8-1 珍しい転校生(前)
魔法学校では、転校生は珍しくない。
だが、今度の転校生は極めて珍しかった。
王立魔法学校の生徒である限り、王国の各地に設置された他の魔法学校に籍を移動することは容易い。10年もの間、周りの環境が全く変わらないということはありえない。家族の事情、本人の事情、もしくは学校の事情……理由は十人十色だ。
しかし、唯一特別の試験なしでは転入することのできない魔法学校がある。
王都に存在し、もっとも歴史があり、もっとも権威を持つ、中央魔法学校。入学こそ難しくはないが、6年生や7年生で進級できない生徒が続出することは有名だ。それを理由に、もしくは地元に帰ってこいと言われて学校を去る者も少なくない。
魔法学校は、卒業すること自体には、思いのほか 価値を持たない。好成績で卒業したからといって、人生の方針が立たなければその先の未来は暗い。数々の試験をなんとかパスしてギリギリの卒業を果たしたからといって、実力が伴っているかどうかはわからない。
この数十年の間、魔法学校という存在に批判的な意見は絶えない。大切な成長期を魔法に費やしてしまえば人間が完成しないとか、そもそも魔法は画一的な反復練習によって得るべきものではない、とか。決して安くない学費をとって、大して成長せずに帰ってきた親の気持ちを代弁する者もいる。
そして、そういった批判の的になるのはやはり、中央魔法学校なのである。
確かに、魔法が上手く使える者は年々増えている。王国の認めた私塾も発展して、魔法学校以外でも学ぶ機会はある。それでも、魔法教育の根幹を握っているのは、中央魔法学校には違いない。その精神を揺るがすことは、王国に楯突くことにもなる。
そんな、夢のある魔法という存在を、こうもつまらなくする現実なんて、知らなくていい。どんな事情があっても、転校生の初日は幼い子どもにとっての大舞台であり、これまでにないほど緊張するものだ。それを精一杯歓迎してやることだけが、教師としての役目なのだ。
「自己紹介できる?」
トット先生は、できるだけ優しい声で言う。
「エード……ナディル・エードと、いいます。ダンピエ校から、転校してきました」
ナディルはしんと静まり返った教室でようやく聞こえるような、小さな小さな声で名乗る。長い髪が揺れる。
シロクには、それが男なのか女なのかもわからない。それ以上に、人間であるのか、と疑う。
そして隣で見守っていたトット先生のほうを向くと、ちらりと尖った耳が見える。それは、人間のものではない。
シロクだけではない。教室中の生徒が、それがエルフであると理解した。
もう、ナディルの声が教室に聞こえることはない。
シロクの後ろに、見覚えのない空き机が増えていることと、ようやく合点がいった。
ナディルは近くで見ると、さらに人間味に欠けた美しさだ。シロクの最大限の表現で言い表すならば、それは魔法そのものかのようであった。もちろん、耳以外はなにも人間と変わったところがない。
「はじめまして。よろしくね」
思いの外 積極的だし、普通の声量で驚いた。
「よろしく。シロクって呼んでくれ」
たんに人前で話すのに緊張していただけだったのだろうか。
トット先生が軽く手を叩いて、注目を集める。
「本当はもっとナディルさんのために時間を取りたいのですが、今日は少し時間が押していますから、明日にします。では授業に遅れないようにしてくださいね」
そう言うと、あっさりとトット先生は教室を去ってしまった。彼女は担任を持ちながら、学校職員的な仕事も引き受けているせいでいつも忙しそうにしている。特に、冬の休暇が終わったこのごろでは、たまっている仕事も多かろう。
シロクがそんなことを考えるのは、ナディルの世話を投げられたと自覚しているからだ。
「次の授業の場所、わかる?」
「ううん。なにも持っていないし……どうしよう」
「杖がある。それでなんとかなるだろ。とにかく着いてきて」
広大な魔法学校の中でも、教室からの移動距離の長い授業の前は、遅れないようにと慌ただしい。担任も、朝の話をすぐに切り上げるのはそれを理解しているからだ。
3年生に上がってから始まった「中級防御魔法」という授業は、別棟の中庭という極めて行きづらい場所で行われているために、秋のころは誰もが迷って半分も授業にならなかった。ただ、それは毎年のことのようで、教授も秋の間は仕方ないと許してくれた。でも、冬休暇が終わってしまえばその言い訳はできない。
「素晴らしい。正直言って、今日くらいは許してやろうかと考えていたんだがね。しかしこうして無事冬を明かし、生徒諸君が欠けることなく時間通りに揃った。そしてどうやら、一人増えたみたいだね」
中庭は日光がよく入って明るい。それに、ずいぶんと過ごしやすい気温になった。そして、いつになく上機嫌なフルーリー教授は、ナディルのほうを見ている。
「見たところ杖があるようだから、何も困ることはないよ。ただなにかあったらすぐに言いなさい」
ナディルはこくりと頷いた。
「さて、君たちは長い間、防御魔法について学んでいる。魔法は願いの具現化であり、それは攻撃と防御の歴史でもある。魔法学校で危険なく学ぶには、どうしても防御魔法を習得することが必要であると、最初の授業で話したことは……忘れてしまったかな?」
まだ3年生……多くが12歳かそこらの年齢である。冬休暇はめいっぱい遊んで、授業のことなど忘れてしまうなんてよくあることだ。フルーリー教授はそれをよく知っている。
シロクは冬休暇で、家族のもとに帰った。とはいえ、王都の近くだから気楽なものだった。地元の友達にも会って、彼らは魔法とは無縁の生活をしていた。
魔法学校で生活していると感覚がおかしくなるが、魔法使いはいつでも世の中の少数派だ。魔法は人間には使えないと思っている人だっている。見かける人間全員が魔法に関わりがある世界であるここが、一番おかしい。
それに、トット先生も「休暇は魔法と距離を取る時間でもあります。世界は広い。魔法は誰もがいつでも始められるし、いつでも辞めることができるのです。自由を忘れないでください」と言っていた。シロクはその言葉をすべて理解できたわけではない。でも、授業のことを忘れてしまってもいい。そんな励ましのメッセージのようにも感じる。
「今までの他の授業でも扱ってきたことだろうと思うが、よい魔法使いは自分自身をよく知る。それは地道な修行にならざるを得ない。もしかしたら、華のある攻撃魔法を待ち望んでいる者もいるかもしれない。しかし、決して足を踏み外してはならない。自分を守れないのでは、魔法使いにはなれない。この時間を決して無駄にしないように」
何度も聞いたことだ。10年の魔法学校のカリキュラムの中で、4年生までは攻撃魔法を一切学ばない。その上、攻撃魔法が使えないように制限された杖を支給されている。上級生が攻撃魔法を学ぶ姿を見ると、どうにも憧れてしまうのはシロクも例外ではない。
ただ、未熟なまま攻撃魔法を行使することの危険性は嫌と言うほど聞かされている。一流の魔法使いかは、防御魔法でわかる。そんなことも言われている。
「では、二人一組になって。干渉魔法を行使するときには、必ず相手方の準備を確認することを忘れないように。もし、心配ごとがあればすぐに伝えなさい」
今日、誰も休んでいないことと、ナディルの存在を考慮すれば、クラスの人数は奇数だ。このままなら、誰かが余ってしまう。
いつも組んでいるローファンのもとに行ってみる。
「なあ。ナディルも入れていいか」
「エルフの子? もちろん」
意外にもすんなり受け入れた。ローファンは優秀だから、この演習はそこそこできれば十分だと思っているというのもある。
とはいえ、三人同時にやることはできないから、順番に二人一組になることにする。地面に置かれた目印に沿って、10歩ほど離れ、ちょうど時計の置かれている側が防御魔法で、反対側が干渉魔法となる。互いに危険な魔法を行使し合うことのないような工夫だ。
干渉魔法とは、防御魔法のみに作用する、攻撃魔法のようなものだ。この魔法で負荷をかけることによって、防御魔法の維持を困難にする。それによって、防御魔法の精度を上げていくというものだ。
ナディルが遠慮するから、ひとまずはじめは、ローファンが時計台のほうに向かった。シロクが干渉魔法を行使するのだ。
シロクがはじめに、杖を持たない左腕を大きくあげる。そして、ローファンも準備ができたことを知らせるために、腕をあげる。彼の手が頂点に来るかこないかのうちに、防御魔法が展開されたことがわかる。黄色みのある白い光で、魔法陣が展開されている。
それに向かって、シロクは干渉魔法を放つ。干渉魔法のほうは簡単だ。専用の杖だから、手首を右に軽く捻るだけでいい。
干渉魔法は電気のように空中を移動して、防御魔法を食うように襲うが……その力はやがて吸収されて消える。これで、シロクの役目は終わりだ。
このあと、ローファンは展開している魔法陣を、10秒間維持できなければならない。それが、冬休暇直前のテストの内容だった。
彼は優秀だから、すんなりとクリアするのだが。
「相変わらずすごいな。最後まで全くぶれてない」
「ありがとうな。でも、30秒ができないんだ。どうしても腕がだるくなって集中を乱される」
それは肉体的な「筋力」ゆえんのことではない。魔法を行使し続けることは、このようにして魔力を消耗することなのだ。そして、30秒は、およそ半年後に迫る、夏休暇前に行われる試験の合格ラインだ。
「…….ナディル、こっちやりなよ。君の魔法を見てみたいな」
ローファンはそう言った。順番どおりならば、シロクが防御魔法を、ナディルが干渉魔法を……のはずだった。だから、ナディルは不意をつかれたようにたじろぐ。
「ほら、杖があるんだから」
ナディルに準備完了の合図だけを教えて、半ば強引に時計台のほうに向かわせた。
シロクは同じように、手をあげる。
風は、全く吹いていなかった。けれど、ナディルの長く白い美しい髪の毛が、なにかに操られるように、なびいた。
ナディルが杖を構えた。それだけで、シロクは無意識に、後退りしてしまった。人間ではない、まるで魔法そのものであるような感覚……その表現は決して間違ってはいなかったのだ。
ゆっくりと、ナディルが右手をあげる。魔法陣は、シロクが知っているすべての色の中で、もっとも純粋な白色を帯びていた。魔法陣のサイズも、光の太さも、その構造の複雑さも、すべてが違って見える。
こんなものに干渉魔法など打とうものなら、むしろこちらが飲み込まれてしまうのではないかとさえ思った。シロクは、防御魔法に対して、命の危険を感じている。
それでも、ただ右手首を傾けるだけの簡単な動作であったから、なんとか行使することができた。干渉魔法も、白色だったはずだ、なのに、それがひどく汚く濁っているように見える。そんな穢らわしいものを、ナディルの魔法は赦し、包み込み、一部にしてしまった。
その後には、むしろ干渉魔法によってより強固になったようにさえ見える。
「1分保てば、最高評定がもらえるらしい。試す意味はないかもしれないが……」
「わかった」
ナディルはそう言った。
その光景を見ながら、シロクはただただ心の中で数えていた。時間が経つのを感じることでしか、自らの存在を確認できないほどに圧倒されている。
それが30になるとき、一本のひどく黒い光線らしきものがナディルの魔法陣を穢す。シロクのときとは違い、なんとか混じり合って、白が灰色になりかけている。
シロクの隣には、フルーリー教授がいた。見たこともないくらい険しい顔をしている。
「ナディルくんと言ったか
―――――
――――――――」
教授は、シロクには理解できない音声をナディルに放った。それを理解する反応をして、ナディルは魔法陣を崩壊させた。
「シロクくん。君の番だ」
「はい」
なにが起きたのか、聞くことはできそうになかった。
シロクの相手をしたのは、ローファンだった。どうやらナディルの杖は学校で配られているものとは違って、干渉魔法を行使する機能はないらしい。そうでなくても、この状況でナディルを相対することができる気分ではないのだが。
冬休暇前のテストとあまり変わらず、10秒なんとか届いて魔法陣は消滅した。とはいえ8秒くらいの段階で、すでに小石を軽く投げたくらいの威力の攻撃魔法さえも防げないものに成り下がっている。
「ナディル、すごいな」
それが精一杯の言葉だった。
「ごめんね」
そう返されるとは思っていなかった。
「なんで謝るんだ」
「シロク、すごく怖がってた。私、とんでもないことをした」
今にも泣きそうだった。長寿のエルフは、感情の起伏が薄い。そんなことを聞いたことがある。だから、涙を流すこともそうそうない。
そうじゃなかったのか。
そこにいるナディルは、どこまでも人間らしい。ぐちゃぐちゃになった顔は、それでも美しいけれど、畏怖するような存在ではないことは確かなのだ。ただ対等に、居続けるべきだ。
確かに、シロクはナディルの魔法に圧倒された。でもそれは、単なるナディルの一面に過ぎない。心まで、そういうわけじゃない。
「ナディル、教室に戻ろう」
「……うん」
「それで、次の授業を受けよう。俺が、教科書を見せてやる」
「あり…が……とう……」
「だから、泣くな」
「……わかっ……た」
それは自己紹介で聞いたような、ひどく小さな声で、周りは決して静寂ではなくて騒がしかったけれど、シロクはしっかりと聞き取っていた。
ナディルの笑顔はそう例えるならば……この世で最も美しい魔法のようだった。
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