2 新生活と手紙

 遠い旅に出るところだった。いってらっしゃいの声が震えている。珍しく父親が起きていて見送ってくれている。


「生活が落ち着いたら、簡単でいいから手紙を送ってきてちょうだい」


 この母親の言いつけだけは決して忘れまいと、ジェスは密かに誓う。ありきたりな小鳥のさえずりも、小さな見習い魔法使いの門出を祝しているように聞こえる。


 魔法学校はふつう、10歳に入学することになっている。極めて稀有な才能を認められない限りは、それより年少で入学が許可されることはない。逆に、よほど出来が悪くない限りは、10歳入学を拒否されることもない。


 ただ、地方で静かに暮らす庶民にとっては、高い学費をすべてはとても払えない。だから多くの受験生は、成績上位者に対する特待制度を狙う。彼らにとっては、試験にただ合格すればいいという話ではなくなっている。


 さてジェスはというと、「10歳入学B特待」という、半額が免除される特待生に選ばれている。つまるところ彼は有望な魔法使いなのだ。幼い頃——今も十分幼いのだが——から剣技を学び、魔法は村に一人しかいない近寄りがたい魔法使いのもとを熱心に訪れて学んだ。お下がりの杖は今にも折れそうだが、なんとか修復してひとときも離さぬ相棒となっている。


 ジェスはどうやら同じ年代では、平均よりも少し優秀であることを、なんとなく自覚していた。だからすぐに親元を離れた寮生活にも慣れるだろうと考えていた。しかし、その読みはあまりにも軽率なものだったと知る。


「これから編纂魔導書を配ります。一人一部を取って回してください」


 入学式の翌朝、新鮮な教室では誰もが緊張を隠しきれないクラスメイトたちが、担任たるトット先生の指示に忠実に従っている。編纂魔導書とは、魔法の教科書のことだ。この配られた編纂魔導書の内容をマスターするのが目標。単純明快だ。


「みなさん行き渡りましたね。早速ですが、目次を軽く見てから第一章に入りたいと思います」


 目次を軽く読み流せば、この魔導書がどのような構成であるかはすぐにわかる。


 はじめての魔導書は、優しい言葉で書かれている。読み書きが得意ではないジェスも、これならばすらすらと読める。


「魔法は、望みを叶えるためにあります」


 ざわめく教室がしん、と静まり返る。トット先生は生徒たちを見渡した。軽く首肯したあとで、続ける。


「いかに魔法を巧みに使うことができるかは、その望みにかかっています。ぼんやりとした夢であってはなりません。裏腹であってはなりません」


 教壇に置いてあった地味だが美しい杖を、洗練された所作でおもむろに掴み上げる。思えば、村の魔法使いに出会ったあとで、ジェスは新たに魔法使いに出会ったことがない。入学試験では他の人のことは気にしていなかったし、まだ皆魔法使いの卵である。対してトット先生は、そのオーラから間違いなく一流の魔法使いである。


 杖の先から淡く光る緑の粒が、少しずつその明るさを増していくのが見えた。


 粒たちはまとまって、だんだん一つにまとまっていく。


 トット先生が杖を向けるのは、窓を隔てた先の蕾を抱えた木々である。木の粒は、ゆっくりと杖を離れて、蕾を見つけては嬉しそうに寄り添う愛くるしい生き物のように動く。すると蕾は、ぽっ、と音の聞こえそうな軽快な挙動で、きれいな花を咲かせた。


 窓際のとある女の子が、つい「わあ」と声を出した。その瞬間、緊張が緩んだ。誰もがその景色に釘付けだ。


「まっすぐな気持ちを、大切に育ててください。そうすれば、どんな願いも叶えることができます。今日の課題は、自分の望みや願いはなにか? 考えてみてください。多くの人が、これからの新しい生活に思いを巡らせていると思います。


 そして、君たちにある魔法研究者の言葉を紹介します。偉大な魔法使いとは、無邪気な夢想家である——改めて、入学おめでとう。君たちの10年後を今から楽しみにしています」


 昼過ぎに1日の授業が終わり、広大な魔法学校の敷地に点在する寮の一つで、ジェスは寝食をともにする仲間と初めて出会う。中央魔法学校の所在する王都に訪れて数日が経ったが、今までは近くの宿で孤独の夜を明かしていた。それはそれで彼にとって新鮮味のある経験だったけれど、初めから寮での生活を想像していただけに今日という日が待ち遠しかった。


 魔法学校を囲む塀の中であることは変わらないのに、指定された寮は決して近くはない。初めての授業で、トット先生が咲かせた花が、たくさんの枝の中に垣間見える。それで課題のことを思い出した。鞄の中から編纂魔導書を取り出して、ぱらぱらと中身を読んでみる。意味のわからない言葉がちらほらと見える。


 そもそも、ジェスが魔法に興味を持ったのは、彼の覚えている最も古い記憶にあった。


 今となってははっきりと思い出すことはできないが、たいそう背の高い、男か女かもわからない、というより人間であったかも怪しい魔法使いが村に立ち寄った。村の人々は恐れおののいて、「それ」が敵にならないようにと、必死にできる限りのもてなしをした。「それ」は村長にだけは少ない口数を費やしたが、村長の方はというと、いつも二つ返事で受け入れているだけのように見えた。


 その夜、ジェスは村のほうで、かすかに不思議な音を聞いた気がして、無意識に家を飛び出した。村人がよく使う川辺のほとりで、「それ」を見つけた。絶え間ない川の流れに杖を向けている。何をしているのだろう、とジェスは気づかれないようにその姿をじっと眺める。月明かりだけが、真っ暗な村を照らしてはいるけれど、「それ」の手元は依然としてよく見えない。


 見える月の位置が変わったことに気づくほど、長い時間が経った。「それ」は月のほうを向いて、そして立ち上がり、川辺を去った。結局、ジェスにはなにもわからないままでいた。寝ている両親を起こさぬように、寝床へ戻った。


 翌日の朝になって、何事もなかったかのように、ジェスは村人たちが群がるところに行った。同年代の子どもたちも野次馬のように集まっている。「それ」がどうやら帰るらしい。せめて人間であったのか、彼は知りたくて近づこうとしたが、小さな子どもの身体では満足に見ることができない。どうしようかと思っているうちに、気づいたら「それ」は、ジェスの前に立っていた。少しの間のあと、ジェスに合わせるようにかがんだ。ジェスは驚いて後退りする。


「私のことが、気になるのかな」


 中性的で、機械的な声が響いた。多くの村人が初めて声を聞くから、誰もが黙っている。ジェスはうまく言葉を紡げないから、ただ頷くことしかできない。


「では、魔法使いになりなさい。そして願いを叶えるのです」


 村長が「それ」にとっていた、ある種、絶対服従のような態度からは想像つかない物腰の低い口調であった。


 ジェスはこの日のことがあって、村のはずれで静かに暮らす、ただ一人の魔法使いのもとを尋ねたのだ。あの夜に、「それ」がなにをしていたのかはわからなかった。唯一知り得た村長も、今は尊き空の星に数えられている。


 もし願うならば「それ」に再会して、あの夜のことを聞いてみたい。ただそれは、一人前の魔法使いにならなければ意味がないような気もするのだ。そのためには、目の前の課題に向き合わなければならない。その課題とは――。


「ああ、もうどうしたらいいんだよ!」


 頭を抱えてそんなことをつぶやいていたら、校舎とは少し毛色の異なった建物が見えてくる。入口のそばには空想の植物が描かれていて、ジェスは自分の所属する寮であることを確認した。


 玄関の重い扉を開けると、ジェスは新品の制服をまとった一人の女の子が、あたりを見回しているのを見つけた。彼と同じ新入生であることはまず間違いがないと思った。


 声をかけようかと迷っているうちに、せわしない寮母たちがふたりの存在に気づいた。


「新しい子かしら? ええと、これね。今は手が離せないから、説明書きを読んでね。ひとまずやるべきことは荷物を置いて夕食の時間に遅れないこと。挨拶はそのときね」


 そんなふうに言うと、ジェスに一枚の手書きの紙を渡して、寮母はさっさと行ってしまった。そこにはびっしりと文章と図が記されている。ジェスは魔法のことならまだしも、知らない情報で溢れた長い文には慣れていない。


「ええと、ろう、か、を……」


「廊下を進んだ突き当たりが階段で、2階が男子、3階が女子の部屋。食堂は玄関の近くの流しのほうに進んで、道なり」


 後ろから覗いてすらすらと音読するのが聞こえる。女の子のことをすっかり忘れていたから、ジェスはわっ、と驚いてしまった。


「俺、あんまり文字が読めないんだ」


「そうみたい」


「あ、ああ。だから読んでくれないか」


「うん」


 一通りを音読してくれて、図を照らし合わせれば難しいことは言っていないことがわかった。


「ありがとう。お礼ってわけじゃないけど、その荷物。俺が持って行くよ」


 女の子は大きな手提げの鞄を二つも持っているようだった。もはや彼女自身を超えるのではないかとも思えるサイズだった。


「それは、魔法でということ?」


「いや、そういうわけじゃねえけど」


「ならば大丈夫。ほら、こうすれば重たくないわ」


 右手に持っていた杖を振り上げたら荷物がゆっくりと宙を舞い、歩くスピードについてまわる。


「そう、だな」


「あなたのも、一緒に持つ」


「ありがとう……」


 すでに同じように、彼女の手中にあるのだから今更断ることもできない。


 階段を一つ登ったら、ジェスの荷物を静かに床へ降ろした。その挙動さえも綺麗だなと思った。ジェスにもこの魔法が使えないわけではなかった。ただ荒削りだから、まだ建物のつくりもよくわからないこの場所で、重い荷物を浮かせることは危ない。だが彼女はそれを完璧以上にやり遂げているように、彼なりに感じる。


「助かった。特に、読んでくれたこと。君はとても、優秀なんだな」


「……あなたはこの荷物を魔法なしで持ってきた。それだって、素晴らしいことだと思う」


 彼女はどこまでも大人びていたけれど、どこか未熟な人間を感じられる。この新生活への緊張とか不安とか……初めて彼女をみた時に、確かに感じたのだ。それに気づくと少しだけ安心できる。


 食堂にいるのは誰もがジェスよりも上級生であり、唯一の例外である女の子は、隣の席で静かにしている。周りを見渡す限り、十数人がいる。


「新しい仲間が、二人増えました。少し自己紹介できる?」


 どうやらジェスが先にすることになりそうだ。


「ジェス・シュトールです。ついこないだ田舎から出てきて、王都のことはよくわからないので……ええと、よろしくお願いします!」


 明るいマッチョな三人衆が歓迎の声を上げてくれる。


「エトーレ・ルリア、です。こういうのはあんまり慣れてなくて、何を話せばいいかわからなくて……」


 もう、彼女は目を回しているようだ。ジェスだって、大して上手くいったという気はしていない。そこまで緊張することはないのに、とは思うけれど、難しいことだ。


「こいつは…..エトーレは俺の重い荷物を魔法で運んでくれた! だからきっと、すげーやつなんです!」


 やけくそだ。この場を助けてあげることなんて、さっきのお礼になるとは思ってはいない。


 今度は、いかにもお嬢様の雰囲気を醸している二人――あまりに似ているから双子なのだろう――は、「すごいわね」などと顔を合わせて驚いているのが見える。


「はい。ありがとう。では精霊への感謝を忘れずに」


「「いただきます!」」


 夕食が終わったあと、多くの男子がジェスのもとに、多くの女子がエトーレのもとに集まっていった。そんな群れは次第にかき混ぜられていって、結局二人を中心として、自分のことを話したり、逆に二人に質問したりと、忙しい時間を過ごした。エトーレのほうは、周囲が相当に気を使ったので、少しずつ話せるようになっていった。


 ジェスが剣技をそれなりにできることを話すと、シルエットが明らかに大きい、例のマッチョが興味を持った。しかし寮母が食堂の掃除をするからと出ていかざるを得なかった。そのまま一人の部屋で寝るというのもどうかと思ったから、ジェスは彼らの部屋で話をすることにした。


 エトーレはやはり慣れないようだったが、ローラという名の、ずいぶんと大人びた女子生徒に懐いた。今にも眠ってしまいそうだったから、ローラは彼女の手を引いて、階段を登っていってしまった。


 結局、ジェスにも眠気が押し寄せて、マッチョたち――ケソ、テノ、ヴィダルという――がそれに気づくと、屈強な前腕でお姫様抱っこをしようとした。それに気づいて、ジェスは必死に断って部屋を出た。


 ふう、とベッドに一息つく。なんとか眠い目をこすり、シャワーを浴びて部屋に戻ってきたジェスは、ひとつ、やらなくてはならないことを思い出した。


「本当は寝てしまってもいいんだけど、な」


 旅の途中で買った便箋を取り出す。備え付けの文房具を手に取る。家を出てからほんの一週間なのに、言いたいことはたくさんある。でも、文章を書こうとすると、手が止まる。それでも、わかる言葉をゆっくりと紡いで、間違っていてもきっとわかってくれると信じて――。


「愛する母さん 父さんへ


 元気です。魔法学校にはいろいろな人がいます。


 あこがれの人ができました。


 これからがんばります


 ジェス」

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