9.心臓

 メドはルサルカの攻撃を躱しながら、彼女に接近を試みる。マルブエルを高く跳躍させ、なんとかルサルカの懐に入り込もうとするものの、目に見えない障壁が行手を阻んだ。

 その時、彼女の動きが突如鈍った。関節が機械のように軋んで固まってしまう。同時に伏せられていた瞼が静かに開かれた。

「! ルカ!」

 ルサルカの視線が声のすぐ方向を探る。メドはマルブエルから身を乗り出す。

「ルカー! こっちだ!」

 必死になって腕を振り上げる。ようやくルサルカの瞳が目を写した。大きな濃紺の瞳が見開かれる。

「メ、ド……」

「そうだ! ルカ!」

 ルサルカは自分の手のひらを、身体を見つめて呆然とした。両手で自分の耳を塞ぐ。

「やだ、何、これ……っ」

「ルカ落ち着け!」

 ルサルカの表情は怯えている。目尻に涙を蓄えて、不安に駆られるままにぼろぼろと落ちていく。巨大な彼女から溢れる涙は、地面に落ちるや否や一瞬で巨大な水たまりとなった。

「先生、どこ……? 先生、先生、先生……!」

 彼女の哭慟が空に轟く。途端に光たちは彼女に引き寄せられ、付近を漂うマルブエル目掛けて襲いかかってきた。

「はっ! ぐ、うわああ!」

 その衝撃を正面から食らい、マルブエルが空中で回転する。遠くへ投げ飛ばされるのをなんとか踏ん張るも、ルサルカは追撃をする。

「先生、先生……やだよ、怖いよ」

 その震える声に反応して、あたりの光は一層輝きを増す。結びつく線の数が増えれば、また彼女の身体は大きくなっていく。光が髪の先に集まれば、毛束が伸びてマルブエルの身体を取り囲んだ。大人と子供のような体格差にまで差の付いたマルブエルをルサルカはその髪で握りつぶさんとする。

「ルカ、やめろ! やめてくれ!!」

 髪の圧力に抗って、マルブエルの表皮に向かって補強のサインを流す。強い頭痛に襲われながら、自分を律して耐えた。そして、地上にいる仲間たちに向かって強く懇願する。

「頼むっ……みんな……!」

 メドがルサルカと対峙している最中、ディルたちは倒れた子供達の容体を確認して回っていた。胸に耳を当てる。心臓の音は聞こえない。力の入らない身体はぐったりとして、生気がない。抜け殻であることは一目瞭然だった。ディルは顔を顰め地面を殴りつける。

「なんか、なんかねえかな……!?」

「探しましょう。そうじゃなきゃ先輩もみんなも戻らない」

 エケベリアも自分を律するのがやっとだった。これは仲間の死んだ姿。屍の山を前に、平静など保つことができなかった。それでも彼らを取り戻すために目を凝らし、手を動かす。

 一人の少年の頬をスプラウトが撫でる。その柔らかい皮膚の下に固いしこりのような感触があった。スプラウトは少年の口の先に指を入れて口内を見る。その拍子に口の中から飴玉が一つ飛び出した。溶けて縮んだその中に小さな結晶がある。

「これは……」

「どうしたんです?」

 スプラウトの元にディルとエケベリアが向かう。その手元を見て戦慄する。

「体にキャンディーが残ってる……取り除けば、なんとかなるかもしれない」

 それを聞いた途端エケベリアはスプラウトの手元から飴を奪い取る。地面に放り投げて、かかとで何度も踏みつけにする。

「……エーチェやめてよ」

 スプラウトがその行為を咎めようとしたところで、空の光に異変が起き始める。真上に輝く光の一つが点滅して、ふ、と糸が途切れる。緩やかに落ちてくる光にディルが慌てて手を伸ばす。しかしその手をすり抜けて、飴玉を舐めていた少年の胸の上で留まった。その中へゆっくりと帰っていく。

 スプラウトは恐る恐る少年の心臓に耳を近づけた。ドクン、ドクン。ゆっくりと再開した鼓動を鳴らす音。上下する胸の動き。青白い顔が血色を取り戻したところで、スプラウトは確信した。

「飴玉を体外に出して壊してしまえば副団長から切り離すことができる……国中の人をどうやって……それにもう飲み込んでしまっていたら……」

「いや、やるぞ」

 ディルが立ち上がって考え込むスプラウトの頭を撫でた。猛反対の手でエケベリアのことも同じように撫でる。

「一人でも救い出すんだ。俺はもう、仲間の命を諦めたくねえ」

「……」

 前を向くディルは団員の元に駆け寄った。頭をゆっくり持ち上げて、口の中を確認する。何もないと分かれば、今度はうつ伏せに持ち上げてその背中を叩いた。何度か叩くと口の中から飴が吐き出される。落ちたそれをすかさず潰せば、また光が団員の元へと帰っていく。二度目の事例に胸の中に希望が湧き上がった。スプラウトもエケベリアも意を決してディルに続く。

「いいねえ! 君たちのそういうところ、私は大好きだ」

「嬢ちゃん!」

 その時、戻ってきたシェリが三人の近くに舞い降りる。その手にはコンフィズリーの瓶が入ったバスケットが抱えられている。

「それ……」

「マリーヤの近くにあったものだよ」

 スプラウトがすかさず一つ抜き取ると、その中身を確かめた。透明な飴の中には先ほどのような結晶が見当たらない。

「なあ……先生は、どうなったんだ」

 ディルの問いかけにシェリは真顔になる。真正面から三人と向き合う姿勢を取った。

「サージェントのタンバンが入った銃弾で彼女を撃ったよ。第三者が意識に介入することでルサルカを操るのは不可能になったはずだ……生き死には私は関与しない。あとは、彼女が決め『た』ことだ」

「……」

 三人の表情が一気に蒼白する。シェリの心にそれが伝染りかけた時、ディルが自分の頬を叩いた。突然の行為にシェリは面食らう。

「……ありがとな。俺たちだけじゃ、先生を止められなかった」

「……あ、ああ」

「さあ、やろうぜ! 俺たちの役割の仕事をよ」

 背筋を伸ばして、再び子供の口の中の飴を確認しようと息巻いた時、シェリがディルの肩を掴んだ。

「待ってくれ。君たちにはやってもらいたいことがある」

「みんなを救うよりも優先することがあるんです?」

「それを私に任せて欲しい。三人は子供達をなるべく高いところに避難させて欲しい……あれが危険だ」

 シェリはルサルカのいる方向を指差す。大きな水の粒が落下しては辺りを浸水させていった。

「先輩……!?」

 それが雨ではなく涙であるといち早く気付いたエケベリアが前のめりになった。

「あの身体の大きさじゃ、この辺りが涙の池に沈むのも時間の問題だ」

「三人で五十人近くを運搬となると……時間、間に合うかな」

「だったら、これを使ってくれ」

 シェリは指笛を吹き、高音を高らかに鳴らした。それに呼び寄せられるが如く、黒鳥カーチャが四、五羽現れる。

「な……っ!」

 仇とも言える存在の出現に三人は身構える。シェリはどうどうと三人を落ち着かせながら、カーチャの頭を撫でた。

「この間研究所で生き残りを見つけてね。使役元は私だから恐れなくて良い」

「……気持ちの良いもんじゃねえがな」

 苦虫を潰したような顔でディルが言う。その腕に一羽のカーチャが擦り寄る。

「だが、使えるもんは使ったらぁ! スプラウト、エケベリア付いてこい!」

「……分かったよ」

「言われなくたって……っ!」

 三人は一斉に走り出すと散らばった子供達をカーチャの嘴で回収した。丘の頂点、墓地のある場所に子供達を連れていく。シェリはバスケットを担ぐと、カーチャの足にしがみついてマルブエルの元を目指した。

「メド君……!」

 マルブエルの身体を覆い尽くす銀の糸に向かって、シェリは弾丸を放つ。放たれたそれの煙が放物線を描くと、糸を取り囲むように巻き付いた。銃弾が光の先に突き刺さる。マルブエルを拘束する髪は煙が巻いたところですぱっと切り落とされた。

「……シェリ!」

「遅くなったね」

 フロントガラスに飛び移ると、ガラス越しにメドに話しかけた。

「君の仲間が手がかりを見つけてくれたよ。彼らの身体には研究所製のコンフィズリーが残ってる。それを壊せばいい。だけど一つ一つ回っていくのは無茶だから、サージェントのタンバンを借りようと思う」

「サージェントの?」

「飴に含まれているタンバンは大した量じゃない。それを上回る量で、指示系統を混乱させよう」

「……君が、できるって言うんなら」

「やるんだよ。一緒にさ」

 シェリはカーチャの背中に乗り掛かって銃を構える。方々に存在する光目掛けて、タンバンを次々に放つ。その後ろからメドも槍を振い、そこからタンバンの礫を振りまいた。ルサルカから差し向けられる光の攻撃を交わし、その先から彼女との結びつきを絶った。

 光が一つ、また一つとルサルカから離れていく。攻撃をする腕も弱まり、体も徐々に縮み出した。

「メド……どうして……先生の教えなのに、先生がやりなさいと、ずっと昔から言っていたのに……」

「え……!?」

 しとどに涙を溢れさせるルサルカに耳を貸す。

「私たちは二本柱で、この楽団の要……いつも先生が仰っていた。独りぼっちの私たちでも世界中と家族になる資格がある。それが嘘偽りであるはずがないよ!」

「……その言葉の意味通りなら僕も信じていた。けど違ったんだ!」

「そんなはずない!」

 ルサルカは断固としてメドを否定する。

「だって、そうしたら、私がやってきたこと全部間違っていたことになる……メドを好きになったのも、全部間違いになってしまう!」

 ルサルカは宙を翻り、纏ったドレスを膨らませた。あたりに漂う遮断されていない光を急速に引き寄せて、自分の体に一体化させた。

「!?」

「これじゃあ、駄目なの……」

 ルサルカの涙が、最後に一粒落下する。その一滴が地面に落ちた瞬間、あたりの水が噴き上がり、地上に突然波が打ち上がる。そこにいたディル達が一瞬にして飲み込まれる。

「ディル、スプラウト、エーチェ!」

「遅かったか……!」

 地上に気取られている間にルサルカは姿を変えていた。スカートはドーム上に広がり、胴は全て触手に変わった。水母の姿をした機械人形だった。触手は細かく関節が付き、柔らかい動きで身体をふわりと宙に浮かばせた。水色の透けた空間の中央でタンバンが輝く。輝きの中にルサルカの姿があった。

「そんな……」

「機械人形の出現まで……マリーヤはどこまで仕込んでいたんだ……あれじゃあ、パナシアと一緒だ……」

 マルブエルと酷似した個体の存在にメドとシェリは愕然とする。しかし二人の心情など関係なく、ルサルカは向かってやってくる。触手の裏から結晶の礫を放ち、二人に襲いかかる。その一片がシェリに当たる。

「っあぁ!」

「シェリ!」

 マルブエルでシェリを救出に向かう。手のひらで掬い上げたその手足が結晶によって破壊されていた。メドはすぐさまシェリを体内へ引き上げた。その身体を慎重に抱き上げる。互いのタンバンが引きつけ合って、全身に痛みが走る。

「シェリ……」

「……機械人形だからね、心配はいらないよ。それより君が痛いだろう。離してくれ」

「でも……」

 シェリは健全な腕を砕けた手足に伸ばして宙をさする。

「私は死なない。この心臓が、心臓の持ち主の意思があれば私は永遠に生きていられる」

 その瞬間に、結晶がシェリの身体を再生していく。失われたはずの手足が元の形に戻っていった。

「私は君に謝らなくちゃいけない……君が私に代わってパナシアを討ってくれたこと……私はパナシアに拾われただけのモルモット。それなのに、彼女の最期を恨みきれないまま、君に殺させた……君こそが、本来彼女に愛されるべき、本当の子供だったのに」

「……」

「……優しい赤の瞳をした、可愛い男の子だって、何度もパナシアに聞かされた」

 ずっと自分に親はいないと思っていた。いないことが当たり前だった。その認識で生きてきたのを、突然覆されて頭が追いつかない。ましてや母はシェリの人生を狂わせた人間で、挙句自分が手にかけた人物だ。

「大丈夫……もう知っていたから」

「メド君」

「でも、もう良いんだ。君やルサルカ、みんながいれば」

 抱き抱えたシェリをさらに抱き寄せる。痛みなどもう関係がない。メドの中では済んだことだった。そこに後悔はない。

 それでもシェリはメドから逃れるように立ち上がる。視線は既にルサルカから発生した機械人形を見据えている。

「私と同じように、ルサルカもまた強い意志に支配されてあの身体を得ている。もうマリーヤは関係ない。ルサルカ自身の意思だ。本気でぶつかって、彼女のタンバンが崩れるその時にしかもう隙は来ない……これは私の後悔だ。メド君の代わりに私がルサルカのタンバンを全て砕く。君はその瞬間を狙って彼女の心に入り込むんだ」

 捲し立てた言い方にメドはカッとなってシェリの腕を掴む。

「シェリは本当に勝手だ……僕の意思なんか聞きやしない」

「……」

「ルカのことは僕の問題だ。僕の、後悔なんだ」

 しばらく睨み合ったのち、先に均衡を崩したのはシェリの方だった。息を吐いて、徐に首を回す。

「困ったな。そんなに強情なやつじゃなかったのに。本当にルサルカのことを愛しているからそうなるのかい?」

「違うだろ。君に憧れたからだ」

「……!」

「僕は、君みたいになりたかった。足枷なく自由気ままで、沢山のものを生み出せる、君みたいに特別な存在に」

 メドは思い出していた。シェリに初めて合った時のことを。強烈な視線に魅せられて、なんでも言うことを聞きたくなってしまった自分の心。それはメド自身がシェリという存在に惹きつけられていたからだった。

 シェリは目を瞠り、心臓のあたりを静かに掴んだ。その時、フロントガラスの手前でタンバンが爆発した。ほどばしる火花を前に我に返ったメドがすぐさまマルブエルを退避させる。

「……だから、ルカの機械人形を倒すのも彼女を連れ戻すのも僕がやる! いいよな!」

「君も大概勝手だよ……ああ、分かったよ! 仰せのままに、だ!」

 シェリはメドの肩に手を添える。その手を通じてシェリの持つサージェントの力がマルブエルへと送り込まれていく。二重に力を得たマルブエルは、あの月夜の晩の白い姿へと変貌した。

 槍を掲げてルサルカに向かう。水母の姿は待ち構えるように佇んでいた。

「はあああああ!!」

 迷いなく振り上げた。的確に打ち込んだ先、水母が弾け飛ばされる。散ったその身体は、今度は二つに分裂した。

「増えた!?」

 水母はさらに増殖を続けていく。分裂を続けた先で小さな個体が発生し、彼らは列を成してマルブエルの前に立ち塞がった。そして次の瞬間に一斉に飛びかかって、マルブエルの身体にしがみつく。張り付いた先から、表皮がじわじわと溶けていく。メドは自分の中の力が吸い上げられるような感覚がしていた。

「くっそ……」

 水母たちはマルブエルの上で歌うように声を上げた。か細いそれは涙声のように唸っている。耳をそばだてれば、見知った子どもたちと同じ声だと分かった。

「ルカのところに残った子供達の声が……」

 水母の声は重なり合って、一本の音楽が出来上がっていく。楽団が何度も繰り返してきた、いのちの歌が物悲しい声で鳴り響いた。独りではいられない。生きていくことができない子供達が、日頃表にしない悲しみの声だった。

「いつもルカが受け止めていたんだ。みんなの悲しみとか、痛みとか……僕は何もしなかった。本当にハリボテの団長だった」

「……メド君」

 マルブエルの身体が水母に侵食されていく。その奥でメドの心臓が強く輝き出した。光で水母を押し除けて、彼らの上に立つ。槍をかざせば、その先端から遠くまで及ぶ光線を放った。眩い光で水母たちを切り裂いていく。

「でももう違う……! 僕がみんなを守りたいんだ!」

 水母の体が砕けていく。身体で砕けた結晶に体当たりすれば、再生できないほど跡形もなく千々になった。

「みんな知ってるはずだよ。独りでも、一つになれる方法……だから、こんな方法いらないんだ!」

 この場所を漂うすべての魂に訴えながら機械人形たちを壊して回る。中にある光を取り残して、水母は残り一体になった。中心部、ルサルカを宿した最後の一体。

 水母はすべての触手を伸ばしてマルブエルを飲み込もうとする。引き込もうと必死であるかのように、闇雲な攻撃をしてくる。

 メドは冷静にその一本一本を薙ぎ払う。まっすぐにルサルカに近付いた。

「ルカ、君はいつだって独りじゃなかったよ」

 マルブエルの腕が水母に触れる。水母の動きが止まる。伸びた触手を戻して、まるで二本の腕であるかのようにマルブエルに向かって伸ばす。その姿にルサルカの影を感じて、メドは思わず動きを止める。その隙を狙っていたのか、水母の触手から無数の棘が放たれ、マルブエルを串刺しにした。体内の中心部にいる、メドを貫通する。心臓をまっすぐに、貫かれていた。

「メド君!!」

 マルブエルの表面にヒビが入る。メドの心臓が弱っていく。刻む音が小さくなっていく。シェリは後ろからメドを掻き抱いた。肌の上を弾ける電撃を超えて、その身体と身体を密に合わせた。眩さの中でメドがもう一度目を覚ますのを祈りながらその身に寄り添う。

「大丈夫……死なせたりしないから……」

 メドから発せられる電撃がシェリの身体を蝕んでいく。腕が、足が、胸が、彼女から乖離していく。それでも自分の全てをメドに委ねた。シェリのタンバンは最早彼女の形を留められない。メドに体の全てのタンバンを与え切ると、残り香のような身体でメドの身体を包み込んだ。大事に、大事に、メドの体を抱きしめる。

「……やっと、君に……」

 シェリは唇を噛み締める。その感触もすでに分からない。ずっと吸い込んだ息に、彼女が言い残そうとした言葉がかき消された。

「……やっと証明できそうだ。私はずっと、メド君の味方だったって」

 その言葉が消えると同時に、全てのサージェントのタンバンが外に溢れ出す。脳に届いた彼女の声と背中に受ける力に呼び起こされ、メドは目を開く。意識を取り戻して、もう一度ルサルカと向き合う。マルブエルを貫いたままじっと動かないその身体を横から水平に断ち切った。真っ二つになったクラゲの内部が弾け、中心部でルサルカを守っていた壁が消えた。ルサルカは外へと放り出される。

 メドはマルブエルから脱してルサルカの元へ駆け寄る。目を閉じて涙ぐんだその身体を抱き寄せて、自分の胸に彼女の頭を埋めた。反発する二つのタンバンが凄まじい電撃を帯びて、この世界を満たすほどの光を放った。


***


 ルサルカは養護院の中庭で月を見上げていた。木に吊り下がった子供用のブランコにそっと腰かけて、ただ空を見つめている。

 誰もいない静かな夜。子どもたちの声も、部屋の明かりもない。純粋な闇が広がっている。

 ずっと胸の中を支配し続けていた恩師の声が突然聞こえなくなった。その瞬間に、彼女が人生を歩いていくための道標が失われた。ルサルカはここから歩き出すことができない。

「先生……メド……」

 空に呟いた言葉が誰の耳にも届かずに消えていく。それが悲しくて、押しつぶされそうになっていた。

「ルカ」

 そこに響いたメドの声にルサルカは耳を塞ぐ。マリーヤが消えた今、メドとの繋がりはどこにもない。これは幻聴だと顔を背けた。

「ルカ。何してるんだよ」

 だが影は近づいてルサルカの後ろに座った。

「ずっと呼んでたのに、なんで返事しないんだよ」

「来ないで……貴方がここにいるはずないの」

「僕は助けに来たんだよ」

 メドの手がルサルカの肩を揺さぶる。それでもルサルカは頑なに縮こまった。

「……帰ろう。みんな待ってる」

「誰も待ってない……先生のつながりが消えてしまったのに、誰も私の話を聞いてくれるわけがない」

 完全に塞ぎ込んでしまうとルサルカの目からは涙が溢れた。

「それ、やめろよ。ルカが泣くとみんな引っ張られるんだから」

 メドはルサルカの正面に回ってしゃがみ込む。膝に埋めた顔を引き上げようと、顔の隙間から手を入れる。わずかに持ち上げられたその頬を優しく掴んだ。くしゃくしゃの彼女の顔を見て笑う。

「団長と副団長の仕事も、毎日のハグも、演奏も……先生に言われて始めたことだけどさ、ちゃんと意味が築かれてたよ。だってみんなルカのことが好きだったろ?」

「そんなこと……」

「じゃあシェリはどうする? あいつはタンバンの繋がりなんかこれっぽっちもない。だけど、ルカのことをものすごく気に入ってただろ」

 ルサルカは信じられなくて首を振る。メドはそれを否定して、同じように首を振った。

「僕だってそうだ……僕一人だけタンバンの心臓じゃない。だけど、ルカのことすごく大切に思っているんだよ。君が想ってくれているみたいに」

「……」

 泣き腫らした瞼と、頬の頂点に赤が広がる。メドは立ち上がってルサルカに手を差し伸べた。

「僕たち、同じなんだ」

 ルサルカが首を挙げる。そこで優しく佇む片割れの笑顔をじっと見て、ようやくその手に触れた。穏やかなその瞬間を噛み締めながら、ルサルカはメドの手を力強く握った。二人を阻んだ互い違いのタンバンが、今ひとつに溶けていく。この世界を覆う闇夜が、瞬く間に崩壊した。


***


 外の世界は朝焼けを迎えていた。メドは地面に転がった状態で目を覚ます。真隣には手を繋いだ状態でルサルカが眠っていた。静かな朝の始まりとルサルカの表情にメドは安堵のため息を吐く。

 その時、心臓に違和感があった。そっと胸に手を当てる。安定した心拍音だ。何も異常はない。だが何かが違う。ずっとあったサージェントの心臓ではないと、漠然と思った。

 身体を起こして辺りを見渡す。涙の池は干上がって、あちこちで団員たちが目を覚ましていた。子どもたちの声が聞こえる。ディルもスプラウトもエケベリアの姿も、確認することができた。

 だがシェリがいない。すぐさま飛んできそうな彼女の気配がどこにもない。眠るルサルカを起こさぬように、そっと手を解いてシェリを探した。

 少し歩けば、マルブエルが朽ちた姿で立っていた。鎧は剥がれ、中のタンバンが顕になっている。メドはその足先にそっと触れた。だがいつものようにその鼓動が感じられない。マルブエルの中に自分の血が流れるような感覚もない。

 そこにあるのは、ただの人形だった。

「マルブエル……なんで……?」

 見上げた先でマルブエルの首が傾いて下を向いていた。メドと視線を合わせるようだった。慈しみ深いと思った。自分が作った人形はこんな顔をしていたのかと、メドは初めて知った。

 その時、メドが触れた先からマルブエルの身体の結晶が剥がれて空に浮いた。細かなそれは朝日を浴びて輝きながら遠い空に登っていく。気が付けばマルブエルそのものが消えようとしている。

 メドはただ茫然と見つめることしかできなかった。心臓を抑えれば不思議と涙が出てきた。シェリの連れてきたこの人形を、どうしても失いたくないと思った。

「メドー!」

 背後からディルの声がして振り返る。ディルとスプラウト、そしてルサルカを抱き抱えたエケベリアがこちらに近付いてきていた。

「ルカ先輩を放置してフラフラするなんて、一体どういう神経をしているんですかメド先輩」

「あ、いやそんなつもりじゃ……」

 開口一番に攻め立てるエケベリアに怯みつつ、メドは三人に問いかけた。

「なあ、媒介装置ってあるか……?」

 ディルとスプラウトは顔を見合わせる。スプラウトが胸ポケットから媒介装置に取り付けていたチェーンを取り出した。そこにタンバンはかけらも付いていない。

「洪水に飲まれてさっき目を覚ましたと思ったら、何も無くなっていたんだ」

「……」

 メドの口からは何も出てこなかった。胸にもう一度手を当てる。この中身を引き摺り出して確認したかった。これがどんな形をしているのか。だがそんなことはできない。特別な彼女ならできたかもしれない。だが自分はもう違うとと分かっている。これは自分の物だった。

「なあ、嬢ちゃんは……?」

 ずっと言葉にできずにいた、確信を突くディルの問いかけに堪えきれないものが嗚咽になって溢れた。目の前に揃った材料と今まさに消えていくマルブエルが物語っている。彼女はもうどこにもいないことを。

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