赤ペン令嬢の魔導書校正
皐月あやめ
第1話 赤ペン令嬢
目の前に差し出された書類を一読し、ルーチェは小さく息を呑んだ。
――誤字だわ。
この
そして、よりにもよってこんな状況で、「間違い」を見つけてしまう自分も――ルーチェは自嘲気味に苦笑した。
光魔法が揺れるきらびやかなシャンデリアの下、色とりどりのドレスや礼装が華やかだった。王立学園の卒業生たちは、みなそれぞれにエスコートの相手がいて、寄り添い合っている。その視線の先――ホールの中央、緋色のドレスのルーチェの隣には、誰もいない。そして、その目の前に立ちはだかるように立っているのは、この会場の中でもひときわ目立つ一組の男女。ジェレミア第三王子と、伯爵令嬢のモルガーナ・グリージオ。
本来、王子の隣に立つのは自分のはずだった。
金の刺繍糸をふんだんに使った礼装を身につけたジェレミアは、眉を吊り上げてルーチェに右手を突き出す。淡い琥珀色の瞳がぎらりと光った。
「ルーチェ・スカルラット!! 今日この場で貴様との婚約を破棄する!! 貴様の罪、覚えがないとは言わせないぞ!!」
その言葉にルーチェは口を開きかけて、しかし何も言わず、スッと書類を指差した。署名台を掲げ持っていた書記官が、びくりと身体を強張らせる。書記官を
「ジェレミア殿下。お
「なっ――!!」
ルーチェの指摘に会場はざわめき、ジェレミアの顔は赤く染まった。彼の隣にぴったりと寄り添っていたモルガーナが、大げさに口もとを覆う。
「あらまあ、こんなときでも
『赤ペン令嬢』――その呼称に、会場に小さな波紋が広がった。ルーチェは片眉を上げる。
「彼女はなんてふてぶてしいんだろう……可愛げのない」
「公の書類の不備を指摘するなんて、不敬ではないのかしら」
「スカルラットの
その声が聞こえたのか、ジェレミアの唇が勝利を確信したようにわずかにつり上がり、顎で書類を指す。
「ふん、全く反省していないということはわかった。常日頃から逐一俺の書いたものに赤を入れるばかり……この期に及んでも、この公の場でまだ俺の顔を潰すような指摘をするとは、そんなに俺の体面を潰し、自分の知識をひけらかしたいのか。結局、お前は他者の粗探しでしか自分を立てられない女だ!」
(公の場でわたくしを
ふう、とため息をついたとき、ドン、と重い音がホールを揺らす。上段の王族席に座っていた王妃が、手にした
「もう結構です。ルーチェ・スカルラット。ジェレミアを危険に
有無を言わさぬ威圧を込めた言葉にひるむことなく、ルーチェは、王妃に向けて
「……仰せのままに」
書記官が署名用の羽根ペンを差し出そうとしたが、ルーチェは静かに首を振る。そして結い上げた髪に指を差し入れ、挿していた銀の
ルーチェはペンに魔力を込め、署名欄にさらさらと自分の名前をつづっていく。書き終えると、静かに顔を上げ、書記官へ視線を向けた。
「……こちらに。後ほど、『
満足げに笑う王子とモルガーナを一瞥したのち、ちらりと周囲へ目を配った。
好奇、嘲笑、侮蔑、
思わず目を留めると、背の高い細身の男性が、ただ真っ直ぐにルーチェを見ていた。社交の場でも見たことのない人であったが、月の光を宿したような銀の髪が鮮やかな印象としてルーチェの目の奥に残った。
そのとき、ジェレミアがモルガーナの手を取り、勝ち誇ったように声を上げた。ざわついていた会場が、すっと意識を移す。ルーチェもまた、静かに前方へ視線を向けた。
「モルガーナ。もう君に肩身の狭い思いはさせない! 俺の真のパートナーは君だということを、このホールの皆が認めたことだろう!」
周囲の関心は自然とルーチェから離れて行き、喧騒は別の方向へ流れていった。
――ああ、もう、私はここにいるべきではないわね。
ルーチェは流れた髪を指でサッと整えると、ひとつ呼吸を整える。背筋を伸ばし、カツカツとヒールの音を響かせながら、ホールの出口へと歩を進めた。
ルーチェは振り返らなかった。
だから、ただひとり……遠くから彼女を見送っていた銀髪の男の視線にも、気づくことはなかった。
――数刻後。
ルーチェは、父の執務室の扉の前でそっと息を吸った。
華やかなドレスからは着替えたけれど、先ほど会場で浴びた無数の視線が、まだ肌に残っているようだった。
「お父さま、ルーチェが参りました」
そっと扉を開けば、そこに待っていたのは厳しい父のまなざし。
「わかっているな、ルーチェ。間違いを犯した者をスカルラットの家に置くわけにはいかない」
ルーチェは、きゅっと唇を引き結んで神妙に頷いた。
「……ええ、承知しております、お父さま」
父の古椅子がギィ、と軋む。歴代の当主に受け継がれてきた重厚なその椅子は、スカルラット家の歴史そのものだった。
父がルーチェの目を真っ直ぐに見据える。
「何か弁明することはあるか」
ルーチェの瞳がわずかに揺れ、視線を下に落とした。
「……いいえ。わたくしが間違っていなかった証拠を提示することもできませんから」
「ならば、話は終わりだ。卒業後、宮廷魔導院の魔導書制作部に配属される予定だったな。宮廷侍女用の寮に空き部屋があるそうだ。すぐに荷物をまとめて移りなさい」
「はい、お父さま」
深く礼をして、視線を下に落としたまま後ろにさがる。
執務室の扉を閉めた瞬間、ルーチェはそっと手を胸に当てた。深く息を吐くと、いつもの廊下がひどく広く感じられた。
「お嬢さま」
振り向けば、ばあやのオルガが立っていた。
長年仕えてきたその瞳は、叱責でも
「ばあや……」
「お側を離れるつもりなどございませんよ」
ルーチェの喉がかすかに震え、こくりと頷く。
「……荷造りを、手伝ってちょうだい」
「もちろんですとも。さあ、お部屋へ参りましょう」
視線を廊下の先へ向けたとき、オルガの背後に大きなトランクを持った少女がひとり立っているのに気がついた。持ち手をぎゅっと握り締め、不安げにこちらを見つめている。
「ばあや、彼女は?」
「カーラと申します。私の判断で連れてまいりました。少し不器用ですが、真面目で、働き者です。きっとお嬢さまのお役に立てるはずですよ」
紹介された少女は慌てて頭を下げた。
「る、ルーチェお嬢さま! わ、わたし、本当にがんばりますので……どうか、おそばで働かせてください……!」
ルーチェは小さく瞬きした後、淡々と、しかし僅かにやわらかく彼女に声をかけた。
「……よろしくお願いね、カーラ」
自室で荷物を整理する。ばあやには「必要最低限の服」をまとめてもらい、自分は机の周りのものに手をつけることにした。
ぼろぼろになった古エルフ語の辞書も、気持ちを預けてきた鍵付きの日記も、肌身離さず持ち歩いているペンも――絶対に必要なものだから、迷う余地などなかった。てきぱきとカバンに詰め、不必要なものは残していく。社交界で必要とされた宝石の輝きは、今の自分には重いだけだった。高価なレターセットも、銀のブックマーカーも置いていく。
机の一角に並んだ本の背表紙に、ふっと視線が吸い寄せられた。古びた藍色の装丁──角はすり減り、銀の文字はところどころ剥げている。何度読み返したかわからない、詠唱魔法の物語。
胸の奥が少しだけ温かくなって、ルーチェはそれを迷いなくカバンに入れた。
そうして最後に、部屋の奥――無言で
真新しい、白を基調にしたシンプルな仕事用のドレス。すっきりと上品なAラインの腰には革の細いベルトがついていて、袖口は、文官として作業しやすいように少しだけ絞ってあった。その内側にほんの少しだけ、スカルラットの緋色が覗いている。
「……これも、持って行きます」
その言葉を合図にするように、オルガは静かに近づき、ひざを折ってドレスを丁寧に抱き取った。その後ろから、ぱたぱたと小さな足音がついてくる。
ルーチェはその気配を背で感じながら、カバンの留め具をぱちりと閉じた。
カツカツとヒールの音を響かせて、ルーチェは屋敷の門を抜けた。その最後の一歩を待っていたように、重々しい音と共に門が閉じられる。
ルーチェは深く息を吸って、手持ちのカバンをぎゅっと抱きしめた。その中には、あのペンも入っている。
(ここから、新しい一歩が始まるんだわ)
背筋を伸ばし、ゆっくりと歩き出す。
曇り空のすき間から、かすかな光がこぼれていた。
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