第2話 虹の瞳の第二王子

 新しい住まいまでの移動に、侯爵家の紋が入った馬車は使えない。往来の馬車を拾うことまで覚悟していたが、家の前の通りに簡素な馬車が停まっていた。側にはスカルラット家の専属騎士が控えており、ルーチェの姿を見ると彼は直立のまま静かに頭を垂れた。その所作には無駄がなく、無骨ながらも品を感じさせるものであった。


「お待ち申し上げておりました、ルーチェお嬢さま」


 ルーチェは寂しく微笑んで、騎士とその後ろの馬車へ目をやった。家の者が「お忍び」に使う、無紋の馬車だ。


「自分で何とかしようと覚悟していたのよ。無紋とはいえ、家を出された私が侯爵家の馬車を使ってしまって良いのかしら」

「侯爵様より、『最後に』無事に送り届けるようにと仰せつかっております。こちらへ」

「……そう、じゃあ、お言葉に甘えて」

 迷いのない動作で手を差し出され、ルーチェはそっと指先を重ねて馬車へ乗り込む。

 普段使うよりも質素な内装ではあったが、椅子にはクッションが敷いてあり、座り心地は良かった。

 それからドアの方へ目を向けると、ばあやの後に続いてカーラが馬車のステップに足を掛けようとしていたところだった。


「カーラ」


 ルーチェが静かに呼び止める。カーラはビクッとして、不安げにルーチェを見上げた。


「あなたは一緒には乗れないわ。同情できるのは筆頭侍女だけという決まりなの。荷物だけ、中に積みなさい」

「はっ、はい! 失礼いたしましたぁ!」

 カーラは涙目で荷物を馬車へ積み込む。ルーチェはそれを見て頷き、手持ちのカバンから小さな袋を取り出してカーラに渡した。


「これで往来の馬車を。慌てず、ちゃんと行先を伝えれば大丈夫よ。あとで合流しましょう」


 カーラはこくこくと何度も頷いてから、ふかぶかと頭を下げた。


「はいっ! 粗相をしてしまい、申し訳ございませんでしたっ!! お嬢さまのお心づかい、いたしますぅ!」


 その大きな声に通りを行く人々が驚いて目線を向けるが、いぶかし気にしながらも何も言わずに通り過ぎていく。

 ばあやが軽くため息をついて、御者ぎょしゃに目線を送る。御者は頷いて静かにドアを閉めた。

「お嬢さま、騒がしくて申し訳ございません。カーラは後ほど改めて教育いたしますので」

「気にしていないわ」


 前方の窓越しに、御者台に上がって外套がいとうすそを整える騎士が見えた。その動きはいつもと変わらず端正で、無駄がない。

 ほんの一瞬、それだけで胸の奥がわずかに揺れた。

 馬車が動き始め、ルーチェは窓の外へ視線を向けた。屋敷の前の、見慣れた光景。行きかう人々や馬車を眺めているうち、貴族街の落ち着いた通りから城下の華やかな大通りへ出る。そこを過ぎれば、光魔法で輝く大きな橋を渡って――この道を、6年間通ったのだ。


 やがて、馬車は王宮前の広場に静かに停車した。いつもとは違う、使用人用の外側レーン。

 馬車を降りたルーチェは、静かに深呼吸した。傍らに立つ騎士は硬い顔で一礼する。

 

「……お嬢さま、私はここまでです」


「……ええ。ありがとう。今日だけでなく……6年間、学園へ送迎してくれたことも。気をつけてお帰りなさいね」


 騎士の拳がぐっときつく握られた。

 

「ありがたきお言葉、感謝いたします。どうか、ご武運を」


 「武運」なんて武官でもないのに、と思ったが、確かにこれからのルーチェに必要なのはただの幸運より「武運」なのかもしれなかった。

 馬車が見えなくなるまで見送ってから、改めて周囲を見渡す。

「カーラはちゃんと馬車を拾えたかしら」

 すると、広場の奥からぱたぱたとこちらへ駆け寄って来る小さな影に目が留まった。


「おじょうさまあああ!」


 その大きな声にばあやは軽く眉間を押さえる。ルーチェは苦笑して、スッと唇に人差し指を当てた。近くまで来たカーラはハッとした顔をして、口を引き結ぶ。


「無事に来られたようでよかったわ。後から来たのに、早かったわね」

「はいっ、御者のおじさんに急いでるって言ったら、すごく頑張ってくれました!」

 その言葉に目を光らさせたルーチェが口を開く前に、ばあやが一歩前に出る。

「これ、カーラ! 一刻も早く着きたい気持ちは理解できますけれどね、安全を優先なさいな……お嬢さま、今はまず、お部屋に参りましょう」

「……そうね、移動しましょう。カーラ、荷物をお願い」

「はいっ!! おまかせください」

 カーラは大きなトランクを両手に持つ。魔導トランクに魔力を通せば、風魔法で重さがいくらか軽くなる。それでも慣れない者には大仕事だ。

 時折気にかけるように後ろを振り返りながら、ルーチェは新しい住まいとなる侍女寮に向かった。


 手続きののち案内されたルーチェの新しい部屋は、侯爵家の自室よりは手狭であるものの、持ってきた荷物量からすれば十分の広さがあった。

 部屋を見まわしてから、ルーチェは備え付けの机にそっと手を触れた。

「……机だけ、後でもう少し大きいものに替えさせていただこうかしら」

 荷ほどきをしようとカバンに手を掛けたとき、ノックの音が響く。ドアに設置された来客を告げる魔法陣が淡い光を放った。


「お疲れのところ、失礼いたします。インダーゴ侯爵家の侍従でございます」


 インダーゴ侯爵は宮廷魔導院の中でも魔導書に関連した全てをべる長――つまり、今後ルーチェの上官となる人である。ルーチェは、ばあやとカーラに視線を向けた。

「きっと今後の業務についてのお話ね。ばあや、対応してちょうだい」

「はい、お嬢さま」

 取り次いだばあやが言うことには、「明朝、魔導書長が面会を希望している」とのことだった。

「『承知しました。朝には身支度を整えて伺います』、と伝えてちょうだい」

 ばあやに取り次ぎを頼み、ルーチェはベッドに腰掛けた。自室のベッドより少し硬い。

「……明日から、新しい生活が始まるのね」


 その後、お茶を淹れようとしたら手が震えすぎて盛大にこぼしたり、床に置いたトランクにつまずいて派手に転んだりと、カーラによってにぎやかすぎる時間を過ごしたが――その晩、侍女たちが自室へ下がってから一人でベッドに入ると、急にひとりになってしまった実感に襲われた。

 少し冷たいベッドでふとんにくるまって、ルーチェは小さく震えて目を閉じる。


(大丈夫よ、きっと大丈夫。明日からは、以前からやりたかった魔導書制作のお仕事に携われるのだから)


 ベッド横の窓にかかったカーテンをちらりと開けて空を見れば、きれいな三日月の周りにいくつかの明るい星が輝いているのが見えた。

 小さなころ、実家の部屋で母と星を数えて眠ったことを思いだす。もうあの部屋に帰ることもできないのだろうか。そう思うと、胸の奥がきゅっと痛む。

 あの事故さえなければ――そう思いかけて、ルーチェは首を振った。もう終わったことだ。それよりも、明日からのことだけを考えなくては。

 ベッドを抜け出して、机の上に置かれた細身の革のケースからペンを抜き出した。月の光を受けて、ルーチェの手の中で銀色が美しく輝く。それを胸の前できゅっと抱きしめるよう持ったまま、ルーチェはベッドに戻った。枕元にそっとペンを置いて、指先で触れる。


(お母さま……どうか、わたくしを見守っていてくださいね)


 そう心の中で話しかけて、ルーチェはそっと目を閉じた。


 翌朝。カーテン越しの淡い光に目を覚ます。

 ちゃんと眠れたことにほっとして、枕元のペンをきゅっと大切に握った。ばあやたちが来るより先に手早く身支度を済ませる。顔を洗った水が冷たくて、空気ごとえるような心地がした。

 この日のために設えた仕事着に、初めてそでを通す。袖も、裾も、ウエストも、ルーチェにぴったりだった。

 やがて、約束の時間になって侍従が迎えに来た。ルーチェは細身の革のケースに銀のペンを入れ直すと、迷いなくそれを腰のベルトに装着した。

 小さく呼吸をして、ルーチェは背筋を伸ばしドアへと向かった。


 侍従の案内に従い、王宮の静かな廊下を進む。淡い朝の光がルーチェの行く先をそっと照らしていた。

 魔導書長の執務室は、想像していたよりも明るかった。執務机の後ろにある大きな窓から入る自然光が柔らかく広がって、両側の壁一面の本棚に収められた本の、古い紙の匂いに親しみを感じる。

 ルーチェが入室すると、手前の応接ソファに座っていた男性がスッと立ち上がり、それに続いて執務机の魔導書長も立ち上がる。

 手前の男性に視線を向けると、昨日卒業パーティーでルーチェのことを見つめていた銀の髪の男性だった。思いがけぬ再会に思わず目を見張ると、彼はルーチェの表情に気がついたのか、やわらかく微笑んだ。そのとき、彼の瞳が虹色に輝いて――

「ようこそ、スカルラット嬢。着いて早々に呼びつけて悪かったな」

 正面から話しかけられて、ハッとして意識を正面に戻した。

 インダーゴ侯爵が人好きのする笑顔でルーチェを見ている。スカルラット家と同格であるインダーゴ家とは以前から交流があり、侯爵のことはルーチェも幼い頃から見知っていた。

「こうしてお会いできて光栄に思います、インダーゴ侯爵――いえ、魔導書長さま。恐れながら、一点だけ……わたくしは昨日、スカルラットの家から出されましたので、できれば『ルーチェ』とお呼びいただければと思います」

 そう言ってルーチェが丁寧に礼をすると、インダーゴ侯爵は軽くため息をついた。

「ああ……侍女寮の担当者から事情は聞いてはいたが……まったく。スカルラット侯爵は厳しすぎる。娘にまで裁判の真似事をしなくともよいだろうに……いや、失礼」

 ごほん、とバツが悪そうに咳ばらいをして、インダーゴ侯爵はルーチェを案じるような声色になった。

「『ルーチェ嬢』、侍女寮の暮らしは不便ではないか? 侯爵家の令嬢にはいささか勝手が悪いと思っていたのだが」

「ご心配には及びませんわ。今朝も食堂で朝食をいただきましたが……やさしい味付けのスープと香ばしいパンで、とても美味しゅうございました。身の置き場が変わるのは確かに緊張いたしますが……それでも、本日からのお仕事を思えば、胸が高鳴ってまいりますわ」

 りんと背筋を伸ばして笑顔で語る。それはルーチェの本心であった。

 インダーゴ侯爵は、「そうか」と安心したように答えた後で、顔を曇らせる。


「……そのように楽しみにしてくれているところ、申し訳ないのだが……ルーチェ嬢、君を制作部に配属することはできなくなった」


 その言葉は、ルーチェにとっては冷水を浴びせられるようだった。


「なっ……! そ、それはなぜですの?」


 必死で失礼にならないように、震える声を絞り出す。ほとんど無意識に、手は腰元のペンケースに触れていた。インダーゴ侯爵は、目を閉じてうなだれる。


「本当に、君には申し訳ないと思っている。しかし、王妃じきじきの命とあっては、我々もどうしようもないのだ」


 ルーチェはきゅっと唇を噛み、視線を落とした。まさか、そこまでされているとは。


「……ルーチェ様」


 柔らかな風のような声に、顔を上げる。虹色の瞳が、ルーチェをまっすぐ見つめている。


「つきましては――どうか、魔導書『校正部』の方へご助力いただけますでしょうか」

「校、正部?」


 一瞬理解が及ばなかったが、すぐにそれが「魔導書部門の日陰部署」と呼ばれている部署であることに思い至った。つい困惑した表情をしてしまう。男性は応接椅子の前から静かに歩み出て、ルーチェの前で優雅な礼をした。


「名乗りが遅れて申し訳ありません。私は、ヴェリタス・アルコバレーノ。魔導書校正部の長をしております」

「ヴェリタス――第二王子!? そ、それは、失礼を」


 虹色の瞳は、王族だけが持つ特別な能力の証――。

それは、嫌というほど知っていたはずなのに。

長らくジェレミアの瞳しか見てこなかったせいか、一瞬、その事実を現実として受け止めるのが遅れた。

 慌てて、深くカーテシーを捧げる。ヴェリタスもまた慌てる気配がした。


「ああ、お気になさらず。普段公の場に顔を出さないものですから、私のことは知らない方が普通なのですよ」

「もう少し、政治の方にもやる気を出していただけると助かるのですがね」


 ため息混じりのインダーゴ侯爵の言葉には反応せず、ヴェリタスは「さあ、顔を上げてください」と、ルーチェに優しく声を掛けた。ゆっくりと視線を上げると、ヴェリタスはほっとした様子で微笑んだ。


「では、早速ですが。これから、私と共に校正部へご一緒いただけますか、ルーチェ様」

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