2.強襲

 翌日は雲の多い空だった。雨雲が募っているわけではないが、気温が低く風も吹いている。それでも身体を動かすのにはちょうどいい温度であった。

 今日は早朝から稽古だ。本番の翌日といえど彼らは休みなく音楽に励む。

 メドは起きてすぐマーチング用の詰襟に着替えた。ドラムメジャーのバトンと、もう一本部屋の隅に追いやっていたフラッグを持って更衣室を出た。

 メドが一番に稽古場に着いた。稽古場は研究所の真横の更地のことを言う。裏側には小高い丘、反対側には研究所の建物。高いものに囲まれているせいで穴が空いているようにそこだけが凹んで見える。他に誰もいない開けた場所は物悲しい。

 メドは稽古場から丘に向かって歩き出す。上から眺めれば人が集まり始めるのが分かるので、仲間達が来るまでは丘の上に居ようと決めた。

 地面にバトンを置く。一緒に持ってきたフラッグを両手に持った。黒地の中央には菱形の鉱物と月桂冠を施した楽団のシンボルが描かれている。それを影に泳がせるようにゆっくりと振る。バトンと比べれば遥かに重たく、柄の長さもメドの背丈ほどある。楽団ではこれをガードと呼んでいる。ホイッスルを口に咥えて、ガードを基本姿勢の形に持ち替えた。体に馴染んだ姿勢だった。

「……」

 三、二、一。爪先で拍を数え、ホイッスルに息を吹き込んだ。そのまま口からホイッスルを話すのと同時にガードを振り上げる。旗とマントが同時に翻り、一体となって舞い上がる。

「やっぱり、こっちの方が」

 自分の正面でガードを両手で回す。弾みをつけて空中にそれを打ち上げた。旗は風を受けて一人でに広がり、シンボルをはっきりと空に浮かべてみせた。

「よく馴染む!」

 メドは自然と笑顔を浮かべていた。腕で振るだけではなく今度は全身で大胆に踊った。ガードを天高く放り投げたその下で、メドがステップを踏む。降りかかってくる柄をタイミングよく掴み、また次の振り付けを続けていく。

 ドラムメジャーになる以前、メドは元々ガード班に所属していた。音を発せられない、本来演奏に不要な存在。だが隊列に彩りを添え、視覚の楽しみを増やさせる。何よりもメド自身がガードの振付を愛していた。こうして踊っているときにこそ、自分の正しい姿があるような気がしていた。

「うーん、お見事!」

 無心で踊っていたメドは突然声をかけられたことに驚いて飛び上がった。振り上げていたフラッグが頭の上に直撃仕掛ける直前で両手で受け止める。

 振り返った先に、昨日の少女、シェリがいた。右腕を挙げて、朝に相応しい滔滔たる挨拶をしてくる。

「おはよう! 君のおかげでいい朝になったよ」

「君、は……昨日の手品師?」

「手品師ィ!?」

 少女はあんぐりと口を開けたかと思えば、次の瞬間には腹を抱えて笑い出した。華奢な身体のどこから響いてくるのかが不可解に思えてしまうほど、豪胆で大きな笑い声だった。

「あっははは! 確かにね、間違っちゃいない。聞く人が聞いたらかんかんになるだろうけど」

「えっ」

「ああ、私は構わないよ。むしろその方が胡散臭くて好きだな!」

 シェリはメドの背中をばしばし叩く。彼女のペースに押されながらも、その手を何とか抑え止める。

「あの、なんでこんなところに……?」

「君のストーカーになろうと思って」

 シェリは胸を張って答えるぎょっとするようなことを口にした。

「君はメド君って言うんだろう? マリーヤ・ブランシェに飼われた、かわいそうな子供の音楽隊の団長殿」

 喜色に富んだその声が、途端に冷たいナイフのような言葉を発する。腹の底がすうっと冷えていくのが自分でも分かった。メドの表情が暗くなるのとは対照的に、微笑みを絶やさないシェリに嫌味を言っている気配はない。否、そう上手くみせているのかもしれない。今目の前にいる愛らしい少女の姿がメドの目には得体の知れない存在に見えた。

「……冷やかしなら帰ってくれないか。僕たちはそこまで暇じゃないよ」

「とんでもない! 私は純然たる興味でここに来ているんだ」

 シェリは大袈裟に両腕を挙げる。芝居じみたそれにえも言えぬ苛立ちが心を埋め尽くしていく。人を鬱陶しいと感じたのは、生まれて始めてかも知れない。

「そんな風には見えないんだけど」

「本当だよ! 私は長らく独りだったから、エウリピ楽団を……仲間と暮らしている君たちを、知りたくて」

 シェリの表情が陰る。独りと言ったその言葉が脳裏に焼き付く。その表情が真実を語っているのか、それとも嘘つきの仮面なのかメドには見極められなかった。それでも寂しげに眉を下げる少女を突き放すこともメドにはできなかった。

「……見学くらいなら、いいけど」

「え?」

 シェリは一瞬面食らった表情になり、直後に頬をみるみる解けさせた。口を開けて頬を紅潮させたシェリは、先ほどの軽薄さをすっかり影に潜めていた。子供のような純粋な笑顔だった。

 なぜ不審な彼女を招き入れるようなことをしてしまったのか。メドは自分でもよく分からなかった。その目を見ると引きつけられて言いなりになってしまうような気になるのだ。

 稽古場に人の影が見え始める。ぞろぞろとやってくる仲間達の中にルサルカの姿があった。彼女がメドに気付いて手を上げようとして、隣にいるシェリを見た途端にその動きが止まる。

「……始まる。行こう。ほら、こっち」

 メドはシェリを連れて稽古場に降りようとする。彼女を引き連れようとその手を掴んだ途端、肌がじり、とひりついた。その瞬間にシェリと視線が交わる。静電気だったのだろうか。もう一度その手を掴もうとすれば、シェリの方から腕を引っ込めた。

「やめておいた方がいいよ?」

「そう、か」

 シェリの言葉の意味を汲み取れなかったが聞こうともしなかった。メドも手を伸ばすのをやめた。彼女を連れて置いていたバトンを拾って高台の階段を降りる。

 丘を降りるとメドに皆の視線が集まった。一緒にやってきた見知らぬ少女の姿を見て騒然とする楽団の間を通り抜けながらメドはホイッスルを鳴らす。

「整列! 行進なしの合奏稽古するよ!」

 団員たちは顔を見合わせながらもメドの指示に従う。隊列を組みつつも、一同の視線はじっとシェリに注がれていた。

 じわじわと形成されていく隊列を横から見れる位置にシェリを連れて行き、手近なベンチに腰掛けさせた。

「君はそこ」

「ん、了解だ」

「メド!」

 メドのいる元へルサルカが駆け寄ってくる。シェリを見るなり、メドの影に隠れるように立った。困惑した顔でメドのマントの裾を掴む。

「……あなた、昨日の」

「うーん。一応お客? 見学したいんだってさ」

 ルサルカはなお不審がる表情を隠さない。異様な緊張感がシェリとルサルカの間を走っている。間に挟まるメドは肌でそれを感じていた。

 シェリはルサルカの視線など意に介さずか白い歯を見せて笑う。

「ああ、私のことは気にしないでくれ! ちょっと見たらすぐ帰るよ」

「だって。たまにはいいんじゃないかな。ファンサービスもさ」

「……メドがそう言うなら」

 メドの肩越しにシェリを見つめながら、訝しげな顔のまま頷く。徐にメドの手を取ってそっと握りしめた。冷えた指先がメドの手の体温を奪おうとする。

「ルカ? どうした?」

「ううん、なんでも。行こう?」

 ルサルカに手を引かれるようにメドは隊列へと戻っていく。そんな二人が見ていないところでシェリは柔かに手を振っていた。

「メド、遅ぇぞ!」

「悪い!」

 声に急かされてメドは駆け足になる。楽器隊の列の横、演奏の正面側にガードを携えた四人の楽団員が並んでいた。

「おう色男! いい女連れてきやがって」

「バカ言うなよ」

 にへ顔で近付いて軽口を叩いてきた男〈ディル〉をメドは軽く小突く。短髪のメガネをかけた、メドと同い年の少年だ。ガタイが良くて、楽団の中で最も背が高い。最近生やし始めた顎ひげは、女子の間で専ら不評だ。

「もう、団長は仕事で遅くなっただけなんですから揶揄わないであげてくださいよ!」

「なんだよロゼ。一丁前に妻気取りか?」

「違いますっ! それにそういうお役目は副団長であって……」

「お前らいい加減にしろ。メドが困るだろう」

「セージの言う通りだと思う」

 昨日エケベリアに言い負かされていたロゼはガード班の紅一点だ。生真面目でリーダー気質の〈セージ〉はこちらもメドやディルと同い年だが、二人よりもずっと大人びている。薄い顔立ちで、太い眉毛と垂れ目が温厚さを際立たせている。そしてセージに静かに同意したのは〈スプラウト〉だ。髪を肩越しで切り揃えており低い身長もあってしばしば女子と見間違えられている。非常に賢く研究所の手伝いもしているらしい。

 この四人が現役のガード班であり、元同班であるメドにとって彼等は他の仲間よりもメドとの距離が一歩近い存在だった。何かにつけて長としての責務を問われるメドのこともフラットに扱ってくれる。メドはガードのパートも班員も、落ち着く存在だ。彼らを見て安堵したメドは少し頬を緩ませる。その顔にまたディルがわざとらしく食ってかかる。

「おいおい、だらしねえ顔しやがって。紹介しろよあそこの彼女」

「違う。お前がバカだから笑ったの。昨日見に来てたお客さんだよ」

 肩に腕を回して絡んでくるディルを剥がそうとした時、ディルの方からすっと引き下がってきた。振り返ってみればずっと後ろをついてきていたルサルカがディルの二の腕を掴んで強引に引っ張った後だった。

「いていていて!」

「稽古始めるから、ガード班は隊列に戻って」

「おいおい一緒くたにするなよ。騒いでたのはディル一人だ」

「リーダー責任だよ、セージ」

「……戻るぞ皆」

 セージはルサルカの鋭い睨みに根負けして、班員を手招きして集めた。その去り際にディルがまた振り返って片頬で笑う。

「へっ正妻は怖いねえ」

「ディル!」

 ロゼに背中を強く叩かれてようやく大人しくなったディルを連れて、ガード班はしずしずと一列に並んだ。

「全く……それじゃあメド、稽古始めようか……メド?」

「あ……うん。分かった」

 賑やかに遠のいていく仲間達を羨ましく思っていた。自分もあの場所に帰りたい。だが叶わない。ルサルカの言葉に頷くと、メドは遊びで持ってきた旗を地面に下ろす。バトンを持って隊列の正面に立った。

 赤いタッセルで飾ったバトンを手先でくるくると回す。首に下げたホイッスルの位置を確認して、団員たちの顔を眺めた。先の尖ったバトンを空へと突き上げれば、騒々しかった場所が突如として静まり返る。皆一斉に楽器を構える。その瞬間に六十八名が一体の存在へと変貌する。最初の咆哮が、ホイッスルから響き渡った。

 トランペットが奏でるファンファーレより、演奏が始まる。ドラムが加わって、一斉に入る楽器も増えていく。敷地中に荘厳な行進曲を鳴り響かせた。そのリズムに忠実にガード班がフラッグと共に舞い踊る。体格の良いディルとセージの迫力のあるパフォーマンスと、スプラウトとロゼの機敏さが音楽によく映えた。

 その全てを支配しながらメドが歩く。音楽が頭に入り込んで、抱えていた様々な邪念が脳の奥へ奥へと押し込まれ、全身が演奏の虜になった。打点を刻む先導者でありながら、メドはバトンを振りながら舞っていた。

「今日いつにもまして感情的だな、団長」

 自分のパートを待っている楽団員が隣に向かってそう囁く。指揮役につられて、演奏全体も前のめりにより軽快に進行していくのを彼らは肌で感じていた。パレードの竜が、激しい感情を歌っている。

「なるほど。これは、見応えがあるなあ」

 シェリは一人でに感嘆の声を上げていた。爪先でリズムを刻み、一緒になって音楽に乗っている。不意に彼女を振り返ったメドがその足元を見てしたり顔をした。それにシェリがふっと笑い返す。思わず笑いかけてしまって、メドは自分に動揺した。すぐさま楽団に向き直って、もう一度音楽に集中する。

「いいなぁ」

 音楽にかき消される声でそう呟く。耳をそば立てながら空を仰いだ。雲の厚みが増してきていた。どこか不自然な澱んだグレーを見上げてシェリは立ち上がる。

「ああ……もう来たか」

 終始笑っていた口元が、口角を落として閉ざされる。その瞬間に稲光が空を駆け抜け、空を眩く覆い尽くした。

「!? なんだ、」

 団員達は演奏を止めて一斉に空を見上げる。雲に覆われた同じ淀みの色でも、今の空は何かがおかしい。不安のまま凝視していると、南の雲の向こうからけたたましいはためきが聞こえてきた。巨大な何かか、もしくは大群が迫ってくる。

「……逃げろ! 走れ!」

 メドは本能のままに叫んでいた。立ち尽くす団員の背中を押して走ることを促す。戸惑いながらも、焦燥に駆られたメドの顔を見て一斉にその場を駆け出した。

 音が近づいてくる。走りながら振り返る。黒い鳥の姿が見えた。想像だにしない速度で、団員たちに近付いてくる。鉄が軋むような音がする。それが心臓を震わせた。間違いなく、こちらに襲いかかっていると確信した。

「もっと早く!」

 無我夢中で走った。そのメドの横を鳥の影が追い越す。翼がメドの頬を掠め取り、その勢いでメドは吹き飛ばされる。身体を地面に打ちつけて砂埃が舞った。

「メドッ!」

「いいから、走れ!」

 濁った視界で聞こえてきた声に叱責する。口の中に土が入り込む。落下の衝撃と口の不快感で吐き出した。少し眩暈もする。よろよろと上半身を起こして、仲間が走る方向を見据える。砂埃が多少納まると人影が見えた。それを目にした瞬間、愕然として膝から崩れ落ちる。

 その鳥は骨組みだけの不気味な存在で、人の体躯ほどもある巨大な化け物だった。それが、仲間の胸を嘴で抉る。走る背中を後ろから啄まれたのだろうか。倒れた子供は音沙汰なくなる。

「……ッ」

 悲鳴も慟哭も出なかった。凄惨な光景を前に体を動かすこともままならない。それは捕食だ。仲間達があの化け物に喰われている。それも同じことがあちこちで。思考は完全に止まっていた。脳が自分の安全を優先していた。メドが立ち尽くしている間に、また誰かが餌食になりかける。スプラウトの姿が。フラッグの柄でなんとか身を防ごうとしている。

「やだっやだ……ッ団長、助けてッ!!」

「!」

 自分を呼ぶその声に体が反射的に動いた。固まった身体を無理やりに動かした。手を伸ばし、スプラウトの元へ向かう。だが届かない。スプラウトの姿は広げた手のひらで隠れてしまうほどに遠い。自分では、彼を救えない。

「ぅ、ぅぅぅ……ぁああああ!!」

 絶望しながら喚き散らしていたその時、メドの頭上をまた別の何かが通り過ぎた。身軽に飛んでいくそれはあっという間に鳥と団員の元に辿り着いた。シェリだった。背中に大きな翼を生やして、化け物に接近していく。彼女は両手を組んだ拳を頭の上から振り下ろし、黒鳥の脳天を砕いた。鳥の体はグロテスクに血を吹き出すこともなく、粉々の結晶となって散った。

「いったぁ~」

 場にそぐわない呑気な声で悲鳴をあげる。髪についた結晶を払って、彼女は涼やかに首を振った。

「……シェリ!」

 シェリは笑っているとも怒っているとも捉えられるような顔をしてメドを見た。メドはシェリの元へ急いで駆け寄る。彼女の傍に倒れるスプラウトを抱き上げた。気を失っている。息はあるが、胸にはひどい傷を負っていた。

「……ごめん。遅かったね」

 シェリはスプラウトを見て眉を下げた。

「いや、その……背中のは……? それに今の、」

 聞きたいことが多すぎるのに、混乱でうまく言葉は出ない。シェリはしゃがみ込んでスプラウトの頬を撫でた。そのまま胸元に手を下ろし、血塗れの肌に触れる。

「昨日の手品さ」

「てじ、な」

「説明は後で。今は彼の傷を押さえ込むんだ」

 彼女の指先からひらひらと薄紅の結晶が溢れ出てくる。それはスプラウトの胸の上で薄く積もって、血が流れ出るのをせき止めた。

「それは何を」

「止血。本当に止めるだけだけど」

 シェリはスプラウトを急いで担いで木陰に避難させた。身体を横に寝かせると、再び手の中から結晶を振い出す。スプラウトの胸の上に頑丈な石が纏った。

「体に厚みを持たせた。しばらくの間は敵に襲われても平気だよ」

「一体、どういう……」

「よく知っているだろう。タンバンさ」

 シェリの答えにメドは「やっぱり」と息を呑む。しかしスプラウトの胸の上のタンバンは脆くなく、しっかりとした強度で彼を守っている。昨日の花もどれだけ触っても崩れ落ちることはなかった。

「どうしてそんなことができるんだ……? タンバンを自在に操れるのなんか、先生しか……」

「その信仰心は偉大だけど……いや、話してる暇はないな。みんなが死んでしまう」

 その言葉にハッとして上空を見上げる。まだ何匹もの黒鳥が空を飛んでいる。

「戦いに行くよ」

「は……なんて……?」

「あれを倒すんだ。でなければ誰も助からない」

 淡々と話すシェリを前にメドは首を振る。

「無理だろ、あんなの、僕には何も」

「できるさ。君にはタンバンがある。タンバンは何にでもなるのさ」

 心臓の奥、確かにタンバンがある。マリーヤに貰った大切な命だ。だがそれが自分という存在を存続させる以外に使えるなど到底思えない。

「そんなの、先生でもなければ……」

「ああ、もう! よく言い聞かせられたもんだね。いいから私についておいで!」

 シェリは両手で器を作りその上に息を吹きかけた。どこからともなく結晶の粉が彼女の手の内に集まっていく。こんもりと積もったそれを空に向かって放つ。舞い上がったそれはカーテンのようにシェリを覆いながら漂った。きらきらとした淡い光に包まれながら、シェリはメドに手を差し出した。

「何を、」

「早く!」

 空いた手のひらをシェリに強引に掴まれる。稽古前と同様、二人の手のひらに電撃が走る。先程よりも強い力で互いに反発し合っている。メドがその痛みに片目をつぶる一方で、シェリはまたうっそりと笑みを浮かべていた。

「んふふ、これはもしかすると、もしかするのかもしれない」

「え、」

 シェリは突然メドの懐に飛びついた。心臓に寄り添うように耳を近付ける。どぎまぎしながら両腕を行き場なく漂わせた。こんなことしている場合ではないのに、と焦燥感を掻き立てられる。その最中、シェリは自身の耳飾りを外した。金の部分をキャップのように外して、中から鋭利な結晶を取り出した。

「君の心臓はどんな色かな」

 次の瞬間、シェリがメドの胸に耳飾りを突きつけていた。心臓が鼓動を止める。全てが静まり返ってメドは立ち尽くす。

 すると突然、異常な脈拍数で心臓が運動を再開した。外に漏れ出しそうな心拍数が、ドラムのように頭に響く。やけにクリアになった脳内と、人体の制限を無くしたように自由に動く体。全身を支配する、全能感。超常的な何かに身体を支配されていることを理解した。恐怖心はなく、この状況への不安もかき消されていた。

「……上々だね」

 シェリは満足そうに微笑んで、メドの胸元から髪飾りを抜いた。

「考えるんだ。君の強さの象徴を。何だっていい。例えば剣とか、鎧とか、馬とか」

(鎧、馬……)

 それを見て、脳裏に一つのイメージがよぎった時、辺りに散っていた結晶たちがメドとシェリを包み込んだ。

 次の瞬間、集まった結晶は姿を変える。巨大な半人半馬の姿を模って大地に降り立った。鎧は黒く、馬に似た四つの足はタンバンと同じ薄紅色に輝いていた。

 メドとシェリはその内部に入り込んでいた。足を伸ばして座れるくらいの、何もない狭い空間が目の前に広がる。壁は鎧と同じ色で塗りたくられているが、一面だけはガラスのようになっていて、そこから外の光景を見ることができた。外を覗けば自分が随分と高い場所にいることに気が付く。

「なんだ、これ……」

「タンバンの成形技術で君が作ったものだよ」

「それは、君が作った造花みたいなものってこと……?」

「技術としてはそうだね。だけど君は随分と面白いものを作るね! 大きな人形の中に捕らわれているみたいだ!」

 メドは自身の両手を眺めて呆然とする。手品の種を知らぬままに手品をやってのけた。何の原理も理解していないのに、身体は全てを分かっているようだ。自分が二つに分離したような、奇妙な感覚だった。

「さて、感動しているところ悪いけれどこれじゃあただのハリボテだ。どうやって戦う?」

「どうやってって……君が戦えるんだろ?」

「君が作ったものの使い方を私が知っているわけがないだろう?」

「そんな……」

「ははは、大丈夫大丈夫。君素質あるから、多分」

 無責任に笑いながら途方に暮れたメドの手を取る。この箱の空間に手を置かせた。彼女の手が触れる場所に微弱な電流を感じる。痛みはないが肌の上をそわそわと何かが駆けていく感覚があった。

「こうやって君のタンバンを私が起こしてあげる。ちょっとした手引きさ」

 指先を絡めながらシェリはメドの顔を下から覗き込む。マスカット色の瞳が爛々と輝くのから目が離せなくなる。その瞳に飲まれてしまいそうだった。彼女の言葉が自分の神経に直接号令をかける。

「怖がらないで。イメージするんだ。君が、どうやって戦うのか」

「戦う……」

「何でもいいよ。剣でも銃でも。全ては君の意のままに。それがこの状況を覆す最大の攻撃になる」

 メドは思い切り目を瞑って思考を巡らす。戦いとは縁遠い生活だった。剣は絵本の中の冒険の荷物、銃は新聞の文字の上でしか見ない存在だ。音楽に明け暮れていた日々の中で得た少ない引き出しを懸命に探った。

「そうだ、ガード……!」

 脳裏によぎったのは争いの道具ではなかった。だが、この世で最も扱い慣れた長物で、尚且つ戦いに生かせる素質がある。具体的なイメージが浮かぶと、その姿が実物となって具現化した。フラッグに酷似した柄には、布ではなく鋭い刃が付けられている。タンバンの薄紅色と鉄のような黒い光沢が層になった獲物だ。

「槍……かな。なるほどね」

 メドは無意識のうちにそれに手を伸ばしていた。半人半馬の腕がメドの動きとリンクして、槍を掴み取る。メドの手のひらにも、それを握る感触が伝わってきた。

「どういう原理……?」

「知りたがりだなあ君は。いいから前を見なよ」

 シェリが顎を触ってメドを正面に向かせる。ガラス越しにしか見えなかった外の景色が、まるで肉眼で直接見ているかのように立体的に映っていた。前後左右、いつものように首を振るだけで周囲を見渡すことができる。

「一種の身体拡張さ。君はタンバンによって新たな肉体を得た。この巨像は今は君の身体というわけ。お分かりいただけたかな?」

「分かるわけないだろ……」

「やってごらんよ。君ならできるから」

 シェリに触れられる場所にまた電撃が走る。その瞬間メドは両手に力を入れていた。その瞬間に半人半馬は前方に向かって急発進した。揺れる体内でバランスを崩しかけてシェリのいる方に倒れ込みそうになる。シェリはそれを見計らってメドの胸を叩いた。その刹那、メドの背中からおびただしい数のタンバンが溢れ、その足元へと広がった。膝を曲げて座れるような段差が生まれて、メドはその上に座らされた。

「……自分の体を動かしたら、別の自分が倒れるなんて変な気分だ」

「直に慣れるさ。今は急造だけどこんな感じで固定されておくといいよ」

 シェリはメドの腹部に手を当て、体に帯状のタンバンをぐるりと巻きつけた。そのままずるり、と地面にうずくまってしまう。

「シェリ? どうした?」

「……大丈夫。それより黒鳥を追って。狙われてるのは心臓だ」

「心臓……!?」

 大きく息を吐くのを繰り返しながらシェリは前方を指差す。大分遠くまで逃げた仲間の元へ黒鳥が近づき始めている。メドは再び半人半馬を走らせて、その機動力で黒鳥の背に迫った。握った刃の柄を振りかぶる。手慣れた動きで回したそれが黒鳥の翼を横から切り裂いた。ガラガラと崩れ落ちる骨組みが、逃げる団員に降りかからないように薙ぎ払う。黒鳥の形を無くしたタンバンは散りながらこちらに吸い寄せられてきた。

「鳥がッこっちに!」

「逃げなくていいっ! 粉にしたならそれはもうこっちの物だ」

「え……?」

「君たちは知らないかもしれないけれど、タンバンっていうのは別の結晶を吸収して取り込む性質がある。あの鳥を倒せば、君の鎧が嵩増しされると思えばいい」

 未だ彼女の言葉は半分も理解できないが、メドはいよいよ考えるのを諦めた。次の黒鳥を目指して進む。視界に残るのは四匹。居場所を見て、メドは瞬時に狙う順番を定める。

「まずは西の一匹。そこから三テンポで並んだ二匹に行って、一、二……八カウント目でいける」

「カウント? 戦場じゃ絶対聞かない数え方だ、それ」

「これしかやり方、知らないんだよ……!」

 揶揄うように笑うシェリの声を聞きながら、メドは狙い通りの初めの鳥に接近する。ためらわずに槍を振るう。体の中心を突き刺すと、黒鳥の結晶は瞬く間にメドに取り込まれた。すぐさま次の目標を追う。指先でテンポを数え、三回目で宙に飛び上がった。一匹を薙ぎ払う。だがもう一体に致命傷を与えるには至らない。

「っくそ!」

 脳が動く。あと数センチ、刃が長ければ。そのイメージが沸き立つのと同時に、槍の先が伸び上がった。不足分を補って、もう一体を打ち砕く。

「……そんなことまで!」

 体を起こしたシェリがフロントガラスに食いつく。ガラスに反射した彼女の顔は呆然としていたが、それに構うほどメドに余裕はない。

「次!」

 二匹からまっすぐ北方向へ直進する。一、二、三と数えながら慎重に、しかし迅速に向かう。

「四、五、ろく……ッ!?」

 カウントの途中でメドは足を止める。目先の黒鳥が、楽団のシンボルのついた旗を踏みつけにしている。その足元に人影があった。

「ロゼ! セージ!」

 見紛うはずのない、同班だった仲間を見て叫び声をあげる。セージがロゼを守ろうとしたのか、二人の体が折り重なって倒れている。動かない。黒鳥の爪が突き刺さった。セージの背中を見て目を疑いたくなった。黒鳥が足を持ち上げると、重みでセージの体が地面に叩き落とされる。動かない。おびただしい血溜まりが、その理由を物語っている。

「あ、ああッ……あああッ」

 頭を抱えて呻き声を上げる。声を出して現実を否定することしかできなくなってしまう。

「メド君、起きろ!」

 シェリがメドに手を伸ばす。メドに触れた瞬間、電撃が走りシェリの体を弾き飛ばした。先ほどよりもずっと強い、触れられないほどの強い力だった。

「!? これは……」

 メドを中心にこの半人半馬の人形全体が雷を浴びたように電流を纏っていた。シェリは困惑して身震いした。自分の体が引き込まれるような感覚を味わって、そして笑っていた。

 メドは我を忘れ、槍を黒鳥に向かって投げ打った。右翼を射止めたそれが黒鳥を痺れさせ、挙動を止める。メドは黒鳥に掴みかかって、素手でその体を砕いた。生物ではない。それでも惨たらしく思えるほどに潰した。何度も、何度も。霧散して跡形もなくなってもなお、その空虚に怒りをぶつける。宙を漂った拳が地面に突き刺さり、辺りをひび割れさせた。

「まずい……っ」

 シェリは急いでメドの体にしがみついた。体にまとわりつく電撃で意識が奪われかけるも、なんとか胸の中に飛び込んだ。再び耳飾りを手に取って、メドの心臓を捕える。杭がそこから発するエネルギーの蓋になったかのように、メドの体はがっくりと倒れた。

「これは……とんでもない逸材だな……いや、然るべきなんだろうか」

 シェリは目を細め、宙に手を翳す。人形の壁からタンバンを貰い受けると、メドの上半身を自らの腕で支えて下半身をタンバンを操って支えさせた。

「意識はあるかい? 脱出するよ」

「……」

 メドの意識は朧げだった。シェリの声を聞きながら、静かに頷いた。

 人形はメドの身体の力がなくなったことを機に崩落を始めた。シェリは隙間の空いた背中から外に飛び出すと、馬の背中を走って地上に飛び移った。

「よっと……んん?」

 降りた先で数名の団員と目が合った。黒鳥が消えて、こちらに近づいてきたらしい。その中にルサルカの姿が合った。彼女はシェリが抱えたメドを見るなりすぐさま駆け寄ってきた。

「メド!」

 シェリは黙ってルサルカにメドを受け渡す。ルサルカはメドを胸に抱いて、必死の形相で彼に声をかけた。

「メド、しっかり! メド!」

「……脳震盪を起こしていると思う。他のみんなも含めて、早く大人を呼んで治療を受けた方がいい」

「あなたが……どうして……」

 シェリとルサルカの視線が交わる。ルサルカは泣きそうになりながらシェリを睨みつける。シェリは胸の内にしまっていることを静かに忘却するように目を閉じた。

「……私は、シェリは君たちエウリピ楽団に告発があってきた。君たちに危機が迫っている」

 僅かに意識が残っていたメドはシェリに目線を向ける。曇った視界で、彼女の真剣な眼差しが映る。程なくしてメドは気を失った。

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