第3話

 なぜこんなところに釘付けにされてしまったのだろうか。確かに古い町並みには興味がある。だがあの場所からこの集落は見えなかったし、そも冷や汗をかくほどの要因がこの場所には微塵たりとも見あたらない。


 帰ろうか。そう言ったのは果たしてどちらだったろうか。いや、そんなことは詮無きことだ。私達は来たばかりの昭和の町に背を向け、車へと戻ろうと来た道を引き返し始めた。


 お二人さん。もうじき日が暮れます。今日はここに留まっていかれてはどうでしょう。このあたりは夜になりますと野犬が出て危のうございます。悪いことは言いません、泊まっていきなされ。


 そんな言葉をかけられたのはまさにそのときであった。再び集落のほうに目を向けると、いかにも人のよさそうな、だがなぜだか不安にさせられる老翁の姿があった。農作業でもやっていたのであろうか頭には頭巾をかぶり――不思議なことにその頭巾で老人は口元以外の部分をほとんど隠していた――、村を指すその手はやたらと節くれ立っていた。老体故の矮躯は私の胸よりも少し下ほどしかないその老人は、真に人懐こい笑顔を浮かべていたが、どうにも私はその笑顔にいい印象を受けなかった。とはいえ野犬が出ると聞いては引き返すわけにもいかない。もはや空には太陽の光は乏しく、月に反射するそれ意外には見受けられなかったからである。無理をして引き返すこともできないではなかったが、彼女がいるということを加味すればリスクを負うよりも老人の好意に甘えるべきだと判断し、彼女に目配せをした。彼女もまたここに泊まることに賛成らしく、軽い笑顔で頷いてくれた。いや、頷いてしまった。


 私は老人に感謝を告げ、少し奥にあるというその老人の住居に一晩お世話になることになった。外に置いたままの車が心配ではあったが、貴重品は全て持ってきているし、駐車禁止の場所でもなかったことを思い出してからは車のことは頭から離れてしまった。


 老人の言葉通り、彼の家は集落の最奥、半ば周囲の森と同化しつつあるような場所にひっそり閑としてたたずんでいた。他の家に比べ腐食の具合は軽度ではあるものの、相当な年期を経たものであることは、所々に見られる補修後からも明らかだった。私達は老人に勧められるままに居間に上がり、古めかしい卓袱台の前に腰を下ろした。家に上がっても老人は、頭巾を外すことはしなかった。


 外観からしてそうではないかと感じてはいたのだが、中もなかなかの年季の入りようだった。部屋を照らす証明は決して明るいとは言い難く、だがどこか安心感を誘うほどよい明るさで、居間に並べられている棚やその他の家財道具全てに至るまで木製、その一つである電話台とおぼしき台に乗っているのはこの景色に似合う黒電話という具合だった。本当にここは昭和の世界なのではないか。私は無論、彼女もそう思っていたに違いない。


 用意された食事は思いもよらぬほどに豪華だった。どれも和食の域で収まっているものばかりで、卓袱台の中央を飾る煮転がしの味たるや、口に含むや否や確りと味付けをされた芋が放つ馥郁たる香りが広がるのを実感できるほどの美味だった。私には濃いめの味付けであったが決して嫌みなものではなかった。彼女にしても、初めこそ控えめがちに箸を進めていたが、やがて自分の前に並べられた美味をとても満足げに食べ進めていった。


 私達がともに二十歳をすでに迎えていると知ると、老人はいったん部屋の外へと出、次に戻ってきたときにはその手に未開封の一升瓶を抱えていた。私も彼女も酒はあまり飲まない質ではあったが、今晩だけはまあいいかと、一杯だけ貰うことにした。


 この酒も、普段酒を飲まない私にも美味いと思えるほどの代物だった。何とも説明しがたい味だったことは確かが、ともかく私達は一杯だけのつもりが次から次へと――老人が勧めてきたということもあるが――口へと運び、気づけば瓶の中身は随分と少なくなっていた。強か飲み過ぎた私は、老人が用意していた居間の隣にある和室にしかれた布団に入ることにした。彼女は間仕切りを挟んだ反対側に布団が用意されていたようで、私達はおやすみとお互いに言い合って別れた。


 それが、彼女とまともに交わした最後の言葉だった。

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