第13話

 彩矢の普段の予定としては、日曜はいつも何も無いので、部屋でダラダラしたり好きな事が出来る日だと楽しみにしている。

 けれど、いつもの『楽しみ』とはまた違う思いで、彩矢は今日が来るのを楽しみにしていた。

 とはいえ、昨日まで、今日の服装をどうするかで悩みかけて、クローゼットにしまわれた先週着ていた服を眺めていたのだけれど。


 先週の日曜は友里恵と共に選んだ、ゆるっとしたニットにロングスカートだった。けれど、今日は出かける予定だし、水族館なら歩き回るだろうということで、思い切って手持ちの中からカジュアルにスキニージーンズにした。それでもせめて可愛らしさは取り入れたかったのと7月ともなれば少し暑くなってきたので、レース生地の7分袖カットソーを合わせてみる。

 トイと二人、全身が見える鏡の前でくるくると前後をチェックしてみた感じは、ダメじゃなさそうだったけれど、優斗の目にはどう映るだろうか。

 手に持ったトートとスニーカーの色とか細かい所を言い出したらキリがないから、全体的にある程度まとまってればいいよねと、トイと二人うんうんと頷き合い、悩み始めたらいつまでも終わらないであろうファッションチェックを無理矢理止めて、出発してきたのだった。



 彩矢が待ち合わせ場所の金糸雀駅前に着いたのは、約束の時間の10分前だった。

 幼い頃からの母や祖父母の教えの賜物だ。

 人を待たせるのは良くない事。お互いに都合をつけて時間を使うのだから、必ず間に合うようにしなさい、可能ならば5分から10分前には予定の場所にいるようにとずっと言われてきた。

 実際、母や祖父母の言葉は正しいと思うし、約束の時刻に遅れるというのはやはり相手に迷惑をかけてしまうだろう。

 彩矢も、自分は時間にきちんと間に合うように着いていたのに、相手が遅れるということが少なからずあって、そういう時は大抵その後の予定がうまくいかなかったりどんどん時間がずれ込んでしまったりして、ちょっとイヤだなと思う事があったのだ。

 多少予定が変わる事は別に構わないしある程度想定しているけれど、必ずやりたいと思っていた事が出来なくなったりするのは、相手にとっても自分にとっても悲しい終わりになってしまう。そうならないためにも、時間を守るのは大事だと思っている。


 優斗はどれくらいに来るかなと改札が見える植え込みの近くに立っていたら、彩矢のトイが何かに気が付いたように肩の上から離れてふわりと浮き上がった。

 何事だろうと彩矢がトイの見つめる先を見たけれど、沢山の見知らぬ人達とそのトイ達が行き交っているばかり。

 そうこうしているうちに、見渡していた道路の向こうに優斗の姿が見えて、彩矢のトイは少しでも近くへ行きたいのかそちらへ飛んでいきたそうにうずうずし始めた。彩矢を振り返って、行っても良いかと聞いているかのような顔に、彩矢は苦笑して頷いて見せる。

 主人から離れられるのはおおよそ15メートル程。あまり離れてしまうとそれより先には行けない、らしい。

 らしい、というのはまだ体験していないから。でもまぁ、トイの方もそれを解っているからこうやって彩矢にギリギリまで行っても良いかと聞いてきているんだろうと思う。

 しょうがないなぁと溜息を噛み殺しながら頷くと、トイはひゅんっと優斗が、というよりも、優斗のトイがいる方向へ飛んでいく。

 優斗の方はというと、まだこちらには気が付いてないらしく、信号待ちで足元を見ていた。トイも主人の視線を追いかけて、靴のあたりをうろちょろしているので、彩矢のトイが道路反対側に居る事は気が付いていないらしい。


 その時、歩行者信号が青になり優斗とトイが顔をあげた。

 瞬間、優斗のトイが弾かれたように道路に飛び出し、優斗は驚いた顔をして、その後すぐに苦笑したのがわかった。

 二人とも彩矢のトイに気が付いたのだ。


 彩矢のトイはおそらくあれ以上行っちゃいけない位なのだろう、道路のこちら側でじっと浮いて待っていたところに優斗のトイが飛びついてきて、ぎゅうっと抱きしめている。

 すれ違う人達が、チラチラと二人のトイを見ているのを、成人したからだろうか、解るようになった、なってしまった。きっと成人前なら気が付かなかっただろう筈で、いっそ見えないでいたかったと彩矢は恥ずかしさに消え入りたくなってしまう。

 けれど、彼らがいなかったら優斗が彩矢に笑いかけてくれる事はなかったのかもしれないと思うと、彩矢はトイ達が居なければよかったとは思えなかった。


 彩矢の視線の先では、無事に優斗のトイと手をつないで飛んでいる彩矢のトイ、そしていきなり飛び出してしまったトイを窘めるように何事か呟いている優斗がいた。そのうちに何を言っても手を離さないトイ達に諦めたのか、肩をすくめた様子が見える。

 手を離さないトイが可愛くて、それだけお互いを気に入っているのだと思うと彩矢もあまり叱れないなと思うから、優斗の気持ちはよくわかる。

 そうして、優斗が顔をあげたタイミングでずっと植え込みの前に立っていた彩矢と目が合った。

 ひらりと手を振って、トイ達が飛んでくる後ろから優斗も歩いてくる。

 時刻は待ち合わせの5分前だ。元から持っていた好印象が、この一コマだけで何倍にもなって上乗せされた朝だった。



「おはよう、もう着いてたんだね。」

「おはようございます。いつも少し早めに着くようにしてるんです。それより、朝からすみません……」


 彩矢がトイをちらりと見ながらいうと、優斗は気にしてないという風に頭を振る。


「お互い様じゃないかな……俺のも、こんなだし。」


 大体において、彩矢と優斗のトイは、優斗のトイが彩矢のトイの手を離さない事の方が多いので、その事だろうとあたりを付けて、彩矢は苦笑した。


「もう、この子達は……こういう感じなんですかね。」

「たぶんね。なんか、ほんとゴメン。」


 重ねて言う優斗にずっとトイを見ていた視線を優斗へ向けてから大丈夫ですと返すと、とても甘く優しい顔をした人がそこにいて、彩矢は面食らう。


「今日の恰好も可愛い。動きやすくしてくれたんだ?」

「っ、あ、えと、結構歩くかな、って思いまして……」

「うん、その辺考えてくれてるの、嬉しい。俺、水族館とかだと全部しっかり見て回りたい派だから、付き合わせちゃうけどいいかな?」

「勿論です!むしろ一部しか見ないなんて勿体なくないです?私も、ショーとか展示とか、飼育員さんのメモやなんかまで細かいところまで見たい派です!」

「いいね。俺たちやっぱり気が合いそうだ。それじゃばっちり見て回るためにも、早めに行こうか。」


 元気よく返事を返した彩矢に嬉しそうに頷いた優斗は、早速行こうと改札口を指し示す。

 そうですねと言いながら優斗の横に並んで、二人仲良く歩き出した。



 そんな二人の顔の前を、それぞれのトイが依然手をつないで飛んで行く。

 彩矢はもう気にしないことにしたのか、トイ達から目を離して、持っていたバッグの中のICカードを取り出そうとしていて気付かなかったが、優斗はトイ達、主に優斗のトイから投げかけられていた視線に気が付いていた。

 なんで二人は離れて歩くのか、と言いたげなその視線に。

 お前ほど素直じゃないんだよ、と優斗が肩をすくめて見せると、トイは彩矢のトイの手を持ち上げてちゅうとその手の甲にこれ見よがしに唇を付けてみせた。

 自分のトイがやってのけた突然の行動に驚いた優斗は改札口でICカードの取り扱いをミスってしまい、ガタンと止められて彩矢に心配されてしまった。

 ああ、もう。彼女の前で恥ずかしい失敗したじゃないか……お前のせいだからな、と睨むも、トイには全く響かない。むしろ、そっちが何にもしてないのが悪いと言わんばかりだった。

 そっちと違って、色々、あるんだよ!と、やっと改札口を通った優斗は、通行人の邪魔にならぬよう数歩先に行って待ってくれていた彩矢と彼女の手先を見つめて呟いたのだった。





「お昼ご飯は私に払わせてくださいね……」

「どうしようか、俺としては……その時の気分による、かなぁ。」


 電車にゆられて、海岸沿いにある水族館へとやってきた二人は、入館する時にチケット売り場でひと悶着あったのである。

 先週の喫茶ひといきでのランチデートは、優斗が謝罪や反省の意味もあるからというので、奢ってもらう事を許容した彩矢だけれど、本来は人に払ってもらう事は好きではない。

 単純に自分の分を人に払ってもらう事を良しとしない性格でもあるし、申し訳なさやそこまでしてもらう義理はないと思っているからだ。

 もしも、もしもの話になるけれど、お付き合いをしている相手だとしても、そこは持ちつ持たれつでゆきたいし、何かを払ってもらったならばそれに見合うお返しをしなければ相手に悪いと思う彩矢だった。


 そんな彩矢がどうして優斗にチケット代を払われてしまったかというと……トイとタッグを組み彩矢の気を逸らした優斗が、ささっと手早く支払いを終えてしまったのだ。

 相変わらず仲良く手を繋いでいるトイ達と優斗と一緒にチケット売り場の列に並んでいた彩矢は、もうすぐ自分たちの番だと財布と料金をチェックしていた。

 その間に、優斗はトイと視線だけで示し合わせていたに違いない。

 窓口が空いて、優斗と彩矢が移動したら、あろうことか係員のお姉さんのガラス越し、彩矢の目の前で、優斗のトイが彩矢のトイの頬にキスをしたのである。そしてそのままぎゅううっと抱きついてじゃれ始めた。

 普段ある程度仲良くしている状態はスルーできるようになってきた彩矢だったけれど、流石に目の前でそこまでされると恥ずかしくて慌ててしまった。

(ちょ、こんな場所で、やめてってば……!)

 水族館という場所柄、小さい子も多く、大きな声で注意することは出来ない。慌てて小さな声でトイ達を窘めるも、彩矢を一度見てから、またさらにぎゅううううっと強く抱きしめてしまう始末。

 彩矢のトイはというと嫌がることもなく、単純に嬉しそうに笑い自分からも優斗のトイの頬へキスを返していた。

 もはや見ていられなかったけれど、掴んでバッグの中へいれようものなら不自然な仕草になってしまうし、何も出来ることは無く。結果として彩矢にできたのは視線を逸らしてやり過ごす事だけで……そうこうしているうちに、優斗が二人分のチケットを買い終えていたのだった。



「もし今日のお昼ご飯も出させてもらえなかったら、今度のひといきでのランチを私のバイト代から引いてもらうように店長にお願いしておきます。」


 引いてくれなさそうな優斗の様子に業を煮やした彩矢は、最終手段を持ち出した。


「あーうん、わかったごめん。それじゃ昼はお願いしようかな。」

「そうしてください。」


 一応優斗としても、彩矢にわざと払わせなかったという自覚があるからか、それ以上強く出ることはせず、納得してくれた。チケット代には及ばないだろうけれど、それでも何もないよりはマシだものねと、彩矢はやっとホッとして優斗へ笑って見せた。

 優斗としては、やはり一応デートだし、自分が誘ったし、自分の方が社会人で働いて収入を得ているという部分と、学生でバイトして生活費の足しにしている彩矢に払わせるのは申し訳ないな、という思いがあった。けれど、彩矢の考え方自体は嫌いじゃなく、むしろ奢られて当然という女性もいる昨今、とても好感の持てるものだったので、言われるがままに昼をご馳走になることに決めたのだった。


 二人はなんとか話し合いが落ち着いた、というか、彩矢の気持ちが落ち着いたので、貰った園内マップを片手に順路を進み始めた。

 少し薄暗い館内には、左右に大小さまざまな水槽がならんでいて、それぞれに色とりどりの魚が泳ぎ海藻が揺蕩っていて幻想的な風景が広がっていた。

 足元には水を通してきらめく光と影が織りなす模様が描かれ、逐一変わるその煌めきを見ているだけでも時間が過ぎてゆきそうな程。

 ただし、光があまりあたらない場所もあって、行き交う人にぶつからないように気を付けなければと彩矢は注意する。

 チケット売り場でも思ったけれど、親子連れも多くて小さな子供がはしゃぐ様子がそこかしこで見られている。自分も子供たちも怪我をしないようにと配慮しつつ優斗と二人で順番に水槽を見て行く……のだけれど。

 彩矢の視界に入るのはそれだけではなかった。

 キラキラと輝く水中と泳ぐ魚を見るためか、彩矢と優斗のトイがあっちへふらふらこっちへふらふらとちっとも一つ所にいてくれないのである。

 いつもならば、彩矢の肩に座っていてくれるのに、今日は優斗のトイと一緒だからか、それとも普段と違う場所だからか、全く落ち着いてくれない。

 あっちもこっちも、と気にしている彩矢は、水槽の中を見るどころでは無かった。


「そんなに気にしてると疲れちゃうよ。」


 そんなハラハラしながら様子を窺っていた彩矢に気が付いた優斗は、苦笑している。


「でも……すぐ移動しちゃうから、何してるのかどうしても気になっちゃうんです……」

「じゃあ、お願いしてみる?ここに居てって。」


 言うなり、優斗は自身のトイへ視線を向け、指先を動かしてサインを送ったかと思ったら、シャツの胸ポケットを指さした。すると、優斗のトイが彩矢のトイの手を引いて連れてきて、狭そうな優斗のシャツの胸ポケットの中に、一緒に入ってしまった。


「えっ、えっ……?ど、どうして入れるんです?」

「ああ、こいつらあんまり体積とか考えなくても大丈夫みたい。小さくなれるのか、狭そうな場所でも気にせず入ってくんだ」

「そう、なんですか……」

「これで、彩矢ちゃんの心配は無くなったかな?」


 心配はなくなったけれど、むしろ自分のトイが羨ましいと思ってしまっただなんて、言えようはずがない。


「アッ、は、ハイ!」

「よし、じゃあ……はい」


 優斗の掛け声とともに、彼の大きな手が差し出される。


「手、繋がない?ここ暗いし、はぐれたら大変だし……っていうのはまあ理由付けで、俺が彩矢ちゃんと繋ぎたいだけなんだけど……」

「あ……はい……」


 暖かな手に優しく握られて、さっきから赤くなっていた彩矢の頬が、もっと赤くなっている気がする。暗い中だから優斗には解らないで欲しいと思いつつ、彩矢はきゅっと握り返した。

 優斗もまた、トイへ、見てみろ、俺だって、という思いが無くもなかったけれど……それよりも、初めて触れた彩矢の手の小ささや柔らかさに強く握りしめすぎないように、大切にしなければ、という思いばかりが頭の中をぐるぐる周っていた。

 そんな二人を今度は後ろからついて行ったトイ達は、満足そうな顔で見ていた事を二人は知らない。


 その後また順路通りに進み始めた二人だけれど、イルカショーの時間が迫っている事に気が付くまで、何を見ていたかさっぱり覚えていない彩矢と優斗だった。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る