第2話 生野菜は洗浄殺菌しよう

 翌日。……俺は、オイカワさんがひとりで住んでいるという、超高層タワーマンションの高層階の、広くお洒落な一室にお邪魔していた。

 何故オイカワさん宅にあがりこむことになったのかというと――今朝、オイカワさんが登校した俺を見つけるや、駆け寄り提案してきた話に由来する。

「おはようございますっ、飯野さんっ。早速ですが改めて考察いたシまシてっ、ニンゲンさまが安心シて食物を摂取するにあたり、重要な条件があると気が付いたのデスっ」

「な、なんでしょう……?」

「日本では食品の安全性について、国民の健康の保護が最も重要であるという基本的認識の下に講じられているという事デスね(食品安全基本法(平成十五年法律第四十八号)第一章 総則 第三条 食品の安全性の確保のための措置を講ずるに当たっての基本的認識より抜粋)」

「昨日から時々、発言のあとに何か付いてきてませんか……?」

「つまり、ニンゲンさまが食物を摂取する際には、安全性をきっちり確保シないといけないのデスよね。そうでないと様々な微生物や病原菌により、内臓等に危害が発生する懸念があると」

「まあ、それはそうですかね」

「確かに、その場で千切ってお渡シする訳デスから、私が何をどうやって加工シたのか、信用できないと、ニンゲンのみなさまは安心シて食べられませんよね。なので、問題ないとご安心いただけるよう、検証をシたいのデス! 今日は学校が終わりましたら、私の家にご参集くださいデスよ!」

 ……そうして俺は、まわりのすべてを見下ろす広くとられたガラス窓に囲まれ、ゆとりをもってセンス良く家具が配置された、広々としたリビングルームに存在している。視界に入るどれをとっても、間違いなく、普通の高校生がおひとりで住む家ではない。

「オイカワさん、ここに住んでるんですか……?」

「はいっ、私は一応日本の高校生とシて来ておりますからね。複数の文献を参照シたところでは、日本には両親が長期の海外赴任というものに出る文化があり、高校生が一人で住んでいても珍シくないとのことデスよね。おかげさまで、私も特に怪シまれずに過ごせているのデスよ」

少なくとも俺の周りにはそんな文化はないが、どこのライトな世界の話なんだ。

「ささっ、ではではさっそく検証に入りまシょう!こちらに用意シておりますのでっ、ちょっと来てくださいデスよっ」

 そうしてリビングを出て、ぐいぐいと引っ張ってこられたのは――俺の部屋より圧倒的に広い脱衣所、そして浴室だった。浴室の床壁にはベージュ色の天然石のような脈模様が走っており、大きな円状の浴槽にはジェットバスなのか何なのか、一般のご家庭にはまず見られない設備が備え付けられ、水道周りも明らかにスタイリッシュかつ機能的で、エレガントと言う単語がよく似合う空間。

 ……いやお洒落さに場違いさを感じている場合ではない、よくわからないままここまで来ちゃったけど、お風呂って、その……身体を洗って、清潔ですよって言いたいってこと? 湯上りオイカワさんがこの後出て来るってことなのか?

「ここでデスね、私をきれいに洗浄消毒シてから、飯野さんにお召し上がりいただこうと思うのデスっ。確かに、様々な文献では『致す前に身を清める』などという描写がみられまシた! 日本に古来からある習慣なのデスね」

多分それ意味違います、オイカワさん。……とは突っ込めなかった。

「ではさっそく始めまシょうかっ」

「あっはい、じゃあ俺出てますんで……」

 別室に居るとはいえ、同級生が同じ屋根の下で風呂に入っている――なんか、何とも言えない感情が湧いてくるな……などと脱衣所を出て、さきほどのリビングに戻ろうとした俺の右手が、――がしっ、とオイカワさんに捉えられる。

「いやいや、どちらに行かれるんデスか、飯野さんにも一緒に一部始終をご覧頂きたいのデスよ」

「ええええっなんでですか!?」

「だって実際に現場を見ていないと、私がちゃんと綺麗に洗ったのかわからなくないデスか。食品工場の各種食品安全に関する監査および審査でも、現場確認が基本かつ必須で、文書確認のみやフルリモート対応は現状認められないと見まシた」

「そ、その辺は全然信用しますから、どうぞごゆっくり入ってきて……」

「あの……言いにくいのデスが、上司に報告時に、検証結果が想定と異なった際、被験者に適切な手順を踏まなかったが為に本来の結果が得られなかったのではないか、と突っ込まれるんデスよ……!」

 オイカワさんが、昨日と同様気まずそうに困り顔を見せる。万人が、協力出来ないと申し訳ないなと罪悪感を覚えてしまう、この表情この雰囲気、このポーズ。

「ですからなにとぞ、私を助けると思って、おねがいシますっ……!」

「う……俺が実際に見ないと、この検証は成り立たない……んですか……?」

「そうデス!」

「どうしても……?」

「どーシてもデスっ!!」

 そんな、同級生の女子と風呂とかっ……いやでもそのこれは、同級生の女子ではなく、研究者様であるオイカワさんへの純粋な協力であって……! その通りにやらないと結果が正確に得られないだけで……!

「ではでは、先に入っておりますのでっ、お願いいたシますね」

「え」

 こっちが存在しない第三者への言い訳に迷走しているところに――ぱたん、と脱衣所のドアが閉められ、しばし立ち尽くす。――ふと、ぱさり、という静かな音が忍び込んできて、……一気に、意識が現実に引き戻される。

オイカワさんっ……ほ、ほんとに風呂入るわけ……!?

 脱衣所から、浴室に入るドアが開き、そして閉まる音が続く。……やばいやばいやばい、浴室に入っていったということはその、つまりその……!

「お……オイカワさんっ、浴室入られましたかっ……!?」

「あっはい、いつでもお入りくださいデスよ~~」

 おそるおそる、脱衣所のドアを数センチ開け、薄目で室内をのぞくと、確かにオイカワさんの姿はそこにはなかった。代わりに、さきほどまで着ていたであろう制服や、身に着けていたであろう豪華な下着類が丁寧に畳まれ置かれていて――耳が急速に熱くなり、思わず一旦ドアを閉める。

 ど、どうしよう……もし入るとしても、俺は別に脱がなくてもいいんだよね?? オイカワさんがきれいになれば目的達成なんだから、俺まで風呂に入ったり洗ったりする必要は無い……んだよな?

「えっと……、入って大丈夫ですか……っ、ほんとにいいんですね……!?」

「はい、準備ばっちりデスよ~~」

「わ、わかりました……!」

 曇りガラスの扉の向こうで、オイカワさんが手を振っているシルエットが見える。……ええい、もうどうにでもなれ、と意を決してドアを開け――

 さて、アニメや映画なんかでよくある、あの室内が蒸気で真っ白とか、謎の光が斜めに走っているみたいな状況、ありますよね。現実には広く、換気がよく効いた浴室内で、そうそうあるわけがないですよね。

つまり俺の視界には、ごくわずかな湯気の中、頭部をタオルで巻いて髪をまとめた、裸体で堂々と仁王立ちで待ち受けていたオイカワさんが――

「ひっわわわわわわっっっ!!?」

 思わずフィギュアスケート選手でもやらないレベルの可動域で上半身を捻り、強引にオイカワさんを視認できる範囲から追い出した。――え、いや、こういう時ってタオルを胴体にきっちり巻いてくれてるもんじゃないの!? なんで髪まとめるのに使ってんの!? この状況で一番覆わなくてもいいところになんで!? あっ俺視力は抜群にいいから、ぼやけて全然見えないですとかいう誤魔化し方もできないよ!?

「? なんデスか」

「そそそそのあの、タオルを胴体に巻くのはどうですかね?」

「あれ、温泉に入る時のマナーというものを拝見シたところでは、髪は湯につからないようにまとめて、湯には髪やタオルをつけないもの、と学んできたのデスが」

「えっといやその……」

 オイカワさん、なんか毎回毎回一所懸命いろいろ地球や日本について調べてくれているらしいのはわかるが、ことごとくどことなくズレているのは何でなんだ……!?

「あっ、この検証結果を万一地球の文献に掲載することがあった時に、局部が露出シていると審査を通過シないのではないかというご心配デスかね。それならだいじょーぶデス、どうやら相手がニンゲンさま以外という事であれば、無修正で倫理協会の審査を通過できたという過去事例を確認できているのデスよ。つまり私なら、問題なく掲載が出来るという事デスよね」

「え何の話です……?」

「超次元の伝説になっている柑橘類の事例デスね」

 急に俺の知らない界隈の話を出された。

「ささっ、では手順通りにばっちり消毒をシなければデスねっ」

 視界にオイカワさんの姿が入らないように十分注意しつつ、横目で広い湯舟を眺めると、そこには透明な緑黄色の液体が満たされているようだった。入浴剤でも入っているのか、どことなく温泉……というよりはプールに近い、どちらかというと心地よくはない匂いも漂っている。くっ、どうせ何か入れるなら、湯が乳白色とかの不透明な色味で、入って貰えば身体がうまいこと隠されるとか、そんな仕様だったらよかったのにっ……!

 いっそう混乱を極める中、ふと浴槽脇の操作パネルに『ジェットバス』という記載を見つける。……こ、これだっ……!

「オイカワさん、ジェットバスとか付けて見たらもっと洗浄効果が高まるのではないですか!?」

「ああ、浴槽内に細かい気泡が出るとか言う装置デスね。でもせっかく調整シた濃度が、揮発シて薄まりませんかね」

「入浴剤が薄くなるってことですかね……? それは別に大丈夫かと……」

「なるほど、それならば今回はアドバイスに従ってみることにシますねっ」

 脳内はまだ、オイカワさんの台詞の違和感に気が付くほどまともに回っていなかった。オイカワさんの操作により、ジェットバスが起動され、浴槽の底面全体から細かい気泡が発生し、浴槽全体を満たしてゆく。……よかった、ごく普通のジェットバスだ。いきなりびっくりでドッキリな仕様が出てくることはなさそうだ。

「おお、これは効率が上がりそうデスね。濃度についてはまあ、ちゃんと最後に測定シて、問題なければ大丈夫デスかね」

 ジェットバスの振動音に紛れ、……ちゃぷ、たぶり、と身体が浴槽内に沈む音を聞き留めて、ようやくおそるおそるオイカワさんの方に顔を向ける。潤沢に発生する気泡によって、浴槽内はいい感じに視認性をぼやかされており、オイカワさんの胴体に四肢は、シルエットや色差も判らない程度に収まってくれていた。よかった……上がり続けていたこちらの心拍が限界突破するところだった……

「あっ、タイマーをちゃんと付けないとデスね」

「た、タイマー?」

「はい。各手順書や衛生管理マニュアルを参照シた手順によると、指定の濃度の液に10分間浸かる必要があるそうなんデスよ」

「?? そうなんですね……?」

 やっと危機を脱したばかりの俺には、オイカワさんが何をしているのか、理解がまったく追い付いていなかった。ふと浴槽のそばを見ると、……何故か、大きめのいかつい業務用除草剤容器のようなポリ容器らしきものが転がっている。

「えっと……入浴剤とか入れたんですね」

「あっはい、ちゃんと手順通り調製シておりますよ」

 なるほど、温泉の素とかかな……と、倒れたポリ容器を端に寄せておこうと、取っ手部分を持ち上げる。表面に貼られた、製品名と長い使用上の注意記載という、一切エンタメ要素の無い仰々しいラベルに書かれているのは『次亜塩素酸ナトリウム(食品添加物)』という薬品名で……

「次亜塩素酸ナトリウムっ!? ちょっ、なっ、えっまさかそのオイカワさん!?!?」

「あっはい~~、ニンゲンさまのお作りになった『野菜の消毒手順』に関する各種文献を参考にシてですね、0.01%の次亜塩素酸ナトリウム溶液を作って浸かっているのデスよ」

「や さ い の しょうどく!?!?」

 思わず一語ずつイントネーションを上下させて反復してしまった。驚愕する中、自分の中にわずかに残った冷静な部分が、ああ、だから濃度がどうとか、タイマーがどうとか言ってたんですね……などとうっすら腑に落ちる。……違う、なに参考にしてるんですかオイカワさん!?

「あ、たまごを洗卵する時も同様とのことデスよ」

「いやもうとりあえずそうではなくて、ちょ、ちょっとオイカワさんそれ平気なのっ!?」

 俺自身はこの薬品に特に詳しくないけど、空容器を見る限りでは『まぜるな危険』『液が目に入った場合即座に流水洗浄』『必ず換気』など、まずこの溶液風呂に人間、いやオイカワさんは人間じゃないけど、とにかく生物が入るとは全く想定されていない気がするんですが!?

「もちろんデス、ゴマという食品には使用シてはならない(食品 添加物等の規格基準(昭和34年厚生省告示第370号) 第2 添加物 F 使用基準)という点もちゃんと配慮シまシて、私の構成成分には類似するものは含まれないとちゃんと確認を」

「使ったらいけないものがあるんですか!? じ、じゃあヤバいのでは!?」

「いやいや~~、ゴマだけ不可の理由は、黒ゴマに使うと漂白されてシまい、比較的高価な白ゴマと詐称出来てシまうからだそうなのデスよ。これがほんとの誤魔化すってやつなんデスかね~~」

「…………わかりました、オイカワさん、ちょっともう出て……」

 突っ込みを放棄し、とにかく一回液体から出さないと――と、湯舟に満たされた湯……いや0.01パーセントの次亜塩素酸ナトリウム溶液を見た所、……じわりと肌色に変色していることに気が付いた。

「……オイカワさん……え、その……まさかえっと、身体どうなってます……?」

「あやっ、溶けてますねえ。……えっと……ちょっと柔らかくするために追加シた原料があまり良くなかったデスかねえ……わわわわわぁ」

 オイカワさんの身体が、溶液によって徐々に溶けだしてきていた。血とか骨とか見えないおかげか、なんとか絵面が卒倒するほどやばいまでには至らず、こっちもギリギリ精神を保ててはいるが、……めちゃくちゃホラー映画の演出である。

 しかも、どうやらオイカワさんにも想定外の状況らしく、明らかに焦った様子で、とろけた腕を振って肌色部分を寄せ集め――はじめたところで、ふと動きを止めて俺の方を見てきた。

「どっ、どうしました……早く何とかしないとマズいのではっ……!?」

「あの~~、次亜塩素酸ナトリウムって、タンパク質と反応すると、食塩、というニンゲンには無害なものになるらシいんですよ」

「今その説明必要ですかね!?」

「あーいや、デスから~~この液体、私の身体と次亜塩素酸ナトリウム水溶液が混ざってますけど、その~~殺菌は出来たと思いますシ、ちょっと塩味もついてちょうどいいんじゃないデスかね~~なんて思うので、えーと、……このままお召シ上がりいただくというのはどうデスかね?」

「いや今その提案できるってすっごいですね!? そそそそそれどころじゃっ、ちょ、ちょっと溶けた分はやく集めましょうよっ……!?」

「あー、やっぱりそうデスよね~~残念デス。じゃあちゃんと回収シないとデスね、排水溝が詰まっちゃうと他の住民の皆様にご迷惑デスよね」

「そんな髪の毛回収するレベルの話なんですか!?」

 そうしてこの日は液状化しかけたオイカワさんを、浴槽ゴミ取りネットでなんとか寄せ集めて、あとは俺にはどうもこうも出来ないので「大丈夫デスよ~~また明日学校でお会いシまシょう~~」……と言う、首から下が軟化したオイカワさんを置いて帰宅した。……先にやたらドキドキすることが多かったせいか、このパニックホラー並状況下のほうがむしろちょっと冷静だったのが怖い。

 そして翌日、何か昨日より肌の色が全体的に白くなったオイカワさんが、五体満足で普通に登校していた。……漂白されたの……?

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