っていない方の手で顎を撫で回して考えた。

「己臣陸軍隊長、もういいでしょう。」

背の高い軍人が己臣の前に立って刺々しく言った。生意気な態度は変わっていなかった。

「まあ、とりあえず今日はいい。扉は入相にでも言いつけて若い奴に直させなさい。」

己臣は椅子から立ち上がると引き出しを元の位置に戻して書類を入れ直した。

扉を踏んづけて部屋を出る。軍人たちの不平の声が聞こえてきたが大して気にならなかった。


「ここから先は絶対に行かせませんから!」

ジンは両腕を広げて目の前にいる三人の軍人の足を止めた。

「通せったら!」

「できません!」

一人の男の軍人がジンに掴みかかってそう吠えた。

茶髪を短く切って整え、緑の瞳を光らせる背の高い彼は彩星さいせいという名前の男だった。

空軍の中で最も肉体戦が強いと恐れられている。ジンの背は彩星と比べると彼の胸あたりまでしかない。ただ単に彩星が大きいだけなのだが、ジンは身長も戦闘の技術も年齢も彼に勝てないのが悔しかった。加えて、乙也に憧れてブーツの紐をきつく縛っていることを隠しているのも気に食わない。そして会うといつも

「この鼠ちゃんが。」

とからかわれる。今もそうだった。

「そんな風に私を呼んで楽しいんですか?乙也壱隊長に言いつけてやりますから。とにかくここは通らせません。」

なので、ジンは以前から彩星のことが嫌いだった。

「こんなに軽い体して何の遊びだ。」

彩星は軽々とジンを持ち上げて、笑いながら言った。ジンの足はぷらぷらと空中に浮いてしまっている。

「くすぐってやろうぜ。」

「こしょこしょこしょ…。」

「嫌ああっ!やめてったら!」

隣に居た志乃歩しのぶとロヴィンがジンの腕を引っ張って動けないようにし、胴体を指先でくすぐった。

志乃歩もロヴィンも彩星と同じ空軍の軍人である。志乃歩は水岐に贔屓されている人物の一人だった。ブロンドの髪を長く伸ばして、舌の先を切って蛇のようにし、耳の先を手術で変形させて尖らせている。いつも軍服を着崩して胸元を大きく開けていた。とても人間と思えないような姿をしている。

初めて会った者は皆、女だと思うが一瞬で男だとわかる。それは貧民街で培った粗暴な言葉選びで話すからであった。

彼は目が良く、遠く離れた山の間から鷹の危険獣が飛んできても見えてしまう。空軍にはなくてはならない人材である。

ロヴィンは口数の少ない十六歳の若い軍人だった。

耳にかかるくらいの黒髪は、飛行機に乗り空を飛んでいる間さらさらと靡く。微笑みを絶やさない彼は空軍の中の天使だった。栄華が作って水岐からもらった布製のメダルのようなバッチを、いつも軍服につけて外さない。

しかしそんな可愛らしい容姿とは裏腹に、作戦を立てる能力がずば抜けていた。水岐は飛行機を出す際には彼に意見を求めるほどである。

「嫌です、やめてください!もう!」

ジンがくすぐられて笑い泣きしながら声を張り上げても三人は一向に動きを止めなかった。

「嫌なのはこっちも同じだ。何でお前に行く手を阻まれなきゃなんない。」

彩星は急にジンの顔との距離を詰めた。

ジンは彼の肌の細かな皺やその下に通る血管の色を見るのが嫌で、素早く目を逸らした。

「すげえ嫌われてんね。彩星。」

「可哀想、ジンが。」

「ひでえよ。」

志乃歩は長い髪を指で梳きながら彩星のことを鼻で嗤った。ロヴィンは普段と同じ微笑をたたえている。

「彩星さん、いいから離して!」

手足を子供のように動かすと彼は呆れたようなため息を吐いて、渋々ジンを下ろした。

ジンは伸びてしまった軍服の首裏を直しながら口を開いた。

「水岐参隊長は逃亡したんです。甲亜を奪って、獣伐軍を裏切った。それをあなたたちは知っているんでしょう?だから今水岐参隊長の部屋に行こうとしてい」

ジンは喉仏のあたりに痛みを感じた。強く抑えつけられているようで、息が上手に吸えない。ジンの首の表面にはロヴィンのナイフが数ミリ入り込んでいた。

ジンは先の言葉を言うために開いていた唇を震えながら閉じて、唾が口の中に溜まっていくのを感じた。それを飲み込むことさえできない。

飲み込んだら最後、ナイフが自分の首を貫通してしまいそうな気さえしていた。

「水岐のことを悪く言ったね?許さない。水岐は僕のたった一人のお友達なんだよ?」

喉元から鎖骨を伝って、シャツの間を血液が流れていく。その濡れた感触をジンは目を瞑って受け止めた。

ああ、自分はもしやここで死ぬんだろうか。

そんな風に考えながら。

「ロヴィン、お前にそのナイフは可愛すぎる。たった一人の友人のことを非難されて、それでいいのか?本当は大砲でも引っ張り出したいんじゃないか?」

志乃歩はロヴィンの黒い目をしなやかな手で優しく隠した。その美しいとも言える動作にジンはあることに気づいた。

志乃歩が自分を助けたのではなくロヴィンに寄り添ったのだということが感じ取れてしまったのだ。ジンは溶けた緊張で足が崩れてしまった。

「おいロヴィン、今のは良くない。」

「…元はジンが悪い。僕が可哀想だ。僕は悪くない。一度部屋に戻る。」

彼はそう言うと小さい体を翻して空軍の寮の方へ戻ってしまった。

ジンは彩星に抱き起こされながら、ただそれを呆然と見ていることしかできなかった。


乙也は栄華に手首を強く捻られていた。

暗い研究室。薬物が様々な形のビーカーに入っている。いくつもあるそれがまるで陸軍が討伐に向かう際に作る列のように、机の上に並んでいた。

乙也はそれを横目でなぞりながら、静かに呼吸をして何とか殺められずにいた。

彼女の殺気は、恐らく己臣や入相や幹玄や水岐以上のものである。乙也はそう思った。

「何か余計なことを考えてらっしゃいますね?」

「…いや。」

「見え透いた嘘を仰らないでください。気持ち悪いので。」

乙也は自分の右手に込められる力が穏やかに酷くなるのを噛み締めた。彼女の手指は驚くほど冷たい。その体温の低さが、肌にのめりこんでいく。

「水岐参隊長のことを裏切り者だと言ったことについては、謝る。申し訳なかった。」

栄華は情のない重い視線で乙也のことを捉えた。肌の表面にその痛みが突き刺さるのがわかる。彼女は自分のことを心底卑しいものだと思って蔑んでいる。それをひしひし感じながら乙也はもう一度口を開いた。

「…もう、彼のことを悪く言わないから、離してはくれないか。血流が滞ってしまいそうで怖い。」

「あなたでも怖いだなんて思うんですね。」

そう吐き捨てて、やっと彼女は乙也の手首を自由にさせた。

栄華は近くにあった丸椅子を引き寄せると、普段の大人しげな印象に反して脚を組み軍服の胸元の開けて着崩し、机に頬杖をついた。

そして前髪の隙間からじらじらと睨んでくる。乙也は戸惑った。突然、彼女の婀娜っぽいところを見せつけられた気がしてならなかった。

果たして自分は栄華と何もないまま部屋に戻れるのだろうか。彼女に髪を引っ張られて、あるいは乙也自らのしかかって接吻してしまうのではないか。そんなことを乙也は考えながら、自分も側にあった椅子に軽く腰をかけた。

「で、水岐隊長が、百獣の少女甲亜を連れて逃げたと。それがもし本当だとして、何の問題があるんでしょう。」

栄華の小さな口から漏れ出る声にも吐息にも、心なしか色気がある。乙也は目を逸らして一度呼吸を挟んでから彼女に問うた。

「問題なんて、そこかしこにあるじゃないか。」

「そんなことありません。水岐参隊長は甲亜の研究を第一線でしていらしたんですよ。あなたの知らないことを知っていた可能性もあるだろうし、あなたが考えもしていなかったことを彼が予見したかもしれないのです。甲亜のことを自分はよく知っているんだ、とあなたは思っていらっしゃるようですけど、それはどうでしょう?水岐参隊長より甲亜を知る者はいるんでしょうか。私はそうではないと考えます。」

いつも水岐の後ろを影のようについて歩く彼女とは思えない饒舌ぶりだった。時々鼻で笑いながら、こちらの気に触れそうな言い方を選んでいる。

「よく喋るな。」

「口数の多い女は嫌いですか?水岐参隊長はよく鳴く私を可愛がってくださいましたよ。」

乙也は眩暈しそうな気分になった。脳の奥の方がずどん、と痛む。

こんなこと聞きたくなかった。乙也は精一杯自分の意識を正常なものに戻そうとする。しかしそんな努力は無駄なのだ。乙也はすぐに理解した。

何かの薬物を打たれた。恐らく手首を捻られた際にどさくさに紛れて。

これは気分の問題ではない。本当に体が重くなっていく。乙也は頭を抱えた。

「あれ、効いてきましたか。早いですね。」

そう言いながら笑う栄華の顔がぼやけていく。自分の精神が眠気に溶け出している感覚だ。乙也は霞んでいく視界に必死になって抗おうとした。けれど自我は瞬く間に睡魔に喰われていく。無意識の沼に落ちていく。

乙也の体は椅子と一緒に床に倒れてしまった。

もう、瞼は開かない。

栄華は乙也の目が閉じたのを確認すると、彼の両腕を掴んで引っ張った。研究室から外へ繋がる出入り口の前まで持ってきて、扉の小窓を覗いた。そこには黒髪の背の低い青年と、金髪の少年がいた。どちらも馬に乗っている。

「ロヴィン、頼みましたよ。」

栄華は眠った乙也の体を担いで、彼に渡した。

「わかってる。」

ロヴィンは生意気に返事をした。

金髪の少年は深く外套のフードを被っていて表情がよく見えない。しかし綱を握る手の表面に鱗が浮かんでいる。栄華はすぐにその少年の顔と名前を思い出すことができた。

「獣人なんだから、あなたもしっかり働きなさいよ。」

「…ええ、わかっています。」

生意気なロヴィンと一緒にいるからこいつも言葉遣いが荒れてしまった。栄華は呆れてため息を吐いた。

栄華はノブを掴んで、

「くれぐれも道中気をつけて。」

と二人に伝えて扉を閉めた。

「行こう。水岐が待っているからね。」

「はい。」

ロヴィンの言葉に金髪の少年は頷く。年齢にそぐわない冷たく感情の見えない言葉が、彼らの間を行き交う。

二人は北部に向かって馬を走らせた。


¬¬「乙也、乙也。」

おかしい。甲亜の声が聞こえる。乙也の精神は淀んだ意識の中をぐるぐると渦を巻くように迷走していた。その渦を掻い潜って、甲亜の声が乙也の脳に響いてくる。

乙也の精神は繭に覆われているかのようだった。認知できるのは不確かなもの、聞こえる声はくぐもっていて鮮明でないものであった。

乙也の精神はぼやん、ぼやんと反響し続ける甲亜の発する声と似たそれを聞きながら腕を掻き回した。暗い空気に指を通したって何も変わらない。

助けを、救いを求めて手を動かし続ける。

繭を隔てたその先に、差し出された手のひらがあるのならそれを掴みたい。

泣きついて、自分は苦しかったんだと吐露してしまいたい。

苦しい。その時乙也は自覚した。自分は苦しかったのだと。

馬に乗り風を頬で感じながら、弓矢を構えてガス弾のピンを抜くことが秩序を保ち声を一つに束ねるのに何よりも適していたということに苦しんでいたのだと。

人は何かを殺めることで、その血で汚れた手を握り合えるのだ。時には感情を時には獣を時には自身を、時には思考力を時には息を時には記憶を。

溶け込み混じり合って濁って、そうしてやっとああそうか私たちは同じ人間なのだと思える。

仲間だと、敵ではないと、みんなこちら側だと、あちら側を見て彼らを嘲笑うことができる。

乙也たち獣伐軍は、いや人間は皆鮮血に塗れるが故繋がりを感じることができるのだ。

「乙也、この阿呆!起きろ!」

馬鹿はだめなのに阿呆はいいんだな。お前はおかしなやつだ。乙也はぼんやり思った。暗がりの中で、思考だけが浮遊している。

さっきよりも、甲亜の声の輪郭がはっきりとしていた。輝く鱗粉を纏いながら舞う鮮やかな蝶のようだ。乙也は霞のかかった精神をどうにか働かせて甲亜の声を聞こうとした。

「乙也、起きろってば!」

起きろってば?何だ、いつの間にそんな人間臭い言葉使うようになったんだ。

その時繭が剥がれていく感覚がした。そこから光が溢れる。

「水岐がちょうどいないんだ!今のうちだから、おい、早く!」

甲亜の声が乙也の繭を強く叩いた。

その部分が崩壊して、外が見えた。眩しい光を感じて乙也は目を瞑った。ああ、まるで生まれ変わったみたいだ。母体から出た時のように、そこには美しい世界が広がっているのだ。

「やっと気づいた。」

目の前には、色のよくない甲亜の顔。疲れているのか深いため息を吐くと、もう一度口を開いた。

「もう、目覚めないのかと思った。」

乙也はそれに馬鹿、と返事しようと唇を動貸した途端、自分が縄を咥えていることに気がついた。

「外してやるから、少し待っていろ。甲亜の手首にも縄が縛られていて今爪でちぎっているところだから。」

甲亜は鉄製の椅子に、太い縄や鎖で縛りつけられていた。乙也と同じように、口にも縄をあてがわれていたようで肩には分断されたそれが垂れていた。

周りは漆喰の壁で囲まれている。長方形の部屋。甲亜と乙也を乗せる椅子以外その部屋には何もない。

乙也の足首は椅子の脚と一緒に太い縄で結ばれている。鎖で拘束されているのは甲亜だけだった。それは彼女が百獣の少女ということを知っているからだろう。乙也は服の内側の感覚を鋭くさせた。小刀も銃も抜かれている。牡丹ならこんな時、手首にはめた装飾品を使って器用に縄を解くのかも知れない。しかし乙也にはそんなものはないので、甲亜が噛みちぎってくれるのを待つしかない。

後ろに回った腕と、動けない脚のもどかしさを感じながら乙也はジンのことを思い出した。

彼女にも同じような体勢をさせて縛りつけた。

だからこんな罰が当たった、というわけではないことはわかっているがこの二つを繋げずにはいられなかった。

「取れた、」

甲亜は自由になった両手で自分の身に巻きついた鎖を外して、乙也が咥えさせられていた縄を解いた。

「喋れるか。」

そう問われ、乙也は口を開き声を出そうとしてみたものの出てくるのは掠れたような音だけだった。声が上手く出せないほど時間が経ってしまったのか、それとも自身の精神が脆くなってしまって喋れないのか。軍の中には戦闘で気を病み、それが要因で会話が乏しくなった者は多かった。

少なくとも後者は勘弁してほしい。もしそうであったとしても認めたくなかった。

乙也は何回か唾を飲み込んで声を出すことに努めた。

「…お、ゔ、が」

甲亜、と彼女を呼んだつもりだった。彼女は理解できたようで、乙也を一瞥して

「何だ。」

と言い手の縄を解きだした。

「んん、…甲亜。この状況は何だ。怪我はしていないか?変な検査とかされていないか?水岐参隊長だろう、お前を攫ったのは。」

思っていたよりもすぐに声が出て、乙也は拍子抜けした。何だ、普段通りではないか。

「血を少し抜かれたようだ。眩暈がする。他は別に問題ない。」

乙也の手首の縄が解かれる。

「それは、大丈夫なのか。」

「少しくらっとくるだけだから、大丈夫。足は自分で取れ。」

やはり彼女の言葉は出会った頃よりも人間のように整っていた。こんな風になってしまったのはいつからだろうか。彼女が水岐に攫われたことが要因なのだろうか。

そんなことを考えていると眉の間に皺がよった。

乙也は足の縄を解く。微かに痛みが腕から手の甲に走った。

「この建物の中に人の気配は四つ。甲亜が攫ったのは水岐とラキという鹿の獣人だ。恐らくこの二人はいるだろう、そして栄華。もう一人は誰だろう、感じたことのない気配と知らない匂いがしている。」

「逃げるんだな、ここから。」

乙也は椅子から立ち上がり、硬くなった体をほぐした。甲亜も立って自らの体から鎖や縄を引き剥がしてそれを左手に握り、頷いた。

「できれば、戦わずに。」

乙也は彼女の言葉に首を縦に振って同意を示した。武器を奪い取られてしまった丸腰の状態で、四人を相手にするのは無理があった。

甲亜は静かな足取りで扉に近づき、それに右耳を寄せる。

乙也も甲亜の歩いたところを踏んでいくように用心をして彼女に続いた。

「何か、聞こえるか。」

甲亜だけに聞こえるように囁くと、

「いいや。」

と彼女は首を横に振った。

「もし水岐が襲ってきたら乙也はどうする。殺すか?」

甲亜は切なげな顔をして乙也の方を振り返り、そんなことを言う。乙也は縛られた痛みの残る手首を摩りながらぎこちなく笑って答えた。

「殺す。生きるためだ。」

甲亜は乙也の言葉をまた、ぎこちなく笑って

「ああ、生きるために。」

甲亜は深呼吸を何度か繰り返して、ドアの錆びた古いノブを握った。

「乙也たちは、生きるために獣や獣人を殺してきたんだな。…誰だって、一つだけの命を持っているだけなのに。」

甲亜の手によって扉が開かれる。

僅かな鳴き声を上げながら、ドアは二人に道を見せた。

「ここには窓がないから、地下かもしれん。」

乙也の推測に甲亜は頷き、左手に握った鎖と縄を突き出した。

「乙也の方が上手く使えそうだから。」

「ああ。」

彼女の確かな表情はその時、乙也からは見えなかった。けれどそれを受け取り、前を進む甲亜の背中を見ながら歩いていると彼女が自分の母親のように見えた。

真っ直ぐとした背筋が、ふとした時に母親に似ている。錯覚なのだと乙也には理解できていたが、その感覚を薙ぎ払うことは彼にはできなかった。

甲亜を母のようにはさせまい。必ず生かして帰してやるのだと乙也は強く思った。彼女と自分の抑えた足音を耳で拾いながら、五感に切先というものがあるのならそれを研ぎながら鎖を手のひらに食い込むほどに握り締める。

「階段だ。」

甲亜の前には木製の降り階段が伸びていた。近くに上り用はない。ここは建物の最上階なのだと推測できる。乙也は頷きながら

「行こう。」

と甲亜の肩に触れた。

二人は階段から軋む音がしないように、最大限注意を払って一段、もう一段下っていった。

階段を途中まで下って、見えてきたのは物置のような場所だった。窓に板が貼り付けられて、その隙間から光が薄く差し込んでいる。

四方にはいくつかの箪笥と、棚があった。棚には瓶や水槽が乗せられている。光がないので、乙也にはその中身が何なのかは見えなかった。

もう朝方なのか、単にこの建物が陰っていて寒いのか温度の低い空気が乙也の肌を撫でる。微かな動きでも冷ややかさに変わった。

乙也は乱れていた服の首元を片手で引き寄せる。その時ふと、そこが寂しいのに気がついた。首に何かが足りない。

そうだ、イオフィピネルのネックレスだ。ルクラという少女にもらって以降、ずっと首につけていたのにそれがなくなっていた。

金になるから奪ったのだろうか。乙也はそう思いかけて眉を顰める。

水岐や栄華が金に困っているとは思えない。

甲亜の言っていた獣人だって、水岐と共に居たのなら協力体制にあるということだ。それ相応の暮らしをして、扱いを受けているはずだ。もう一人気配があると言うが、その者だけが一端の商人なんて言うことはないはずだ。

「…いる。」

甲亜は立ち止まり、乙也の前を右手で遮って彼の歩みを止めた。

甲亜のその右腕がみるみる獣の毛に包まれていくのを乙也は見ながら、握った鎖を両手で引っ張って構えの姿勢をとった。

「もう一人の、知らない匂いの奴だ。寝ているみたいに、呼吸と心音が静かだ。」

葉がそよ風に吹かれるほどの大きさの声に頷き返して、乙也は周囲を見渡す。左右にも前方にも無論後方にも、他に人影や人間による空気の揺らぎは感じられなかった。

「誰かはわからない。しかし私たちを見逃すような者でないことは確かだ。どうする。」

殺すのか、殺さないのか。

乙也はそのことについてどうすると彼女に問うた。

「生きるだけだ。」

そうか。乙也は口の中に溜まった唾液を飲み込んで確信した。

甲亜の頭部に狼の耳が生えていく。白い翼を静かに広げ、爪を尖らせ牙を剥く。

「三つ数えよう。」

彼女は声を出さずに、乙也に向かって口の動きだけでそう伝えた。乙也が頷くと彼女は毛の生えた手で三つ、と数を示す。

二つ。

一つ。

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