第7話

 金曜日、雨だった。学校に着くと愛理の髪が短くなっていた。艶やかな黒髪はばっさりと切られ、他のクラスメイトと同じ、ショートカットになっていた。

「アオイ、おはよう。」

 愛理がこちらに気付くと挨拶をしてきた。声には明らかに元気がない。

「その髪、どうしちゃったの」

 私は返事も忘れて聞いてしまう。愛理のショートカットは、よく見ると長さが不揃いで、所々に違和感があった。私の背中に悪寒が走る。その髪の切り口は、とても痛々しかった。

「これね、長いの変かなって思って切っちゃった。どう、似合ってるかな」

 しんどそうに愛理が尋ねる。どうしてそんなことを聞くのだろうか。その答えならもう自分でわかっているだろうに。愛理の笑顔が見ていてつらかった。私は返す言葉が思いつかなかった。

「うん、いいんじゃないかな」

 私は噓をついた。

「それよりさ、貸してくれた本、読み始めたんだ。まだ途中だけど、すごく面白いよ」

 返答もそこそこに本の話題をする。とてもじゃないけど、髪について触れることができなかった。本当は聞きたいことが山ほどあった。でも、それを尋ねる勇気は、私にはなかった。愛理の苦しみに触れるのが恐ろしかった。

 そうなんだ、良かった。そう言って私の言葉に応える愛理の笑顔は、どこかぎこちなかった。

 チャイムが鳴り、朝礼が始まった。教室にやってきた担任が出欠の点呼を始めた。愛理の番号になり、いつもより小さな返事に担任が出席簿から顔をわずかに上げると、髪に気付いたらしく、少しの沈黙の後、いいですねとだけ言って、次の生徒の名前を読み上げた。教室の窓には無数の雨粒が打ちつけていた。

 その日一日、愛理とはあまり会話が弾まなかった。愛理も無理に話題を探してくれるが途中で途切れてしまった。ごめんね、とお互いに何度も言い合った。

 愛理は今日も委員会には来ず、すぐに帰ってしまうらしい。今日は金曜日なので、次に会えるのは月曜日だね、と私はそう言った。

「うん。じゃあまた月曜日に」

 愛理はそう言って雨の中を独りで帰っていった。結局、それが私と愛理が交わした最後の言葉になった。

 私は独り、本を読み続けた。放課後の図書室で。雨の降る帰り道で。家に帰ると食事も忘れて、じっくりと我を忘れて読み続けた。窓の外から響く雨音が遠のいて、いつしか聞こえなくなる。一つ一つの言葉が、台詞が心に響き渡って、本の主人公と自分の境界が曖昧になる、そんな感じたことのない没入感が私を包み込んだ。

 土曜日。その日の夕方に本を読み終えてしまった。その時、達成感と喜びと、少しの寂しさを感じた。一度読み終わった後、もう一度頭からパラパラと読み返してみた。印象に残った場面とそうじゃない場面。気に入ったフレーズ。疑問に思った箇所。たくさんの思い出がページの中に残されていた。

 本を読んでいると不思議なことに、私のことや私の住む世界のことについて書いてるんじゃないかと思う場面がいくつも見つかった。特に驚いたのはモンターグの上司、ベイティーの台詞。

「人はいつでも風変りなものを怖れるな。お前のクラスにもいただろう。人一倍頭がよくて、暗誦したり先生の質問に答えたりをひとりでやってのけてるやつが。ほかの生徒はみんな鉛の人形みたいに黙りこくってすわり、そいつを嫌っているという図だ。放課後、きみらがいじめたり殴ったりする相手に選んだのは、そういう俊才君じゃなかったか? もちろん、そうだよな。

 みんな似たもの同士でなきゃいけない。憲法とは違って、人間は自由平等に生まれついてるわけじゃないが、結局みんな平等にさせられるんだ。誰もが他の人をかたどって造られるから、誰もかれも幸福なんだ。人がすくんでしまうような山はない、人の値打ちをこうと決めつける山もない。だからこそさ!」

 この場面を読んだとき、真っ先に愛理の顔が浮かんだ。ばっさり切り落とされた愛理の黒髪が思い出された。ベイティーの語る言葉は、私の日常に向けられているんだと思った。

 日曜日。雨が続いている。また本を頭からぱらぱらとめくった。自分の心が熱くなる箇所を探して、反対に自分の心が反発する箇所も探した。そうやって見つかったページについて、どうしてだろうと理由を考えてみた。どうして私はこの台詞に惹かれるのだろう。どうして私はこの場面が好きになれないのだろう、って。そうやって自分の考えを整理してみると、私にとっての幸福ってなんなんだろうって、大袈裟だけどそんな疑問が浮かんできた。

 せっかくだから考えてみた、私の幸福。真っ先に浮かんできたのは愛理と放課後の図書室で語り合ったあの日のことだった。夕焼けを浴びてオレンジ色に染まった彼女の横顔。光を反射した黒髪がブレザーの上で弾んでた。多分微笑む愛理の前で私は恥ずかしいくらい無邪気に笑ってたんだろうな。あの何気ない瞬間が、私の幸福だったんだって気付いた。私は、愛理のような人が輝ける世界が欲しい、そんな世界で暮らしたい、そう思った。

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