第15話 「第三話 さよなら、史香」14話:そして新調された位牌と史香の魂の不在。
翌朝。
僕は、窓から差し込む陽光に目が覚めた。
時計を見ると午前七時。
僕は、まだぼんやりした頭で昨夜のできごとを思い出す。
そして徐々にはっきりしてきたら、ひとりで赤くなってしまい頭から毛布をかぶり直す。
「……夢じゃないんだよな」
僕は史香に告白した。
そしてキスもした。
こんなことが実現するなんて、まったく想像していなかった。それなのに実現してしまったのだ。
「これは、僕の人生の中でも最大級のイベントだったかもしれない」
そんな風に思っていた。
すると部屋のドアがノックされた。大鷹だった。
「おお、起きてたか。
亜季のヤツが、そろそろ朝食の準備をしたいって言うもんだから、起こしに来たんだ」
「サンキュー」
僕は、そう言ってベッドから身を起こした。
すると足元がふらついた。
「なんだ、なんだ。昨晩、隠れて酒でも飲んだのか?」
大鷹が冗談を言ってくる。
「……そんなんじゃない。昨晩とんでもないことが起こった」
「なにが起きたんだ?」
恥ずかしくもあり照れもあった。
でも僕と大鷹は堅い友情で結ばれているのだ。今更、隠し事をしても仕方がない。
「……ふ、史香とキスした」
僕は史香のことを他人に呼び捨てにするのは今が初めてだ。
だけど大鷹はそこにはなにも突っ込んでこなかった。ただ驚いているだけだ。
「も、もちろん直接キスはできないさ。……でも、史香は受け入れてくれた」
「そうかっ! それはめでたいな。いやー、それを聞いたら亜季もよろこぶぞ」
「……あっ! 永井さんには言わなくていいよ」
「なんだよ。今更、照れることないだろ?
お前と紅林さんが相思相愛だったって知ったらヤツはうれしいんだよ。
……それこそ、それを亜季は望んでいたんだからさ」
聞けば、永井さんは常日頃、
僕と史香がいい仲になってくれたらいいのに、と大鷹にはぼやいていたらしい。
それを聞いて僕もうれしく感じられた。永井さんはやっぱりいい理解者だと思ったのだ。
「……実はな、俺も昨夜やったんだ」
「……やった? なにをだ」
すると、大鷹は、いやー、っと照れて笑い出す。
「とうとうキスまで到達した」
「へえ。キスできたんだ。よく永井さんが許してくれたな」
僕が、そう言うと大鷹は得意気な顔になる。
「ねばって、ねばって、土下座して、両手で拝んで、やっとキスさせてもらったんだ」
どうやら大鷹の粘り勝ちのようだった。
やがて僕が着替える間に、大鷹は一階へと降りていった。
厨房で永井さんの手伝いをするのだろう。
僕も手早く服を着ると、大急ぎで階下へと向かった。
「……相田くん、おはよう」
厨房に到着すると、すでに朝食の準備が始まっていた。
僕は永井さんに朝のあいさつをしたけど、どうも様子がおかしい。
なにかよそよそしいのだ。で、大鷹を見るとバツが悪そうな顔を僕に見せてくる。
「大鷹。なにがあったんだ。ケンカでもしたのか?」
「うーん。
……別にケンカはしてないと思うけど。……実は、話しちゃったことがバレたんだ」
「なんのこと?」
「……キスのこと」
「……ああ」
僕は察知した。要するに、大鷹が永井さんとキスをした話を僕にしてしまったことが原因らしい。
「……もう、そこで、こそこそしないで。
私はただ、相田くんの顔が恥ずかしくて見られないだけなの」
「気にすることないだろう。相田だってキスしたんだし」
大鷹が、そう永井さんに話しかける。
「もう。そんなにデリカシーがない人だなんて思わなかった。
私、選択、間違えちゃったのかしら?」
そっぽを向いたまま、永井さんはそう答える。
「それはないぜ。悪かったって言ってるだろ」
その後、大鷹は謝りに謝って、ようやく永井さんの許しを得ていた。
僕は、永井さんの性格を勘違いしていたようだ。
もっと、おしとやかで男について行くタイプだと思っていたのだけど、
実は男をリードする性格だったのかもしれない。
やっぱり、女の人はわからない。
僕は機嫌を直した永井さんや大鷹と会話しながらも、そう思っていた。
そして朝食となった。
朝は軽めがいいということで、
トーストとベーコンエッグに、サラダにコーヒーという簡単な食事だったけど、
純白のテーブルクロスが敷かれた大テーブルと、背もたれが高い椅子での朝食は、
いつもとは違う味がした。なんだかワンランク上の食べ物を食べている感覚なのだ。
それはおそらく無農薬有機栽培のオーガニック野菜や、
それと同様の卵とベーコンという食材のよさもあるんだろうけど、
それ以上に親友たちだけで食べるというシチュエーションが、そう思わせたに違いない。
僕と永井さんは、この朝食は量的に満足だった。
でも大鷹には不満だったようだ。
「ちっとも、足りないぜ。これじゃ空腹で、ぶっ倒れそうだ」
「えー、まだ食うのかよ?」
僕が質問すると、大鷹は勝手に厨房に入って行った。
そしてやがて大皿にてんこ盛りの料理を運んでくる。
「ちょっと、それ昨日のシチューじゃないの。冷めちゃってるわよ」
永井さんが、あきれた顔になる。
「いいんだ。とにかく腹がふくれれば俺は満足だ」
「もう。……だったら温め直すから」
「いいんだよ。俺には料理の熱さよりも早さが大事なんだ」
「ダメ。いいから貸して」
永井さんが立ち上がって大鷹から皿を取り上げた。
そして厨房で温め直し始めたのだ。
「……俺は、冷めたシチューも、なかなかいけるもんだと思うんだけどな」
ちょっとがっかりした様子の大鷹が僕にはおもしろかった。
やっぱり、このふたりはいい組み合わせだと思った。
相性がいいというか、テンポが合うというか、よく説明できないけれど、
どんなにケンカしても、すぐに仲直りできる関係だと感じたのだ。
……僕も、史香と同じようになれるだろうか。
そんなことを、ふたりを見ながら思っていた。
「そろそろ、出かけようか?」
食後の片付けをしていると大鷹がそう言い出した。
「今日は、どこに行くのかしら? お寺? それとも史香の本家?」
永井さんも尋ねてきた。
「そうだね。やっぱり位牌をこの目で拝みたいから、本家の方にしたいと思うんだけど」
僕がそう提案すると、ふたりともうなずいてくれた。
そして、準備が終わるとタクシーを呼んだのである。
車中の僕たちは、陽気だった。
それは、うまく行けば、今日で史香を実体化させることができるからだ。
僕という通訳がいればコミュニケーションは可能だけど、やっぱり直接話をするのが、
大鷹と永井さんの強い希望だった。
僕たちは、三人なので後部座席に収まっている。
そして運転手さんは寡黙で実直そうな人柄だったことから、僕は秘密の話を打ち明けた。
「位牌のダミーを作ろうと思うんだ」
僕は、小声で横の大鷹に告げた。すると、永井さんがそれを聞きつけた。
「ダミーって、なにかしら?」
「うん」
僕はダミーの件をふたりに報告した。
そこで予想通り永井さんが、金銭的に応援すると言い出したのだけど僕は丁重にお断りした。
これは僕と史香の問題だからだ。
「この旅行が終わったらアルバイトを探そうと思ってる。
夏休みの短期バイトなら、時期的にすぐに見つかると思うんだ」
「それは、どうかな? 夏休みは始まってるんだ。もう、どこも締め切りになってんじゃないか?
大学生なら、例えば海の家とかの泊まり込みのバイトとかあるんだろうけど、
高校生だと雇ってくれないぜ」
大鷹が、そう言う。
「そうか。……言われてみれば、そうかもな」
確かに夏休み限定のアルバイトは、すでに締め切られているかもしれないのだ。
だけど、僕は自分の力で稼いだお金でなんとかしたかった。
「相田くんのことだから私がお金を貸すって話は駄目だろうけど、
アルバイト探しのお世話だったら私が応援してもいいのよね?」
永井さんが、そう言った。
聞けば、永井さんのお父さんが経営する会社のひとつの、
飲食店関係でバイトの口を探してくれるというのだ。
「いいのかな? また、永井さんを利用してしまうような気がするんだけど」
「いいのよ。利用できることなら利用するのも友情なの」
格言めいたことを言って、永井さんはウインクしてみせてくれた。
僕には、その笑顔がまるで天使のように輝いて見えた。
やがて紅林家の本家に到着した。
僕たちはタクシーを降りて、昨日も来た大きな敷地内を屋敷へと進む。
そしてインターフォンを押したのだ。
「はーい」
昨日と同じように女性の返事があった。おそらく史香の伯母さんだろう。
「あら、また来てくれたのね。
ちょうど、さっき位牌が届いたところなの」
そう言って、伯母さんは僕たちを仏間へと案内してくれた。
そしてお茶の用意をすると言って、台所へと去って行ったのだ。
そこは、昨日とまったく同じに巨大な仏壇が僕たちを迎え入れてくれていた。
……変だな。
僕はなんとなく違和感を覚えていた。そして、すぐにその原因に気づく。
……気配がない。
史香の気配がまったく感じられないのだ。
「どうしたんだ?」
僕の怪訝な顔つきに気づいたのだろう、大鷹が話しかけてきた。
「うん。史香がいないんだ。姿も、声も、感じない。もちろん、気配もないんだ」
「出かけているのかしら?」
永井さんが、そう言って僕を見る。
そんなはずはない。史香とは今日ここで会う約束をしたのだ。
だから、いれば必ず姿を見せるはずなのだ。
……ひょっとして、嫌われたのか?
僕は急に弱気になってきた。
昨夜の史香はもしかしたらその場の勢いで、ああなってしまったのかもしれない。
だから一晩経って冷静になったら、僕との出来事に後悔してしまったのかもしれないと考えたのだ。
……だったら、どうする?
そのときだった。
「ねえ見て。この位牌、新しいわよ」
仏壇の中をのぞきこんだ永井さんが、そう口にしたのだ。
「ええっ?」
僕は、なにを今更と思った。
史香は死んで三ヶ月しか経ってないのだ。位牌が新しいのは当たり前だからだ。
「……っ!」
だけど僕は身を乗り出して仏壇の中を見たとき、息が止まってしまった。
――位牌はあった。
でも永井さんが言った通り、新しいものになっていたのだ。
……僕は新幹線の中で、ふと思った嫌な予感が的中したのを実感した。
身体から力が抜けて両肩ががっくりと落ちるのがわかった。
「ど、どういうことだ? 戒名が三つあるぜ」
大鷹が僕を見る。
僕は瞬時にその理由を悟った。
そこにある真新しい位牌は、おそらく昨日に作られたものだ。
その隣に見慣れない戒名が二つある。
「……位牌を新調したんだ。たぶん、史香の両親といっしょの位牌にしたんだ……」
僕の言葉の最後は、小さな声になっていた。
位牌は確かに今日届いていた。
でも、ここにあるのは見慣れた史香の位牌じゃなくて、
永井さんがいう通り、もっと新しい位牌にすり替わってしまったのだ。
よくよく見れば仏壇は確かに巨大だけど、
先祖代々の位牌が居並んでいて史香の分が入る余地がないのだ。
だから両親のものとまとめて三人分でひとつの位牌にしてしまうことにしたのに違いない。
「……新しく位牌を作ったときは魂入れの儀式をするんだ。
だけど、史香の場合は今までの位牌に愛着があり過ぎて魂が移らなかったのかもしれない」
僕は事態を予想してみた。
でも、たぶんそれは正解なのだろう。なぜなら、ここに史香がいないからだ。
「そうだとすると、元々の史香の位牌はどうなったの?」
永井さんが不安そうに尋ねてくる。
「……たぶんお寺にある」
「寺か。じゃあ寺に行けばいいんだな。……一瞬ヒヤヒヤしたが、それなら問題ない」
大鷹が、そういって立ち上がる。
――そのときだった。
「ま、万平くんっ!」
いきなり声がした。
「ふ、史香?」
僕は辺りを見回した。
史香の声がしたのだ。そして屋敷の外に気配を感じた。
僕は、ほっと息を吐いた。
約束を忘れたのでも嫌われているのでもないのが、わかったからだ。
でも、ふと疑問を感じた。
いや、それは予感とも言えた。
m史香が僕を呼ぶ声に、なにかただならぬことが起こっているような気がしたからだ。
そして、それは当たっていた。
「ここだ。仏間にいる」
「わかった。今行く」
やがて史香は、血相を変えて壁から部屋に飛び込んできた。
「た、大変なの。ねえ、どうしよう……?
私、私、自分じゃどうしようもできないの。どうしよう……?」
「わかったよ。まずは順序だてて話してくれ」
僕はあわてる史香を、まず落ち着かせた。
触れるはずもないのだけれど両肩に手を置いて、ゆっくりとうなずいて見せたのだ。
すると冷静になった史香が話を始める。
そしてそれは、驚くべき内容だったのだ。
「あのね。叔父さんたちが、お寺に行って私の骨と位牌を預けたのは話したわよね」
「うん。それは聞いた」
「そして骨は先祖代々のお墓に葬られたの。お父さんお母さんと同じ墓石になの」
「だろうね」
大きなお寺の檀家なのだから、紅林家の墓地の敷地は広いのだろう。
それはこの屋敷の大きさを見てもわかる。
相当前、おそらく江戸時代から、お寺とのつきあいがあったのは間違いない。
「うん。それはそれで全然問題はないの。問題は――」
「――位牌だね。それは僕も気がついた」
僕は目の前の仏壇にある新しい位牌を指さした。
史香だけじゃなくて、史香の両親といっしょに戒名が刻まれた、
昨日、作られたばかりの位牌だったのだ。
「うん。その位牌なの。……だけど、私の魂はその位牌には宿ってないのよ」
「だろうね。それもさっき気がついた。
史香の気配がまったく感じられなかったし、姿や声も聞こえなかったから……」
「そうなの。……私の魂は、元の位牌に宿ったままなの」
「うん。あの位牌は史香にとって魂のアイテムになっているからね。
いくら新しい位牌に魂入れをしても、そう簡単には魂は移らなかったんだろうね」
僕と史香のやりとりを、大鷹と永井さんは口を挟まず黙って見守っていてくれた。
でもふたりには僕の声しか聞こえていないはずだ。
それでも僕の話した内容と表情から、事の経緯は理解してれているみたいだった。
「それでね、大問題が起こったの」
「大問題? なにそれ?」
「私の位牌が……、お焚き上げされることになっちゃったの……」
――僕は瞬時に凍りついた。
大きく息を吸ったまま、身体も思考も一時停止して考えがまとまらなくなる。
「位牌がお焚き上げ……! 史香、それって」
「うん。私、このままじゃ無理やりに
僕はパニクった頭を振って、必死に思考をまとめる。
お焚き上げとは不要になった位牌などを、お経をあげて焼くことだ。
つまり史香のいう通り、このままだと強制的に成仏させられることになる。
「それはいつのことなんだ? お焚き上げはいつなんだ?」
僕は触れない史香の両肩を揺する。もちろん手は素通りしてしまう。
「今日なの……。今から行うって、お坊さんが言ってた……」
「な、なんだってっ!」
僕は叫んだ。
そして大鷹と永井さんに今のやりとりを説明した。
すると大鷹も永井さんも血相を変えてしまった。
「大変! あ、相田くん、どうするの?」
「相田っ! どうにかならないのか?」
大鷹と永井さんが、続けざまに質問してくる。
「と、とにかく、お寺に急ごう。すぐに行って止めさせないと!」
僕たちは、まだ台所でお茶の準備をしている伯母さんに急用ができたからと断って屋敷を後にした。
今はのんびりと、お茶などすすってる場合じゃないからだ。
そして通りに出るとタクシーを探す。
でも、こんな肝心なときに限ってタクシーは見当たらない。
「仕方ない。駅までダッシュだ。駅まで行けばタクシーはいるだろう」
大鷹がそう提案した。
僕と永井さん、そして史香はすぐさま同意して全力で駆けだした。
北国の夏といっても昼間の気温は、東京と変わらない。
すぐに僕たちは、汗びっしょりになって息も上がってきた。それでも僕たちは走ることを止めない。
そして、ようやく駅舎が見えてきた。
駅前にはタクシーが群れを作って客待ちしているのが見える。
「
僕はタクシーに乗り込むと、息絶え絶えにそれだけを告げた。
タクシーの後部座席には僕と大鷹、永井さんが座り史香の幽霊は助手席に座った。
もちろん、運転手さんには史香の姿は見えていない。ドアも開けずに乗り込んだからだ。
「門前町でいいのかな?」
運転手さんは聞き返してきた。
「本堂のできるだけ近くにしてください」
機転を利かせて永井さんが、そう返事をした。
浄明寺は大きなお寺だと聞いている。
観光客の賑わう門前町からだと本堂までかなり距離があるに違いない。
「間に合ってくれ……」
僕は、祈るような気持ちでつぶやいた。
幸い大した渋滞もなくタクシーはスムーズに走り続けて、
山道を登り本堂脇の駐車場まで到着した。
「急ごうっ!」
僕たちは木々の向こうに見える大きな本堂を目指した。
本堂はそうとう古そうで、
象嵌が施された無垢の板張りの色が長年の風雨の影響ですっかり色あせていた。
本来ならばじっくり見学したい価値がありそうな雰囲気を見せているんだけど、
僕たちには、そんな心の余裕は一切ない。
そして参道の真っ白な玉砂利をジャリジャリ蹴散らして、僕たちは本堂の前まで到着した。
「お、遅かった……?」
そこには、やぐら状態で積まれた木材が、すでに紅蓮の炎を巻き上げ始めていたからだ。
その周りには僧侶が三人ほどいて厳かにお経を上げ始めてる。
お坊さんは初老の人が二人、そしてその前に立つ老人の僧侶がいる。
その僧侶が年齢的にも袈裟の色から考えても、立ち位置から見ても、住職さんだと思われる。
そして……、史香の位牌は、すでに炎の中にあるに違いない。
「ま、待ってくださいっ!」
僕は叫びながら、お坊さんたちに駆け寄った。
でもすでに読経で無我の境地に達しているのか、僧侶たちは僕に気がつかない。
「中止してくださいっ!」
僕は、お経を唱え続けているひとりのお坊さんの袈裟をつかむ。
するとさすがに僕の存在に気がついてくれた。
「なにか、ご用ですか?」
「……お、お焚き上げを中止してくださいっ! 中の位牌が必要なんです」
僕はすでにゴウゴウとうなりを上げて燃えさかる炎を指さした。
「位牌? 位牌は、もう燃えていますよ」
初老のお坊さんは、落ち着いた声でそう告げた。
「古い位牌には魂は宿っていません。拝むのであれば新しい位牌の方を拝んでください」
「……そ、そうじゃないっ! 史香の場合はそうじゃないんだっーーー!」
僕は炎に駆け寄った。
「うっ!」
僕は、思わず腕で顔を覆う。ものすごい熱気だった。
ゴウゴウと燃えさかる炎の壁が目の前に立ちはだかる。
「やめてっ!」
「相田、あぶないぞっ!」
永井さんと大鷹が叫ぶけれど僕には通じない。危険はもとより承知だ。
「くっ!」
僕が足でやぐらを蹴る。
すると、ものすごい火の粉が立ち上り、やぐらの一部が崩れた。
「……あった!」
位牌は、やぐらの中央のぽっかりと空いた空間に残されていた。
もうもうと煙を吐き火がすでに燃え移っていたけれど、まだ原型をとどめていた。
「ま、万平くん……!」
史香の戸惑う声が、聞こえる。
僕は一息吸うと迷わずに、手を炎の中に差し入れた。
「止めなさい。危ないです」
お坊さんが止めに入る。でも、ぼくの手は、すでに位牌に到達していた。
「あちっ!」
位牌をつかんだ僕だったけど、位牌はすでに炭になり始め炎はどんどん強くなっている。
そして僕の服にも着火したようで猛烈な熱さが全身を貫く。
――そのときだった。
僕を、誰かが羽交い締めにして炎の中から引き出した。
「ま、万平くんーーーーーーっ!! ダメーーーーーーーーーーっ!」
史香だった。
僕の手が、史香の位牌に触れたことで実体化したのだ。
「やめてっ! 万平くんまで死んじゃう。私、私、そんなの望んでいないっーーーーー!!」
僕の手から猛然と燃え上がる位牌が、ぽとりと落ちた。
地面に落ちると炭化していた位牌は砕け、残り火がわずかに燃え残った部分を焼き尽くす。
「……万平くん。ありがとう」
史香が、うつむいてそう言った。
史香の姿は元の幽霊に戻っていた。
でもその輪郭はぼんやりとしていて、もはや形として保たれていない。
「……万平くん。私、万平くんと出会えてうれしかった。たのしかった。大好きだよ……」
「史香っーーー!」
僕は叫んだ。すると史香は手を振っていた。
そして煙とも光とも形容しがたいものになると、ふっと姿がかき消えてしまった。
「史香っーーー!」
僕は力の限り叫び続けた。
でも、史香の姿も、声も、二度と戻らなかった。
そのとき突如、僕に水がぶっかけられた。
見ると大鷹とお坊さんが、防火用のバケツを手にしていたのだ。
「やめろ。お前まで死ぬとこだったんだぞ」
僕は頭髪の一部を焼き、腕にやけどを負っていた。
そして着ている衣服も、焼け焦げになっていたのだ。
全身すぶぬれになったまま、僕は立ち尽くしていた。
頭の中は真っ白で、なにも考えられない。
……なにも聞こえない。……なにも感じられない。
ただ、虚脱感だけはあった。いや、それしかなかった。
こうして、僕の毎日が消失した。
史香は、成仏してしまったのだ……。
――やがて到着する救急車。
お坊さんが呼んだものだった。
僕は、それに乗せられて近くの病院へと運ばれた。
つきそいは大鷹だった。聞けば永井さんは事情の説明のために寺に居残ったと言う。
それから数時間後。
「……ま、とにかく無事でよかった」
ベッドに横たわっている僕に、大鷹がそう告げた。
僕の意識は、はっきりしていた。
やけどの傷も痛んだけど、それ以上の痛みで心が折れていた。
「……相田くん。今はとにかく養生して。明日には退院できるんだから」
永井さんが、そう言った。
僕の怪我はたいしたことはなく、念のため今日一日だけ入院することになったのだ。
僕は、すっかりお世話になった大鷹と永井さんに礼を述べた。
それ以外、僕にできることはなかった。
その翌日、僕と大鷹は新幹線に乗って東京へと帰ることになった。
だけど、なぜか永井さんは別の新幹線で帰ると聞かされた。
「俺にも、よくわからないんだ。きっと切符が二人分しか取れなかったんじゃないか?」
大鷹はそう言うけど、僕たちが乗った車両には、空席が目立った。
「……ふうん」
僕には、深く考える余裕などなかった。
ただ、この心の空白が埋まる日が来ることはあるんだろうか、と、だけ考えていた。
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