8.傀儡

 目を閉じるルサルカは、瞼の奥で遠い昔の夢を見る。十三年前の記憶だった。

 一人の研究所職員に手を引かれて彼女はマリーヤ・ブランシェの研究所にやってきた。元々の身寄りは叔父一人であった。家が焼かれた時に身につけていた衣服と以前の施設で貰った絵本が一冊。彼女に残されたのはそれだけだった。

「よく来たね。今日から私たちは家族だ」

 そう優しく語りかけるマリーヤはルサルカの手をそっと包みこんだ。やけどまみれの痛々しい手だ。ここにくる前に、大人に追わされた傷だった。幼いルサルカは怯えるでも喜ぶでもなく、虚ろな顔で立っている。

 見かねたマリーヤは職員を呼びつけて、メドを連れて来させた。

「メド。ずっと一人きりで辛い思いをさせたな。彼女が新しい家族だ。握手しなさい」

 メドはルサルカを見て、その手の傷を見て彼女に触れようとしなかった。代わりにルカルカが大切そうに抱いた絵本の淵を指先で触った。

「これ、どんな本?」

 ルサルカが顔を上げる。閉塞された環境にいた彼女にとって、歳の近い少年と話すのはこれが初めてだった。

「『おとうさん』と『おかあさん』という人が、女の子のお誕生日をお祝いするの」

「楽しいお話?」

「分からない……私には『おとうさん』や『おかあさん』のような人はいないから」

 ルサルカは俯く。それが悲しいことだと知っていた。自分は普通の子ではない。齢四つでそのことを恥じていた。

「僕にもいないよ」

「え……」

 あっけらかんと言い放つメドを見て、シェリはぽかんと口を開けた。

「僕達同じだね」

 その真っ直ぐな心にルサルカは驚きながらはっと気付いた。

 傷だらけの手を出会ったばかりの少年に自ら伸ばす。痛むその手が触れあった瞬間、彼女の世界は変わった。

 二人を見守っていたマリーヤが、しゃがんで二人の顔を交互に見る。

「そうだな……無いなら作ればいい。お前たちだけの、新しい家族を」

 その提案に二人は目を輝かせながら頷いた。目の前の大人の真意が何を企んでいるのかも知らずに。

 夢の中で少女は願った。もう一度、あの日の少年の言葉が聞きたいと。


***


「ルカ!」

 日の沈み切った闇の空にメドの声が響き渡る。目を閉じたルサルカの身体は重力を失ったように身体を漂わせているだけで、なんの反応も示さない。外の光を拾い上げ、また一本の糸がルサルカの体とつなぎ合わされる。

『なあ、なんかデカくなってないか……?』

 ディルの言葉通り、ルサルカの身体は光の帯を増すごとに巨大化していっていた。マルブエルが横に並んだ時、今の彼女の体躯はそれに匹敵する。美しいままの異形の姿にそれぞれが圧倒されていた。

『ああ、あの姿。まるで女神のようですね……』

『何ふざけたこと言ってるの』

『分かってます、ルカ先輩はもとより女神でありますし。それに、あんなの、ルカ先輩が望んでいる姿なはずありませんから』

「ああ、絶対に間違ってる……! ルカ!」

 エケベリアの言葉に頷きながら、メドはもう一度名前を呼んだ。音沙汰はない。だが一瞬、その瞼が薄く開いた。

『聞こえてんじゃねえか!? メド、もっとだ!』

『いや、待って。あれは……』

 スプラウトの言葉と同じタイミングでルサルカの腕が振り上げられた。ぞっとする感覚が全身を襲う。マルブエルは急降下するとともに周囲にいる三人を光に包んだ。その光の道筋を通して、攻撃を避ける信号が送り込まれる。三人の身体はマルブエルとピッタリ息を合わせてルサルカの腕を回避した。マルブエルが遠ざかったルサルカは再び目を閉じる。

『なんだ……!?』

『これはもしかして副団長に起きている状況と同じなんじゃ』

 光を見ていたスプラウトの推察にメドは息を呑む。自分でもどうコントロールしていたのかは分からなかった。だがともすれば兆しが見える。

「マルブエルと、僕とみんなの繋がり方と同じなら、まずはルカから光を離す方法がわかるかもしれない……!」

『あたしたちが持つ媒介装置と同じ役割があるかもってことですよね』

『じゃあ、それをどうやって見つけるかだな』

「光に近づいてみよう」

 メドはルサルカの視界を避けながら、丘にある一つの光へと近づいた。マルブエルの指先に乗るような小さな光。そっと触れようとすればマルブエルは強い反発を受ける。一定の距離を超えて近づくことができなかった。

『僕が行くよ』

 スプラウトは小さな身体で光の道筋を潜り抜ける。光がよく見える位置について、眩しさに目を細めながら光そのものを観察した。

『これは……』

「何か分かったか?」

『心臓だよ団長……僕らの中に入ってる、タンバンでできた心臓』

 スプラウトの声が震える。全員が一斉に地面を向いた。そこかしこに倒れる楽団の子供達。

「な……ッ」

『……ここにあるもの、全部あいつらの心臓だって言うのかよ!?』

 目の前の光景が途端にグロテスクなものに変わる。。今無数の命がルサルカを母体にするかのように繋がっているのだ。

『下手なことしたら命に関わりますよ……! どうします、メド先輩』

 選択を迫られて、メドは息を呑む。こうしている間に次々と光がルサルカの体へと引き寄せられていっている。光の束がこの空を覆い尽くすまで、そう時間は残されていなかった。


***


 ルサルカの真下、マリーヤは空を見上げながら静止していた。念願の世界を目前にしたマリーヤの顔は不遜に満ちている。その背中に迫る気配を察知した途端、その目つきが鋭く変わった。自分に向かって飛んでくるものを白衣を翻しながら交わす。

「あれ、意外と動けるじゃないか。パナシアは運動はからっきしだったのに」

 冗談めかして笑いながら、シェリがかちゃりと銃を振った。

「グズの姉とは一緒にしないでもらいたい」

「酷いなあ。所詮家族なんてそんなものなのかい? 私にはぜーんぜん、分からない存在なんだけど」

「分からずとも結構……お前は何をしにきた?」

 じ、とシェリを睨む。鋭く射抜くも、彼女には暖簾に腕押しで口元を膨らませて笑っていた。

「私は今や楽団の人材だ。ルサルカや彼女にとらわれている皆を守るために貴女を止めにきたんだよ?」

「いや違うな。お前がうちを嗅ぎ回り始めた時の話だ」

 マリーヤもシェリに向かって銃を突きつけた。あの日向けたのと同じ銃身がシェリを見据えている。

「数ヶ月前、私の夫を殺したのはお前達だろう」

「……」

 シェリは何も答えなかった。その薄ら笑いにマリーヤは静かに怒りを覚える。予告なく引き金を引いた。弾け出す弾はシェリの頭上を狙う。それを巧みに交わすと過ぎ去る銃弾を的確に打ち抜いた。爆発とともにタンバンの色の残骸が周囲に散らばる。

「夫の亡骸の肩にはタンバンの弾丸がめり込んでいた。遺伝子検査をすればそれがサージェントのものだとすぐに分かった。お前はパナシアの命令であの人を、サージェントの力で操って自害させた。違うか?」

 問いかけるマリーヤを前にシェリは腹を抱えて笑い出す。銃身がブレた隙に、マリーヤがすかさず発砲した。シェリのイヤリングが輝いて、タンバンの膜がその身体を包んで銃弾を防ぐ。

「あっはっはっは! 何を言ってるんだマリーヤ・ブランシェ。ルサルカや楽団で同じことをする貴女にパナシアを咎めることができるのかい!? 自分の正義を振り翳して、人の話なんか聞きやしない。あんたら姉妹はそっくりだよ!」

「……それは肯定と捉えても差し支えないな?」

「一つだけ違うな。パナシアは帰ってきて欲しかったんだ。殺すなんてとんでもない。サージェントに心を支配された男が感じたのは、罪の意識さ……あなたの夫は研究所時代の元妻……パナシアを裏切って、あなたに付き従ったこと。パナシアと自分の大切な子供を彼女から奪うのを見て見ぬふりをしたこと。彼はその後悔で、死んだ」

 シェリは弾薬を全て抜き落とすと、左手で懐を弄った。薄紅の弾丸を手に取って、空のシリンダーに詰め込む。

「姉から奪った男と、言いくるめて連れ込んだ家族。そしてサージェントの心臓を持った彼らの子供! 皆自分のものにしたかったんだろうけど、それはあなたの幻想に過ぎないんだよ。タンバンの研究成果だってあれはサージェントが持っていたものだ。あなた一人で築いたものなんて何もない!」

「……パナシアの、犬がッ!」

「んふふ……わんっ!」

 威勢のいい鳴き真似と共に、銃身にサージェントの気配が宿る。その意志を重く含んだ一弾が放たれ、マリーヤの身体を貫いた。

「ふ、ぐ、あ……ああ、あグアアああ!!」

 マリーヤの体内にタンバンが回る。神経が一つずつマリーヤの意思から乖離していく。地面でもがく彼女の身体は次第に動かなくなっていく。

「わた、し……を、支配、した、とて、ぅ、ル、サルカにかけた、のろいは、解けないィ!」

 焦点の定まらない目でシェリを見て、呂律の回らない舌を強情に動かした。

「くっしない、ぐっしない……ッ! わたしは、わ、たしの成果を……みとめ、て」

「……わかるよ」

 シェリはマリーヤに馬乗りになって見下ろす。最早マリーヤはシェリを見ていない。虚空に映る影に必死に訴えている。

「みとめて、みて、見テ、サージェント……わたしの、わたしの見つけタことを、」

 マリーヤの懐から飴が一つ転がる。シェリはそれを銃に込め、マリーヤの額に突き当てる。

「私は認めるよ。心を支配してでも欲しい人間がある気持ちを……だけど、それじゃあいけないんだ。この世界は、人と人が別だから美しいんだ」

 飴玉を発砲する。マリーヤが飴を食らった瞬間、その身体が眩い光に包まれて、天上にいるルサルカへとまっすぐ伸びていく。その道筋を、もう一つ別の光が交わるように登っていった。

 マリーヤの身体はその場に倒れ込んでいる。石のように動かない。シェリはそっとその首元に指先を押し当てる。既に事切れた後であった。サージェントの重みに、彼女は耐えきれなかったのだろう。彼女を哀れんで、その目をそっと塞いでやる。そして空を見た。煌々と浮かぶ自分たちの母の姿を苦しげな表情で見つめた。

「今行くよ、ルサルカ……君が一番愛している人間が、君の世界を覆しに」

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