今日も308号室で、

◯◯ちゃん

月曜日。

午前8時。

目が覚めた。

何も考えずとも勝手に洗面所へ向かってくれる身体。

顔を洗って髭を剃り、Yシャツに着替えた。

そっと気配を消して、寝室の扉を再び開くと穏やかに寝息を立てている妻の姿があった。 気配を消さずとも彼女が目覚めることはまずないのだが、自分が立てた物音で安寧の睡眠を妨害したくない。

今日もよく眠っている。

またそっと扉を閉じ、今度は向かいの扉を開ける。

かの有名な北欧家具屋で揃えた、茶色を基調としたその部屋は、俺の仕事部屋兼夫婦の趣味部屋だ。

パソコンの電源を入れ、スケジュールの確認をした。

今日はミーティングが3件もある。週明けからハードだ。

飲み物を取りにキッチンへ向かった。


***


午前11時。

けたたましく鳴り響くアラームで目が覚めた。

寝起きとは思えないほどの素早さでアラームを止めた。

そのまま携帯電話を手繰り寄せ、布団にくるまってSNSを巡回する。

ひと通り済ませると、のそのそと起き上がり寝室を出た。

快適さを重視している部屋着は少し大きくて、ズボンの裾を引きずって歩いた。

キッチンへ向かい、電気ケトルでお湯を沸かす。

マグカップにティーバックをセットし、夫が回してくれていた洗濯物を回収した。

アイロンが必要なものとそうでないものを仕分けていたら、沸騰した合図が聞こえた。

右手に紅茶、左手は腰に添え、壁に掛けられているホワイトボードへと目をやる。 今日はミーティングが3件もあるらしい。大変だな。

ご丁寧に所要時間まで書かれている。

下線を引き矢印を伸ばし、ひらがなで『おうえん』と書いた。

さて、私も頑張りますか。  

彼は私の応援にいつ気づくだろう。楽しみだ。


***


午後4時。

仕事がひと段落ついたので、休憩をすることにした。

昼に食べた菓子パンの袋がそのままだ。

この部屋にもゴミ箱はあるが、いわゆるキッチンに置かれるダストボックスほどの密閉感はない。

虫が大嫌いな妻は、このゴミ箱に食べ物、分かりやすく砂糖が含まれていそうな食べ物の袋を捨てるのが耐えられないらしい。

若干億劫ではあるが仕方がない。

どうしてもこの部屋のゴミ箱に捨てたいわけでもない俺は、毎回素直に従っている。


終わったミーティングを消そうとホワイトボードに立ち寄ると、右肩上がりの文字が目に付いた。 ポケットから携帯電話を取り出し、写真を撮った。

頬が緩んでいるのが自分でも分かった。

彼女の優しさに、俺も何か返したい。

ごはんを作って帰りを待ちたいが、生憎まだ仕事が残っている。

――そうだ、お風呂掃除をしておこう。

暖かくなってきたとはいえ、夜はまだ冷える。

なるべく冷気に刺されないように防御して帰ってくる彼女の姿が浮かんだ。

首も肩も凝って仕方ないと言っていたし、温かい湯舟があったら喜ぶはずだ。

その様子を想像するだけでまた頬が緩んだ。


***


午後7時30分。

仕事が終わって帰路につく。

「ただいまー」

間延びした声が玄関に響き渡る。

夫はもう仕事を終えていたようで、リビングのソファに腰掛けてテレビを観ていた。

「ん、おかえり。今日も1日ご苦労様です」

「ありがとう。ちなみに、ご苦労様って目下の人に対して言うんだよ」

「あ、おつかれ様です」

少しおどけた様子で武士みたいに頭を下げた。

「うむ。くるしゅうない」

私も武士みたいに返す。

こうやって言葉ひとつひとつを捉えて、指摘してしまう癖がある。もちろん悪意も何もない指摘だが、不快に思う人は一定数いるだろう。

夫は嫌な顔せず、感心したり訂正したりしてくれる。

だから私はこの人と結婚したのだ。


「晩ごはんどうしようか」

「お昼遅かったし、俺はまだいいかな。結衣は?」

「それなりに空いてる。なんか適当に食べるかな」

冷蔵庫には大したものはなかったが、自分1人の空腹くらい満たせるだろう。


「今日外寒かったでしょ」

「寒かった。まだしばらく夜は冷えそうですねえ」

「そうですねえ」

夫は続けた。

「今すぐ食べないなら、お風呂先に入っちゃえば?どうせ面倒くさがって駄々こねるでしょ」

確かに。私はお風呂に行くまでが長い。今すぐごはんを用意する気力もなさそうなので、素直に従うことにした。

そうだ、この前買った柚子のバスソルトを使おう。

「はーい。じゃあ先入るね」

「うん」

お風呂場へ向かおうとすると、夫がスタスタとこちらにやって来る。かと思えば私の前を素通りして給湯器のスイッチを押した。そしてまた定位置へ。

「お湯張りをします。お風呂の栓を確かめてください」

いつものアナウンスが流れる。

私は頭の上には、はてなマークが3つほど並んでいる。

夫の後ろ姿に話しかけた。

「お風呂まだ洗ってないよ…?」

「俺、洗っといたよ」

夫の表情が見えた気がした。

こういうことをサラッと、しかも絶妙なタイミングでやってくるのだこの男は。してやられた感が否めない。嬉しいやら悔しいやら感情が忙しい。

「ありがとう」

「どういたしまして」

こういう人だから私はこの人と結婚したのだ。


***


午後11時。

「ねえ、なんで今日お風呂洗っておいてくれたの?」

「仕事の合間に時間あったから少し身体を動かそうと思って」

「ふーん。…それだけ?」

「うん」

「そっか。ありがとね。すごい温まった」

「それはよかった。あの入浴剤いい匂いだったね」

「ね。バスソルトだから発汗作用あるし健康的な感じする」

「バスソルトって言うんだ。勉強になった」

「また1つ賢くなりましたね、お兄さん」

「いつも情報をありがとうございます、お姉さん」

「やだ、なんかナンパっぽい」

「ええ」


***


「そろそろ寝るよ。おやすみ」

「うん、おやすみなさい」


***


今日もありがとう。また明日。

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