第6話 拾われたふたり

埃は嫌い。


ジャリジャリしてるのも嫌い。


寝床はグニャグニャじゃない方がいい。


石鹸は嫌い。


熱い湯はもっと嫌い!




「はーい、暴れてもダメだよー」

『うぎゃあああああああああ─────っ‼︎‼︎』

ギャワンッ!ギャワンッ!

「なにちてゆの?」

「今はコレを洗ってるんですよ」

そう言いながら男は大きな盥の中に腕を突っ込み、灰色の泡を盛り上げながらギュウギュウと動かした。

「こえ?」

『あっ!おまえ、どこにいってたんだ!はなれちゃだめじゃないか!』

ギャウギャウギャウッ!

「ふむ……コレは君の|主人〈あるじ〉かな?」

「あゆじ……?」

「ふむ……」

少女というよりもまだ幼い子供は、男が示す灰色の泡の中で何か訴えるように吠える獣を見てキョトンとする。

まるで『コレ』と呼ばれるモノにまったく心当たりがないように。

『そいつはニンゲンだよ』

「それは、見ればわかる」

『なぁんにもない、ほんとにただのニンゲンさ』

「だからわかっているよ」

「おあなし、あぁに?」

先程と打って変わり、泡だらけの『コレ』は大人しくアウアウと高い声で男に向かって啼いた。

男はどこから取り出したのか綺麗なタオルで泡だらけの腕を拭きながら当然のように頷いて返事をしたが、幼女はまだ事情を把握できないようで、表情の乏しい顔を立ち上がった男に向けてから広い盥の中で薄汚れた泡で諦めた姿の『コレ』に視線を動かす。

「こえ、なあに?」

「こえ?……ああ、『コレ』はねぇ……」

パチンと指を鳴らすと、ザバァッという音と共にお湯が盥の中にだけ降りかかった。

『ぎゃあああああああ────っ‼‼あついあついあついあつい!!ばかじゃねえのっ?!ニンゲンようのあついみずだろっ!あつすぎんだよっ!!』

ギャワンッ!ギャウギャウギャウッ!

「え?そうなの?」

湯気と一緒にシャボン玉がふわふわと宙に舞うが、それを物ともせずにギャンギャンと吠える『コレ』に向かって男がコテンと首を傾げる。

じゃあと一言呟くと、温いぐらいの温度に変化させた水をザバザバと休みなく降らせた。

「ま、こんなもんでしょ……」

「わんちゃ!」

「え?」

「わんわん!わんわん!」

盥から溢れる汚れた泡混じりの冷めた湯を避けた男の服の裾がギュッと引かれ、そちらに視線をやるとさっきの幼女がいつの間にか隣に立ってキラキラとした目でまた男と『コレ』を交互に見て笑っていた。

その小さい指の差す方向には濡れたおかげでシュンと大人しくなった黒い塊が頭を項垂れて座り込んでいる。

幼女がコクコクとすごい勢いで頭を上下に振り鼻の穴を膨らませているのを見て、男は微かに笑みを唇に浮かべて溜息をついた。

「ああ、やっぱり知りあいじゃない」

『しりあいじゃない!くっついてるやつだ!』

ギャウッ!

そう喰い気味に遮られ、男はキョトンとした。

「……意味がわからない」

『いいからそいつからはなれろ!おい!おれのとこにこい!』

「……君の言葉、この子は理解してないみたいだけど?」

『はぁっ?!だってそいつ、おれのいうことに「うん」ってへんじしてたぞ?!』

「……適当に相槌打ってただけじゃない?子供って何かそういうところあるらしいし」

『あるらしいってなんだよぉー!いいからそいつかえせよぉー!』

ウオォォォォンッ!

「らめおっ。なきゅとぶちゅお!」

「えっ…ぶ、ぶつって……何て乱暴な……」

「ないたら、ぶちゃえうお!ばか!」

さっきまで嬉しそうに笑っていたはずの幼女が今度は精一杯の『怖い顔』を作って短い腕を振り上げたのを見て、止めるどころか男は足を動かして一歩分その小さな体から離れた。

「……とりあえず、ぶつのは痛いから止めましょうね。水が跳ねて汚れるし」

『なんでおれ、いきなりぶたれることになってるの?!いみわかんねぇ!!」

「私もわかりませんよ。いったい何なんですか?これは……」

「こえ?」

「ああ、あっちの『コレ』じゃなくて、あなたですよ。あなたは一体誰なんですか?」

「ばか!」

「……はい?」

「ばか!こら!おい!うるせー!けるぞ!」

「……いきなり何で……名前を聞いただけだというのに」

「ばか!こら!おい!うるせー!けるぞ!」

「いえ、だからそんな言葉言っちゃいけませんって……」

『おまえばかなの?おまえのことじゃねぇって』

『コレ』がアウアウと口を動かして小さく啼きつつ、クイッと頭を動かす。

それを見て視線の先をまた幼女に向けると、先ほどから同じ言葉を繰り返す自分自身を指差しているのに気がついた。


それから何度か聞き返すと、どうやら『ばか』も『こら』も『おい』も『うるせー』も『けるぞ』も全部彼女に向けられて発せられたものらしく、ちゃんとした『名前』は無いらしい。

しかも語彙が恐ろしいほど乏しく、こちらの言うことは聞こえているが理解しているとは思えない。

「……とりあえずこんなところにいるのも何ですから、二人とも私の家に行きましょう」

「う?」

『え?こっからどっかいくの?』

幼女は相変わらず男が言っている言葉がわからないらしく首を傾げ、『コレ』はこの場所から移動することに抵抗感があるのか、ようやく乾いて柔らかな黒い毛玉のような体をジリッと後ずらせた。

しかしここから動きたくないと言われようと、男はもうすでに移動していた──人が存在できない瘴気溜まり近くの荒れ果てた駐車場から、彼の隠れ住む森の一軒家へと。



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