黑色の決別


 僕の視界はいつも真っ黒だ。人間達はみんな真っ黒だから。僕だって真っ黒だ。白い人間なんていない。個性なんてないから色だってない。本当は皆真っ黒なんだ。それを覆うように布を被って誤魔化したりしているけれど、僕には分かる。


「莉黑」


 母というヴェールを被った真っ黒な人間が僕を呼ぶ。何色にも染まらない黒色から、意思の強い人になって欲しい、なんて願望を込められてこんな名前になった。旧字体なのは画数がどうとか。だからなんだよという話だが。書きづらくて仕方がないけど嫌いではない。


「貴方はちゃんと生きてね」


 母は毎日のように僕に向けてそう言うのだ。それは切実な願いでもあり一種の呪いでもあり、そして学校に行けず部屋に籠もりきりの姉さんへの当てつけでもある。この家の壁は薄い。すぐ隣の部屋にいるのにこの声が届かない訳がない。そうして姉さんはより塞ぎ込んでいく。僕ももう何も考えない。母はずっと墓穴を掘り続けている。そうして死ぬまで僕を期待で、姉さんを諦念で縛るのだ。


 父はもういない。こんな母に愛想を尽かして出ていったと言ってもいいし、母の掘った墓穴に共に埋められるのを避けたと言ってもいい。または父は父という布を被って生きるのが嫌になったのかもしれない、いずれにせよ僕には知りようもない話だ。


「そうだ、テストの結果はどうだったの?」


 母は優しげな微笑を見せてそう言う。はい、と返事をして僕は礼儀正しくいくつかのテスト用紙を取り出し、渡した。点数はすべて百点。それを見ると母は満足したのか用紙を返した。


「次も頑張ってね」


 これが百点でなければどうなるか、もし仮に赤点なんて取ったらどうなるか、なんて考えずとも分かる。姉という実例がいるのだから。僕もそうなる可能性は少なからずある。母は完璧な子を持っているという自尊だけを支えに生きているのだから、汚点であるなんて視界から追放して、自分にはこの子がいるからなんて言い出して、いつかきっと忘れてしまうんだろう。


 僕は適当な返事をして自分の部屋に戻った。途中にある姉の部屋の前にはいつもの通り食事が置かれている。ご飯に味噌汁、主菜である生姜焼きに野菜が添えてある。――――僕が作ったものを、母がここに運んだのだ。まるで自分が作ったかのように、まるで自分が『出来損ないで引きこもりの娘の健康に関しても気にかけてあげる優しい母』かのように。


 うんざりする気持ちすらももう僕にはない。あの人はそもそもそういう人なんだ、と考えると怒りも不快感もすっと引いていって、それが既に癖になっている。諦めは一番簡単な死だ。




 部屋の扉を閉めると一人の空間ができた。学習机には受験対策の参考書やら何やらが整然と置かれている。ここに来ると僕は僕が分からなくなってしまうのだ。いつからだっただろうか。姉が引きこもりになったとき? いや、もっと前、姉の成績が下がり始めたとき? ……いいや、もっと前、――――僕に期待がかけられたとき、だ。


 母が完全に姉を見放したとき、僕も完全に僕を消した。だけれどそれはその一瞬に起きたことじゃない。僕は自分が期待されていると気づいたときから、少しずつ本来の僕を削除していたのだ。






 眠っているとき、僕の意識は一体どこに行っているのだろう?






 朝起きればまたいつものミッションが始まるだけだ。決して失敗しないという、僕にとってはそこまで難易度の高くない選択肢のないただの人生とかいうつまらないゲーム。


 退屈な授業中、真っ赤なペンのインクを飲み干したら体内はこの色になるのだろうかなんてどうでもいいことを考える。これは動脈血の色。それじゃあこのシャープペンシルの芯はどうだろうか。黒鉛の苦味が、共有結合の結晶が僕の舌の上で解離して砕かれる。僕の体内は徐々に黒く歪み溶けてもう一度僕という名の物質を構成する。ちょっと炭化した僕だ。人間なんて炭と同じようなものだからたいして変わらないかもしれない。焦げたものほど利用される。灰になって風に乗って消え去るまで搾取される。


 でもそれがこの世だ。煤けた社会だ。咳き込む人もいれば慣れてもう何も感じない人もいる。明らかに汚染されていてもわからないふりをして、見えないふりをして、灰を出し続ける。汚れてるなあなんて思っても誰も掃除することはない。むしろする方が馬鹿なのだ。汚染に掃除のスピードが追い付かない。


 姉さんは、耐えきれなかったんだろうな。僕は平気だけれど。僕は煤に慣れている。というよりも僕自身が煤だって言っても良いかもしれない。僕は既に焼け焦げて灰になった跡だ。母は僕に過剰な期待を寄せている。姉さんを焼き切る前に中途半端に僕に火を移して、姉さんは燃え尽きることもできないまま苦しみ続けているのだ。


 母は蝋だ。そして牢だ。僕らは囚われたまま、彼女が死ぬまでずっとこのままなんだ。脱獄なんて出来ようものか、したら最後だ。『親不孝者』『私はかわいそう』そんな感情を周囲にばらまいて大火事を起こす。それくらいならこのまま操られていたほうがマシだ。


 はい、と挙手する人の声がする。そうして立ち上がって意見を述べ、座る。ああ、僕はそんな行動すらやめてしまったんだ、と気づいたときにはもう授業は終わっていた。僕の優れた点はこれだけ思考を働かせていても授業に関する知識はちゃんと身についているというところだ。しかしいっそ優れていないほうが楽だったんじゃないか、なんてのは口にすれば多方面から恨みを買うことだろうから絶対にやめておく。






 ――――学校なんて一瞬で終わってしまう。ただ失敗しないように力を尽くすゲームのように、本質的にはつまらないものだ。母への報告の内容を考えては帰路につき、いつものように家事を全て済ませ、母が帰ってくる頃には完璧な状態にしておく。規則的な人生だ。召使いとそう変わらない。布団に入るとようやく一日の終わりを感じる。


 人生に必要なのは諦めだろうなとか、僕の命に意味はあるのかとか寝る前に毎日考えるのだ。ベッドの上で目を瞑ると自分がなくなってしまいそうで、目を開けたまま考える。


 僕が死んだら、どれだけの人が泣くだろうか。まず母は泣くだろう。自分が丹精込めて育てたものが無駄になるのだからそれは当たり前だ。姉さんはどうだろう。分からない。姉弟としての情があるのなら泣くだろう。僕のクラスメイトは? 少なからず関わりがあるのだから泣くかもしれない。


 じゃあ、僕の人格が死んだら? 気付く人はいるのだろうか。誰かが失われた僕の人格に対して泣いてくれるのだろうか。思い当たる人はいない。僕の予想では誰も気付かず、誰も泣かない。ただ違和感を覚える人はいるかも知れないが、皆自分のことで精一杯で他人のことなんて全く見えていないんだ。


 ――――本当の僕なんて、誰も知らない。僕さえも。既にここに種が埋められています。さて、なんの種でしょう。なんて言われても、掘り起こさないと分からないだろう。掘り起こしたって分からないかもしれない。なら、できることは芽吹くのを待つことだけ。本当はそれが何だったのかとか、何なのかとかよりずっと見かけが重要なんだ。本当はひまわりでも、環境が悪くて上手く育たずにたんぽぽみたいになったら、それはもうたんぽぽだ。誰がどう見てもそう思う。自分でさえそう思い込む。


 そんなことを考えるなんて暇なのかとか、意味はないとか、そういうことを言われてしまっても仕方がない。こういうことを考えてしまうのが僕なのだ。でもそれを誰が知っているだろうか。きっと、この世の誰一人知らない。僕以外の誰も。


 そうすると僕が死んだあとには本当の僕というものは一つも残らないわけだ。じゃあどうすればいい? 僕の生きた意味とは何なのか?


 目を瞑る。そこにはどうしようもない闇と深層の僕がいた。僕が僕に気色悪い笑みを向ける。君に生きる意味はあるのか? 僕に生きる意味はあるのか? 考えるなと僕の中の理性が、常識が抑える。あいつの傀儡で楽しいか? 答えられない。僕が母の意のままに動いていればすべて上手くいくのだから――――。


 目を開ける。部屋は真っ暗だ。枕元のスマートフォンを手に取る。深夜二時。いつの間にそこまで思考していたのだろうかと思いつつ、強烈なブルーライトに眠気は吹き飛んだ。電気を付けて起き上がる。身体はだるさを感じているが脳は全くなようで、勉強机を視界に入れたとたん勉強脳に活性化され始めた。しかしなぜだか僕はそのまま勉強をする気にはなれなかった。部屋を出る。母はいつも眠りが深く、朝まで絶対に目覚めることがない。睡眠導入剤か何かを飲んでいるのだろうかと思う。だから僕が夜中に活動しても問題ないのだ。


 ――――気が付けば僕は、姉の部屋の前にいた。置かれていた食事は全て空の器になっている。こんこんとノックした。返事はない。あるわけがない。僕はドアノブを握った。ひねった。押した。開いた。……姉さんはずっと鍵なんてかけていなかったのだ。夜の暗闇の中に青みの強い光とパソコンの排気音だけが広がっている。ぼんやりと照らされた姉の表情には生気がなく、画面をただ見つめているだけだった。僕に見向きすらしない。


 僕も母も姉さんに踏み込まなかった。開いていたのに。ずっと。きっと鍵は閉まっているんだろうなんて思いこんでいた。そうしているうちに彼女はもう正常な人間すらやめてしまっていた。失敗作というヴェールを被せてそのまま窒息させた。姉は、死んだ生者だった。いわば失敗したゾンビだった。


「姉さん」


 声を出した。自分でも今まで聞いたことがないような声だった。僕は今まで姉さんを姉さんと、声を出して呼んだことがあっただろうか? ああなってから一度もないはずだ。ぶる、と寒気がした。今まで家族であった人を家族扱いするのをやめた、そんな自分に対する嫌悪なんてものではなかった。言葉にし難かった。


「なに」


 かすれた声。ぼさぼさの髪の中、姉が返事をした。ごお、とパソコンの排気音が強くなる。その画面には何が映っているというわけでもなく、ただホーム画面がそのままにされているだけだ。僕は答えられなかった。何を言っていいか分からなかった。


「莉黑」


 思わず体が跳ねるのが分かった。長らく聞いていなかった姉の、もう変わり果ててしまった声が、僕の名前を呼んだ。そうして彼女は部屋の隅の方を指差して言ったのだ。


「殺して」


 指さす先には縄がある。無造作に投げ捨てられたように、諦められたようにただそこにある。既に失敗された形跡がそこにはあった。僕は言われるがままにその縄を手に取る。丈夫な作りのものだった。


「殺して、莉黑」


 彼女はもう一度そう言った。どこか母に似ていて、そしてもういない父にも似ていた。僕も彼女から見たらそうなのだろうか。母に似て残酷だとか、父に似て薄情だとか思うのだろうか。そう思いながら姉の首に縄をかけた。躊躇はなかった。むしろようやく納得できたような気がした。僕には思いつかなかったのだ、この世界からの逃げ道が。


 死、ただそれだけだったのに。


 ぎゅ、っと絞めて、もがき苦しむのをただ見つめた。最後がこれだけなんて、かわいそうだなとも思った。僕だってかわいそうだけど。ああ、そんなこと言ったら怒られてしまうだろうな。姉がちゃんと死ねたのを確認して僕も死ぬ。首を吊る、ってどうすればいいのかよく分からないな。姉のパソコンを借りて少し調べた。死ばかりでみっちりの検索履歴に残っていたおかげですぐに分かってよかった。


 死んだら汚くなるらしいけど、まあいいか。もう汚いし。繕っていただけだ、ずっと。ずっと僕は汚い。


 僕のヴェールの下は、やっぱりどす黒い黒色だ。一体誰が泣くのだろう。ただ母が、ヴェールを見せつけて泣くだけか。もうそれでいいと思った。あなたが幸せならそれでいい。勝手に幸せになっていてくれ。


 僕はヴェールを燃やすから、せめて炭になるまで、どうか、泣いていて。

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