火曜日。
午前10時。
今日は昨日とは打って変わってゆっくりとした朝だ。
ぎりぎりまで布団にこもっていたせいか頭がまだぼーっとしている。
洗顔と着替えを済ませ、パソコンをつけた。
***
午前10時30分。
ほんの少しの物音で目が覚めた。
もこもこの靴下を履き、トイレに立った。
我が家は2LDKでリビング・ダイニングを挟んで部屋が2つある。
ここに決めたのは、朝に弱く人よりも長く眠る私の睡眠を守りたいという夫の気遣い。そしてお互いの1人時間を守るためだ。
トイレを済ませ扉の方に目をやると、なんとなく灰色の煙のような気配を感じた。特に気に留めずにいつものルーティンに戻った。
***
午後2時。
だめだ。今日は何もはかどらない。
幸い意味のないミーティングの予定はないが、くどくどうるさいお小言のメッセージが鳴り止まない。
眼鏡を外し、目頭を強く押さえた。
急ぎの仕事はない。午後の有休を申請して、お小言もすべて無視して寝室へ向かう。
部屋に入るとふわっと妻の香りがした、気がした。
自分の寝床に入り、布団に潜る。
妻は歯に衣着せぬ物言いをするが、内容や口調とは裏腹にとても柔らかい雰囲気を持っている人だ。そのアンバランスさがより一層魅力的に見せるのだろう。
彼女は出会った頃からそうだった。
俺たちは職場結婚で、ありきたりな話だが、俺が中途採用で入ってきた彼女の直属の上司だった。
その頃はお互いパートナーがいたし、職場にプライベートな感情を持ち込むのが嫌いな俺は、今思えば不自然なくらいに距離を取っていたと思う。
距離がぐっと縮まったのは彼女が退職することになったときだった。
理由を聞いても一身上の都合で、としか言わない。
あまりに俺がしつこく尋ねるものだから、埒が明かないと思ったのだろう。食事に誘われた。
どこにでもある中華の店で、独特な小籠包の食べ方がとても印象に残っている。
乾杯して、ゴクゴクとCMに起用されてもおかしくないくらいのいい音を鳴らしながら3分の2ほどグラスを空けひと言。
「私、退職の理由は話しませんからね」
思わず吹き出した。
「な、人が真面目な話をしているのに」
「ごめん。君があまりにも真面目な顔をするものだから、つい」
「いつもは呆けた顔をしているみたいじゃないですか」
眉間に皺を寄せながら、でも先ほどよりは柔らかい表情で彼女は言った。
それから月に一度飲みに行く、良き友人になった。
彼女は新しい仕事を始めたらしく、アルコールが入るといつも以上に饒舌に近況を聞かせてくれた。
時折愚痴も挟むものの、惚気とも取れそうなその話は、聞いていて心地がいいものだった。
そして何より、その話をする彼女がとても愛おしく思えたのだ。
「そう言えば指輪外したんですね」
「へ?」
我ながらびっくりするくらい間抜けた声が出た。
「喧嘩でもしたんですか?」
「まあ、ね」
「あらま…。答えたくなかったら答えなくていいんですけど、別れるんですか?」
「もう別れたんだ」
「そっか…じゃあ遊びたい放題ですね。そうしたら笹原さんは独身貴族ってやつになるんですか」
少しおどけた様子で言う彼女の優しさが温かい。
でも1つ訂正することがある。
「うん、でも俺、結婚してたわけじゃないからね」
「うんうん……えっ」
「うん」
「えっ、え、あ、ちょっと待ってください。いや誰も急かしてないんだけども」
「うん、そうだね」
可愛い。愛おしい。ずるい。
「え、だって、ずっと薬指に指輪してたじゃないですか」
「ただのペアリングだよ。しかも別れたのは随分前だ」
「まだ好き、とか」
「残念ながらそんなことはなくて。純粋にデザインが好きだし、物に罪はないだろう」
「うわ女子みたいなこと言いますね。もう飽きちゃったんですか?」
「不誠実な気がして」
「ふせいじつ…?と言いますと」
「好きなんだよね、吉村さんのことが。だから、君に不誠実だと思って」
困惑させたかと思い、彼女の横顔を盗み見たが、いつもと同じ凛としていて綺麗な横顔だった。
***
午後8時。
やっと仕事が終わった。
手早く帰り支度をして、職場を後にした。
『おつかれ様。仕事おわったよ』
電車に乗っても、最寄り駅が近づいても、夫からの返信はなかった。
最寄り駅に着いてもやっぱり返信はなかった。
朝のあの灰色のもやもやが気になって心配になる。
大丈夫かな。何かあったのかな。もしかして家に強盗が…なんて現実味の薄いことまで思いつくものだからたまらなくなって電話をかけた。
呼び出し音とともに不安が募っていく。
――「もしもし」
「よかったあ…」
一気に呼吸が楽になる。
「ごめん、連絡くれてた?寝てた」
「うん、連絡してたけど平気。何か出来合いの物を買って帰ろうと思うんだけど、何がいい?」
「パッと思いつかないな。いいや、お腹空いたら自分で買いに行くし」
「そう?わかった。もう少ししたら帰るね」
「うん。気をつけてね」
さて、どうしようか。
そうだ、近くの弁当屋が今月は鶏の甘酢あんかけ弁当を売り出しているはず。それにしよう。
***
午後10時40分。
「ねえねえ、食後のデザート食べたくない?」
「何か買ってきてあるの?」
「じゃーん!この前気になるねって話してたチーズケーキです!」
「いいね。何か淹れるよ。コーヒーと紅茶どっちがいい?」
「紅茶にする。ノンカフェインのってまだあったっけ」
「あるよ。それにする?」
「うん。ありがとう」
「おいしいね」
「おいしいね」
「チーズケーキはやっぱりこのくらいしっかり焼いてあるのが好きだなあ」
「俺も結衣と付き合うようになってから、ベイクドチーズケーキの方が好きになった」
「ふふ。ずっと一緒にいると似てくるって言うけどあながち間違ってないかもね」
「そうだね」
「そうしたらもっともーっと似てくるね」
「うん。そうだね」
***
「私明日早いから今日は寝るね」
「わかった。俺ももう少ししたら行く」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
***
今日もありがとう。やっぱり君には敵わないよ。
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