埼玉県のとある繁華街のブラック企業飲食店の人間模様

渡辺雅紀

埼玉県のとあるブラック企業飲食店の人間模様

前書き  この物語は、埼玉県のある繁華街に実在する寿司いし川と、同じ会社で同じビ

ルの同じフロアーに併設する鉄板焼きステーキ店南風をモデルにした物語である。寿司屋

の大将を始め、個性の富んだキャラクターの従業員やアルバイトを、描き書かれたもので

ある。

目次

1 登場人物の紹介

2 私が若い頃経験した飲食業界

3 飲食業界に戻ろうとした理由

4 立山との始めての対面

5 山田と始めての二人で飲んだ日

6 ラウンジのももちゃんが来店

7 入社して慣れた頃

8 再び山田と飲みに行ってのぼったくり事件

9 アルバイトとの交流

10 社会保険の保険証が会社から貰えない

11 仕事終わりの寄り道

12 近所の店で山田と飲み歩き

13 山田の身勝手な行動

14 徳島の退職と私の入院

15 私の退職宣言

16 クリスマス準備とクリスマス

17 クリスマス以降の年末も忙しい毎日

18 母親が新型コロナウィルスに感染

19 退職後

20 入院そして手術

21 リハビリの毎日

22 リハビリ専門病院への転院

23 退院後

24 いよいよ職場への復帰

25 立山に鉄板を本格的に教わる日々

26 羽目を外し過ぎたキャバクラ通い

27 山田が暴力事件を起こす

28人事異動とグループ会社の変更

29結局山田は書類送検されるが不起訴に

30会社の組織的脱税方法と税務局への通報

31みんなからとのお別れ

1これから、この物語の登場人物を紹介する。大将、山田裕之 若い頃から寿司職人に向

いていたみたいで、刺身の盛り付けで日本一になり、笹の飾り切りでも全国6位の実績を

持つ。寿司の腕に惚れ込んだ常連客も多く、その分欠点も多く、破天荒な性格と、自称で

はなく本当のロリコンでもある。離婚歴が2回あり、根っからの寂しがり屋でもある。も

うすぐ二十歳になる女子大生の父親でもある。なお、ストーカーの気があるやばい人物。

2 社員大村P 全職は一部上場企業の営業マン。50歳を目の前にして退職し、何故か寿


司職人を目指す。奥さんと二人暮らしだが、アルバイトの女の子に惚れやすいのが欠点で

ある。Pの由来は、本当にアル中らしく、自分から「アルPです」と名乗った事から由来す

る。若い頃、ホストをやっていた経験あり。大将の山田からは、「Pちゃん」と呼ばれる

ことが多い。会社が嫌になり、今は調理師会で寿司を握っている。

3 ヤクザの兄貴こと松田 社員ではなく、日給制で給料をもらう準社員的な存在。以前

は社員だったが、一度退職して出戻る時、社員ではなく今の会社での立ち位置を選んだ。

若い頃、キックボクシングのプロ経験があり、大将より年上で角刈りの為、ヤクザの兄貴

と呼ばれている。

4 併設する鉄板焼きステーキ店料理長立山 わずか30歳で鉄板焼きステーキの料理長

になった、若き鉄板焼きのエースでもある。奥さんと5歳の男の子の父親で、涙もろいの

が欠点でもあり長所でもある。私の直属の上司でもある。下の名前から、通称「てるてる

坊や」と大将の山田は呼んでいた。

5 エリアの助っ人岩倉 都内や埼玉の店で人が足りない所にヘルプで入る助っ人。人柄

が温厚なので、大将の山田のお気に入りの一人でもある。私が退職後、私の代わりに専属

で店に入っているようだ。奥さんと二人暮らしで、群馬県に近い所から通勤しているので

、終電を逃して帰れない事も多々ある。最終的には、適応障害を患い退職した。

6 女性アルバイト 水島あゆみ アルバ内の中では一番のベテラン。社員も頼りにする

くらいな存在。何故か年下の男性が好きみたいで、付き合っては別れてを繰り返している

ようだ。社員からは、男運が無い女と言われ、あだ名は汁子ちゃん。お客さんに出す味噌

汁をこぼしたことからそう呼ばれている。今、社会人になり、たまにアルバイトをしてい

た店に顔を出す。

7 女子高生バイトの大林凜 一番年下で、店ではアイドル的存在。大将の山田の一番の

お気に入りバイト。大将いわく、「俺は凜を愛している」とまで言わせる大人びたバイト

。欠点は、当日欠勤や遅刻が多い事。社員も、大林凜が遅刻や欠勤しても、「また凜凜が

来ない」と諦めムードを演出する子である。結局、会社の人間関係に巻き込まれ、」アル

バイトが嫌になり退職した。

6 大学生アルバイト籔内しほ。栄養士関係の大学に通うアルバイト女子。社員の皆んな

から、「しほちゃんが結婚したら、絶対に良いお嫁さんになるよね」と言われる存在。接

客も上手で、将来のアルバイトエース候補。

7 大学生アルバイト兼地下アイドル上田波瑠。背も高くスラッとした美人タイプ。最近

酒を覚え、酒癖が悪いのが欠点。バイトの合間に、鼻歌を歌いながらダンスの練習をする

、マイペースタイプの女の子。

8 大学生アルバイト戸田美咲。東京6大学に通う頭の良い優等生タイプ。だが、精神面

は強く、バイトに入った頃、大将に「ここは葬儀屋じゃ無いんだから、暗い顔をしてバイ

トに来るな」と言われていたが、諦めずにバイトを続けている。後に他のバイトの子に

、「この店に入って、精神的に鍛えられました」と語っていた。

9 専門学校生平田真一。公務員を目指す専門学校に通いながら、寿司屋では無く鉄板ス

テーキ店のホール兼厨房のアルバイト。自称、頭が良いと自負するが、ど天然な性格の持

ち主で、アルバイト唯一の男子。

10 居酒屋店長徳島。近くの系列店の居酒屋の店長で、まだ20代と若いが、昼のラン

チのヘルプに来たり、夜のレジ締めを手伝ったりと、色々な面で貢献している。まだ結婚

して日も短く、幼い子供の一児の父親でもある。iPhoneの待ち受け画面は子供で、家庭を

大事にしている印象だ。徳島も、今は退職して不動産の営業をしていると聞く。

11 社会人アルバイト大山由梨。系列店のアルバイトだが、忙しい時にヘルプに来てく

れる頼りになる女性。私たちの地区の系列店のアルバイトの中で一番の古株で、社員並み

に出勤してくれる系列店のエース。今は、都内の系列店で働いている。


12 国立大学4年生系列店バイト木下鈴。水産会社に就職が決まっているアルバイト。

お酒がやたら強く、男顔負けの飲みっぷりだ。飲み会には欠かせない存在。いつの間にか

仕事をこなしているタイプ。仕事で慌てているのを見た事が無い。

13 系列店鉄板焼き料理長飯塚。ヘルプに来る岩倉曰く、「料理以前に職場を綺麗にし

ない男」と言われており、岩倉は毎回、この店にヘルプで行く度に鉄板磨きから始めると

の事である。

14 このグループ会社の雇われ社長宇佐美。私がこの会社に入社する際に、面接したの

がこの宇佐美だった。面接の時は、物静かで腰の低い社長だと思ったが、いい加減なとこ

ろがあり、大切な用事を電話しても出ず、留守番電話にメッセージを残しても返事が帰っ

て来ないことが多かった。アルバイトには好かれるが、社員からは不満が出ていた。

15 系列焼き鳥店料理長福田 この会社を比較的長く勤務していて、元代表代行経験者で

、色々なトラブルを本社に掛け合ってくれる貴重な存在。仲間を大事にし、平和主義者で

もある。

16 寿司割烹料理長新田 バイトを大切にし、バイトから慕われる人物。福田と同じで

仲間を大切にし、輪を大事にする人物。ただ、人間性に問題があり、社員にはパワハラで

訴えられるような行動をする。

17 キャバクラ嬢ありさ 行きつけのキャバクラの指名のお姉さん。人柄がよく、話し

ていても話題に尽きない接客をする子。私の娘より10歳以上下だが、娘と孫の中間的存

在で、日頃の私を癒してくれる人物。

18 キャバクラ嬢エミ ニュースキャスターに似ている子で、一番付き合いが長いキャ

バクラ嬢。アメリカの大学へ行っていたが挫折して日本へ帰り、再びアメリカ行きを目指

している子

19 この著者の渡辺雅紀。通称「じーじ」入社して少し経った頃、大将の山田が付けた

あだ名。一番年長だった事から、大将の山田が付けたのだ。社員からアルバイトまで、皆

んなが「じーじ」と呼ぶようになった。


2 私が若い頃の飲食業界

正直言うと、58歳の人間が、飲食業界に若い頃携わっていたが、20年以上のブランクがあるので、正社員で就職するのは難しいと思っていた。5社の面接を受けたところ、3社の面接に合格した。これは予想外だった。私が若い頃、某有名ホテルや某有名フランス料理店にいたことがあるが、強い洗剤に素手で触ってしまい、手荒れよりひどい状態になり、いくつもの皮膚科を訪ねた。何箇所かの皮膚科の医師から言われたのは、「あなたはもう水や洗剤を使う仕事は辞めた方が良いですよ」だった。それでも諦めきれず、手に皮膚科の薬やクリームを塗り、さらに薬局で手術用の手袋を買ってそれを手にはめ、一年以上飲食業界に留まった。辞めるきっかけを作ってくれたのは、私が最初に入ったホテルの兄弟子で、最初に入ったホテルのシェフ(料理長)の永田だった。ある日、永田から連絡があり「今、俺が料理長をやっているんだけど、セカンドシェフ(副料理長)として来ないか?」と言われ、私は今の手の状況を永田にこう話す、「今、手が酷い状態なっていて、幾つもの皮膚科に通い、手袋をしながら仕事をしている状態なんです」と言うと、永田は私に、「雅紀、とりあえずうちに来てみて、それでも駄目だったらコックを辞めることを考えれば「と言われ、私は、「そうですね。とりあえず永田さんにお世話になり、駄目だったらコックを辞めます」と言い、飲食業界に最初に入ったホテルへ戻ることにした。ホテルに戻って一ヶ月、私の手は、全く治る見込みが無かった。私は永田に、「永田さん、やっぱり手が駄目です。コックを辞めようと思います」と伝えると、永田が、「コックだけが仕事じゃないし、雅紀は器用だから、他の仕事もこなせるよ」と言ってくれた。一ヶ月という短い期間だったが、ホテルの皆んなに挨拶をし、ホテルを後にして実家に帰った。実かに帰った私は、ある求人を目にする。埼玉県に本社があり、その当時、ファミリーレストラン形式で出店していくスパゲッティを売りにするレストラングループだった。面接に行くと、私は過去の経験と今の手の状態を面接担当に話した。すると、奥から出てきた初老の男性が、「今、うちはどんどん新店舗を出しているから、新店舗の教育係をやってみないか?」と言われた。後で知るのだが、その初老の男性が創業者でもあり社長の北村だった。最初に配属されたのは、群馬県の桐生市の新店舗だった。通勤に車で一時間半、結構辛い通勤だったし、一番辛かったのは、私が本社直属の固定給社員で、残業手当が全くつかないことだった。店舗の準備やアルバイトや社員の教育が終わり、新店舗をオープンさせてから半月くらい桐生に通ったので、トータル2ヶ月位通った。桐生の新店舗をオープンさせた後、すぐに埼玉県狭山市の新店舗のオープン準備が待っていた。新店舗の狭山は、通勤時間が大幅に短縮された。でも、相変わらずの長時間労働で、私は徐々に疲れがピークに達していた。当時、いくら30代の若さとは言え、長時間勤務は身体にこたえた。狭山の店のオープンが近くなると、「私もこの会社を退職しよう」と考える。そして、無事にオープンしてから半月後、会社に退職届を出した。今は少なくなったが、当時の飲食業界は、今で言うブラック企業が多く存在していた。私もその犠牲者の一人だった。飲食店を退職後、私は色々な仕事を経験した。住宅リフォームの営業、建設業の鳶職、派遣会社の社員、建設会社の管理職、派遣会社の取締役員など、色々な仕事を広い視野で見ることが出来た。その結果、出版業界にも足を踏み入れた。3 飲食業界に戻ろうとした理由

飲食業界から足を洗うと、色々な医師が言った通り、手の病気は嘘のように治った。建設業界や派遣業界である程度の地位を獲得し、出版業界では名誉も手にした私は、50代の後半になって人生を振り返った時、飲食業界にだけ未練があったと思うようになった。それと、問題なのが年金。60歳近くなると、将来の年金支給額の予定のハガキが来るのだが、私は、他人と比べてはいないから不明だが、平均より少ない年金額に思えた。なので、65歳で年金を貰わず、70歳まで飲食業で厚生年金と社会保険を掛け、70歳から年金を貰えば、貯金を切り崩して生活しないで済むと考えた。5社面接して、合格した3社の中から寿司と鉄板焼きステーキが同じフロアーにある会社を選んだ理由の一つが、定年の年齢を決めてない事だった。面接をした社長の宇佐美が、「うちは、定年の年齢を決めてないから、働けるなら何歳まででも働けます」と言ったのが決め手だった。しかし、会社に入ると不満や愚痴を言いたい事が多々あるが、それを今言っても仕方がないので、そろそろ本題に入ろう。

4 初めて入社した日。そして、大将山田との最初の出合い

社長の宇佐美から連絡があり、「当社で採用しますので、8月の20日から出勤できますか?」と言われ、私は、「いきなり土曜日で忙しいのだろうな?前の日、新型コロナのワクチン接種だから断ろう」と思っていると、宇佐美から電話で、「無理ですかね?人が足りないので出て欲しいのですが」と言われ、私は渋々承諾した。8月19日、私は予定通り新型コロナワクチンの接種をした。すると、当日の夕方から、ワクチンを打った方の左腕が痛み出した。初出勤の当日の朝、やはり前日のワクチンの影響で、体調はあまり良く無かった。社長の宇佐美から。「土曜日は朝の10時半位に出社してください」と言われていたので、私は、10時15分頃店に着いた。店に着くと、寿司屋の方で誰かがもう仕事をしていた、「すいません。今日から仕事する渡辺ですけど」と言うと、「ごめん、後にしてくれるかな?今、忙しいから。奥の椅子に座っていれば、そろそろ誰か来るからその人に聞いて」と言われた。それが山田との初対面で、私は、「この人とは仲良く仕事出来そうにないだろうな?」と第一印象で思った。今考えると、山田は寿司のシャリを切っていた。(シャリを切るとは、炊いたご飯と寿司酢を合わせる作業) 少し待つと、面接をした社長の宇佐美がやって来た。「待ちましたか?何時頃来ました?」と言うので、「少し前に来ました」と私が言う。すると、「本当は立山という若い料理長が今日から教える予定だったんだけど、本人が新型コロナに感染したから、一週間は、私が教えられる範囲で教えます。鉄板ステーキの基礎は、立山から教わって下さい」と言われ、私は用意されたコックコートに着替えた。コックコートに着替えて厨房へ行くと、社長の宇佐美から、厨房の色々な場所を簡単に教わった。教わった後、社長の宇佐美が、「今日は初日だから、前菜とオードブルとデザートだけお願いします」と言われたが、私は内心、「履歴書にもちゃんと書いてブランクがあるのを伝えたのに、初日から人使いが荒いな」と思っていたが、この後、地獄のような洗い物を目の前にするとは思っていなかった。営業時間になると、土曜日ということもあり、多くのお客さんが来店して来た。店がだんだん忙しくなった時、私は洗い場に誰も居ない事に気づく。私は、「もしかして、洗い物も私にやらせる気?」と思ったが、予感は的中した。居酒屋の店長で、ヘルプに来ている徳島が時々洗い物をしてくれたが、ホールも忙しく、洗い物は溜まる一方だった。そんな時、仕入業社が魚などを持ってきた。しばらくすると、朝、一番に声を掛けた印象悪い男が検品し始めた。検品中、その男は「私が寿司の大将をしている山田です。朝は忙しかったからごめんね。お兄さんも初日から忙しくてハズレひいちゃったね。洗い物は後回しで良いから、オーダー優先で仕事した方が良いよ」と声をかけてくれた。朝とは違い、優しい口調だった。でも、前日のコロナワクチンの副作用で、段々と熱っぽくなってきた。汗をかき、体調の悪そうな顔をして仕事をしていると、魚を下処理していた山田が、「お兄さん、これ飲みながら仕事しなよ」と、コップに入れたアクエリアスを私に渡した。その時に私は、「この人、意外と良い人じゃない」と、朝の印象と違って良いイメージに変わった。ランチの時間が終わり、賄いと休憩時間になった。今日の賄いはカレーライスだった。疲れた私は食欲が無く、皆んなの半分くらいのカレーライスを食べた。カレーライスを食べ終わると、社長の宇佐美が、「今から一時間休憩して下さい」と言われ、私は、空いている客席に座って休憩した。休憩していると、前日の新型コロナワクチンの副作用か、身体が熱っぽくなって来た。休憩時間が終わると、社長の宇佐美が、「渡辺さん、初日からこんなに忙しくてすいませんね」と言われたが、私は心の中で、「この店で働くのは長くないな」と考えていた。夜のディナーの準備に入ると、昼よりも明らかに多い数の仕込みがあった。私は、「昼は前哨戦で夜が本番だな。昼より忙しいってどうなるのだろう?」と考えていた。ディナーの時間が近づくと、居酒屋の店長の徳島は店に帰り、アルバイトが二人交代で入った。朝から働いているアルバイトを含めると、三人で寿司いし川と鉄板焼き南風を回しているようだった。私が見る限り、店長らしい男性はホールに居なかった。夕方5時を過ぎると、一組のお客さんが入ってきた。「いよいよ戦争の始まりだ」と心に言い聞かせ、私は前菜の盛り付けから始めた。すると、次々とお客さんが来店してきて、私は前菜やローストビーフの盛り付けに追われながら洗い物をするといった時間を過ごした、確かに、昼のランチよりはメニューが多いし、ぎりぎりのところで仕事をこなしていた。するとそこへ、寿司いし川の大将の山田が来た。『お兄さん、初日からこんなに仕事をさせられて、本当に人使いの洗い会社だよね。身体が持たないから、冷蔵庫にある飲み物を飲みながら仕事しなよ』と言って、寿司のいし川の方へ帰って行った。もしかすると、初日の私を心配して様子を見に来てくれたのかも知れないと思った。時間が経つと、私の思い通りに洗い物の山になっていった。社長の宇佐美は、「洗い物は後で皆んなでやるから、オーダー優先で仕事してください」と言ったが、グラスや皿の絶対数が足りないので、ホールのアルバイトから「ビールのグラスが足りません」とか、「ハイボールやワインのグラスが足りません」と声が掛かり、オーダーだけこなす事ができず、グラスを何度も急いで洗っていた。私は心の中で、『専属の洗い場くらい雇えよこの会社は』と思っていた。社長の宇佐美と面接をした時、店もそんなに広くないし、忙しい時があっても大丈夫だろう?』と思っていた私の考えは、仕事初日で覆がえさせられた。お客さんも徐々に帰り、厨房が少し落ち着いたと思って掛け時計を見ると、もうすでに夜の10時を過ぎていた、厨房の片付けが終わる頃には、夜の11時になっていた。私は、「残業で稼げるからいいや」と思いながらも、「この会社で働くのは3日持つかな?」という不安も抱えていた。この時、『残業で稼げるからいいや』と思った私の気持ちは、後日、皆んなとの何気ない会話から誤解をしていた事に気付く。仕事が終わると、寿司のいし川の大将の山田が、「お兄さん、今日は本当に大変だったけれど、明日も元気に仕事に来てね」と言われた。初日でこんなに忙しかったので、私が1日で辞めてしまうと少し思ったのかも知れない。私が住んでいる街から店のある繁華街の最寄り駅までは、電車に乗って20分くらいだった。通勤としては苦にならない距離だった、家に着くと、夜中の12時を過ぎていた。駅の近くのコンビニで買った軽い食材を食べ、体温を測ってみると、37.5度の熱があった。やっぱり、新型コロナウイルスのワクチンの副作用で熱が出たのだろう。昼間、仕事でたくさん汗をかいたので、シャワーの後直ぐに就寝した。次の日の朝起きると、前日よりは体調が良かったけれど、ずっとディスクワークの仕事ばかりしていたので、足がかなり疲れていた。正直いうと仕事には行きたく無かったが、1日で辞めるのもみっともないので、軽く朝食を食べてから駅に向かった。店の着くと、やはり寿司いし川の大将の山田が先に来ていた、私が、「おはようございます」と挨拶すると、山田は、「今日も来たんだ。昨日忙しかったから、もう辞めちゃうかと思ったよ」と、冗談とも本気とも取れる発言をした。暫くすると、社長の宇佐美も店にやって来た。「渡辺さん、昨日は大変だったね。今日は日曜日だから、昨日よりは忙しくないと思うよ」と言ったが、この発言が、後に裏目に出るとはその時思ってもいなかった。昼のランチが始まると、少ししてから店内が混み出してきた。予約は少なかったが、予約無しで飛び込みのお客さんと当日予約のお客さんで混んできたと後から聞いた。忙しくなるにつれて、私は、「これじゃ、昨日と変わらないじゃないか。仕事をこなすのがギリギリだ」と心で呟きながら仕事をなんとかこなしていた。夜のディナーも同じで、前の日の土曜日と忙しさは変わらなかった。結局、仕事が終わったのは夜の11時過ぎで、土曜日と同じ位の売り上げだったと聞いた。帰りの電車の中で、「明日、体力的に無理だから」と、社長の宇佐美に言おうと心に決めていた。家居着くと、前の日と同じで夜の12時を過ぎていた。疲れ切っていた私は、シャワーだけ浴びて、食事もせずに眠ってしまった。次の日の朝起きると、二日間の忙しさで足が非常に痛かった。歩くのがやっとで、元々左足に膝関節変形症という慢性の病気を抱えているせいもあったのだろう。ベッドに30分くらい座った後に、私は朝食の準備をした。朝食を食べ終わると、私は何の躊躇も無く、ひたすら退職届を書いていた。「会社に行って休憩時間に社長の宇佐美に渡そう」と心に決めていた。家を出ると、駅へ向かう自転車のペダルが重く感じた。退職に対して後ろめたい気持ちがあるからか、電車に持っても気分が晴れなかった。店に着くと、やはり寿司の大将の山田が先に来ていた。山田が、「昨日も一昨日も大変だったね。辞めないで頑張ってね」と言われ、退職届を鞄に入れている私は、「何とか頑張ります」しか言えなかった。少し待つと、社長の宇佐美がやって来た。すると、「今日の夜は予約が少ないから、昼の賄いを食べたら帰宅して下さい」と言われた。会社のことをまだよく知らない私は、昨日と一昨日の残業の埋め合わせで早く帰してもらえるんだと勝手に思い、そんなに悪くない会社かも知れないと思った。午後の3時、賄いを食べ終わった私は、皆んなに挨拶をしてから帰宅した。帰りの電車の中、「こんな明るい時間に帰してくれるなら、もう少し働こう」と心に決め、鞄の退職届を、駅のゴミ箱に捨てて帰った。その行為が、後に本当に後悔するとはその時思わなかった。夜、早い時間から家でテレビを観られる喜びに浸りながら、のんびり夕食を食べ、何日か振りにシャワーではなく風呂に入った。風呂に入った私は、優越感に浸っていた。風呂の後、久しぶりにビールを飲んだ、この解放感がたまらなかった。時計を見ると、まだ夜の9時だった。昨日とか一昨日は、今頃、ヘトヘトになって働いていたのを思い出しながらビールに口を付けていた。気が付くと、そのまま寝てしまっていた。目が覚めたのは夜中で、トイレに行ってから朝まで熟睡した。朝起きると、前の日までの疲労が溜まった目覚めとは違い、爽快な目覚めだった。この時の私は、「身体が動くまでこの会社のお世話になろう」と考えていた。会社に着くと、いつものように寿司の大将の山田が出社していた。どうも、毎日私より30分は早く出社しているようだった。もう4日目になるので、私が山田に、「おはようございます」と挨拶すると、「今日も頑張ろうね」と返事が返って来るようになった。少しすると、社長の宇佐美もやって来た。すると、「昨日早く帰って疲れは取れましたか?今日も早上がりで良いですよ」と言われた。私は心の中で、「嘘、本当に今日も昼間帰れるの?」と思ったが、一組だけのランチのお客さんが帰ると、宇佐美は、「渡辺さん、賄い食べていきますよね?」と言われたので、「今日は朝たくさん食べたから大丈夫です」というと、「なら帰宅してください」と言われた。「昨日に続いてこんなに早く帰れるなんて、本当に良い店だ」と、その時の私は何の疑いもなく、会社の応対を歓迎していた。あっという間に入社して一週間になると、社長の宇佐美が、「私は今日でこの店を離れますから。明日から、料理長の立山が来ますので、しっかり鉄板焼きを教わってください」と言われた。この一週間、終電の日もあれば昼間帰れる日もあり、時間が早く進んでいるような錯覚をしていた。

3 飲食業界に戻ろうとした理由

飲食業界から足を洗うと、色々な医師が言った通り、手の病気は嘘のように治った。建設業界や派遣業界である程度の地位を獲得し、出版業界では名誉も手にした私は、50代の後半になって人生を振り返った時、飲食業界にだけ未練があったと思うようになった。それと、問題なのが年金。60歳近くなると、将来の年金支給額の予定のハガキが来るのだが、私は、他人と比べてはいないから不明だが、平均より少ない年金額に思えた。なので、65歳で年金を貰わず、70歳まで飲食業で厚生年金と社会保険を掛け、70歳から年金を貰えば、貯金を切り崩して生活しないで済むと考えた。5社面接して、合格した3社の中から寿司と鉄板焼きステーキが同じフロアーにある会社を選んだ理由の一つが、定年の年齢を決めてない事だった。面接をした社長の宇佐美が、「うちは、定年の年齢を決めてないから、働けるなら何歳まででも働けます」と言ったのが決め手だった。しかし、会社に入ると不満や愚痴を言いたい事が多々あるが、それを今言っても仕方がないので、そろそろ本題に入ろう。

4 初めて入社した日。そして、大将山田との最初の出合い

社長の宇佐美から連絡があり、「当社で採用しますので、8月の20日から出勤できますか?」と言われ、私は、「いきなり土曜日で忙しいのだろうな?前の日、新型コロナのワクチン接種だから断ろう」と思っていると、宇佐美から電話で、「無理ですかね?人が足りないので出て欲しいのですが」と言われ、私は渋々承諾した。8月19日、私は予定通り新型コロナワクチンの接種をした。すると、当日の夕方から、ワクチンを打った方の左腕が痛み出した。初出勤の当日の朝、やはり前日のワクチンの影響で、体調はあまり良く無かった。社長の宇佐美から。「土曜日は朝の10時半位に出社してください」と言われていたので、私は、10時15分頃店に着いた。店に着くと、寿司屋の方で誰かがもう仕事をしていた、「すいません。今日から仕事する渡辺ですけど」と言うと、「ごめん、後にしてくれるかな?今、忙しいから。奥の椅子に座っていれば、そろそろ誰か来るからその人に聞いて」と言われた。それが山田との初対面で、私は、「この人とは仲良く仕事出来そうにないだろうな?」と第一印象で思った。今考えると、山田は寿司のシャリを切っていた。(シャリを切るとは、炊いたご飯と寿司酢を合わせる作業) 少し待つと、面接をした社長の宇佐美がやって来た。「待ちましたか?何時頃来ました?」と言うので、「少し前に来ました」と私が言う。すると、「本当は立山という若い料理長が今日から教える予定だったんだけど、本人が新型コロナに感染したから、一週間は、私が教えられる範囲で教えます。鉄板ステーキの基礎は、立山から教わって下さい」と言われ、私は用意されたコックコートに着替えた。コックコートに着替えて厨房へ行くと、社長の宇佐美から、厨房の色々な場所を簡単に教わった。教わった後、社長の宇佐美が、「今日は初日だから、前菜とオードブルとデザートだけお願いします」と言われたが、私は内心、「履歴書にもちゃんと書いてブランクがあるのを伝えたのに、初日から人使いが荒いな」と思っていたが、この後、地獄のような洗い物を目の前にするとは思っていなかった。営業時間になると、土曜日ということもあり、多くのお客さんが来店して来た。店がだんだん忙しくなった時、私は洗い場に誰も居ない事に気づく。私は、「もしかして、洗い物も私にやらせる気?」と思ったが、予感は的中した。居酒屋の店長で、ヘルプに来ている徳島が時々洗い物をしてくれたが、ホールも忙しく、洗い物は溜まる一方だった。そんな時、仕入業社が魚などを持ってきた。しばらくすると、朝、一番に声を掛けた印象悪い男が検品し始めた。検品中、その男は「私が寿司の大将をしている山田です。朝は忙しかったからごめんね。お兄さんも初日から忙しくてハズレひいちゃったね。洗い物は後回しで良いから、オーダー優先で仕事した方が良いよ」と声をかけてくれた。朝とは違い、優しい口調だった。でも、前日のコロナワクチンの副作用で、段々と熱っぽくなってきた。汗をかき、体調の悪そうな顔をして仕事をしていると、魚を下処理していた山田が、「お兄さん、これ飲みながら仕事しなよ」と、コップに入れたアクエリアスを私に渡した。その時に私は、「この人、意外と良い人じゃない」と、朝の印象と違って良いイメージに変わった。ランチの時間が終わり、賄いと休憩時間になった。今日の賄いはカレーライスだった。疲れた私は食欲が無く、皆んなの半分くらいのカレーライスを食べた。カレーライスを食べ終わると、社長の宇佐美が、「今から一時間休憩して下さい」と言われ、私は、空いている客席に座って休憩した。休憩していると、前日の新型コロナワクチンの副作用か、身体が熱っぽくなって来た。休憩時間が終わると、社長の宇佐美が、「渡辺さん、初日からこんなに忙しくてすいませんね」と言われたが、私は心の中で、「この店で働くのは長くないな」と考えていた。夜のディナーの準備に入ると、昼よりも明らかに多い数の仕込みがあった。私は、「昼は前哨戦で夜が本番だな。昼より忙しいってどうなるのだろう?」と考えていた。ディナーの時間が近づくと、居酒屋の店長の徳島は店に帰り、アルバイトが二人交代で入った。朝から働いているアルバイトを含めると、三人で寿司いし川と鉄板焼き南風を回しているようだった。私が見る限り、店長らしい男性はホールに居なかった。夕方5時を過ぎると、一組のお客さんが入ってきた。「いよいよ戦争の始まりだ」と心に言い聞かせ、私は前菜の盛り付けから始めた。すると、次々とお客さんが来店してきて、私は前菜やローストビーフの盛り付けに追われながら洗い物をするといった時間を過ごした、確かに、昼のランチよりはメニューが多いし、ぎりぎりのところで仕事をこなしていた。するとそこへ、寿司いし川の大将の山田が来た。『お兄さん、初日からこんなに仕事をさせられて、本当に人使いの洗い会社だよね。身体が持たないから、冷蔵庫にある飲み物を飲みながら仕事しなよ』と言って、寿司のいし川の方へ帰って行った。もしかすると、初日の私を心配して様子を見に来てくれたのかも知れないと思った。時間が経つと、私の思い通りに洗い物の山になっていった。社長の宇佐美は、「洗い物は後で皆んなでやるから、オーダー優先で仕事してください」と言ったが、グラスや皿の絶対数が足りないので、ホールのアルバイトから「ビールのグラスが足りません」とか、「ハイボールやワインのグラスが足りません」と声が掛かり、オーダーだけこなす事ができず、グラスを何度も急いで洗っていた。私は心の中で、『専属の洗い場くらい雇えよこの会社は』と思っていた。社長の宇佐美と面接をした時、店もそんなに広くないし、忙しい時があっても大丈夫だろう?』と思っていた私の考えは、仕事初日で覆がえさせられた。お客さんも徐々に帰り、厨房が少し落ち着いたと思って掛け時計を見ると、もうすでに夜の10時を過ぎていた、厨房の片付けが終わる頃には、夜の11時になっていた。私は、「残業で稼げるからいいや」と思いながらも、「この会社で働くのは3日持つかな?」という不安も抱えていた。この時、『残業で稼げるからいいや』と思った私の気持ちは、後日、皆んなとの何気ない会話から誤解をしていた事に気付く。仕事が終わると、寿司のいし川の大将の山田が、「お兄さん、今日は本当に大変だったけれど、明日も元気に仕事に来てね」と言われた。初日でこんなに忙しかったので、私が1日で辞めてしまうと少し思ったのかも知れない。私が住んでいる街から店のある繁華街の最寄り駅までは、電車に乗って20分くらいだった。通勤としては苦にならない距離だった、家に着くと、夜中の12時を過ぎていた。駅の近くのコンビニで買った軽い食材を食べ、体温を測ってみると、37.5度の熱があった。やっぱり、新型コロナウイルスのワクチンの副作用で熱が出たのだろう。昼間、仕事でたくさん汗をかいたので、シャワーの後直ぐに就寝した。次の日の朝起きると、前日よりは体調が良かったけれど、ずっとディスクワークの仕事ばかりしていたので、足がかなり疲れていた。正直いうと仕事には行きたく無かったが、1日で辞めるのもみっともないので、軽く朝食を食べてから駅に向かった。店の着くと、やはり寿司いし川の大将の山田が先に来ていた、私が、「おはようございます」と挨拶すると、山田は、「今日も来たんだ。昨日忙しかったから、もう辞めちゃうかと思ったよ」と、冗談とも本気とも取れる発言をした。暫くすると、社長の宇佐美も店にやって来た。「渡辺さん、昨日は大変だったね。今日は日曜日だから、昨日よりは忙しくないと思うよ」と言ったが、この発言が、後に裏目に出るとはその時思ってもいなかった。昼のランチが始まると、少ししてから店内が混み出してきた。予約は少なかったが、予約無しで飛び込みのお客さんと当日予約のお客さんで混んできたと後から聞いた。忙しくなるにつれて、私は、「これじゃ、昨日と変わらないじゃないか。仕事をこなすのがギリギリだ」と心で呟きながら仕事をなんとかこなしていた。夜のディナーも同じで、前の日の土曜日と忙しさは変わらなかった。結局、仕事が終わったのは夜の11時過ぎで、土曜日と同じ位の売り上げだったと聞いた。帰りの電車の中で、「明日、体力的に無理だから」と、社長の宇佐美に言おうと心に決めていた。家居着くと、前の日と同じで夜の12時を過ぎていた。疲れ切っていた私は、シャワーだけ浴びて、食事もせずに眠ってしまった。次の日の朝起きると、二日間の忙しさで足が非常に痛かった。歩くのがやっとで、元々左足に膝関節変形症という慢性の病気を抱えているせいもあったのだろう。ベッドに30分くらい座った後に、私は朝食の準備をした。朝食を食べ終わると、私は何の躊躇も無く、ひたすら退職届を書いていた。「会社に行って休憩時間に社長の宇佐美に渡そう」と心に決めていた。家を出ると、駅へ向かう自転車のペダルが重く感じた。退職に対して後ろめたい気持ちがあるからか、電車に持っても気分が晴れなかった。店に着くと、やはり寿司の大将の山田が先に来ていた。山田が、「昨日も一昨日も大変だったね。辞めないで頑張ってね」と言われ、退職届を鞄に入れている私は、「何とか頑張ります」しか言えなかった。少し待つと、社長の宇佐美がやって来た。すると、「今日の夜は予約が少ないから、昼の賄いを食べたら帰宅して下さい」と言われた。会社のことをまだよく知らない私は、昨日と一昨日の残業の埋め合わせで早く帰してもらえるんだと勝手に思い、そんなに悪くない会社かも知れないと思った。午後の3時、賄いを食べ終わった私は、皆んなに挨拶をしてから帰宅した。帰りの電車の中、「こんな明るい時間に帰してくれるなら、もう少し働こう」と心に決め、鞄の退職届を、駅のゴミ箱に捨てて帰った。その行為が、後に本当に後悔するとはその時思わなかった。夜、早い時間から家でテレビを観られる喜びに浸りながら、のんびり夕食を食べ、何日か振りにシャワーではなく風呂に入った。風呂に入った私は、優越感に浸っていた。風呂の後、久しぶりにビールを飲んだ、この解放感がたまらなかった。時計を見ると、まだ夜の9時だった。昨日とか一昨日は、今頃、ヘトヘトになって働いていたのを思い出しながらビールに口を付けていた。気が付くと、そのまま寝てしまっていた。目が覚めたのは夜中で、トイレに行ってから朝まで熟睡した。朝起きると、前の日までの疲労が溜まった目覚めとは違い、爽快な目覚めだった。この時の私は、「身体が動くまでこの会社のお世話になろう」と考えていた。会社に着くと、いつものように寿司の大将の山田が出社していた。どうも、毎日私より30分は早く出社しているようだった。もう4日目になるので、私が山田に、「おはようございます」と挨拶すると、「今日も頑張ろうね」と返事が返って来るようになった。少しすると、社長の宇佐美もやって来た。すると、「昨日早く帰って疲れは取れましたか?今日も早上がりで良いですよ」と言われた。私は心の中で、「嘘、本当に今日も昼間帰れるの?」と思ったが、一組だけのランチのお客さんが帰ると、宇佐美は、「渡辺さん、賄い食べていきますよね?」と言われたので、「今日は朝たくさん食べたから大丈夫です」というと、「なら帰宅してください」と言われた。「昨日に続いてこんなに早く帰れるなんて、本当に良い店だ」と、その時の私は何の疑いもなく、会社の応対を歓迎していた。あっという間に入社して一週間になると、社長の宇佐美が、「私は今日でこの店を離れますから。明日から、料理長の立山が来ますので、しっかり鉄板焼きを教わってください」と言われた。この一週間、終電の日もあれば昼間帰れる日もあり、時間が早く進んでいるような錯覚をしていた。

5  立山との初めての対面

次の日、いつもの時間に店に行くと、厨房の中から音がし、誰かがすでに仕事をしていた。若い男性だったので、料理長の立山だと直ぐにわかった。『初めまして、20日から入った渡辺です』と言うと、『私が立山です。社長の宇佐美から連絡を受けて聞いています』と、立山は答えた。確かに若そうなので年齢を聞くと、私の娘よりも一歳年下だった。私は内心、『こんな息子みたいな若い人と上手くやっていけるかな?』と、少し不安になった。仕事が始まると、立山から、「ブランクがあるって社長の宇佐美から聞いているのですが、どの位のブランク期間があるんですか?」と聞かれたので。「20年超えた位です」と言うと、「焦らずに徐々に勘を取り戻してください」と立山に言われた。そうは言っても人手不足、仕事を覚えれば、また別の仕事を覚える日が続いていく。その中での一番の課題が、鉄板で作るガーリックライスだった。立山に見本で何度か作ってもらい、私がガーリックライスを作る日が続いた。当然、賄いはガーリックライスとおかずの日々が続く、社員やアルバイトからも多少の不満が出てきた。立山は、令和の時代に昭和のスタイルで仕事を教えるタイプだった。「仕事は見て盗め」的教え方で、腕は良いのだが、教え方は下手な若者だった。そんな感じで仕事をしているから、私も仕事を続けられるか不安になる。そんな格闘の毎日が続き、私が会社に入って半月が過ぎた頃、厨房に突然寿司の大将の山田が来て、「今日から呼び名はじーじになったから」と、私に一言言った。側で聞いていた立山も、「渡辺さんよりじーじの方が親しみやすくて良いですね」と言い、その瞬間から、店の皆んなからじーじと呼ばれるようになった。アルバイトの女の子からじーじと呼ばれても、そんなに悪い気はしなかった。段々と店の状況が分かると、寿司屋には、カウンターとテーブル席と狭いバックヤードしかない事を知る。魚や貝の仕入れがあると、大将の山田が鉄板の厨房へ来て仕込みをする理由が判明した。その頃になると山田は、『じーじ、ヒラメをおろしてみる?』と言って、魚や貝の仕込みを教えてくれるようになってきた。最初にこの店で料理に復帰した頃より、包丁の使い方などは勘が戻って来ている気がしていた。私はタバコを吸わないので、みんながタバコを吸う非常階段の踊り場には行かなかった。特にローストビーフは、飛躍的に薄く切れるようになってきた。ある日平日の暇な日、山田が私に、「じーじもたまには喫煙所に来て、皆んなと話そうよ」と言われ、喫煙所に向かった。外に喫煙所はあるので、店の中とは空気が違うように感じた。その場所では、仕事の話の他に、色々な世間話が交わされていた。話の中心には山田が居て、皆んなが山田に対して意見を言ったりしていた。後で知ったのだが、特にPちゃんはタバコが好きらしく、仕事中に少しでも時間があると喫煙所に通っている様だった。ある日、いつもの様に喫煙所へ行った私は、何気なく皆んなに。「この店の残業って、どのくらい付くんですか?」と聞くと、山田が直ぐに。「じーじ、入社の時に説明聞かなかった?この会社、残業手当は付かないよ」と言われた。社長の宇佐美の説明がややこしくて、残業の事は頭に入ってなかった。続けて山田が、「残業が付かない分、歩合で稼いで下さいがうちの会社。ややこしいノルマがあって、それをクリアーすると歩合が貰える」とも教えてくれた。後で詳しく聞くと、「人件費ノルマ、原価率ノルマ、売上ノルマ」があって、全てクリアーしたうちのランチの売上の数パーセントが歩合として支給されると知った。結果的には、2店とも売上が良い店なので、毎月僅かだが歩合は貰えた。だが、残業代と比べると、かなり損していた。宇佐美との面接の時、もっとちゃんと聞けば良かったと後悔しても遅かった。この頃になると、店の従業員やアルバイトとも人間関係が構築されて、働きやすい職場になっていた。この会社に入る時に面接した他の会社からも誘いの連絡があったけれど、「今の会社の人間関係が好きなので、暫くここで働きます」と言って断っていた。入社当時、私は酒が飲めない事にしていた。酒の席になると、どうせ仕事の話とかで面倒臭くなるのが嫌だったからだ。なので、会社の連中から「じーじは酒飲めるの?」と聞かれても、「前は付き合い程度に飲んでいたけれど、今は全く飲んでいないですね」と答えていた。毎晩、晩酌するタイプでは無いし、週に一度や二度は飲んではいたけれど、ひたすらに隠していた。そんなある日、アルバイトの女の子が一人辞めた。名前は花蓮と言う子だった。辞めた理由は、寿司の大将の山田と合わなかったのが原因だったようだ。その子が辞めて少しすると、料理長の立山が、「山田さんに内緒で、今日飲みに行きませんか?花蓮も来るので、花蓮の送別会って事です」と言われた。アルバイトの花蓮とは、付き合いは長くないが、仕事の時に良く会話した子だった。人懐っこい子で印象も良かったので、前に何気なく買ったルイヴィトンのポシェットもあげた子だった。立山に、「じーじにバックまでもらってお礼が言えないまま辞めたから、会ってお礼が言いたい」とも言われた。その様な状況では仕方無いので、私は送別会に参加する事にした。集合場所は、徳島が店長をやっている近くにある系列店の居酒屋で、店に行くと、花蓮の他に上田波瑠も来ていた。この二人は、アルバイトの時から仲が良かったので、プライベートでも、食事に行ったり飲みに行ったりしていた様だった。店長の徳島はまだ仕事中なので、立山を含めた四人で飲み始めた。もう、上田と花蓮は結構飲んでいたらしく、アルバイトの時とは表情や口調も違った。一時間が過ぎた頃、仕事が終わった徳島も合流した。徳島が合流すると、花蓮は山田の悪口ばかり言っていた。酒の力も借りて、山田に言えなかった事に愚痴をこぼしているのだろうと思った。その日、結局は終電に乗れなかった。徳島と上田と花蓮は、それからカラオケに向かった様だったが、次の日に仕事の私は、近くのネットカフェに泊まった。立山は、レンタル自転車で家に向かった。次の日、休憩時間に山田が、「花蓮は、最初の頃色々面倒見たのに、最後は手のひらを返して、寿司の職人に対して反抗的だった。あんな生意気じゃ使えないよね」と言ってきた。山田も花蓮もそれぞれに言い分はあるのだろうけれど、確かに花蓮が居なくなってから、店の雰囲気は良い方に変わった気がした。

6 山田と二人で初めて飲んだ日

そんなある日、山田と私は休みが同じ日だった。すると山田が。「じーじ、明日休みなんだから居酒屋へ明日行こう」と言われた。私は連休だったので、他に用事も無かったので誘いを断らなかった。「俺が住んいでる所からじーじの最寄り駅まで40分位だから、家を出る時に電話するよ」と言われた。私の中では、「夕方になったら電話が来るだろう」と思っていた。翌日の午前中、部屋で洗濯やら色々した後、部屋でテレビを見ていると、山田から電話が入った。「じーじ、焼き鳥が食べたいんだけど、昼間からやっている焼き鳥屋があるってネットで調べたから、今から支度して、14時頃に着くように向かうから」と言われたが、「そんなに早くから飲むんですか?暇だから良いですけど」と言って、私は山田との電話を切った。13時半頃にLINEが来て、「もう電車に乗りました。14時位に着きますね」と言う内容だった。私も支度をして、山田が着く駅へと向かった。駅へ着くと、山田はもう先に着いていた。山田の服装は、ダブルのスーツに胸元にレイバンのサングラスで、両手にはにはガガミラノの時計をしていた。私が、「山田さん、それじゃチンピラみたいな服装ですよ」と言うと、山田は嬉しそうに。「チンピラに見える。チンピラに憧れているんだよね」と言った。それと同時に、高校時代にサッカー部に居たので、本田圭佑にも憧れている様だ。その後、仕事の時も、「チンピラに見える」と言う言葉を何度も口にする様になった。山田は離婚歴2回で、私は離婚歴1回だが、二人とも彼女が居なかった。山田は、どうも若い女性が好きらしく、焼き鳥居酒屋でも若い女性のグループを探していた。私が、「こんな昼間から飲みに来る女性はいないですよ」と言うと、「じーじ、俺の勘を甘く見るなよ」と言うと、その会話から10分後、若い女性の二人組が、私達のテーブルの二つ隣のテーブルに座った。山田は私を見て、「ほらな。誰か来ると絶対に思ったよ」と、得意げに小声で私に言った。暫くしてから私が、側に座った二人の女性に声を掛けた。「学生さんですか?良く飲みに来るんですか?」と聞くと、「社会人なんです。大学の同級生で、休みが合うとたまに飲みます」と、私に警戒せずに答えてくれた。隣で聞いていた山田が、「若く見えるよね。学生さんかと思ったよ」と言うと、二人組の女性も悪い気はしていなかった。そこで私が、「ここで会ったのも何かの縁だから、いっぱいご馳走しますよ」と言って、店員さんを呼んだ。「本当に良いんですか?」と聞かれ、「遠慮しないで飲んで下さい」と言うと、「ご馳走になります」と、快くお酒を注文してくれた。4人の会話の中で山田が、「私の仕事は何に見えます?」と聞くと、二人の女性は答えに困っていた。すかさず私が、「どう見てもチンピラですよね。でも、有名な寿司屋の大将なんです」と言って、山田の店が紹介されているサイトを見せた。「ここ有名じゃないですか」と二人の女性は驚いていた。すると山田が、「うちはチンピラとヤクザしか居ない寿司屋なんですよ」と言うと、山田の服装を見た二人は、半分信じた様だったので、「冗談ですよ。チンピラの服装に憧れているアホな寿司屋の大将です。腕は一流なんですけれどね」と言うと、少し安心した様だった。ある程度時間が過ぎると、そろそろ私達は帰りますね」と言って挨拶し、二人で会計に向かった。帰り際、「本当に今日は楽しかったです。また会ったらよろしくお願いします」と言って帰って行った。結局、その二人の女性とは、二時間近く会話をしながら酒を飲んだ。二時間飲んだとは言え、まだ夕方の5時前。山田も私もほろ酔い加減になっていた。夕方になったので、焼き鳥居酒屋は、仕事終わりのサラリーマンなどで混んできた。山田は私に、「じーじ、まだ飲めるよね?」と言ってきたので、「まだ大丈夫ですよ」と言うと、その頃には店員さんとも仲が良くなっていた。山田は焼き鳥でもレバーが好きで、一人で10本以上食べていた。私は、店に来てからずっとビールを飲んでいたが、山田はいろいろな飲み物を注文していた。夜になると、サラリーマンやカップルや若者のお客さんが増えてきた。店は一階と二階があって広いのだが、女性だけのお客さんは居なかった。喫煙所が二階にあり、山田は時々喫煙所に行ってタバコを吸っていた。タバコから帰ってくると山田が、「40代の女の人がタバコ吸っていたから、自分の名刺渡してきた」と言った。焼き鳥居酒屋でも営業しながら酒を飲む山田は、本当に楽しそうにしていた。気が付くと、山田が帰る最終電車はもうない時間だった。夜の11時半になり、店もラストオーダーの時間になっていた。会計を済まして店を出ると、山田が私に、「どっかスナックでも行かない?」と言ってきた。私は。「地元で飲まないから知らないんですよね」と言うと、「マービーに電話して聞いてみる」と言った。マービーと呼ばれている人は、私の住んでいる場所の建材屋の社長で、妹は市議会議員をしている人だった。いし川で何度か会っているので、私も面識があった。「マービー、山田だけど。この辺にスナック無いかな?」と聞くと、焼き鳥居酒屋の近くにスナックとかラウンジが入ったビルがあった。「マービーありがとう」と山田は言って電話を切ると、聞いた道をスナックに向かって歩いた。目的のビルに行くと、鉄筋の三階建ての飲み屋だけのビルだった。山田が、「じーじ、どこの店にしようか?」と話したと同時くらいに、二階の店から階段を降りて来た若い女性が、「飲むんだったら、私が働いている店に来てくださいよ」と言ってすれ違った。山田が、「じーじ、あそこに少し行ってみるか?」と言うと、女の子が出てきた二階の店に向かって階段を登った。店に入ると、スナックではなくラウンジだった。男の店員が、「当店は初めてですか?」と言われたので、山田が、「表でこの店の女の子に声を掛けられたから来たんだよ」と言うと、「指名はないですね」と言われ、私が、「指名なしでお願いします」と言うと、二人の女の子がテーブルに着いた。山田は二人の女の子に、「俺達何の仕事に見える」と聞くと、片方の山田はスーツにサングラスを胸元に引っ掛けて、私はジャージを着ていたので、「普通の仕事じゃ無いですよね」と言われてしまった。山田は嬉しそうに、「チンピラに見える。チンピラのファッションが好きなんだよね」と言うと、女の子達は、「本当にあっち方面の方じゃないんですか?」と聞いてきたので、私が、「こう見えても、結構有名なお寿司屋の大将なんだよね」と言うと、一斉に「そんな人には見えない」と言われ、山田は何故か喜んでいた。「何処の店ですか?」と聞かれたので答えると、ももちゃんと名乗る女の子が、「2ヶ月くらい前、兄夫婦とその店行きましたよ」と言われた。「本当に美味しいお寿司で感動しました」と言われると、山田は本当に嬉しそうだった。名刺を交換するとももちゃんが、「近いうちに行きますね。予約した方が良いですか?」と言うので、山田が、「本当に来てくれるの?来てくれるなら予約の方が助かるね。いっぱいサービスするから来てね」と言っていた。その場にいた私も、社交辞令だろうと思っていたが、後日、本当に予約が入った。2時間くらいその店に居たが、山田が、「他も探索しに行こう」と言うので、ラウンジを後のする事にした。商店街を歩いていると、やたらと若い客引きが多かった。その中で、一人感じの良い客引きが声を掛けてきた。「ガールズバーなんですが、今の時間なら安くします」と言ったので、山田が、「高かったら店で暴れちゃうよ」と笑いながら言った。酒を飲んでいるので、私は山田の笑いが冗談だと思えなかった。そう言えば山田は、出勤すると毎日懸垂をしているし、昔は格闘技をやっていたとも聞いていたからだった。ガールズバーに行くと、山田も私の昼過ぎからずっと飲んでいるので、かなり酔っ払っていた。1時間のワンセットで店を後にすると、山田が朝から仕事なのでネットカフェで寝るように薦めると、「じーじ、始発まで磯丸水産行こうよ」と言ってきた。正直、私は自宅で寝たかったのだが、山田は酒を飲むと寂しくなるタイプらしく、一人になるのを嫌がった。結局、始発まで磯丸水産で飲む事にした。店に着くと、平日という事もあり、お客さんはほとんど居なかった。山田とは、仕事やプラーベートな事などを色々話した。気が付くと、もうすぐ朝の5時になる時間だった。山田を始発に乗せるため、私達は駅へと向かった。駅に着くと山田が私に、「じーじ、今日は楽しかったよ。また飲もうね」と言うので、店で仮眠してから仕事頑張って下さいね」と私は返した。家に着くと、朝の5時半だった。こんなに長い時間飲んだのは、30代の頃以来だった。でも、まだ体力があるんだと再認識した瞬間でもあった。その日、起きたのは夕方だった。長い時間飲んでいたのに、二日酔いにはならなかった。ビールだけ飲んでいたからかも知れない。スマホを見ると、山田から何通かLINEが入っていた。「じーじ、今日は楽しかったね。また絶対に飲みに行こうね」と言っていた。

7 ラウンジのももちゃんが来店

それから数日後、焼き鳥居酒屋の後に行ったラウンジのももちゃんから、山田と私に連絡が来た。「来週の木曜日のランチに予約したいんですけど」と言う内容だった。山田が時間と席を確認し、ももちゃんの予約を取った。予約当日、ももちゃんは昼のランチに時間通りに来た。職場の後輩の女の子と二人だった。私の地元で一番人気の和菓子を持って、きちんと挨拶して店に来たので、「今時の若い子の割にしっかりしている」と言う印象だった。山田に言われていたカウンター席に案内すると、ももちゃんの顔を見た山田は、本当に嬉しそうな顔をしていたのが印象的だった。山田が私に、「じーじ頼むね」と言った。頼まれた意味は、普段は追加料金を貰うローストビーフサラダとケーキの盛り合わせのデザートプレートを出してねと言う意味だった。鉄板焼きステーキ店は暇だったので、私がドリンクを桃ちゃんの席に運んだりしながら会話した。山田と私がももちゃんと話していると、Pちゃんが、「大将とじーじは何でこんな若い子と知り合いなんですか?」と言ってきた。すると山田が、「俺とじーじのコンビは最強だから」と言った。その日は、てるてる坊やこと立山が休みだったので、私も、山田の指示に心置きなく答えられた。ももちゃんが帰る時、山田と私はエレベーターの前まで行き見送った。山田は、心の底から楽しそうに挨拶をしていた。

8 入社して慣れた頃

入社して2ヶ月が過ぎた頃、てるてる坊主こと立山が休みに日に山田に喫煙所でこう言われた。「てるてる坊やと仕事して楽しくないでしょう?、鉄板焼きステーキの店がオープンして半年になるけど、じーじがてるてる坊やの下で働いた人間で一番長く続いたね」だった。「そんなに直ぐ皆んな辞めちゃうんですか」と聞くと、てるてる坊やは若いから、人を育てる事出来ないんだよ。じーじだって、てるてる坊やに何教わった?ガーリックライスだけじゃない。俺ならもっと色々教えるけどね」と言われた。確かに山田の発言には納得した。私が若い頃に後輩に教えるのと違って、てるてる坊やは、「今時昭和」と言う、「見て覚えろ。自分で努力しろ」スタイルの教え方で、薄々、「この人の下では人は育たないな」と感じていた。それに輪をかけ、機嫌が悪かったりすると、八つ当たりみたいな態度も度々見てきた。それと、私が何かプレゼントをした時に限って、何故か私の仕事にダメ出しをする機会が非常に高かった。私からすれば、「物を貰っといてその態度?」と思い、いつも疑問に感じていた。私の中では、「まだ子供だから仕方ないね」と思っていたが、我慢にも限界がある。ある日、いつものように出勤した時にちょうど立山が来たので、「これ、約束の物です」と言ってプレゼントを渡すと、「本当に良いんですか?ありがとうございます」と快く受け取ったが、仕事になると態度が一変、私の仕事に対していちいち口を出してきた。ランチまでは我慢したが、賄いを作っている時に、「じーじは朝から何の仕事をしたの?賄いも、今頃作らないで午前中に仕込み出来たよね」と言ってきた。私は。「すいませんでした」と口では言ったが、「物を貰うたびに色々文句を言うてるてる坊やの頭の中は一体何を考えているのだろう」と思っていた。その日はいつもと違い、長い時間ネチネチと嫌味を言うので、ついつい私は。「そこまで言うなら仕事辞めますよ」と言って、賄いの作業を中断した。いつも怒らない私が怒ったから、てるてる坊やも焦ったのだろう。社長の宇佐美に電話したり、寿司の大将の山田に相談した様だった。後で山田から聞いたのだが、「じーじをこのままの扱いで使っていると、じーじの良さを殺してしまうよ」と、山田は立山に言ったようだった。喫煙所で二人は話したようだが、立山ことてるてる坊やは涙を流しながら反省していたと山田に聞いた。前、山田と17時間飲んだ時に、てるてる坊やの不満も言っていたので、「とうとうじーじが我慢できなくなっちゃったか」と。山田は察したらしい。立山に不満があるだけで無く、松田に対しても不満があった。松田は日払いの元従業員で、朝の11時から夜の9時までの契約のようだが、毎日、午後の2時から2時間の休憩を取る。と言うことは、いくら忙しくても午後の2時には賄いを作り終えないといけないと言うことになっている。それが負担になり、私は賄いを作るのが嫌になってきた。私たちの鉄板焼きステーキにランチのお客さんが多く来て忙しくても、午後の2時には関係無く松田が「賄いできている?」とやって来るのだ。その点については山田に相談し、忙しい時は賄いを待ってもらうと言う事になったが、午後の2時になると、「賄いで来ている」と松田が聞いて来る事には代わりなかったので、私は心の中で忙しい時、「たまには自分で作れよ」と思っていた。そんなことが段々ストレスになり、私は転職も視野に入れるようになっていた。

9 再び山田と飲みに行ってのぼったくり事件

また休みの日に、山田が私の住む街へ来ると言い出した。何でも、「ももちゃんがお店に来てくれたからお礼に行かないと」と言うのだ。前回と同じく来たのは昼の2時頃で、焼き鳥居酒屋でまずは飲み始めた。前回と違い、私も山田も次の日は仕事だった。なので、私は何としても山田を最終電車で帰らせることを考えていた。夜の7時になったので、焼き鳥居酒屋を後にし、ももちゃんのラウンジに向かった。事前に連絡してあったので、店に着くとももちゃんが笑顔で迎えてくれた。山田はももちゃん指名で、私は前回来た時に席に着いた30代の女性を指名した。会うのも何度目かだし、先日、ももちゃんが山田の店に来ているので、その時の話などで盛り上がった。会話が弾む中、約3時間が過ぎていた。山田の最終電車があるので、タクシーを呼んでもらい、山田を先に帰す事にした。機嫌が良かった山田は、「ここは俺が払うから」と言って会計を済ませてタクシーに乗って帰って行った。私は、その時に山田がいくら払ったか知らなかった。次の日に聞くと、二人でビール5本くらい飲んで、請求は6万円だったと聞いた。それを知らない私は、山田が帰った後も店に残っていた。山田が帰った後、私は4時間位いたが、会計をした時、その金額に驚いた。ビールだけしか飲んでないのに、9万円の請求が来た。私は納得がいかなかったが、クレジットカードで支払いを済ませた。次の日の朝、会社に出勤した時に山田へ、「昨日いくら払ったんですか?」と聞くと、「じーじ、ビール5本くらいしか飲んでないよね?俺が払ったのは6万」と言われた。私は、「山田さんが帰った後、3時まで結局飲んでいたんですが、請求が9万でした」と言うと、「俺が会計した時見てなかったの?あの店はぼったくりだよ」と山田は言った。喫煙所でその話をしていたので、側に居たPちゃんが「裕くんじーじぼったくり事件」と言われた。その日から一週間くらい、アルバイトの子たちにも「山田さんとじーじでぼったくられたんだって」と言われていた。私と山田も開き直って、「じーじ裕くんぼったくり事件」と、自分達で口にしていた。山田とは、「二度とあの店に行かないようにしよう」と誓った。そうは言っても、ラウンジの子からLINEが来るので、休憩時間に二人してラウンジの子のLINEを消した。

10 アルバイトとの交流

そんなある日、水島あゆみが私と立山に彼氏の相談をしてきた。開口一番、立山は、「また今度の彼氏も年下でしょう?」と言うと、「そうです。また年下の彼氏が出来ました」とあゆみは言った。会話をしている所に山田がたまたま来て、「あゆみ、年下の彼氏は無理だよ。俺みたいなタイプが合うんだよ」と言った。あゆみはすかさず、「山田さんですか?服装がチンピラみたいだし、私のタイプじゃありません。と言われてしまった。そうあゆみ言われても、山田は私と立山に、「チンピラに見える?今日から店名をチンピラ寿司に変えよう」と言って、楽しそうに店に戻っていった。私の記憶では、この時初めて山田がチンピラ寿司と言ったと思っている。それからは、山田は頻繁にチンピラ寿司を口にするようになった。問題なのは、コースのディナーメニューに「胡蝶蘭」と言う名前の一番高いメニューがあるのだが、それより高いメニューを出そうと山田が提案した。その名前が「胡蝶蘭極」で、普通は「こちょうらんきわみ」と呼ぶのが普通だが、お客さんに、「胡蝶蘭極」と言われると、「お客さん、これはこちょうらんごくです」と言ってしまっていた。山田は、その位チンピラと極道と言う言葉が好きだった。この本を書くにあたっても、山田の提案で「チンピラ寿司」と言うタイトルにしたが、出版社が認めるかは定かではない。そんなある日、系列店の大山由梨が、店のアルバイトが少ないので手伝いに来てくれた。私は初対面だったが、この地区にある系列店6店舗の中で、一番仕事が出来るアルバイトと呼ばれていたので、私も名前は知っていた。初対面なのに話し易く、私としては好印象だった。大山が店に手伝いに来てから数日後、立山に誘われて近くの居酒屋に飲みに行った。店が早く終わり、先日のこともあったので、私と飲んで和解したい様だった。その居酒屋が閉店近くになったので、磯丸水産に場所を変えた。磯丸水産で飲み始めると、大山と木下鈴を呼ぼうという事になった。大山と木下は同じ店のアルバイトなので、私がお店に挨拶に行った時に木下には会っていた。都合が悪くて木下は来られなかったが、大山は磯丸水産にやって来た。大山は、いつも通りでニコニコしながら店に入って来た。男だけで飲むより、女性がいた方がやっぱり華がある。大山とは共通の話題もあり、LINEの交換をしてまた連絡する事にした。時間も遅くなったので、立山はレンタル自転車を借り帰宅して、大山は隣駅の友達の家に向かった。私は、いつもの様にネットカフェで一夜を過ごした。次の週、LINEで待ち合わせて大山と伊勢丹新宿店へ行った。伊勢丹新宿店を選んだ理由は、私の従姉妹が伊勢丹新宿店の社員なので、買い物の時、従姉妹のカードで支払いをしてもらうと、殆どの商品が一割引になるからだった。私は、カルティエとロレックスとブルガリに用事があったので、大山にも付き合ってもらい、それらの店に来店した。私の用事を済ますと、大山の好みの店を回った。大山も時計には興味があるらしく、時計売り場からバック売り場、最後に化粧品売り場へと行った。私が2時間遅刻した事もあり、2点の化粧品をプレゼントした。伊勢丹新宿店での買い物を終えると、お腹が空いたので、何か食べようと言う事になった。新宿駅に向かい裏道を歩くと、交差点の角に鰻屋を見つけた。大山も鰻で良いと言うので、その鰻屋で少し遅い昼食を食べる事にした。昼の3時少し前だったが、まだランチが食べられると言う事なので、鰻丼ランチを二人前頼んだ。鰻が焼けるのを待っている間に話を聞くと、創業100年以上の鰻屋だった。今、鰻屋で鰻を焼いているのは女性だった。男性社会というイメージが強い鰻屋で、しかも、創業100年以上の鰻屋を守るのが女性なんてそれも非常に珍しかった。二人の目の前に出てきた鰻丼は、本当に美味しそうな香りがする鰻丼だった。食べてみると、予想を裏切らない味だった。大山と、「本当に美味しいよね。また機会があったら来ようね」と言いながら食べ続けた。お吸い物も飲み、鰻丼を食べ終わると、「またいらしてくださいね」と言われた。大山は、私の娘より年下なので、お店の人にはどんな感じで見られたんだろうと思った。食べ終わると、「本当に美味しかったです。また来ます。」と言って店を後にした。大山は、その日の夕方からアルバイトだったので、新宿を後にして埼玉県に向かった。その日の大山は、今まで新宿伊勢丹に行った時とは違う体験をしたと電車の中で話した。それは、時計売り場のショパールを見ていた時だった。女性の店員が応対してくれたのだが、「良かったら腕にはめてみませんか?」と言われ、大山は少し戸惑っていたが、「どうせなら付けてもらいな」と私が言うと、「お願いします」と言って、ショパールのダイヤ付きの時計をはめてもらった。値札を見てなかった私は、大山の腕にはめた時に値段を確認した。すると、300万の時計だった。大山は、そんな高い時計をするのが初めてだったので、「色々な体験が出来て楽しかった」と言ってくれた。プレゼントした化粧品も気に入ってくれた様で、「大切に使います」と言っていた。店の駅まで送って行き、私は自宅へ向かって乗り換えた。家に着くと、今日は楽しい1日だったと思えた。また機会があれば、大山と買い物に行こうと思った。この頃になると、店のあるバイトの子とも、世間話などして交流が持てる様になっていた。その中で、一番話すのが最年少の大林凜だった。地元の友達や元彼と遊ぶ事が多く、あんまり家に帰ってない様子だった。なので、いつ帰ってくるか分からないので、母親が料理を作ってくれなくなったらしい。なので、バイトに来た時は、「じーじ、何かご飯ある?」と聞いてくる事が増えた。「凜ちゃん、ちゃんと家に帰らないと駄目だよ」と言いながら、ついつい大林の賄いを作ってしまっていた。私から見ると、娘より10歳以上も年下なので、何処か孫の様に感じている一面もあるのだろう。それから、元彼との関係の話とか、好きな人が出来た話とかも、大林はしてくる様になった。大林は高校生なので、地元では駅まで原付自転車に乗っているが、運転はあまり上手ではなく、何回か事故を起こしている。そして、性格的に天然な所もあり、事故でも笑えるエピソードがある。原付の足元に、学校に提出するレポートを置いて運転していたら、風圧でレポートが飛んで行った。その飛んだレポートを目で追っていたら、田んぼの中に原付で突っ込んだ事もある。大林が農村地帯に住んでいたから田んぼに突っ込んで軽傷だったけれど、街中だったら大怪我していただろう。レポートが飛んで行ったからといって、後ろ向きで運転する事自体が考えられないし、「凜ちゃん、普通はそこで止まるよね?」と私が言うと、「だって、レポートが飛んで行ったから見ていた」と答えてくるような女の子である。仕事でも、「ハイボールって何ですか?」と大林が言ったのを、私だけで3回は最低聞いている。その位天然なので、可愛いと言えば可愛い。ある日、学校帰りにそのままバイトに来た大林は、その日は寒いのに、薄着で通学していた。店に来た時は、本当に寒そうだった。「凜ちゃん、その格好で原付に乗って帰るの?」と聞くと、「じーじ、そうだけど問題ある?」と言って来た。「その格好じゃ風邪引くよ」と言ったら、「凜は若いから大丈夫」と言って、大林は平気な顔をしていた。あまりにも寒そうだったので、後日、ダウンジャケットをプレゼントした。すると、「じーじ、親が原付を乗る時にメガネをしろって言うんだけれど、じーじ何か持っていない?」と聞いてきた。「凜ちゃん、サングラスならあるからサングラスしなよ。明日持ってくるから」と言うと、嬉しそうに、「じーじありがとう」と、大林は笑顔で私に言った。翌日、私は大林にあげるサングラスを持って家を出たが、大林は連絡も無く当日欠勤をした。「これだからサングラスは凜ちゃんにあげられないな」と言うと、立山の息子が偶然にも誕生日だった。私は、「凜ちゃんが無断欠勤してサングラスはあげない事にしたから、これを息子さんにあげて」と言って、サングラスを立山に渡した。立山は、申し訳なさそうな顔をしていたから、「気にしないで、凜ちゃんが無断欠勤するのが悪いんだから。様子を見て、凜ちゃんが真面目になったら改めてあげるから」と言って、サングラスを受け取ってもらった。

11 社会保険の保険証が会社から貰えない

会社に入って2ヶ月余りが経っていたが、再三、社長の宇佐美に保険証の請求をしても、色々な言い訳をして保険証が貰えなかった。山田曰く、「俺も何度か保険証をもらえるように言っていたけれど、結局、1ヶ月以上貰えなかった。でも2ヶ月なんて、じーじの保険証はどうなっているんだろうね?」と言われ、「本社が手続きしてないんじゃ無いですか?来週使うから、保険証が来ないと困るんですよね」と言うと、「社長の宇佐美には話したの?」と山田に言われ、「何度も電話やメールで言っているんですけれど来ないです」と話すと、山田は休憩所を後にし、てるてる坊やこと立川に話に行った。「てる君、じーじの保険証はどうなっているの?てる君が直属の上司なんだから、てる君から本社に言ってあげないと」と、山田は立山に保険証の件を話してくれた。私は、「流石はブラック企業。残業代の未払いだけでなく保険証も来ない会社なんだ」と思った。山田から話を聞いた立山は、すぐに社長の宇佐美に連絡していた。立山の話だと、本社は手続きをしているので、近日中に届くとの事だった。数日後、岩倉には保険証が届いたが、私の分は手違いで遅れてるとの事だったので、社長の宇佐美に直接電話をすると、「本社の手違いで、渡辺さんの分は手続きはこれからです。本当に申し訳ない」と言われたが、私からすると、この2ヶ月以上の間、本社は何をしていたんだろうと言う事になる。少しすると、本社の総務課の担当者から直接店に電話が来た。「明日、必ず朝一番で手続きに行き、巣の午後には郵送します」と言われた。頭に来ていたが。今回は我慢をし、本社から届くのを大人しく待った。それから二日後、仕事を終えて家に帰ると、郵便局のレターパックで保険証が届いていた。冷静に考えると、二日で手続きできた保険証が、何で2ヶ月も放置されていたのかとの疑問が出てきた。結論から言うと、一応は会社というシステムになってはいるけれど、素人の集まりの集団だと思ったので、これ以上は色々言っても無駄だと思った。それと同時に、この会社は早く辞めるべきだとも思った。

12 仕事終わりの寄り道

その頃、マクドナルドで、季節限定のハンバーガーを発売していると立山から聞いた。「じーじも一回食べてみなよ」と立山が言うので、その日の仕事が終わってから、アルバイトのあゆみと立山の3人で、駅前のマクドナルドへ寄っていった。私は、何年か振りにマクドナルドに来た。立山に勧められたハンバーガーを頼み、家に帰ってから食べてみた。すると、立山が言う通りに本当に美味しかった。次の日は、私から皆んなを誘ってマクドナルドへ寄った。頼んだのは、前日と同じハンバーガーで、やっぱり美味しかった。結局、休みの日を除いて10日間連続でマクドナルドへ寄った。寝る前にカロリーの高い物を食べるのも良くないので、一旦、マクドナルドはお休みにした。それからは、店の前にあるセブンイレブンが多くなった。ただ、皆んなで一緒に帰る時だけで、私一人では行かなかった。セブンイレブンでは、ツマミとビールを買う事が多かった。岩倉と一緒に仕事をした帰りには、大抵ビールで乾杯しながら駅へ向かった。ちなみにですが、ビールを飲んだ空き缶は、ちゃんとゴミ箱に捨てていますので、皆さんが勘違いするような道へのポイ捨てはしていません。勘違いされると困るので、一応は言っときます。

13 店の近所で山田と飲み歩き

ある日、寿司屋に来たお客さんが遅い時間に来たので、山田が終電に乗れないと言う事態が発生した。私は嫌な予感がしたのだが、案の定、山田は私に、「じーじ、最終に乗れなかったよ。店の近くで一緒に飲もうよ」と言われた。予測はしていたが、次の日は、山田も私の仕事だった。私は、「最悪、店で寝てから仕事すれば良いや」と思い、山田の誘いを断らずに一緒に飲みに行った。私の地元と違い、新鮮な気持ちで繁華街に向かった。繁華街に行くと、山田の知り合いの客引きの波多野が居た。山田は波多野に声をかけ、「どっかいい店ない」と聞くと、「今なら女の子が揃っているキャバクラがありますよ」と言われたので、そのキャバクラに行く事にした。さすがは埼玉県有数の繁華街、私が住む街とは違い、人の数も圧倒的に多いし、街全体に華があった。キャバクラの店内に入り席に案内されると、20代前半の女の子が接客についた。山田は若い子が好きなので、ちょうど良い年齢の女の子たちだった。両手にはガガミラノの時計、スーツとライターはダンヒル。胸元にはレイバンのサングラスという服装だ。いつものチンピラスタイルで店に行くと、「いし川の大将ですよね」と、片方の女の子から言われてしまった。時々、寿司屋の方に同伴で来ているが、カウンターではなく個室ばかり利用するので、山田も気が付かなかったらしい。「この繁華街では悪い事出来ないですね」と言うと、「この辺の店の夜の仕事のお姉さん、うちの店をよく利用してくれるから悪い事出来ないね」と言っていた。私の地元で飲むより、山田は大人しく飲んでいるイメージだった。キャバクラに1時間いた後、ラウンジに場所を変えた。ラウンジに行くと、やはり若いお姉さんが二人ついた。女の子に仕事を聞かれたので素直に言うと、鉄板焼きステーキに同伴で来ている女性だった。スマホの写真を見せてもらうと、偶然にも、私が盛り付けたローストビーフサラダの画像があった。私は、ソースの掛け方が立山とは違うので、画像を見てすぐに分かった。「これ、私が作ったやつだよ」と言うと、「今度店に行ったら、全部の料理を作ってください」と言われたが、まだ立山に全てを教わっていないので、「全部は無理だけれど、前菜とかオードブルとかデザートは担当です」と言うと、「それなら、いつものように個室で同伴する」と言われてしまった。でも、自分が作った料理を、店以外の場所で画像を見るとは思わなかったので、何とも不思議な気分になった。店で話は弾んだが、夜中になったし明日も仕事なので、店で会計し、コンビニに寄ってから、自分達の店に戻った。暖房を入れ、ソファーに横になっていると、山田が海鮮丼を作ってくれた。良いネタを使っているだけあって、本当に美味しい海鮮丼だった。海鮮丼を二人で食べ終わると、山田はいつも休憩で使う寿司屋のソファーで寝た。

14 山田の身勝手な行動

朝起きたのは、立山が出社した時間だった。布団ではなくソファーなので、体のあちこちが痛かった。コンビニで買ったミルクティーを飲み、仕事に入るために目を覚ました。私が寝不足で疲れた顔をしていても、山田と一緒に飲んでいたので、立山は私に文句を言えない立場だった。何故ならば、山田はパソコン関係に非常に弱いので、パソコン関係のメニューの画像の変更やその他を全て、立山に命令して立山にやらせていた。ある意味、山田の行為はパワハラだが、誰も止める人が居ないのが現実だった。この頃になると、山田が何故この店に居るのか分からなくなってきた。腕は一流だけれど、人間関係と喫煙に問題があるのかと思った。この店だと、自分の思いのままに仕事が出来るし、山田に逆らう者は誰も居ない、ある程度、仕入れもわがままが効く、タバコも自由に吸えるからこの店に残っていると思った。腕は一流だが、夜に作ってくれた海鮮丼、魚にたばこの味がしたように思った。私はタバコを吸わないので、タバコには敏感だった。悪く言ってしまうと、腕は一流味は三流という言い方が正しいかも知れない。それと、この頃の山田は、私に一緒に店をやらないかと誘ってきたが、酒好きタバコ付きの料理人を信じていないので、「お金が足りないから無理ですよ」と言って断っていた。私の中では、山田と一緒に店をやっても、どちらかが不満を抱える事になるだろうし、山田が思う程簡単に店を経営していけると思わなかったからである。確かに、近所の夜の仕事のお姉さんや一部の会社の社長には好かれているが、それは、いし川と言う看板があって成り立っている事で、山田一人で築いた実績ではないと思ったからだった。だが、山田にはそれを言わず、いつも通りに接していた。

15 徳島の退職と私の入院、

11月の半ば、徳島からレジを覚えてくれと言われた。理由は、徳島が今年いっぱいで会社を退職するからだった。正直言うと、勤務時間も長いし残業手当は付かないし、仕事で一杯一杯だったが、事情が事情なので承諾した。「どうせなら、他のアルバイトにも教えたら」と提案すると、その日にアルバイトに来ていた籔内に、「レジ覚えてみない?」と言うと、「いずれ覚えるんだからやっときます」と答え、私と一緒にレジ締めを教わる事になった。「しほちゃん、これはこうするんだよ」と言うと、「じーじが間違えてる」とか、お互いに色々なことを言いながら、何とか初日のレジ締めを終えた。何日かレジ締めを教わりながら仕事をこなしていたが、ある日突然、出社後に気分が悪く仕事にならない日が来た。立山が、「じーじ、顔色が悪いから病院へ行った方が良いよ」と言うので、早退させてもらって病院へ行った。途中、駅のトイレで嘔吐し、普通の状態じゃないと自覚した。地元の行きつけの病院へ行くと、ウイルス性胃腸炎と言われたが、コロナ患者が多数入院しているので入院ができないとのことだった。一旦家に帰るが、症状はどんどん悪化していき、夜には耐えられなくて救急車を呼んだ。救急隊の人に聞くと、「今の時期に入院できる病院は無いですよ」と言われた。新型コロナが大流行しているので、どこの病院も満床状態だそうだ。一応連絡してもらったら、昼間行った病院が診察してくれるとの事だった。救急車で病院に着くと、夜勤担当の医師が診察してくれた。「確かにウイルス性胃腸炎だけれども、脱水症状も起こしています。点滴をしてみますので、家で安静にしていて下さい」と言われた。運が悪い事に、ほぼ同時刻に救急車で運ばれた年配の女性は、左足大腿骨骨折で緊急入院だったので、ベッドが埋まってしまった。先生に、「症状が治らなくて入院したい場合はどうしたら良いですか?」と聞くと、「電話とかして自分で探してもらうしか無いですね」と答えが返ってきた。その日は、点滴が終わるとタクシーで帰宅した。点滴で少しは良くなったように思えたが、夜中、また激しい嘔吐と下痢が私を襲った。朝まで寝れず、病院の受付が始まる時間になると、色々な病院へ電話した。結果、駅の近くの病院で診察してくれるしベッドも空いているとの事だったが、病院へ着いて体温を測ると、37度5分以上の熱があり、「夕方の発熱外来を受け直して下さい」と看護師に言われてしまった。仕方なく、夕方の4時に出直した。病院へ着くと、外のプレハブ小屋へ連れて行かれた。そこで、新型コロナのPCR検査をするとの事だった。鼻の中に、長い綿棒のような物を入れられた。検査結果が出るまで、そのプレハブ小屋で待たされた。結果は陰性で、時間的に内科の診察が終わっているので、夜間救急で診察してもらった。担当した医師は、「やはりウイルス性胃腸炎で、点滴くらいしか処置出来ないね。入院希望だと聞いたけれど、朝は空いていたベッドが満床になってしまったので、悪いけれどうちでは入院出来ないね」と言われてしまった。午前中、熱さえ出なければ入院出来たかもしれないので。運が無かったとしか言いようがなかった。やはり、点滴をしてから数時間は症状が落ち着くが、ある程度の時間が過ぎると、また嘔吐と下痢を繰り返した。翌日、市内の隣の駅の病院へ電話してみた。すると、「個室なら空いていますが、大部屋が空くまで個室なら入院出来ます」と言われた。私はすぐに原付バイクに乗り、病院へと向かった。内科の診察を受けると、「体力も衰えているし脱水症状もあるから、入院を希望しますか?」と言われ、私は即答で、「お願いします」と言った。個室は一日1万3千円だったけれど、この苦しみから早く解放されたかった。24時間点滴を二日すると、徐々にウイルス性胃腸炎の症状が軽くなった。初日の晩御飯は出なかったので、1日絶食だったが、次の日の朝に出たお粥が美味しく感じた。症状がほとんど無くなった五日目、気になっていた左膝を診てもらった。すると、「ここまで膝関節変形症が進んだら、なるべく早めに手術をした方が良いですよ」と言われてしまった。立ち仕事だし、長時間勤務のせいで膝が余計悪化したと思った。それから何日間か、いつ退職を言おうかと悩んでいた。   16 私の退職宣言

丁度その頃、またもや立山の陰険な説教事件が起きた。タイミングが良かったので、「今月いっぱいで退職します」と言うと、立山は休憩所で山田と話に行った。しばらく時間が過ぎると、私は山田に呼ばれた。山田から、「じーじ、今月で辞めるんだって」と言われたので、「先日、病院へ入院した時に膝の手術を勧められた」と言って左膝を見せると、「じーじ、こんなに膝が曲がっていたんだ。これなら手術した方が良いよ。体を悪くしてまで働く事無いから」と言われた。側にいた立山は、その光景を見て涙ぐんでいた。そんな事があり、私の退職は本社にも報告された。結局、私も徳島と一緒に退職するので、レジ締めを教わるのは戸田美咲になった。戸田は、偶然にも私の弟と私の娘と誕生日が同じ日だった。なので、仕事を一緒にしても、何処か親近感を私は持っていた。家は店のある街だったので、少し位い仕事で遅くなっても、残業をしてアルバイトを頑張っていた。そんな戸田だったので、誕生日とクリスマスを兼ねてプレゼントをあげた。ディオールのアイシャドウクリスマス限定品をあげたのだが、戸田は非常に喜んでくれたのであげて良かったと思えた。

17 クリスマス準備とクリスマス

12月になると、街中がクリスマスムードになるが、飲食業界は稼ぎ期で、私が働く鉄板焼きステーキも、クリスマス限定のコース2つでクリスマスを迎える事になった。メニューは、宇佐美と立山が相談して決めたようだ。私が退職希望を出してから、立山は私との接し方が明らかに違った。私は、「まだまだ子供だから仕方ない」と言い聞かせて我慢していた。そうすると、立山は仕事を全く教えず、鉄板の前に私を立たせなくなった。「これが辞めていく人間への仕打ちか?」と思い、立山との会話も減っていった。逆に、山田とは良く会話するようになった。立山の事を山田に話せば、山田が立山を注意してくれると思ったが、もうすぐ辞めるので、揉め事は起こしたく無いから黙っていた。飲食業界の繁忙期のクリスマスが近づいてきた。クリスマスメニューをインターネットサイトに載せるためのメニューの撮影も終わり、インターネットにも掲載された。クリスマスイブとクリスマスは、営業時間を3部制にして、お客さんにも時間を守ってもらうようにした。コースも2コースのみで、幸いにも予約はいっぱいになってくれた。後は、お客さんが当日来るのを待つだけなはずだったが、相変わらず立山との打ち合わせは噛み合わない状態だった。クリスマスイブの当日も、立山は平田に色々教え、私には何も言ってこなかった。その事に対し、私は不満が募っていたが我慢していた。そんな中、お寿司のローストビーフサラダのオーダーが入った。いつもの皿にサラダを乗せてローストビーフを並べると、立山が私に、「じーじ、何を聞いているの?この皿じゃ無いよ」と言ってきた。私は何の説明も受けていないので、いつも通りに出しただけだった。続けて立川は、「何の説明も聞いてないじゃない、じーじは何しているの?」と、少し怒った口調で言ってきたので、私は耐えきれずに、「平田と二人で打ち合わせしていたけれど、俺には何の説明も無かったじゃないか。二人でクリスマスイブをこなせるなら、二人で仕事すれば良いじゃないか。俺はもうすぐ辞めるんだし、後は二人で頑張ってやりな。俺は帰るから」と、今まで立山に溜まっていた不満が爆発した瞬間だった。たまたま側に山田が居たので、外階段で3人で話し合った。少し話した後、山田が、「じーじ、少し席を外して」と言ってきたので、私はとりあえず厨房へ戻った。少しすると、立山が涙を流しながら帰って来た。すると私に、「じーじ、今日は私が全て悪かったです。許してもらえないと思いますが、今日だけ仕事を手伝ってもらえますか?」と言って来た。私も、「クリスマスイブにこんな辞め方するのは気分悪いから、今日はとりあえず仕事するから。後の事は仕事が終わったら考える」と言うと、「本当にごめんなさい。今日一日宜しくお願いします」と、立山は私にそう言うと、まだ泣いていたので、「いつまでも泣いているとクリスマスを乗り切れないよ。今日が一年の集大成で、今からが戦争なんだから仕事しよう」と私が言うと、私に泣きながら握手を求めてきた。私もて立山の手を握り握手をすると、私まで涙が溢れてきて、その後お互いに抱き合った。何となく、立山を理解した瞬間だと勝手に感じた。クリスマスイブは、想像以上に忙しかった。夜のディナーは3部制にし、1時間半の制限時間を設けて3回転した。私も一人では追い付かないので、日雇いのアルバイトに盛り付けを教えながら何とか仕事をこなした。運良く、アルバイトも飲食店経験者の人だったので、本当に助けられた。1グループ目を何とか無事に終えると、2グループ目の準備に取りかかった。1グループ目で慣れたせいか、日雇いのアルバイトも動きが良くなって来た。クリスマスイブとクリスマスは、クリスマス限定メニューなので、いつもと勝手が違うが、ここまでは何とか順調に進んだ。だが、いつもよりは断然忙しいには変わりなかった。2グループ目を終わらせると、最後の3グループ目だった。私が指示するより先にアルバイト達が動いてくれていたので、後は残り1グループだけだと思い、体を奮い立たせて頑張った。。最後のグループのデザートを出すと、安心したのか少し疲れがでた。すると立山が私に近づき、「今日は、じーじが居なかったら無事に終わりませんでした。じーじ、本当にありがとう」と言って来た、余り口数の多く無い立山が、このような言葉でお礼を言って来ると思わなかったので、私は、感激と共に驚いた。何とか肩付けを終わらせて仕事が終わったのは、夜の11時を過ぎた時間だった。家に着くと、疲れからか、シャワーを浴びて何も食べないで寝てしまった。朝起きると、少し体が疲れていたが、今日を乗り越えれば楽になると思い、頑張って起きて着替え駅に向かった。店に着くと、もう立山は出勤していて、仕事の準備に入っていた。そんな立山に、「膝の手術を終えたらまた会社に戻るから、また一緒に鉄板焼きを教えて下さい」と言うと、涙脆い立山は、「じーじ、こちらこそ宜しくお願いします」と涙ぐみながら答えてくれた。昨日の売り上げは、関東の店の中で売上が一番だったと立山が教えてくれた。私も、途中で仕事を投げ出さずに一緒にやって良かったとの達成譚があった。クリスマス当日は、クリスマスより予約が少ないが、それでも結構な予約数だった。私は立山に、「昨日無事に終わらせたから今日は大丈夫でしょう」と言うと、「今日もアルバイトを指導しながらお願いします」と立山が言ったので、「任せておきな」と声を掛けた。すると、昨日と今日の忙しい時間帯に手伝いに来てくれた岩倉も。「じーじ、今日も頑張りましょう」と言って来た。岩倉も、昨日のクリスマスイブには欠かせ無いメンバーだった。いよいよクリスマスのランチが始まったが、昨日のクリスマスイブのディナーと比べると楽な仕事に感じた。だがクリスマス、昨日と同じで、準備の時間が無かったので賄いは立ちながら食べた。賄いを食べた後、時間も無いのでディナーの準備を始めた。昨日よりディナーも予約が少なかったが、同時にアルバイトも少なかった。私の頭の中では、少しの不安がよぎった。案の定、ディナーが始まると、私は料理を盛り付けながらお客様へ運ぶという、ホールも兼任しないと料理の提供が追い付かなかった。これはただ単に、人員不足が招いた事だったのと同時に、クリスマスイブを乗り切れたという心の余裕が招いた失敗に過ぎなかった。私の体感では、前日のクリスマスイブより忙しく感じた。1グループ目の料理が終わった時、アルバイトを集めてミーティングをして仕事の確認をした。日雇いのアルバイトも昨日とは違うメンバーが大半なので、改めて1グループ目の反省をして指導した。2グループ目の準備は、1グループ目よりもシムーズに進んだ。時々立山が、「じーじの方は大丈夫?」と声を掛けてくれたので、「何とか頑張っているから大丈夫」と返した。3グループ目は、クリスマスの遅い時間という事もあり、予約は満席にならなかった。アルバイトも今までより少ない料理なので、余裕で仕事をこなしてくれていた。何とか無事に二日間を終える事が出来、何となく達成感が芽生えていた。クリスマスを終えると、会社から突然、年末年始の」店休日の連絡があった。大晦日の31日が休みで、元旦と2日を営業し、3日を休みとする連絡だった。元々、31日は私が休む予定だったので、30日が最後の仕事になる予定であるには変わりは無かった。

18 クリスマス以降の年末も忙しい毎日

クリスマス明けの26日、予約のお客様はそんなに入っていないので、気持ちに余裕があったし、クリスマスイブとクリスマスを無事に終えた自信があった。10時頃に」出勤し、いろいろな仕込みを終えて、11時30分の開店時間を」迎えた。予約が一組だけだったので、安心しきっていた。12時近くになると、一組の予約無しのお客様2名がやって来た。それを皮切りに、一組また人組と、」どんどん予約無しのお客様が入って来た。何でも、予約サイトのクリスマスメニューを見て予約しようとしたが、満席で予約出来なかったので今日来たと言うお客様が大半だった。前菜は、準備していた数に何とか間に合ったが、二品目の平目の薄造りが足りず、何度も寿司の大将の山田お願いしに行った。最初は笑顔で平目の薄造りを作ってくれていた山田だったが、余りの追加の多さに、少し戸惑っていたようだった。そんなこんなでランチをやっと終えると、立山が私に、「じーじ、準備しとかないと夜も忙しいかも知れない」と言ったので、私は、昼のランチよりも多くの前菜やオードブルを準備した。少しの休憩をしていると、ディナーは午後の4時からだが、4時前に予約無しのお客様が既に来ていた。私と立山は休憩を切り上げ、夜のディナーの準備を始めた。4時になりディナーが始まると、立山の予想通りにクリスナスに予約が取れなかったお客様が多く来た。こんなにお客様が来るとは予想してなかったので、」いつもの平日のつもりでアルバイトを入れていたので、人員が完全に足りない状態だった。料理の提供が少し遅れたり、オーダーを打ち忘れたりなどのミスは多少あったものの、何とかその日のディナーを無事に終える事が出来た。私も立山も。クリスマスが終わってこんなにお客様が来るのを予想して無かったので、ある意味、クリスマスイブやクリスマスよりも疲れた気分だった。三日連続の忙しさは予想外だったので、家へ着くとぐったりしていた。次の日、立山は休みだったが、ヘルプに来た岩倉には昨日の状況を説明し、「岩倉さん、今日も油断出来ないから、仕込みと料理の準備を前もってしときましょう」と言うと、岩倉は、「昨日も売上が結構行っていたから、かなり忙しそうだと思ったよ。今日も忙しくなるかもね」と言い、仕事に入った。開店時間を過ぎると、私と岩倉の予想は的中し、予約無しと当日予約のお客様で席は埋まっていった。私は料理を作りながら自ら運び、挙句の果てには、ドリンクまで作って運びながら仕事をした。前日と同じで、完全に人員不足であった。限られた人数で仕事をこなすしか無かったので、私は厨房を走りながらホールへ出てドリンクのオーダーを取り、また厨房へ戻っては料理を作りを繰り返した。何とかランチの最後のお客様を終わらせたが、賄いを作る気力がもう私には無かった。仕方が無いので皆んなの注文を聞き、近所の吉野家の牛丼を自腹で買い賄いにした。賄いを作りたくなくなるまで疲れたのは、今回が初めてだった。何人かは、「じーじ、自腹で牛丼買ったんでしょう。俺も少し負担するよ」言ってくれたが、私が決めた事なので、気持ちだけ受け取っておいた。ランチの時、鉄板の前で汗をかきながら肉などを焼いていた岩倉も、さすがに疲れた様子だった。賄いを食べ終わった岩倉が、「じーじ、夜はもっとやばいかも知れないよ」と言ったが、それが現実になるかもと少しだけ頭をよぎった。少しだけ休憩を取り、夜の準備に見落としが無い様に気配りした。4時になり、ディナーの営業時間になると、早速お客様がみえた。最初は余裕で仕事をこなすことが出来たが、午後の6時を過ぎると、予想以上のお客様の多い数の来店を迎えた。時間が経つにつれ、万全に準備していた前菜やオードブルは無くなっていき、最後には、前菜やオードブルを追加で作りながらの仕事になってしまった。当然、洗い物をする時間など無いので、洗い場のシンクには、山積みになった皿の山が出来ていた、コップ類も足りないので、コップだけは手洗いし、皿は山積みの状態にしといた。何とかディナーを終わらせた時、その洗い物の多さを見た岩倉がスマホで写真を撮り、「これを立山さんに送ろう」と言って、画像をLINEで送っていた。その画像を見た立山からの返信は「今日もこんなに忙しかったんですか。休みもらってすいません」だったが、私がこの店に入ってから、こんなに山になった洗い物を見るのは初めてだった。次の日も忙しくなると思ったのか、立山は急遽アルバイトの数を増やしてくれた。寿司屋の人達も手伝ってくれたので、何とか片付けは無事に終わった。帰りの支度をし手駅に着くと、残っていた電車は0時29分の最終電車だった。岩倉の方が最終電車が早いので、先に帰らせた分、私の仕事を終わる時間が遅くなってしまった。連日忙しいので、朝の9時半にタイムカードを押したので、拘束時間は、キュ刑事感を引いても14時間近くになる。それで残業手当が出ないので、内心は、手術後に戻る気持ちが半々になっていた。次の日に出勤すると、私の公休日が一日少ない事が判明し、30日が休みに変更された。なので、29日が実質の仕事終わりとなる予定だった。だが、正月に出てくれるアルバイトが居ないので、元旦と二日は、アルバイトとして仕事する事になった。どうせ入院まで暇だし、バイトが終わってから実家に帰れば良いと思っていたので、別に苦にはならなかったが、初詣帰りのお客様が押し寄せないかと言う不安が少しあった。30日の日、家の片付けを済ませ立山に連絡すると、予約も少なく、当日予約や予約無しのお客様の来店も無く、のんびり仕事しているとの事だった。夜になり、部屋でテレビを観ていると、山田から夜の11時頃に電話があった。「じーじ、皆んなで打ち上げやっているから今から来ない?」と言われたが、今から支度しても最終電車には間に合わない時間だったので、「もう少し早く連絡くれないと電車が無いですよ」と言うと、「原付で来れば良いじゃない。店の前に置いておけば平気だよ」と言うので、「ならば今から支度しますので、何処に迎えば良いんですか?」と聞くと、「24時間やっている磯丸水産に居るから」と言われ電話を切り、私は着替えて、店のある街へと向かった。寒い中、ダウンを着てバイクを走らせた。45分くらいかかり街へ着くと、店のビルの入り口の横にバイクを停めて磯丸水産へ向かった。磯丸水産に着くと、社員だけでなく、アルバイトも何人か残ってくれていた。「じーじ良く来たねお疲れ様。今からはじーじの送別会だ」と山田が言った。もう皆んなお酒が入っているので、ほろ酔い気分で私を迎えてくれた。今までも、仕事の帰りに何人かと居酒屋やキャバクラで飲んだ事はあるが、今日のお酒はいつになく美味しいお酒に感じた。時々、仕事の話になると、「じーじ、手術が終わって足が良くなったら戻って来てね」と、山田や立山に何度も言われた。仕事を辞めたい時も何度かあったし、クリスマスイブは仕事を途中で放棄しようとしたりしたが、皆んなが「戻ってきなよ」と言ってくれる言葉に対し、私は素直に嬉しかった。結局、朝の始発が走るまで皆んなで飲んだが、私はそのまま帰ると飲酒運転になるので、店で仮眠してから帰る事にした。誰も居ない店に入ると、なぜかん懐かしい気持ちになった。正月も仕事に来るのに、社員を辞めたと言う達成感で店を懐かしく思うのだろう。5時間くらい仮眠をし、近くのコンビニでミルクティーを買って飲んでからバイクに乗った。少し寒いけど、バイクを乗っていて当たる風は心地良かった。

19 母親が新型コロナウィルスに感染

家に月昼ご飯を食べると、いつの間にか居眠りしていた。昨夜の飲み会とクリスマスイブ以降の忙しさで、体が疲れていたのだろう。そんな時、突然スマホが鳴った。母親の所に来ている訪問看護師からだった。「お母様の所に行ったら、38度5分の熱があり、血中酸素濃度も低かったのです」と、過去形のように話すから看護師がどこにいるか聞くと、「車で事務所に帰る所です」と言った。私は呆れて、「「コロナが流行っている時期に、あなたは熱があり血中酸素濃度が低下している人を放って置いて、何の手配もせずに帰ったんですか?」と聞くと、「お母様が大丈夫だと言ったので帰りました」と言ってきた。「こちらで何とかしますから、お宅とはもう契約しません」と言って電話を切った後、母親の行きつけの病院に電話を入れた。すると、電話対応した看護師から、「コロナの疑いがあるから救急車を呼んで病院へ連れて来てください」と言われたので、実家の近くの消防署に連絡した。消防署に電話が繋がると、対応してくれた消防士が丁寧に説明をしてくれて、「とりあえず119番に電話をし、中央司令室には事情を話すので、この電話を切った5分後に119番してください」と言われ、消防士の指示通りに連絡をした。20分くらい待つと、家に着いた消防士から電話が来た。「お母様の状態ですが、やはり熱があり血中酸素濃度も低いですね」と言われたので、「病院へは連絡してあるので〇〇病院へ運んで下さい。それと、携帯だけは持たせて下さい」と言うと、「ではその様に対応します」と言われた。母親からの連絡を待っていると、病院から先に連絡が来た。「PCR検査の結果、やはり陽性でしたのでこのまま入院します」との連絡だった。私は直ぐに訪問看護の事務所に連絡をし、苦情と同時に、今日来た看護師が濃厚接触者である事を伝えた。電話の出た人は、そこの事務所の責任者と名乗ったが、言い訳ばかりなので、母親のケアマネジャーに連絡をし、あったこと全てを話し、年明けからは違う訪問看護を頼む事にした。ケアマネジャーと連絡をした後母親に連絡すると、「突然、家に救急車が来て病院へ運ばれたらコロナだった」と元気そうに話すので少し安心していたら、約1時間後、担当の医師から病状説明の電話が来た。「お母様の状態ですが、本人は元気そうですが、肺炎が酷い状態です。基礎疾患もあるので、急変する恐れがあります。その際には、当院には人工心肺やエクモも無いので、これ以上悪化したら転院します」と言われた。さっき話した時は元気だったので、心配して母親に改めて電話をすると、「大丈夫だよ、熱があるだけで咳も無いし、テレビもタダで見放題だから」と、呑気な事を言っているので、「もしかしたら急変して悪くなるかもって先生から電話が来た。食事をちゃんと食べて、少しでも様子が変だったら直ぐに看護師さんを呼びな」と言うと、「そんなに悪いと思わないんだけど」と、咳もせずに普通に会話しているのが唯一の救いだった。母親は、年末年始を病院で迎える事になった。次の日の朝、目が覚めたら元旦で新年を迎える事になったが、年々、正月らしく無い正月になって来ているように感じるのは私だけでは無いと思う。初詣に出かける人達に紛れ、私は元旦を仕事で迎えたので店に電車で向かった。いざ店をオープンすると、初詣帰りのお客様が来ると思われていたランチは客足が少なく、予約のお客様だけとなった。私の本音で言うと、「元旦から予約するなよ。お陰でこっちは元旦から仕事をする事になってしまったじゃないか」と言いたい所だが、年末よりも流石にお客様が少ないので、そこは我慢出来た。午後の4時になりディナーの時間が始まっても、ランチと同じで予約のお客様しか来なかった。夜の9時半になり、」店内のお客様は一組も居ないので、片付けとレジ締めを終えて10時前に店を後にした。こんなに早く帰れるのは久しぶりなので、何処かの居酒屋で皆んなで飲んでから帰りたい所だったが、今日は元旦なので、それぞれが事情があり、飲み会は中止になった。私も真っ直ぐ家に帰り、途中のコンビニで買った缶ビールとつまみで元旦の夜となった。生前の父も言っていたのが、「正月のテレビは年々つまらなくなる」だったが、その言葉に私も同感だった。本当の意味で明日が手術前最後の仕事なので、缶ビールを2本飲み干すと、そのままベットで寝てしまった。1月2日、いよいよ仕事の最終日、いつもの時間の電車に乗り、いつものように店に向かった。店に着くと、もう立山は出勤していて、挨拶をすると、「この肉、帰りに持って帰ってください。つまらない物ですけれど、じーじにはお世話になったので」と言い、お客さまに出す肉を2人前ほどプレゼントしてくれた。言葉少ない立山が、私への感謝の気持ちでプレゼントしてくれた物だと感じた。その日も比較的穏やかに仕事が進み、やはり早めに仕事が終わった。すると、山田が「じーじの送別会をしよう」と言い出したが、暮れの30日にやってもらったし、いつも寄る居酒屋が閉まっていたので丁重にお断りをし、その日は皆んな真っ直ぐ帰る事にした。家に着くと、明日から出勤しなくて良い解放感と、膝の手術に対する不安感が入り混じった感情になった。早速、立山にもらった肉を焼き、晩御飯のおかずにした。さすがはA5ランクの肉である、霜降りの油も上質で、身の部分も本当に美味しかった。翌日、9日に病院の診察があるので、少し長い期間になるが、実家に帰る事にした。

20 退職後

膝は毎日痛い状態が続き、1日も早くこの痛みから解放されたかった。8日に母親が退院する事になったので、私が病院まで迎えに行った。病院から帰って来た母親は、入院する時よりも元気になったような気がした。母親は、膠原病と言う難病を抱えているので、伝え歩きしか出来ず、普段はヘルパーさんにお弁当を買って来てもらって食べる生活をしている。退院した日も、私がスーパーへ行き、お弁当を食べて1日を過ごした。翌日、膝の診察を受けに実家から近い病院へと向かった。レントゲンや血液検査をした後、診察の時間となった。12月にこの病院へ来た時、既に人工膝関節の手術を前提に話をしていたので、今日は入院日を決める事になっていた。当初は、2月1日入院の2月2日手術の予定だったが、コロナの影響からか、2月15日入院の2月16日手術となってしまった。こんなに日にちが空くのだったら、もう少し鉄板焼きで働いていても良かったのかも知れないとは少しだけ考えた。仕事を辞めた後、山田は毎日LINEを送ってきた。立山も、週に3回から4回程度LINEをくれた。アルバイトでは、凜ちゃんとしほちゃんと美咲ちゃんが励ましのLINEをくれた。大山や木下も時々連絡をくれたが、木下にはあげると言ったダウンを渡せず、大山は誕生日プレゼントをあげられなかった事を後悔している。入院までの間、2回病院へ行った。自分の血液を摂っておいて、手術の時に血液が足りなくなったら、自分の血液を輸血するための通院だった。一回に500CC摂り、合計2回で1リットルの血液を、手術の日まで保存してもらった。日に日に入院の日が近づいて来たが、山田は相変わらず毎日LINEが来る日々だった。ただ、内容がつまらない文面が多く、仕事や私の病気に関するLINEが少なかったので、迷惑と聞かれれば正直迷惑だった。でも、マメに連絡くれる事はありがたい。退職して一ヶ月が経つが、退社からは、退職したら貰う離職票が届かなかった。再三、立山や宇佐美に連絡するが、一向に離職票が届かない。保険証の時と言い今回の離職票に関しても、勤務状況ではなく、書類も遅いブラック企業だと思った。結局、離職票が家に届いたのは、退職してから二ヶ月半が過ぎてからだった。

21 入院そして手術 

2月15日、予定通りに病院へ入院した。看護師が事前に入院に必要な物を説明してくれたが、いくつか説明不足の物もあり、足りないものがいくつかあった。足りないものは病院の売店で買い、何とか入院の準備ができた。入院したのは2階のオペ室のある病棟で、隣にはICUもあった。多少緊張していたのか、その日はあまり眠れなかった。手術の当日、朝から手術に向けての下剤やら点滴やらの準備が始まった。執刀医から事前に、手術の方法と、手術が終わる予定時間がおよそ3時間と説明があったので、あまり不安なくオペ室へ行くことが出来た。オペ室に入ると、手足を縛られ、手術中に暴れても対応出来るようにされた。マスクをし、いよいよ麻酔の時が来た。1、2、3と麻酔医が数を数えるが、私は3までしか記憶がなかった。目が覚めると、手術は無事に終わっていた。看護師に聞くと、手術に6時間かかったとの事だった。予定時間の倍の手術時間だったので不安を感じたが、直ぐに執刀医が来て、手術の内容説明と手術が成功したと報告を聞いて安心した。スマホを見ると、山田、立山、凜ちゃん、しほちゃん、美咲ちゃんから手術の成功を祈るLINEが来ていたので、皆んなに無事に手術が成功したと返信した。余程心配だったのか、山田はLINEの返信後に電話をくれた。「じーじ、手術成功して良かったね。また連絡するからリハビリ頑張ってね」との内容だった。術後、思ったより痛みも無く、想像していたよりも楽な術後だった。手術当日の夜も眠れ、看護師からも、「痛みが少なくて良かったね」と言われた。次の日、もう2階から3階へ引っ越しし、早速リハビリが始まった。今の時代、術後の癒着などを防ぐ為、手術後直ぐに体を動かすようだ。これは整形外科に限らず、大腸癌や胃癌でも、動ける人は積極的に体を動かさせているようだ。私が入院した病院は、一部部屋を除いて大半が個室で、私が移動した3階の部屋も、テレビとシャワー付きの個室だった。本当は、追加料金を払う部屋だったらしいが、コロナ禍で部屋が空いてなく、無料でその個室に移ることが出来た。個室とコロナ禍で面会出来ない事もあり、部屋でスマホを使う事は許されていた。病院と言うと食事が不味いイメージだが、私が入院した病院は、おかずの品数も多く、味も他の病院と比べて美味しかった。ただ、魚料理だけはあまり美味しくなかったので、元々サバ類が食べられない事もあり、魚を他の食事に変えて貰った。山田は相変わらずマイペースで、酒を飲んで夜中に突然電話が来ることが度々あり、ある日、看護師に見つかり注意を受けたので、山田には、「病院内は、昼間しか電話しては駄目と言われました。消灯時間を過ぎてからの会話は禁止です」と伝えた。山田も渋々納得したようだった。その頃、立山からは山田との関係での悩みの相談を受けていた。立山の話だと、私が辞めて少し経った1月の中旬頃から、山田が立山に冷たく接するようになり、気に入らないと、強い口調で立山に言い返すようになったと聞いた。立山は、私と山田がまだ連絡を取り合っているのを知っていて、どうしても我慢できないから仲裁に入って欲しいと言った。山田とLINEをして事情を少し聞くと、「最近、てるてる坊やが生意気だからいじめている」と言う答えだった。私が、「仲良くやらないと不味いんじゃ無いですか?」と言っても、「てるてる坊やの態度がムカつくんだよね」とか、「てるてる坊やは上に立つ資格が無い」とか言って、私が止めようとしても聞いてくれなかった。私が退職した後、岩倉が私と交代で店に常駐する事になったのも原因かと思われた。会社の立場上、岩倉より立山の方が上だったので、山田はそれも気に入らなかったようだ。立山が本当に悩んでいたので、私は立山に一本の電話を入れた。「山田の事だけど、腕力で相手を威嚇する事しか出来ないんだから、所詮は寿司しか握れない馬鹿なんだから相手にしない方が良いよ」と言い、「立山が手伝ってる寿司の仕事、もう手伝わなければ顔も見ないで済むじゃない」と言うと、立山は「そうですね。相手にしているのが馬鹿ですよね。なるべく顔を合わせないで済むようにします」と連絡が来た後、立山からの相談は無くなった。でも、この事が後を引き、後に大問題になるとは誰も予想してなかった。

22 リハビリの毎日 

手術を受けた病院では、1階のリハビリ室をコロナの疑いがある来院患者の検査場になっているので、満足といえるリハビリが出来ない状態だった。入院予定期間も三週間だったので、今住んでいる家の近くにあるリハビリ専門病院へ問い合わせると、入院出来るとの答えが返ってきた。ただ、入院前に診察を受けてくれとの事だったので、まだ退院してないけれど、リハビリ専門の病院の診察予約を入れといた。とりあえず、退院まで毎日リハビリしていたが、理学療法士曰く、「順調にリハビリメニューをこなしています。この様子だと回復が早いですね」と言われた。手術してから二日目に車椅子、四日目には松葉杖だったので、理学療法士の言う通り、順調なのかも知れないと思った。入院していると、たまたま実家の前の家のお父さんに会った。腰の骨を折ったらしく、三ヶ月入院しているとの事だった。まさか同じ病院の同じ病棟にいるとは思わなかったので色々話したかったが、コロナ感染予防で、患者同士の会話が禁止されているので、挨拶程度しか話せなかった。日曜日以外、毎日リハビリの日々が続いたが、ある日、週に何回か来る担当医の回診の時に、「ここを退院したら、家の近くのリハビリ専門の病院へ転院したいんですけど」と言うと、「それならば、紹介状を書いておきますのでそれを持って行ってください」と言われ、転院がスムーズに進むように配慮して貰った。この病院は、医師や理学療法士は親切で丁寧だったが、看護師に少し問題があるように感じた。今時の病院事情は、高齢者が多くどうしても認知症気味の患者も居るので仕方ないのかも知れないが、時々、「何度言ったら分かるのよ」とか「何やっているの?余計なことはしないの」などの、怒鳴り声とも聞こえる看護師の声が病棟に響いた。そんな事から、ここの看護師には不信感を持っていた。そんな中、山田からは毎日LINEが朝晩来ていた。多分、電車通勤の時間がかかる人なので、電車に乗っている時にLINEして来ているようだった。でも、毎日心配して連絡来れるのは、時々面倒臭い時もあるが、喜ばしい事だと思った。高校生アルバイトの凜ちゃんも、優しいメッセージのLINEをくれた。しほちゃんや美咲ちゃんは、忘れた頃にLINEの返事をするタイプだった。立山も、週に一度くらいはLINEで連絡し、店の状況などを教えて貰っていた。私が店を抜けた後、ヘルプで来ていた岩倉が常駐して店に入ったのだが、遠い所から通っているので終電が早く、終電を逃して漫画喫茶で一夜を過ごす事が何度もあったと岩倉からは連絡が来ていた。唯一、Pちゃんだけは連絡先を交換していなかったので、Pちゃんの情報は、山田のLINEから聞いていた。男子唯一のアルバイトの平田も、私が抜けてから、積極的に立山の仕事をサポートしていると報告を聞いている。そんな中、病院で大事件が起こる。退院を間近に控えた日、退院の時の支払いについて相談があったのでナースステーションを訪ねた。私は、「退院する時にクレジットカードで払いたいので、事前に病院の前のコンビニへ行って、カード代を先入金して、カード会社に連絡したいんですけど」と言うと、「支払いが済むまで病院から出られません。コロナ禍なので外出は前のコンビニでも許可出来ません」と言われた。続けて私が、「入院中は貴重品やお金を持ってくるなと言われたので、お金を用意してない人はどうやって支払うんですか?」と聞くと、「家族とかが迎えに来た時に一緒に払って貰います」と言うので、「家族が来れない人はどうするんですか?」と聞くと、「会計では無いので、詳しい事は会計に聞いて下さい」と言われ、「ここの看護師って適当だよね。昔入院していた時はもっと看護師がしっかりしていたのに。こんなんだったら、今日にでも退院したい気持ちになるよね」と言うと、看護師の一人が、「「部屋でお待ちください」と言って来た。私は、会計の人を部屋に呼んでくれるかと思い部屋に戻ると、10分くらいすると、先程の看護師が来て、「これにサインして直ぐに退院してください」と紙を持って来た。よく見ると、退院届けの紙だった。私は呆れて、「この病院は、そんな事を看護師がするんですね。ある人から看護師の評判が悪いと聞いたが、本当に最悪ですね」と言い、退院届けにサインをし、荷物をまとめ始めた。怒る気力も無くなる程に呆れてしまった。荷物を纏めると、入退院手続きの所へ行き、キャッシュカードで入院費を払って退院した。私の中では、「もうこんな病院二度と来るか」と言う気持ちだった。病院からバイクに乗り、一旦実家へ帰った。事前に母親には、「今退院したからこれから帰る」と連絡したが、予定の退院日より早く退院したので理由を聞かれ、看護師とのやりとりと、その結果を報告すると、「あの病院も最近評判が良く無いけれど、看護師が酷いんだね」と言い、近所では、入院していた病院の評判が悪いことを教えてくれた。確かに医師と理学療法士は優秀で、院長は、テレビにも出演する位の優秀な人で信頼していたのに、看護師の態度の悪さと患者に対する態度の悪さが、私の病院へ対する信頼度を大きく変えた出来事だった。

23 リハビリ専門病院への転院 

その日は実家に泊まり、翌日に自分の住む街へと帰った。予約したリハビリ専門病院の診察まで何日かあったが、一番大変だったのが買い物で、自分で買いに行けないので、隣に住む人に事情を話し、私の分も買い物をして貰った。いよいよリハビリ専門病院の診察の日、医師の診察の結果は、即刻入院だった。だがやはりコロナ禍なので、入院まで6日待つ事になった。入院までの6日間は、やはり隣の人に買い物をして貰い、家のベットで安静にしていた。家で生活していて大変なのは、歩くのはもちろんだけれど、トイレと段差が厳しかった。まだ手術した場所が晴れているので、トイレの時、足を曲げると痛みがあった。寝る時も、仰向けで寝るか左膝を上にして寝ていた。段差の時は、登るより降りる時にやはり痛かった。そんな毎日を送りながら、いよいよ入院の日になった。家から比較的近いが、前の病院と同じく、バイクにリュックサックを背負って病院へ向かった。病院の受付を済ませると、外のテントに案内された。このテントでPCR検査を行うようだ。テント内に入ると、防護服を着た医師と看護師がいて、医師の問診の後に、看護師が鼻から長い綿棒のような物を入れた。それを終えると、「受付の側に待合室があるから、検査結果が出るまで、その待合室でお待ち下さい」と言われ、待合室へいき、検査の結果が出るのを待っていた。手術をした病院を退院してから、人との接触や外出を控えていたので、コロナ検査は当然陰性だった。待合室から出ると、レントゲンを撮ると言う事なので、レントゲン室の前で待っていた。この時間、レントゲン撮影をする人が集中してしまったので、先に入院手続きの書類を書いた。書類を書き終えてしばらく待つと、やっとレントゲンの撮影の順番が来た。レントゲンを終えると、私が入院する部屋に案内された。部屋は4人部屋で、私の他に一人だけ入院していた。その人も荷物を片付けたりしていたので、私と同じく今日入院したと思われる。ただ、今時の病院でテレビが無いのには驚いた。同室の人も忙しそうだったのと、前の病院で患者同士の会話が禁止だったので、同部屋の人には挨拶をしなかった。食事は、朝が8時で昼が12時、そして夜が午後の6時と言った具合で、手術した病院と同じ時間だった。消灯は午後の9時で、前の病院より1時間早かった。その日の消灯時間になると、同部屋の人はラジオをつけっぱなしで、結局そのまま寝てしまったので、朝までラジオの音が鳴りっぱなしだった。その事で、私は同部屋の人に対し、悪い印象しか持たなくなった。退院する前日まではこの人を含め、後から同じ部屋になった人とは全く会話をしなかった。スマホやパソコンでの執筆を中心に入院生活を送った。それと、このリハビリ専門病院へ来て驚いたのは、最低でも1日2時間、多い時には3時間のリハビリ時間があった。回数にすると、2回または3回のリハビリだった。入院説明の時に、「うちの病院はリハビリに時間をかけますから、最初のうちは体力が付いていかないと思いますよ」と言われたが、本当にそこまで大変だと思わなかった。担当の理学療法士は二人で、新潟出身の青山さんという男性と、埼玉県出身の宮田さんと言う女性だった。部屋の人とは会話しない分、理学療法士の二人とは、プライベートの話までするようになった。この病院では、日曜日も関係なく通常通りにリハビリがあった。なので、休み無く毎日がリハビリという生活だった。時々、今日は疲れているからリハビリをしたく無い日もあったが、毎日のリハビリのおかげで、私の体は順調に回復へ向かって行った。ただ唯一、左足の足首が硬いのが柔らかくならないので、それだけがリハビリでネックになっていた。リハビリ病院へ入院して一ヶ月もすると、杖なしで外を歩行訓練するまでになった。理学療法士の青山から、「最初に入院してきて担当した時、杖で帰れれば良い方だと思っていました。それがここまで回復してくれて、リハビリを担当した私も嬉しいです」と言われ、後は、退院日までリハビリをこなす毎日が続いた。退院の前日の夕方、部屋は4人部屋になっていたが、挨拶もしないで退院するのも何か後味悪いので、私の身分を明かし、執筆活動をしていた事を話した。すると部屋の人からは、「もっと早く言ってくれれば良かったのに。パソコンで何かしていると思ったけれど、作家さんだとは知らないで煩くしてすいませんでした」と、私がただ単に同室の人と会話したくなかっただけなのに、向こうから謝られてしまった。結局、その日は消灯時間まで皆んなで話し、私の退院を祝ってくれた。

24 退院後 

退院したのはゴールデンウィーク直前だったので、退院の翌日から実家へ帰って連休を過ごした。退院後の通院リハビリの1回目はゴールデンウィーク明けなので、ゴールデンウィークは実家でのんびり過ごせた。実家から立山に連絡すると、「岩倉さんが4月下旬に適応障害になり、何日か休んで出勤してきたが、4月いっぱいで退職しました」と言われた。5月からは立山一人で仕事をし、休みの日だけ宇佐美が手伝いに来るような状態らしい。宇佐美からも連絡が来て「アルバイトでも良いから、足が治ったら戻って来てください」と言われたが、手術前に辞めた時点では、この会社に戻る気は100%なかったので、「まだリハビリ中で就労の許可が出てないので、リハビリ中に考えます」と言ってその場を凌いだ。連休明け、通院リハビリの日が来た。午後からだったので、家を少し早く出た。受付を済ますと、リハビリ前に診察をすると聞いた。早めに来ていて良かった。診察が終わりリハビリの時間になると、入院中に担当だった青山が来た。「自宅に帰ってどうですか?何か気付いた事ありますか?」と言われ、「膝を曲げるのは良いけれど、膝を伸ばした時に伸びきらない感じがします」と言うと、膝周りの筋肉を解しながら、「入院している時よりは良くなりましたが、膝周りの筋肉が硬いので、膝が伸びない原因だと思います。左の足首は柔らかくなったので問題無いですが、風呂上がりなどに膝をマッサージして下さい」と言われた。1時間のリハビリ時間だったが、リハビリのお陰で、来た時よりも膝が柔らかくなっていた。来週の予約をし、その日のリハビリは終了した。まだ通院リハビリが始まったばかりなので、仕事の復帰目安の時期に関しては聞かなかった。4回目にリハビリ通院した時、入院していた時の主治医の診察も受けた。膝の腫れもほぼ無く、可動や歩行にも問題無かったので、「アルバイト程度の仕事なら始めて良いですよ」と言われ、リハビリ担当の青山にもそれを話したら、「それは本当に良かったですね。頑張ってリハビリした結果です。何かあった時だけ来れば、通常のリハビリは今日で終わりにしますね」と言われ、本当に何かから解放された気分になった。家に帰ってから、立山に直ぐ連絡した。「今日病院へ行ったら、もうリハビリにはこなくて良いし、アルバイト程度なら始めて良いと言われました。なので、6月からまたお世話になります」と言うと、「じーじ、本当に戻って来てくれるんですね。こちらこそ、よろしくお願いしますね」と言われた。一応、社長の宇佐美にも連絡して、立山との会話を報告した。すると、「岩倉さんが辞めてから人が足りなくて困っていたんです。戻ってくれてありがとうございます」と、宇佐美にも歓迎されたようだった。辞めた当初は、拘束時間は長いし残業手当も付かず、おまけにボーナスも無いし休みも他と比べて少ない会社だったので、絶対に戻る気はないと思っていたが、退職してからも皆んなから連絡が来て入院中も励まされたし、人間関係が嫌いでは無かったので復帰しようと思ったのが正直な気持ちだった。また、他の飲食店に行っても、1から色々覚えるのが面倒だったのも理由の一つである。復帰に関して一番喜んでくれたのは山田だった。退職してからほぼ毎日連絡していたので、喜んでくれたのは嬉しかった。入院中に少しは聞いていたが、私が勤めている店の街には、同じ会社の系列店が他に4店舗あるのだが、会長の一声で、二店舗の営業内容が変わっていた。もう一軒あった鉄板焼きステーキの店は改装し、焼き鳥割烹のような店に変わっていた。徳島が働いていた居酒屋も、徳島が退職以来社員を置かなくなった。その他に大きな変化はなかったが、私が働くビルの寿司いし川と鉄板焼きステーキの南風は、相変わらず売上は好調だった。私自身、5ヶ月も繁華街で飲んで無かったので、キャバクラや居酒屋へ行けるという楽しみもあった。

25 いよいよ職場への復帰 

6月になり、いよいよ前の店に戻る事になった。アルバイトという名目で行くので、気分的には気楽な感じだった。店に入り着替え厨房へ行くと、前とは少し使っている皿などが違ったが、基本的には変わらない厨房内だった。冷蔵庫や冷凍庫を確認しても、前に働いていた時とは大きな変化は無かった。仕事をして直ぐに気付いたのは、私の目の前に貼ってあった書き置きだった。3月にアルバイトを辞めて就職した水嶋あゆみが、「長い間、本当にお世話になりました。私はここでアルバイト出来て本当に幸せでした。また遊びに来るので、皆さんも頑張って下さい」と書かれていた。あゆみちゃんらしい、礼儀正しい挨拶だった。立山に聞いた話だが、5月の忙しい時に人が足りず、仕方なしにあゆみちゃんに連絡すると、仕事終わりにバイトに来てくれたことがあったと聞いた。あゆみちゃんは気遣いが出来、本当に優しい子だと一緒に働いている時から感じていた。あゆみちゃんの存在を大きく実感するのは、新しいアルバイトのシフト表を見て直ぐに判明した。あゆみちゃんは、去年大学4年生で就職も内定していたので、忙しい金曜日、土曜日、日曜日に比較的多くアルバイトに入ってくれたが、新しいアルバイトは、土日にアルバイトを入れず、平日の暇な日だけ入ろうとしているように思えた。私が戻って直ぐの土日、アルバイトが足りずに、私が料理やドリンクを作りながらホールをやる事になった。立山に、「新しいバイトは土日に入ってくれないんですね。私が居た去年とは違いますね」と言うと、「そうなんですよ。じーじが戻ってくる前も土日に人が足りなくて大変だったんです」と答えた。それと、遅刻や当日欠勤も増えていた。私は、「社長の宇佐美に求人出してもらって、駄目なバイトを入れ替えたらどうですか?」と言うと、「もう社長とは相談しているので、近いうちに求人出すと思います」と言う答えが返ってきた。他にも原因がありそうなので、去年からバイトをしていて入院中もLINEをくれたしほちゃんに聞くと、「アルバイトの皆んな、寿司の方にはアルバイトに入りたくない人が大半なんです。忙しくなると辞めたPちゃんや山田が機嫌悪くなるし、怒鳴られたバイトも何人か居るんです」と言って来た。大村Pちゃんは、私と入れ替えで5月いっぱいで退職したが、最後は本当にアルバイトに対して酷かったらしい。Pちゃんがいなくなった分、山田は4月に自分の知り合いの高山を呼んだが、高山も、家庭の事情で6月いっぱいで退職するのが決まっている。そんな悩みも抱えているので、山田も直ぐ機嫌が悪くなるらしい。なので、立山が山田に仕事で頼むことがあっても、「じーじ、代わりに頼んで来てくれない」と言い、立山も相変わらず山田が苦手なようだ。山田は、去年一緒に働いた時から、私に強い口調で言った事も無く、怒鳴るなんて当然ないから、アルバイトや立山からは、頼みづらい山田へのお願いは、私を通して頼むようになった。でも、それで店が潤滑に営業できるなら、私は苦になる事は無かった。アルバイトの中では、唯一男子の平山だけは山田に好かれていて、本来は料理補助という立場でバイトに入ったのだが、寿司のホールをやる機会が多くなっていた。私が戻ってから色々店で問題はあったが、徐々に解決の方向へ向かったのは良かった。

26 立山に本格的に鉄板を教わる日々 立山は、私が仕事に戻る条件として、「鉄板焼きを全て教える事」としていたが、去年教わったガーリックライスは、何回か作ると合格点をもらいお客様へも提供するようになったが、残りの鮑と伊勢海老と肉の練習を少しずつ始めた。最初は、フライパンや鍋が使えるんだから、鉄板焼きは直ぐに覚えられるだろうと思っていたが、やってみると奥が深いのに気付いた。簡単に言うと、鉄板を温めてそこで物を焼くだけだが、道具のタナーやカービンフォーク、それにカービンナイフ等に慣れないと仕事が始まらない。きちんと出来るまで、毎日が勉強である。立山曰く、「じーじは一つ覚えると一つ忘れるよね」と何度か言われたが、簡単そうで難しいものである。そんな練習をしているわたしたちというより立山に、山田が何度かこう言った。「じーじをいつまで経ったら一人前に焼けるように出来るんだよ」と言っているのを聞いた事がある。それに、「じーじが寿司に来ていたら、もうとっくにカウンターに立たせて握らしてるねどな」とも言っていた。私の考えでは、寿司と鉄板は違うので、一概に同じスピードで覚えさせるのは無理じゃないかと思っていたので、山田の意見には反対であった。山田も会社に不満があり、こう言う形で立山に当てつけに接していた部分もあったのだと思う。山田に言われても、立山と私は自分達のペースで鉄板の練習をしていた。徐々に練習を重ねて行くと、立山は、ランチのテーブルのお客様の肉を焼かせてくれるようになった。後は徐々に経験を積み、カウンターやディナーのお客様のメニューもこなせる事が私の課題になった。私が働く鉄板焼きステーキでは、鮑は生きた生を焼いていた。なので、死んでしまった鮑は冷凍し、私の練習用鮑にしていた。そんな鉄板の練習の日々が、土曜日などの忙しい時以外毎日続いた。

27 羽目を外し過ぎたキャバクラ通い

私は、若い頃からキャバクラの雰囲気が好きで、都内を始め、名古屋に約10年住んでいた時もキャバクラへは行っていた。行かなかったのは、結婚していた時期くらいだった。去年の暮れにキャバクラへ行って以来、入院中やリハビリ中はキャバクラに行けなかったので、ある日、仕事が早く終わると、自然と前に行っていたキャバクラに足が向かっていた。入院中もLINEで連絡をくれたエミの店Pへ行った。Pと言う店に着くと、ボーイさんが席へ案内してくれた。席に着くと、笑顔でエミが席へやって来た。「じーじ久しぶり。入院中は本当に心配したんだから」と言われ、私は久しぶりに会って照れ臭かったが、「ありがとう。無事に完治しましたよ」と言うと、退院祝いの乾杯をした。私が入院中にエミも心境の変化があり、暮れから年を跨いでアメリカへ一ヶ月行く予定を立てていると言った。私は一言、「お土産よろしくね」と言うと、「じーじには当然お土産を買って来ますよ」と言ってくれた。その日は一人でキャバクラに行ったが、山田や立山を誘っていく日もあった。ある日、何度か店には行った事はあるけれど、一度だけ指名した女の子からLINEが来た。Aと言うキャバクラに勤める女の子だけれど、「今月は私の誕生日だから、時間が空いている時に来て下さい」との内容だった。時計を集めるのがお互いの趣味で、その女の子とは時計の話で盛り上がったと記憶している。ある日、系列店から大学生の翔太と言う男子がヘルプに来た。店は少し忙しかったが、比較的早く片付けやレジ締めが終わった。翔太君はキャバクラに行った事が無いと仕事中行っていたので、立山を誘い3人でAと言うキャバクラへ行く事にした。私は、色々な店に行くタイプなので、顔と名前が一致しないキャバクラのお姉さんが沢山いる。Aの店のLINEくれた子も、顔の印象は覚えていなかった。店に行き案内されると、隣に座ったのが時計好きのキャバクラのお姉さんだった。顔を見ても、少ししか記憶がなかったが、そのような素振りをせず、会話を楽しんだ。会話していると、私が指名したキャバクラのお姉さんが誕生日月なので、「シャンパンを入れても良い?」と聞いて来たので、「誕生日だから良いよ」と言うと、嬉しそうにシャンパンをボーイさんに頼んでいた。男3人で行き、女の子も3人付くので、シャンパン1本が直ぐに空いた。すると、「次はこのシャンパン飲みたい」と言ってお願いされたが、雰囲気を壊したく無かったので、その場は了承した。正直言って、私はシャンパンが苦手だったので、あまり気は進まなかったのが正直な気持ちだ。どんどんシャンパンを頼み5本を過ぎた頃、ボーイさんが何故かテーブルに付いてくれた。私が指名した子がどんどんシャンパンを頼むので、サービスでボーイさんが相手をしてくれるのだと思っていた。私は、財布の中身だけでは足りなくなると思い、ボーイさんに、「お金を引き出しに行きたいから一緒にコンビニ行ってくれない?」と聞くと、「ちゃんとお供します」と言って、コンビニまでついて来てくれた。帰り際、「あの子は止めないとどんどんシャンパンとかを頼むので、これ以上は頼まないで下さいね」と一言言われた。お店側も、私が指名した女の子が貪欲なので、止めようとボーイさんをテーブルに付かせたのだとその時思った。立山も一度家に帰らないと行けないので会計してもらったら、何と63万円の請求が来た。シャンパンは合計8本、女の子のドリンクと指名料なので、このくらい行っても仕方がないと思ったが、それにしても使い過ぎだった。良く考えると、私の給料2ヶ月分を1日で使った事になる。その日はまあまあ楽しかったので良しとしたが、この日を境にA店の指名しているキャバクラ嬢からしつこくラインが来る様になった。その内容も、「店長と近いうちに食べに行くから今日来られない?」とか「同伴でお店に行くから今日来られない?」と言った内容だった。A店の店長とはLINEを交換していたので真相を確かめると、「そのキャバクラ嬢とはうちの店に行く約束はしてないですね。うちの信用問題になるので注意しておきます」と言われたので、「この際だから指名変えて良いですか?」と店長に聞くと、「その様な事情なら指名を変えても良いですよ」と言われた。そんな事があってから数日後、A店に再び訪れた。山田、立山、大村と私の4人で行くと、「当店からのサービスです」と言って、フルーツの盛り合わせをふたつサービスで出してくれた。ボーイの主任と店長にお礼を言うと、「いつも利用していただいているのでほんの気持ちです」と言われた。スイカやメロンや葡萄等が乗ったフルーツもの盛り合わせは、本当に新鮮で美味しかった。立山とキャバクラに行く時は、立山は私の秘書の役割をしてくれるので、前に指名していた子がどの子か立山にいつも聞いていた。その日は全員指名なしのフリーで入ったので、前に私が指名していた子が、こちらを睨んでいたと立山から後で聞いた。私は無頓着なので、そんな事も知らずに最初に席に付いた子を場内指名し、その日はカラオケ等も歌い楽しんだ。ボーイの主任や店長も席へ挨拶に来て、私は二人にビールをご馳走した。この日、場内指名した女の子は名前を皐月と言い、気に入ったので次から指名するようになった。だが、やはり一番足を運ぶのはP店のエミのキャバクラだった。そんな時、山田とまた二人で飲む機会が何度かあったが、ある日、前に来て指名した女の子が前のイメージと全く違ってがっかりしていたら、山田が、「じーじ、もう一軒行こう。俺が出すから」と、前に行った事がある客らRへと連れて行ってくれた。店の雰囲気も悪くなく、可愛い女の子が揃った店だった。山田は、この店には何度か来ているらしく、ちゃんと指名の女の子が居た。私はフリーで入ったが、二人目に付いた女の子が気に入った。その子を場内指名してもらい、話が大分盛り上がった。名前はありさと言い、何件も行っているキャバクラと比べても、この子の話術は抜群だった。LINEを交換し、その日から毎日ありさとの連絡が続いた。ある日、ありさに何気なく、「ありさちゃんは人気があるからLINE大変でしょう?」と聞くと、「じーじの他には何人かだけで、そんなにLINEはしてないよ。じーじとは毎日しているけれど迷惑だった?」と聞かれ、「迷惑じゃなくてありがたいよ。ありさちゃんて優しいよね」と言うと、「じーじが来てくれる時は何故か指名が多いの。だからじーじはありさの招き猫だよ」と言ってくれた。本当に心優しい子で、こんな子が娘や孫だったらと思う子であった。ありさは会話も上手いが、少し天然な所があるのも可愛い。私のキャバクラ通いは、R店のありさとP店のエミの所へ行くのが多くなった。A店の皐月の店は、他が日曜定休だけれど水曜定休なので、日曜日にキャバクラへ行く時にA店へ行っていた。6月と7月に頻繁にキャバクラへ行ったが、貯金通帳の残高を見た時、こんなに使ったのかと思いゾッとした。8月になってからは、キャバクラ通いを控えている。だが、ありさの店とエミの店はたまに顔を出している。程々にすれば、キャバクラはストレス発散には良い場所だと感じている。

28 山田が暴力事件を起こす 

平穏無事な日々が続いているかと思ったら、突然、山田と立山が一触即発の関係になって来た。山田が言うには、「立山は若いのに生意気で態度がデカい」と言うし。立山が言うには、「社員の決まりであるレジ締めもしないくせに、自分達が早く終わった時だけ知らん顔して先に帰るし」と不満を言っていた。私は、「このままだと二人の溝は深まるばかりだ」と感じた。どんどん関係は悪化し、必要以上の会話はお互いにしなくなった。その代わり、仕事中は立山から不満を聞き、LINEでは山田が不満を私に言ってきた。間に挟まれた私は、どんどんストレスが溜まる一方だった。そんなある日、私はいつもの様に鉄板焼きの厨房で仕事をしていると、立山が泣きながら厨房に入って来て、「じーじ、山田さんに首を絞められて脅されました。もう我慢の限界です」と言って来たので事情を聞いていると、そこに山田が入って来て、「てる、お前は生意気なんだよ。そのくせに仕事を教えるのは下手で、じーじだって一人前に出来てないじゃないか」と、私まで巻き込まれていた。私は、「山田さん、立山さんには毎日ちゃんと教わっていますよ」と言うと、「まだ全部をきちんと焼けないじゃないか。俺ならとっくに一人前にしている」と返された。すると、黙っている立山に向かって山田が、「どうなんだよ」と言って、立山を湯よく押していた。私は山田を後ろから抱えて。「暴力はダメですよ」と言うと、今度は私に、「邪魔するな」と言って、私を殴ろうとした。でも、止めに入った私を殴ることが出来ず、立山の肩を殴って、まだ何度も殴ろうと挑発していた。今の社会、先に手を出した方が悪いと決まっているので、山田に味方する事は出来なかった。その場を何とか納め、二人を離れ離れにすると、立山が私に。「社長に連絡します」と言ってその場を離れた。その日はその後、二人は何も無く仕事をこなしていたが、翌日、再び山田が立山を喫煙所へ呼び出した。立山を呼び出す時の山田の口調は普通だったので、私は昨日の事を謝るのだとばかり思っていた。呼び出されてから約5分後、また涙を流しながら立山が戻って来た。「じーじ、また脅されました。もう警察呼びます」と言ったので、「謝るかと思ったらまた脅したの?手に負えないし、このままじゃ仕事にならないから警察に来てもらいな」と言うと、立山は直ぐに警察へ連絡した。10分位すると交番の警察官が二人、さらに10分後には刑事と警察官が4人来て、合計6人の警察官がやって来た。鉄板焼きにはお客様は無く、寿司に一組のお客様が居る状態だった。続々と警察官が入って来たので、寿司のお客様は驚いた事だろう。この日の鉄板のお客様の予約は取れない様にし、現場検証が始まった。私と立山で厨房であった様子を現場検証し、何枚も写真を何枚も撮られた。一通りの現場検証が終わると、「加害者の現場検証をするので隠れていてください」と警察官に言われ、私と立山は個室に身を隠した。聞こえて来る声から、「はい、間違いなくここで私がやりました」と、山田が認める声がしたので、現場検証で警察に言われた事は認めている様だった。一通りの現場検証が終わると、山田は警察署に連れて行かれ、立山と私は駅前交番で調書を取られる事になった。最初に被害者の立山が交番へ行ったが、調書に3時間程度の時間が掛かった。私も証人として交番へ調書を取りに行ったが、立山と同じく、3時間程度の時間が掛かってしまった。社長の宇佐美からの連絡で、警察の調書が終わった後、店に戻らず系列店の焼き鳥割烹の店へ行く様に言われた。店に着くと、お客様が何組か入っていたので、先に来ていた立山は、ドリンクなどを作り店を手伝っていた。ここの店の責任者の福田からは、「今日は警察で調書をとられたりして疲れているだろうから早く帰れば」と言われたが、「大丈夫なんで店を手伝います」と言って、閉店まで店を手伝った。途中、社長の宇佐美も顔を出し、「山田は身元引受人が来ないと警察から出られないらしい。大学生の娘が警察に身勝っているみたい」と聞いた。「これまで立山にしてきた嫌がらせや暴言を考えると、このくらいされても当然かな」と、私は心の中で思っていた。そんな時、宇佐美の携帯に寿司割烹の新田から電話が入った。「社長、今、山口さんから電話が来て、俺の味方に付かないと殺すからな」と言って脅されたと言うのだ。私と立山と宇佐美は、直ぐに駅前交番へ行きその事を話した。すると、「本署には連絡しておきますので気を付けて下さい。被害者と証人は、加害者と会わない様にして下さい」と、立ち会った警察官に忠告された。社長の宇佐美からは、「じーじは、明日からしばらく焼き鳥割烹の店を手伝って。立川は、4月からの休みを消化してないから、月末まで休んで良いよ」と言われ、私は明日から焼き鳥割烹に勤務する事となった。店を閉めた後、寿司割烹の新田が店にやって来た「なんで暴行事件を起こしてクビにならないの?」と、その場にいた宇佐美に言うと、「事件を起こしただけでは解雇出来なくて、起訴とかされて刑事罰が付けば解雇出来るんです。そうじゃないと、相手から不当解雇として訴えられる可能性があるんです」と答えた。その日の夜も、会社内でいろいろ話し合いがされたが。会社内で話し合った結果、8月から山田と大村Pは西口の寿司割烹へ移動になり、私と立川は、そのまま元の店で働く事になった。8月までは10日も無いので、直ぐに戻れると安心した。焼き鳥割烹に次の日から出勤したが、同じ会社でも他店では働いた事が無かったので、気持ちは新鮮に思えた。焼き鳥割烹に来て、せっかくなのでレジなども教えてもらい、鉄板焼きに戻っても困らないように研修した。慣れてきた五日目の朝、「急に鉄板焼きへ社長が来てくれと言っているので、道具を持って鉄板焼きに戻って」と福田から言われた。慌てて戻ると、社長一人では対処できない人数の予約が入っていた。前菜や薄造りや茶碗蒸しなどを準備し、お客様が来て提供していると、社長の宇佐美が、「じーじ、表に来て肉焼いて」と言って来た。宇佐美に教わりながら、私もランチの肉を焼いていた。少しぎこちなかったが、思ったよりも出来は良かったと自分で思った。「じーじ、早く一通り鉄板を覚えてもらわないと人が足りないからお願いします」と社長の宇佐美に言われ、「戻ってきてまだ二ヶ月もしないのに会社は焦っているな」と私は感じた。残り2日は、都内の系列店で鉄板焼き料理長をしている飯塚が手伝いに来た。飯塚も社長の宇佐美と一緒で、「数をこなして行かないと鉄板は覚えない」と言う考えだったので、特にランチは私にどんどん鉄板で焼かせた。予約が少なかったので時間が空くと、飯塚なりのやり方を教えてくれた。立山、宇佐美、飯塚の3人では、鉄板の使う道具も微妙に違い、やり方も違っていた。飯塚曰く、「皆んなの良い所だけを真似して、じーじのオリジナルのスタイルを作れば良いんだよ。立山さんのやり方をそのまま真似る事は必要ないと思うよ」と言われると、少し肩の荷が降りた気がした。飯塚は、元々大宮の鉄板焼きの姉妹店に居たが、店を閉め焼き鳥割烹になったので都内に通っているが、大宮勤務希望らしく、「大宮に戻ったら一緒にやりませんか?」とは言われたが、会社が決める事なので返事を控えた。飯塚は、2日間手伝いに来たが、前より良い印象になった。だがこの3日間で、山田との間で面倒な問題が起きる。暴行事件後、警察から他の社員と連絡を取らない様に言われた山田だが、「じーじはただの証人で関係無いじゃない」と言う持論を言い出し」、LINEを続けると言い出した。私からすると、「加害者と目撃証人は警察の立場からしても接点を持つのはまずい」と思うのだが、山田は身勝手な所があるので、「そんなのは関係ない」と言う立場を貫いた。私はLINEをブロックしていたが、仕方なしにブロック解除したのだが、これが後で後悔する事となる。8月になり、立山も戻り仕事をいつも通りに鉄板はやっているのだが、寿司の板前のメンバーが総入れ替えになったので、前と違って多少の違和感があった。寿司のメニューも全て変わり、寿司いし川は一からのスタートとなった。板前は、小田と飯山の二人になり、焼き鳥割烹に併設する寿司岩田といし川を新田が掛け持つと言う形になった。賄いも、今までは殆ど私が作っていたが、新田も作ってくれるので、その点は少し負担が減った。だが問題は、今まで新田がいた店に行った山田と大村Pは、レジが殆どできない人間だった。私が入院中に立山が大村Pに教えたが、覚え切ることが出来なかったらしい。そんな状態なので、レジでトラブルが起きると、私のスマホに山田から電話が何度も来た。この近くの系列店で働く人とのLINEをブロックしているので、私しか連絡が取れないのが私に電話が来る理由だった。私の店は忙しいので私は行けず、福田や今度福田が働いている店に併設する寿司店の大将になった黒田に頼み、私の代わりにトラブル処理に行ってもらった。山田がこちらの店から連れて行ったアルバイトも、レジには知識が無い子ばかりだった。それを予想して、新田が何人かレジの出来るアルバイトを残して来たらしいが、皆んなが山田と大村Pとは合わず、結局はうちの店か福田の店にバイトに行く様になってしまった。そんな事もあり、私は山田のお陰でストレスが溜まって行った。そんなある日、店の帰りの駅で、山田に偶然会ってしまった。私が先に気付いて知らん顔しようとしたが、山田に見つかってしまい声を掛けられた。「じーじ、終電が遅れているから帰れないよ。じーじの所へ行っても良い?」と言われたので、「うちは狭いので寝る所がないです。それに今日は体調が悪いので早く帰ります」言ったにも関わらず、「とりあえずじーじと一緒に電車に乗るよ」と言い、私が帰る方面のホームへ来てしまった。「山田さん、今日だけは勘弁して」と言っても、「磯丸水産で時間を潰すから平気」とか言い、とうとう電車に乗って来てしまった。本当に自分勝手な山田である。私が住む街へ電車が着くと、仕方が無いので何度か行ったカラオケスナックに案内した。ただし、「私は先に帰りますから。今日は体調が良くないので」と言うと、「良いよ、先に帰っても」と言っておきながら、朝の4時まで付き合わされた。私の疲れた様子を見たママが、「今日は、お客さんも来ないから早く閉めますね」言ってくれたので、本来は5時までやっている店だが、1時間前に閉店してくれた。私は自転車で直ぐに帰りシャワーもせずに寝たが、起きた瞬間、目眩で倒れてしまった。近所の病院へ行くと、「脳や耳に異常が無いから、精神的なものかも知れませんね」と言われ、市内の精神科を受診した。すると、「これは適応障害ですね。安静にしているのと入院が必要かも知れないので、明後日また来て下さい」と言われ、二日分の薬を貰い帰った。適応障害とは、皇后陛下雅子様もなった病気で、一番は、環境を変える事が良いらしい。私の話を聞いた医師からも、「できれば仕事を辞めた方が良いね」と言われてしまった。拘束時間が長いのと、山口と立山の暴行事件で私のメンタルが参ってしまったのだろう。立山には事前に、「体調が悪いから病院へ行きます」と連絡しておいたが、入院の可能性があることもLINEしておいた。すると、「こちらは大丈夫なので心配せず、きちんと診察してもらって下さい」との返事が返ってきた。この日は土曜日だったので、急に私が休んで立山は大変だったと思われる。だが、私の身体はダメージを受けていた。何度も倒れそうになり、食事とトイレ以外はベッドに寝ていた。それでも回復せず、次の日も休ませてもらった。月曜日になり、再び精神科を訪れて受診すると、担当医から色々聞かれた。その結果、「やはり一ヶ月程度の入院が必要ですね」と言われ、家から比較的近い病院なので、「今日は帰って入院の支度をし、明日に入院します」と言った。診察が終わると、植え付けの横で椅子に座り、入院に必要な物や入院の説明を受けてから病院を後にした。家へ着くと、直ぐに立山へ連絡した。「診察の結果、一ヶ月程度の入院になりました」と言うと、仕事のことは気にせず、きちんと身体を治してください。」と言われ、その日の夜、「社長と話して休業扱いになりました」と連絡があった。翌日、午前中に入院してくださいと言われていたので、10時半頃病院へ入院の支度を持って向かった。病院へ着くと、事務の人から「もう一枚書いてほしい書類があります」と言われて文面を読むと、「この病院へ入院してみたり聞いたりしたことを、週刊誌や雑誌の記事にしない」と言う誓約書だった。前にこの病院へ不眠で通ったことがあるので、院長は私が作家兼ライターだと知っての誓約書だと思われる。なので、病院内の様子などはここでは触れないでおく。そんな感じなので、外部との連絡も制限があり、ナースステーションの前の公衆電話しか使えないが、私だけ持ち込んだスマホとパソコンを、時間限定で使うことを許された。特にLINEや電話の着信は、毎日必ずチェックしていた。そんなある日、山田から「じーじ大丈夫?早く良くなってね」とLINEがあったが、「あんたのせいで病気になった」とは言わないでおいた。山田の他は、アルバイトのしほちゃん、凜ちゃん、美咲ちゃんが心配して連絡をくれたが、色々な店のキャバクラのお姉さんも、心配してLINEをくれた。中でも、ありさちゃんは毎日LINEをくれ、入院中の支えになった気がする。また山田からLINEが来ると、「今日はこれから警察の取り調べです。今、警察に向かっています」とLINEが来てから何日もLINEが来なかったので、「もしかして警察か拘置所に拘束された?」と思ったら、ただ忙しくて連絡しなかっただけらしい。ただ、「また呼ばれたら警察に行く」と言っていたので、前科もあるらしいので、何だかの処分はされるであろう。

29 グループ会社が変わり人事異動が大幅に行われた

10月15日に、テルくん事立山が移動になり、代わりに飯塚が料理長として来たが、立山と違い、」仕事を疎かにする人間だった。暴行事件を起こした山田も居なくなったので、社員は、私一人だけが残る形になった。同じ地区の別の店に行った山田は。左手の小指を骨折し、手術を受けたが、寿司は握れない状態になってしまった。一緒に働いていたPちゃんから事情を聞くと、「あれは偽装労災です、仕事中の怪我では無いですよ」と教えてくれた。山田の事だから、金目当てで偽装報告を会社にして、労災の金を貰う気なのだろう。元々、山田は金にせこかったし、金を持っている客に可愛がられると、金魚のフンみたいにキャバクラやラウンジに着いて行き、客の金で飲み歩いていた。金にせこい山田だから、今回も偽装労災の申請をしたのだろう。労災と言っても、実際にお金が貰えるのは完治後らしいので、山田は今、本当に金に困っているらしい。そんな中、11月から私がいる地区の店は、グループ会社に所属することになった。メニューも新しくなる様だが、新しい料理長の飯塚は、「お前本当にフレンチの店に居たの?」と思う位料理やソースを知らない。今の飯塚の実力で言えば、本格的フランス料理店では、「一から勉強し直してください」レベルである。この会社がブラック企業で人材不足だから運よく料理長になれたが、包丁の使い方や鉄板の使い方を見ても、私より優れていると思える事が一つも無い。私は黙って仕事をしているが、飯塚に対する不信感は、日に日に増していった。料理人として最低なのは、自分の包丁を持って来ないし使わない事が料理人と呼べないだろう。ましてや料理長が、人の包丁を使って仕事をするなんて、今まで経験した事がない事だった。言い方は悪いが、他の店で使い物にならなかった人間の集まりがうちの会社なんだろうと思う。頭が賢くて他に行くところがある人ほど早く退社し、他の会社に移動する傾向がある。後は給料面で、残業代は出さないし勤務時間も長いが、他の会社よりも給料が多いので、そこで妥協する人間もいる。そんな環境下にあるから人間関係も最悪である。山田だけでなく、他にもオラオラ系の人間がいる。Pちゃんも犠牲者だが、私もPちゃんと同じ人間にパワハラを受けた。その人物は新田と言い、中卒で料理長になったので天狗になっている。目の前で気に入らない事があると、直ぐに怒鳴ったり説教したりが日常茶飯事で、一緒に働く人間からすると、本当に迷惑だし、存在自体消えて欲しいと思う人物である。下手をすると、あの山田よりタチが悪いかも知れない。新田は、酒乱の傾向もあり、酒を飲むと誰かを説教すると言う噂を耳にしていたが、先日、とうとう私がそのターゲットになってしまった。新田は、居酒屋でネチネチと嫌味を言い、反論するとキレて怒鳴ると言った具合のタチの悪い奴だった。Pちゃんからは、「じーじ、新田は本当にやばい奴ですから関わらないでください」と、前に忠告されていたのに、普段の仕事ではその様な様子が見られなかったので、私に見る目が無かったのも事実である。新田自体、年内いっぱいで退職するのが決まっているのだから、「お前は大人しくしていろよ」と言うのが私の本音である。私は、8月から9月にかけて体調を崩して入院しなのだが、その時の休業補償が健保協会から支払われない。内情を聞くと、「会社からまだ書類が提出されていません」だった。保険証を受け取るのに3ヶ月、離職票も受け取るのに3ヶ月、挙句の果てには休業補償も3ヶ月後になるのだろうか?全国に130店舗以上飲食店をやっている会社とは思えない待遇である。会長自身も、今年の9月からドバイに住む予定だったが、国税局に目をつけられているとの情報が入り、ドバイ移住を断念している。長時間拘束、残業手当なし、ボーナスも無し、月6日休みで社員を使い捨てしているのだから、誰かが国税局に内部告発したのだろう。いずれにせよ、残業代やボーナスも出さないで会長の至福ばかり肥やしているような会社は、早く無くなれば良いと私も思う。雇われ社長の宇佐美も、仕事ができないと言う理由で、本社に缶詰にされている。宇佐美は社長の器では無いので、いずれ会長からクビを宣告されるだろう。本社に缶詰にされた歴代雇われ社長は、全てがクビになっているからだ。なので、宇佐美が社長をしているグループから、違うグループへ店舗丸ごと変わったのだろう。人も変わり会社も変わったので、私は退職するチャンスだと考えた。すると、立山と入れ替わりで来た飯塚は、クリスマスに人が必要だと考えたのか、「会社に残ってくれませんか?」と、何度も打診をしてきた。飯塚の目的は、クリスマスが大変なのもあるけれど、私が居ると、私に飲み代をたかれるから残れと言っているのも明白だった。そんな人間関係の中で仕事を続けるほど私は馬鹿では無い。さっさと辞めて、新天地で執筆活動をしながら仕事をするのが理想である。今の会社だと、朝出勤して夜中に帰宅。休みの日も疲れてパソコンに向かえない毎日だった。何はともあれ、会社を退職するのが一番と考えていた。そんなある日、山田が仕事に復帰したとの情報が入った。私が働く区域の店は、系列のグループ会社に変わったので、当然、山田の居場所は無い。東京の郊外の店に居るとの事だった。LINEもブロックしているので、山田とは全く連絡をとっていないが、この原稿を書くきっかけになったのには感謝している。暴行事件の判決も出てないので、山田自身、不安な毎日を送っているのだろう。てる君も、調書の時に、「山田には、厳罰を希望します」と言ったし、過去にも、暴行や傷害で前科があるので、検事も簡単な処分にはしないだろう。私も山、田にストーカーされた被害者なので、もう山田とは関わりたく無い一人である。山田が居なくなったと思って安心したら、新田という山田と似た人物が現れたのは誤算だった。新田が居なければ、今年いっぱい仕事を続けたかも知れない。結論から言うと、ブラック企業で働く人は、陰で狡い事をしているか、会社の調子にゴマをする人間ばかりで、賢い人ほど早く退社するし、長続きしない人が圧倒的に多い。それに、他では雇ってもらえない様な人も多数いると言う事だ。おまけに多額の脱税。こんな会社は今の日本には要らないので、早く潰れて欲しいのが私の心情である。こんな環境の中で、一年以上我慢して働いた私を褒めてあげたい。

30 山田が書類送検後不起訴になる

てるてる坊やに暴行を働き警察に逮捕された山田だったが、娘が警察に身元引き受け人で出向いたため、その日のうちに釈放されたが、釈放後、「俺には昔前科があるから、被害届を取り消してもらわないとまずいよね」と言っていたが、てるてる坊やは、かなり前から嫌がらせを受けていたので、「じーじ、絶対に被害届は取り下げないです」言っていた。私も、てるてる坊やの立場だったら、やはり被害届は取り下げないだろうと思った。私が退職後、1ヶ月が過ぎた頃にてるてる坊やから電話が入る。「じーじ、今時間大丈夫ですか?」と言うので「少しの時間なら平気だけど」と言うと「実は山田の件で検察から電話があり、山田は不起訴だそうです。あれだけ私達に前科があるとか言っていたのに、過去に全く前科が無いので不起訴にしましたって検事が言っていました」とてるてる坊やが言った。私は、「山田はハッタリだけで、格闘技とかやっていたとか言っていたけど、それも全部嘘じゃない?テル君も今後、山田とは一緒に働くこともないし会うことも無いんだから、早く忘れちゃった方が良いよ」と言って電話を切った。山田は私にも、「俺、アマチュアだけど格闘技やってるから、その辺の小僧には負けないんだよね」と言っていたが、それも全て嘘だと思うと、本当に山田は情けない奴だと思えた。山田に関する話がまだあるが、11月に仕事中に怪我押して労災の認定を受けて休職していたが、実は労災ではなくて、Pちゃんに起こった山田が、Pちゃんに対して包丁を振りかざそうとしたが、剣道5段のPちゃんの反撃似合い、左手の小指を骨折したとの事だった。喧嘩に対して自分に自信があった山田が、Pちゃんを甘く見たので逆にやり返されたのだろう。早く言えば、偽装労災と言う事になる。左手の小指を複雑骨折した山田は、手術後も寿司が握れず、会社としては早く自分から辞めて欲しいらしく、東京郊外の店を転々とさせていると聞いた。てるてる坊やと暴行事件を起こした時は、「俺には行く店がいくらでもあるから、退職しても構わない」と言っていたが、それも全て嘘だと思うと、本当に情けない人間「山田」である。まぁ、もう仕事を一緒にする事やアウ事もないので、山田と縁が切れてホッとしている私が居る。

31 巧妙なる会社の脱税方法

水商売のキャバクラなどで、会社を何年か毎にかえ、法人税を脱税している話は聞いた事があるが、私がいた会社も、キャバクラと同じ様に会社を変え、税金を免れていた。それだけでは無く、社員やバイトから領収書やレシートを集め、脱税に使うために経費として申請するやり方も行っていた。飲食店だけで100店舗を軽く超える会社なので、その脱税額を想像すると恐ろしい金額になるであろう。会長は、2023年に再婚し、同年9月からドバイに住む予定だった。それなのに、「税務署から目をつけられている」という噂が広まり、ドバイ行きを諦めたのだった。現在働いている社員や元社員から恨みを買うような人物だったので、誰かが内部告発した可能性がある。「ちなみに、私も退職後に東京国税局に内部告発をした」それにも懲りず、2024年になっても、社員やアルバイトから領収書やレシートを集め脱税を試みている会長は、1日も早く脱税で逮捕されてしまえば良いと考えている。

32 皆んなとのお別れ

退職後、てるてる坊ややアルバイトと連絡をとり、食事や飲みに行ったりしていたが、私が参加すると、いつも会計を払うのは私だった。会社に入った時から、作家兼ライターだったのを皆んなが知っていたので、いつに間にか金持ちキャラにされてしまった。確かに、アルバイトの誕生日やクリスマスプレゼントを渡していたが、ある日、食事会で高級店に行くようになってしまった。アルバイトの中には、私がお金を払うことを見込んで、大学の同級生まで呼ぶ様になった、そうなると、私のお金はどんどん減っていき、貯金も減らす様になってしまった。挙句の果てにはm「じーじ、私にアップルウォッチ買って」とまで言う女子のバイトまで出てきた。私は、「何で辞めた会社のアルバイトにここまでしなくてはいけないんだろう」と思う様になり、あれだけあった貯金もいずれは無くなるという警戒感が生まれた。バイト連中は歯止めが効かず、「じーじを囲む会」と言うLINEグループまで作った。私に言わせれば、「じーじを囲む会ではなく、じーじにたかる会」としか思えなかった。そんな連中とは、これから先に付き合い続けても、損するばかりで得をする事は無いと判断し、電話やLINEを全てブロックした。私は、いろいろな業界の有名人著名人と交流があるので、ある有名人の後輩から、「人付き合いは考えた方が良いですよ」と言われていたのを思い出し、自分と価値観が近い人と付き合うように考え直した。残念ながら、私が働いていた鉄板焼きステーキの店の会社の中には、私の価値観に近い人間は居なかった。そんな事から、辞めた会社の社員やアルバイトとは縁を切らせてもらった。音信不通になってから半月後、Facebookのメッセンジャーを通して、テルテル坊やから「何で急に連絡を皆んなと経ったんですか?皆、じーじの事を慕っていたのに。原因があったら教えてください」と言うメッセージと共に、Facebookの友達申請が来た。てるてる坊やからは退職後も、「今日は予約も無く暇なんで、じーじが時間あったら売上に協力して下さい」と言われ、てるてる坊や移動した店に出向いて売上協力もした。私が皆んなに言いたいのは、「私を煽てていつも私にお金を出させるが、私は皆んなのど財布では無い」と声を大にして言いたい。そんな事から、後書き

約1年と言う時間の中で、私が働いた飲食店では色々な出来事が起きた。人間関係やトラブル、そして脱税。挙句の果てには暴行事件まで起きた。日常生活を送っていて、こんなに色々な事があるのも珍しいと思い原稿を書いた。登場人物こそ偽名だが、内容はノンフィクションである。現実にこんな事が起きる飲食店が、埼玉のとある繁華街にあるのを知って欲しくて原稿にした。心を鬼にして皆んなとの連絡を絶ったのであった。                  

会社のブラック企業体制も改善して欲しいし、仲間で楽しく仕事がしたいとの思いもある。新型コロナと言う人類初の病気も蔓延し、幾つもの飲食店が潰れる中、不思議と経営が成り立っている私が働く店は謎である。飲食店はブラック企業が多いと前から言われていたが、最近は改善され、働き易い職場が増えていると聞く。そんな中、まだこんな飲食店を運営する会社があるのが信じられない。そこで、私はその店の人間模様と共に、飲食店のあるべき姿を改善して貰いたく、今回こうして原稿を書いた。テレビであるコメンテーターが「残業代やボーナスを出さない会社は、もう日本では必要無いから消えてくれ」と言った。私が働いていた会社は、まさにその通りだと思う。いつの日か会社が改善されて優良企業になるか、または人材が集まらずに倒産するかの二択だと思われる。私は、そんな会社の今後を外から見届けたい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

埼玉県のとある繁華街のブラック企業飲食店の人間模様 渡辺雅紀 @atsuma1921

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る