第一章 萌芽

——乙也、頭は痛くない?

手の先はちゃんと動く?目は綺麗に見える?息苦しくない?まだ熱があるから寝てて。ああ手の甲がこんなに冷たい…握って温めてあげる。

目覚めると、上質な天井が朝の挨拶をした。

とてもいい夢を見た気がする。熱風邪を引き起こした時に、いつかの母親が優しい手で頭を撫でてくれた。

乙也にはすぐ今は朝で、いる場所は医務室だということがわかった。東からの太陽が眩しい。それと、未だ慣れない独特な薬草の匂いが鼻腔に入り込んできていた。

「おはようございます、乙也壱隊長。お体の調子はいかがでしょうか。」

もうすっかり指の皺が増えた軍医がそう話しかけてくる。一瞥もせず気配で目を開けたのが感じ取れるのは時の流れが与える能力だろうか。

槻見つきみ医師。私はどうしたのでしょう。」

静かに起き上がると眉間の辺りに痛みが走った。腰の方も重い。

「昨夜の討伐中に気を失われたんです。お疲れであったんでしょう。マスクとゴーグルの隙間から入り込む獣の毒にやられたようです…免疫力を高めなければいけませんよ。」

白いものが混じる髪の毛を束ねながら、医師は微笑んだ。

「今日いっぱいは必ず安静です。戦闘などに出向いてはだめですよ。」

「そんな…」

自分の弱さと溜まりきった書類の山を思い出して肩を落とさずにはいられなかった。

「まず何か飲んで、食べましょう。胃が空っぽでは薬が効きすぎます。」

「お願いだよ槻見さん。それでいいんだから薬だけちょうだい。」

「無理です。」

「意地悪だ。」

乙也の頼みに揺るぎも悩みもしない槻見の横顔は余裕の微笑を浮かべていた。

槻見はもう六十近い男である。しかし獣伐陸軍壱の中で一番信頼のおける医師だ。

「わがまま言いません。」

そして槻見は両親を亡くし孤児になった乙也を獣伐軍に引き入れてくれた恩師だった。

彼は自分の気に入っているカップにベーリー茶をなみなみと注いで乙也に差し出した。

「ありがとう。」

「軽くでもいいので食事もなされてください。」

心地よい声が乙也の胸を温かくした。自分で思う以上に疲れているのかもしれなかった。

「もう、その口調やめませんか。」

陽がぐんぐんと昇る空を窓から覗いた。青く澄んだ色が、全ての記憶を掻っ攫っていきそうな勢いで目の奥に飛び込んでくる。いや、忘れてはならない。

「言葉は私の一部ですから。今更…」

どこか切ない顔をして槻見は乙也に微笑みかける。槻見の丁寧な言葉遣いは幼女に対しても、若造に対しても、長寿に対しても等しく降り注いだ。戦闘で体と精神を痛めた軍人の中には、彼の言葉だけで心の傷が癒えた者もいるそうだった。

「今更なんて。」

「今更ですよ。こんな歳でまだ軍の医者をやらせてもらって、でもいつ逝くかわからないです。」

全てを予見しているような表情に、目の縁が熱く痛くなった。

「やめて、やめろよ。そんなこと。」

声を荒げて否定したところで彼はただ笑っているばかりで、何にもならなかった。

仕方ないので喉にお茶を流して、部下に食べられそうなものを伝えてしばらくの間横になっていた。

けれど、昨日の夜のことを思い出すとどうしても寝つけなかった。

一級の鹿種を打ちのめしたのは覚えている。その後、三級が…

その後三級の獣が、百獣の少女によって連れ去られた。今度は鷹の翼で風に乗り、あれは恐らく熊の手だろうか、太い腕で抱えてしまった。

ロク。百獣の少女はそう吠えた。あの三級の獣に向かってロクと呼んだ。あれは名前なのだろうか。

乙也がくるくると思考していると、槻見がそばの丸椅子に腰をかけて顔を覗き込んできた。

「考え事はあまり、よろしくないですね。」

彼の前では何も隠せない。

「寝ようと思っても寝れないんです。するとやはり考えてしまう。」

「そう思うからですよ。ほら、私が何か話をしますからそれをぼうっと聞いていてください。」

そう言って、槻見は歌うように喋り始めた。

「千ページもある魔導書を無闇に開いて、呪文を唱えます。するとそのページが鳥の翼のように空中に舞い上がって、森の匂いを感じさせてくれます。魔導書を開いた少年は、そのページに乗せられて終いには綺麗に吸い込まれて行ってしまう。」

「何だ、子供騙しの作り話じゃないか、私をいつまで」

「いいから。黙って聞いてください…はいそうですいい子ですね。吸い込まれたページの中は、野原の広がる美しい国でした。風が気持ちよくて、少年はその世界に吸い込まれた日から風の音に合わせて上手に歌って過ごしました。彼の歌に惹かれて集まってくる動物や少年少女がいました。彼はその者たちと合唱団を作りました。彼が少年から青年になると、旅人の女性と知り合います。女性は楽器が得意で、彼と一緒に演奏することが多くなりました、そうして」

そうして、彼は寝てしまった。

乙也は静かな寝息を立てて、子供のように縮こまって眠ってしまった。

槻見はそれを見ると満足したように頷いて、机に向かって彼のための薬を見繕った。

その間に、深が乙也の食事を持ってきたので受け取りベッドの横に低いテーブルを引き寄せそこに置いてやった。

槻見もまたお茶を一口飲んで

「あなたの話ですよ。」

と目を細めた眩しそうな顔で乙也の寝顔を眺めた。


「乙也壱隊長、復帰なされたのですね。」

「大袈裟だ伴俐。それより一昨日の一級はどうした。」

伴俐は乙也の速い歩調に器用に合わせて歩いた。怜悧な声色で彼は乙也の問いに答える。

「サンプルの採取などは済み、今日にでも灰にしてしまおうという話が出ています。己臣陸軍隊長もそれでいいだろうと。」

「そうだな。昨日から今日にかけて何か変わったことはあったか。」

「いえ、危険獣の目撃もなく無事です。」

「そうか、それは良かった。迷惑をかけたな。」

乙也がそれとなく気遣ったつもりで声をかけると伴俐は足を止めて、黙り込んだ。神妙な顔つきをして廊下の床を見つめている。

「どうした、」

そう呟くと急に抱きつかれた。伴俐が、乙也の肩をひしと抱いて、噛み締めるような苦しい声で

「心配でした。」

と発した。乙也が伴俐のこのような感情的な面を見るのは初めてのことだった。若いジンや深だったならば、こういうことも何度かあったが彼は自分を深く慕っていない方だと勝手に思い込んでいた。

「伴俐。」

名前を幾度呼んでも彼の腕の力は強くなるばかりで離そうとはしなかった。制服の布に皺ができていく感触がした。

「すみません。周りに誰もいませんので、もう少し。もう少しだけ、お願いです。」

涙が混じった言葉を聞いてしまうと、どうしても引き離して首を横に振ることができなかった。乙也は深く頷いて彼を力強く抱いてやった。

「ご苦労。」


乙也は己臣と話し合い、全ての軍隊長を集めての会議を行うこととした。

それは無論、百獣の少女についての会議だった。百獣の少女をどうするのか、拘束したところでどこの軍の施設に預けどのような扱いをするのか、そもそも拘束し軍の監視下に置くことでどのような利益を得られるのか。

全ての軍隊長というのは、陸と空で分かれる軍それぞれの壱、弍、参隊長の八人である。

乙也は会議室に向かう足をなるべく早めた。軍隊長は異種とも言える奇才の集まりである。彼ら彼女らのことを考えると胃が搾り取られるように痛くなるのを感じた。

「乙也です。」

もう何人か先に待っているだろうかとノックをしながら唾を飲み込む。

「入ってくれ。」

「はい。」

聞き馴染みのある己臣の声に胸を撫で下ろし、重厚な扉を開いた。

横に広がる光沢のあるテーブルにはいくつもの椅子が規律を食って生きているように、綺麗に並んでいた。

そこには己臣と空軍隊長の入相いりあいが座っている。

「入相空軍隊長、己臣陸軍隊長。お疲れ様です。」

深く頭を下げると己臣は湿気のない笑い声をあげて

「頭を上げてくれよ。私が日頃から無理やりそうさせているみたいじゃないか。」

と乙也の肩を叩いた。

「失礼しました。入相空軍隊長、お世話になっております。」

「いやこちらも。」

皺と傷が多い顔でくしゃっと笑って、入相は頭を下げた。入相は己臣と同期である。彼とは旧友であり好敵手という関係が長く続いているのだろうということは、見ていて自ずと理解できることだった。癖のある茶髪を耳下まで伸ばし、灰色の眼球は獣の飛行を細かく捉えていた。数多くの栄誉賞や勲章を授与されているのにも関わらず、軍服には一つもそれらをつけず軟派な印象に反して装飾品は少なかった。

軟派なのは女好きであるからだった。

「ジンちゃんのたわわは成長したかな?」

「おやめください。」

「おっと失礼。」

格好をつけていても、中身は八つの少年と変わりなかった。乙也はいつもその顔の傷は獣との戦闘ではなく、痴話喧嘩で作られたものなのではないかと思っていた。

「わたくしのこともお忘れないですよね、入相様?」

背中が冷えるような気配を感じて皮膚の表面が緊張する。乙也が反応するまでもなくその人物は子猫が鳴くように入相の首元にその手を這わせた。

「牡丹。」

「やあ、乙也さん。今日も見目麗しいですね。」

牡丹は陸軍隊弍を束ねている人物だ。

目が隠れる長さの髪をところどころ斜めに切った、突飛な髪型をしている。色は金色、肌の色は病的なほどに白かったが、唇には薄く紅をさしている。入相とは相反して耳朶に揺れる宝石をつけ、頸飾を何重にもしていた。奇抜なので離れたところにいてもすぐに牡丹だとわかる。

「入相様…今夜こそ…ね?」

「すまないね…応えられそうにないんだよ。」

「やだ、まだお元気でしょう?わたくしだからですか?わたくしのどこが入相様のお心を掻き立てることができないのでしょう。」

「うーん。」

入相は女に対しては軽く触れながら歩き回りたいビュッフェ的な嗜好を持つ男らしかったので、相手から押されるのは得意ではないのだと乙也は彼を哀れに思った。

「ほら牡丹。よせよ、お困りじゃないか。」

そう咎めると、牡丹は薄い体を蛇のようによじらせて

「やだあ、やです。」

と不満の吐息を間に挟みながら延々鳴いていた。

「失礼します、空軍壱隊長埜環(のわ)です。」

馴染みのある顔が広い部屋に入ってきて、乙也の顔が少し緩む。

「埜環、お疲れ。」

「乙也。何だかご無沙汰だな、お前もお疲れ。」

埜環は乙也の同期だった。訓練時から共に肩を並べて七年前までは同じ陸軍隊弍に配属されていた。若い頃のやり損ないを苦く覚えている。

乙也は埜環の筋肉が引き攣ったような不完全な微笑を見逃さなかった。お互い老けたな、と笑って言うと見慣れた笑顔で一緒にするなと予想した返答が返ってきた。

思い過ごしだろうか。

「失礼いたします、水岐みき栄華えいかであります。」

「お待たせいたしました。」

扉を開けるなり重く深く首を垂れるのは空軍隊の弍を束ねる栄華と参の長水岐だった。

栄華は二十一という若さで分隊長を任される実力者だった。今日も空軍専用のマフラーを蛇のようにしっかりと巻きつけている。

水岐は乙也より十個ほど歳上で、論理性を重視した彼の主義は研究班の業務や作戦参謀の監督にも活かされている。

「入相空軍隊長が迷惑されていますから、よしたらいかがですか。」

水岐は入相に巻きつく牡丹に腐った厨芥を見る時と似た目で捉え、刺々しく言った。

「はい?」

「耳が悪いのでしょうか。」

「入相様と同じ空軍だからって偉ぶらないでもらえますかねぇ。」

「僻みもいいところですね。いい精神科医をご紹介いたしましょうか。」

「そのくらいにしたらどうなんだ。」

粘着質の空気を二つに切った真剣のような声色の持ち主は陸軍の参隊長、幹玄かんげんだった。

「入相空軍隊長、己臣陸軍隊長、お疲れ様です。」

「お疲れ。」

「ご苦労だ。」

小柄な体型に癖のある黒髪を長めに残して、大きなガラス玉のような幼く青い瞳を持つ一見少年のような彼は今年三十一歳になる紛れもない大人だった。婀娜っぽい泣きぼくろと度を過ぎた酒好きがその証明をしている。

「幹玄さん、お疲れ様です。」

乙也が水岐と牡丹の言い争いを止めてくれたことについての礼を込めて声をかけると温かくない表情を返された。

まるで、このくらい自分でやってみせろと突き放されているようであった。

「水岐空軍参隊長、お座りになったらどうだ。」

隊長以上の階級が集まる会議では年長者から席に着くことが決まりだった。

己臣と入相が既に腰掛けているので次は水岐が座る。その後が幹玄である。幹玄の短気な性格を肌でひしひしと感じながら乙也も順に座った。

「忙しいところ申し訳ない。隊長の全員に収集をかけたのは、乙也が目にした百獣の少女のこと以外ない。乙也、説明を頼めるか。」

「はい。これをご覧ください。」

百獣の少女の情報をしたためた図面を胸ポケットから取り出し大きなテーブルに広げた。

「一昨日、二十九日の昼と夜二度も目撃しました。一度目は毒気を放ちながら走り、二度目は三級の鹿種を持ち帰りました。従前の獣人は知性がないものですが、少女は違った。知性を持ち、言語を操り、獣を仲間と認識し私たちを敵視している。普通の獣人と違うところが他にもあります、姿です。少女は姿を様々な動物に寄せることができる。狼の耳を出したり、豹の脚を生やしたり、鷹の翼を広げ熊の毛で手を覆いました。原種を一つしか持たない獣人が、こんな突然変異を見せるとはこれは百獣の少女以外に考えられないと、私は考えています。」

少し前のめりになりすぎただろうかと乙也は乱れた襟元を正すと、牡丹が声を上げた。

「…すごいですね。顔はこんな風なんです?」

仄かな好奇心と驚きを見せる表情に満足しながら、指した指の先を追う。

「乙也さんが描いたものでしょう?」

「ああ、覚えている限りだが。白銀の頭髪に緑と青が反射するような灰色の瞳だった。体格はしっかりしているが、体長はさほどでかくない。」

図面と乙也の顔を交互に見る牡丹に問い以上の返答をした。乙也には自分の中で、彼女への百獣の少女への追求が弱まりそうにないのを痛いほど感じていた。

「そうですか、楽しそうで羨ましい限りですね。」

「え?」

予測していなかった言葉に目を見張ると妖艶にねちっこい笑みを向けられた。何なのだ。

「鏡を見てきたらどうです?頬がジイロの果肉みたいに紅潮してますよ。」

「馬鹿言うな。」

「やですねぇ。本当ですよ。」

周りの隊長の視線でより一層それを自覚した。ああ、顔が熱い。心臓の表面がむず痒い。自分の精神は少女を追いかけていたいのだと、やっと意識することができた。

「すみません…物騒ですよね。でも、牡丹の言う通りなのかもしれません。私、自分の強い探求心を殺せる自信がありません。」

胸の内を露わにすると、己臣は幼児の面倒を見るように柔和に微笑んだ。

隣で頬杖をつく入相の笑いジワが窓からの光に当たっている。

「私はいいと思うね。」

「行きすぎるなよ。」

いい上司を持った。乙也は目の奥の方が何だか熱く痛く辛い感覚を噛み締めるように頭を下げた。

「ありがとうございます。では、これからも百獣の少女についての調査を続けてもいいのですね。」

「それはどうでしょうか。」

乙也のうわずった声を抑えたのは水岐だった。

「拘束したらその身柄はどこに預けるんですか。研究班を通さないとは言わないですよね?」

水岐は軍人でありながら、研究職についている。市民の一部が心を捧げる創造説やおとぎ話の題材となっている百獣の少女に対して彼がどのような感情を持っているのかは、乙也には計りかねた。

「し、しかし今回の出現は陸ですし」

「それは関係ないでしょう。」

「はいはい、わかったよわかったから。水岐も落ち着けよ。」

入相が両手を掲げて部下同士の鳴き声を止めた。

「まず百獣の少女の追跡、戦闘、拘束そしてその後の監視をする部隊を作ればいいじゃないか。な、己臣いいだろう。」

「構わないさ、上に相談しよう。」

「そう言うことだ。二人ともしっかり座ってくれよ。」

乙也と水岐は少し浮いた腰をしっかり落として、再び席についた。水岐の執拗とも言える突っかかった行為は、傍(はた)から見れば乙也と何ら変わらないのだろうか。

それから、百獣の少女についての話し合いをいくつか掘り下げて会議は終いとなった。

会議室を出ると、牡丹が背後から抱きつくように乙也の歩みを止めた。

「素晴らしい熱意ですね、乙也さん。」

「牡丹。お疲れ。」

「お疲れ様です。」

そう言葉を交わすなり、牡丹は扉の陰に手招きした。

「水岐さん、少しおかしくありませんでした?」

口元だけでにやっと卑しく笑い、牡丹は乙也に囁いた。それは恐らく、純真な処女を誘惑する悪魔の耳打ちに似ていた。

「あんな風に百獣の少女についてご興味を持って。もしかして創造説の支持者なんじゃないでしょうか?」

「水岐空軍参隊長に限ってそれはないだろう。研究も熱心に取り組んでいらっしゃるし。」

そう返すと牡丹は不満そうな笑顔を見せた。

「何だ。解せないか。」

まとわりつく牡丹を引き連れながら、陸軍の寮に戻った。

「まさか、牡丹。お前も百獣の少女を自分のものとしたいんじゃないだろうな。それで先刻から水岐空軍参隊長を貶すようなことばかり。鬱陶しいぞ。」

「やだなあ、鬱陶しいだなんて傷つきますよ。」

言葉と正反対の笑顔を向けられても、何も言えない。

「…あの方だって、今の階級について長いんだ。無茶なことはしないだろう。」

「そうですかね。わたくしにはそう思えないのですが。」

深くなる声色に耳を貸さずにはいられなかった。まるでそれは仲間に敵の進行を伝える狼の唸りのようだった。

「あまり、軍人を信用なさらない方がいいですよ。」

その言葉が、乙也の心の中で緩やかにしかし確実に波紋を作っていた。


次に百獣の少女が目撃されたのは、二週間も後のことだった。

その日の夕方、乙也が北部の討伐を終え基地に戻り部屋のソファで仮眠をとっていると慌しい部下の声に起こされた。

せっかくの休息だというのに、邪魔されて堪らなかったので扉を開け廊下に顔を出すと皆が走り回り忙しく緊迫感のある様子を肌で感じることができた。

「何事だ。」

空気をかち割るように怒鳴るとそばを通りすがった伴俐がそれに合わすように吠えた。

「北東部森林に百獣が出没しました!牡丹陸軍弍隊長が接触に挑んだところ、逃亡されたとのことです。」

牡丹の間抜けめ。

「逃亡だと!?」

「はい、今回は蝶の羽に兎の耳を生やしているそうです。」

「なんと稀有な。」

昆虫と哺乳類の混血など見たこともなければ、創造説やおとぎ話の類で小耳に挟むこともなかった。

己臣と入相が上に申し込んだ百獣の少女専用の部隊は、研究班と並ぶ形で捜査班と名付けられた。百獣の少女の存在は市民に知られたらあまりにも不都合すぎる上に、軍内部での困惑を招きかねないと言う理由であからさまな名前も付けらず、無難にそう呼称されることになった。今は百獣の少女の存在は、目撃に立ち会った者以外には不必要に知らされていない。

乙也は伴俐からの報告を走りながら耳に入れた。

「その蝶の羽というのは、弾丸や弓矢で貫けるものなのか?」

「いえ。見た目はレース生地のように嫋やかなのですが、攻撃を加えると鉄板のように固くなるのだそうです。」

「そうか…本当に面倒な相手だな。」

乙也が武器庫に向かい、自分の弓矢と拳銃、そして手榴弾を一つ取ってポケットのついたベルトにしまい込んだ。

「牡丹は。そのまま現場にいるのか。」

「ええ。手こずっているようで、負傷者も少なくありません。」

「あの間抜けめ。」

編み上げブーツをきつく締め上げた。伴俐はそれを見て、少しばかり顔をしかめた。

「いつもそんなにきつくして、痛くないんですか。」

乙也は、若い頃己臣から

「陸軍は馬を走らせる。しかし、馬が死んだ時には自分の足で駆けなければならない。そのためにも靴の紐はしっかりと結んでおくように。」

とあの鞭を振りかざす硬い口調で幾度も釘を刺された。

他にも…

「乙也壱隊長?」

伴俐の不安そうな声色が乙也を奥深い記憶の沼から引き上げた。

「いや、何でもない。痛くないさ。」

つま先を二度床に当てて、自分の甘い部分を引っ叩いた。つまらない昔のことを思い出しても、百獣の少女は捕まらない。

「あの古いベルのうるさい音で途中まで起きないなんて、疲れていらっしゃるんじゃないんですか。休まれては?」

捜査班に仮として用意された部屋に向かうとジンにそうからかわれた。

捜査班は全隊長と、百獣の少女を目撃した一部の軍人という構成で成り立っていた。ジンや伴俐、行などは勿論班に加わっている。

「馬鹿。」

「馬と鹿に失礼です。」

「よく言う。」

ジンと小言を交わし合うと、その場にいる者たちと手短に話し合いをした。己臣と入相は席を外しており、そこにいるのは牡丹を除く分隊長と数人の軍人だった。

「今回の百獣の少女は牡丹らと接触しているらしいな。」

「はい。」

書類を抱えた伴俐に問うと気持ちよく返事をされた。

「まずは私たちもそれに加わる。少女は私たちと同じ言語を話すことが可能だ。会話を試みる。次に拘束だ。研究班の施設にはまだ獣が数体残っていたな、あれを使って誘き寄せる。いいな。」

「待ってください。」

作戦立案時に口を挟むと言うのは、遠慮深い栄華には珍しいことだった。

「研究班の長は水岐参隊長です。そして、数体と言っても拘束された獣は貴重なサンプルです。以前の三級の鹿種のように持ち去られては堪ったものではありません。」

「栄華、よしませんか。」

「申し訳ございません。」

水岐は穏やかな笑みをたたえて乙也の顔の表面を視線で舐めまわした。

凝っていそうな肩を重く動かして腕を組む。

「構いませんけれど、無傷で返してくれるんですかね?」

「それは…」

自分でも滑稽なほど語尾を濁らせることしかできなかった。そもそも、獣を永遠に拘束しておくだなんて乙也にはない考えだった。

「もう、サンプルの採取や研究の済んだ価値の低い個体を貸していただければいいんです。」

「いえ、返せない確率が高いのであればそれは貸すのではなく差し上げると言うんですよ。それは許しかねる。」

水岐の瞳の奥には、乙也に対する疑心とちらちらと燃える鬱憤が息づいていた。こめかみの血管を怒張させて、その場の空気中の酸素を鋭利にした。

「時間がないんです。」

「水岐参隊長は研究に十年も時間を注いでらっしゃるんです、そんな安易にお渡しできるはずがありません。」

「栄華の言う通りです。私だって誠意を持ってやってきたつもりだ。」

「わかりました、返しますから。無傷で返しますのでお願いします。」

乙也は叶わなそうな約束をした後、捜査班を連れて牡丹のいる北東部に応援に行った。

短くない廊下を必死になりながら走っていると、捜査班には選ばれなかった軍人が我こそはとごった返していた。

「乙也壱隊長、捜査班って何なんですか。私も」

「お願いします。何か特別なことをなさるんでしょう?」

彼らは百獣の少女の情報を細かく知らない新人だった。対処は行に任せ、乙也はひと足さきに馬房に向かった。愛馬のヘクトを引いて点呼をした。何をしている間も、ヘクトは術をかけられたみたいに黙って静かにしていた。

「乙也壱隊長。」

「行、来たか。残すは研究班の獣の準備だけだ。」

乙也は水岐に研究班の施設の中に比較的価値の低い獣はいないか探させていた。

その獣は東部の門にある、危険獣そして獣人用の罠近くに拘束したまま置いておくことにし、痛めつけるなどして少女の興味を惹こうという作戦だった。少女には、三級の鹿種を名前で呼び終いには持ち帰ってしまうという情と知能を持った個体だった。なので今回もそれに漬け込む。

¬¬–––情?

「情?」

「どうしました?獣の準備、できましたよ。」

無自覚に呟いた乙也に水岐が声をかけた。罠近くへの移動が済んだらしい。

「あ、ああ。ご苦労様です。」

「考え事ですか。」

水岐は自分の馬に詰んだ荷物からマフラーを取り出してきつく巻いてそう言った。頻拍した状況下だというのに、彼の動きは休日のティータイムのようにゆったりとしていた。

「少し。ではもう向かっていいでしょうか。」

「ええ。用意したのは老衰している狼種の二級です。血液のサンプルも限界まで採って貧血で死亡寸前ですから、万一傷がついても構いません。」

獣の研究を十年もしていても、やはりその相手には情など移らないらしい。それは水岐の無関心そうな表情が痛いほど物語っていた。

乙也は身震いをして、ヘクトに跨った。

「承知しました。何かあれば連絡役に応援をと伝えます。」

「はい、お気をつけて。」

不意に目を細められても、ぎこちなく真似をすることしか乙也にはできなかった。


「牡丹!こちらの連絡は伝わっているな!」

牡丹は馬を疾駆させながら毒矢を幾度も放っては外していた。その剃刀のような視線の先には無論、百獣の少女が居た。

「ええ、しっかりと!」

滅多に大声を出さない牡丹の背中を後方から捉えた。

蝶の羽のはためかせる百獣の少女は、宙に浮かびながら何かの実を投げていた。いやあれは石だろうか。

瞬間、投げられた固体は牡丹の肩をかすめて地面にのめり込んだ。

「牡丹!」

乙也は素早くヘクトの肩を叩き、牡丹の馬の手綱を掴んで並走させた。牡丹は乱れる息をどうにか戻しながら濡れた顔を乱暴に拭った。

「返り血か。当たってはいるのだな。」

「はい。五度ほどですが、すぐに治癒されてしまいます。」

「能力か。」

「ええ、これはかなりまずいです。」

馬も体力が削られているのか、乙也に追いつくことが難しいようだった。

「行、牡丹の馬」

「椿。」

というのが、牡丹の茶色い馬の名前だそうだった。

「椿を連れて後方に移動してやってくれ。他の奴に任せてもいい。」

「承知しました、軍医もお連れしましょうか。」

「頼む。罠の方に捌けている。」

「はい。」

牡丹を抱き上げ、ヘクトの立て髪を掴ませるも、うまくいかなかった。意識もあちらとこちらを行ったり来たりして、曖昧だった。

「しっかりしろ。」

乙也はそのまま二級の狼が準備されている罠の近くまで走らせ、行が呼んだ軍医に預けた。

「乙也さん。」

「何だ。」

か細く鳴くので少し可哀想になって、横たわる牡丹をしゃがんで見つめてやった。

「乙也さんの、わたくしを抱く手、とても安心感があって素敵でしたよ。」

「馬鹿。」

「馬と鹿に失礼です。」

ジンにも同じ返しをされたなと思い出すと少し笑えた。気が緩んでもいけないので、ブーツをまたきつく縛り直して二級の様子を見に行った。

「幹玄参隊長。お疲れ様です。」

「ああ。水岐から傷は可能な限りつけてくれるなと言われているが、鞭や毒はいいようだな。」

「ええ。」

狼種の獣は、四肢を地から伸びる鎖に二重に縛られ、首を枷のようにそれも二重の石橋に挟まれていた。死刑囚が首を刎ねられる時と同じような格好で、無様にも息を切らせながら四つん這いで死を待っていた。

幹玄と乙也、そして数人の軍人はマスクや眼鏡を装着して石橋の両橋と地上の傍に控えていた。手には長い鞭やガス弾を持っている。

「さっさとやらないか。」

「はい。では開始のベルを鳴らします。」

軍基地や施設のベルは全て古かったが、しかし北から南までにも届く機能の良さから替えることを許されていなかった。乙也と幹玄もマスクと眼鏡をしっかりとつけて、唾を飲み込んで背筋を伸ばした。

専用の耳当てをして、力一杯にベルを鳴らした。それと共に傍の軍人がガス弾を投げる、投げる。

鞭を無情に打つと、獣は地鳴りのように哀れに叫んだ。

獣の叫びというのは変に人間らしい悲哀を感じさせ、聞いていると始終脳内の深いところに痛みが走る。

幹玄に耳当てを差し出すと彼は緩く首を振った。いらないらしい。

「つけないのですか。少女が気づくまで、時間がかかるかもしれませんよ。」

「いい。」

乙也は鞭を振り続ける幹玄の横顔を眺めると諦めて頷いた。

「もう、来ているじゃないか。」

「え?」

幹玄が少女の居る北東部を睨みつけた。みるみる口角が糸で引いたように頬の肉を押し上げた。幹玄は標的を凝視しながら笑っていた。

百獣の少女は羽が散ってしまいそうなくらいの速度で冬の空気を突き抜けていた。遠いところで点になっているのが、目の前ではっきりと見えるようになるまで長い時間がかからなかったことが、乙也の背中を寒慄させた。

「ゲリデ!」

ゲリデ。この地に這いつくばる、不健全な顔をした二級の狼はゲリデという名前なのか。

「お前ら散れ!ゲリデに鞭を振うんじゃない!」

乙也はその時、飛ぶ少女の姿をじゅっと目の奥の方に焼き付けた。少女は狼の絶叫の中、天から吊るされたように真っ直ぐと浮いていた。その胴体は目の荒い布の衣服に包まれていようと、とても養分が凝縮された肉であることが安易に想像できた。重く、しっかりとした印象は乙也の中を蝕むように強く染み付いた。

橙と黒と紫の鮮やかな羽を上下に動かし、頭部から兎の耳をピンと立たせている。大きい灰色の瞳は、森の緑と空色が滲んで石橋に灯された燭台の光を反射していた。余計な肉のない輪郭は狼の喉元が思い出されるほど筋肉質に見えた。きゅっと両端で結んでいる唇はジイロの果肉みたいにてらてらと光って、水分をたっぷりと含んでいた。

奔放になびく髪の毛はやはり、瞠目してしまうほどの美しい白だった。

今朝の雪よりも純白だった。海の波よりも爽やかだった。蜘蛛の糸よりも細く影と光が変わりばんこして、綺麗に煌めいていた。真昼の雲よりも柔らかそうだった。

「ゲリデを返せ!」

上辺では怒号のように見せているものの、その本質を隠しきれていなかった。元は清く澄んでいて泉のように冷ややかで、美しいことを知るのには十分だった。

「わかった。返そう。」

「お前、」

「幹玄参隊長、少しお任せしていただけませんか。」

そう、先輩の声を抑え込むように言うと懲りたようにため息を吐かれた。

「言い出したのはお前だからな。」

「ありがとうございます。」

腰が痛むくらい深く長く頭を下げて礼を言った。乙也はこの世の理を説明するかのように、静かに口を開いた。

「百獣の少女。お前は百獣の少女で間違いないな。名を何と言う。」

少女と目が合うように見上げて、少女に自分の声が鮮明に聞こえるように大きく口を開けて言った。

百獣の少女はその手に掴んだ石を一層力強く握った。すると悲しいほど滑らかな血液が少女の骨張った手をなぞった。赤いそれは重力に耐えられず風に吹かれ、乙也の額に落ちた。

「名はないのか。痛くないのか、その手は。」

少女は黙っていた。幾度か口内の唾を飲み込んでいる様子が、乙也からは見て取れた。

「おい、」

「ゲリデを返せ。その狼は甲亜こうあの親だ。」

「何だ、お前は甲亜というのか。この狼は雄だ。お前の父親なのか、同じ血を分け合っているのか。」

「返せ。」

少女は七部丈の袖を纏った腕を振り上げ、石を投げる格好をして乙也を脅した。

「わかった、返す。このゲリデという危険獣が鎖を解いても暴れないという保証はあるか。あるならば外そう。」

乙也はできるだけ時間を稼ぐつもりだった。北東から伴俐やジンや他の軍人たちがこちらに駆けてくるのが見えていた。牡丹も応急処置を終え、少女に向かって毒矢を構えていた。

「危険なんかじゃない!そんなものはない!」

「ならば無理だ。」

「何でだ!ゲリデには安心して息づくことも許されないのか!」

少女、いや甲亜の顔は酷く歪んでいた。眉根を寄せ、奥歯を噛み締め光るものを瞳にたくさん溜めていた。甲亜が瞬きをする度にそれは雨のように乙也の頬に降りかかった。小さくない音を立てて、まだ温もりが感じられる気がして乙也はそれを拭うことがどうしてもできなかった。

自分でもその理由はよくわからず、心臓の奥が萎むようになって息をするのが辛かった。

「お前の親は、私たちを喰ったんだ。私たちの親や兄弟や仲間をたらふく喰った。許されていいはずがないと思うだろう。」

「ゲリデの友もお前らに殺された!ロクは甲亜の姉だった!お前らが無惨に撃ったんだ!」

危険獣を守るような言葉の響き方に乙也は顔を顰める以外できることがなかった。

「ゲリデがどんな男か知っているか!ゲリデはその見えない濁った眼を持ちながらこの甲亜を美しい娘だと言ったんだ!返せ!返せ返せ甲亜の親を」

土に槍が刺さったような鈍い音がした。甲亜の喉から赤い滝が噴き出している。

「牡丹!」

「やりましたよ乙也さん。見てください、落ちますよ。」

石橋の影に座り込んだ牡丹がその姿勢のまま少女の首を的確に狙って、毒矢を放ったのだ。

牡丹が言った通り、少女は呻きながら地面に叩きつけられた。蝶の羽が土の黒さで汚れて、潰れるような音を出した。粉々に散っているのを乙也は見るとヘクトも連れずに、一人で駆けた。

「乙也!何をしている!」

幹玄の声が乙也の足を一瞬引き留めたが、振り返らずに横たわる少女の元へ走った。

警戒しながらも顔を伺うと大量の血液を流しながら、微かな息を吐いては吸っていた。

表情が見えるとこまで寄ると、自分だけの絶叫をやめゲリデと呼ばれた狼は乙也を追い払うかのように威嚇した。

乙也の脳裏には、いつの日かの幼い自分と父親が浮かんでいた。

「おい、甲亜。」

返事はない。ただ苦しそうな呼吸だけが乙也の気持ちを急き立てた。

「ジン!拘束だ。鉄製の手錠と鎖をもってこい。軍医!拘束後、この百獣の少女甲亜を治療室に担いでいけ!」


初めて嗅ぐ気持ちの悪い異臭が甲亜の高い鼻をかすめた。

いつも土が入り込んだ爪と指の間は、綺麗に洗われて砂粒の一つも残ってはいなかった。目の荒い、貝の殻のような手触りの衣服は取り替えられ少女は上質な白に包まれていた。ふっくらとした布団は少女の体を温めていた。

首の継ぎ目は、もう消えている。

やがて足音がその部屋に近づいて、歴史の染みついた扉をゆっくり開けた。そのうち暖炉に火がつき、暗いその場所を照らした。彼は木を焚べながら少女の目覚めを待ち望むかのように口の中で言葉をなぞって歌った。

火と向き合う彼の皮膚は水分を奪い取られ、乾いたものになっていった。彼は潤いを見失った唇と舌で撫でると、思い出したように立ち上がって少女が眠るベッドを振り返った。

丸まった格好は胎児によく似ていた。穏やかな寝顔は赤ん坊とさほど変わらなかった。しかしそのどれとも違うのは、少女は今鉄格子に囲われたベッドに手枷と足枷を嵌められ首輪を繋がれているという状況であった。

「起きているだろう。」

返事はない。けれど、乙也にその確証を持たせるのに一瞬乱れる呼吸は十分すぎた。

「起きているのだろう。何もしないから目を開けろ。」

百獣の少女は垂れた兎の耳を気分がいいほど、真っ直ぐ立たせて静かに目を開けた。

彼女の瞼に仕込まれた灰色の宝石は虚空を、いや空間に直立する冷たい色の格子を眺めた。

「首の調子はどうだ、声は出るか。」

「…ゲリデはどこだ。」

「喋れるようだな。少ししわがれているのは水分不足のせいか?」

「ゲリデを出せ。ゲリデを返せ。」

「…申し訳ない。あの二級はお前の治療が済む前に息絶えてしまった。」

「何だと!」

飛び上がってベッドの上で跳ねると肌と鉄が擦れる音が痛々しく響いた。甲亜は手足を振り回して枷と格子を壊そうと努めるが、無意味だった。艶のある兎の毛は逆立って根元から黒の混じる狼の耳に変わっていった。まるで海の荒波や夜風に暴れる森を見ている気持ちになって乙也は歯を食いしばった。

甲亜は意味のわからない奇声を発した。耳の奥から血が噴き出そうな音域で酷く鳴いた。

鉄格子と触れる彼女の爪が甲高い音を立てて削れていった。

「ゲリデは甲亜の親だ!たったあいつだけだ!生まれた時から一緒にいるあいつだけが甲亜の親なんだ!甲亜の心をこんなに痛めつけて何がしたいんだ!ゲリデを返せ!ゲリデは甲亜の親だ!ゲリデゲリデゲリデを返せ!ゲリデはどこにいるんだ!お前は誰だ!ゲリデがどれだけ寂しかったかわかってるのか!ゲリデ!ゲリデを返せ!甲亜に返せ!帰せ!森に帰せ!」

暖炉の近くに置いた火消し用の水が入ったポットを、その獣人に勢いよくぶっかけてやった。少女は反射的にまた唸ったが、顔面にぶつけられたのが冷水だとわかって何度も瞬きをした。

「ゲリデ…」

爪が剥がれかけて血みどろになった指先で顔にかかった水分を拭っていた。いやあれは涙を擦っている。溢れ出す涙を苦々しい表情で鼻を赤くして、肩先を震わせて一生懸命拭いている。端正な面立ちをぐだぐだに潰して、崩して血と涙と水を拭いていた。

「ゲリデ…大好きなゲリデ…」

涙の混じる声はポットを持った乙也の腕を静かに下ろさせた。こんなに感情を露わにして表情を見せる獣人に会ったのはやはり少女が初めてだった。初めて自分の馬を与えられた時みたいに、何だかどうしていいかわからずただ呆然としている他なかった。

乙也はポットを床に置いて、上着のポケットに手を突っ込んだ。硬いものを指先でなぞって取り出した。そこには一つの牙があった。

「ゲリデの、お前の父親の牙だ。ここへ来る時に盗んできた。今頃研究班では一つ歯が足りないと大騒ぎだろうな。」

酷い顔をあげてその目は乙也のことを睨んだ。唇を噛んで、また血が出そうだった。

「すまない、返せなくて。」

獲物を獲る時のように粗暴な動きをする彼女の手に、それを落としてやった。

ゲリデの鋭い牙が自分の手に乗ると甲亜は両手で握り締めて、膝を折って座り込んだ。祈ように背中を丸めてずっと震えたまま声を殺して泣いていた。

乙也は暗くなった外を窓ガラスを通して一瞥するとまた何本か薪を焚べて、汚れた手を払った。

「私の両親も命を奪われている。その時は歯も骨も爪も皮膚の一部のも髪の毛一つさえ戻ってこなかった。」

扉を開けて少し立ち止まると、彼女がこちらを盗み見ていることが感覚でわかった。

「お前たちの仲間に喰われたからだ。」

乙也は外側の扉前に立つ警備役の軍人に敬礼をしてその場を去った。

嵐の後の大河のように、乙也の胸は汚れて清濁の仕分けがつかなくなっていた。

すまない?返せなくて?馬鹿なのか。

馬と鹿に失礼だ。


日が落ち切ってしまうとまた雪が降った。綿のように軽い、空気を多く含んだ雪だった。

乙也は暗闇に舞う雪を見て、甲亜の姿を思い出した。獣人、それも百獣の少女でありながら知性を持ち会話ができ感情を見せる。

あまりにも非現実的で理解し難い話だった。あまりにも、彼女は人間的すぎた。いや、荒い語気や唸る声、迫るように変化する獣の耳はどう見ても獣らしかったし、獣人の他なかった。普通の獣人は獣を真似て威嚇し、人間に似た戦闘をする。しかし少女は、

しかし少女は乙也が見てきた何よりも人間的だった。まるで幼い乙也のように、親の死を悼んでいた。あれは真っ直ぐに、ゲリデという男を思う娘だったのではないかと、乙也はまた心の大河を氾濫させた。

二級の狼の死体から、牙が一つ紛失してうるさくなっている研究班の部屋を足音を殺して通りすぎると寮に戻って自分の部屋に閉じこもった。

自分が、何を考えているのかがわからなかった。大河は一層土砂を道連れにして街を流れるだけだった。乙也には二つ、いやそれ以上の考えと思いがあった。それらがひっきりなしに彼を問い詰める。

お前はあの獣人をどうしたい。殺すのか、生かすのか、そもそもその裁量がお前にあるのか。何を守りたいのか。

あの百獣の少女は果たして人類の敵なのか。

「敵に決まっている!あんな横暴な獣人、生かしておけるか!」

乙也の鋭い叫びは暖炉で暖まった空間に虚しく消えた。

夕飯を済ませに食堂に降りると、ジンと伴俐と行が向かい合って食事をしていた。

「乙也壱隊長、お疲れ様です。百獣の少女の様子はどうですか?」

「目を覚ました。」

「え!何か喋ったんですか。」

広いテーブルに数箇所置かれている大皿から、一番栄養価の高そうなものを選んで木の皿に乗せた。

カトラリーと飲み物を取ると、ジンの隣に座って一呼吸する間もなくパンを口に放り込んだ。

「父親は、あの二級の狼はどうしたって。死んだと言ったら泣いていた。」

「…泣いていた?泣いたんですか、本当に?」

「本当だ。ぼろぼろと涙を流して怒っていた。」

「泣きながら怒るなんて獣人でも女なんだな、喧嘩する時の女と同じじゃないか。」

ジンの問いかけを遮ってきたのは埜環のわだった。

「埜環。」

「お疲れ、平手打ちはされなかったのか?」

戯けた口ぶりで肉のスープを喉に流し込んだ。それ以外にも麦を炊いたものや鳥のステーキを次々と口に吸い込ませていく。

「お前みたいに女たらしじゃないんでな。」

「経験がないんだって素直に言えよ。」

「え、乙也壱隊長女性と交際したことないんですか。」

「意外です。」

「経験豊富なのかと思っていました。」

寄ってたかって詰め寄る奴たちを手で払う。

「これでも分隊長だからな。夜の街に繰り出せば一人や二人…」

「うわ、乙也最低だな。」

「お前に言われたくない。ほら、食事の後は稽古だ。早く食べろ。」

平らげてしまった食器を給仕役に預けて、乙也は部下よりひと足さきに稽古室に向かった。

そこで弓矢の訓練を幾度かし、顔を出した己臣に一度見てもらった。

己臣は乙也の後ろに立つと片手で肩を持って、

「目を瞑れ。」

ともう一方の体温の低い手で視界を覆われた。

「そして、母親を思い出すんだ。お前の母さんがお前の好きなものを作って、あの家でいつもの通りに羊を追いかけるお前を待ってくれている。その料理の味を思い出して、一呼吸する。」

「はい。」

それ以上何か指示されるわけでもなかったので、もう一回弓矢を放ってみると先ほどよりも的の中心に近い箇所に当たった。

「少し、肩の力が入りすぎだ。落ち着け。」

この人には何も隠せないな、と胸の内で苦笑しながら頭を下げて礼を言った。己臣が直々に乙也に弓を教えるなど、随分久しいことだった。

稽古が済むと、風呂場に寄って温水で体を流した。寒さと思考で凝り固まった体の内側が溶けていくような感覚に酔って、つい長風呂をした。

今夜はゆっくり眠れそうだったので、早めにベッドの中に入って今日のことを思い返した。

甲亜は、百獣の少女は乙也が部屋に入った時にはもう目覚めていた。いながらも瞼を閉じて寝たふりをしていた。

まるで子供みたいだった。乙也は甲亜と昔の自分を無意識に重ねながら、穏やかに呼吸を繰り返した。温かく軽い毛布を被って、明日に思いを馳せた。百獣の少女は何を語るだろう。

あんなに野生じみて暴力的で尖った牙と爪を光らせる獣人が、外で降る雪よりも白い髪を持っている。あんなに楚々として美しい姿をしている。少女を初めて見た時の血管の震えをまだ覚えている。

そしてあの引き締まった肉体は、どこか乙也の母親を思い出させた。


「私も百獣の少女と面会がしたいです。特別牢屋に囲われているのですよね。研究班が部屋を貸してくれたって。」

「そうだが、捜査班に配属されたからって安易に足を踏み入れられるものじゃないぞ。」

百獣の少女を拘束して、数日。ジンは乙也に対して自分も少女と会わせてくれという説得を幾度となくしていた。

「それに、私だけで決めるわけにもいかない。」

「…分隊長なのにそんな権力もないんですか?」

「言ったな。」

「きゃ!冗談ですよ!」

襟元を掴もうと手を振りかざすとするりと避けて少女みたいに笑った。実際ジンはまだ十八の体の小さい女だった。乙也の九つ下である。

踵の高い靴を履いていながら、軽やかに飛び跳ねる様は子犬のようだった。愛嬌のある丸い目をころころ動かすのを見ていると、甲亜と会わせてやってもいいかもしれないと思えてくる。

「仕方ない、己臣陸軍隊長に申し入れよう。一緒に行ってやる。」

「え、いいんですか!?」

「これ以上朝から晩までつけまわされても困るからな。」

「ありがとうございます!」

礼を聞くと自分の部屋から追い出して、仕事をしてこいと伝えた。今日の分の見回りや稽古が済んだら己臣の元を尋ねることにした。

「わかりました、ありがとうございます。」

乙也のことをしっかりと見つめ、張りのある声で発せられたその声は遠慮がちに煌めいていた。これから起こることに期待をしているそんな輝きだった。若い者の可能性を確かめながら、乙也は少し苦しかった。脳みその後部あたりがきんっと悲しく鳴る感じがした。

それは、深を西部に案内させた時に自分が十六だった時期を思い出したあの感覚と似ていた。彼ら彼女らは乙也より若く、乙也を超えた可能性と未来がある。

乙也はこの頃後輩を教育する度、部下を引き連れる度思う。このままこいつらを自由に動かして戦闘させてみたらどうなるだろうか。心向くままに弓矢を放てと命じたらどんな個性を発揮して、毒矢を使うことができるだろう。

乙也は自分より若い者に触れることで、彼ら彼女らから生気を奪っている気さえしていた。殺している感覚がする。喰べている感触がする。

己臣や入相は特別なんじゃなかろうか。普通は軍人なんて何年も続けられるものではないんじゃないか。

二日前の討伐でも、獣の発する毒気に眩暈がして天に矢を放つところだった。

自分の能力と体力の低下に、気付かぬふりなどできないまでになってきていた。槻見から薬をもらったが、少し足りない。

固まった眉間の皮膚をぎゅっと摘むと、自然と涙が出てきた。そういえば朝から寒い中見回りをして疲れていたのだった。少々睡眠を取ろうとソファに倒れ込むと、夢の中に昔の友人が出てきた。煙のように揺れては消えて記憶の煙たさに咳き込みながら青臭かった頃を思い出した。その友人の中にはもう、殉職した軍人や幼馴染や随分会っていない商人などがいた。

今も死んだあいつらが生きていたら、自分は。もっと強くいれただろうか。そんな不毛な思考を夢の中でも繰り返しては忘れていった。

やっと目を覚ますことができたのは、部下がドアを叩く音が強く響いたからであった。

捜査班に配属されている若い軍人で、騎兵だった。

「乙也壱隊長。百獣の少女…甲亜が乙也壱隊長を呼んでいます。出せと。」

「あいつが?自ら?」

「はい、見張り役に叫んだんだそうです。僕も一度聞きました、あの軍人の男を出せと怒鳴って」

「わかったすぐ行く。」

軍服の上着を羽織って前を綺麗に閉めると、基地の北部にある牢獄へと足を急がせた。

言伝をしてくれた若い軍人には自室にあった甘味をいくつか渡して、業務に戻るように言った。

軍人は皆外に駆り出しているか、寝ているか、食堂にいるか、業務をしているかで昼の寮の静かである。

その静寂を速い足音で切り裂いて階段を下り、鉄格子の景色に足を踏み入れた。右側の牢屋には三級の小さな鹿種が弱ったように横たわっている。少し前の左側には二級の鳥類が翼をバタバタと上下させ、鉄格子の外にも羽を散らせていた。

乙也はそれを冷たい横目で見ながら、固い石の床を足の裏で噛んだ。甲亜は奥の突き当たりを右に曲がったところの一番目の部屋に匿われている。そこだけ木造の壁で暖炉とベッドが備え付けられている。しかしそのベッドから出ることはできない。中に閉じ込められた獣人は自分で開閉したり破壊したりできない仕組みになっており、重厚な鉄格子は彼ら彼女らの時間を軍人たちは恣意で食っていた。その味は涙が出るほど辛くて苦しいものなのだ。

乙也は特別牢屋に着くと監視役の軍人に敬礼をして中に入った。

「甲亜。」

名前を呼んでみると彼女はベッドの上で犬が威嚇するように四つん這いになって、乙也の瞳を重い視線で握った。今日もまた狼の耳を生やしている。父親の肩身と思っているのかもしれなかった。

そう乙也は一瞬思いながらも、心の内で首を振った。百獣と言えど獣人なのだからそんな情を持ち合わせているわけがない。

「お前が私を呼ぶなんて、どうし」

「甲亜を殺せ。」

乙也はその声を聞いて、牢屋のドアが閉まり切っていないことに気づいた。音を鳴らさぬように静かに閉めると、おもむろに彼女の近くまで歩み寄った。

「…もう一度言ってみろ。」

「甲亜を殺せと言ったんだ。ゲリデが亡くなり、仲間と弔うこともできずただ牢獄に包まれて死期を待つくらいなら今いっそ殺してくれ。殺せ。」

彼女の言っていることを、頭で理解することは十分にできた。親が死んで希望もないから生きていけない。ならば死のう。それは乙也の若い時に似ていた。

しかし肌で真に理解することができない。気持ちの悪いものを沸々と煮えさせて乙也はやっと口を開いた。

「それは横暴だ、雑すぎる。お前はもっと使えわれる個体なのだ。そんなことはできない。第一百獣の少女という時点で」

「もう甲亜の心はお前たちに殺されたんだ、今更なんだ。自分で血流を止めたり、拍動を抑えたりすることだってできるんだ。なのにお前に殺せと言っている。ゲリデが、甲亜が自分で死んだと知ったら悲しむからだ。それならお前らを恨んでいた方がましだ。お前の存在は諦めなんだ。一種の妥協だ。」

饒舌だった。これまであのゲリデという狼に育てられてきたにしては言語が上手すぎた。

いや違う、そんなことを感じたいのではない。乙也は直感する。乙也はまた心の大河を汚濁させた。その異臭でくらくらする感覚がした。

「甲亜たちは皆、お前らに屈服して命を捨てているわけではない。お前たちには理解できようがないので、諦める機会として選択しているにすぎない。だから甲亜を殺せ。」

甲亜は乙也がいつもピストルをしまってあるホルスターの位置を透視したかのように脇腹のあたりをじらりと眺めた。再び瞳の奥を見据えてその清廉な声で宣言する。

「今更、何を迷うことがある。お前は甲亜をもう殺しているんだ。早く、この身も終わらせてくれ。」

彼女の顔は、海に流された流木のように害のない穏やかな表情をしていた。ここまで来てしまったので、もう後はどうなってもいいや。

そんな風な流木とよく似ていた。

「待ってくれ。猶予をくれ。」

「猶予?」

「ああ。まず春まで、四ヶ月と少し待ってくれ。そうしたらお前の処刑を行おう。それでいいか?」

甲亜は首を激しく振って

「駄目だ、長すぎる。早く逝きたい、せめて三ヶ月にしろ。」

と吠えた。

「…仕方ない。わかった。」

「必ずお前が処刑するんだ。何でもいい。毒矢でも剣でもそのピストルでもガスでもいいから確実に死なすんだ、いいかわかったか。」

「わかった、十分に理解した。」

本当はそんなことなかった。研究班の水岐や己臣を通さずにこんな口約束をしてしまっていいはずがなかった。三ヶ月でサンプルを取りきれる保証はないし、研究も十分にしきれるはずがなかった。

捜査班は百獣の少女の探求を目的とした部隊だ。それがあと三ヶ月で死ぬことが決まった。いや乙也が独断してしまった。

少しの後悔を抱えながら部屋を出て、中心部に戻り己臣の元にまず駆けた。事情を説明しつつ甲亜とジンを面会させたいという要望の話もつけてきた。何とか苦笑いで済んだが、迷惑を被るのはあの人だった。それを心から申し訳なく思うと頭を下げた後、また研究班の部屋にいる水岐を尋ねに基地の北部に向かうと

「馬鹿なんですか?」

と呆れ返った顔で言われた。

流石に馬と鹿に失礼だとは返せなかった。大きなため息を十三回ほど吐かれたが研究班の業務には口を出さないという条件で了承してもらえた。

その後にまたジンが乙也を追いかけ回したので、彼女と一緒に再び甲亜を尋ねた。

「甲亜。」

扉を開けると彼女はベッドの上で仰向けに寝ていた。横たわっていながらも目を薄く開けて天井を見上げている。まるでそれは死相のような印象を乙也に抱かせた。

「これが、百獣の少女…」

ジンは甲亜のまつ毛の微動を見つめた。その後頭の頂点から真っ直ぐ胸の辺りまでなぞり、そこからつま先まで視線を伝わせた。じっとり見ていると、甲亜はおもむろに起き上がった。

「甲亜、お前に名乗っていなかったな。私は獣伐陸軍の壱部隊の隊長をしている乙也という者だ。」

「一体いくつなんだ。」

甲亜は瞳にまつ毛の影を落として、そのみずみずしい唇から温度のない声を漏らした。

「二十七だ。お前はいくつだ。」

「十六だ。…そこのやつは何だ。」

甲亜がジンを深く睨みつけると彼女は微かに肩を震わせて口を開いた。

「私は乙也壱隊長の下に仕える軍人だ。名をジンという。」

「何だこいつは。」

「私の部下だ。お前の生態に興味があるというので連れてきたのだ。」

甲亜は重いため息を一つ吐いた。十六にしては密度のありすぎるため息だったと乙也は思った。

「乙也壱隊長。」

隣のジンが耳打ちをしてきた。甲亜に背を向けるようにして少し屈むと

「百獣の少女、本当に知性を持ってして喋っているんですね。まるで人間相手みたいに会話ができます。」

と自分の前で起きている事実に対しての驚愕をだらだらと垂らした。

「そうだ。あの見た目だけじゃない、内面にこそ百獣の少女らしいものが見える。」

乙也はジンの肩と短い髪の毛の間から甲亜の姿を捉えた。

狼の耳に虎の尾を生やしていた。今は太ももに鱗が浮き出ている。

「原種がいくつもあるなんてありえませんね。」

「しかしこれがやってきた現実なのだ。しかし原種というより能力と表現した方が納得できるほどだな。」

「私、毎日百獣の少女と面会がしたいです。いいですか?」

ジンの瞳は煌々としている。満月のように奥かしいながらもその光を遠くまで届けていた。

「それはいいが、水岐空軍参隊長に邪魔はするなと釘を刺されるだろう。」

「何てことありません。彼女の処刑のことは己臣陸軍隊長から先ほどお聞きしました。それまでの間、彼女を見ておきたいんです。」

あまり近づいたら、前髪が焼け焦げてしまいそうなほどジンの体の表面からは内部にある熱いものの温度が伝わってきていた。

あやすように何度も頷いて、それを了承すると乙也は暖炉を振り返った。

破裂する気持ちのいい音が何度も繰り返されている。側まで寄って、薪をいくつか焚べると次は甲亜が

「それではいずれ消える。」

と口を挟んだ。

「お、お前。獣人でありながら乙也壱隊長になんてことを」

喚くジンを抑え込んで乙也は何だ、と問うた。

「何だって何だ。そんなに三本も四本も雪で濡れた薪を放ったらいくら轟々と燃えている火でも消えてしまう。お前が薪を焚べた後はやがて寒くなるから困ると言っているんだ。」

「お前は火について詳しいのか。」

「ゲリデのように毛皮を持たない甲亜が山でどう生きてきたと思っている。」

乙也は火が移りかかった薪を何本か戻して甲亜を問い詰めた。

獣人は獣と同じである。知性がなく、言語を持たず人を喰らう。彼らは火を忌み嫌う。自分を焼き殺すと知っているからだ。

けれど彼女は違う。火を使い知識を持ちそれを言語化できる能力を持つ。何ら人間とは変わらない。

「では湯の沸かし方はわかるか。」

「甲亜を幼虫だとでも思っているのか、容易じゃないか。」

乙也は愕然としてジンと顔を向き合わせてため息を吐いた。

人間と変わらない、いや違う百獣の少女という獣人は人間以上の能力を持っているのだ。そのことにやっと今気づいた。乙也、そしてジンや他の軍人は皆人間性を欠いた獣人の姿しか知らない。その存在はいつも人間より下だった。いやこれも格下だと誤解していただけなのかもしれなかった。

とにかく乙也は手足が震える感じがして、少しよろめくとジンが一人がけのソファを引き寄せてくれたのでそれに座った。

乙也はその時強く確信した。百獣の少女は今のこの国の仕組みを崩壊させる存在だと。

そして

¬¬———そしてお前はその心臓を穿つ存在になる。

乙也の脳裏で、嫌な声が浮かぶもすぐにぼやけて消えた。前の、甲亜を目撃してすぐ後の頃のような…

「乙也壱隊長、大丈夫ですか。最近本当にお疲れのようですけど。」

「大丈夫だ、もう寮に戻ろう。腹が減った。」

「はい。」

部屋を出る際に甲亜を振り返って見ると、掛け布団とシーツの間に挟まって眠ったように静かにしていた。


寒さが少しましになったその夜、乙也は見回りとその先で出没した鳥類を原種にもつ獣人と一級の犬種の討伐を済ませ基地に退いた。

ジンと行は夜の見回りは非番で、寮で休んでいた。今頃寝ているだろうと乙也は血生臭い外套を剥ぎ取って着ているもの全てを取っ替えてしまった。

綺麗な服に身を包むと、再びブーツの紐をしっかりと縛って甲亜が拘束されている牢獄まで向かった。

今日で甲亜を拘束して一ヶ月経つ。

甲亜はすぐ檻に放り込まれ、研究班により毎日のように血液や毛髪の採取、能力を発揮できる獣の種類の研究や対話の試みなどが行われていた。甲亜は後二ヶ月で処刑される身の故、水岐らの指示には割と素直に従った。

言われるがまま狼の耳をしまい、即座に鷹の翼を伸ばし、足の先を馬の蹄にした。

甲亜の血液、及び毛髪はこれまでの危険獣とも人間とも、更には獣人とも異なるものであった。成分的にまるっきり違う、最早血液と言っていいのかわからないほどだった。

鉱物が混じっているのだ。

ほんの僅かな、目で見ても指先ですりつぶしてもわからないが拡大鏡で見ると確かにそこにある。それは赤く燦然と輝くイオフィピネルという石だった。希少価値が高く、獣が多く潜む森奥に入り込まないとなかなか見ることも叶わない。

それをあの体の隅々にまで蔓延らせていた。その為研究班はそれ以前より一層熱心に、というより牽制するかのように甲亜を調べ尽くした。口内の構造、体の俊敏さ、瞼裏の粘膜の成分、排泄物の様子。切った爪がどうなるかさえ彼らは研究していった。

乙也がたまに様子を見に行くと彼女はぐったりした様子でベッドに横たわり、与えられた餌を食べていた。取り立てて不味くも美味くもない麦のリゾットをカトラリーを放って皿から直接口に注ぎ込んでいた。これは一ヶ月経っても変わらず、ジンや栄華が作法を教えるも聞く耳を全く持っていなかった。

乙也は甲亜が隠された部屋の前に着くとゆっくりと扉を開ける。するとそこには既にジンが居て、ソファに脚を組んで座っていた。

「乙也壱隊長!」

反射的に立ち上がって、組んだ脚を解くとジンは乙也にソファを譲ろうとした。

「いい、すぐ行く。」

「あ、はい。」

甲亜は鉄格子を皮膚の丈夫そうな手でぎゅっと掴んで、ジンと向かい合う形になっていた。

「甲亜、調子はどうだ。」

雑音のない静かな反抗が、瞳の鮮やかさに表れていた。無言で彼女は体勢を変えて横になる。

「ジン、今日もご苦労だったな。」

「乙也壱隊長こそ、夜中の討伐だったのでしょう。陸軍壱の寮のベルが鳴って行くか悩みました。」

「来なくて正解だ、最近寝ていないだろう。」

「…ええ。」

「甲亜とは、どんな話を?」

甲亜の前で、悪びれもなく訊くとジンは首を振った。

「目立った結果は何も…北部出身だということがわかりました。」

「そうか。」

初めて耳にすることだった。恐らく水岐や己臣もまだ知らない。乙也は褒めるように頷いて踵を返した。

「もう行かれるのですか。」

「言っただろう、すぐ行くと。まだ討伐の片付けが終わっていなくてな。」

「私も行きます。」

「ジンは行くな。」

乙也が言葉を返す間もなく甲亜が口を挟んだ。

「顔色が、ひどくくすんでいる。」

乙也は、その言葉に目を張らずにはいられなかった。

「お前、ジンに情が湧いたのか。」

「嫌な言い方だ。」

それっきり甲亜も乙也もジンも口を開くことができなかった。

ジンは毎日ああやって、百獣の少女の元を訪れ会話をし、時には緊張を解くことがあったのかもしれない。乙也はそれを考えると吐き気に似た感覚がした。ジンのことも、甲亜のこともそして自分の意思さえもよくわからなくなっていた。獣人が人間に情を移し、労わるような言葉をかけた。

ありえない。乙也は扉を強く閉めると、何かに追われているかのように歩く足を早めた。靴裏が床に当たって、痺れるほど脚の骨に響く。

「そんなこと…」

——あるんだ。だってあの石は…

「一体誰が俺に話しかけている!」

脳の中の誰かは、いつも乙也の咄嗟の感情を誘発する。

乙也は、長く冷たい廊下で蹲った。まるで祈るみたいに、頭を抱えるしかなかった。


「それ、よっぽど疲れてるんじゃないか?」

脳内で揺れる声の話をすると埜環はそっぽを向きながらそっけなく返事をした。

「おい、溢すぞ。」

「い、あぶね。」

乙也と埜環はその日の討伐を終えると久しぶりに繁華街へ飲みに行った。甲亜を拘束して一ヶ月と少しが経ち、捜査班も甲亜の出身地の特定やイオフィピネルの発見などに尽力した。ここ最近、乙也はそればかりで何だか今日討伐したのが久方ぶりな気がしていた。

埜環はここのところ研究班に協力と言う体の命令を下され、基地の北へ南へ走り回っている。

「あの歌い女、見てみろよ。すげえ美人。今日入ったんだと。」

「お前は見すぎだ。」

その酒屋には濃い茶髪の若い歌い女がいた。

鼻はすっと高く、体は細く首は長い。色白の顔に少し近づくと、粉で隠したそばかすが見え隠れするのがどこかくねっぽく、美しかった。

「いくつなんだろう。男いるのかな。」

「美人はやめとけ。痛い目に遭うぞ。」

歌い女は茶水晶のように透き通った瞳で、客を滑らかに撫でた。途中乙也と目が合い、その奥まで引き込まれる感覚がした。

「おい、今の見たか。俺を見つめた!」

「はいはい。」

隣で喚く友人を宥めて、乙也はテーブルに乗った自分の酒をぐいっと飲み込んだ。つまみを何個かまとめて口に放って、また酒を飲んで流した。基地内の食堂以外でする食事自体久しぶりなのに、なぜか贅沢をする気になれない。

意識の裏で甲亜のことを考えていたら、先ほど頼んだ軽食が運ばれてきた。

「軍人さんも大変ですねぇ。」

明らかに小馬鹿にした手伝いの男の言い方に乙也も埜環も眉根を寄せたが、それ以上何もしなかった。いや何もできなかったのだ。軍隊は国民の血税によって潤っている組織である。

それを客として最低限扱ってくれているのだ。もう、文句は言えなかった。

「あなた方軍人さんなのですね。」

突如柔らかな声が耳元を掠め、花のような甘い匂いが鼻腔を抜けた。

乙也が素早く振り向くとそこには彼女がいた。歌い女である。指通りの良さそうな髪を横に流して紅をさした唇で嫣然とする。

「う、お。」

埜環は目の前の美女に呆気を取られ、周りの客も口を開けて女に釘付けになった。彼女の所作一つ一つが男の視線の自由を奪う餌になっている。

「私の父も軍人です。あなた方と同じ獣伐軍でした。」

「…でしたと言うことはもうおられないのですか。」

声をまともに出せずにいる埜環の代わりに乙也が問うた。

「ええ。空を飛んで獣を撃っていたんですって。ここに座ってもよろしいですか?」

「勿論。」

女が指したところにあった椅子を乙也が引いてやると彼女は軽そうな体を姿勢良く乗せた。

「私は乙也と言う。さっきからあなたに見惚れているこいつは埜環だ。名前は。」

「セレナです。」

店のうるさい話し声を掻い潜って聞こえてくるその音はとても華奢なものだった。

セレナは青いドレスに身を包んでおり、その裾を器用に畳んで座っていた。

「お酒お注ぎしましょうか。」

「そうか、君はこういうこともするのか。」

「え?」

酒の入った瓶を持つセレナの白い手を咎めるように言うと、彼女は子供みたいな顔で不思議そうにした。

乙也は黙って瓶を奪い取り、飲む分だけをグラスに入れて蓋を閉めた。それから三つの小皿に軽食を分けるとそれを埜環とセレナの前に置いてやった。

「ありがとう。」

歌い女はすぐに礼を言ったが、まだ幼なげな顔で乙也の心情を測っていた。

「君は、男に酒を注ぐのか。音楽家じゃないのか。」

独り言のようになってしまったそれに、乙也はどう続きを加えようか迷った。フォークで無造作に料理を刺して咀嚼してもあまり美味とは感じられなかった。

セレナは無言でいる。

埜環は完全に彼女にのぼせている。

「お父様はおいくつなんだ。」

「存命なら今年六十三になります。」

「殉職なされたのか。」

「ええ…私が生まれてすぐに。」

「苦労したんだな。」

そう返すとその通りのようで、下手に笑って誤魔化そうとしていた。無理した笑顔はあまり似合わなかった。

セレナは何をするでもなく、乙也と埜環のそばでただ座って酒が喉を通るのを見ていた。酒を飲まない者の前で自分だけ飲むと言うのは、あまり心地のいいものではないがその時は何だか悪い気はしなかった。

「君はいくつだ。」

「さっきから何だか声が無愛想で、私少し怖いです。二十二です。」

「すまない、元からだ。私は君の五つ上になる。」

この返事は気に入ったようで、そうですかと朗らかに笑っていた。この方が似合うと思い、乙也の口元も少し綻ぶ。


「埜環、立て。もう行こう。」

「せえ、セレナちゃん…」

「またいらしてください。」

奉仕的な歌い女は二人の軍人を外まで見送ってくれた。肩のない薄い服では寒いだろうから、店を出てすぐ道を曲がって姿を隠した。

乙也は女の甘い香りに酔ってしまった同僚を肩で担いで、基地まで持って帰りわざわざ空軍の寮にまで連れてやった。埜環の部屋は知っていたので、そそくさと扉を開けて入ると中は空き巣に入られたように散らかっていた。

友人をその場にほっぽって、自分も部屋に戻ろうとした時。

空軍用のベルがきんきんと激しく鳴った。

それに人の怒号や激しい足音がいくつも重なる。丁度、乙也の向かう先からだった。空軍の寮と陸軍の寮が面している箇所である。

乙也が足早に向かうと若い軍人同士が言い争い、武器を振り回し同僚の頭を打ったり固く作った拳で頬を殴り合ったりしていた。

目を凝らすと空軍と陸軍の数人が入り混じっていることがわかった。空軍は陸軍を、陸軍は空軍を相手に喧嘩をしている。

その中に、深もいた。

「研究班の研究はどうなってるんだ!」

「そもそもそっちの捜査班が俺たちを振りましているんだろう。」

「そうだ!栄華弍隊長まで取っていきやがって。」

「それはお前が栄華さんに惚れてるからだろ!一緒にすんな!」

「何だと!」

「お前たち。」

空軍の一人に掴みかかった深の手を止めて、声を響かせると草花が萎れていくように静かになった。

「どうしたんだ、こんな時間に廊下で。」

「乙也壱隊長…申し訳ありません。」

「理由を聞きたい。どうしたんだ。」

全員怯えた顔をして、誰も口を開こうとしなかった。仕方ないので乙也は陸軍の者を自身の部屋に連れて行った。客用のソファに座らせて、茶を出すと深がおもむろに話し出した。

「空軍の奴ら、研究班が忙しくしてるのは捜査班のせいだって…百獣の少女って一体どんな獣人なんですか。あいつら怖気て百獣の少女を暗殺しようとか、市民に公表するとか勝手なこと言い出して…」

深や他の若い軍人は捜査班には加えず、通常の討伐に専念させていた。その為、彼らは甲亜のことを詳しく知らない。知らせていなかった。

「僕、鹿種と対峙した時百獣の少女が三級を連れ去ったのを見ました。翼を生やして…あんな恐ろしい獣人殺したくなるのもわかるけど、僕はそんな腰抜けなこと言いません。乙也壱隊長、あの獣人は何なんですか。」

「…お前たちにも少し話そう。漏らすんじゃないぞ。」

「勿論です!」

深の隣に座っている軍人が真っ直ぐとした目で答えた。

「よし。まず、百獣の少女という名称自体は知っているな。創造説やその手のおとぎ話によく出てくるあの百獣の少女だ。今回拘束したのは甲亜という名前を持つ齢十六の獣人だ。深、お前と同い年だな。彼女は百獣と言ったように狼の耳、虎の尾、鷹の翼など様々な獣の能力を使うことができる。そして甲亜の大きな特徴は知性と言語を持つことだ——」


「甲亜、お前は北部のどこ出身なんだ。」

明くる日ジンは稽古が終わると甲亜の部屋を訪れた。

「返事をしろ。言語はどう学んだ、あの二級のゲリデとか言った狼とは血を分け合っているのか。」

甲亜は、ベッドに仰向けで寝っ転がって天井を見つめているばかりでこちらに見向きもしない。ジンは仄かな苛立ちを息で吐き出して脚を組んだ。

この部屋に一つだけある一人がけのソファは、一日の大半をジンの温もりと共に過ごしていた。

「言葉はロクから学んだ。」

「…ロク。」

「鹿だ。」

「ああ、あの一級をそんな風に呼んでいたな。そう…鹿が言葉を…」

ジンは胸ポケットにしまった紙束に鉛筆でメモをした。聴取したことを忘れないように報告するためのものだった。

「寒い、薪を一つ焚べてくれ。」

「私に命令するんじゃない。」

吐き捨てながら立ち上がって、暖炉に乾いた薪を一本投げ入れると窓のカーテンを開けた。

真昼の景色はとても爽やかで気持ちのいい者だった。綺麗な風が曲線を描きながら温かい香りを運んでくるのがわかった。

「そういえば、お前は何月何日に生まれた。」

「二月十三日。森の中で暮らしていて暦なんてものは必要ないから、この日にち以外はあまりわからない。」

「何だ…今日じゃないか。」

「そうか。」

ジンがはっとして振り向いても、甲亜はさして興味のなさそうな表情で壁を眺めていた。

「この間乙也壱隊長が聞いた時に十六と言ったから、十七になるんだな。」

ジンは九月で十九になる。

再び窓の外に目をやると、ふと敷地内に小さな白い花が咲いていたのを思い出した。フリームという厚い雪からも顔を出す、小さいながらも強い植物だった。

「ちょっと待ってて、花を取ってくる。」

「花?なぜ。」

「人間はそうするのよ、いいから待ってて。」

ちょっと砕けた口調で宥めると、甲亜はこれまでの堅い印象とは裏腹な狼狽える表情を見せた。

年相応な、祝いに対する戸惑いを見られた気がして、ジンは自ずと口元が緩んだ。

部屋を出て監視役の軍人に敬礼をした。

獣や獣人が捕獲されている檻を通り過ぎ、研究室の前を早足で歩いて庭に繋がっているドアを開けた。

そこには、軍医が使う薬草や研究班が調合するための植物などが植えてあった。ジンはその片隅にひっそりと伸びているフリームを見つけて、二、三本横に折って摘んだ。

フリームの花粉はいつまでも朝露の匂いがして、ジンはこれが好きだった。深く吸い込むと何だかこの世界が穏やかさを欠くことも、静謐を見失うこともないように思えてくる。

そろそろ昼食の時間だ。食堂の方からは食欲をつつくいい匂いが漂ってきていた。

「早く戻って食事にしよう。」

ジンは軽やかな足で再びドアを開けて中に入り、甲亜の部屋に向かった。

「餌の時間だ、食え。」

廊下を曲がろうとしたところで肩を震わせ足を止める。少し覗くと、当番の軍人が甲亜のリゾットを運びに来ているのが見えた。

ジンは手に握った花をどうすることもできず、意味もわからず拍動を速める心臓を落ち着かせようとした唇を噛んだ。

右手の力を抜いて花を落とすと、踵の高い靴で擦り潰してしまった。自分の心もすり減る感覚がして、気持ちのいいものではなかった。

周りに見つかるのが嫌で、走って基地の中心部に戻り食堂に駆け込んだ。

基地の長い廊下を走っている間、ずっと肺の中が毒気を吸い込んだ時のようにきつく痛くなった。どうすることもできなかった。

胸骨の真髄の方がずくずくと痛む。

私はもうすっかり、あの獣人に同情している。

ジンはそう自覚した。


「どう思われます、十守つじもり先生。」

「先生だなんてやめてよ、もう軍医でも研究員でもない。今はつまらない薬剤師だ。」

「またそうやってご謙遜なさる。」

白く長い髪を一つで纏めた彼は、十守という獣伐軍の元軍医だった。二年前に右目の視力の低下が理由で軍から身を引き、今は薬舗を営んでいる。

「先生は以前研究班にもご協力なさっていたでしょう。百獣の少女のことで何か気になる部分はありませんか。」

乙也を狭い薬舗に何とか居場所を持っている丸椅子に腰をかけて、机で熱心に薬の調合をする十守に声をかけた。

薬舗の中は数多くの薬草やそれを粉末にしたものや、液体になったものが瓶に詰められたり天井から吊るされていたりした。薬草独特の鼻をつんとつつく匂いが外に漏れるくらい充満している。

「そんなこと喋っていいのかい。己臣さんに叱られるよ。」

「いいんです、ねえ、どう思われます?」

「うん…」

十守は垂れてきた前髪を掬って耳にかけて片眼鏡を調整する。乙也は返事がないので彼の無駄のない所作をしっとり見つめた。

彼はそれから木鉢で植物の小さな実を擦り潰した。実の皮が時折散って十守の頬に静かに当たる。緑の粉末と乾燥された薬草を秤に乗せて量を調節した。それもまた木鉢に入れて潰しながら混ぜた。彼は綺麗な髪や服の袖に草の粉をたくさん引っ付けていても気に留めずただただ薬を調合していた。

「十守さん、こんにちは。」

大きなドアを開けてそう言ったのは幼女だった。黒い髪の毛を一つに編んで、茶色の鞄を肩に斜めにかけている。

「やあ、ルクラ。」

「お母さんのお薬を買いに来たの。…お兄さん誰?」

「私の友達だよ。」

「どうもお嬢さん。」

ルクラと呼ばれたその幼女は五つか六つくらいで、小さな体で慎重に歩いた。乙也の姿を珍しいものを見るように上から下まで視線を動かした。

長いまつ毛をぱちぱちと上下させて

「お兄さん軍人さん?」

と聞こえるか聞こえないかほどの細い声で言った。

「ああ、そうだ。」

目線を合わせるようにゆっくり屈むと小さな客人は頬を仄かに紅潮させて朗らかに笑った。

「そうなんだ。お母さんがいつも言ってるの、軍人さんはいっつも私たちを守ってくれてるからお礼しなさいよって。」

そう呟くと鞄の口を開けて短い手で中身を探った。すっと取り出したその手には天井の灯りにきらきらと光るものがあった。

赤い石のネックレスだった。

「これあげるね。」

「いいのかい、こんな綺麗なもの…」

「宝物だけどいいよ。お兄さん頑張ってるんでしょう。」

ちょっと得意そうな口ぶりが微笑ましく思えた。頷いて首にかけてみるとルクラは眩しく笑った。

それから十守が先ほど調合していた薬を袋に詰め、甘味と一緒にルクラの鞄に入れてやった。

「ありがとう。」

「うん、お母さんによろしく。」

「はい。ねえ、お兄さんまた来る?」

「ああ、きっと。」

「わかった、きっとね!」

十守と乙也は幼女を見送ると椅子に座り直した。

「ああやって毎月肺の弱い母親の薬を買いに来るんだ。いい子だろう。」

「ええ。」

「…百獣の少女のことだっけ?」

「はい。」

乙也は十守のひりひりとするような鋭い声を久しぶりに聞いて口から出る言葉が震えた。重傷を負って叱られた時と似ている声色だった。

「わかった。私の見解を話そう、少し待ってくれ。」

十守は裏の倉庫に繋がっている扉を開いて穏やかな声を放った。

「マルス、もう今日はいい。これで食事でもしてきなさい。」

「いいんですか?このお金…」

「余っても返さなくていい。足りないようなら足すけれど。」

「いえ、十分です。ありがとうございます。」

少年の声は十守と会話すると裏口から出て行った。ドアの開閉音が聞こえた。

「あまり、手伝いの子供に聞かせていいものじゃないだろう。」

「…ええ。」

十守は子供に好かれる男だった。柔和な人当たりの中にある元軍医としての貫禄がそうさせるのだと乙也は思っている。

「どこまで話した?」

十守は軍にいた頃のような陰った顔でそう聞き、薬舗の出口までかつかつと靴裏を鳴らす。扉にかかった開の看板を閉に変えて乙也の側に椅子を持ってきてそれに腰をかけた。

「百獣の少女の目撃と拘束までの経緯とそれまでに上がった疑問点などです。これを見てください。」

乙也は甲亜のスケッチと記録を書き示した図と紙束を見せた。

「百獣の少女は創造説に出てくるそれとは少し容貌が違います。別として考えていただくのがいいでしょう。彼女は甲亜という名があり、知性と言語を持ちます。そして百獣と言った通り、様々な獣の能力を駆使することが可能です。そして甲亜は毒気を無闇に放つのではなく、上手く制御します。時によって獣の能力も変化させながら戦闘をする頭の切れる獣人です。他の個体とまるっきり違うのはすぐにわかります、それから」

「乙也。」

「え、あ、なんでしょう。」

十守は突然乙也の黒い髪を撫でた。彼の低い体温が髪の毛を伝って乙也の頬にじんわりと染み込んだ。

「楽しそうだね。」

「そんな。」

「そんなことあるだろう。私だって今、研究心を強く叩かれている。水岐さんが黙っちゃいないだろう。」

図星だったので困ったように笑うと彼は微笑み返してくれた。

「よくわかった、ありがとう。まずその甲亜とかいう個体のその能力は後天的なものでないことは確かだろうね。」

「そうですか。」

「研究班はもうそれに気づいているところじゃないか。今だって彼が率いているのだろう?」

乙也は深く頷いた。十守が指す彼というのは水岐のことだった。

「恐らくそんな能力を自力で、もしくは何者かの教育によって身につけたとしたならばもう少し図体が大きくて筋肉がつくはずだ。そうしないと獣の能力に体が追いつかない。そもそも人間から獣人になることも難しいだろう。」

乙也は彼の言葉を紙束に書き殴っていった。

「他に気になることは?」

「百獣の少女をめぐって陸軍と空軍が言い争うなど…大事ではありませんが悩みの種にはなります。水岐参隊長を支持している空軍が私が長の任を担っている捜査班をよく思っていないんでしょう。」

「空軍はつまらない言いがかりを言うだろう。水岐さんは能力があるが故に部下に信仰されすぎてる。」

十守の的を射た意見に乙也は緩く頷いた。

「ルクラがくれたそのネックレスを見せてくれ。」

「え?ああ、はい。」

繋ぎ目を外して十守に貸すと彼はその赤い輝きを覗き込んだ。

「百獣の血液にはイオフィピネルが混じっているんだったな。これはその原石だぞ。」

「え?本当ですか。」

乙也もじっと観察してみたが、納得できる要素がなかった。

「宝石商に見せてみるといい。高値がつくだろう。」

「金にしてあの子に返してやった方がいいでしょうか。靴のサイズが少しきつそうに見えました。生活が苦しいのでは…」

「野暮だぞ、もらっておけ。」

十守はまた柔らかい表情になって乙也の顔を目でなぞった。乙也は十守から返されたそのネックレスをまた首につけて一度だけ首を縦に振った。

「はい。」

乙也は広げた図面を畳んで上着の裏にしまった。

「それに、イオフィピネルは薬にもなる。知っていたか?」

「え、そうなんですか。」

乙也は思わず目を見張る。

「砕いて飲み薬に、水の中に入れて消毒水に。持っておいて損はない。薬師の中では話題になっている。軍にもいずれ噂が流れるんじゃないか。」

随分と価値のあるものをよくあの娘は人に差し出せたものだな、と乙也は感心してしまった。

立ち上がって礼を言うと十守は

「もう行くのか。」

と僅かに寂しさを表情に出した。乙也はそれがむず痒くって返事ができなかった。

「また話そう。気をつけて。」

「はい、ありがとうございます。」


基地に戻ると丁度見回りの時間だった。

今回は南部の川沿いにある森林を監視することになっていた。

川が通っている場所には魚類の獣が住みつき、その類の獣人はひれを上手く使って川から這い上がり近くの民家を静かに襲う。

「最近魚類による被害が多いようだな。」

「ええ、海軍の設置を早めてほしいものです。」

独り言のような響き方をした乙也の言葉に伴俐は眼帯を直しながら返事をした。

乙也は重いコートを羽織ると一番上のボタンだけ閉めて、ブーツの紐を結び直すとルクラからもらったネックレスをそっとシャツの中にしまった。

「それ、どうなさったんです?」

見兼ねた伴俐がにひゃっと笑いながらからかった。乙也は誤魔化すように微笑み返して馬房に急いだ。

乙也の愛馬、ヘクトは何かを感じ取っていたのかいつもよりも動作が多く落ち着かない様子だった。鞍を乗せると大人しくなった。ヘクトは馬具の装着を嫌がらずに応えてくれる優しい馬だった。茶色い毛が綺麗な体を撫でるとヘクトの熱い体温がしっかりと手袋を伝って乙也の手のひらを温める。

「ありがとう。今日も見回りだ、共に働いてくれ。」

綱を引いて馬房の外に出、集まりつつある陸軍壱の集合場所に向かった。隣で歩きながらヘクトの飴玉みたいな瞳を覗き込むと、長いまつ毛がそれに影を落としているのが見えた。目頭は涙が垂れて夕日にうるうると光っている。美しい二重幅が眼球を囲んでいた。

ただ見ているだけなのに、乙也の目頭も涙で濡れそうだった。

私が死んだら、ヘクトは誰に乗ってもらうんだ?

自問する。

いない。そんな者はいない。いたとしても私以上にヘクトとわかり合い、乗りこなすことなどできるわけがない。

自答する。

乙也が旅人か何かで、ヘクトがその相棒だったら彼は乙也より早く死ぬだろう。しかし乙也は軍人でヘクトはその馬だった。どちらとも、すぐに死ぬことができる。

一級の狼なんかに喰われてしまえば、乙也は終わりだ。ヘクトよりずっと、馬よりずっと死ぬ運命にあるのは乙也だった。

いや乙也でないといけなかった。

人間の意思で獣に向かって馬を疾駆させている以上、人間がその報いを受けなければならない。

乙也は心の大河を二つに分岐させた。もう、交わることはないのかもしれない。

「ジン、人数はどうだ。」

「騎兵、十二人が未だ集合していません。」

「わかった。あと四分で出る。」

「はい。」

コートを羽織っているジンに声をかけ、今の人数を確認すると列の前に立って連絡役の軍人を待った。

「補給班、軍医全員揃いました。」

「よし。お前も馬を連れて並べ。あと三分もない。」

「わかりました。」

少年とも言っていい軍人は食いつくように頷いて馬房に力一杯駆けていった。

乙也は馬房や基地から次々と軍人が集まってくるのを眺めて、眉根を寄せた。

馬と同じように、若い彼ら彼女らもまた乙也が死ねば誰に従おう?乙也が獣伐軍に入らなければ、軍人にならなかった者もここには何人かいるだろう。上司に自分の命を預け、使わせ、極限までいけばそれを散らす。それを彼ら彼女らは本当に望んでいるのだろうか。

ジンだって高価な服飾に身を包んで、歳の近い男の元に嫁ぎたかったに違いない。伴俐だって両目であの美しい夕焼けをずっと見ていたかっただろう。行も深もしたいことがあっただろう、一度くらい若い女にうつつを抜かしてみたいだろう。

あの甲亜だって獣人でさえなければ、あんな風に狼の親を思って泣くこともなかったのかもしれない。

誰も終わらせてはくれない思考を頭から引き剥がした。

「さて四分経った。揃ったな。」

いつの間にか静かになった軍人たちの列を見て乙也は高らかに吠えた。

「それでは南部川沿いの森林へ見回りに向かう。全てはこの国の安寧のために。」

獣のような軍人たちの鳴き声が陽の沈む空に響く。


「この辺ですね。」

「すまないがジン、私にも地図を見せてくれ。」

「ええ。」

目的地に着くと乙也率いる壱部隊は班に分かれて見回りを開始した。

乙也はいつもの通りジンとその他の若い軍人を自分の班に入れ、伴俐と行にも一つずつ班を持たせることにした。彼ら以外にも慧那えなとキトという名の男の軍人に班を割り振って任せた。

乙也の班は比較的川より遠い森林内部を担当とした。着いた頃にはもうすっかり日が暮れて、皆一人ずつランプを掲げて見回りをした。

「いないな。もっと奥に入ってみよう。」

夜の森はまるで樹林の鉄格子が地から聳え立っているようであった。その幹の表面は鱗のように乾き、逆立っており空気中の水分を全て吸い取ってしまいそうな静かな威圧を感じた。

乙也はヘクトをゆっくり走らせ、一層奥深くまで進んで行った。

その時、ジンの馬がひくりと脚を止めた。

「ユニ、どうしたの。」

ジンの馬はユニと言う名前を持つ、機敏な奴だった。勘も鋭く、遠くからの応援にも気づく。

「ジン、待てあれは何だ。」

乙也はユニの視線を伝って、その奥に目を凝らした。そこには木々の鉄格子だけとは思えない夜の澱みが充満している。

「総員、伏せ!左手に標的確認。マスクと眼鏡を装着の上毒矢を構えろ!」

乙也は喉を震わせて吠えると、自身も重厚なマスクを当てがい、透き通ったレンズを視線に挟むとヘクトを止めて弓矢を構えた。

暗がりに身を隠しているのは、一級の狼種だった。灰色が乙也たちのランプに明るさに照らされて甲亜の頭みたいに銀に光った。

この狼種以外に獣は見つからない。乙也は周りを見渡し、自分の班の軍人が震える指先で矢を掴んでいるのを見て唾を飲んだ。眼光で射止める勢いで眼脂だらけのそいつの目を睨む。

「総員、討て!」

狼の分厚い毛皮にいくつもの矢が突き刺さる。狼は吐息程度の小さな呻きを上げて、こちらの技量を嗤うかのようにのろのろと足を動かし、乙也たちとの距離を詰めた。

乙也は音響弾を取り出すと黒い空に向かって力一杯に引き金を引いた。ガンという破裂する音が何本もの樹林に反響して重なって聞こえた。これで他の班にも獣が出たことを知らせ、マスクと眼鏡の装着を促す。

それに加え連絡役の軍人が近くの小さい基地に派遣されている騎兵や砲兵を呼び協力を要請することにも使われる。

「ガス弾用意!ジン、お前は右目だ私は左目を狙う。」

「はい。」

乙也とジンは持ち合わせている中でも特別毒の効能の強い矢を取り出すと、腕を強張らせてしっかりと構えた。

皆、少しずつ後退り一級との距離を置く。しかし狼は嘲笑を太らせるように、くわっと顎を開いて黄ばんだ歯を見せた。

「投下!ジン、討て!」

「はい!」

乙也はガスが投げられた弾から広がり、狼を取り囲んでいくのを空気の動きで察することができた。

一級は瞼から滝のように赤い液体を流しながら、荒くなってきた息遣いでも尚歩みを止めなかった。たじろぐ暇もなくその太く重い足を動かしていた。

「当たったのに、怯みもしない。」

ジンは悔しそうに怒鳴った。自分の弓矢が弾かれたようで無力に感じたのだろうと乙也は想像した。そのような感情にならば何度も苦しめられている。

「乙也壱隊長!」

「来なくていい!そこで声を張れ!」

連絡役の若い軍人が後方で乙也に向かって鳴いていた。彼は必死に砲兵と騎兵を連れてきたのだと伝えてくれた。

「乙也!俺は後方から弓で狙おう。」

班を任せたキトは弓矢の腕がいい。部下であるのに歳が上だという理由で乙也を弟のように呼ぶ。

「私は銃弾を撃ち込んでやります。」

慧那は女のように伸ばした黒い髪をフードから覗かせて馬に揺られている。彼は銃が上手でどんな状況にどんな方向からも確実に標的を狙える陸軍の骨組みだった。

「キト、慧那、すまない。応援に感謝する。砲兵!」

「はい!」

「砲弾は後何秒で撃つことができる。」

「三十秒もあれば、」

「十五秒で済ませろ!」

乙也は思い切って狼を後方の軍人に狙わせながら、標的を囲むように騎兵を移動させる算段を立てた。

「騎兵、標的を囲え。後方の班長と砲兵は撃つ撃つ撃つ!いいな!」

怒号とも取れる乙也の声が鳴り響いた。狼をすぐさま馬に囲わせ弓矢を構え、ガス弾のピンを抜き投下する。

乙也が先ほど指示してから丁度十五秒で砲兵たちの合図があり、砲弾が一発撃ち込まれた。狼の腹部がそれを負い、臓腑をどろどろと垂らしていた。足を止めて自我の身体に感覚を研ぎ澄ましている。やっと軍人たちを嗤うのをやめた。

乙也は肩の力を微かに抜いて、息を吸った。

その間もキトの毒矢は心臓を狙い放たれ突き刺さり、慧那の銃弾は五感を奪っていくように耳を撃ち抜き鼻の先を抉り眼球を飛ばした。

もはや、その血みどろの物体は生物かも話からない、ただひたすらに物体として存在していた。その森に秩序を踏み躙り皮膚の下の脂を垂れ流し、毛皮を自分で汚した。醜い、生きるという渇望がその狼を唸らせている。

「待て、あいつ…」

キトの呟きが、乙也の耳たぶをなぞった。

「あ、あいつまだ歩ける…」

砲弾で打撃を負った腹部を隠すように足を、前に前に前に伸ばして一歩進んだ。

それは人間にとって軍人にとって恐怖の一歩であった。乙也は合図で皆に攻撃を促した。乙也は我武者羅になって矢を何本も放った。

途中で一本折れてヘクトの立て髪に粉になった矢の羽部分が落ちていく。

こんな奴が、陸軍の一番目の分隊長なのか。

自問する。大きな河は流れを止めずに裂けていく。

爪が痛い。標的を凝視しすぎた目も痛い。神経も、筋肉も口内でさえ力を込めすぎて苦しい。乙也は視界を霞ませぬように努めて、二個ガス弾を投げ打った。いやしかし狼はその足を止めない。毛皮も脂肪も筋肉も裂けて骨が露わになったその前足でただ進み続けている。

その場にいる軍人全員が粟立つ思いをした。狼の、もうなくなった顔を見る。乙也はなぜかそれが

——「ゲリデ…大好きなゲリデ…」

もう獣とも言えないような姿の狼がなぜか、甲亜の父親に見えた。

「討て!絶えず討て!負傷者はいないな。絶えず討て!」

それから伴俐と行の班も討伐に加わったが、狼の動きは止まらなかった。決して速くはないが身体能力の再生を繰り返してどうにか足掻いていた。

「ああっ!」

その時慧那の班に割り振られていた、若い軍人が低い呻き声を上げた。顔の上半分が血で汚れており、馬と一緒に薙倒れていた。

「おい、どうした。」

慧那は引き金を引く手を止めて彼の元に向かって覗き込むと、その若い軍人の眼鏡のレンズが割れて毒の含む血液が顔に塗れているのがわかった。

慧那はそいつを担ぎ馬に乗らせて俊敏に走らせた。近くに居た別の騎兵に任せると

「近くの基地まで頼む、軍医に見せろ。」

もう、あんな大量の血液を粘膜に浴びてしまっては助からないことはわかりきっていた。

負傷した本人も、慧那も乙也もその場にいる全員が当然のように知っていることだった。

しかし全員が当たり前のように頷いた。

珀矢はくや!私の失態だ。あとで私を殴れ!」

乙也は泣き叫ぶようにそう言った。

その若い軍人の名前は珀矢という。

軍人たちは皆、裂ける大河から目を逸らして生ぬるい唾液を飲み込んだ。現実から逃げて少しでも、珀矢が助かると思いたかった。

「お、おい!」

乙也たちを包囲する、切迫のまどろみを切り裂いたのは若き軍人の声と足の音だった。酷く重く、力強く誠実な音だった。

「おいお前!百獣め!戻ってこい!」

百獣だと?乙也は咄嗟に振り返るそこには

「乙也!撃つのをやめろ!」

百獣だ。百獣の少女、甲亜が四つ這いになって冷たい地面を必死に駆けている。両手両足には鎖が分断された枷がまだ残っている。

「甲亜…なぜお前が。」

甲亜は豹の足に兎の耳を伸び伸びと気持ちいほどに伸ばし、鷲の翼を広げた。振り返った時にはまだ片腕くらいしかなかった大きさの翼が、みるみる成長し片方だけで二頭の馬の全長を覆ってしまうほどの大きさになった。

「乙也!いいからその弓矢も大砲も銃もやめろ!」

甲亜は駆けて駆けて乙也に近づいた。目を見張る速さでその脚を動かす。

乙也ははっと我に返って、向かってくる甲亜を咎めるようにヘクトを走らせた。

「甲亜!どうやってあの牢獄から出た!おい、監視役の軍人はどうした。お前らでなぜ対処できなかった!どうなってる!」

「乙也!阿呆なのかお前は!」

伴俐とジンがすぐに反応し、怒鳴る獣人を囲んだ。慧那は突如現れた特殊な獣人に震える手で銃を握り、キトは冷や汗を額に伝わせながら弓矢を構えた。それらの微かな音が甲亜の耳に入ると、彼女は

「阿呆だ。」

今度は荒々しい語気をやめてただ呟いた。

「手を上げて膝立ちになれ。乙也壱隊長に歯向かうんじゃない。」

伴俐が温度のない声を響かせた。ジンが甲亜を押さえ込もうとすると、その獣人は唸りもせずに即座に避けた。彼女の額には脂汗が滲み、呼吸は乱れ肩は不規則に上下している。牢獄のあるあの基地から、もし自力で抜け出しそのままここまで駆けてきたとするなら、現実味のないことだった。

乙也は自分の目を何度か瞬きをして、甲亜を見つめた。

彼女は黙って、しかし伴俐の命令に従うこともなくそこにただ立っている。目で、その強い眼光で伝えている。

——「甲亜の心をこんなに痛めつけて何がしたいんだ!」

「…総員、腕を下せ。弓矢を構えることをやめて、ガス弾をしまえ。」

「乙也さんっ」

「伴俐、黙っていろ。」

乙也は、自分でも何を言っているかわからなかった。固唾を飲んで彼女に向かって

「何か策があるのだろう。」

と問いかけてみた瞬間、甲亜は乙也たちの間を潜って翼で素早く飛び上がり焼け爛れた狼にぐんぐんと近づいていった。

「おい!」

「甲亜!」

軍人たちが声の小石を彼女に投げる間もずっと乙也は何も言えずただ、それを眺めていることしかできなかった。

狼はもう狼としての形をなくし、血を森に溜めている。甲亜はそれの右側の胸に飛び込んで手を伸ばした。

「火傷するんじゃ…」

ジンが痛々しいと言った風に顔を顰めて漏らした。甲亜も砲弾で焼けた血に触れて少し肩を震わせたが、それでも狼に手を押し付けて丁度心臓の音を聞くように耳をぴったりと合わせた。熱いのか、痛いのか、苦しいのか、走りすぎて呼吸がめちゃくちゃなのか彼女は目一杯に涙を溜めてそれを静かにに流した。微かな狼の息遣いが、静まった森に溶け込んでいく。少女の泣き声がガスと火薬の匂いが混じった冷たい空気に消えていく。

「会いに行こう、大好きな巣に帰ろう。もう疲れただろう。頑張った。もういい、もういいよ。」

甲亜は、涙を流しながら唱えるように呟いた。

「もういいよ、辛いのはもう終わりだ。大好きな森に帰ろう。」

乙也は、大きな翼で浮かぶ甲亜の姿をじっと見て、絶望した。

狼が、もうそれともわからない物体が血を流しながら奥に引き返していく。骨だけの足を引き摺って、眼球をなくし何も見えない状態で帰っていく。恐らく彼の家へ、生まれた巣へ、仲間の温もりを感じられる場所へ。

「もう、戦わなくていい。」

やがて狼は完全に見えなくなり、暗闇の奥で

倒れる音が聞こえた。すると乙也は怯えたヘクトを懸命に説得して狼の近くまで向かわせた。なぜだか、弓矢を構えることができないでいた。

「死んでいる…」

死んだ。

朽ちた。

総出で砲弾まで持ち出して負傷者まで出しても、死にきれなかった獣がやっと死んだ。

甲亜の声で、戦意を失って死んだ。

「甲亜、お前何をした?」

彼女は火傷した手のひらの痛みをぐっと堪えていた。翼の羽ばたきが遅くなり、苦しい表情で空中から乙也の少し前に落ちた。

「おい。」

乙也はヘクトから下りて、甲亜の顔を見ると狼に当てた顔の右側が血と熱でどろどろになっていた。朦朧としている意識の中、彼女の瞳は天を見上げている。

「おい、生きているか。甲亜、お前何をした。狼はもう死んだ。お前どうやったんだ。」

乙也はぐらぐらと甲亜の肩を掴んで何度も揺すったが答えることなく、瞼を閉じてしまった。

「おい…」

呼吸はしているが、体のあらゆる所が血で赤く染まっていた。ランプに照らされて反射するのが、乙也の目には痛かった。

乙也はその目元を手の甲で擦ってから、甲亜を担ぎ上げた。

「乙也、俺が持って行こう。」

キトは顔を顰めて不満げに言った。おそらく甲亜の言葉を飲み込んだ乙也のことが気に入らないのだ。乙也はその申し出を頭を振って断ると彼は一層嫌な表情をした。

「なんでお前はあの百獣の言うことを信じた?今回は獣が死んだからいいものの、あやつが狼を前の鹿種を連れ去った時のようになったらどうしようと思っていたんだ。お前は壱隊長のくせに考えが浅すぎる!」

「口を利けなくしてやろうか、私の部下だということを忘れるな!」

「なっ…」

キトは唇を血が滲むほど噛んで、その長い脚で地団駄を踏んだ。

銃を構えていた慧那はそれを下ろし、乙也の隣に寄った。馬から降りて甲亜の顔を覗き込む。

「初めてこんな近くで姿を見ました。顔は至って普通の獣人ですね、髪色は特殊だけれど。」

「早く近くの基地にいる軍医に診せよう。慧那、狼の処理を頼めるか。」

「はい。…百獣はどうされるおつもりなんですか。」

乙也はヘクトに甲亜を乗せて、自分も這い上った。

「どうとは何だ。三ヶ月もしないでこいつは処刑するが。」

「それは己臣陸軍隊長から伺っております。貴重だけれどサンプルを取り終わったら本人の意向で、乙也壱隊長が殺すと。」

慧那はその光のない濃い黒目で乙也の顔をじっと見つめた。冷たい表情を崩さず手で強く馬の手綱を握った。見えない感情を滾らせているのが、乙也の背中を粟立たせた。  

「お前が殺りたいのか?」

「いえ。」

慧那は馬を連れ、ランプを掲げ森の奥に向かって歩き出した。外套のフードを深めに被って、顔を隠した。

「喰われないように、お気をつけください。」


甲亜の体は重度の貧血と、肩の脱臼により疲弊していた。貧血は基地から森林まで走ったことによるもので、肩の骨は空中から落ちた時に外れたのだと考えられる。

しかし馬の全長の十倍ほどある高さから脱臼で済んだと言うのは、驚くべきことだった。

軍医が手術を済ませてから三日すると甲亜は欠伸をしてむくりと起き上がった。それまでの間夢の中をゆらゆらとしていたらしく、意識が完全に戻るまで少しの時間を要したが体調に問題はないだろうと様子を見に来た槻見医師に言われた。

起きた時に手を引っ張ったり暴れたりしてはまた脱臼しかねないという理由で、手と足の枷は取られ首輪は緩く調整された。甲亜はそれから飼い犬のような状態で再び牢獄の寝床に放り込まれたままでいた。抵抗はしない、脱出も暴言を吐くこともゲリデが死んだ時のように泣くこともなかった。

ただ目を覚ましてからぼうっと空間を眺めているだけだった。まるで意識と体が離れて反対方向に放たれてしまっているようだった。

「甲亜。」

乙也はその日、甲亜の顔を伺いに討伐が終わった後、基地北部の牢獄に足を踏み込んだ。軍に入ったばかりの頃、上司にここへ案内された時は身の毛がよだつ感覚がした。咄嗟に自分のナイフに手をかけてしまうほどだった。恐怖のあまり自分の手首を切りたくなった。

乙也は、死ぬことが怖いのではない。獣を恐怖しているのだ。

甲亜は声をかけられても尚、虚空に囚われていた。槻見に問題ないと言われたものの、乙也は精神の状態が気がかりだった。朝目を覚ましてもう今は日が暮れている。

「甲亜、言葉を話せ。体はどうだ。」

顔を覗き込んでみても、濡れた薪を暖炉に四本放っても、ナイフを鞘から出してみても、鼻歌を歌ってみても何もない。

何も反応を示さなかった。

まさか

まさか、獣人に成り下がってしまった?知性も言語も持たない、ろくな意思表示をしないただの獣人になってしまったのか。乙也の脳裏を苦い考えが掠める。

「どうやってここから逃げた?あの一級の狼種に何をした?あいつが瀕死でありながら死にきれないとわかっていたのか?」

「…鳴き声がした。」

「え?」

三日ぶりに聴く彼女の声はどこか切なかった。

「泣いている声が聞こえた。」

「鳴いている音が?馬鹿を言え、基地からあの西部の川沿いまでどれだけ離れていると思っている。」

「訳のわからないことを言っているのは乙也だ!それと馬鹿は馬と鹿に失礼だ。乙也は馬に乗っておきながらそんな扱いをするのか。甲亜が聞いたのは音じゃない、声だ。ゲリデの血が分けられたものが、甲亜の管の中で振動したんだ。」

わからない。乙也は首を震わせた。甲亜の血液の中に獣と連携しているものがあると言うのだろうか。

乙也は深いため息を吐いてソファに沈むように座った。脚をだらしなく開いて目頭を右手の指で摘む。

「あの一級に名前はあるのか。何て言ったんだ。」

そのままの姿勢で小さく呟くと甲亜も無気力な声色で淡々と答えた。

「知らない。甲亜は北の生まれだ。生まれた土地から離れることはなく暮らしてきた。あの狼には会ったことがない。」

「随分と饒舌になってくれるな。どうした。」

そう畳み掛けると一瞬かちっと嵌った視線を離されてしまった。乙也はもう一度ため息を吐くと立ち上がって窓の外を覗き込んだ。雪が降っているのが月の光で朧げに見えた。

「帰ろうって、言ったんだ。ただそれだけ。」

か細い声に振り向くと、彼女は俯いていた。まるで露出した感情を見せないように必死になっているように乙也には感じられた。

「…お前はどう生きてきたんだ。森の中で獣と暮らしてきたのか。」

語りかけるように問うと彼女は小さく頷いた。

自らも窓の外を見ながら口を開く。

「…北の深い森の中で生まれた。父親はゲリデ、母親はわからない。ゲリデが教えてくれないんだ。ゲリデにはフレデという相棒の狼が居た。兄弟のように似ていて、賢くて甲亜には猟を教えてくれた。耳のいいロクが人間の言葉を教えてくれた。鷹のルフェル、鷲のフレスはいつもどっちが向こうの山まで辿り着けるか競い合っていた。彼と彼女は甲亜に風の乗り方を教えてくれた。背中に乗ったこともある。甲亜の寝床はいつもゲリデの腹だった。体が汚れた時は滝のある方まで歩いて行って洗った。食事は食べる分だけを捕まえた。みんな川の魚を啄むのが好きだったからよく魚を獲った。生でも食えたけど、冬は焼いて食うのが一番だった。豹のディアノは兎の肉が好きでいつも追いかけ回していた。でもとっても綺麗な目を持つ美人なんだ。美しい声で甲亜に歌を教えてくれた。みんなが、甲亜の家族なんだ。火の扱い方だって服の作り方だってみんなが教えてくれた。」

甲亜は喋り終えると口を固く閉じてベッドに横になった。疲れているのか少し顔色が悪い。乙也は監視役の軍人に暇な者がいたら伝えてくれと伝言を頼んだ。疲労回復に効果のあるお茶と栄養価の高い甘味を何種類か持ってくるようにと。

乙也はソファに座り直すと前屈みになって寝転んでいる甲亜の顔を見つめた。

「あの一級の狼にしたことを、他の獣にもできないか?」


乙也は朝になると、まず槻見のいる医務室に足を運んだ。珀矢の様子を見に行くためだ。

彼の目は機能しなくなり、完全に失明していた。光を目元に感じることも、闇を覗き込む事も勿論、弓矢で標的を狙うこともできなくなってしまった。

顔の上半分が爛れたような火傷痕を覆って包帯が巻かれていた。彼の空のように青く光を反射する瞳は、今やもうない。

「珀矢。」

「…あれ、その声は乙也壱隊長でしょうか。お疲れ様です早い時間ですがどう」

「すまなかった。」

珀矢の口だけの表情が、耐えられなかった。彼は糸で引かれたように笑って、声を紡いで傷だらけの体を壁に預けていた。

乙也は槻見が用意してくれた椅子にも座らず深く頭を下げた。珀矢の色白の肌に傷をつけてしまったことを嘆く他できることがなかった。いや、長としてしなければならないことがある。乙也は自覚していた。けれどそんなもの、気休めにもならない。

どうしたって、あの純真な目の少年は戻ってこない。

ここには戦いに未来を擲った、一人の負傷兵がいるだけだ。

「私が、もっとしっかりしていればよかったんだ。何も悪くない、お前は何もしていないのに。」

幼稚な言葉しか並べられない自分に憤った。今すぐ腰に刺したナイフを自分の首に突き刺してしまいたいと思った。

「乙也さん、お座りになってお茶でも飲んでください。ほら、眉間に皺が。」

槻見はそっと乙也の眉根に温かい指先で触れた。彼の眼差しは涙ぐむくらいに優しく、肌の感触は何だかしっとりとしていて老いを感じさせなかった。それが乙也を一層安心させ、苦しくもさせた。

高価なベーリー茶を医師から差し出された珀矢は、そのカップをそっと受け取ると匂いを感じ取って驚いた顔をした。

乙也も座ってその温度のある液体を喉に通すと、やっと深呼吸ができた。心臓を生かす呼吸という行為を無意識のうちに上手くできなくなっていたのを今更自覚した。

「珀矢さん、目の痛みはどうですか。」

槻見も二人の側に椅子を持ってきて腰をかけた。

「ええ…あまりいいものではありませんが生活には慣れてきました。」

珀矢は美味しそうにお茶を飲んで息を吐いた。

彼も上司に見張られているようでは休めないだろうと乙也はカップを空にするとそそくさ医務室を出た。

「乙也さん。」

扉を閉めかかったところで槻見の声に止められた。鼻に乗せた眼鏡を直すと彼は白衣の胸ポケットから小さな布袋を取り出した。中身の凹凸が表面に表れていた。

「これ、フィーリャの花弁を砂糖づけにしたとっても美味しい菓子なんですよ。乙也さん前から砂糖づけが好きでしたでしょう、召し上がってください。」

槻見は紐で縛った袋を開けて見せてくれた。乙也が覗き込むとそこには少女の頬の色に似た花びらが何枚も、白い砂糖に包まれて重なっていた。

「覚えていたんですか。」

「ええ、街で買ってきました。あまりご自分のことを傷つけてはいけませんよ。あなたは少し自分の体を痛めつけようとする癖がおありだから。」

先ほど、ナイフに手をかけようとしたのを見られていたんだと乙也は驚いたような恥ずかしいような変な気持ちになった。逃げるようにそこを離れると槻見の微笑が空気を伝ってきた。


甲亜は肩を脱臼してから一週間も経つと餌を貪り食った。あまり上手いと言えないものを少し贅沢なものに変えてやってから、調子がいいようだった。乙也はその日己臣と入相、そして獣伐軍の全てを総括している獣伐軍隊長夕日ゆうびと話をつけに向かった。

「乙也です。失礼いたします。」

会議室のドアを三度、微かに震える手で叩くと三種類の声が応答をした。

「入ってこい。」

「よく来たな。」

「我らはすでに揃っているぞ。」

最後のどこか懐かしげのある深い声の主が夕日だった。重厚なドアを開けると、白髪が混じった頭に灰色の瞳をした男が奥の一番立派なソファにどっかりと構えていた。彼が夕日である。

夕日は白と黒が曖昧な髪の毛を耳下で切って長い前髪は後ろに流していた。それが時折、垂れてくると手のひらの温もりで直すように撫でつけるのが癖だった。

己臣は夕日から少し離れた椅子に脚を組んで座っていた。しかしいつものように朗らかに笑ってはいない。少し気難しい顔をして、そこにいる。夕日が近くにいるからなのだろうと乙也は胸の内で納得した。

入相は困ったように眉根を寄せて、口角をにやっと上げてぬるい視線を漂わせた。これが彼特有の、女やそれ以外を惹き寄せる誘惑の芳香になる。

彼は普段通りの空気を纏い姿勢を崩し、女の影を匂わせるように首筋の跡を指先でなぞった。

「この度はお時間を作っていただいてありがとうございます。」

軍の幹部三名は少し前まで武器商を招いて話をしていたらしく、乙也のために時間は作るので終わったら会議室に来てくれとのことだったのだ。

「まあ座りたまえよ。いや、君もご苦労だな。」

夕日の言葉は己臣や入相よりも重い感触のあるものだった。安易に耳に入れて、心に吸収させてはいけない気がしてならなかった。乙也が夕日に会うのは四ヶ月ぶりほどだった。

「今日は、百獣について話があるんだそうだな。」

夕日は腕を組んで、堅い表情を崩さないままそう言った。乙也は眩暈がしそうな思いで一番値の安そうな椅子に浅く腰をかけてカーテンの隙間から入り込む日光を一瞥した。助けを求めるかのように、本当に少しの間視線で掠めた。

「はい。百獣の少女、甲亜についての情報は」

「把握している。お前が己臣に報告したものをそのまま。」

「左様でございますか。それでは本題に入らせていただきます。」

乙也は自分の怯みを感じながらも、立ち上がって声を張った。彼の縁が白濁した瞳をしっかりと見据えて、皺のある顔を隅々まで眼球に焼き付けるように見つめた。

「甲亜を、獣伐軍の飼い犬にします。」


「飼い犬か。ほう、働かせるのか。」

さすがに獣伐軍を束ねるだけあって、想定内であるかのような口ぶりだった。

「はい。甲亜は一級の狼種の泣く声を聞いたのだと言いました。その事実かどうかはともかく、少女は基地から自力で西部の川沿いまで走り、体を使い言葉を使い狼種の動きを止めました。それどころか戦意を失わせ、降伏まで導いたのです。あの少女にはやはり、百獣以外の能力も備わっていると私は感じています。甲亜という、百獣の能力を持った獣人でありながら知性と言語を持つ個体は貴重です。研究以外にも活用できる機会があると考えています。しかし同時にリスクと懸念点が多くなります。それは承知の上です。試す価値があると覆っています。…夕日獣伐軍隊長、どう思われますか。」

上司に口を挟ませず、一気に言ってしまうと彼らは呆れたように笑って口を開いた。

「上手くいくはずがないだろう?」

乙也が口をつぐむとすぐさま入相が返した。彼のその様子を横目で見た己臣も

「別にできないとは言わないが、それなりの計画を立てねばならないな。あの個体が言うことをすんなり聞き入れるとも思えない。」

と自身の考えを話した。

カーテンの間から差し込む光はやがて見えなくなり、会議室の中は先ほどよりも暗さを増し視界は部屋の隅とテーブル上に置かれている燭台に頼ることになった。

それはそうだ。最初から上手くはいかない。甲亜が狼を説得したという確固たる根拠もなければ、これからもそうできると言う確証もない。しかし乙也は心の大河が分かれて、一方が崖から滝になるのを予見していた。思い切った風に考えないと、珀矢のような犠牲者がこれからだって減らないのだろうと感じていた。

「しかし、」

「いいのではないか?」

耳に水が入っているのかと思った。

夕日のその重い声が乙也の背中を撫でてくれたのだ。それは先刻よりも柔らかい、嫋やかに靡く布のような聞き心地だった。乙也はその感触に熱いものを感じずにはいられなかった。

「お前がその甲亜を犬として監視し、教育し、管理すると言うのなら。処刑までは好きにやったらどうだ。己臣、お前はどう思う。」

「夕日さんねえ、それはいくらなんでも…」

「何だい、嫌なのか?」

「ううん…」

乙也は己臣のこんなに萎れているところを見たことがなかったので若干頬が緩んだ。

「入相、お前はどう考えるのだ。」

「自分は…ええまあはい。」

「何だ、意見もまともに言えないのか。」

夕日は自分の両腕に抱えた子犬に意地の悪い言葉をかけたり、弄んだりして遊んでいるようだった。

後で小突かれるのは乙也なので、彼は三人に気づかれないよう小さくため息を吐くと、これからの計画を述べるように求められた。

「まずは甲亜の説得です。彼女の要望は五月に死ぬことです。なのでそれまでは協力をするでしょう。問題なのは軍の内乱や混乱が起きないかと言うことです。現在稼働している捜査班の中のみに留めた活動であっても、甲亜の情報が軍の内部に出回り不安を募らせた者たちが抗議を起こしたり市民に言いふらすかもしれません。そして一番留意すべきは創造説の支持者の存在でしょう。彼らは百獣の少女を崇めている。拉致でもされたら堪りません。彼女を守る用心棒が必要になります。」

そこまで言うと、夕日は頷きながら手帳を取り出した。胸から取り出したそれにペンで何かを殴り書き、手帳のページを無造作に破って乙也をくいくいと手で招いた。

「何でしょう。」

「いい奴を知っている。もう二十年も前になるが、まだ獣伐軍に空軍がなく特別班があった頃その班を指導していたボディガードの男がいた。名をガイと言う。会いに行ってみろ、腕は落ちていないはずだ。」

夕日に渡された紙切れにはガイの綴りと住所が書いてあった。

「そこはガイが店主をしている酒場の住所だ。今夜あたり行ってみたまえ。」

「助かります。ありがとうございます。」

乙也は紙をそっと胸のポケットにしまって礼を言った。すると夕日はからかうように一瞬笑って手帳をしまった。


乙也はそれから会議室を出て三人の幹部に頭を下げるとガイと言う男がやっている酒場に行こうと軍服を脱ぎ、上質なシャツを着てズボンを履き替えベルトをきつく締めると革靴を履いて外套を羽織った。

なるべく、他の者には見咎められないように足音を消して外に出ると夕焼けの光が空へ染み渡るように取り残されていた。

外を歩くと、道端に小さな花が咲いているのを見た。深い冬は峠を越えて落ち着きを戻していた。もう少し待ちぼうけすれば春が顔を出してくれるに違いない。乙也は微かに浮つく気持ちと足を抑えながら紙切れに書いてある道に入って店の看板を探した。店の名前はメロスである。

往来はたくさんの人で溢れており、会話が入り乱れていた。酒の匂いが漂い、女が客を引き寄せ店の中に入っていく様子が見られた。看板は色鮮やかなガラスに囲われた灯火に照らされていた。連なる店からはそれぞれ違う音楽が聞こえ、女の息遣いも店主の声も食器の重なる音も全てが重なって一つの風景を作り上げている。乙也は自然と笑みを溢して歩いた。

その時、小さな看板を通り過ぎた。二、三歩行き過ぎたところで足を止め振り返るとその木の板にはメロスと焼かれた跡が文字になっていた。

扉の小窓から見える店内を覗くと、まだ日が落ち切っていないからか客は多くなかった。

中に入り、カウンター席に静かに座る。左斜め前のカウンターの内で、酒を作っているのはガイだろうか。乙也は胸の開いたシャツに黒いベストを合わせている彼を見るとふと思い出した。ここは埜環と共に来た酒場である。

「ご注文は。」

「リアナの酒を使ったカクテルか何かはあるか。」

「ございます。他には。」

「ではそれで。」

「はあ。」

ガイと言う男は長い茶髪を結びもせず流して、酒のボルトを見づらそうに目を細めた。前髪をかき分ければ済む話なのに彼はそうしようとしなかった。

セレナは、あの歌い女はこの男の女か何かなのだろうか。

「ガイ殿。」

そう呼ぶと彼は肩を跳ねさせて、乙也の目をしっかりと捉えた。

「私を知っているんですか。」

「ええ、まあ。今日は頼み事があって来たんです。それも」

「そういうことなら、少し待っていろ、あの子が歌うんだ。」

話を進めようとする乙也の声を手で遮って無理やり止めた。彼の視線の先には演奏者の前に立つセレナがいた。今日は緑がかった黒のレース生地に身を包んでいる。美しいデコルテを精一杯に見せるように、ドレスは首元が広く肩が下がっているデザインをしていた。透明な石のネックレスを天井から振り注ぐ光に照らしていた。

「あの子はあなたの女なのか?」

「いや。食い扶持がないとかで、裏路地に寝っ転がっていたのを拾ったんだ。前は娼婦をしていたらしく、ここに来ても男の客ばかりで疲れている、歌っている数分は彼女の声がここを支配できる時間だ。後にしてやりたい。」

乙也は真っ直ぐとセレナを見る彼を一瞥すると頷いて見せて、出された酒を飲んで待つことにした。

ガイは無口な男だった。ただ口を閉ざして、セレナの歌を聴いていた。目の前に座った客の話し相手にもならずグラスを磨いたり他の客から注文を受けて飲み物を作ったりしていた。歳は五十ほどである。けれどしわがれた感じも、呂律がうまく回らない雰囲気も全くなかった。本当はもっと歳上なのかもしれない。

腰の辺りに戦闘用のナイフを備えていることは、見てすぐにわかった。加えて彼が弓矢や銃ではなく、小刀で戦闘をするタイプの人間だと言うこともわかっていた。銃は使いすぎると引き金の部分が指に跡を作り、弓矢の多用も指先を傷つけるが彼にはそれがない。

手本に乗っ取ったような堅い動きと、無駄のない脚の踏み出し方歩き方が乙也にそう思わせたのだ。

セレナの歌は前よりも、女の艶っぽさがよく出ていた。時折男のため息が聞こえてきて、乙也は顔を顰めずにはいられなかった。女に陶酔しきっている男ほど弱く醜いものはない。今奇襲が来でもしたら、どうするのだろうとグラスの中のすっきりとした酒を飲みきった。

リアナの実を一年ほど発酵させると芳醇ないい酒になる。料理にも勿論合うが、これは他の酒と混ぜたり味を楽しんだりする方が向いている酒だった。洗練された舌触りだからこそ、口の中で遊んでやりたかった。

セレナはカウンターに座る乙也とは多少離れていたが、やがて彼女は丸い瞳を動かして彼を見つけた。

「乙也さん!またいらしてくださったんですね。」

蝶のように身軽な体で飛ぶように歩み寄り、紅をさした唇で言葉を発した。セレナは乙也の左隣に腰掛けてガイは彼女に水を出した。

「ありがとうございます、ガイさん。」

ガイは礼を言われると頷いて返事をした。

「今日は同僚の方とご一緒ではないんですね。」

セレナは長い髪を斜めに流して、透明なグラスに入った水を一口飲んだ。細い首が液体を取り込み、通っていくのを甘い吐息と空気の震えで感じた。

乙也はセレナが水を飲んだり、ガイからつまみを受け取ったりする所作を頬杖をついて眺めていた。彼女が居てはガイに軍内部の話がしにくいのと、彼女自身にも伝えたいことがあったためだった。視線がくすぐったいのか、身を捩りながら歌い女はそっと口を開いた。

「どうされたんです?」

すぐに答えず、しばらく滑らかな輪郭の曲線を眺めていると彼女はジイロに似た赤を頬に滲ませた。

「今日はマスターに話があって来たんですが、あなたにも一つ。」

「はあ、何でしょうか。」

「以前、お父様が獣伐軍の空軍だったと仰いましたね。あなた生まれてすぐに亡くなって、今生きていれば六十三歳だと。」

セレナは緩く頭を縦に揺らした。

「あなたは二十歳かそこらに見える。なのでそれくらい前のことになるんでしょう。そうすると少しおかしい。二十年前にはまだ空軍は作られていないんですよ。」

ガイからもらったつまみを取ろうとする彼女の手が止まった。

「空軍が作られたのは十六年前になります。その頃から空を飛び交う危険獣が増え、即座に設置されることになったんです。あなたは見栄を張ったり、話題を作るためだけに嘘を吐く人には見えない。」

そこまで言うとセレナは黙って瞼を閉じたり、深呼吸をしたりした。気を紛らわせているように乙也の目には映った。

「ここじゃ嫌です、二階にも席がありますからそこに行きましょう。」

おもむろに立ち上がると、自分のグラスと皿を持って階段のある方に向かってしまった。その間も男たちに声をかけられ花を渡されちょっかいを出されるも上手く受け流した。

乙也は空になったグラスを差し出してガイに適当な酒をもらうと追いかけるように足早に階段を上がった。

セレナは丸いテーブルの円に沿って並べられた椅子に軽く腰をかけていた。乙也もその右隣に座った。

「二階なんてあるんですね。私ここには初めて」

「乙也さんの心につけ込もうと思ったんです。いつまでもガイさんにお世話になってはいられないし、情の深い方ならもらってくれると思いました。ずっとここで、歌って暮らしていくなんてそんな幸せにぬくぬくとしていられませんから。」

「…軍人に嫁ごうと思ったのですか。」

軍人といっても若い者は給料も安く、命を散らす者も多い。乙也や埜環のような分隊長にでもなると贅沢もしやすくなり、その家族は国から優遇も受けやすい。

しかし乙也は首を捻った。軍人など、儚いものだった。

「少し、違います。あなたはどこか父に似ているところがあります。写真でしか見たことがないけれど、その黒髪が丁度同じような長さで…軍人さんだからじゃなくて乙也さんだからです。」

彼女は覗き込むように乙也の瞳の奥をじっと見た。これが彼女の放つ弓矢なのだと乙也は唾液を飲み込んだ。

「今この瞬間も私を堕落させようとしていますか?」

「堕落なんて。ただ私は」

「騎兵なんて、どれもみんな同じですよ。馬の泥臭いのと的を射抜くのが好きな小僧です。」

そう言葉を遮ると彼女は萎れたように黙り込んでしまった。乙也も何だか話を続けることができなくなって、静かに椅子から立ち上がり酒がなみなみと入ったグラスを持って階段を降りようと足を踏み出した。

「私のこと、嫌になりましたか。」

寒さのする声が乙也の足を引き返そうとしたが、それに逆らって聞こえないふりをして一階に降りた。

ガイは人を掻き分け先ほどの席に戻ってきた乙也を、何も言わずに一瞥して小皿に乗せた木の実とチーズを差し出してくれた。

「セレナはあなたさんに惚れているようだ。」

「嫁をもらう気はありませんので。」

切り落とすように言うと彼もまた口を噤んでしまった。乙也は少し語気を強くしすぎたかと後悔しながら、グラスの中身を飲み干した。

「獣伐軍の内情についてはご存知でしょうか。あなたにある個体の用心棒をしていただきたい。」

彼は淡々とグラスを磨いていた。柔らかな布で、透き通ったそれを撫でて拭き取り棚にしまっていった。その動きに若干血の匂いと、周りの人間を警戒する姿勢の硬さがあった。

「…個体?警護対象者は獣人か何かなんですか。」

初めて彼から口を開いた。少し乙也の方を振り向いて、目の中の光を揺らがせている。

「ええ。漏らさないでいただきたい情報なのですがね——」


「埜環壱隊長、進み具合はいかがです?」

「ああ、百獣の出身地の調査ですか?もう大変ですよ、次から次へと名前のわからない鉱物や樹林などが見つかって。これ空軍がやらないといけない仕事なんでしょうか。」

水岐の部屋のソファに軽く腰をかけた埜環は脚を開き、右肩を左手で叩いてそう嘆いた。

「まあ、捜査班ですからね。」

水岐は煙草を机の一番上の引き出しを開けて取り出し、そばにあったランプを使って火をつけた。

一息吸って、紫煙をくゆらせた。それを何度か繰り返すと窓の開いていない部屋に煙が充満し彼らの間を隔てていく。埜環はそんな水岐の横顔を盗み見た。大人しい顔をしていながら、研究班の班長として栄華や埜環を顎で使う。潤いのない眼が彼のこれまでと人格を物語っていた。

埜環は栄華から、水岐がどのような人物でどれだけの功業を積み上げてきたのかを話されたことが幾度かある。

「水岐参隊長はお若い頃に封建制度を実際に御目にされてから、政治の変革を目指していらっしゃるんです。最近は政治家も軍人と併任している者も多いでしょう?水岐参隊長はあと三年もすれば、政治を動かす大きな存在となられることでしょう。あとあの美しい御髪はシナンの花の油で整髪してらっしゃるんですよ。煌びやかな方は整髪剤さえも高貴なものを使われますね。私、それに気づいてからシナンの花が好きになりました。あれは地に植えついた根が綺麗な半球の形をしているんですよ、私あそこを砂糖と煮詰めて飴にして水岐参隊長に差し上げるのが好きなんです。最近は空の討伐へ飛ぶ前に一粒欲しがるんです。ああ、可愛らしくってもうしょうがなくて…」

栄華の水岐に対する偏愛を語る口調は、背中の毛がよだって、埜環はその時何と返したらいいかわからなかった。

水岐は煙草を吸っているばかりで何も喋ることはなく、やがて本棚から一冊何かの本を取り出した。装丁は美しい赤の布でなされており、タイトルは金色に光っている。

再び椅子に深く座ると、ページを開き栞を抜き取るとそこから読み始めた。

煙で目が染みてくる。埜環は目元を指先で擦りながら

「何の本ですか?」

と対して興味もないのに訊いた。

すると水岐は脚を組んで再び煙を吐き出すと

「詩集。」

と冷たく呟いた。

埜環はソファから立ち上がり、視界を遮る煙を掻き分けながら彼に歩み寄ってそれを覗き込んだ。

「ジャックの詩集ですか、お好きなんですね。」

ジャックとは、貧しい牧場の生まれでありながら生物の学者になった上、その経験や知識を活かした物語や詩集をいくつか出している名高い作家だった。筆名であるため、本人がどのような顔をしているのか本来の名前は何なのかまではわからない。埜環の脳内にある彼についての情報は学者であったこと、本を数冊出したこと、獣によって喰い殺されたことくらいだった。

「彼の詩を読むと、鼓動が彼と同じ調子になる気がするんです。まるで羊水に包まれているように落ち着ける。私も若い頃は…」

水岐は何かをふっと思い出したように言いかけては、すぐに口を閉じてしまった。袋に入れた木の実が綻びから逃げ出してしまうように、それは自然だった。水岐は珍しく焦った様子で穴の空いたところを塞ごうとしているのが、埜環の目に切なく映った。彼も、何か思うことがあるのだろう。軍の中にそれがない者はいない。埜環は前屈みになった上体を起こして、頭を深く下げるとドアの方に歩いた。

「では、自分はこれで。煙草吸いすぎると栄華に怒られますよ。」

「ご苦労様です。…わかってますよ。」

返事をしながら煙草の赤い部分を灰皿に擦り潰す彼の動作を見て、微かに微笑むと埜環は夕飯を食べに食堂へ向かった。


ガイはカウンターの端に座っていた若い男に店番を任せて、乙也をバックヤードに連れていった。若い男は普段ここで働いているらしく、今日は休みだけれど丁度店に来ていたんだそうだ。ガイが

「用があるから。」

と一言言うとその男は嫌な顔せず頷いて着替えを済ませ、カウンターに立った。これだけでガイという人物が悪い男でないことがわかった。

裏の倉庫室には何本ものウイスキーや酒の瓶が並べられていた。ガイはそこの木箱に腰を下ろして、垂れてきた髪を紐で括った。

「百獣ですか。それはまたおとぎ話めいた。」

「事実です。夕日獣伐軍隊長とお知り合いなんでしょう?獣人にも、一般市民よりお詳しいはずです。」

乙也は倉庫室の入り口に立ち止まって、壁を背もたれに彼の前に屈んだ姿勢を見つめた。

「…あなたさん、いくつだよ。」

「二十七です。」

「ふうん。軍にはいつからいる。」

「五つの時に軍運営の孤児院に入りました。十五で訓練を終え、陸軍に配属されました。」

「そうか。しかし警戒心がないな、こんな冷暗所、酒か死体の保管くらいにしか使わないぞ。そんな風にペラペラ喋って、本当に分隊長殿か?」

ガイは妖しさを含んで笑い、眼光を鋭くさせた。一瞬だけ獣のようなその凄みに、全身の筋肉が硬くなった。

拳を握ると、彼は再び鼻で笑って目を細めた。

「そんなことしても、意味ないってわかっているだろう?」

ナイフを備えているであろう腰に彼の手が伸ばされるのを、警戒しながら観察していたが、その空気の動きはなかった。詰まった息を吐いて、肩の力を抜くと乙也もそばにあった木箱に腰をかけようとしゃがんだ。

「あ、そこは。」

「いっ…」

木箱は見た目よりも古く脆いもので、乙也ほどの体重がかかってしまっては崩壊せざるを得なかった。バラバラに散らばってしまった木の板を拾い集めながら

「申し訳ないです…」

とため息まじりに呟いた。その間もずっとガイは笑っている。

彼も木箱から立ち上がり、ささくれだらけの木を集めて空の木箱の中に放った。

「ここに入れとけ、暖炉に焚べる。」

「はい。」

「いくらだ?」

先ほどの寡黙で無愛想な声色と一変したその芯の通った音は、乙也を振り向かせた。

「え?」

「だから、金はいくら出るんだ。」

乙也は目を見張った。

「やっていただけるんですか?」

「ああ。」

ガイは皮膚の表面に付着した木の粉を両手で叩いて落とすとその手をしゃがんだ乙也に伸ばした。

乙也がそれを掴み、思い切り踏ん張って体を起こした。彼は右手で木片の入った箱を抱え店の表に向かった。乙也はその足跡を踏むように後をついていった。

「では明日から軍の方に出向いていただいても構いませんか?まずは夕日獣伐軍隊長と顔を合わせていただきたいです。」

「ああ、構わない。」

ガイはカウンターに再び立ち、斜め右の天井から降り注いでいる仄かな電球の光にその肌を照らされながら酒をシェイカーに注いだ。それの蓋をしっかりと閉め、一定のリズムで楽器を奏でるかのように手を動かした。

それはまるで魚が水の中を激しく泳いでいるのと似ていた。乙也は川や海の、銀色の鱗を持った魚の姿を思い出した。

「席、座らないのか。」

「あ、はい。」

裏に捌けてからの不意な変貌ぶりと、ほくそ笑むような声色が乙也の中でまだ異色を放っている。怖気づきながらやっと声を出すと彼が鼻で笑う、空気のブレが伝わるのが乙也にはむず痒かった。

「お前歳と見た目の割に弱っちいな。」

軽く発せられたその言葉が乙也の鼓膜を冷たく撫で、心の大河に落ちていった。

天井の電球がいやに不気味に光っていた。


「誰だこいつ。」

「今日からお前を厳重に見張ってくださるガイ殿だ。」

「本当に百獣なんだな。狼の耳に毛の生えた四肢。それは何だ、鹿の尾か?」

「こいつは馬鹿という言葉を使わないよな?」

「少し黙れ。」

「この瞳はどうなってる?緑が揺らめいて見えるぞ。」

「それにしてもお前からは人間の体臭がしないな、なんかもっとつんとした匂いがする。」

「申し訳ないです、失礼を言って。」

「嗅覚もいいんだな。酒気が移ってるから加齢臭が目立たなくて助かってる。」

「加齢臭って何だ?」

「俺みたいな皺だらけから放出される匂いだよ、お嬢ちゃん。」

「ほお。」

「もうやめませんか!?」

乙也は交渉をした夜、ガイの店を出ると夕日と己臣、入相に報告をし捜査班と研究班を集めて協力要請を出した。加え、今日の早朝から獣伐軍の信頼できる部下たちを集め、そんぼ面前で話をした。無論その中に深や慧那、キトや埜環、伴俐や行も居た。

軍人らのざわめきは一度怒鳴って収まるものではなかった。しかし乙也に対して顔を顰め、舌打ちをし貧乏揺すりで不満を放ち小言をいうような奴は一人もいなかった。

丁寧且つ緻密な計画を話した後、基地に赴いたガイを迎え入れ夕日と入相、己臣のいる会議室に向かった。

「ガイ、久しいな。」

夕日の目尻に幸福な皺が寄るのを、乙也は見て驚いた。恐れられている隊長も、少年の顔ができるのだ。

「老けたな。」

「お互いだ。」

それから謝礼の調整と甲亜についての説明をした。彼は容赦無く高額な請求を申し出、己臣と入相を当惑させたが夕日は気持ちよく頷いて

「いいだろう。」

と喉を鳴らした。

「だがそれは成功報酬だ。百獣の小娘が傷ついたり、万一処刑以外で死にでもしたら謝礼は一切なし。お前の用心棒の仕事もなくしてやる。」

「困ったもんだな、この暴れん坊は。」

それは他愛のないじゃれ合いにすぎなかった。しかし乙也には何を本当の意味で言っているのか、さっぱりわからず背中を寒くさせる以外できることがなかった。

話が終わると乙也はガイを連れて、北部の牢獄に向かった。甲亜は何も知らない。自分が乙也の犬になることもガイに監視されることもそもそも自分の死以外にさほど興味がないようだった。

廊下に並んだ檻の中の獣を見ても、嘲笑もせず警戒もせずただ獣としての扱いをしているところに彼の主義を感じ取った。

ガイは今日、腰にナイフそして背中の裏に小型の拳銃を備えていた。いつ何を射抜くか分からない。乙也は彼の前方真正面を歩く気にはなれず、常に斜め前に逸れて歩いていた。

ガイは甲亜を見るなり、嬉々とした声を上げた。

「ふん、こんな嘘みたいな話があるのか。面白いものだな。」

「誰だこいつ。」

「今日からお前を厳重に見張ってくださるガイ殿だ。」

そして奔放な二人の止まらない会話を遮ったのは乙也だ。甲亜に大まかな説明をし、ガイの発言を待った。

「よろしく、甲亜。色々な奴の警護をしてきたが話の通じる獣人は初めてだ。」

「…甲亜が犬になるとは何だ、どういうことだ。乙也お前犬が従うものだと思って言ってるのか?犬は獰猛だ。勘違いしているのは人間ばかりだ。」

急に何かの突起に引っかかって、耐えられなくなり吐き出すのは甲亜の癖らしかった。捕獲からずっと観察をしているジンの報告にも多々見かけるものである。

「わかった。犬という表現はやめよう。お前には私の部下として働いてもらいたい。」

奴隷だとか、配下だとか、言いなりだとか、下女だとかいう言い方を脳裏に浮かべたが口にするのはやめた。無論また突っ掛かれそうな予感がしたからである。

従来から言語を持つ人間よりも、彼女の脳は言葉についての強い感受性が備わっているようだった。

「部下?」

「処刑は勿論行う。それまでの間、お前が以前一級の狼種にやったことを、他の獣にもやってもらいたいのだ。わかるだろう。」

甲亜は怪訝な表情をして、乙也の顔面を覗き込んだ。彼の心の大河がどうなっているのか伺っているようにも感じ取られる。乙也は目を逸らして小さく呟いた。

「帰ろうと、ああやって前みたいに言ってやるだけでいい。それだけやってくれないか。」

なるたけ、彼女を人間のように扱った。いや意識をしていなかったのかもしれない。無意識のうちに乙也は、彼女を普通の獣人としては関われなかったのやもしれない。

「…そうしたら乙也たちはあいつたちを撃ったり、爆薬やガス弾で脅したり、可哀想な目に合わせたり、拷問をしたり、檻の中に閉じ込めたりしないのか。」

「お前の言葉で獣の戦意が失われ退行したならば、そのように扱われる獣は減るだろうな。」

「本当だな。甲亜は森に帰すことしかできない。」

「それでいい。」

乙也が頷いて答えると、彼女は表情の曇りを少し晴らしてから口を閉じた。ベッドの上であぐらをかいて座り、手に顎を乗せてどこか一点を見つめていた。そのどこかに思考への熱意が移ってしまって、その一点が沸騰してしまうのではないかというくらいに彼女の思考にはしばらくの時間を要した。

「わかった。やろう。」

甲亜の声には何か、波のようなものが感じられた。嵐の前夜の、月明かりに照らされた漣の曲線。弛み。しゃらしゃらしゃらしゃらしゃらと光を反射する海水の音。表面の美しさ。明日嵐がくる。周りが見渡せないほどの大雨。その一粒一粒の雨粒の中には、自分が映る余地がある。耳元で、そして遠くでも吹き荒れるその暴風は甲亜の生命力が具現されたようなものであった。その風でそこに居る者は皆、瞼を開くことすらままならない。風が、開いた口の中の水分を掻っ攫って行き、雨が乾いた舌の上に打ちつける。腕で雨を受け止め、風を遮るとそこには白い髪を濡らした彼女が居る。嵐の後の、養分を蓄えた若葉と澄みきった空のような色の瞳でこれからを予言している。

彼女の一声は、それまでの想像と印象を乙也の脳内に滲ませた。彼は少々よろめいた足を直して甲亜に自身の声を投げかける。

「よし。決まれば明日からでも討伐に連れて行く。」


それから二ヶ月が経った。

「一級の鷹、北へ逃走!」

「乙也壱隊長、いよいよ毒矢を」

「何を言っている。大前提として百獣を連れている時の戦闘は討伐ではない。追いやることのみだ。毒矢など言語道断。」

乙也は馬の上で彼女の駆け抜ける背中を目で追った。それは上空を飛び回る巨大な鷹にも張り合える快足さであった。これでじきに翼が生える。乙也はこの二ヶ月間甲亜を連れて戦闘に向かい、彼女の行動が読めるまでになっていた。

「羽が…」

部下が乙也の半歩後ろで声を漏らした。

甲亜の肩の裏あたりからは長く細い翼が春の草木のように勢いよく伸び、少しの間で自身の体長を超えるものになった。それを大きく広げ、空に舞い上がり一級の鷹の後をつけた。

乙也は援護をするためにヘクトを彼女の影を追わせた。ヘクトは立髪を靡かせて気持ちよく疾駆する。

「あれは燕か。三日月のような形をしている。」

乙也が翼の種類まで特定するとヘクトをまた一層速く走らせ、空気と肌との触れ合いを激しくさせた。

春の暖かい日差しが、鋭利な風となって乙也の頬をひりひりと撫でてきた。

「甲亜!どうだ!」

天に向かって叫ぶと、彼女は白い外套を翻しながらそれ以上の大きさの声を

「北部には大きな森がある!帰ろうとしている!」

張り上げた。

「わかった、このまま援護する!」

「ああ!」

甲亜は鷹を易々と追い抜け、その表情を覗き込みながら飛んだ。

「お前の家族はどこにいるんだ。お前は女だろう。」

女。乙也の肩が一度だけ波打った。雌の獣は発見されている個体が少なく、希少な者だった。

「おい、甲亜!」

乙也は声をくぐもらせるマスクと、視界の悪くなる眼鏡を外したくなる気持ちをぐっと堪えて高らかに吠えた。

「その鷹、雌と言ったな!雌は研究班が興味を持つはずだ、今森に帰さなくても一度基地に」

「いいや、それは駄目だ。」

彼女の言葉には信念が見られた。それ以上咎めることができず、乙也はただ走った。

後方にはジンと伴俐と行。少し離れた右前方には馬に乗ったガイがいる。

ガイは一日中甲亜の行動に張り付いていなければならない。必然的に、捜査班と共にいることが基本となっていた。

彼はほとんど陸軍と変わらない容貌で馬を走らせていた。赤の入り混じった深い茶色の軍服に、コートを羽織りその裾を風に煽られている。

「乙也、甲亜に口出ししないでみたらどうだ。犬じゃあないんだろう。」

「そうですけど…しかし監視対象ですから。」

頑な態度を見せるとガイは何かを懐かしむような顔で笑った。

「もう少しで北の深い森へ入れる!このまま突っ走るから乙也はそこで指を咥えていろ!」

随分と生意気な口を利けるようになったものだ。乙也は不機嫌に顔を歪ませながらもヘクトの速度を落とした。彼女の首には、ヴィズスが光っている。ヴィズスとは半透明な白い鉱物のことである。中に様々な色の結晶や破片が入り混じった石で、山から水に流され川に行き着く。下流では特によく取れ、乙也が軍の施設に向かい入れてもらってからも暇があればヴィズスを取りに川へ走った。

水に撫でられた表面は綺麗な楕円をしており、そのまま売ったり使ったりしやすいので汎用性が高いがよく取れるので値は安い。

しかしヴィズスは発光する。暗い森の中、日陰、昼間の屋内、今のように空中を飛び回っていても色鮮やかな内側の破片たちが光を反射し吸収し放出し、いつなんどきも輝き続けることのできる鉱物であった。

甲亜の監視に欠かせない、彼女の新しい首枷にはそれがいくつか埋め込まれておりガイや乙也、他の軍人たちにいつでも場所が伝わるようにと工夫がなされていた。

立ち止まった乙也をよそに、甲亜はその輝きで空気に線を引きながら速度を上げて飛んだ。

鷹の前を飛び、彼女のことを導いている。

森はこっち。

「帰ろう!お前の息子は、娘はあっちだ!」

鷹は巨大な眼をびりびりと光らせて、鈍色と茶の混じった翼をどうどう上下に動かしはためかせた。

「もっと速く!もっと遠くに!」

その胴体は風を切り、春の香りを突き破り北へ北へ前へ前へ進んで行った。

やがて大きな森林が近づくと甲亜は速度を落として鷹の背中を視線で思いっきり押した。

「帰ろう!もういいんだ!帰ろう!生きてくれ!」

甲亜の遠吠えは輝きを持って空に響いた。


「不思議だよなあ、戦意を失わせた後みんな死んじまうんだから。」

ガイは豪勢な肉料理を食いながら独り言のように呟いた。

甲亜に森へ帰ることを促された獣は皆、戦闘への意欲を喪失させるが同時に生気も抜き取られたように倒れてしまう。

今日の一級の鷹もある程度まで飛び、自力で森の中まで進んだものの深いところまで行ききれずに中間地点で翼の力が抜けてしまいばたりと落ちた。その瞬間地響きのように重い音が地面と乙也たちに伝わり、甲亜の嘆きが空気を切り刻んだ。

急に心臓と翼が機能をしなくなり、息をしなくなった。甲亜は自分の何倍もあるその彼女の顔をそっと撫でて切なく顔を歪ませた。

二ヶ月の間ずっとこれなのだ。

森へ連れて行けば死ぬ。弓矢で射抜いても死ぬ。基地に連れて戻ってもいずれ死ぬ。

危うき獣たちはやはり死ぬ以外の終わり方を知らないのだ。

甲亜は戦闘の後はいつも肩を落として、あの牢獄の中で気力のない視線を窓の外に向けている。

捜査班に用意された部屋と研究班が使っている棟はガイの同伴があれば自由に行き来できる。しかしそういう日の甲亜は鉄格子の取り払われたベッドに横たわり、虚しい色をした瞳を瞼で隠してしばらく寝る。

寝ても餌をろくに食わず、また窓の外を見てまた寝る。

たまに乙也が様子を伺いに行き、怒鳴ってやると涙を散らして反抗を声にする。

「甲亜。お前また飯を食っていないのか。」

春用の布団に包まった甲亜をじとりと眺め、ソファに座っているとやがて顔を出す。

「うるさい!黙れ!」

きんきん泣き喚く彼女に、乙也は紙に包んだそれを差し出してやった。その中身はフィーリャの砂糖づけだった。槻見から未だ子供扱いされているのか、医務室に顔を出すとよく貰うようになってしまい余っているほどだった。

「何だこれ。」

紙を広げて細かい砂糖に包まれた春色の花弁を見せると、甲亜は匂いを嗅いでは疑うような顔をした。

「花びらに卵白を塗ってそれに砂糖を塗した甘味だ。」

体を起こした甲亜はおずおずと手を伸ばし、指で摘んで口の中に放った。難しい表情がゆっくりと解けていき、次第に喉をこくんと鳴らして咀嚼された砂糖づけを飲み込んだ。

「もう一つ。」

を五回ほど繰り返し、十二分に気に入ったことがわかったので紙に包み直して紐で縛ると甲亜の手の平に乗せた。

「明日やったら、獣は死なないかもしれん。あまり落ち込んで戦闘に支障をきたすなよ。」

「わかっている。」

きらりと光る砂糖を赤い舌で拭って、彼女はまた生意気を言った。


珀矢は、陸軍隊参の補給に移った。

砂色の髪を火傷の痕に触れぬよう横に分け、見えなくなった碧眼の代わりに焦茶色の杖を持ち歩いた。

前髪部分は皮膚と一緒に流れてしまい、包帯を解いた時には短くなっていた。

そこから段々伸び、今は少し髪の毛の先が痕に触れて痒いのが悩みだった。

痕は珀矢の顔の額から、目元までを無惨に喰っていた。赤く膿だらけだった皮膚はやがて硬くなって痒みを帯び、最近になると乾燥した皮膚の表面が粉を吹くようになった。

一日の終わりに薬を塗り込み、床に着くがそれも枕の布の凹凸が顔面に擦れて痛かった。

悪夢を見ることも増えた。あの一級の狼の荒い息遣い。呻き声。爛れていく皮膚。

その記憶が珀矢に降り注ぐ。体を這って、視界を遮り、口を覆う。夢の中でも彼の生気を吸い取っていく。

朝起きると、冬を越して痛くなってきた日差しが火傷痕を更に焼く。

昼の強い風が吹くと悶えてしまうほど痺れて堪らない。

夜の食堂では、驚いたように息を飲むその微かな音がいくつも聞こえて珀矢の胸を傷ませた。

いっそ、あの時逝ってしまっていたら楽だったのかもしれない。手探りでベッドに潜り込んで、眠りに意識を持って行った時にふと思う。

いっそ全身に狼の血を浴びてあそこで溶けて死んでしまっていたら、今とどう変わっていただろう。

いや何も変わらない。狼は死に、百獣の少女は前線に駆り出されるようになり、槻見は乙也へ砂糖づけを与え、獣伐軍は動き続ける。

珀矢はその朝ゆっくりと起き上がり、ベッドの横に立てかけた杖を使って窓の方まで歩いた。戸を開けると朝露の清い匂いが珀矢の鼻腔を通っていく。何度か深い呼吸を繰り返すと自身の中の濁ったものが、外へ出ていく感覚がした。代わりに澄んだ空気が肺の中に積もっていく。

そんな時、少しだけ自分が生でも死でもない無の状態に達したように思う。今も現在もない、ただ何もないそこにいるだけの自分。軍も獣も危険も血飛沫も火傷も何もない。

珀矢は十分ほどそうすると呼吸の調子をいつもの仕方に戻して、杖で床をなぞって箪笥の前まで歩いた。軍支給のシャツの前をきゅっと紐で縛り、細長いズボンに足を通して窮屈なブーツを履く。目の見えない状態で編み上げの靴を結ぶのはかなり苦労するものだった。

片方は何とか自分でやって、もう片方を同僚に結んでもらい朝の号令に急いだ。しかし足を精一杯動かしても、廊下を走る先輩や同輩、後輩に追いつけないのが虚しかった。心の中に焦燥感だけが残って、いつまでも消えない。

陸軍参隊長である幹玄の号令と一日の指示は、簡潔でありながらも厳しい語気が珀矢の耳を痛くした。

そんなはずはない。そんなはずはないのに、彼が自分を責めているように思う。

幹玄が役立たずの自分を睨みつけ、影で文句を言っているような気がしてしまう。

その日の午前中は、幹玄の命の通りに武器庫の整理や銃弾や矢の補充をし、途中大砲の清掃を頼まれたのでそれを済ませた。昼頃になると突然足元がよろめいて脳内が左右に揺れ、まともに立っていられなくなった。

同僚に肩を担いでもらって医務室へ向かうと槻見に

「心がお疲れでいらっしゃる。これはもう精神の病ですよ。」

と穏やかに告げられた。

「業務に戻ると言われた時にもっとここで休んでいったらいいと、私は言いましたよね。」

彼が淹れてくれるいつものベーリー茶の香りが珀矢を静かに包んだ。麻痺したような感覚の肌でも、それを優しいものだと感じることはできた。

「槻見医師。」

「何でしょうか。」

小さく呟くと、彼は珀矢の方をふっと振り返った。珀矢にはそれが、声の振動と空気の流れでわかった。

この医務室はこんなにも光に包まれた場所だったろうか。ぎゅうっと胸の奥が痛む。

「槻見医師…」

「涙が出てきましたね。」

縋るように鳴くと、彼はベッドに座った珀矢を温めるように包み込むように抱きしめた。その皺の多い指先で珀矢の閉じた瞼から流れる涙を掬い取る。

「ほら、珀矢さんは何がお好きですか。焼き菓子?それとも冷たい甘味ですか?果実でしょうか。それとも甘い物はあまり召し上がらない?」

「いえ…」

緩く被りを振って、自身の涙を手の甲で拭き取ると彼は言った。

「粉と牛の乳とムタの実を砕いて混ぜた生地を焼いた、簡易的なケーキが好きです。」

槻見は珍しいものを見たような声色でそうですか、と返事をして食料がしまってある棚の前まで歩いて行った。

「ムタの実を砕くんですか、あまり聞かないやり方ですね。」

その声に、珀矢は年相応の朗らかな笑みを浮かべて

「母がよく作ってくれたんです。」

と呟いた。


ガイは甲亜に問うた。

「お前はいつだって逃げないな。何でだ?」

陸軍壱が西部への見回りのため、屋外で列を作っている時だった。昼の燦々とした日差しを真上から浴びて、甲亜の頭頂部は熱くなっている。

ガイは隣に置いた馬の様子を伺いながら彼女を監視していた。

「逃げる?いつ。」

「討伐。戦闘の時だ。ヴィズスの首輪をつけてたって、噛みちぎれないことないだろうよ。」

冗談混じりに言ったつもりが彼女は頷いて

「そうだな。」

と返した。

ガイは一瞬目を見張るもすぐ、にちゃっと笑って彼女に耳打ちした。

「なあ、その歯でやるんだろう。何でやらない。ただ父親と同じ場所に逝きたいだけでそんな風に従順になるのか?」

「何が狙いだ。」

「狙いなんてないさ。その歯を少し見せてくれりゃあいいんだ。」

「…お前、甲亜の歯を売り捌きでもする気か?」

「何だ、ばれちゃあ面白くないな。」

甲亜の目線に合わせた上体を起こして、ガイは忙しげに走り回る若い軍人たちを嗤うように眺めた。

その瞳は、砂の混じった水のように混濁していた。望みを見る余地などなく、ただ数時間後には傷を負って帰ってくるであろう目の前の軍人たちを見つめている。

「お前こそ、甲亜を見張って何を企んでる。いつも周りを警戒しているようだ。いや、探していると言った方が正しいか?」

ガイは口の中の唾を飲み込んだ。列の一番前で乙也が張り上げる声を聞きながら首筋を指先で掻いた。

「なぜわかる。」

「肌で感じるんだ。ただそれだけ。」

馬に跨がれ。乙也は号令が済むと軍人と用心棒と獣人に指示を出した。

甲亜はガイと同じ馬に乗る。ガイは甲亜の背後で馬の綱を掴み、甲亜はガイの前で馬の立て髪を優しく握った。

「こうやって共にトロンに乗っている時、わかるんだ。お前がどこを見ているか。そうだな、決まって街の方を振り返ったり気にかけたりしている。街に何かあるのか?誰かを」

「黙れ、少しうるさい。」

次々に言葉を投げ打つ彼女を咎めて、ガイは進み出した軍人にならって馬のトロンを走らせた。

暖かい風が甲亜の頬を撫でて、被っていた外套のフードを取り払っていく。風の流れを目で追うように空を仰ぐと濃い雲が風に動かされていた。馬に揺られながら、反対方向に離れていくその白い雲を見て甲亜は懐かしく思った。似ているのだ。ゲリデの胸の毛に、その美しさに。

「こうやって外に出た時はゲリデを思い出すんだ。あいつの胸から腹にかけての毛は白くって綺麗なんだ。甲亜はいつもそれに包まれて寝た。」

「お前の家族なんだって?」

「ああ、一人だけの父親だ。」

「そうか。」

軍人たちは皆、乙也の後をついて走っていた。西部の川沿いに出向いて魚類の危険獣の捜索を行う計画でいた。

「俺にも娘が居た。少しお前に似てるんだ。」

ガイは柔らかく微笑んで、街の方を振り返った。

「確証はないが街に居るんだと思っている。だからずっとあっちを眺めているんだろうな、それを見抜かれたのはお前で初めてだ。全く困るな。」

「…会っていないのか?」

「会えないんだよ。別れた女との子供だから。」

「別れた?」

「そうか、お前にはその概念がないのか。」

ガイは軽やかにトロンを走らせながら、まるで自分の娘に語りかけるような口調で話した。

「男と女、そうでなくても人はいずれ別れる時があるんだ。お前も父さんが死んで、別れただろう。」

「…ああ、少し離れている感覚がある。」

「そう。人間、上手くいかなくなると別々に暮らすようになる。」

ガイが当然のことを言ってみせても、甲亜は小首を傾げて

「なぜ?」

と漏らした。

もうわからせようとするのはやめようと、ガイは頭を横に振って返事を拒んだ。

「いい。」

いつかわかる、そう言いかけてこの個体は来月処刑されるのだと思い出した。


大きな川の中に、体長十メートルほどの魚が泳いでいた。水を通した陽の光を浴びて、鱗を輝かせている。

魚の危険獣は決まって歯が生えていた。毒気は水中に薄まり、地上の獣ほど濃くはないが無害でもなかった。更に口から吹き出した水や、殺傷した際に流れ出す血液には毒が混じっているのでマスクと眼鏡の装着は必須だった。

しかし甲亜はそれがいらない。毒気を吸い込んでもイオフィピネルが混じった血液に分解されるということが、研究班の調べで明らかになっていた。甲亜の血液や唾液はそのままで薬になるほど強い力を持っており、処刑を望まぬ者が軍の中で増えつつあった。

「乙也壱隊長、魚類は甲亜の言葉が聞こえるのでしょうか。」

ジンはマスクと眼鏡で覆った顔で、澄み切った川を覗き込んだ。

「怒鳴ってくれればいいだろう。甲亜、お前の出番だ。」

「わかった。川魚の場合住処はもっと森近くの川だ。そこまで帰してやろう。」

甲亜はガイの走らせていた馬から飛び降りて川の前に立つ乙也の近くまで歩み寄った。

「綺麗な青い鱗だな。また、帰して死なないかな。」

若干語尾の弱々しい声に乙也が振り向くと、彼女は憐れむような表情で魚類を見ていた。慄くほど巨大な魚を慈しむような、愛おしく思うような優しい眼差しで捉えている。

「わからない、やってみるしかないな。慧那、キト、そしてガイ。もっと寄って甲亜を援護しろ。」

乙也も弓の準備をして魚類の姿をしっかりと見ながら後ろ向きに歩いた。ガラス玉のような反射を見せる眼球を食い入るように睨む。

「甲亜、初めてくれ。」

「…お前は男か、女か。そのヒレの形は女だな。卵を産みつけた川はもっと上流だろう。森の方だ。さあ帰ろう。」

甲亜は地に膝をついて彼女に声をかけた。

いつもの通りに対象を説得していたその時。

一本の毒矢が魚の左の眼球を射抜いた。魚は踊るように暴れ、川の水が跳ね上がりそれらが激しく擦れ合う。

「キト!お前!」

乙也は矢を一本使ったキトの首元を乱暴に掴み上げて彼を責めた。キトは僅かに呻いたがやがて涼しい顔になって鼻で笑った。

「分隊長様がお怒りだ。」

「貴様!この魚類を射ってしまっては、甲亜との契約が決裂することはわかっていただろう!人から頼まれたのか、金が欲しいか、不満があるのか。何だ、ほら言ってみろ!」

「うるさいなこの青臭いガキめ。何が契約だ、人間よりも獣人が大事か!?」

キトの鋭い目つきと、ひりひりとする言葉に一瞬狼狽えながらも負けまいと吠えた。

「上司にそんな言葉遣いをするか!お前には帰ったら処罰を受けてもらう。」

吐き捨ててはすぐさま魚類に寄ってみるとその眼球は砕かれ、周りに散り、その水も血液で赤く濁っていた。

乙也は奥歯をぎりぎりと噛んだ。口内を伝ってその音が鼓膜に響く。

甲亜の顔は苦しげに歪んでいた。乙也はそれを隣で盗み見て、声をかけることも背中を撫でてやることも何もできなかった。


「キトを誑かしたのはあなたでしょう?」

「誑かす?嫌な言い方をしますね。」

「水岐参隊長を責めないでください。実際に魚類を射ったのはキトさんなんでしょう?」

「栄華、黙っていなさい。」

「はい。失礼いたしました。」

キトが魚類を射抜き、乙也は彼を他の数人の軍人に見張らせ帰し、見回りを続けるも他の危険獣を目撃することはできなかった。

乙也はそれから基地に戻るとキトを自身の部屋に呼んだ。お茶も出されていないテーブルを挟み、乙也とキトは互いに睨むような顔で向かい合った。乙也が射った理由を訊くと一言目に

「水岐参隊長に、研究材料が足りないと言われたんだ。」

と言い訳を漏らした。確かに魚類のそれもメスとなると捕獲できた個体は少なく、できたとしても水槽で死んでしまうことが多かった。その為魚類の研究が思うように進んでおらず、以前から話の上がっている海軍隊の発足も後回しになるばかりであった。

しかしその研究班の現状にキトが同情して行動したとは、乙也には到底思えないことだった。

何か他に理由があるのではないかと、翌日乙也は研究室にいる水岐を訪ねたのだ。

「捕獲できた魚類のメスが少ないことと、他にどんなことを言ってキトを動かしたんですか。」

「だから、そんな事していませんよ。」

彼は脚を組み直して、蛇のような鋭い目で乙也をじらりと見つめた。それから口角をきゅっと上げて栄華の淹れたお茶を飲む。

研究室は暗い。カーテンは閉め切られ、檻に入った獣を興奮させないために明るい電球は点けずにランプを持って移動しなければならない。

水岐が座っている丸椅子の近くにあるテーブルに、お茶の入ったカップが置かれている。その隣に並べられたランプの仄かな明るさが、水岐の妖しさを引き立たせていた。

「…先ほどから乙也壱隊長が仰っていることは少し論点がずれています。キトは私の言うことに感化されたのではなくて、私を信仰しているのですよ。」

信仰?その言葉が乙也の脳内で卑しく響いた。

「何ですかそれは。」

キトが水岐のことを慕っていたり、特別敬っていたりするところを見たことも、それを誰かの口から聞いたこともない。乙也は得意げな水岐の顔を怪訝な表情で見つめた。

「何って、そのままの意味ですよ。私が政治活動にも手を出そうとしているのは乙也壱隊長もご存知でしょう?彼は私の政治的意見に賛同してくれているのですよ、もう随分前から。」

乙也は耳を疑った。キトのことを誰かの意見を全面的に肯定するような男だとは思っていなかったためだ。

「…水岐参隊長のご意見は軍の拡大でしたね。市民を幼い時から軍人として教育し、街全体を大きな軍隊にしていく。齢が十二になったら仕事を与え、一生食い扶持に困らないようなシステムを作り上げる。軍内部で国の防衛から秋の稲刈りから小川の掃除まで、全てを完結させる永久機関を作る。…壮大な未来図ですね、孤児も減ることでしょう。しかしこれが本当に実現可能だとお思いなんですか?キトは何と言ったのです?」

乙也が言い詰めると水岐は深くため息を吐いて、乱れた前髪を骨張った手で直した。

「不可能だとお考えですか乙也壱隊長。キトは元々孤児でしてね、私の話を真剣に聞いてくれましたよ。あなただって槻見医師のお力添えで軍の孤児院に入れたんだ。街を軍が中心となった大きな一つの家族にしてしまえば、寂しいこともないかなと、そんな気がしてきませんか。ねえ。」

「あなたのお父様は法律家で、お母様の家系は銀行をやられているでしょう。そのような家で育って、孤児の意思を語りますか。何も知らないでしょうに。」

「乙也壱隊長と言えど、今のお言葉はいかがなものかと」

「口を噤んでいなさい、栄華。叩かれたいのか。」

乙也が畳み掛けるように言うと、栄華がそれに首を振った。しかしその思いを顧みることなく、水岐は彼女の言ったことを鋭い視線で咎めた。

すると栄華は草木が薙ぎ倒された時のようにしなしなと萎れ、眉根を寄せて肩を落としてしまった。

「確かに、私の実家は裕福なものでした。だからと言って、政治に参入してはいけない理由にはならない。それとも何でしょう、幼少期に経験した贅沢の度合いで口喧嘩ができる人ですか。乙也壱隊長は。」

ふつふつと煮えた憤りが抑えられず、椅子から腰を浮かせて思わず

「うるさい!黙ってください。」

と口走ってから、やめておけば良かったと後悔した。生意気な口調で言い返したことにではない。ここへ赴いたことに、後悔していた。

乙也はため息を吐き捨てて研究室を出ると甲亜の部屋へ向かった。

今の時間ならジンが来ているかもしれない。鉄格子に囲われた獣たちを横目で見ながら通り過ぎ、部屋の扉を三回ノックするとガイが出た。

「今丁度茶が入ったんだ、飲むか。」

「もらいます。」

甲亜とジンとガイは共にいることが増えたからか、少し打ち解けているようだった。ジンの報告書に、甲亜が前より尋問に答えるようになったと言う文章を見たのを乙也は思い出した。

甲亜はベッドの端にちょこなんと腰かけて、ガイから差し出されたカップに両手を伸ばし、慣れていなさそうな動きで掴んだ。

「熱いぞ。」

「わかってる、湯気がすごいから。」

「ならいいが。」

乙也はガイと甲亜の関係が柔らかく溶け合ったような会話を聞いて、父と娘のようだと感じた。ジンは甲亜の従姉妹みたいだった。

三人だけの世界がそこにあるような気がして、乙也はガイから差し出されたカップをなかなか受け取れなかった。

「おい。」

「…ああ、すみません。ありがとうございます。」

中にはジイロが薄まったような色の綺麗な液体がなみなみと注がれていた。カップの持ち手を握ると、その温もりが伝わってきて自分の手が案外冷たかったことに気づいた。

「これはジイロの茶ですか?」

乙也はジンが座るように促したソファに浅く腰をかけて液体の香りを深く吸い込んだ。

「ええ、生で食べてばっかりは飽きますからね。」

隣に立ったジンが、得意そうな顔をして言った。そういえば彼女は様々な葉や材料を混ぜてお茶を作るのが好きだったなと乙也は思い出した。

「これはジンの作った茶葉か?」

と訊くと彼女は眩しく微笑んで

「そうです!お味はいかがですか?」

と答えた。

「甘酸っぱくって、美味い。」

乙也ではなく、甲亜が一口飲んでそう漏らした。ジンは満足げな様子でそうだろうと返す。

「そう言えばさっき空軍の埜環という奴がここへ来たぞ。乙也を探しているって。」

ガイは甲亜が腰掛けるベッドに座った。少し離れたところだったけれど、甲亜は横にずれてガイとの距離を取った。

「おい、傷つく。」

「言っていろ。」

「甲亜、慎みなさい。」

乙也が口を挟むとガイは軽く笑って

「若い女に煙たがられるのは思ったより悪いもんじゃない。」

「そういうものですか…埜環が来て、それだけですか。」

「ああ。」

ガイは酒をそうするように、お茶の入ったカップを左回りさせた。彼の手に染みついた癖なのだろうと乙也は思った。

「何かを話したげだった。尋ねたらどうだ。」

「ええ、そうします。」

ジイロの茶を飲み切ってしまうと乙也はソファから腰をあげて、カップをジンに渡した。

「美味かった、ありがとう。」

「はい。…もう戻られるんですか。」

「ああ、埜環が探しているようだし、まだ業務が残っている。お前もさぼりは程々にしろよ。」

「はあい。」

ガイに頭を下げて部屋から出ようと踵を返した時、甲亜が咄嗟に言葉を放った。

「処刑は後三週間後だ。毒矢で射抜くのか、頭を切り落とすのか、それとも大衆で殴りかかるのか。」

彼女は少し未来の自分の死因を、乙也に聞いた。まるで乙也が死神であるかのように、全てを彼が決めるのだと信じ切って。

「今はまだわからない、待っていろ。」

乙也の心の中には、甲亜をどう処刑しようかだなんていう思惑は存在しなかった。

乙也はなぜか、甲亜を生かしてやりたい。

そう思いかけていた。


「埜環、入るぞ。」

その後、自身の部屋に戻って紙袋を手に持って空軍の寮の方に向かった。埜環の部屋を尋ねると彼は眉根を寄せながら机に向き合っていた。部下から回ってきた武器の追加申請書や、戦闘体制などの改めなどを記した書類を隅まで読んで判を押す作業をしていたらしく、乙也の顔を見るなり伸びをして弱音を吐いた。

「こんなの分隊長じゃなくてもできるよな。」

「お疲れ。」

乙也は埜環の側に歩み寄ると、持ってきた紙袋を机の上に置いた。

「ほら、息抜きに。」

客人用のソファに深く座ると彼もその向かいに腰をかけた。

埜環は少年のような顔をして紙袋の口を開けた。中にはコラトルの実を砂糖で煮つめたものを生地に乗せて焼いた菓子が入っていた。

コラトルの実とは、薄緑の楕円の皮に覆われた茶色種子のことを指す。これを砕いて水や牛乳と砂糖などを混ぜてから、焼き菓子などに用いるのが一般的であった。皮は分厚く内側には綿がびっしりと生えおり、表面は凹んでいる。その凹んだ姿が、自身の身を挺して障害や衝撃から種を守るような姿が親のようだという言い伝えで、縁起がいいとされていた。なかなかの高級品である。

食堂で売っていたため、甘いものに目がない乙也はその時すぐにいくつか購入した。

「コラトルの焼き菓子か!うわあ、美味そう。」

袋に手を突っ込んで無邪気な表情で頬が丸くなるほど口に放り込んだ。

「ずりい、お前ばっか。私にも食わせろ。」

「わかった、わかったって。」

甘い菓子を貪り食っている時だけ、二人は昔に戻ることができた。その濃い甘味に舌鼓を打って、唇にたくさん食べかすをつけて、顔を綻ばせることができた。

「埜環、ちょっとやつれたか?」

乙也の声に、埜環はひくりと肩を跳ねさせた。顔色が悪いのも、痩せてきているのもやはり本当のことで、その上自覚もあるのだ。乙也はため息を吐いて彼の瞳を覗き込んだ。

「少しな、少し。」

「馬鹿言え、ひどい顔だぞ。」

「多忙なのはみんな同じだ。若い奴らが頑張っているのに、俺だけ休めない。」

「だからって、」

「いいんだよ!」

彼の怒鳴り声が、乙也の胸をきつく締めた。

「いいんだ。」

「…探してたんだろう、私のことを。何か話したいことがあったんじゃないか。」

乙也がそう言っても彼は緩く被りを振って否定を示すだけだった。

「いや。いい。」

埜環は口の周りについた、甘い破片を拭い取ってふと窓の外を眺めた。

「いいんだ。」


乙也は息が詰まるような空気の中、無言で埜環の部屋を出た。廊下の空気はほんのりと温もりがあったが、乙也の心を完全に温めることはできなかった。

自分も埜環のように机の上が書類で埋まっているのを思い出して自室に戻ると作業に取りかかった。引き出しの中にしまってあるコラトルの菓子をつまむ気にもなれず茶を淹れるでもなくただ淡々と紙の上に並べられた事象を脳に捩じ込み、手を動かした。

その時空気を破くように強く音が響いた。

収集を促すベルの音である。

朱肉の蓋も閉める暇なく身支度をして部屋から飛び出し、武器庫に向かった。

「伴俐、連絡は来ているか。」

「いえ、まだ。」

ざわめきが重なる廊下を駆けていると伴俐と遭遇した。連絡が普段より少々遅れているらしく、情報網のような役割をしている伴俐にも詳細が伝わっていなかった。どこでどのくらいの規模の被害があったのか、それがわからなければ二進も三進も行かないので乙也は寮の中を歩き回り廊下にいる者たちに訊いて回った。

「連絡はどうなっている?」

「わかりません、自分たちもベルが鳴って部屋から出てきて…」

「僕はさっき同僚から東部で起こったことだと聞きました。」

「え?北部じゃないのかよ。」

軍人たちは皆それぞれ思い違いをしているようだった。人からもたらされた情報が真実か否かもわからずただただ言い伝えしている。

「仕方ない、外に出て全方位を見に行くしかない。」

連絡は各所に派遣された軍人が馬に跨り本部の基地まで届けると言うやり方と、被害のあった場所で軍人と市民が協力し合い狼煙を上げ続けるというこの二つを併用して行っていた。確かな情報を持っている軍人が見当たらないため、乙也は外に出て煙を探そうと考えたのだ。

伴俐を連れて馬房に向かうとヘクトは落ち着きのない様子で乙也に擦り寄った。

「お前にも何かが起きたとわかるんだな。」

ヘクトの支度を整え、その背中に跨り基地と寮の周りに円を描くように駆け回った。しかし、いくら目を凝らしても狼煙は見えない。

「変ですね。」

「ああ、ベルの誤作動というわけでもないだろう。誰かが確かに連絡をして伝達をするも、伴俐や私に届かなかったか、狼煙が途絶えたかのどちらかだ。可能性が高いのは後者だろう。私の部下はそんなに間抜けじゃない。」

「どうしますか?」

伴俐に問われ少しの間思索をし、乙也はやがて口を開いた。

「陸軍の騎兵を総動員して四分割し、東西南北各所の基地に向かわせる。恐らく牡丹も幹玄参隊長も協力してくれるだろう。お前やジンや行は私と一緒に全方位の様子を見回る。時間がかかるだろうがそれがいい。」

伴俐は乙也の言葉に頷いて

「承知しました。」

と返した。

二人はいつも軍隊が列を作る場所まで戻って身支度を済ませた軍人たちを待った。

「行、牡丹弍隊長と幹玄参隊長に協力要請だと伝えてくれ、騎兵と連絡用の者と…念のため軍医を数人貸してほしいと言うんだ、いいな。」

「はい、それだけでよろしいんですか。」

「ああ、頼んだ。」

いち早く駆けつけた行に言伝を頼み、乙也は人数の配分を考えた。

短い時間で列ができ始め、行は牡丹と幹玄を連れてきた。

「幹玄参隊長、牡丹。すみません。」

「いやいい。何だ、今日は煙たくないな。」

「乙也さんご苦労様です。何だかおかしいですねぇ。」

倍以上になった騎兵の列を眺めながら乙也は頷いた。

「ええ。」

「兵は好きに使え、俺も駆け回ってやる。牡丹もそうするだろう?」

幹玄の気ままな問いに牡丹はにひゃっとした笑顔になって勿論、と答えた。

「ご協力しましょう。」

普段通りの瞳が見えない牡丹の表情が、その時の乙也には心強いものに見えた。

「そうか、助かる。まずは役割だ、牡丹お前には北部全般を任せたい。この箇所は獣の出現率が高い。幹玄参隊長には北、北東、東を通って東南を見回りしていただきたい。私は南、南西、西、北西の順で見回ります。」

「了解。」

「承知しました。好きな者を連れていいのですね?」

「ああ。同じ隊の者の方が気が知れていいだろうし勝手にやってくれ。お前の気に入った奴を連れて行けばいい。」

乙也は牡丹と幹玄に自身の隊が分担する場所を決めてもらい、それを名簿に書き記した。

目の奥に染み付けるかのように凝視して、それを伴俐に渡した。

乙也は二人との相談が済むと列の前に立って大声を張り上げた。胸が揺れる感覚がする。

「これより、被害地の捜査を始める。指示された場所の見回りをし、異変があれば素早い伝達を行う。狼煙と派遣された軍人からの連絡がないのはおかしい。心して当たれ!」

太い声を震わせると、目の前に並んだ彼ら彼女らはそれ以上の大きさで答えた。軍人たちの張り詰めた声の響きが乙也の内部にずしずし入り込んで積もっていく。

それから乙也は陸軍壱の担う場所と、分けられた班を指示し部下たちを向かわせ、自らも馬に跨った。

乙也の班にはジン、伴俐、行、深、慧那にガイ、そして甲亜が居た。

乙也は隣にガイとその馬に乗った甲亜を並べさせ、まずは南部に向かった。

「乙也。」

甲亜の細くも芯の通った声が乙也を振り向かせる。ヘクトを走らせながら返事をした。

「何だ。」

「変だ。」

乙也は奇妙に思った。軍の体制を詳しく知らない甲亜は狼煙が上がらないことや連絡が来ないことを知っているはずがない。なのに変だとはどこからどう感じ取った印象なのか。

「なぜそう思う。」

「嫌な感じがする。叫びが聞こえるんだ。」

甲亜は被らされていた外套のフードを頭を振って外し、生えている獣の耳を露わにした。蝙蝠のような灰色をしている。

「叫び?人の声ということか。」

「そうだけれど、いや違うのも混じっている。甲亜と似たような響き方をする声だ。」

背中がぶわっと粟立った。軍の施設に引き取られ獣について学んだ時、獣人の存在を知った時のような感覚であった。

「…それは獣人か。」

「そうだと思う。とにかく酷い声で泣いている。苦しいと言っている。」

根拠のない意見だった。しかし、強い目の光が乙也に咎める言葉を持たせてくれない。乙也はガイの顔をふっと見て、無言のうちに後押しを求めた。

「…どこから聞こえる。」

ガイは乙也に微笑みかけてから、甲亜に優しく問うた。

「丁度南だ、どんどん近づいている。」

「わかった。」

乙也はヘクトをより速く走らせ、南部の基地に急いだ。

暖かいはずの空気が、速度を持って頬に触れると刃物が擦れたように痛かった。

「そっちじゃない!もうちょっと西に行ったとこでみんな泣いてる!」

真っ直ぐ進む乙也とそれに従う部下たちに甲亜は口を挟んだ。

「まずは南部の基地に向かう。」

「違う!叫びが聞こえるのはもう少しあっちだ。」

「乙也、後で西部も通るんだろう。」

「ええ。」

ガイは吠える甲亜を押さえ込んで言った。

「なら乙也に従うんだ、甲亜。」

「でも…」

人間らしい顔の歪みを作って、ガイの瞳を見つめる彼女の眼差しが、乙也の心の大河を引き裂いていく。甲亜の方を向いた顔を正面に戻して右手を掲げて後ろを走る部下を呼んだ。

「お前たちは予定の通り南部の基地に向かえ。私とガイは甲亜がうるさいので面倒を見ることにする。」

「本気で仰っているんですか?」

慧那が怪訝な顔で乙也を覗き込んで言った。乙也はしっかりと頷いて答える。

「ああ、少し西に逸れるだけだろうしお前たちなら自ら行動できるだろう。南部の見回りが済んだら南西部の基地に寄っていけ。いいな。」

反論を拒むような強い口調にすると彼はため息まじりに返事をした。

「わかりました。乙也壱隊長も百獣のご機嫌が取れたら南西部の基地に向かってくださいね。」

慧那は困ったように微笑んで、他の部下を連れて南部に馬を走らせた。深が不安そうな表情で振り向くのを乙也は手を掲げて、見送った。

「さて甲亜、その叫びはどこから聞こえる。」

「あっちだ。」

乙也とガイは甲亜の指差す方へただひたすらに馬を走らせた。疾駆するわけでもなく指示通り穏やかな速度で走るヘクトの挙動からは、若干不安げな様子を感じ取ることができた。乙也はヘクトの立て髪を手袋を嵌めた左手で数回撫でてやった。

触れる空気が先ほどよりも鋭く感じる。胸の奥でざわめくものの正体が、今一つわからないでいたがそれは恐らく良くないものなのだろうと乙也は身構えた。

そこから山沿いを十分ほど走った時。乙也の耳にもその叫びが聞こえてきた。微かだが、南西部の村の方から複数人の声が聞こえる。「おい、甲亜。ここら辺だな。」

「ああ、もっと村に寄った山の麓から聞こえる。」

乙也は頷いてヘクトを急かした。やはりここで被害があったのだ。

ヘクトに揺られながら甲亜の横顔を盗み見ると、彼女は真剣な表情で前方を見つめていた。この表情は、被害に遭った市民を人間を案じてなのだろうか。そうならば、彼女の心は今どうなっている。乙也が度々なるように、大河が二つに分かれてしまってはいないのだろうか。

そうか。乙也は自らの顔の向きも戻してふと直感した。

彼女は今、人間を見ているのだ。父親を殺されたとか、姉に酷いことをされたとかそういう自分の事情は抜きにしてただあの村の人間のことだけを考えている。そういう真っ直ぐと生えた花のような生き方が乙也に自分の母のことを思い出させる理由なのだ。そうか。乙也は心の中で頷いて右手で強く胸を叩く。

その瞬間甲亜が目を見張った。

「乙也!」

甲亜はガイの馬から飛び降り、乙也の視界の真ん中に飛び出した。空中に浮いて、その影と対峙している。

「鳥類の獣人だ!」

ガイが咄嗟に影の正体を察知し、叫んだ。乙也はすぐさま横に逸れて鳥類の獣人の姿を捉えた。

鈍色と薄い灰色が混じったような大きな翼で中に浮かび、地面に影を落としている。白いシャツの上にはくすんだ緑のショールを巻いて、明るい茶色の短いズボンを着て脚絆をつけた革靴を履いている。焦茶色の髪の毛は器用に編まれて束ねられていた。背中には何かを担いでいるように見える。あまりにも小綺麗で人間的な出立ちに目を擦りそうになった。

そしてその顔には面をしていた。木か何かで作られているようだった。鳥、恐らく鷹を模した柄が施され、形も顎部分が口ばしのように尖っている。隠されていない肌は少し褐色

で、艶があった。小柄で華奢な体型なため、少女と見受けられる。乙也は唾を飲み込んだ。

「お前、誰だ。お前が泣いているのか。」

甲亜は自らも翼を生やし鳥類の獣人と同じ高さに飛んでいた。狼の耳がひくりと震え、手には熊の毛が浮かび上がるように生えていた。

「お前が泣いていたんだな。さあ、森に帰ろう。」

甲亜は自分以外の獣人と出会ったことがないのだと、ジンの報告書に記されていた。彼女は今獣を相手にした時と同じような口調で鳥類の獣人に向かって言葉を放っているのだ。

「なぜ動かない?」

甲亜が微動だにしない鳥類に近づいて、肩に触れようと手を伸ばしたその時。

鳥類は爪の長い手でそれを跳ね除け、もう一度手を振るって甲亜の顔に傷をつけた。甲亜は避けるも頬の皮膚を細く削り取られてしまった。

「大丈夫か甲亜!ガイ殿、まだ放さずに。」

ガイは鳥類目がけて毒矢を構えていた。彼の瞳の光は、用心棒として甲亜を守るためだけの輝きなのかそれとも他の生ぬるい感情も入り混じっているのか、乙也にはわからなかった。その咄嗟の動きを制して、乙也はもう一度口を開く。

「鳥類の獣人、お前は知性も言語も持たないただの」

「何を言ってる?」

愕然とした。心臓をもぎ取られたかのような衝撃だった。

獣人が、言葉を発している。

冷ややかに響く声。表情の見えない顔。伸ばした背筋と、穏やかに上下する羽。乙也は言葉を失い、その姿をただ呆然と眺めることしかできなかった。

「私はただの、何だ?」

口を開いても反射的に答えることが叶わない。

「お前は、先ほど私が泣いていると言ったな?」

鳥類の獣人は乙也から目を逸らして、同じ高さにいる甲亜を見据えた。

「…ああ、言った。だってそうだろう。」

強張った声色は乙也に彼女の心情を想像させた。初めて見る獣人が突如現れて警戒しないはずがない。それも自分と同じように言語、そして恐らく知性も持つ個体と出くわして。

「なぜ?私は泣いてない。ほら、声にも涙が混じってないでしょう。」

鳥類の獣人の声は、驚くほど落ち着いていた。寝静まった森のように冷たい空気を纏っている。

甲亜は鳥類の獣人から発せられた言葉に首を振った。そしておもむろに口を開いて

「心で、泣いていただろう。」

と呟いた。

「たわけ!私は泣かない、いい子なんだ!」

鳥類の獣人は甲高い声で喚いて腕を振り回した。甲亜も俊敏に反応し、腕を掴んだが彼女は怯まずもう片方の手でそれを払った。

背中に担いでいたのは弓矢だった。素早くそれを取り出して構えると、鳥類の獣人は荒い息を吐いて甲亜を睨みつける。面で隠れていて顔は見えない。いやしかし彼女が甲亜を睨んでいるか否かなど、想像すれば容易かった。

鳥類の獣人が狙うは無論甲亜の脳髄であった。

「ガイ殿。」

「ああ。」

乙也の合図で放たれたガイの矢が鳥類の獣人の右肩に突き刺さった。彼女はその瞬間呻き声をあげてふらっとよろめいた。その隙を狙って甲亜が彼女に掴みかかる。手に持っていた弓矢を奪い取り、両手で折ってしまうと自らの翼をばたつかせて獣人を追い詰めた。

「何でこんなことするんだ。本当は嫌だって言ってるのに、何で人間を襲うんだ。」

「違う!放して!私は嫌なんて思ってない!」

乙也は甲亜を引っ掻こうとする彼女の左手を狙って弓矢を放った。反射的に発せられたか弱い叫びが乙也の耳を痛くした。

「甲亜、もういい!ガイ殿、放ち続けてください。」

甲亜は乙也の言葉に頷いて手を離し、翼をはためかせて彼女と距離を取った。その後ガイは容赦なく矢を放ち続け、それらを全て鳥類の獣人の四肢や胴体に突き刺さった。しかし悲鳴を上げながらも器用に避けるのでどうしても心臓に当たらない。

これ以上個体に傷がつくと拘束した後のサンプルの質が悪くなる。乙也はガイに向かってガス用のマスクをつけることを指示するとポケットからガス弾を取り出しピンを抜いて、空中にいる獣人目掛けて力一杯投げた。

「一旦距離を取る。村まで森を沿って走りましょう。」

乙也はマスクを装着しながら、ガス弾が正常に作動したことを確認した。ヘクトの肩を叩いて前方に走らせる。

「乙也、あんなに傷だらけにした上にガスを振り撒くのか?」

甲亜は空から下降して乙也の隣を飛びながらそう問うた。

「来い。」

ガイは乙也の少し後ろを走りながら、甲亜を呼んだ。甲亜は素直に頷くとガイの前に座って翼をしまった。

「獣人なら治癒能力が高いだろうから大丈夫だ。この辺で様子を見よう。」

少し離れた場所でヘクトの足を止まらせ、乙也は鳥類の獣人にガスを撒いた後方を振り返った。

いない。

鳥類の獣人がいない。ガスに紛れて逃亡したのだ。

「ああ、くそ。もっとガス弾を投げておけばよかった。」

ガイも力が抜けたようにため息をついた。

「あいつの家はどこなんだろう。何かにひどく怯えているみたいな飛び方だった。」

甲亜は、もう彼女のいない空間を眺めてぽつりと鳴いた。

乙也にはその横顔が寂しさの色を纏っているように見えてならなかった。


「慧那さん!」

南部基地に派遣されている若い軍人が慧那の姿を見て顔を明るくさせた。

慧那、伴俐、行、そしてジンと深は南部の基地に到着した。道中何かに遭遇することはなく、南風を感じながらの移動であった。

「やあ、久方ぶり。」

南部の基地は木造の一般家屋のような見た目をしており、まれに村の子供を預かったり老婆が差し入れを持ってきたり、庭から笑い声が聞こえてきたりする和やかな所だった。

慧那が最初に派遣された基地は南部である。慧那は古い記憶を呼び覚ましながら周りを見渡した。

「南部での被害はないようだな。」

「被害?何かあったんでしょうか。」

やはり伝達が上手くいっていないのだ。慧那は本部の基地であったことを一通り軍人らに話した。

「何も聞いていないんですか?」

ジンの質問に少年のような幼い顔の軍人がこくんと頷いて答えた。

「知りませんでした。そんな連絡、ここには来ていません。」

「そうか。うん、ありがとう。では警戒を怠らずに見回りなどを行なってくれ。」

「はい。」

慧那は微笑んで彼の頭を撫でてやると、馬に跨った。

「これ、持っていってください。」

まだあどけない顔を向けるのは女の若い軍人だった。馬に乗った慧那に小包を両手で差し出している。

「ジイロを練り込んだ生地を焼いたパンです。腹持ちがいいですよ。」

「いいのに。いや、でもありがとう。」

慧那は優しく笑ってその少女から小包をもらうと、彼女の頭をそっと撫でた。

「ありがとうございます。」

「皆さんもお気をつけて。」

「何かあればすぐに狼煙を焚け。」

「感謝します。」

ジン、深、伴俐、行は若い軍人らに向けて、口々に言葉をかけた。

「では東南部の基地に急ぐ。はぐれずに着いてこいよ。」

慧那はそう言って見送ってくれた軍人たちに手を振り、皆を先導する。

五人は東南部を目指して走り始めた。


東南部の村はひどいものであった。

家屋が薙ぎ倒され、村人たちは傷を負い、土には血液が染み込んでいた。四方八方から叫びが呻きが悲鳴が聞こえる。乙也はそれを払うように頭を小刻みに振ると

「獣伐軍だ!獣はどこにいる!」

と声を張り上げた。

ガイは甲亜のフードを引っ張って、彼女の白い頭が隠れるように被せた。

二頭の馬が軍人を乗せて向かってくるのを見て、村人たちは泣き叫びながら駆け寄った。

一人の老婆がヘクトの身に張り付くようにしがみつく。

「軍人さん!助けてください、ほらもう大変で、」

「婆さん、ちょっと待ってくれ。他の奴も、まず話を聞かせてくれよ。」

ガイは乙也とヘクトに助け舟を出した。ガイの方にも数人の男女が寄って、行く手を阻んでいる。

「その子…」

老婆はガイの方、いや甲亜の姿を見ると目の色を変えた。まるであなたの孫ができましたよ、と娘から伝えられた時のように。

老婆はよろよろと甲亜に近づいて白いフードに隠れた彼女の顔を覗き込んだ。

「その、その綺麗な髪の色。まさか、」

青い血管が浮き出た皺だらけの腕を甲亜の顔に伸ばす。ガイが咄嗟に振り払おうとしたが、意外にも老婆の腕の力は強く防ぎきれなかった。

フードを剥がれた甲亜の頭が露わになる。彼女は表情に当惑を見せながらも、避けることをしなかった。

「何だ、そんなことないわよね。」

甲亜の狼の耳は幸いにもしまわれていた。ここで獣伐軍が獣人を連れていると露見してしまっては、信用を欠くのは目に見えている。

乙也の脳内で、老婆の言葉が気持ち悪いほど響いた。

何だ、そんなことないわよね。

その言葉が何を表すのか。乙也は安易に想像ができる。老婆は創造説の支持者なのだろう。珍しい銀髪を見て、百獣の少女だと直感したのだ。乙也は生唾を飲み込んだ。喉につかえる感覚がして、痛かった。

まず三人は村人の男に案内されて獣が出没した場所に向かった。

「被害があったのになぜ狼煙を上げなかった?東南部基地に派遣された軍人はどうしているんだ。」

乙也がそう問うと馬に乗った男は顔を歪ませてか細い声で呟いた。

「基地に居た軍人さんは、獣人に殺されてしまいました。狼煙を上げようとしても途中獣に襲われたり、獣人に燃料を奪われたりして上手くいかなくて。」

乙也は混乱しながらも、獣人という言葉に先ほどの鷹の翼を持った少女を思い出した。獣に加え、今回は獣人まで出現している。乙也は苦い現実に歯をギリギリ言わせた。

ヘクトは彼の焦燥に答えるかのように脚の動きを速めた。

「それは鷹の獣人か?」

「ええ、そうです。ご存知なんですね?それと熊の獣と山犬のような耳を生やした男の獣人が村を襲いました。その鷹の獣人と山犬の獣人は、言葉を話すんです。好戦的な上に不気味で恐ろしくて、もう私たちには成す術もなくて…」

「その山犬の獣人も喋るのか。」

ガイは驚いた様子で聞き返すと男は涙の滲んだ目を手の甲で擦って頷いた。

「あれです、あいつらです。」

三頭の馬は木の影に隠れた。男は震える指先をゆっくり伸ばして、それを指す。

血を飛散させながら跳ね回っているその獣人には山犬の耳が生えている。黒と白の毛が混じったような頭をして、腰からは尾を覗かせている。鷹の獣人と同じように、清潔そうな衣服を身にまとっていた。首には黒い枷を嵌められている。

甲亜は、その姿を前にのり出してじっと凝視した。村人を無惨に引っ掻き回し噛みつく彼の狂ったような笑顔は血で赤く汚れ、瞳は青く鋭く光り、短い髪が風に儚く靡いていた。

ひどく猟奇的であるのにも関わらず、甲亜は子犬のあどけない笑顔を思い浮かべることができた。彼が人間の肉を引きちぎる様は子犬が木の棒を振り回すのと似ていた。時折含み笑いをするのは尻尾を左右に激しく動かすのと似ていた。目の奥がちかちかするような感覚に甲亜はガイに背を預ける。

「どうした、大丈夫か。」

「…別に、問題ない。」

乙也は二人だけに伝わるように囁いた。

「甲亜、お前は今何ができる。村人が多くいる所で、獣の能力を使うのは好ましくない。翼や耳を生やさず戦闘を行わなければいけない。その時獣を森に帰するか、獣人の相手をするか。どちらを選ぶ。」

甲亜は背筋を伸ばし直し、口の中に溜まった唾を飲み込んで答える。

「熊を誘導する方ができそうだ。あの山犬は…」

首が絞まったように言葉が出なくなった。

山犬の獣人について行ってしまう気がしたのだ。

なぜって、あんな青くて虚ろな目を甲亜は見たことがないのだ。胸が痛くなるくらい、彼を哀れに思うのだ。自分の熱が彼に溶け込むくらい強く抱擁してやりたくなるのだ。

そんな者と向かい合わせになったら、よくない結果が待ち受けているということは甲亜にも理解できていた。人間を、命を蹂躙するような者は、やはり許してはいけないのだ。

「了解した。ならばガイ殿は私と山犬の獣人をやりましょう。」

「ああ。」

正面を向き直った乙也の背中を、甲亜は一瞬睨んだ。そうだ、所詮こいつだって数多の獣と獣人の命を奪いとってきたのだ。

「では数を数えて、突撃する。三、二、」

甲亜は拳を強く握りしめた。

ガイは毒矢を構える。

乙也が空気を弾き飛ばすように強く吠えた。

「一!」

甲亜の体の中で、血管がぶるぶると震えた。ガイの馬から飛び降りて四つん這いになり、必死に駆ける。いつものように獣の脚を使えないのは不便だが、もう乙也とガイは後ろに見える。甲亜は構わず、巨体の熊を目がけて疾走した。

熊は目の前にある家屋に体当たりしていた。がむしゃらに腕を振り回したり、意味なく咆哮を上げたりして暴れている。ぐんぐん近づくとその表情が窺えた。

甲亜ははっとした。熊の目が白く濁っている。そうか、この熊は目が見えないのだ。

熊の大きさは十メートルほどだった。二級の危険獣に分類される。

五感に障害を持った獣は珍しくない。生まれつき視覚が上手く機能していない場合は、あんな風に無闇に動いたりしない。自分のことをわかっているから、目が見えないなりに鼻や耳や肌を使って動くはずだ。甲亜は走りながら確信した。

あれは病気なのだ。瞳が白く濁る、後天性の病。その感覚に慣れていないからやたらと暴れているのだ。最近病に罹り始めたのかもしれない。

甲亜は唇を強く噛んで脚を速めた。もう目の前に熊がいる。

「さあ!森へ帰ろう!お前の家はどこにあるんだ!」

甲亜は熊の足元に近づき、その血と土で汚れた体毛にしがみついた。振り払われそうになりながらもよじ登ると、甲亜の顔にも汚れが移った。

乙也とガイは山犬の獣人に向かって毒矢を放っていた。しかしすぐに避けられてしまって、一本も命中しない。甲亜はそれを見て焦燥感を掻き立てられながら熊に声をかけ続ける。

「ほら!耳は聞こえるんだろう!」

迫ってくる熊の手を避けながら大声を張り上げるのは肺が締め付けられるほど苦しかった。翼を使うことができたら、少しは楽になるのに。甲亜は拳で胸を強く叩いて自分の気をしっかり持とうと努めた。

甲亜は熊の脚の裏から背中を駆け上った。いつ倒されるかもわからない緊張感が彼女の脚をより一層速める。肩の上にたどり着くと深く呼吸をして肺に空気を送り込み、熊の耳に向かってがなるように怒鳴った。

「おい!聞こえているんだろう!森へ」

「そいつの鼓膜は僕が突き破いたよ。」

視界が淀む。頭部に衝撃が走る。甲亜は自らの震えた体を抱いてその声を発した者の姿を見た。

「やあ、君コーアって名前なの?僕はシュユ。」

山犬の獣人は甲亜と同じように、熊の肩に乗り激しく揺られながらも直立していた。たまに飛んで跳ねて落ちないように体勢を変えている。

甲亜は奥歯をごりっと噛んだ。

「甲亜!」

ガイが下の方で彼女の名を叫んで毒矢を放つ。乙也もそれに続いて弓矢を構えた。

濁った空気を穿つようにガイと乙也の放った矢は山犬の獣人を狙って飛んだ。

しかし彼は、それが自分の顔の横まで近づくと片手で容易く掴み器用に握り潰した。木の粉にまみれた手を服になすりつけるとポケットからナイフを取り出した。

「何で名を知っているんだ。」

「犬は耳がいいんだ、わかるでしょう。」

シュユと名乗った山犬の獣人は、甲亜に対してまるで十年来の友人同士がするみたいな穏やかな笑顔を向けた。甲亜はそれを見て、やはり子犬を思い出した。

「何で言葉を話せるんだ。」

「…主様に教わったからだよ。おかしいこと訊くね。」

シュユはナイフを宙に投げて遊んだ。

「何でこんなことするんだ。」

彼は甲亜の言葉に小首を傾げた。二人の間を人間の肉だった塵が、家屋だった物の破片が、そして少しの静寂が横切った。

「主様に君を、取ってこいされたんだよね。」

シュユは瞳を輝かせてナイフをぐっと構えた。甲亜もそれに応えるように拳を握った。狼の牙を生やせたらどんなに心強かったろう。鷲の爪を伸ばすことができたらどれだけ自信を持つことができるだろう。数多の獣の毛皮でこの皮膚を守れたらこの身の震えを治してしまえるのに。。

シュユは甲亜に向かって一直線に迫ってきた。息を吸う間もなく目の前にやってきた彼を、甲亜は射抜くように睨んでナイフを奪おうと手を振るった。躱されるも腹に蹴りを入れると一瞬よろめいた。熊が痒いと言わんばかりに身震いをした。甲亜は熊の体から落ちそうになりながらも肩の毛をしっかりと掴んで、彼を蹴り続けた。

宙に浮いたナイフを飛び跳ねて握り締めると体勢を直して地上に降り立った。砂が少しだけ埃のように舞う。

「甲亜、あの山犬の獣人に毒矢は無理だ。熊種を倒す。」

「そんなこと駄目だ!あの熊は目が見えない上にシュユに鼓膜を壊されて耳が聞こえない!弱くって可哀想だ。殺すなんてあんまりだ…」

甲亜は乙也の言葉に反対しつつも、これまでに森へと誘導した数々の獣たちの姿を思い出した。皆、戦意を失った後朽ちていく。

もし、あの熊もそれと同じなら。今だって甲高い悲鳴が、子供の泣き声が、家畜が混乱する物音が聞こえる。甲亜を苛む。

「シュユって何だ。」

その音たちの縫い目から入り込んできた乙也の呟きが甲亜の意識を引っ張った。

「山犬の獣人の名だ。」

答えたその時、彼が熊の肩から飛び降りてきた。

「コーア!君は主様の投げたボールだよ!」

尖った爪を伸ばした両手をいっぱいに広げて、こっちを見てとでも言うようにそう叫んだ。

「シュユ。」

「僕に咥えられる覚悟ができたかな?」

彼は熊の足元に立っているだけで、甲亜の所まで走ってこなかった。いや、走るなんてことしなくたってこいつを咥えてその主とやらの胸に飛び込めると思っているのだ。甲亜は滾るような感情を心のうちに隠して静かに呟いた。

「殺さない程度に、熊を攻撃してくれ。必ず森に帰したい。」

乙也は一度だけ頷くとガイに合図をして馬を走らせた。

甲亜はシュユを、シュユは甲亜を凝視し合っ

ていた。

甲亜は、地を蹴って前に進んだ。

みるみる近づいてくる彼女にシュユは拳を構えた。

「甲亜はおもちゃじゃない!」

甲亜はシュユから奪ったナイフをぐっと握って振り翳した。彼は咄嗟に避けようと身を捩るもその切先が目の下に触れて赤い血が滲んだ。そこを手の甲で拭うとシュユは

「おもちゃだよ。」

と朗らかに笑った。

この荒んだ空気に似つかわしくないくらいの、柔らかな微笑だった。甲亜はそれをきっと睨んで再びナイフを振るう。

その二人の死角で、乙也とガイは熊に向かって矢を放っていた。目も耳も使えない獣と戦うのは乙也には初めてのことであった。放った毒矢を躱されることも先ほどのように手で折られるようなこともなかった。熊の体を狙うのは容易だった。死にはしない、しかし足止めになる箇所に矢を突き刺すのはもっと簡単であった。

乙也はふと熊に向けた弓矢を、振り返って山犬の獣人を狙ってみた。

あの心の臓を、穿つ。

張り詰めた空気の中、乙也はその矢をぎりぎりと引っ張ってその瞬間、放った。

「あああっ!!!」

山犬の獣人の声が響き渡った。

「痛い!どうしてくれるんだ!僕の綺麗な体…こんなの父さんに見られたらどれだけ叱られると思ってるんだよ!」

彼の胸には乙也が放った毒矢が突き刺さっていた。矢の箆と、肉が触れ合った穴からだらだらと血が流れている。呼吸が苦しそうに乱れて顔の血の気が潮のように引いていった。

ガイもシュユの太腿を狙って矢を放った。女が泣き叫ぶようなきんとした声を轟かせている。

嫌だ嫌だ、こんな体じゃあ…

目にいっぱい涙を溜めて、シュユはその場に蹲った。

甲亜はそれを見兼ねて乙也に追いつくように走り出した。

「乙也!熊を帰そう!今ならできる気がするんだ!」

「ああ!私もだ!」

二人の声を掻き消すように、後方で爆音が鳴り響いた。

甲亜は訳がわからず駆ける脚の速度を落としたが、乙也の前方に居たガイが首を振って吠えた。

「躊躇うな!来い!」

甲亜をその声に引っ張られ、淀んだ空気を掻き分けるように必死になって走った。

四つん這いになったシュユは遠のく彼女の背中を朦朧としてきた瞳で捉えて、穏やかにほくそ笑む。

「ざまあ。新開発の爆薬だよ。」

爆薬の煙幕に紛れてシュユの隣に近づく、男を乗せた一頭の馬。

その男は先ほど、乙也たちをここへ案内した村人であった。

「酷いお怪我だ…もっと早くに爆弾を起動させてもよろしかったのに。」

「馬鹿言え、これは逃げるための最終手段だったんだ。…本当は使いたくなんてなかった。」

シュユは諦めの色を纏った表情でため息を吐いた。肩の力を抜いて、背中を地面に預ける。

「…ボールを咥えかけてたのに、持ち帰ることができなかった。怒られる。主様にも、父さんにも。」

無意識の中に落ちた彼の体を男は抱き上げて馬に乗せた。

「水岐様がもっとお優しければ、シュユさんだって心が休まるだろうに。」

男はシュユの長いまつ毛を切なげな視線でなぞると、熊を帰そうとする甲亜たちを一瞥した。自分も馬に跨ると鞭で軽くその身を叩いて静かに去っていった。


「乙也壱隊長!」

「酷いですね…これは。」

慧那と伴俐が乙也に声をかける。南部の基地の見回りが済み、こちらへ向かってきたのだ。

「慧那、南部はどうだ。」

乙也はそばに駆け寄った慧那を見て問うた。ジン、深、行は目の前に聳え立つ熊を見上げて額に冷や汗を浮かばせていた。

「南部は何ら問題ありません。熊種ですか…指示を。」

「そうか。殺しはしない。いつもの通り、甲亜に誘導をさせて」

「それでは!それでは、時間がかかるだけで何も変わらないじゃあないですか。せいぜい矢と弾丸の消費が何発か抑えられるだけで結局はくたばってしまうし、乙也壱隊長は何を考えてらっしゃるんですか。」

乙也はできれば殺したくないなんて言えず、口を噤んでしまった。甲亜の、ゲリデゲリデと姿を見て感化されたなんて理由にできなかった。そんなことをしては、分隊長としてのあるべき姿を問われてしまう。

「いや、いいんだ。これで。」

乙也はもう、大河を一つに戻そうなんて思わない。それぞれの道を切り開く水流を許容するように一人で頷くと、甲亜の背中を押した。

「行け。…翼を使ったって構わない。」

「…わかった。」

彼女は決意を瞳に見せると、呼吸を整えて走り出した。

「皆は後方で援護。熊は視覚と聴覚が機能していない。もう何回か毒矢を射ってある。攻撃は不要だ。」

軍人らはそれぞれ頷くと熊を囲むように散った。

「さあ、帰れるぞ。静かな森に帰ろう。お前の家はどこなんだ。お前の番はどこにいるんだ。」

甲亜は燕の羽をはためかせて、熊の顔に触れることのできる高さまで飛び上がった。

優しくその毛皮に触れると、何度も穏やかな声で囁いた。大声を出しても、小さく言い聞かせても聞こえるはずはないのに熊は確実に森へと足を踏み出した。

「乙也、あの山犬の獣人は。」

ガイは乙也にそう訊いてみたが、彼は首を振って知らないと伝えるだけだった。

「もう少し。もう少しで家に帰れる。甲亜にお前の巣を教えてくれ。夏に一緒に川へ出よう、秋には木の実を食べて、冬はたくさん寝よう。穏やかな毎日に戻るんだ。子供を産んで育てていつか見送るんだ。幸せな日々を過ごしたら、いつかふっと死んでいる。それでいいよ。お前にはそれが似合っている。」

熊は歩みを続けて、頭の一部が林の影に隠れた。このまま森の中に入って、奥まで自ら行ったらもう安全だ。死なない。死にやしない。甲亜は唾を飲み込んで、熊の進む脚を眺めた。

「上手い、上手だ。」

熊の歩みは慎重すぎるほど遅かった。しかし一度も止まることなく森の奥へと入って行った。

しばらくすると甲亜はもう声をかけることをやめて前に進むこともしないで、進んでいく熊を見守った。

乙也たちの間にも、ひりひりとする緊張感が走った。

甲亜たちと熊の距離が随分とできた時。

熊はふと振り返って、甲亜の顔を見た。偶然なんかではない。確実に、甲亜の顔を見ようと思って振り返ったのだ。甲亜はそう確信した。

少しの間、甲亜の瞳を見つめると熊は朗らかに笑うように目を伏せた。

それが挨拶なのか、ただの仕草なのかは誰にもわからない。

しかし、一つ確かなのは熊種を森へ帰せたということである。

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