エウリピ奇譚
@06agetate04
1.邂逅
冬の足音が過ぎ去って春の陽光に包まれた〈アリスファクツ〉の街に、軽快なマーチングバンドの演奏の音が聞こえてくる。鼓動とリンクするドラム、高らかな音色を轟かせるトランペット、それと対抗するようにテクニカルに奏でられるサクソフォン、音もなく人々の目を奪うダンス。それらを操るのは多くが十代半ばの子供達である。上は十八、下は七。総勢六十八名の少年少女は皆同じ養護院で暮らす孤児達だ。揃いの黒い詰襟に赤いマントをはためかせ、か細い足を一斉に持ち上げて行進する。その様は一体の龍に見紛うほど息が合っている。彼らの最後尾には野菜と包装されたキャンディーで組み上げた山車が後を着いていく。彼らはこの街唯一の名物だ。
名を〈エウリピ楽団〉と言う。
異国世間では蒸気機関や電力の発明で新たな文明を築く時代だが、大陸から遠く離れた人里のアリスファクツは未だ旧時代の生活を下敷に生きている。目立った娯楽のないこの地域において、エウリピ楽団は街の人達に重宝されていた。
その先頭を仰せつかった指揮者、すなわちドラムメジャーは〈メド〉という十八歳の少年だ。伸ばした赤毛の襟足をいつも首裏で一括りにしている。同じ色の瞳は縦幅があって少し幼い顔つきに見せた。詰襟には他の団員にはない銀のブローチが付けられている。これはメドが指揮者だけでなく団長という役割でもこのマーチングバンドの頂点にいる証拠だ。体格には恵まれたとは言えない華奢な背格好であるが、先頭に立つ彼には武器がある。その目つきが放つ強烈な存在感だ。
「きゃー! メドくーん!」
「よっ大将!」
楽団の隊列が街の中心にある広場にやってくるなり、観客は一斉にメドに声援を飛ばす。黄色い声も野太い声もメドは正面から受け取る。自分に向けて期待に膨らむ目を向ける彼らに、メドは薄く口角を上げて笑顔を見せた。メドの微笑を受け取った一角で誰かが立ちくらみを起こしてへたり込んだ。
広場に団員全員が収まった時、演奏中の楽曲がちょうど終わりを迎えた。彼らが横を向けば真正面には観客席が設置されている。曲の最後の一音が鳴るのと同時にメドの指示で団員達は一斉に観客らと顔を合わせるように方向を変える。その瞬間、溢れんばかりの拍手が彼らを包み込んだ。
メドは観客と団員のちょうど中央に躍り出る。全員の意識がメドを向く。メドは指揮をするためのバトンを小脇に抱え、観客の顔を一つ一つ確認するように見据えた。
「今日は僕たちのパレードにお越しくださってありがとうございます。最後までどうぞ、楽しんでいってください」
透き通った挨拶が青空の下に響く。また拍手が起こりそうなところを、メドは宥めるように両手で制するポーズをとった。
メドがバトンを構える。鋭利な先端を空に向かって突き上げた。その瞬間にあちこちで息を吸い込む音が聞こえる。楽器に息を吹き込む前の呼吸。演奏の開幕に息を呑む観客。その音だけでメドは酸素が薄らぐような心地がした。額から汗が一粒流れ落ちた。それでも笑う。笑顔を浮かべて、魅せる。メドは力強くバトンを振った。それに呼び起こされるように音楽が始まる。メドの音楽の支配の仕方は躍動的だ。指揮者がやるにしては大仰な振る舞いは人々の目を奪いながら、確実に打点を打って音楽を進行させる。幼い子供の音楽隊をメドの力が獰猛な獣のように仕立て上げていった。
メドは演じている。彼の名前を冠した、この楽団のリーダーの姿を。
***
四十五分に渡る演奏会は滞りなく進み、エンディングを迎えようとしていた。ここで後列に着けていた山車が先頭に出される。その上に最年少の双子の兄弟が乗り、山車に積まれたキャンディーを一つずつ観客に向かって投げ始めた。パレードエンディング名物である、観客へのサービスタイムだ。養護院で製造しているキャンディーを振る舞って、ほんの少しの間観客と交流する。
演奏が終わってメドもようやく息をつける。そう安堵した時だった。
「いいね、いいよ! すごく良かった!」
ボキャブラリーにやや乏しい、際立った一人の歓声が客席の後ろの方から聞こえてきた。鈴を転がすような音とは裏腹に凄まじいボリュームでメドの耳に届く。声の主は何かを早口で喋りながら、隊列側に近付いてきた。
観客達の間をすり抜けて顔を出したのはごく小さな、それでいて美しい少女だった。小さいと言っても子供というわけではない。チューブトップ型のミニ丈ワンピースから浮き出る身体のラインは女性的だ。小さな背丈も個性になり得る華やかな出たちをしている。瞳はマスカットの粒のようだ。メドにも負けない目力で彼を凝視してくる。羊毛色の髪の毛は大きなカールが一つぐるんと巻かれ、キャスケットで押さえ込んでいる。好みなのか服も靴も純白だ。おまけに肌もそれらと同じくらいに白く透き通っている。彼女だけが異国の物語から飛び出してきたかのように、異質で不可解な空気を放っている。
少女はメドの目の前に現れた次の瞬間、飛びかかる勢いでメドの手を掴んだ。
「うわっ」
「初めて見たよ〜噂はかねがね聞いていたんだけど、ものすっごい迫力だったよ! 特に君! 冒涜的とも言える大胆な指揮のやり方……私には眼福だったね!
「ど、どうも……」
メドは及び腰で少女の感激に礼を言う。メドを囲い込みたがる女性ファンは一定数いるが、皆あるボーダーラインを越えない暗黙の了解があるのか滅多に近付いてこない。養護院以外の歳の近い少女というのはメドはあまり馴染みがないし、何よりここまで押す勢いの強い性格の人間を相手にしたことがなかった。加えて指揮者という役を外したメドは相当に内向的な人間である。つまるところ威勢の良い女子が苦手なのだ。
そんな事情など知り及ぶはずのない白い少女は、構わず掴んだメドの手をぶんぶんと振り上げる。そして下からじっとメドの顔を見つめる。愛らしい顔なのに目があまりにもぎらぎらと輝くので、メドには彼女が虎に見えて仕方なかった。
「どうしてあんなやり方をしてるの? 楽団はどういう経緯で参加したんだい? あ、そもそもどうして楽器じゃなくて指揮? カリスマ性が見込まれたとか?」
好き勝手に喋り倒す彼女は質問の答えが返ってこなくても新たな問いかけをぶつけてくる。会話をしようにも割入る隙がない。どう対処するべきか考えあぐねていると、少女が突然口を動かすのをやめた。
「あれ? 近くで見ると意外と……」
少女は真顔になってメドにさらに近付く。メドは耐え切れず、両目を力一杯瞑った。暗闇の中でくすくすと少女の笑い声が聞こえた。
その時だ。
「お客さんー? 過剰にサービスを求めるの、やめてもらえません? うち、全員未成年なんでね。そういうのダメなんですよ」
「うおぉ!? ちょっとちょっと、引っ張らないでくれよ!」
少女の悲鳴と、靴が地面を擦って引きずっていく音がして、メドはそっと目を開く。視界の様子は先ほどから変化して、白い少女を団員の一人が後ろから羽交い締めにしている最中だった。
彼女を捕まえたのは〈ルサルカ〉という少女だ。楽団では副団長というポジションに身を置くトランペット奏者である。銀色の腰まで伸びた髪を一本に編んで背中に垂れ下げている。恐ろしく整った貌だがどこか所帯染みた空気感を纏った柔和な顔の少女である。眉尻が下がっているせいで濃紺の瞳の下の星のようなほくろが涙のように光って見えた。だが今は迷惑な客を取り締まるために険しい顔になっている。白い少女とは頭ひとつ分離れた長身で、捕まえられた少女はなかなか身動きができない。
「あんまりひどいと出禁ですよ出禁。うちには怖い大人がバックにいるんですからね!」
「分かった分かった、私が悪かったよ! だからちょっと下ろしてくれないか? 浮いてるんだよ、ほんのちょっとね!」
「おいルカ、それくらいで良いだろ……」
足をぷらぷらさせている彼女が不憫になったメドは、いつも呼んでいる愛称で呼んでルサルカを止めに入った。ルサルカは平常時に見せる困り顔に戻って、小さくため息を吐いた。腕をゆっくり下ろすと、白い少女は地面を取り戻した。
「ふぅ。シェリは無事に地面に帰還した……」
「シェリ?」
独りごつ彼女にメドは問いかける。自分を〈シェリ〉と呼んだ彼女はまたぱっと眩い笑顔を取り戻し、メドに向かい合った。
「ああ! 私はシェリ。しがないクラフトマンさ」
「クラフトマン?」
「造形師さ、遊び専用のね。石や木を加工して色々なものを作っているんだよ……嬉しいなあ! 同じアーティストの君が私に関心を寄せてくれるなんて。ひょっとしてシェリという作家の作品を見たことがあったり!?」
「いや別にそうわけじゃ……」
「なんだ残念。それじゃあお見知り置きを、ということで」
シェリはほんの少し静かになって、自分の両手をメドの前に差し出した。マスカットの目が細められる。親指と人差し指を摘んで、空中に一本の線を描く。それに沿って結晶が流星のように線を描いた。
次の瞬間、彼女の手の中には一輪の花が現れていた。
「え……?」
メドとルサルカは言葉を失う。何もないところから物体が現れたことに脳の処理が追いつかない。驚きと惑う二人に気を良くしたシェリは同じ動作を繰り返してもう一本花を出現させた。赤と青、それぞれをメドとルサルカに渡す。メドは恐る恐る受け取る。触れた。だが植物の質感とは違う。冷たい石に触っている気分だった。色は本物同然だが触れば触るほど偽物だと分かった。
「さて、仕掛けは分かったかな?」
メドとルサルカは顔を見合わせて、それから首を横に振った。
「そうだろうそうだろう! これが天才クラフトマン、シェリの実力ってものさ。お近付きの印にそれはプレゼントしちゃおう」
「クラフトっていうよりも、手品ですよね?」
「んふふ、さてどうでしょう!」
初めから答える気などないらしい。シェリは適当な誤魔化しをした後で、思い出したように手首に装着した時計を確認した。
「しまった、こんな時間! 行かなくちゃ。また見に来るよエウリピ楽団。君たちはものすごく、興味深い」
シェリは意味深に笑うと続けてウィンクをした。先ほど花を出現させたのとよく似た動作をすると、今度は巨大な二輪車を生み出した。馬の足が車輪に変わったような、奇妙な形の乗り物だ。それにまたがると楽団に向かって手を振って、そのままそ颯爽とその場を去っていった。
「……なに、今の」
「さあ……」
嵐の去った方向をメドは呆然と見つめていた。怪訝そうなルサルカとは裏腹に、メドの心は高揚していた。得体の知れないシェリという少女を懐疑的に思う一方で、心地の良い騒めきが脳裏を駆け巡っている。
***
シェリが去った後、パレードは無事に終幕を迎えた。団員達は帰路に立つ。演奏をしながら行進していた時と打って変わって、団員達の仲睦まじい話し声が街路路に響いている。
先頭を歩くメドとルサルカの後ろでは、それぞれが親しい後輩二人が何やら自分の主張を声高々に唱えている。
「今日一番輝いていたのはルカ先輩に決まりですね。聞きましたか、三曲目のソロ。あの音が出せる奏者は世界中どこを探しても滅多にいやしませんよ。流石エーチェの憧れです」
鼻を鳴らしてルサルカを称賛するのは〈エケベリア〉。ルサルカが名付けたエーチェというあだ名を気に入って自称するほど彼女を心酔している。ピンクブラウンの髪をいつも左右に分けて結んでおり、その日の機嫌に応じて高さが変わる。今日は耳の上なのでことさら機嫌が良い日だ。
エケベリアに対してどこか焦った様子で対抗するのは〈ロゼ〉だ。切り揃えられたミディアムボブの、おとなしい印象の少女である。ふるふると拳を振るわせて迫力のない丸い瞳でエケベリアをじっと見つめた。
「で、でもでも! やっぱり一番は団長だよ……! 今日も誰よりも頑張ってたし……」
「分かってませんね。真に格があるのはルカ先輩です」
「そんなこと、そんなこと〜……!」
マリーは言葉が出てこないのか、ただ対抗したい気持ちだけがエケベリアの前で空回った。エケベリアは勝ち誇った様子でほくそ笑む。その会話を背中で聞いているメドとルサルカは照れくさい気持ちになった。
エウリピ楽団はメドとルサルカを中心に運営されている。パフォーマンスを通して背中で見せるメドと団員の世話役のルサルカ。それぞれ異なる役柄で組織の長を務めている二人なのだが、ある程度人数のいる以上は派閥というものが生まれてしまう。エケベリアはルサルカ派の筆頭であり、マリーのようなメド派を時々威嚇するのを趣味にしていた。
「エーチェ、ダメだよ仲間をいじめたら」
ルサルカが優しいトーンで宥めると、エケベリアの目がたちまちきゅるんと輝いた。
「やだエーチェったら……ルカ先輩への想いが止められなくってぇ」
エケベリアは猫を被った顔で恋する乙女の如く頬を染めて身体をくねらせる。ルサルカも彼女の振る舞いには若干手を焼いているのだが、大きな問題には発展していないので基本的には放置だ。手をかけなくて良いところでは手を抜く。ルサルカの大人な部分だった。
「もう仕方ないんだから。ねえ、メド……メド?」
同意を求めてルサルカはメドの方を見る。話しかけられた当人は先ほどシェリにもらった不思議な花に夢中になっていた。
「それ、そんなに気になるの?」
「うん」
メドはルサルカが少しだけ頬を膨らませていることには気が付かない。魔法のように現れたそれを光にかざしたり向きを変えたりして観察した。
「触った感じは石なのに見た目は本物の花そっくりだ……これ、何て言う花だっけ」
「……カスミソウ」
「そうだ。それそれ」
小さな花を指で突く。花はびくともしない。だが指の先が触れた場所がじわり、と一瞬透き通った。薄紅色のガラスのような光がメドの脳裏にあるものを想起させた。
「これ、〈タンバン〉にそっくりじゃないか?」
タンバンとは半透明で薄紅色をした鉱物である。硬度が低くわずかな力で簡単に砕けてしまうほどである。仮にピックやナイフで細工ができたとしても、持ち上げただけで壊れてしまう。アリスファクツ以外の土地からは採取できず、世界的な知名度はゼロに等しかった。決して役には立たない無用の存在。だがメド達団員にとってはなくてはならない存在だった。
「……まさか。タンバンでそんなものを作れる人なんか、先生以外にいるわけないよ」
ルサルカは冷めた目でカスミソウの形をした造花をメドよりも強い力で突いた。
「まあ、それもそうか」
内心ではそう結論付けるのをよしとしない自分もいたが、ルサルカの言葉も確かなものであると思い、メドは深く考え込むのはやめた。花の茎をくるくると回し、帰ったらこれをどこに飾ろうかと、呑気なことを考えることにした。
***
楽団員が暮らす養護院は街から外れた場所にある〈タンバン医療技術研究機関ブランシェ〉と呼ばれる研究所の敷地の一角にある。レンガ造りの二階建ての建物、そこが団員全員の家だった。我が家に戻ったメドは団員達をそれぞれ部屋まで送り届け、一旦自室に着替えに戻る。団員たちのほとんどは五、六人ずつの大部屋暮らしだがメドは個室をもらっている。独りの空間に安堵して盛大にため息を吐いてみる。それからすぐにパレード衣装を脱いで、団員全員がお揃いで着ている生成りのローブに着替えた。ランタンを持って足早に部屋を出る。同じく着替えを済ませたルサルカと待ち合わせをし、二人は外に出た。
養護院の前を渡る一本道を敷地の入り口とは真逆の方向にまっすぐ進むと大きな病院がある。この敷地の大半を占めている。
二人は病院の非常扉から中に入ると螺旋階段を一気に五階まで上がった。フロアの突き当たりの部屋の前まで行き、その扉を三回ノックした。
「先生、メドとルカです」
「入れ」
中から掠れた女の声が聞こえた。メドは扉を押し開く。開いた隙間から吹き出した誇りを被って少しむせる。
「悪いな、今週はまだ片付けられていないんだ」
そう言いながら雑用机の前で手招きをする女は〈マリーヤ〉という、この病院の責任者である。若くは無いが高い鼻をした横顔が美しい、黒髪の女である。髪はルサルカと同じように横で編まれていた。その下瞼にドレープのような深い隈ができている。いつになくやつれた彼女を前に、メドはしばしの間硬直した。
部屋に入るなりルサルカは締め切った暗幕と窓を開放してやり、マリーヤの部屋に澄んだ空気をもたらした。重苦しい空気がどこかに消えていく。
「少しにしてくれ、向こうに患者がいる」
マリーヤは自分の背後にあるカーテンで仕切られた場所を指差した。
「今日、手術だったんですね」
「ああ。経過は良好。来月にはお前たちの仲間だな」
マリーヤは二人に向かってカルテを見せながら少し笑った。
彼女はこの世界に自らもたらした新しい医学の権威である。それはこの街でなければ発見されなかった、タンバンを用いた人体再生技術であった。細工したタンバンをその形状のまま維持する技術を編み出し、幾人もの心臓を再生させてきた。
その幾人というのが、エウリピ楽団のメンバーである。事故、事件、虐待、あるいは戦争を逃れた難民。あらゆる理由で命を追われてやってきた子供達はマリーヤに救われ、ここで新たな人生を送っているのだ。
子供を救い、人の命を救うマリーヤをアリスファクツの中には彼女を神と信じて崇める者もいる。メドもルサルカも、親であり恩人である彼女のことを深く信用している。
「お前達はどうだった、パレードの方は」
「いつも通り、みんな息ぴったりでしたよ。メドが先頭に立ってくれるから」
「そうか、そいつは良かったな」
「いえ……」
メドはマリーヤの前では内気さを隠さない。気恥ずかしそうにこめかみの辺りを掻いた。
「そろそろ遠征して演奏したい頃だろ。もうすぐお偉い方の召集会があるから、そこで演奏させてもらえるように当たってみようか」
「良いですね!」
マリーヤの提案にルサルカは目を輝かせる。メドも新しい演奏の機会が持てることには大賛成だ。だが今はそれよりも気がかりなことがあった。マリーヤの散らかった机の上、見慣れない封書があることだ。差出人はアリスファクツ管轄の刑事事件監察局だった。
「どうしたメド」
言葉少ななメドにマリーヤの方から声をかけてきた。低い声には隠し切れない疲れが滲んでいる。
「……いえ、先生がお疲れかなと思って」
「仕方がないさ。大人は仕事でてんてこ舞いなんだ」
マリーヤはあっけらかんと手のひらを見せながら言った。その左手の薬指に止まった銀色の光にメドの視線が向く。マリーヤには伴侶がいた。それは仲の良い夫婦だった。数ヶ月前夫が不審死を遂げるまでは。
「……あの、封書の内容はいかがでしたか。その、事件の手がかりとか」
「メド!」
ルサルカがささめき声でメドを咎める。マリーヤは「いいんだ」と呟いて小さく笑う。子供の前で気丈に振る舞う大人の顔だとメドは分かった。
「収穫は何もないね。監査官というのは全く使えない」
「そう、ですか……」
重く澱んだ空気が広がる。マリーヤの夫はある日突然死んだ。それも凄惨な死に方だった。自室を夥しい血の海にして、額に穴を開けていた。同じ部屋で犯行に使われたと思しき銃が見つかっているが、犯人は未だに捕えられていない。
メドはマリーヤに何と声をかければ良いのかわからなかった。気安い言葉では彼女を傷つけてしまうかもしれない。踏み出せない。ただ同じだけ傷付いていた。
「あまり、無理をなさらないでください。今は手術も研究も休んだ方が、」
「それは出来ない。今も病棟に命の危険に晒された子がいる。その子一人、我が身可愛さに犠牲にすることはできないんだよ」
「……」
マリーヤは愛情深い人間だ。研究を確立させるや否や、自らの手で子供達の命を救い、彼等に居場所を与えた。今もこうしてより多くの子供達を救うために行動しようとしている。メドたちにとっては、かけがえのない恩師だった。
その一方でメドは歯痒い思いをしていた。楽団の年長者と言えど子供である自分にはマリーヤを手助けできることなどほとんどない。タンバンに救われていながら、他の子供を同じように救う力が無い。張りぼてのような団長の肩書きが、大人の前では何の効力も持たないことが悔しかった。
「お前の気遣いには感謝する。だがメド、お前の仕事はエウリピ楽団の長だ。それ以外のことを気にする余裕があるのか?」
マリーヤはメドをあえて厳しく諭した。大概自信のないメドは釘を打たれたと思って畏縮する。それを見てマリーヤは嘆息した。
「まだまだひよっこだな。なあルサルカ?」
「ふふ、メドは弱くてもいざっていう時に勇気を見せてくれる、良い団長ですよ」
「さすが花嫁、言うことが違うな」
「は、はなよめって先生!」
ルサルカの頬がみるみるうちに紅潮する。それを横目に見ながらメドも気まずそうに首元を縮めた。マリーヤは二人のことを面白がって手を叩いて笑った。
「まあそう遠い話でもないだろう。花嫁衣装も順調だぞ」
そう言いながら机の脇の白い箱を開けて中身を二人に見せる。作り途中のクリーム色のドレスが入っていた。ルサルカは目を見開いてそっとその表面を撫でる。
「すごく、好きな色です。生地も触り心地がいい」
「ああ。成人の儀と兼ねた婚礼だからな。親は気合いが入るのさ」
「なんか、こそばゆいですね」
メドはルサルカのこともマリーヤのことも直視ができずに、外方に向かって呟いた。
メドとルサルカは次の誕生日で成人する。そのタイミングで結婚する余裕だ。特別に恋人だというわけではない。幼い頃の約束の延長である。メドはこれといった疑問を感じることはなく、いずれそれが実現するだろうと思いながら生きてきた。だが、いざその時期が差し迫ってくると身体が浮き上がるような不安があった。夫婦といえばマリーヤとその夫の姿が一番身近だった。それが惨たらしい形で崩壊したせいだろうか。だが嬉しそうにその日を待つルサルカを前に水を差すようなことは何も言えず、メドは漠然とした気持ちを打ち明けられずにいた。
***
二人はマリーヤの部屋を後にして養護院に帰ってきた。パレードの緊張から解放されてすっかり眠たくなったメドはすぐに部屋に戻ろうとした。エントランスの男子寮と女子寮の分かれ道のところで、メドは右手で目を擦り左手でルサルカに手を振ろうとしたところ、彼女にローブの裾を掴まれた。
「お茶淹れたくなっちゃったから付き合って」
ルサルカは引き止めながらもどこか申し訳なさそうにしている。どうしても早急に休みたい、というわけでもないのでメドは彼女の誘いを了承することにした。
養護院はドーム型のレンガ作りの建物で、外周を囲むように各人の寝室が並んでいる。中央には食堂と応接間を兼ねたラウンジと調理場、洗濯室、シャワー室とトイレといった共用スペースが詰め込まれている。
二人はラウンジの調理場にほど近い席を選んだ。ルサルカはお茶の支度をしに調理場に向かった。
一人取り残されたメドは体をテーブルの上に預けながら、目線だけで夜空を眺める。半月があった。煌々として他の星々を霞ませるそれを見つめた。ふと、シェリのことを思い出す。掴みどころのない妙な少女だった。境遇故か楽団にはあそこまで底抜けに明るい性質を持つ者はいない。馴染みのない天真爛漫さにメドは動揺したが、彼女が持つ類の無い自由さに、メドはどこか羨望に近い気持ちを抱いていた。
何より彼女が見せた不可思議な現象は何だったのか。あの超常的な力はどこまで物を生み出せるのか、メドの関心を強く引いて離さなかった。
自分にも音楽家としてのプライドがそれなりにある。たったあの数分、シェリを見ただけで何かを生み出すということにおいてメドの全てを上回っていると感じた。肌で感じるあの圧力のような強い才能にメドは嫉妬し、憧れた。
(あんな風に、何もかも思い通りにできたら……)
そんなことを考えているとティーポットの支度ができたルサルカが部屋に戻ってきた。
「疲れてる?」
「まあ……いや、平気」
メドの前にシナモンの香りがする紅茶と紙袋が一つを置かれる。中身をチラリと覗くと、胡桃を入れて混ぜたパンと芋とリンゴの蒸しケーキが入っていた。甘い香りと紙袋の匂いが混ざって鼻先に届く。
「今日あんまり食べてなかったでしょ」
「うん、まあ」
「具合でも悪い?」
「……いや、そういうわけじゃないよ」
ルサルカの指摘通り、メドは朝から何も食べていない。パレードに出る日はいつもそうだった。気が張ると何も喉を通らなくなる。空腹を感じる時間など当に過ぎており、今も食欲はないままだ。ルサルカはメドの顔を見つめながら、服の裾を握りしめる。
「無理しないでよ」
「……いつも通りだよ」
ルサルカはだんだんと落ち込んだ顔に変わり、視線をテーブルに落とした。自分を気にしてばかりのルサルカがよく見せる顔だ。メドはよく知っている。
ルサルカとは楽団の中で付き合いが一番長い。団長と副団長という間柄でもあり、親しさで言えば随一の存在だった。しかしルサルサは過剰なまでの心配症だ。共感性も高く、目の前の人の感情に振り回されがちだった。
「……ルカも、あんまり気張らないようにしろよ。あんまり考えてると全部持ってかれる」
「メドには言われたくない」
「いらないことまで心配してるのはお前の方が多いよ」
ルサルカは小さく頬を膨らませる。テーブルの上に置かれたメドの手にそっと自分の両手を重ねる。小さなその手の指先は冷たい。
「二人で困ってたらダメだね。私たちには先生に与えてもらった、『お父さん』と『お母さん』の役割があるもん。きちんとしなくちゃいけないよね」
「……おう」
メドはルサルカの手の中で軽く拳を作る。父と母。団長と副団長の二本柱を幼い団員に理解させるためにマリーヤはそう呼称して教えた。ルサルカはこの名前をいたく気に入ってか、自分を勇気付けるのに度々用いていた。いずれ結婚した時にそれは真実になるかもしれない。だが今のメドにはその役割は少しだけ荷が重かった。一度その重圧を思い出せば全身が支配される。
「……ルカ、やっぱり部屋に戻るよ。疲れたみたいだ」
「そう……」
「お茶も……それからこれも、きちんと食べてから眠るから」
ルサルカの目にしっかりと訴えかける。その目に浮かぶ心配事を拭うために。
「……分かった。じゃあいつもの」
ルサルカが両手を広げてメドの前に立つ。メドは一呼吸置いてゆっくり立ち上がった。あまり背丈は変わらないが、少しだけ高い目線から彼女を見つめる。そのか細い脇腹からルサルカの背中に手を回し、浅く彼女を抱きしめた。甘い果実のような匂いがする。
それはマリーヤの言いつけの一つだった。『眠る前に母役を抱きしめる』。関係性を強く持つための幼い頃の手軽なコミュニケーションの一つだった。今更そんなことをする必要はないとメドは思うのだが、ルサルカが好んで継続させている。子供時代は何とも思っていなかったが、今のメドには気まずさか気恥ずかしさがある行為だ。
「おやすみなさい」
「……うん、おやすみ」
メドは食堂を出て扉を閉める。暖かい光が遮られた暗い廊下を自室に向かって歩く。
道すがらに紙袋から取り出したにパンを齧る。食べ慣れた小麦の甘みと苦い胡桃。我儘を言うべきではないと分かってはいるが、胡桃がどうにも苦手だった。結局気休めにもならない咀嚼を繰り返しながら、メドは食堂の戸締りをして、いそいそと部屋に戻った。
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