第4話

 翌朝、私は日が出て間もない頃に目が覚めた。前日の酒は躰には残っておらず、あれだけ飲んだというのに驚かされたものだ。というのも、私は酒には弱い方だとばかり思っていたからである。


 彼女は居間にはいなかった。このときの私は、まだ彼女は起きていないのだろうとばかり考えていた。そうではないと知れたのは老人が朝食を運んできたときのことだった。どういうわけか食事は私と老人の分しか用意されておらず、彼女が昨晩座っていた場所には、座布団すらおかれていなかった。


 何をおっしゃいます若いお方。あなたは初めから一人でここにやってこられたではありませんか。彼女の所在を聞いた私を驚愕させたのは、そんな老人の一言だった。


 そんな莫迦な。私は間違いなく彼女とともにこの場所にやってきた。鳥居をくぐり、帰ろうとしたところをこの老翁に止められ、食事と酒をご馳走になり、そして各々用意された布団で眠りについた。私が一人できたなどと、何かの間違いだ。だがいくら問いただそうとも老人は彼女の存在を認めることなく、ただ人懐こくも不安にさせる、例の微笑みを浮かべるだけだった。


 彼女が頼み込んで悪ふざけをしている。そう思ったのは最初の頃だけだった。集落を探し歩き、すれ違う人々――皆あの老人と同様に頭巾で顔を覆っていた――に彼女を見かけなかったと問いかけ続け、皆一様にそんな人間は見ていないと答えが返ってくれば当然の帰結とも言える。それでも探すことをやめようとしなかったのは、私の中にあった漠然とした不安のためであった。早く彼女を見つけなければ。そんな焦りばかりが先行し、気がつけば、日は南中を巡り、西の果てへとさしかかろうとしていた。車にいるかも知れないと一度車に戻ってはみたものの、彼女の姿はおろか彼女がやってきた形跡すら見つけることは叶わなかった。


 思えば、そのときに帰ってしまえばよかったのだろう。探したところで彼女は見つからず、いやたとえ見つけたとしてももはや私にはどうしようもない事態に陥っていると理解さえしていれば。


 老人の家で二度目の朝を迎え、そして再び夜の帳が下ろされた時分、なおも彼女の消息は知れず、一度集落を出て警察に向かおうかと、私は車へと向かっていた。やがて駐車した位置にそのままの形で置かれている車体を見て妙な安心を覚えながら、車に乗り込みイグニッションキーを回した。エンジンが完全に始動するや、私はシートベルトを締めることも忘れたまま車を走らせた。何故それほどにあわてていたのか、私には分からない。


 だが、数分と走らないうちに私はブレーキを踏む羽目となった。それもタイヤが悲鳴を上げるほどの勢いで。そこに生じた齟齬は、決して見過ごしてはならないものだったからだ。


 嗚呼、行ってしまわれるのですか。これは困った、とても困ったことになりましたな。


 莫迦な。私が乗り込んだときには誰も乗っていなかったはずだ。私が乗った後にしても誰も乗り込んではこなかったし、第一乗り込ませた覚えもない。何故だ。そう問いかけようとして、私はその声がした方向へと目を向けた。


 いつの間にか助手席には、件の老人が、それまでつけていた頭巾を外してあの笑みを浮かべて座っていたのだ。


 ようやく、私は老人の笑みに不安を覚えていた理由を理解した。それは至極単純で、それ故に気づくことが難しいものであった。何のことはない。老人の顔は、歪んだ鏡に映し出された、よく知っていながらも目で直接捉えることはできない人間のそれだった。不安を覚えたのは笑みにではなく、老人そのものに対してだったのだ。


 老人は、私にとてもよく似ていた。いや、似ていたなどという度合いではない。老人の顔は、紛う方無き私の顔だった。


 その先の記憶は、ひどく曖昧模糊としたものだった。集落へ戻り、再び老人の家に上がり、そして、気づけば私は全く知らない場所へとやってきていた。いや、やってきていたと言うよりは連れてこられたと述べるべきだろう。私の周りは頭巾をかぶった村人に取り囲まれ、それらを先導するかのように件の老人が前にいたのだから。そこに至るまでどれほどの時間が経過したか、どのような道を経たかなど分かるわけもない。ただ、全てが空虚な映像の中でただ一つ鮮烈に残る事実をここに記そう。


 そこは草すら生えない広い丘だった。中央には石で築かれた円形の台座のようなものがあり、その中心には何者かが寝かされていた。台座を取り囲むようにして頭巾をかぶった村人が立ち並び、その右手には一様に本が抱えられていた。その本のタイトルがいかようなものか私には知りかねることだったが、ただならぬ不快感を帯びたものだった……ような気がする。記憶が不明瞭な今、確かなことをわずかしか伝えられないのが悔やまれてならない。


 不意に、村人が本を広げ、左手を突き出した。何をするつもりだ。私の目は自然と台座に向けられた。その刹那のうちに、私の身体はまったくもって動かなくなり、息すらまともにできぬほどの圧迫感と、粘ついた手で全身をなで回されるような不快感を感じ取った。


 何かが、起きようとしている。何の理由もなく考え、そしてその直後には真実何かが起こっていた。それが具体的になんだったのか、私には記すことはできない。覚えていないわけではない。記しようがないのだ。たとえ記せたとしても、私にはあんなものを書き残す勇気はない。それでもあえて言うとすれば、あれは、そう、混沌だった。不定形の混沌とでも言うべきか。ただ一つだけはっきりと言えることといえば、台座に寝ていた人間は、私のよく知る、そしてここ数日探し歩いていた人物だったということだけだ。

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