甲亜
亀屋モナカ
序章
一九七年 冬
白銀の絹糸が、踊る。
凍てつく空気を心地よく切るようにそれは仄かな光を浴び、森の中を舞っている。重力に逆らえない絹糸は音もなく流れるようにその頬を撫でた。
彼女。そう、彼女は白い頭をした少女だった。樹陰に体の半分を隠しながらも、瞳は真っ直ぐと太陽を見つめている。いやあれは光の筋を、その緑と薄い青の濁る眼で追っているのだ。
彼女はただそこに立っていた。目の粗い麻袋のような衣服を纏って、霜の降りた枯葉を素足で踏みつけ、天から吊るされているかのように直立している。
彼女の頭部は、狼の耳に侵されていた。
もみあげには鳩と蝙蝠の翼が生え、両手は毛で覆われ黒い爪は長く伸びている。腰か
らは虎の尾が嫋やかにくねっていた。脚の表
面には鱗が浮き出ている。
「特殊標的確認!総員、討て!」
声と眼光で強く射止める!
「乙也壱隊長、何事ですか!」
「ジン、あれを追え。走りながら話す。」
乙也は黒い髪を靡かせ素早く馬に跨った。肩を軽く叩いて合図すると気持ちのいい声で鳴いて走り出した。
「あれを見ろ。狼のような形状の耳が生えているだろう。」
獣人の少女は乙也の太い声で森の中に逃げ出した。人間離れした俊足は地をがしがしと噛んで必死に駆けている。そうあれは必死に走っている。人間の追手に慣れていない、という様子だった。乙也は疾走する獣人の足に食いつくように前屈みになって馬を走らせた。木陰の冷気が乙也の目の粘膜をきりきりと痛
ませ、乾かした。鋭い風に触れる肩の先の温
度が低くなっていくのがわかった。標的を睨みつけなければならないというのに視界が霞む。森の霧だった。
「獣人ですか?この頃多いですね。」
「木に当たるなよ。」
「私をいつまで新人扱いするつもりですか。」
ジンは短い茶髪を揺らせて乙也の一馬身前に移動した。
「気をつけろ。あの獣人も知性がないだろうから。」
「わかっていますよ。」
後ろからも仲間の軍人が馬を叩きながら追ってくる。本の一ページくらいなら瞬時に引き裂けてしまいそうな刺々しい緊迫した空気を胸いっぱいに吸い込んで肺が痛くなる。乙也は胸のポケットにしまいこんだマスクを取り出して吠えるように言った。
「
毒気は獣人や獣が発するもので、独特の匂い
がする。
家畜のような濃い匂いではなく、人間の体臭のようなものでもなくそれは結局獣たちだけの匂いなのだ。その他にない彼ら彼女らの肉の匂いが乙也たちの内臓を蝕んでいく。
鉱物が混ざったマスクを着けて馬に揺られるのは、顎が外れそうになるほど重く、顔も傷つく。毎度ジンや他の女性の軍人は渋々といった風に装着する。
「乙也壱隊長!後方から二級獣です。」
「よし。ジンと私は前方の獣人を追う。
「はい!」
亜麻色の髪を風に任せて、眼帯の軍人は馬を引き返す。正面には鹿が原種であろう十メートルほどの獣が淀んだ空気を纏いながら鋭利な眼光を発している。
獣は基本的に多量の出血と視界の損失で生命力のほとんどを欠くことができる。伴俐は自
分の何倍もの獣を見上げてまず毒矢を構えた。
「全員構えろ、俺は右目と心臓をやる。他の者は五つの首をやれ。
「容易いことです。」
「よし。」
伴俐は高らかな声で三つ数え、数人の軍人と獣を狙い定めて弓矢を飛ばした。瞬間、獣の眼球と手足から勢いよく血糊が噴き出す。井戸の水のように流れの強いそれを真正面から浴びながら伴俐は手榴弾のピンを抜いて大鹿の心臓目掛けて力強く投じた。
「距離を取れ!」
数秒経つと楕円の爆薬は標的の皮と肉を破壊し、赤い液体と皮膚の下の脂を飛散させた。行の視界が赤で遮られる。目の中に血液が入ってしまって、中の方で染みていくのがわかった。
大鹿は煙たい埃を立てて、その場に倒れ込んだ。荒んだ毛並みは血と体液と土とでだらだ
ら湿っている。
標的の死を確認すると伴俐は仲間を引き連れて乙也の気配を追いながら馬を走らせた。
「行、どうした。」
行は手の甲で左目を擦っている。獣の体液にも微量ながら毒が混ざっているのだ。彼には、段々左側の世界の色がぐるぐると円を描きながら濁っていくのを感じた。
「鹿の血液を左目に浴びました。」
馬は走る。
「大丈夫か。俺の水筒を使え。」
馬は速く速くと脚を動かす。走る。森の中の静寂を切り裂いて走る、走る。
「いえ。伴俐様のお水を使うわけには」
「いい。早く。」
「…はい。」
行は伴俐から差し出された水筒をしっかりと掴んで、蓋を開けると左目をかっぴらいて眼球の表面を清い水で流した。
透明な水は行の首筋を伝い、風に散り、水筒
は軽くなっていった。
「遠慮なく使うじゃないか。」
「す、すみません!」
「いや、いいんだ。それでいい。部下に怪我をさせたと乙也壱隊長に知れたら叩(はた)かれてしまう。」
行は伴俐の横を走り、礼を言って水筒を返した。馬は走る。駆け抜ける。
「乙也壱隊長はそんなに乱暴なお方なんですか。」
「さあ。幸運なことにまだ一度も叩(はた)かれたことはないが、ジンは言いなりじゃないか。稀に泣き腫らした目を見ることがある。」
「あいつは女ですから。」
「それは関係ない。お前だって、俺に酷く叱られたら落ち込むだろう。」
「…」
伴俐たちが乙也に追いつくとジンは機嫌の悪い顔をして、
「何よ。」
と威嚇するかのように言った。
「ジン、霧が薄くなった。右に回れ。私は左から獣人を挟む。」
乙也はくぐもった声で指示を出した。
「はい。」
「伴俐は私についてこい。行はジンを追え。他の者は周りを警戒しながら囲むように走れ。」
全員の声が重なり合って、乙也に了解の意を示した。その音は酷く荒々しく積み上がり、冷たい空気を吹き消すかのようだった。
馬は走る。同じ、いや異なる形の憎っくき生命体を追って絶えず走り続ける。乙也は晴れてきた霧の間を視線で掻い潜り、獣人の姿を捉えた。先ほどとは変化して、脚には豹のような斑模様の毛が生え太く成長していた。速い。目で追えないほどの速度だった。
乙也は馬に激しく揺られながらガス弾を獣人に投げた。
「あの獣人とのこれ以上の接触は不可能だ。
この人数では足りん。引き返す!」
「そんな!乙也壱隊長なら森を出ればすぐにでも」
「不可能だ。馬も持たん。」
強く咎めるとジンはしおれるように黙り込んでしまった。乙也は力無さと予見できなかった自身の能力を責めていた。なぜ今なんだ。
なぜ。
「二度と来るな!」
咆哮が響いた。
「この森に、二度と足を踏み入れるな!」
その時、温もりのない森の中にどっと熱が広がった。
前方の獣人はこちらを乱れた息を吐きながらじっとりと見つめている。いや、睨んでいる。敵視している。
獣人が、言葉を発している。
乙也は目を見張った。心臓が高鳴る。これまでに感じたことのない戦慄と驚愕だった。両親を亡くした時よりも、同僚を看取った時よ
りも深い傷つきを覚えた。
あの獣人の少女には、知性がある。喋るだけの知性が。
獰猛とした目の光は、言葉よりも重い圧迫感があった。粟立つ腕を必死に摩って、乙也は怒鳴った。
「撤退!総員撤退だ!」
恐怖で声が震えてしまっていることは、自分が一番わかっていた。
「帰ろう。ヘクト。」
鎧を被った馬の頭をしっとりと撫で、手綱を痛いほど握りしめた。
乙也は全員を左側に移動させ、獣人が追ってこないことを確認した。少女は背を真っ直ぐと伸ばして変わらずそこに立っている。
嫌な寒気がした。なぜ、今なんだ。そしてなぜ、言語を話せるのだ。
なぜ、架空の獣人である百獣の少女が存在するのだ。獣人になぜ知性があるのだ。
人を喰うだけの化け物が、なぜあんなに美し
いのだ。
乙也たちが
「乙也壱隊長、わかっているのか。」
「はい。申し訳ございません。」
「危険獣、獣人の血液の採取と記録を怠るなと以前から口酸っぱく言っているはずだ。」
「はい。」
乙也の隣にはジン、伴俐、行が背中を丸くして突っ立っている。乙也がそうさせている。
「それなのに、お前はまた。」
陸軍隊長の
そこにどっかり座ると、灰色の髪の間から乙也を見据えた。
「なあ、乙也。」
「…申し訳ございません。」
乙也の首筋は指が這ったような寒さに震えていた。乙也はまるで自分が蛇の餌になった気分でいた。隣のジンも冷や汗が止まらないでいる。沈黙が皮膚に張り付いて痛かった。
「伴俐、お前が獣の殲滅に取り掛かったそうだな。」
「…はい。」
「己臣陸軍隊長、伴俐は私の指示で」
「乙也くん、君には訊いていないぞ。」
「すみません…」
皺だらけの目元をぎょろりと気味悪く動かして、四人の若い軍人を睨んだ。
乙也は情けなくも拳で服の袖を握った。食われる、これは酷い懲罰がある。
しばらくの間、唾も飲み込めないような緊張感が続いた。窓の外では、ゆったりと雲が風に流されている。乙也は心の中でそれを吹き飛ばした。本当にそうしたいほど、緩やかな自然物が憎かった。
「…まあいいさ!生きて戻ってきたんだも
の。」
「己臣陸軍隊長!」
「己臣様!」
「神だ。」
「これは後世に受け継ぐべき慈悲溢れた神ですね。」
「よしてくれよ、からかっただけじゃないか。」
己臣の一言で空気が温もりを取り戻した。彼には長い間鞭を振りかざしておきながら一度も当てずに飴をばら撒くように与えるという特殊な教育の仕方があった。ので、己臣が長を務める獣伐陸軍隊の壱、弍、参の隊ではミスもヘマもできない。本当に何かをしでかして、彼の逆鱗に触れようものなら心臓を引きちぎられてしまうからだ。
己臣は脚をゆらりと組んで、四人を眺めた。
「よく頑張ったよ。二級獣の血液を持ってこられなかったのは残念だが、今日はそれ以上の土産話があるのだろう?」
「ええ。架空の生き物だとされてきた百獣の
少女です。私から説明させていただいてもよ
ろしいでしょうか。」
「勿論。」
乙也は胸ポケットから四つ折りにされた厚めの紙を取り出した。そこには獣人の姿とそれを説明する文字の羅列が書かれている。
「ここに座って。何か飲みながら話そう。」
己臣は客人用のソファを指差して部下を座らせ、芳香のする茶と高級菓子を人数分テーブルに出した。
「よい香り…これはベーリー茶ですか?」
ジンがカップを手に取って胸いっぱいに香りを吸い込む。
「ああ、今年の新茶だ。君たちの世代ではまだ手に入らない代物だろうからたくさん飲んでいくといい。」
己臣も客人用のソファに座り直し黄色の瞳を細めて言った
乙也は紙を広げて、上司に見せた。己臣は眼鏡をかけて睨むように覗き込む。他の者も前
屈みになって視線を交差し合った。
「これが百獣の少女です。狼の耳、もみあげの右側には蝙蝠の羽、左側には鳩の羽が生えています。両手は色の違う毛で覆われていました。虎の尾が伸びており、脚には鱗が浮き出ています。追跡の途中で豹の脚に変化することもありました。確認できるだけでも八種類の獣、動物の能力が見られます。一部の市民が支持する創造説に登場する百獣の少女とあまりにも見た目や能力が似ています。そして、少女には知性がありました。」
「知性。」
「はい。」
己臣はカップの中を啜るのをやめて、眉をぎゅっと寄せた。
「少女は私に対して、二度と来るなこの森に二度と足を踏み入れるなと吠えました。言葉を、それも私たちに通じる言語を話したのです。」
「馬鹿な。」
「本当です。」
「私も聞きました。」
ジンは静かにカップをソーサーに置き、明るい表情で言った。乙也も一口お茶を飲んだ。苦さのある深い味がじんわりと口内を泳ぐ。
「確かにそう言っていましたね。」
行が菓子をつまみながら口を挟む。
「少女は逃げるばかりで戦意は感じられませんでした。ガス弾を投げつけたらそう威嚇されたのです。」
「これは獣人の研究を早める必要があるな。」
「はい。研究班を束ねている水岐空軍参隊長に報告するべきでしょうか。」
「うん…まず私から上に言ってみてもいいか。」
「勿論です。市民、特に創造説の支持者に知られることがなければ。」
「そうだな。」
己臣は自分が出した皿の上の甘味にも口をつけずある一点をじっと見つめて沈黙した。部
下たちも自ずとそれらを食べることをはばか
られた。己臣は唸りながら考えを巡らせる。知性と言語を持つ獣人。獣人とはこれまで物事を考える脳や声を発する声帯はあれど、人間のような知的能力は低いもので会話はできえなかった。稀に獣人の捕獲に成功し、交渉役が対話を試みるも反応は見られず成果なく終わった。そして獣人のほとんどは表情や顔つきが虚ろであった。二年前に捕獲されたある獣人は魚のひれや気管を持つ個体で魚種弐番と名づけられた。彼女のみ、怯えと怒りの表情を見せている。百年以上危険獣と獣人についての研究、捜査が続けられているがその成果は芳しくない。
危険獣の発見は百九十七年前に遡る。
狼、及び犬が原種の獣が街を荒らし人を喰い殺した。黒々とした毛は光に照らされ、その影は一層濃くなり風に吹かれるとまるで揺らぐ炎のようだと当時を記録した書物には綴られている。
獣は長きに渡り、人間を苦しめ土地を乱れさ
せ、文明をも退化させ人間と世界の進化の行く末を阻んだ。人間はその時々によって対応や術を考え、柔軟に動いていった。実際、獣伐軍は名前を変えながら百九十七年間獣を殲滅し続けていた。そして危険獣発見から百六十五年経った時、獣人の存在が発見され研究がなされてきた。しかし未だ尚危険獣、並びに獣人についての情報は少ないばかりである。
獣人は基本的に、原種を一つしか持たない生物である。鹿、狼、鳥、魚、兎、熊、馬、蛇。哺乳類、爬虫類、両生類、魚類、昆虫。
全ての生物は危険獣とそして獣人の原種になり得る。危険獣は突然変異的な形で危うさと殺意を見せるようになる。獣人は生まれ持ってのものだと言われており、そこから人間の手をかけて教育や指導をしたところで彼ら彼女らは受け入れない。
危険獣も言葉や感情が伝わることなく、軍に討たれ、死ぬ。
三つの命の形は決して相容れぬ形で枯れてい
くのだ。
だからこそ感情の共有、すなわち言語の統一などありえないのだ。
ありえないはずなのだ。
「本当に百獣の少女だったら…創造説のように崇められるのでしょうか。」
ジンは雲がかった顔で誰に当ててでもなく独り言のように問うた。その場の優しくない視線を受け取って、彼女は素早く被りを振る。
「やだな。やめてくださいよ。私、別に支持者なんかじゃないですから。」
伴俐は頷きながら些か温度のある目元を動かす。
「わかっているさ。しかしやはり軍の中に支持者がいるのは、珍しいことだろう。」
「だから、支持者じゃないですって!」
「すまん、わかってるって。」
乙也は不満そうにするジンをなだめて己臣に頭を下げてから、皆を引き連れ部屋を出た。各々の寮に分かれて自室に戻ると窓の外はも
う暗くなりかけていた。戸締りをしてカーテンを引き、机の上のランプを点けた。柔らかい光が無駄に広い部屋を仄かに明るくした。重厚な机に置かれた山積みの申請書と資料が乙也に憂鬱さを思い出させる。
絨毯が敷かれた床をブーツでなぞりながら資料の束をめくる。
百獣の少女についての説や書籍は多岐にわたる。獣人の研究として、子供向けのおとぎ話として、あるいは崇高な神として、その他には男を誘惑する悪魔として、人間の手により好き勝手に書かれている。そのため、信憑性のある事実というものが埋もれがちでどれが本当なのかがわからない。それも、獣人そして百獣の少女の探究が燻っている原因だった。
もう一つは、単に百獣の少女の存在を絵空事だと思う人間が多いということだ。
「百獣の少女の全体図。狼の耳、蝶の羽、金色の髪、海のように濃い青い瞳、細身の体型…何だでたらめじゃないか。俺が見たのは
白銀の頭に灰色の目を持つ体格のいい少女
だ。」
証明するような口調でぼつぼつ言うと空気中の酸素が頷いてくれるような気がした。
「あれは本当に百獣の少女なのだろうか。」
本当に?ああ、あれは確かに…
声にまで出して、自問するも確証がない。やはりあの娘は百獣の少女などではない。自分の錯覚?思い込み?しかしおかしいだとすると
–––そうだ。おかしいじゃないか。
肺の奥から空気が瞬間的に吐き出される。鼻腔が痛くなる。喉の内側も傷ついてしまって、左手でぐっと絞めるように撫でた。
「何だ!?」
神経から発せられたような鮮やかな声。原点の記憶のような深み。訳のわからない共感の声が乙也の脳内に渦を作った。
「何なんだ…」
恐らくきっと疲れているのだ。少し仮眠すれ
ば治るかもしれない。自分の感覚を無理やり
に押し込んでベッドに倒れた。ブーツをずり
ずり剥ぎ取るみたいに乱暴に脱いで薄い毛布を腹にかける。
今さっき響いた声の余韻が延々と続いていた。
収集を呼びかける鈴の激しい震えが鼓膜に触れた。
乙也ははっとして乱れた髪を撫でつけ、時計を見上げた。三十分ほど眠っていたらしい。慌てて制服を整えてベルトをきつく締めた。編み上げのブーツもぎゅっと紐を縛って爪先の密着感を噛み締めた。
獣伐陸軍隊壱、討伐の時間だ。
風の速さで廊下を走り抜ける。胸いっぱいに息を吸って
「伴俐、武器庫の鍵を開けろ。行、伴俐と一緒に行って点検を済ませていない武器は済ま
せろ。ジン来たか。お前は馬の誘導だ、壱の
馬はもう疲れ切っている。陸軍隊弐の馬を出
せ。ああ、牡丹いいところに。こういうわけだ。ベルの音が止まないんだ。弐の馬を使わせてくれ。そうかありがとう。おい!ここに補給班の者はいないか!ライトと閃光弾の用意を忘れるな!軍医!先生どもはいないか!おい起きろ。お前たちは耳が遠すぎる。医者の不養生も大概にしろ!」
流れるように過ぎ去る時間。乙也が死ぬ思いで脚を動かそうと、自室で寝たままで居ようとなくなる時間は同じだ。
「乙也壱隊長、全ての武器の点検が済みました。今、皆が支度をしています。」
「馬の準備も終わりました。」
「皆さんに閃光弾を配っています!多めに持っていきますのでご心配なく!」
「乙也さん、前照灯どこだっけ?」
「お前たちの部屋だろう!皆よくやった、あと二分で出る。」
今回の収集は国の西部の川沿いでの危険獣の出現によるものだった。すでに数人の市民が襲われ軽傷を負っているという。
外に出ると肺が凍り死ぬほどの寒さだった。
軽く雪が散らついていた。鼻腔を通り抜ける空気が、鋭利な刃物のように感情をなくし乙也の心さえも寒くする。
軍服の上からコートを羽織って、ボタンを全て閉める。
「準備の済んだ者から西門前に整列。点呼を行う!」
支度を終えたジン、伴俐、行が乙也の足跡をたどる。薄く白が張り付いた地面を踏み締めるとそこから黒い土が露わになる。ぼそぼそとした土の塊がそこから覗けるより、雪に隠れていた方が美しい。女が下着だけの姿でいるより、薄いシャツを通してその下の色時々見える方が欲情を掻き立てるのと一緒だ。
「乙也壱隊長、全ての者が整列したようです。負傷した者たちは休ませておりますが。」
「構わない。行こう。」
伴俐は真っ直ぐな眼差しを持って深く、一度
だけ頷いた。
「騎兵点呼!」
伴俐が吠える。
「二名負傷のため欠員。他三百九十八問題ありません。」
ジンが遠吠えを重ねる。
「了解。砲兵点呼!」
「はい。三百人総員おります。」
「よし、」
絶え間なく点呼が繰り返される。他にも、西部地域の市民に避難を呼びかける放送。馬の荒い息遣い。軍人たちの足踏み。赤ん坊の泣き声。野良犬の鼓動。
瞼を一瞬、閉じると全ての音がこの地を伝って足から吸収され骨を辿って鼓膜に聞こえる。触れる。感じさせる。乙也は自分を呼ぶ声もそうやって聞こえると、深呼吸して目を開けた。
「よし、では行く。皆気を引き締めろ。いざ
討伐!戦闘!殲滅!」
「全てはこの国の安寧のために!」
いくつもの声が重なる。思いが交差する。獣によって奪われた平穏を未来に届けるため、今日もまた心臓に当てたナイフを前後に動かす。
血飛沫が平和の証だ!
西部に派遣されている軍の一部は既に負傷者が出ている。前線で戦う者、傷なしでいることはできない。
「乙也壱隊長、お疲れ様です。」
「ご苦労。三級と一級の危険獣が一体ずつ出てきているらしいな。」
乙也は西部基地に着くと馬に乗りながら部下からの報告を促した。
「ええ。二十メートルと三メートルほどの鹿種です。」
「両方鹿種なのか。それにしても大物だな。」
「はい。新人の騎兵ではとても…」
若い彼の目にはじんわりと涙が滲んでいる。
額には脂汗が浮き出ていた。乙也はそれを見ると、自分までそのようになりそうで目を逸らした。若い時分、獣伐軍に入った日を思い出す。
「何だ、腹でも痛いのか。」
己臣が陸軍の壱隊長の時、戦闘前の辛そうな乙也の表情を見るなりそう言った。
「何だ、腹でも痛いのか。」
乙也はいつしかの己臣を真似して部下に対して声をかけてみた。部下は
家族を獣によって亡くしている、それが最も大きい要因であった。
深の背丈は乙也よりも十センチほど低い。そ
の頭と肩を骨張った手で強く掴む。
「怖いか。」
腕を流れる血液も凍りつくような空気の中に、生ぬるい息を吐き出す。少しの間、白い蒸気となって視界に現れた。
「音がするな。獣の歩みの音が、唸る声が。家の崩れる様子が、耳から伝わる。」
「ひっ…」
暗く、遠くまでは見渡せない。ただ音と振動が乙也たちに恐怖を感じさせている。
「深、今までよく耐えた。お前は人よりも大人だ。大丈夫、よくやった。」
「乙也壱隊長。」深は、自分の肩に置かれた乙也の手の甲をそっと撫でて頷いた。ただ胸の中で閉じこもっているよりもよっぽど勇まし
い姿だった。
「どうする。お前は一旦退くか、それとも基地の寮で今夜は休むか、私たちを打撃のあった西部まで送り届けるか。三つの選択肢があ
る。どれでもいい。どれを選んだとしても私
がするお前への対応は変わらない。」
乙也は滾る炎と透き通る水分の両方を含む視線をその深い、紺色の目の奥に注いだ。
深もまた乙也を見つめ返した。その二人の間には、二人以外の声が聞こえなかった。二人が、今、夜の世界から分断されているかのように。
乙也は燃え盛る街の中でも、道の隅に芽生えた幼葉に話しかけたかった。
「…乙也壱隊長が、僕と同じ歳で今の僕と同じ状況下にいたらおそらく、案内した後自分も戦闘に参加すると言うはずです。そう思います。」
深は口をきゅっと結んで黒と白が混ざって汚
れた地面を見つめる。乙也は彼の拳に力が入
っていくのを近くで感じた。
「僕だって、妹には見栄を張りたいですよ。行きます。戦わせてください!」
「よく言った!馬に跨がれ!」
「はい!」
深は焦茶色の馬に飛び乗り、先頭に出て軽や
かに走らせた。乙也はそれを一馬身後ろから追いかけ、そのまた背後にジンや伴俐や行や他の部下を従えた。
違うと思った。
十六の時の自分は、彼のように芯らしいものがなかった。抜け殻で、いつまでも地に這っていた。
乙也は街外れの小さな村で生まれた。両親は牧羊をして暮らしていた。兄弟はいない。
乙也が五つの時に家が鳥と狼を原種とする危険獣に襲われた。木造の小さい家だった。けれど三人で肩を寄せ合い、パンを分け合うには十分の場所だった。その日も寒い冬の朝だった。マフラーを引き下げて羊の隣で歌を口ずさむと白くなって空気に溶け込んでいく。
「羊飼ぁいの朝、天に昇る陽よ。見上げろ見上げろ、あーのひ」
弦を引きちぎったような悲鳴が、家から聞こ
える。羊が放たれた野原に立つ幼い乙也がは
っとして振り返ると、家の窓が割れているの
が見えた。
屋根に頭を突っ込んでいたのは、飛行途中だった鳥の危険獣だろうか。片方四メートルほどの翼を慌ただしく動かして、玄関前にいた父親の頭を幾度も殴っている。家の壁は砕けて崩壊していた。狼の危険獣は地鳴りのような唸りを轟かせ、精神の獰悪さを白い目から放っていた。もう、
「母さん!父さん!」
もう遅かった。
乙也は泣き叫びながらも子供心のどこかで理解していた。両親は助からない。あんな風に薙ぎ倒されてしまっては、五つの乙也が近くに寄ったところで母親の叫びと父親の呻きを泣いて聞くだけで何もできない。
母さん、父さん。叫びながら手に持っていた羊を追いやるための杖をがむしゃらに振って、羊を引き連れた。少しでも羊を守りたかった。大粒の涙を落としながら坂を下った。何度足を挫いたかわからない。街まで下りた時には、そばに羊は一匹もいなかった。
来年から通うことになっていた学校に駆け込
んで、獣が二体出たんだと吠えるような大声を出して教師に伝えた。
「見えますか。あすこに鹿種が二体いるんです。」
「ああ、確かに。」
乙也は切れ長の目で、自分の双眼鏡を覗き込んでそれを捉えた。西部の柵が破られ、二体の鹿種がすでに倒壊した建物を太い前足で掘っている。
獣は森から出現する。街の森に面した部分にはなるべく高く長い鉄格子を設置するのが決まりだった。今やこの国には万を超える膨大な数の強度の高い柵が建てられている。しかし危険獣、それも一級の十六メートルから三十メートルという巨体の獣が二、三度体当たりするとそこが破られてしまう。壊れてはまた直し、錆びついたら交換しまた壊れたら再び入れ替えをし修復を行う。そんなものだから、いつまで経っても柵の耐久性は均一にな
らなかった。
「騎兵総員、毒矢の準備だ!砲兵、砲弾をいつでも出せるようにしとけ。一気に接近する!」
乙也はコートに顔を埋めて、肩の力をより一層強めた。額の血管は音を立てそうな勢いで浮き上がってくる。
軍人は皆、乙也の合図で走り出した。風の音が耳を冷たくする。弓矢の苦しい音が焦燥感を掻き立てる。手のひらに食い込む爪の硬さ。鳩尾の奥の深いところが痛くなる。鼻水を啜ると温度が低過ぎてむせ返りそうになった。
夜の辛辣な寒さを頬で感じる、コートを纏ったこの身でいっぱいに受け止める。
両親が死んだ時と似ている音の響き方をしていた。
誰かが叫んでいる。
母のように、父のように。
乙也のように失望して、ただ血だらけの声を遠くに届けようとしている。
街の中を疾駆して、森にぐんぐん近づいた。濃くなる血液の鉄臭さと、大きくなる絶叫に眉根を寄せずにはいられなかった。乙也は光のない現場に目を見張った。
慣れているはずだ。この中で育ってきたはずだった。けれどやはり何度この空気を吸っても、好きにはなれない。
獣の、飢えが溶け込んだ汚れ切った空気が。
数人の軍人と、市民が叫びながら死に際を行き来している。乙也は大声を上げた。
「獣伐軍だ!あやつらは私たちが必ず仕留める!」
二体の鹿種は口元に赤を滴らせて、死体と瓦礫の上に蹂躙していた。
「総員構え!」
弓矢の軋む音が重なる。乙也には、その場
にいる者が獣を睨んだ時の皮膚の擦れる音さえも聞こえるようだった。
息を胸いっぱいに吸って、空を仰ぐ。
そう。息を胸いっぱいに吸って空を仰ぐのよ。
「討て!」
そうすると、心地がいいでしょう?
母の声が、脳裏に浮かぶ¥。
風を断絶しながら、毒矢は獣の厚い皮膚に突き刺さろうとする。乙也たちと、獣との距離は十五メートルほどまで詰まっていた。
「砲弾用意!」
乙也が奥行きのある声を響かせている間でも、弓矢が飛ぶ音はやまない。放てば毛皮に飛び込み血液を発散させ脂の匂いを漂わせる。
乙也の顔面に、赤黒い血液が落ちた。コートのポケットから気休めの眼鏡と、重いマスクを取り出して装着した。
「総員、血液に備えゴーグル及びマスクの装着!あやつらを侮るな!」
「乙也壱隊長、砲弾の準備ができました!」
「よおし。あと三十秒だ。あと三十秒で打ち込む!騎兵総員捌けろ!」
前線に並んだ馬が勢いよく走ると雪と混ざった土が幾度となく跳ねた。乙也の上質なコートに斑点を残す。
「ちっ…二十秒だ、あと二十秒を切った!騎兵は総員後退しろ!まずは一級の鹿種の頭部を吹き飛ばす!」
砲弾発射の瞬間は誰もが息を飲む。この大きな猟奇的武器は、市民国民の血税で生成されている。一回でも無駄にできなかった。
巨大な砲弾の中には人間であれば千人以上が致命傷を負えるほどの爆薬が仕込まれている。
乙也は隆々とした脚を持つ一級の鹿種を貫く勢いで睨んだ。するとその獣は口をおもむろに開く。血生臭い息を吐いて、黄ばんだ牙をぢらぢらと鈍く光らせるのが何とも嫌味だった。あいつは笑っている。乙也は心の底で秒数を数えながらそう確信した。
こいつは、私たちディナーを笑っている。
「五、四、三、」
目を潰しに行きたい衝動を必死に抑えながら
くぐもった声で数字を並べた。
「二、一、」
獣の卑しい瞳がじっとりと瞬きする。
「討て。」
破裂の音が聞こえる。爆薬は巨大な鹿種の頭部に体当たりして、皮膚をちぎった。眼鏡のレンズに火の粉と血液が散って落ちた。火の粉はじゅっと呻き声を上げながら消えていった。攻撃した獣はよろけて地面に突っ伏した。これで獣の命を散らすために生まれた凶器も報われることだろう。
「成功だ!一級を倒したぞ!」
前線から移動した深が甲高い声で喜んだ。他の者も抱き合ったり口笛を吹いたりした。
「阿呆!気を抜くな、三級がまだ残っている。」
一級よりも何回りも小さい鹿種は仲間を撃ち殺した人間を許さない。真っ直ぐと四つ這いしていた姿勢を崩して俊敏に前進してくる。そう乙也は踏んだ。
けれど、三級の鹿種は
「な、何を…」
ジンがか細い声を漏らす。
乙也たちは皆、目を見張った。
残された獣が、頭のない死体の毛繕いを始めた。しょりしょりと三級の舌と一級の毛皮が摩擦する音が響く。獣が、同じ種族に対して慈悲を垂れている…?
いや、そんなはずは
「ロク!」
突然、若い娘の声がその場全ての者の視線を奪い取った。少女だ。百獣の少女が鷹の翼を背中から広げ風に包まれながら上空から下降し、毛で覆われた太い前足で三級の鹿種を瞬く間に持ち上げてしまった。乙也には少女の視線が、自分の目の奥を見据えたのだと思った。目が合った。鎮火などしない炎が溢れかえる瞳孔をしていた。
乙也の視界は歪んでぼやけて、終いには暗くなってしまった。
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