第3話
いつでもおいで。と言ってくれたロイの言葉に甘えて、アカリは毎日ペンギン王国に通った。母が仕事に出た後、学校に行く振りをして、毎日、だ。
大切な冠羽は革紐に結び付けてネックレスに仕立て、上着と一緒にハンガーにかけた。こうしておけば、なくすことも忘れることもない。
しかしある朝、事件が起きた。
「あれ」
アカリは毎朝起きてすぐに、ハンガーに冠羽がかかっているのを確かめるのが習慣になっていた。だがその日は。
「ない」
腹の中がひゅっと冷えるような感覚があった。
いや、大丈夫、落ち着いて。昨日は確かにあったんだ。きっとその辺に落ちて。
「ない」
もしかして、間違ってテーブルに置いて?
「ない」
上着のポケットに?
「ない」
ない。ない。ない。ない。
どこを探してもない。見つからない。
アカリは部屋を飛び出した。
ドタバタとリビングに駆け込むと、母はあからさまに嫌そうな顔をした。
「何? 朝からうるさいわね」
「お母さん! 冠羽、知らない?」
「何、カンウって」
「金色の羽根! 革紐に結び付けてあって。私の部屋にあったはずなんだけど」
すると母はぼんやりと考え込んだ後、不意に「ああ!」と声を上げた。
「あの、ハンガーにかけてあったやつね。あんた、ああいうの拾ってくるのやめなさいよ。汚いから捨てちゃったわよ」
「え?」母の言葉が理解できない。「今、なんて?」
「だから、捨てたって言ってんの」
「捨てたの?」
「だからそうだって」
「なんで!」
アカリは絶叫した。手近にあったゴミ箱を、ひっくり返すように漁る。
「どこ! どこに捨てたの」
「ちょっとやめなさいよ!」
母がアカリの手首を掴んだ。力尽くで振り払おうとして爪が引っ掛かり、血が滲む。
「どこ?」怒りで声が震えている。「早く教えて。どこに捨てたの」
「どこって。今日燃えるゴミの日でしょ。もう回収に出しちゃったわよ」
一瞬、時が止まった。絶望感に心臓が蝕まれていく。
「信じられない」頭が熱を持ち、涙が溢れ出す。「なんでそんなことするの? 大切な物なのに! 最低! お母さんなんて大嫌い!」
アカリは母を突き飛ばした。
きゃあ! 何するのよ! という母の悲鳴も、アカリには耳障りなだけだった。
アパートの前のゴミ捨て場からは、既にゴミの山は消えていた。
ああ、もう駄目だ。頭の中に、エラの声がこだまする。
なくしてしまったら、ここはただの遊園地。二度と王国に足を踏み入れることはできなくなるわ。
もう二度と、あのペンギンたちに、ロイに会うことはできないのだろうか。
そんなの嫌だ。
アカリは自転車に飛び乗った。ペダルに足を乗せる。
黄色い足を追いかけたあの日より、ずっとペダルは重たくて、アカリは挫けてしまいそうだった。
でも、駄目だ。行かなきゃ。行かなきゃ。
ここで終わりにしたくなかった。一縷の望みを掴みたかった。
涙と汗でぐしょ濡れになりながら辿り着いたその場所にあったのは、小さな遊園地、ペンギンランドだった。
ああ、やっぱり駄目だった。
アカリは自転車を打ち捨て、エントランスの前にしゃがみ込んでしまう。寂しくて、悲しくて、悔しくて、涙を止めることができない。
するとそこに、近づく人の姿があった。
気配を感じて顔を上げると、ペンギンランドのスタッフの制服を着た青年が立っている。歳の頃は十代か二十代前半だろうか。初めて見る顔だが、アカリはすぐにその人が誰だか分かった。
「ロイ」
「おっと。よく分かったね」ロイがはにかむように笑い、アカリの隣に腰を下ろした。
「分かるよ。ロイだもん」アカリもつられて泣きながら笑った。
「アカリ。冠羽をなくしてしまったんだね?」
ロイの問い掛けに現実を突きつけられる思いがして、胸がぎゅっと締まった。
「うん」
ロイは優しく微笑む。「アカリ、ごめんね。冠羽はもう、君にあげることはできないんだ」
「うん」アカリは膝に顔を埋めた。「うん、分かってる」
「でも。もし、どうしても、もう一度ペンギン王国に足を踏み入れたいのなら」
ロイがそう言い、アカリは顔を上げた。
「一つだけ、方法がある」
心臓が跳ね上がった。「ほんとに? ほんとにもう一度ペンギン王国に行けるの?」
ロイは静かに頷いた。「但し、とても残酷な方法だ」
「教えて!」アカリはロイに縋りついた。「なんでもする! 私、なんだって平気!」
「本当に? もう二度と、家族や友達に会えなくなってもいいかい?」
「もちろん」アカリは即答した。そこに迷いは一切ない。
「寿命だって、ずっと短くなる」
「構わないわ」
ロイはアカリの覚悟を受け止めたのか、何も言わずに目蓋を閉じた。ひとつ、深呼吸をしてから、「分かった」と短く言った。
ロイは自分の髪を一本抜いて口に咥えると、制服のキャップを脱いだ。すると、不思議なことが起こる。
ロイの体がしゅるしゅると縮み、いつものジェンツーペンギンの姿になったのだ。
口に咥えていた髪の毛は、いつの間にか白い羽根になっている。ロイはそれを、アカリの髪に挿した。
「目を閉じて」ロイが言う。「膝を抱えたまま、ゆっくり息をして」
ロイに言われた通りにする。
涙で乱れた呼吸が少しずつ落ち着き、身体の内側からぽかぽかと温まってきた。胸がしゅーっと萎んでいくような息苦しさがあるが、それが不思議と心地いい。
ふわふわとした感覚に身を委ねていると、「もういいよ。目を開けて」と声がした。
恐る恐る、目蓋を上げる。
「えっ」
目の前に、ロイの顔がある。辺りを見回すと、周囲の建物が大きくなっている。
「何これ」
下を向くと、自分の靴があるはずの位置に、鮮やかな黄色の足があった。慌てて両手を顔の前にかざすと、それは手ではなく、ふわふわの綿毛の生えたフリッパーだった。
「ロイ、これ何? どういうこと?」
「君は、ペンギンになったんだよ」
「ペンギンに?」
どうやらそれは本当みたいだ。鏡で全身を見られないのが惜しいが、首を捻って見える自分の身体の特徴は、全てペンギンのものだった。
「君は今日から、ジェンツーペンギンだ」
ロイと同じ、ジェンツーペンギン。
私がそれに、なれたというのか。
嬉しい。喜びで胸が熱くなる。
だがその前に、疑問が口を衝いた。
「でも、どうして雛なの? これ、産毛だよね?」フリッパーに生えたふわふわの綿毛を見ながら言う。
「そりゃあ、アカリはまだ子供だからね」
「子供って言っても、赤ちゃんじゃないんだけど」
「子供は雛なんだよ」
「ふうん」
「でも、ペンギンの成長は早いからね。あと一ヶ月もすれば大人とほとんど変わらない姿になるよ」
「へえ。楽しみだな」
「さあ、こうしちゃいられない。行くよ、アカリ」
「へ? 行くってどこへ?」
「ランニングだよ。ジェンツーペンギンとして生きるなら、子供のうちに足腰を鍛えておかなきゃ」
「え、何それ」
「本来なら親が子供を鍛えるんだけどね。アカリには親鳥がいないから、僕が面倒を見るよ」
「ちょっと待ってよ!」
言いながら既に、ロイは走り出していた。
「さあ、ついておいで」
黄色い足の裏が、楽しげにぴょこぴょこと跳ね上がる。アカリは夢中になってそれを追いかけた。
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