庭師バートの混乱
「ンッンッン~♪ ンンンッン~~♪」
彼女はまず初めの三日間はノイシス家の屋敷で入念な準備をした。
パトリシアの残した筆記を頭に叩き込み、記憶とは随分異なる大陸の地図を眺め続け、領地や勢力の変化を受け入れた。
パトリシアのノイシス家は片田舎で、これといった特産もない寂れた農地がほとんどだったらしい。元より国にとって対して価値のない土地だったのだろう。
「ンフフン♪ ンフフフン♪ ンフフフフ~~♪」
ティファニーはパトリシアの所有物であった何着かの美しいワンピースを古ぼけた鞄に詰め込んでいた。もっと派手なのが好きだが、価値のありそうなドレスは片っ端から売っぱらっていたようだ。今やパトリシアの所有する服は、農民のワンピースとほとんど同じである。
「ま、いいわ。こういう格好のほうが同情と油断を誘えるもの」
残り少ない缶詰から木の実を取り出し口に放り込んで、またティファニーは鼻歌を楽しみながら、支度を続ける。
昼も夜も窓を開けっ放しにしていたお陰で、部屋に漂っていた死臭は気にならなくなってきた。鼻がバカになってしまったのもあるかもしれない。
彼女は最後に契約書をどこに隠そうか迷う素振りを見せて、スカートを捲りあげて下着の中に挟んで隠すことにした。
――とその時である。誰もいないはずの廊下から、誰かが駆ける足音がやってきた。
「パトリシア!!! うわああ!!?」
部屋の扉が開くなり、パトリシアと同い年ほどの少年が部屋に飛び込んできて、そしてティファニーの生脚を確認するなり絶叫をあげながら部屋から飛び出していった。
「ご、ご、ごめん!! 着替えの最中とは思わなくて!! えっ!? いや、誰!? パティ!? だよな……!? 髪が……ってか、違う!! 窓!! キミ、窓を開けてちゃ駄目だ!! 瘴気を吸い込んでしまう!!!」
忙しい青年だな、とティファニーは呆れながらスカートを直した。
「入るならさっさと入って頂戴」
扉の向こうにそう告げると「あ!? う、うん……!!」という声と共に、少年が恐る恐る部屋に入ってくる。
彼は真っ赤な顔でティファニーを見るなり、ザッと顔色を青に変化させて、ティファニーへと飛びついてきた。
「マスクをしなきゃ駄目だってば!!!」
少年は自分が口元に当てていた瘴気避けのマスクをティファニーの口元に押さえつけるなり、自分は息を止めて、部屋中の窓を大急ぎで閉めてゆく。
ティファニーはそのマスクを片手に少年の様子を観察した。
彼の名前は分かる。――バートである。
パトリシアの幼馴染であり、ノイシス家の使用人一家の一人息子だ。庭師の仕事をしていたらしい。彼女の日記に書いてあった。
けれど魔物のせいで環境が汚染され、庭は枯れ果て、そしてノイシス家も賃金を払えずに屋敷を出ていってしまったと、パトリシアの悲しみも綴られていた。
見た目でバートだと分かったのは彼とパトリシアが幼い頃の写真がアルバムの中にあったからだ。
「ぷは、ゼイゼイ……死んじゃいけないよパティ、旦那様は君を守るために勇敢、に……」
「別に死ぬ気なんてなかったけど」
「…………あー、パトリシアだよね?」
息も絶え絶えに振り返ったバートは、そこに立っていた少女を改めて眺めて訝しげに尋ねた。
「そうよ」
ティファニーは堂々答えた。
「でも、なんか雰囲気が……髪型変えた?」
「色も」
「だよね、すごく素敵な色だけどでも……なんていうか大胆すぎるというか……あー…………どうしちゃったの?」
必死に言葉を選ぼうとしたバートが、結局ストレートに尋ねる。
パトリシアは真っ赤な髪をツインテールに結っているのだ。貴族令嬢にしては少し、大胆な髪型である。
「アタシ生まれ変わる事にしたの」
「生まれ変わる」
「そう。過去の自分は捨てて、新しい自分としてやっていく事にしたのよ。見た目から入るのも大事、そうは思わない?」
「確かにそうかも、いやだけど、でも、いや、いや、君が前向きになれるなら」
「名前も変えるわ」
「名前も!!?」
パトリシアの発言にバートは悲鳴をあげた。
「決意を新たに新しい名前をつけるの。『ティファニー』よ。ティファニー・パトリシア・ガートルード・ノイシス。これがアタシの新しい名前。どう?」
「どうって、いい名前だと思うけど、でも何もそこまで」
「これくらいしなきゃ悲しすぎて死んでしまいそうなんですもの!! 今までのアタシでいるのはもう嫌なの!!」
「パティ……!!」
ティファニーはワッと泣きだす演技をして、ベッドに伏せた。バートが焦っているのが分かる。おずおずとこちらに近づいてくる気配を探りながら、ティファニーはか細い声で続けた。
「あのね……アタシもう一度頑張ろうと思うの……。この家や領地を諦めたくないから……だからもう一度、都に行って助けを呼ぼうって思っているのよ……。だけど、今までの弱いアタシじゃもう駄目だと思って……アタシ、変わりたいの……!!」
「そんな……君は今のままで十分、す、素敵な女の子だよ……パティ!」
「お願い……ティファニーって呼んで……」
哀れっぽい声を出すティファニーの傍にバートはいよいよ傍に近づいてきていた。
――そうよ、おいでおいで、近くまで。
伏せたティファニーの吊り上がった口角にバートは気がつく事ができない。
「パ、……ティ、ティファニー……」
パトリシアの茶色だった瞳が緑色に輝き出しているのも、やはり顔を伏せているためにバートは気がつく事ができない。
いよいよバートがか細く震えるティファニーの背に触れようとしたその時、ティファニーはその腕を掴んで強く引き、バートをベッドの上に転がしその上へ乗り上げた。
そして、緑色に輝く瞳で
「お願いよバート、アタシを都まで連れて行って頂戴……!!」
「…………!!!」
バートの瞳がとろんと蕩ける。ティファニーは口角を吊り上げた。
「き、君の望みだったらなんだって叶えたいよ……!!」
「ああ、ありがとうバート!!」
ティファニーはバートに縋るように抱きついてみせる。バートの手はふらつきながら、ティファニーの背中の上をふわふわ漂った。
これでこの少年はティファニーの心が欲しいあまりにティファニーの言う事になんでも従って、都まで連れていってくれることだろう。……と、思いきや。
「で、でも、もう王宮への嘆願は諦めたほうがいい……!!」
「ハ!?」
抱きしめ返されることなく、ガシッと肩を掴まれて体を起こされたティファニーは素っ頓狂な声をあげるしかできなかった。
バートは真っ赤な顔で、ぎゅっと目を瞑りながら必死に喚いている。
「この国はもう終わりだ……おれ達庶民のことなんか気にもかけちゃくれない……この土地だってもう……だからパティ、今までのことは忘れて、おれと一緒に安全な場所に……!!」
「……!!? どうして!? アタシを好きでしょう!?」
「す!?! そりゃす、す、好きだけど、好きだからこそ君にはもう危ないことも、身を売るような真似もして欲しくないんだ!! アッ、好きっていうのは勿論、幼馴染としてとか、元使用人としてというか……おれ達身分が……でも、君が全て投げ出してくれたらって……アッ、いやこれは別にその」
「……!!!」
――効いていない!!!
バートは真っ赤な顔のまま何やら未だに必死にあれやこれやとパトリシアの身を案じるような事ばかり口にしている。……好意をいっぱいに膨らませながら。
ティファニーはその様子を暫し眺め、そして、可笑しくってたまらなくなり、笑い出した。
「アハ、アハハハ、アハハハハハ!!」
「パティ? あ、ティ、ティファニー?」
誰も私のことなんか気にしてもいない。
パトリシアの声が蘇ってくる。
――なんて愚かで哀れな娘!!
既に魅了している相手を魅了することは不可能だ。
今やティファニーはパトリシアで、パトリシアはティファニーである。
バートに
「アハハハッ!! アハハハハハッ!!」
「ティファニー? ……パトリシア?」
「アハハハ……あー、そうね。確かに、パトリシアは貴方と行ったほうが幸せになれるかも」
「えっ」
ティファニーの言葉にバートは期待の籠もった声を漏らしていた。
くつくつと笑いながら、ティファニーはバートの上から退いてベッドに腰掛ける。
「何もかもの執着や望みも捨てて、純粋な愛を選んで純朴な男の子と二人だけの旅に出ればパトリシアはこれからでも幸せになれた」
「…………」
「――でもパトリシアはもういなくなっちゃったのよ」
赤い前髪の隙間から覗く瞳に、バートは息を飲んだ。
そこに宿る光は確かにパトリシアのものではなかったからだ。
とてつもない喪失感がじわじわとバートの中に染み渡ってゆく。
「ティファニーは貴方とは行かない。ティファニーは都へ行く。分かった?」
純朴な微笑みを浮かべていたパトリシアとは違い、深淵からこちらを見つめているかのような微笑のティファニーに見つめられ……バートは無意識に首を縦に振っていた。そうする事しかできなかった。
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