希死は独創の彼方


 ずっと死にたかった。




 私には友達がいなかった。クラスでは常にひとりきりだった。誰かに何かを言われるようなことはなかったけれど、皆が気を使って接してくるのがどうしても辛かった。結局は自分勝手に愛されたいだけだったんだ。何かを変えることもできないまま、行動もできないままに過ごすだけ。誰かに愛されている感覚を知らない私はずっと空っぽだったから。


 その感情はある日静かにピークを迎えたのだ。






 修学旅行の夜、私はこっそりと抜け出した。屋上から死のうとした。学校のだっさいジャージだった。制服はかろうじてまだかわいいとは言えるけれど、ごく普通だから私立のかわいい制服にはさすがにかなわない。


 誰にもバレないようにホテルの廊下を歩く。鼓動が早まる。エレベーターに乗った瞬間、ピークに達していた緊張感が一気にほどけた。これで止められる心配もない。ふわ、という浮遊感に死への恍惚とした感情を乗せて運ぶ。停止して扉が開くと、古めのホテルらしくただのビルの屋上なんかとそう変わらなかった。そもそもこんなに簡単に立ち入ることができる方がおかしかった。けれどそれはむしろ好都合だったのだ。私と、私の視界に入った光景からすると。


「やだよ、怖い、怖い」


「下見ちゃダメ、はやく」


 二人の少女、ごく普通の制服。フェンスの向こう側に、居た。こちらから見れば狭い空間だった。けれど彼女らにとっては広かった。二歩ほど下がればそこには現世の苦痛からの解放という名の死が待っている。


 まだ彼女らはこちらに気付いていないようだった。暗くてよく見えなかったが、髪型やスタイル、声からしてクラスでも明るい二人だと分かった。片方はクラスのリーダー的存在でいつも笑顔を絶やさない、皆をまとめられるような人。もう片方は不登校気味ではあったけれど、学校に来ればごく普通に皆と会話しているような人。浮いているわけでも嫌われているわけでもなく、むしろ人気だった。


 どうして、と思って目を離せずにいた。彼女たちはいくつかのやりとりを繰り返す。ただ眺める、声も出ない、目の前にいるのは他人であって他人ではないのに。私の中に止めようという感情はちっとも湧かず、ただどうしていいかわからないまま、何を考えていいかもわからないままに彼女を見つめていた。見つめていたのだ。そう、




 ―――――目が合った。




「あ」


 腰が抜けた。その瞬間に私の脳が判断した。目の前にあるのは自殺の「リアル」だ。見てはならない。見たらもう、死を怖がることしかできなくなる。死にたい死にたい言ってるよくいる高校生じゃなくて、もう現実を知ってしまう。死――――痛みを呑み込んでくれる概念。それが崩れ去ってしまえば、もう何に縋ればいいんだろう。


「だめ、人来たから」


「はやく」


 片方は急かすように、片方は焦り、止めようとしているのかその手を引っ張っているように見える。深呼吸が聞こえた。だめだ。それは冷静さではなく自らの洗脳を招くだけだ。


 二人はぎゅっと手をつないだ。私は立ち上がれぬままそれをただ見つめるだけ。冬の夜風が冷たく吹き付けて、私の、彼女たちの心を凍らせていく。感覚を麻痺させていく。校則違反の短いスカートがふわりと揺れて、震える脚は寒さのせいか恐怖のせいか。もはや当人達にもわからない。お互いに顔を見合わせ、勇気を振り絞り、


「いくよ、せーの」








 ――――ばんっ








 あれからしばらく経って、気がつけばもう夏になった。修学旅行はあのまま続行された。その後彼女らは「家庭の事情で転校した」と知らされたけれど、彼女たちが死んだという噂はすぐに流れた。先生たちが「家庭の事情」と説明するものには全て深い事情が存在するのだということも分かった。


 私は修学旅行には参加せずにしばらく入院した。心の傷が深いだろう、とかなんとか言われて。勝手に抜け出して屋上に行ったことについてはほとんど咎められなかった。それよりもずっと衝撃的な出来事が起こってしまったからだろう。むしろ目撃者がいてラッキーとさえ思われているのかもしれない。


 学校の管理体制はどうしているんだとか、ホテル側もそう簡単に飛び降りられるような場所があるなんて危険だとか、そういう話題がネット上では持ち切りになった。学校が特定されて、飛び降りたホテルも特定されて、彼女たちのSNSアカウントも自撮りも特定されていた。


 人は皆知りたがりだ。知ったからって何にもならないのに。特定したからって何にもならないのに。私のことは何も出回っていなかった。ただ、せっかく可愛いのにとかどうして死ぬのかとか、そういう思想だけが蔓延して飽和していく。裏にあるものとか、真実とか、皆見えないから見ようともしない。




 私の部屋は夏の間いつだって蒸し暑い。エアコンがついていないと死んでしまうと思うけど、節約のために温度を下げすぎてはいけないのだ。熱さゆえか何をする気力も湧かない。机に広げただけの勉強道具が私を蔑むように見ている。


 なんか、すごくいなくなってしまいたい気分だ。机をあとにしてベッドの上に寝転がる。目を閉じて思考する。


 ああ、死にたいっていうのは自分の世界を持ってしまうことなんだ――――今ここにある群青の夜空よりも、自らの夢の中の桃色のふわふわとした雲を、パステルブルーの平面な空を望んでいるんだ。もしかしたら現世でも見られるかもしれないその景色を、彼女は死んで見られると信じていたのか? それともこの現実の空がそんなにも嫌だったのか――――答えは後者だと思う。


 誰もが夢を見て死んでいると思うな。死ねば幸せになれるなんて、本当は誰も思っていないんだ。彼らが、私達が、本当に思っているのは、死ねばもう現世の苦しみはないってことだけ。この空を見なくていい、それだけ。


 でも私は知ってしまった。メルヘンでふわふわしてて、夢みたいな、いや、夢そのものだった妄想の世界なんてなくて、そこにあるのはただの空中、ただの道路、そして最期にはただの死体になる。死後の世界がどんなものか知らないけど、もしこの世よりももっとつらいところだったらどうなるんだろうか。


 彼女たちはそこでも死ぬのかな。いつまでも、いつまでも、死に続けていくのかな――――。




 考えてもきりはないのに、いつまでも考えてしまう。もし彼女たちの抱えていた問題を奇跡的に解決できる方法があったとして、それは幸せになれることとイコールなのか。問題を解決できなかったけれども幸せになれたとして、それは長く続くのか。もしも、全てが上手くいっていたら――――って、考えるのをやめちゃったんだろうな。考えれば考えるほど、虚しくなるから。


 選択を間違えた自分が、対処できなかった自分が虚しくて、情けなくて、余計に自分を追い込んで。そんな自分がもっともっと嫌いになっていく。考えて苦しむくらいなら考えるのをやめよう。もう解決なんてできない。幸せになんてなれない。全部無駄だった。この世にいても苦しいだけ。そんな思考でいっぱいになったら、もうそこには死しか見えない。




 私は寝返りを打った。あの日から上手く眠れない。じんわりと嫌な汗が出てくる。エアコンの設定温度を見る。二十七度。いつも通りのはずなのに、今日は異常なほどに蒸し暑い。それは夏だから? ある意味間違っていないけれど、ある意味では間違っている。だって夏は――――考えすぎて、頭が熱くなって、ぐるぐると巡り続ける思考に溺れて、救われたと思ったら流されて……そして、死ぬんだ。


 九月は自殺者が多いって聞いた。確か、五月の次くらいだっけか。調べやしないから実際どうだったかはもう思い出せない。夏休み明けだからとか、我慢していたものがぷつりと途切れてしまう瞬間だから――――とか。


 納得できるようなできないような、そんな気もする。だって人はいつだって、耐えられなくなったらぷつりと糸が切れてしまうから。それが九月とか五月ってことなのか? ああ、うまく頭がまわらない。


 枕元にある棚をごそごそと探すとかつて使っていた小さなナイフが出てきた。もう使わないと決めていたもの。私が私を罰するために使っていたもの。ほんの少し錆びている部分があって、時の流れというのは自傷心さえ錆びさせるのだと思った。




 あの日から私は死にたいと死にたくないでずっと揺れている。本当はそんな二択じゃなくて、消えたい、全部リセットしたいってだけなんだけれど。みんなそうだ。死にたいんじゃなくて消えたいんだ。できることならもう一度やり直したい。そんな気力ないって人もいるけど。どうやったらやり直せるんだろ? って考えてまた頭がくらくらする。


 どうして人生をやめるには死という選択しかないんだろうか。神様の設計ミスとかだろうか。そうだとしたら仕方ない。神様だって間違えるだろうから。私がこんな人生を生きてるのも神様の間違いのせいなんじゃないかなあ。


 考えても考えてもどうしようもない。ただ落ちていくだけ。死と向き合えば向き合うほどに自分の中で独創的な世界が作られていくから、余計に死にたくなっていくから。


 あついあつい季節、私は目を閉じた。

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