国語の読解問題と法律の連関について
アブストラクト
・拙作、拙著が出題されたことはない。(いつかここ修正してみたい。)
・著作者の頭の中>著作物>作問者の解釈≒解答者の解釈という情報の伝言ゲームが発生する。
・しかし、我々はこの伝言ゲームを信頼で以て、どうにかやりくりしている。
本文
国語の文章題に関して、著作者による「自分の意見と異なる。」という投稿が、話題になることがある。
これは評論、エッセイ、小説問わず起きることであるが、むしろこの問題提起が定期的に起こることも含めて、望ましいものであると考える。
実は、法律の文言の作成・制定・解釈過程が奇しくも似た構造を取る。
そこで今回は、法律ができて、それが使われるまでの流れから説明したい。
なぜなら、国語の授業の最大の目標は、法律を読んで「なんとなく言わんとしていることは分からなくはない。」という境地に達することだからだ。(独断と偏見です。)
※要点整理用に表を用意したので活用してください。
・ 官僚 =作者、著者
・内閣法制局=校閲者、編集者
・ 国会 =著作者アンケート
・ 裁判所 =読解問題の作問者・採点者
・訴える人等=読解問題の解答者
・ 法学者 =作問者・採点者の技量を評価する人
今回は、内閣が法案を作るものを念頭に考える。
まず、法案の作成は官僚が考えているはずだ。現状どのような問題があり、その解決のためにどのような制度や施策が必要かを考える。
次にその制度や施策のために、法律が必要かを検討し、必要かを起草する。
次に、その法案を内閣法制局へ持っていく。行政府の職員が法案を作るのであれば、ここを通ることになっている。
内閣法制局では、法案が別の法律と抵触しないか、法案の中の文言が既にある別の法令の文言とダブっていたり、全く同じ文言があるのに新しく作ってしまっていないか、なども検討する。
ここでのチェックを終えて、初めて国会に提出できる。
ここで一度整理すると、官僚が作りたいものは、まず官僚の頭の中にあるということだ。これを文章化することで法案になる。
このとき、官僚が考えるのは、どうやって言葉だけで制度や施策を表現するかである。たいていの場合ポンチ絵と呼ばれる、A4に全てを網羅することを期待された図とともに説明されるのだが、ポンチ絵は法律にまで持ち込めないので、理解の支えには使うが、法案は結局は文章と言うことになる。
ここで指摘したいのは、法案という形で言語化されたものは、既にコピーされたものということだ。
官僚が最も伝えたいものは官僚自身の頭の中にあるのに、憲法19条によって思想良心の自由は絶対的に保障されているため、我々は官僚の頭の中を覗きこめない。
ゆえに、彼らは泣く泣く言語化するということを覚えておいてほしい。
さて、法案に話を戻すと国会の審議の時間だ。
ここではその施策を実行してよいのかという審議と、この文言をそのまま法律にして大丈夫かという審議をする。
両者は別物である。そもそもそんな政策認めない!のような政治的な賛否と、その文言のまま法律にすると悪用する輩が出るのではないか?そもそも憲法に違反するから無理じゃない?のような法解釈的な2つの側面が切り出される。
まあ、私が知らないだけで、もっと大きな側面があるのかもしれないが、ここで重要なのは、後者。
つまり、法解釈的な話である。
法律はよく読むことが大事だ。
よく言われるのが「など」「等」などの表現だ。
「戦徒常時は類稀なる物書きなので、賞状「等」を授与する。」という非常に血迷った美文があったときに、読者諸賢が気を付けるべきなのは「等」である。
この「等」に金一封は含まれるのか?不動産は含まれるのか?金塊は含まれるのか?は極めて重要であろう。
また、単なる単語でも油断はできない。
なかでも、「バナナは「おやつ」に入るのか?」は人類史上未だ解決を見ない永遠の問いである。
と、このように、どう読むの?どう読みたいの?本当はこういう悪事がしたいんじゃないの?政府よりもむしろ犯罪者すれすれの悪人に悪用されないか?という質疑が始まる。
ここで重要なのは、国会の審議は原則として公開され、その中で政府解釈が開陳されている。
最近は、行政府は国会に嘘を言ったらいけないという建前になっているので、国会での質疑に対する答えは政府を束縛することになる。
ここに立法者意思を読み取りうる。いうなれば著作者本人にインタビューするようなものである。
つまり、こういう意図で条文作りました!という公式見解が語られるわけだ。
これらは、国会会議録検索システムで検索・閲覧できるから気が向いたら読んでみると意外と面白い。どうせ寝てるだけだろうと思っていた人がいい質疑をしていることもあるし、意外と真摯にやりとりがされている場合がある。
最後に、裁判所。
まず、訴える人が、「この条文はこう読みます。だからこういう効果があって、私はあの人からお金がもらえるはずなんです。」という陳述を行う。
一方で、訴えられた人は、「いや、この条文は、こう読むのが妥当だから、支払いません。」という形で応戦する。
そして、このような場合、裁判所は法律の読み方を決める。言わば、「この法律はこう読むのが正解!」というのを、権力を以て決める。
皆様お察しの通り、ここで法律の読み方が一応定まる。もっとも、紛争の解決に必要な範囲でしか法律を解釈しないので、体系的である保証もない。
だから、判例を一つ持ってきただけだと、法令解釈が定まらないことは多々あるし、一見すると複数の判例で別の解釈がされているように思われることもある。
しかし、法学の醍醐味の一つは、一見衝突することもある判決というピースを矛盾なく結びつけることのできる一条の論理があるのではないか?という模索にあるのだ。(なお、これは脱線です。)
いずれにしても、最高裁まで争うと、そのケースにおける法律の読み方の「正解」が現れるし、裁判所は「正解」を出さざるをえない。(法学者が「正解」と認めるかはまた別の問題です。)
ここで重要なのは、裁判官は憲法と法律と自己の良心にのみ従って判決を下す必要があることだ。
日本国憲法 第76条
③ すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。
ここでいう法律とは、条約、政令、施行令、条例、慣習法を含むとされるが、国会答弁は含まれない。
お判りいただけただろうか。
これを創作界隈の言語でいえば、
「公式が勝手にそう言ってるだけ。作品にはそうは書かれていない。この作品はこう読まれるべきなのだ。」あるいは
「公式が気付いてないだけで、この作品はこういう読み方ができて、しかもこちらの方が有意義。」
こうなる。
だから、立法当時の官僚が考えていたわけではない活用方法が編み出されたり、法の網目を潜り抜けることを許してしまったり、という悲哀が生まれる。
この状況は既視感があるはずだ。
作問者の出題意図と、著作者の創作意図が食い違うことに似ている。
もっとも、法令解釈における、裁判所>国会という関係は、作問者と著作者の関係には妥当しない点に注意が必要だ。
しかし、良い作品と言うものは、様々な読み方が考案されることが多いらしい。
音に聞くところでは、夏目漱石の書いた「こころ」は、既に100通り以上の読み方が開発されているようだ。
文豪と言えども、この数の解釈パターンを想定しているとは思われないだろうことを考えれば、文筆作品は多面的である。
作者から見た景色を忠実に見たい、それも面白い。
読者の誰かが観た景色の方が、腑に落ちる。そういうこともあるのだ。
もっとも、これは作問者が一定のハードルを越えていることを前提とする。
作問者の文章力が著作者の文章力から遠ざかるほど、著作者が解釈の幅を持たせたはずの部分を見逃し、やらかす。
逆に、作問者が著作者をよく知っていて、かつ、うっかり屋であると、問題には抜粋していない部分を根拠にした解答を正解に設定してしまう。
(一回出くわしてびっくりした記憶があります。この文章の前3段落分くらいの文章が無いと解答できなくないか?と冷や汗が出ました。論理パズルと論理の跳躍を駆使して当てに行きましたが、正誤は覚えていません。)
総括すると、国語の読解問題において、著作者の意見や考えや設定や言いたかったことと出題者の考える正解が一致しないことは、往々にしてよくあるが、むしろあった方がいい。
なぜなら、その埋めがたいギャップこそがコミュニケーションであり、そもそも完璧には伝わらないものだから。
そして我々は、そのギャップを信頼によって踏み越えて生きている。
ときとして、それは盲信なのだけど。
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