AED論考・貨幣経済と家事

戦徒 常時

AED論考

アブストラクト

・極低確率でしか訴えられないし、(史上0件と思われる。)

・多少グレーでもほぼ勝てる。

・実質デマだが、表現規制よりも訓練の機会を増やした方が効果的


はじめに

 ツイッターで少し話題になっていたのと、私も少し参加した感想を書きます。140字でまとめるのに苦労しますね。

 連投に慣れていないのと、中庸と呼べるほど中身があるか分かりませんが、これを簡潔にすることは難しいので、長文が許されるここでも書いてみました。


本文

 女性に対するAED使用率が男性と比べて低いことが話題になっている。

 どうやら何度も話題になっている話題のようだ。


 Xでも投稿したのだが、大前提として我が国の刑法は不作為を原則として罰しない。

 つまり、何か特定の行動をしなかったことについて責任を問われないということである。

 親子などの特別の関係がない限り、罰せられない。

 ちなみにこれは保護責任者遺棄致死罪である。(刑法219条)


 つまり、単なる通行人が「見殺しにする」ことは罰せられない。

 倫理上はともかくとして、「見殺しにする」ことは合法である。

 もっとも、私は倫理上の非難も行わない方が賢明だと考えている。

 なぜなら、素通りした者にも何らかの事情があるはずだし、その事情が何であれ、これを聞かれること自体が既に自由を破壊しているからである。


 法であれ倫理であれ、倒れている者を見殺しにしてはいけないとすると実際の社会生活上、凄まじい不都合が生じる。

 道端で倒れている者を見かけてしまった瞬間から、単に寝ているのか、死にかけなのかの判別をしないと、自分が悪者になってしまうリスクに晒されるからである。

 しかし、逐一寝てるのか死にかけなのかを判別する必要のある社会が地獄であることを説明するのに、あえて紙幅を割くならば、以下の例を考えてほしい。

 深夜、泥酔して道端で寝ている者があれば、昏睡か泥酔かを見極めなければならない。それが人気のない深夜の道路であっても、街灯のない裏道であってもだ。

 医学的知識がなくて、返事がなかった場合には、救急車を呼びあなたは救急隊の到着を待つ必要がある。


 こうすると遵法精神の強い善良な人ほど外を歩けなくなる。

 したがって、救護を義務付けるのは適切でない。





 一方で、セクハラ等の訴訟リスクである。

 ネット記事によれば悪質な行為がない限り、大丈夫ですというお墨付きを与えるような文言が目立つが、無罪や勝訴が勝ち取れることに関しては妥当するだろう。

 検察も裁判所も、明らかにあなたがセクハラ等を行ったという明白で強力な証拠がない限り、起訴も有罪も躊躇する。

 

 我が国の裁判所は、結果における妥当性、判決が社会に与える影響を重視する傾向にある。

 もし、軽率にセクハラや性犯罪を認めてしまえば、救命行為は行われにくくなり、我が国の救急医療体制は死ぬ。そのことに思いの至らない裁判官は居ない。


 一方、訴訟を起こされるということ自体が致命的という大変不幸な方もいるだろう。

 実際、救命行為にかこつけてセクハラやわいせつな行為をしたという訴えを提起することは、不可能ではないし、また不可能であるべきでもない。

 もっと言えば、法学とは人間を疑ってかかるものなので、救命行為に乗じた性犯罪をやる者がゼロとも思わない。

 AEDの使用局面ではなく、酒で酔わせて・・・という輩は後を絶たないことを考えれば、訴訟と言う方策を狭めることは危険でもある。

 もっとも、命の方が大事だから、AEDの使用局面においては、この際多めに見るという立法政策上の措置も、一概にダメとまでは言えない。


 ただ、訴訟される側にも世間体リスクと言うものがあるように、それはことを忘れてはならない。

 ほぼすべての国民が原告の敵に回ると思われる。それは「恩知らず」だからだ。

 救命者を訴えることのハードルはとてつもなく高いことを認識した方がいい。

 実際、訴えられたケースを確認できなかった。


 また、いざ訴訟を起こされても、立証責任というものがあり、確かに猥褻な意図を以て触ったと言えるだけの証拠を集めて、被害者の側が証明しなければならない。

 それも、救命行為のための正当な接触と区別できる証拠が必要である。

 接触があったということは、最初から触るつもりだったんだろう、という平時の状況とは区別される。 体に触れることがそもそも必要とされている状況からスタートする。

 救命者には当然かなり有利だ。

 なんなら完全に正当な接触である必要さえない。


民法

(緊急事務管理)

第六百九十八条 管理者は、本人の身体、名誉又は財産に対する急迫の危害を免れさせるために事務管理をしたときは、悪意又は重大な過失があるのでなければ、これによって生じた損害を賠償する責任を負わない。


 命の危険のある者に対する救命行為はこの条文によって守られている。「悪意又は重大な過失」とは、平たく言えば、「わざと又はわざととしか思えないほど不自然なうっかり」という意味である。

 服を切りすぎた、覆いを被せられなかった、人垣を作れなかった。救命現場には様々な不可抗力があろうと思うが、その結果、何らかの被害が発生したとしても、その損害賠償は救命者には降りかかってこない。

 すべてこの条文が守ってくれる。


 さらに、訴訟できないからと言って晒上げられるリスクを警戒する者もいたが、訴訟よりもハードルが高く、国民の反感はより根強いものになることは言を俟たない。最悪の場合、晒した側がネットリンチにあう可能性は否めない。

 即刻弁護士を雇って損害賠償をすべきだし、不当解雇はもはや美味しいまである。なんなら、無料で受けますと明言する弁護士もいる。





 最後に、この訴訟リスク言説が、女性の死亡率を上げる要因なのか、およびデマ表現規制が必要なのかについて検討したい。

 

 訴訟リスクや晒上げ等の私刑リスクは極めて低いことは確認できた。

 次にこのことを表現する行為の処罰の是非について検討したい。

 一つの考え方として、上記の訴訟リスク言説は、ほとんど根拠もなく生命を危険にさらす言説であり、名誉棄損や猥褻表現同様に規制できる、というものである。

 これについては、その表現が事実に反していれば、憲法上も表現規制は可能だと思う。命は言葉よりも重い。当然である。


 一方で、素通りして見殺しにしても法的に非難されないことは事実なので、これを表現することを規制することはできないし、極めて低リスクではあるが民事で訴えられる可能性も法理論上ありえなくはないことは事実だ。(なお、史上0件と思われる。)

 したがって、「デマ」を規制しても事実は規制できないし、そもそも助ける義務はないと呟くことは結局許容されてしまう。

 抜け道が公然と存在するのにそれを塞ぐ意味はあるだろうか?これが1点目だ。


 2点目は、救命行動にもその躊躇にも、X上のデマが現実の救命活動を有意に低下させるほどの影響力を持っているとは考え難い点だ。

 デマの威力の減殺と言う点でも、女性がAEDを使ってもらえる確率を上げる点でも、実践的な訓練機会の拡充が最も効率的である。訓練の場で訴訟リスクがほぼゼロであることも伝えられる。

 対処アプローチとしては、正しい情報を氾濫させてデマを圧殺する方が、効率が良い。もっともこれはこれで政府言論という、言論空間の歪曲戦術ではあるから、何に使っても良いわけではない点には注意が必要だ。

 刑罰はどこまでいっても非生産的な活動であるから、デマを罰しただけではAEDの正しい使い方と、私も正しく使えそうだという自信は広まらないからである。


 たいていの人間はとっさに法的リスクを検討できるほど賢くないし、半ば本能的に救命に向かってしまうのではないだろうか。

 素通りする自由があると宣って憚らない私でさえ、実際に困っている人を見かけると世話を焼かざるを得ない。とっさに声をかけてしまう。サガというやつだ。

 既に倒れている人ならともかく(泥酔や疲労から寝ているなど考えられるため)、今まさに目の前で人が倒れた場合には、「大丈夫ですか?」と声をかけてしまう人が多いのではないだろうか?

 その一瞬で法的リスクを判断するほど優れた頭脳を持つ者はあまりいない。法学部を出ている私でさえだいぶ苦手だ。法的リスクという発想がそもそも瞬発的には出てこない。

 そして、「大丈夫ですか?」と声をかけた瞬間に、素通りする自由は失われる。救急隊や場所によっては駅員等が駆け付けるまでは、放置できなくなる。

 かくして救命行為は始められざるを得なくなるはずだ。

 

 では、一刻を争うAED使用局面において、女性の服を脱がすことに抵抗感を示すのはなぜか?

 それは非常時にあっても平時の禁忌を引きずってしまうからだと考えている。

 普通の日本人は、女性の服を脱がしてはいけないという禁忌に縛られている。(平時は縛られていた方がいいだろう。)

 この禁忌は救命規範以上に強烈で、救命時においてさえ顔を覗かせているのではないだろうか?


 これによく似た例は、戦場にあるのではないだろうか。

 戦場において、多くの兵士は敵兵に対しても弾が当たらないように撃つようだ。もっと古い弓矢を使う戦争においても、当たらないように射っていたらしい。

 自分が死ぬかもしれない状況下でさえ、平時における「人殺しは避けるべき!」という禁忌に縛られていることが確認できる。

 おそらく「悪人」になることを許容できないのだ。たとえその行為が合法で、求められている状況だとしても。

 つまり、女性の服を公衆の面前で無理やり脱がせることは悪であり、その「悪」に慣れていないことに起因する部分も多分にあるのではないだろうか。



 この解決方法は、実践的な訓練に尽きる。禁忌に基づく躊躇は、訓練によって覆すほかない。

 訓練用の人形を女性型にしておき、服装も女性的な色合いにしておく。もちろん服をいちいち切っていては経済的ではないが、ハサミを人形に近づけておくことも重要だろう。(人肌にハサミを近づけることも禁忌の一つである可能性がある。)


 何を為すべきか知っていることと、それを実行することと、上手く実行することの間にはそれぞれ隔たりがあるが、実行することが最も重要である。


 したがって、救命の現場という状況にあって、訴訟リスク言説が行動の決定に影響力を持つことは少ないのではないだろうか。

 女性がAEDを使ってもらいにくいという状況は、もっと動物的な忌避感に起因している気がしてならない。


 我々の脳はやらないことに都合よく理由をつけるが、その理由を正確に把握しているかは怪しい。

 ソロモン王のパラドクスが正しいならば、自分の言行に関してはなおさらである。


 表現規制が必要だとしても、先に為すべきことがあるはずだ。

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