第15話

 月曜、彩矢は二限目の講義を受けるため、いつもと同じ時間にキャンパスへやってきた。

 しかしその頭の中は、翌日のバイトの時に優斗に会える楽しみで一杯だった。にこにこと笑う表情からもスキップでも始めそうな歩き方からもその様子は窺える。

 しばらくは優斗と二人で出かける予定はないけれど、でもバイトの時間に会えるだろうし、もっと彼の事を知っていけたら。

 いつもひといきで頼むのはブレンドとBLT。きっと珈琲は好きなんだろう。こだわりとかあるのかな。何が好きなのか、彼の好きな音楽は、他にも知りたい事は尽きない。

 昨夜から、何をしてもついつい考えてしまうし、どうしても浮かれてしまう。

 トイもそんな彩矢に影響されたのか、それとも優斗の言っていた事をきちんと理解しているのか、同じように浮かれているのが解った。

 いつもは比較的おとなしくテーブルの上に座ってドライフルーツをリスの様に頬張るのに、今朝は浮かび上がり、くふくふと笑いながら上下さかさになったり斜めになっていたりしたから。

 アナタも嬉しいの?わかる、だって私今どうしようもなく浮かれちゃってるもん。

 そんな心を落ち着けるためにも、是非とも友里恵に話をしたくて聞いてほしくて、朝一番で今日も来るよね?ちょっと聞いてほしい事があるんだ!と勢い込んでメッセージを送ってしまった。

 けれど残念なことに友里恵からは、風邪ひいちゃったみたい……今日は休むから、後でもいい?と返ってきた。

 そりゃあもちろん、自分の恋の話よりも親友の体調の方が大事なので(比べる物でもないけれど)、勿論!ゆっくり休んで!何か欲しいものあれば、講義終わったら持っていくよとすぐに返した。その後は友里恵からの頼まれ物をメモしてやり取りを終えた。

 いつもはバス通学の友里恵と門前で待ち合わせるところを、一人で講義を受けるために教室へ向かう。友里恵と二人で話しながらだとお喋りしながらとても楽しい時間になっただろうけど仕方ない。しかし、一人だとしても、自然と優斗とのあれこれが思い出されて、浮かれてしまう心と体はどうしようもない。

 今日はもうしょうがないよねと、ふふふ……と笑い出す顔をおさえないまま彩矢は教室へ足を早めた。


 のだけれど。


 そんな彩矢の足が止まってしまった。

 彩矢の頭の上に乗って、ルンルンのリズムを楽し気にしていたトイが、勢いのままに転がり落ちそうになって、空中にふわりと浮かぶ。すぐに体勢を整えて何があったのかと彩矢の顔を見たトイは、おや、と訝しんだ。

 彩矢の表情が先ほどまでと打って変わって、固くなっていたのだ。

 どうして、と彩矢の見据える先を見て、トイは納得した。

 彩矢の進む先、教室への途中に、小田が、彩矢を見て手を振りながら立っていたのだ。

 彼の姿を見て、トイはひゅんっと彩矢の持つバッグの影へ身を隠し、彩矢がどうするのかと心配そうに見上げていた。


 彩矢はというと、一度止まりはしたものの、諦めたように大きく息を吐いて、ゆっくりと足を動かし進み始めた。

 彼が苦手だからと避けて講義をサボる訳にもいかないし、かといって、同じ講義をとっていて多少なりとも話をしたことのある相手なのに何も挨拶せずに通り過ぎるのも良くはないだろう、と彩矢は思ってしまう。

 実際には、多少話をしたくらいなら別にスルーされようが無視しようが小田は気にしなかっただろうけど、彩矢がそういう仕打ちを出来ないと解っていたので、ここで待っていたのだ。


「おはよ、彩矢ちゃん。」

「……おはよう、小田くん。」


 軽く挨拶をして、横を通り過ぎようとしたけれど、小田は彩矢の隣に立って一緒に歩き出した。

 ……同じ講義だから、しょうがないんだって。と自分に言い聞かせるけれど、でもそれならわざわざ私を待たなくてもいいのにと、どうしても避けたい気持ちが顔を出す。トイはいつの間にか、カバンのポケットの中に収まっていて、頭のてっぺんがちらりと見えるだけになっていた。

 そんな彩矢達を知ってか知らずか、小田はへらりとした笑いをキープしながら、話しかけてくる。


「彩矢ちゃんさ、昨日何してたの?」

「え、っと…別に。小田君には関係ない、よね。」


 昨日は優斗とデートだった。けれど別にそれを小田に言う筋合いは無いとそっけなく突き放す。

 彩矢は何故かわからないけれど小田に気に入られてるらしいという自覚がある以上、他の男の人とでかけたというワードはあまり小田の心象的に良くはないだろう。

 彩矢としては、優斗がいるから諦めてほしいという意思表示を出来なくもないだろうが、あまり刺激するような言葉は避けたい。いらぬトラブルを招くことに繋がりかねないからだ。


「昨日さぁ、男とでかけてたよね。」


 けれど、小田はそんな彩矢を気にせず、むしろ核心をつく言葉を口にする。


「……知らない。」

「デートだったんでしょ?いつも見る服と違って、お洒落してたじゃん。俺にも見せてほしかったなぁ。」

「なにそれ……なんで知ってるの?」


 最初の質問と違って、明らかに知っているという言い方だった。そんな事を彩矢にわざと聞くくらいなら、最初からちゃんと言えばいいものを。

 小田は彩矢の様子を気にもせず、自分が言いたい事をどんどん言っていく。なんというか、彩矢に聞きたいのではなく、事実確認をしたい、というそんな感じだった。


「昨日駅前で見かけたんだよね。声かけようと思ったら、ちょうど相手の男が来たらしくてさ。一歩遅かったなぁ。」

「あの、ちょっと待って。もし誘われたのが小田君だったら、そもそも行かなかったから。」


 まるで彩矢に声をかければ自分が一緒に出かけられたとでもいうかのような小田の言い方にムッとした彩矢は釘を刺す。

 昨日精一杯おしゃれして駅前で待っていたのは、優斗と出かけるためであって、小田がもし横からきても、またそれより先に誘ってきたのだとしても、そうはならなかったのだと。

 しかし、言い方が良くなかった。

 プライベートな事を言われて彩矢も少し気が立ってきていたのかもしれないが、小田の誘いには乗らないと断定してしまったためか、小田の纏う雰囲気が次第に剣呑なものになっていく。


「えーなにそれ酷くない?俺結構前から彩矢ちゃんのこと良いなって言ってたのに。」


 しかし、彩矢は小田の様子よりも、自分のカバンの方が気になってしまって、それに気付けなかった。

 小田のトイが、カバンのポケットに隠れている彩矢のトイを覗き込んでいたから。けれど、未成人の小田の手前、解りやすく払いのける事はできない。

 よく見えない状態のトイが気になってしまって、彩矢は受け答えに集中できず、少々きつい言葉をつい口にしてしまった。


「私は小田君の事なんとも思ってないし。」

「へぇ……。」

「えっ、きゃ!」


 彩矢は歩みを止めた小田にいきなり腕を掴まれ、ぐっと強い力で引っ張られた。

 いきなりの小田の行動にびっくりして、彩矢は小さく悲鳴をあげ、固まったように掴まれた腕をみたまま動けない。


「前にさぁ付き合わない?って言ったのになんにも返事くれないし、その後も何回か誘っても全然相手してくんないじゃん。」

「いや、あの、わ、たし、ことわって、……っちょ、どこ行くの!」


 小田は彩矢の腕を掴んだままで、教室がある方向とはまったく違う道へ歩き始めてしまい、彩矢は付いて行かざるを得ない。

 1・2分程だろうか、小田が進んだ先は、講義棟の建物横で、さっきまでいた人通りのある開けた所と違って植え込みや壁に遮られてあまり人目につかないような場所だった。

 連れてこられた場所の状況が目に入った途端、彩矢の背中にぞくりと冷たいものが走る。


 なに、なんで、こんな場所に。

 ドサリと小田が芝生の地面に荷物を放り投げた瞬間、彩矢はびくっと大仰なほどに全身を震わせた。

 彩矢の腕から小田の手が離れ、ちらりと見られた次の瞬間。


「はぁ〜…………つっかれた」

「ひぃっ!…………え、……え、っと……??」


 いきなりひと気のないところへ連れてこられたので、一体なにをされるのかと覚悟した。のだが。

 小田は建物の陰に入ると掴んでいた彩矢の腕を離して、そうしてその場にへなへなと崩れ落ちるようにしゃがみこんでしまった。


「なんで今日に限って友里恵さんいないのさ……」

「ゆりちゃん?え、っと…、?え?」

「…………」

「ゆりちゃんなら今日は風邪ひいたみたいだから休むって……え、と、小田くん?」


 バッ!と口を覆った小田の表情は赤くなっていて、失言だったと物語っている。そしてその後、友里恵が風邪を引いたらしいと聞いた小田の顔色は器用にもサァッと青くなった。


「風邪、って具合悪いの?医者は?」

「えっいや、わかんない。でも寝てるんじゃないかな。朝メッセージ送っただけだから。今日の講義終わったら色々買ってからお邪魔する予定だけど……。え、ちょっとまって。あの、さ……小田くん、もしかして、ゆりちゃんの事……?」

「あー……うん、いや、うん、や、ちょっと待って……ゴメン。」

「うん?」


 何事か呟いて煮え切らない態度を見せる小田は、いつものへらへらしている態度とは大分ちがって、真っ赤になったりしょげたり、忙しい。

 何度か上を向き下を向き、ガシガシと後頭部をかきむしった後、意を決した様に言い放つ。


「あーもう!そーです、彩矢ちゃんの予想通り、俺は友里恵さんが好きなの。」

「へ、へぇ……そ、だ、ったんだ?」

「あああ、もう……ほんと、なんで今日はこんな、こんなつもりじゃなかったのに……。さっきはごめん。道の先にアイツらが見えてさ。彩矢ちゃんに気がある振りを続けようとしたら、ちょっと強く掴んじまっ、た。ごめん、赤くなってるな。」

「う、ううん、これくらいなら、大丈夫。すぐ消えると思う」

「そう?でもごめん、女の子にあーいう事はよくなかった。」

「そう、だね、気を付けた方がいいと思う。」



 それから、落ち着いたのか一つ大きく息を吐いた小田は、彩矢に少しずつ話し始めてくれた。

 去年通っていた一年生の時のキャンパスで友里恵を見かけていたこと。

 その頃は友里恵には恋人がいるらしいと聞いていたから、諦めていたこと。

 ところが、二年にあがる少し前に寂しそうな雰囲気を纏い始め、周囲に探りを入れたところ別れたらしいと知った。

 ならば、丁度いい。新学期と共に同じ講義をできるだけとってなんとか近づけないかと考えた。

 そして、小田は友里恵の隣にいる彩矢に目を付けたのだ。

 友里恵は世話焼きで友達思いだから、小田のような相手を苦手としている彩矢にちょっかいをかければ自然と話に加わってくるだろうと。


 ざっくり言うとこんな流れだった。

 彩矢としては、なんとも迷惑な話である。


 人の恋路に巻き込むのはやめていただきたい。しかも、彩矢が小田を苦手と解っていたのに、あえて絡みに来るというのは小学生の男の子が気を引きたくていじめてしまうのとどう違うというのか。いやまぁ、気を引く相手が違うけれども。

 彩矢はついさっき聞いた小田と同じかそれよりも大きな溜息をゆっくり吐いて、全身の力を抜き小田の隣の壁にもたれかかった。


「……あの、ね。たぶんゆりちゃんには、正直に言ったほうがいいと思う。」

「えー?いやいや、あの人そーいうの体よくあしらいそうじゃん。」

「ん、確かに絡んでくる人のあしらいは上手だよ。でもね、本気の告白には、きちんと考えて答えてくれると思うから、こうやって、私を足がかりにして寄り道するより全然いいと思う。小田くんの印象的にも、私からゆりちゃんに乗り換えたって思われるのイヤじゃない?」


 気が抜けた彩矢の正面に、彩矢のトイが気遣うようにやってくる。

 もう小田のトイは気にならないらしい。

 それもそうか、小田のトイは、やはりしょんぼりしている小田の頭の上に乗って、慰めるかのようにぺしぺしと叩いている。

 今にして思えば、彩矢のトイは、小田のトイが近くに寄りすぎるのは避けていたけれど、お喋り自体はダメではなさそうだった。

 それに、小田のトイは、彩矢のトイを挟んで向こう側、チラチラと友里恵のトイを気にしていたかも知れない。


「あとね……あの、たぶん、もう少し待ってからの、方が、いいかも?しれない」

「待つって、何を?どんくらい?」

「ええっと、あの、その、うまく言えないんだけど、……9月、とか」

「9月、ってなんで。まだ結構先じゃん。」


 ごもっともなのだけれど、きっと小田もトイが見えるようになってからの方が、うまく友里恵との距離がはかれるだろうと思うから。


「ああ、えっと、ほら、さっき言ったみたいにさ、ずっと私にちょっかいかけてたから!あんまり急に矛先を変えたのかって思われるのも、小田くんに対するゆりちゃんの印象的にちょっとあれかなって思うからさ!」

「ああ……まぁ、確かに。彩矢ちゃんにオトコができたから、諦めまーすってして、そっからじわじわ仲をつめてく方がいいか……。ん……参考にしとく……ごめん、こんなんなって」

「う、ううん。いいよ、気にしないで。ちょっと……かなりびっくりはしたけど」


 はぁ、と大きく息を吐き出した小田は、すっと立ち上がって両手を延ばして伸びをした。

 その表情は先ほどまでと違ってどこか吹っ切れたように晴れやかだ。


「彩矢ちゃんごめんね、色々と。お詫びも兼ねてさ、この後友里恵さんのお見舞いに色々買ってくって言ってたの、俺が出すよ。」

「え?いやいやそんな。それこそ悪いよ。どうせゆりちゃんから後で貰うんだし。」

「いいから、安いけどその分をお詫び代って事にさせて。彼氏が出来たんなら飯に誘っても迷惑っしょ?」

「いやまだ彼氏じゃな……あ。」


 咄嗟に否定してしまったけれど、時すでに遅しとはこの事で。口からでた言葉はもう戻らないので諦めるしかない。

 小田が目撃したのは間違いなく優斗だろうけれど、まだ恋人ではないとバラしてしまって、なんとなくバツが悪い。


「ふぅん、まだ、なんだ。ま、それなら余計に誤解されるようなコトは避けた方が良さげだし、そんくらい出させてよ。」


 彩矢の言い方からして、好意をもっている事も察したらしい小田は、ニヤっと笑いながら言うけれど、その中身は彩矢を気遣ってくれていて、彩矢の中で少しずつ小田に持っていたイメージが変わっていく。


「うーん……それじゃ、ありがたく……?」

「あ、俺が払ったって友里恵さんには言わないでおいて?流石にカッコ悪ぃ。」

「了解。それじゃ……もう講義には遅刻だし、諦めて買い物行こっか。正門出た先にドラッグストアがあったよね。」

「ああ、そっか講義……合わせてごめん。」

「いいって。何か私の中の小田くんの印象変わったし、今日はそういう日だったって事で。」

「えー?彩矢ちゃんの中でどんなんだったの俺って。」

「うーん、かるーい人だなぁ……って。」

「ひっでえ、こんなに一途なのに。」

「うん、だから、何かいいなって思ったよ。」


 眉根を下げて言う小田は、情けない顔をしていたけれど、それは彩矢の苦手とするへらへらした笑い方ではなくて、それよりも好感のもてる印象だった。

 ああ、小田くんってこんな人だったんだ。

 今までは第一印象で軽い人だと思ってしまったがゆえに、一枚フィルターがかかってしまっていたのかもしれない。

 彩矢のトイも、いつの間にか小田のトイを苦手としなくなっていて、友里恵のトイが相手の時と同じように、きゃらきゃらと笑っている。

 つい一時間前には考えられなかっただろう、小田とこんな風に話すようになるなんて。

 彩矢はがらりと変わった自分の感覚に驚きつつも、その変化を嬉しいものとして受け入れた。

 同時に心にひっかかっていた懸念事項が解消されたのもあって、気分はとても晴れやかだ。

 そうして、小田と連絡先を交換した彩矢は、そのまま講義をサボってドラッグストアへ友里恵へのお見舞い品の買出しに行ったのだった。


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