心故に君想い、想う故闇招き
ある遠い日、野原ではまだ幼さの残った三人の天使が走っていた。
「もー、遅いよーヘルツ、お兄ちゃん! はやくはやく~!」
数歩先を走る少女は、無邪気に笑いながら少年二人を招く。時刻は三時、おやつが出来上がる時間だ。今日はラーチェがクッキーを焼いてくれたそうで、彼女も一段と張り切っている。
「マリス、そんな急がなくても、おやつは逃げないぞ」
「……あ、いい事考えた。マリス、先に走ってローブァイトの分も食ってやろうぜ」
「あぁ~、いいねそれ! そういう訳だからお兄ちゃんっ。のんびりしてると私達がぜーんぶ食べちゃうからね~!」
「あっ、おい待てヘルツっ!」
足を速めて、妹と並んだ親友。企んでからの行動が早い事だ。おやつ如きで走るのは子どもらしくて嫌だったが、こうなったら話は別だ。いつも何をしても二番で、いくら将来の主相手とは言え、競争心が湧き立つモノなのだ。
ここで負けたくないと、少年は足を速める。
それは、まだ幼い天使達の、平和な昼下がりの事だった――
そんな過去を夢に見たローブァイトは、ハッと目を覚まし起き上がる。
下手な悪夢よりよっぽど悪夢だ、と、普段の彼ならそう言っただろう。しかし今は、そうは思わなかった。
「あと少し、なんだよな……」
枕元で鎮座する狼のぬいぐるみを撫で、一人そう呟く。大の大人としてはらしくないが、これは妹がプレゼントしてくれたモノだ。似合わないからと言って捨てるような物ではない。
これまで生きた人生と比べたら、五年なんて短い時間だ。しかし、喪失が産みだしたこの五年間は、どんな時間よりも長く感じた。もう一歩となった今、奇しくも残りの闇は光の子四人を殺した分。契約の都合上優雷は殺せないのを加味すれば、彼女を除く三人と後少々の別の誰かの闇を狩る必要がある。が、大した事ではない。人の子一人殺すのは造作でもないからだ。
部屋を出ると、ヘルツも丁度起きた所だったようだ。同じタイミングで扉を開け、顔を合わせる。
「丁度よかった。ヘルツ様。今から出るので、俺が留守の間、闇の子達の世話とか相手を任せましたよ」
「分かった……が、なんだその話し方は。公務じゃねぇのに敬語を使うな、気色悪い」
「貴方様の命令を執行するのですから、公務と同じですよ。お忘れなく、俺は産まれながらに貴方の側近です」
微笑んで見せると、主からすればそれがどうもわざとらしく見えたようだ。
「お前、妙にそういう言うとこ堅いよな……まぁいい。行ってこい、面倒は俺が見とく」
「頼みましたよ」
まぁ、まだ朝ごはんも作っていないが。きっとどうにかしてくれるだろう。何せ、あのヘルツ様だ。なんて、分かり切った結果を思い浮かべ、ローブァイトは誰もいない玄関で一笑した。
(ま、さっさと終わらせて帰ってやるか……)
子ども達が起き、ご飯を食べる時間まではまだ十分に時間がある朝の五時。何であれば、まだ光の子も起きていないかもしれない。だと言うのになぜこんな朝っぱらに出るのか。簡単な話「殺す」だけなら、何も戦う必要はない。
七月も最終日となるが、夏休みの終わりはまだ感じない。よって舞明は、この期に及んで全く宿題に手を付けていなかった。
忘れないようにと机の上に積まれた宿題たちは尚存在感を放っているが、寝ている者に対しては効果なし。いや、起きていようが彼女はお構いなしに無視をするのだが。
寝言も言わずにスヤスヤと眠る舞明。その部屋の中の一角に闇が渦巻き、ローブァイトが姿を現す。
いついかなる場合も戦闘にはそれなりの時間を費やすが、殺戮は一瞬だ。浮かべた力に殺意を込め、手を下す。
「っあぁ! そうだ一気放送スペシャルの録画してないっ!」
しかしそれより一寸だけ早く、そんな奇声を発しながら舞明が勢いよく起き上がり、ローブァイトは反射でその場から立ち去る。
「なんか今、誰かいたような……そ、そんな事はどうでもいいっ! 録画録画……」
スペシャルは朝の六時から放送だ。舞明はパジャマのまま、急いで階段を駆け下りた。
そんな彼女を窓の外から眺め、ローブァイトは溜息を突く。
「忘れてた。俺、運が悪いんだった……」
寝込みを討つのが手っ取り早い。がしかし、起きられたらそこで終わりだ。一度上手く行かないと全部が上手く行かなくなるジンクスが彼の中にある。ここで失敗したとなれば、残りの二人でもそうなりそうだ。
そもそも、彼女等を訓練付けたのは自分だ。その時ずっと自分の闇を使っていた訳だから、力を知られている。当人が意識せずとも感じ取れるようになっているだろう。
(完全に、誤算だな。もしかしてマキャー、分かってて俺に……いや、そんな事はないか)
「はぁ。仕方ない、普通にやるか」
折角自ら訓練してやったのだから、ここまでの結果を見せてもらう事にしよう。結局、それが一番やりやすいのだから。
同じ日の事、好きなアニメの一挙放送に興奮する舞明の手元にはらりと一枚の紙が落ちる。
「なぁんか、既視感……」
紙をめくると、以前とは違いそこには普通に文字らしきモノが書かれていた。
書かれてはいる、のだが……。本当に、これぽっちも読めない。見覚えすらない文字だった。
「なにこれ、暗号……?」
「あぁ、それ魔性天字だね」
小首を傾げた舞明に背後からマキャーが答え、舞明は飛び跳ねる。
「ビッ、クリしたぁ……マセイ、アマジ? なによそれ」
「魔界で使われる文字だよ。天界で使われる天字を元にしているから、魔性天字なんだ」
まだ見慣れない人型のマキャーは、そんな知識を子ども相手に披露するかのように教えてくるが、舞明は未だにこの少年があの白猫と同一人物だと認識しきれていない。
「だけどこれ、よく見たら天字も交じってる。ローブァイト様、癖で書いちゃったんだろうね」
「え? これローブァイトからの手紙なのか。マキャー、読んで」
「まぁ読めないよねぇ……ちょと待ってね、僕も魔性天字は危ういから」
それから少しの時間手紙を凝視し、マキャーはそれを読み上げる。
「『この手紙を読み次第、光の子を連れて俺の所に来るように。 ローブァイト』」
この文面、どう考えてもマキャー充てだろう。しかしここは舞明の家だ。
「なんでアンタ宛てのがアタシの所に届くのよ」
「僕、基本的に大神様のお傍にいるから。直接僕に飛ばすと、大神様にも見られちゃうからじゃないかな」
「まぁとにかく、お呼びって事だ。行こうか」
遠慮なしに手を引っ張る。しかし少し待ってほしい、テレビを見ている途中なのだ。舞明がその事を訴える前に、マキャーは言う。
「録画してるからいつでも見れるでしょ?」
そんなお母さんみたいな事言って。マキャーは問答無用で舞明を連れて行った。
そうして緊急招集で集められた光の子四人。主に舞明が納得いってなかったが、こうなればもう腹を括るしかないだろう。
「ローブァイト様。仰せの通りに、光の子をお連れしました」
「あぁ。ありがとう、マキャー。お前は一旦下がっていろ、手出しは無用だ」
「えぇ、勿論。……君達の光、信じてるからね」
引き返す前、マキャーは真っ直ぐと彼女等を見据えそう告げる。
「珍しいわね、アンタがそういう事言うなんて」
「そう思う?」
一言そう返すと、マキャーはふふっと笑ってそのまま後ろに下がった。
手出し無用と釘をさされてしまった以上、彼は何もしないだろう。まぁ、何も今に始まった事では無いが。
ローブァイトが話すより先、優雷は「ははっ」と笑い声を漏らし、彼に歩み寄る。
「この前ぶりですねぇ、ローブァイト様。どうです? そちらの進捗は。こうしてやってきたって事は、もう完成間近なのでしょうが」
「そうだな。もう直に完成するだろう。恐らく、今日中には」
答え、ローブァイトは光の子を見据える。
「お前等とは以前会ったが、改めて名乗らせてもらおう。俺の名はローブァイト・クライム。今は、ヘルツ様の側近をしている一介の悪魔だ」
「光の子よ、これにて最終試験としよう。あれからまた少し時間が経った。お前等の力、確認させてもらうぞ」
やっぱりこういう展開かと、舞明も薄々察していた。そして今同時に、最終試験というワードが建前だとハッキリと分かったのだ。
闇の子はいつも「闇を狩る為に、お前等を殺したい」といった類いの事を一切包み隠さずに言っていた。殺しに来ない訳がなくないか? 何せ彼は、ヘルツの側近なのだ。
「なるほどなるほど。死にたく無ければ打ち勝つしかないと……こりゃ随分と難題ですね、ローブァイト様。私達に大天使たる貴方に勝てとおっしゃるわけですか」
読み取った優雷が、ニコニコと笑いながら言う。そのわざとらしくもへりくだるセリフからは、微かに緊張感もあるように思えた。
優雷は話すと少し長くなる。舞明は彼女を押しのけ二人の間に入る。
「いいからとっととやるわよ! 一先ず応じない事には始まらないんでしょ?!」
「宝石、来なさい!」
「そ、そうだね。おいで!」
「来て」
舞明が勢いのまま行動に移すと、続いて二人も宝石を呼びだす。
今のを聞いて分かるように、宝石を呼ぶにもそれぞれで、呼ばれた天色宝石の現れ方も主の性質を映しているかのようだ。例えば、マイミの物は真っ直ぐと勢いよく飛んでくるし、サヨイのはふんわりと舞い降りるようにやってくる。スミレには音もたてずに静かにパッと現れ、その手に収まっている。
ローブァイトが観察している間にも、優雷は声に出さずに糸でも引くかのように指を動かし、いつの間にかやって来たそれを手に取った。
そうして宝石に光を籠めると、彼女等は天使と同様の力を得る。正確に言えば、彼女等は光を得たのではない。元より彼女等は、人の子に産まれてしまった一介の天使なのだから。
そう考えると狩るのは惜しいが、これも主からの命だ。
「よし。では、来い」
ローブァイトが合図を出すと、光の子達はまず手始めに一斉に嗾けて来た。
主に殴って来るのは相変わらずマイミだ。飛ばす光は数うちゃ当たると言わんばかりの弾幕で、あまり深く計算しているようには見えないが、その分間隔も威力も疎らで対処しづらさがある。とは言え、この手法は闇の子の指導でもう慣れているが。そんな中で、ユウライは何もしていないかと思えば、突如「行け!」と声を上げ、不意を突くような仕掛けをする。微かに吸収していた光をランダムな形に変え、その動きもまた彼女の気まぐれだ。
そしてサヨイとスミレは、攻める二人を支援している。彼女等も相手に攻撃をする事もあるが、サヨイは主に攻めている二人を守り、またローブァイトが飛ばした闇を自分の方に引き寄せ二人が上手い事動けるように調整していた。加えてスミレは嗾ける光に自身の力を付加し、その攻撃を強化させており、またサヨイの援護の方にも回っている。
この時点で、自身が訓練を付けた者達が、教えを糧に強くなっているのを確認出来た。彼女等も分かっているのだろう、ローブァイトの攻撃を一つでも受けたら死ぬと。だからこそ、相手に攻撃の隙を与えないようにしている。分かりやすいが、適格だ。攻撃は最大の防御という言葉は天界でも通ずる物だ。
実際、ローブァイトもその光を全て防ぐとなれば、一つの身では攻撃まで至らなかった。一つ一つの光は大したことがないとは言え、対処するのにも力がいる。
ローブァイトは一度大きな闇を放ち、向かって来た光を打ち消すと同時に光の子達を怯ませる。
「お前等の光、充分確認出来た。よくこの短い期間でここまでになったな。本当に、お前等が人の子に産まれた事を残念に思うよ」
「まぁ、次こそ産まれるべき所に産まれるよう、俺も願っておこう」
手に浮かべた闇を動かし、剣に変える。余韻で上手く動けないマイミに歩み寄る、
「『創り出せ』――」
そんな時、ユウライの声が聞こえた。ローブァイトがそちらを振り向くと、一緒に怯んだはずの彼女はその場に何事もなかったかのように立っており、打ち上げられたブロンズ色の力が巨大な龍と化し牙を剥いた。
光であれば闇で相殺でき、闇であれば自分の中に吸収してしまえばいい。しかしそれは、闇でもなければ光でもない力だ。少なくとも、この地球では一つしか存在しない「創造の力」。
「今回は、光だけだとは言われてないですからね。ローブァイト様」
「普通は言わなくても分かるだろうが!」
自身の力で何とか振り切り、龍は闇と光に同時に撃たれた衝撃で、咆哮と共に姿を消す。
流石の彼も未知なる力を相手にするのは堪えたのだろう。小さく息を切らした彼に、ユウライは追い打ちをかけるように瞳の色を深紅色に変え、ナイフを手に懐に走り込む。それが弾かれると、今度は紫紺色に変わり、動きを奪う呪術をつかう。相手を呪縛した所で、今度は山吹色になり、思いっきり殴り掛かった。
しかし、拳が当たる直前で術を打ち破られ、その拳を片手で受け止め、そのまま投げられる。
流石のユウライもコンクリートに投げつけられたのは痛いようだ。未だ動けぬサヨイが心配そうにそれを見ると、ユウライはそんな彼女に目線を送り、小さく浮かべた光を投げ飛ばす。
「ユウライ。いいか、光だけを使え。あと下手に殴って来るな、お前まで殺すだろ」
ユウライのその行動には気が付かなかったようで、ローブァイトはそんな注意を彼女にした。するとユウライは、多少大袈裟にえーっと声を上げた。
「後出しは良くないですよ! 前言ったからって今回言わなくていい訳じゃないでしょう? 今回と前回は別個なんですから」
「まぁそれもそうだな。そこは俺が悪かった」
「そもそもローブァイト様だって、さっきどさくさに紛れて光使ったじゃないですか!」
「あれは、あのままじゃ俺が打ち負けていたからであってだな。そっちも別の力使ったのだから同じ事だろ?」
「そりゃそうかもしれないですけどね」
ユウライとローブァイトがそんな会話をしている。今そんな事を話すべきなのか、なんて思わない訳では無いが、これは彼女が三人に与えた時間だった。
サヨイは静かに光を活性化させ、仲間に分け与える。体内に残った闇を相殺すれば、体を怯ませていた余韻が取り除かれ、立ち上がった三人は顔を合わせる。
「ところでローブァイト様、ラキくんって今どうです? 元気してます?」
「それ今訊く事か? まぁ安心しろ、アイツは平常だ。問題はない」
どう考えても今ではない話題に突っ込みつつも、ご丁寧に返答するローブァイト。その背後から、三人の光が無防備な状態の彼を直接撃った。
「なぁるほどな。そう言う……」
ここまで来れば、彼もユウライの作戦に気付いたようだ。
「ええ、そう言う事です。ローブァイト様もお人がいい、私のおしゃべりなんて無視して殺しに行けばよかったのに」
「ま、それもそうだな。いくら何でも、お前等を侮り過ぎたようだ」
そう簡単にまた動けるようになるとは思っていなかった。それは、強者故の慢心だろう。
しかし、一度分かれば構うことはない。ローブァイトは翼を広げ飛び上がり、体内の闇のみを活性化させて使役する。殺すべき三人を正確に貫くように、鋭く殺意を持たせた力は容赦なく彼女等の命に爪を立てた。
並大抵の子天使なら、強い闇に打たれるだけでも死んでしまう。勿論、彼女等だってそのはずだった。
しかし、それはいつの間にか強い光によって守られていたのだ。確かに手ごたえはあったが、途中で己の闇を凌駕する光が彼女等に与えられたのだろう。……そこまで考察して、ローブァイトから血の気が引く。
この強く上質な光の力……見間違える訳がない。この光の持ち主は――
「ひっさしぶりだなぁローブァイトぉ!」
心の大神、バイレン・レザー・ユーベルだ。いつからそこにいたのか、飛ぶローブァイトに抱きつき、そのまま地に降りた。
光の子からしても知らぬ事だったのだろう。ユウライを除く三人が驚いた顔をし、バイレンを見ていた。
「おやめください大神様っ。ご用件でしたら承りますから……」
「要件か? 特にないぞ。強いて言うのならお前に会いに来た」
「そ、そうですか……でしたらもう宜しいでしょう。俺は、」
「まだ会って数秒だ、何も良くない」
分かりやすく気まずそうなローブァイトだが、バイレンはお構いなしに迫った。
「左様で……しかし、大神様、俺は」
「おいおい、この俺より大事なモノがあるってか? 俺がお前の何か、分かるだろ?」
「えぇ、それは勿論。ですが、今の俺は天使ではない訳でして。その、」
「俺が気にしてないんだ、闇か光かは問題じゃない。それに……簡単だろ? 天使にもどりゃ良い話じゃねぇか。なぁローブァイト?」
ローブァイトにとって、これ程分かりやすい暗示は無かっただろう。しかし、気が付かなければこれは命令ではない。一歩身を引き、先手を打って告げる。
「申し訳ありません大神様、何であれご用命には従えません。今別個でヘルツ様の命がありますので」
「ま、そうだよな。お前はヘルツの側近だ。だーがっ、それ以前に、俺の天使であり、元よりクライムは『俺』の側近だ。そうだろう?」
「てことだ、ローブァイト。命令」
しかし意味は成さず、バイレンはついに本物を言いつけた。
「っ……あ、え、えっとー……」
ローブァイトは直ぐに返答をせずにたじろいでいだが、楽しみだと言わんばかりにニコニコしているバイレンを見て、ついに逆らえ切れなかったようだ。
「承知しました」
光の子の目を気にしながらも、ローブァイトはこうなりゃ自棄だと頭を下げ、自身の宝石を掴み主体の力を光に戻す。
以前本人が言った通り、天使に戻った所で変わるのは目の色と服装のちょっとした部分と色合いのみだ。しかし、それだけで印象が違うのは事実。光の子は遠巻きでそれを眺め、おぉと声を漏らす。
「よし、いい子だ。ははっ、改めて見るとやっぱしマーダトにそっくりだなぁ、お前は」
「左様でございますか。ご命令は果たしましたので、これで失礼します」
バイレンのお陰と言うか、せいと言った方が良いか。ローブァイトは間髪開けずに姿を消した。
「職権乱用はよくないんじゃない?」
「何、心配するなマイミ。んなのは戯れでしかない。それに、一応助けてやったんだから、少しは感謝しろよ?」
「いいか。間違えても勝とうと思うな。純粋な力比べで、お前等に勝ち目はない。ここまで来て失敗するのは俺としても不服だ、どうしても無理そうなら俺を呼べ。分ったな」
バイレンとて無慈悲ではなく、情がない訳ではない。大切な者を三度も奪った人類の……最も嫌う存在の中で見いだせた数少ない「希望」を、世界から消し去りたくなかった。
その頃、ローブァイトは転移の術を使ったにも拘らず、息を切らしながら帰宅した。
肉体的な疲れではない、いや、それも多少はあるが。どちらかと言えば精神的な方だ。だって、考えてもみろ。彼にとって大神は自らの意思で裏切ったもう一人の主だ。加護を貰いながら闇の者に堕ちたのだ、それも同然だろう。そんな相手から以前と一切変わらず可愛がられてみろ、本当にいたたまれない。
この時、ローブァイトは珍しく頭が混乱していた。廊下の奥まで渡り、音が響く勢いでその扉を開ける。
「ヘルツ様っ!」
「命令は、必ず果たす……だから手出しするな、これは俺の問題だ!」
また仕事モードで様呼びをしたと思えば、両肩を掴んでそう訴えってくる。そんな彼の様子と、先程感じ取った事態でヘルツは色々と察しが付き、「わ、分かった」とだけ返した。
これはローブァイトの意地だったのだろう。こうなれば最初に没にした策を使うのがいいだろうと、その日の夜中、彼は寝ている沙宵の下に現れた。
彼女は夏休みだからと言って夜更かしをするような質ではない為、日が回った今は丁度一番眠りが深い時間だろう。実際、この力に気付く気配はない。
本来、ただでさえ弱い者の油断を突くようなやり方はあまり好ましくはないが、そうこう言っていられない。
「よぉローブァイト。今朝ぶりだな」
しかしこのもう一人の主は、寸の所でひょこっと姿を現して肩を叩いてくるものだ。それ以上何か言われる前に、ローブァイトは闇に身を撒き立ち去る。
それならばと、次の日光の子が揃って歩いている所に術を嗾けたが、結果はまたもや同じ事。時空の狭間にでも連れ込んで殺してしまおうとも思ったが、この大神、どの場所のどの時間でも見計らったようなタイミングでやってくる。
三日目にもなれば、光の子も警戒しているらしく、家からあまり出なくなり、ローブァイトの暗殺染みたり方も増えてくる。しかし、彼が手をかける直前にバイレンに阻止され、策を実行する度に邪魔され続け――そんな事が、一週間続いた。
流石に、両手で収まらない程の数そんな事をされれば、ローブァイトでも我慢ならなかったようだ。
「大神様! この前から、なんなのですか貴方は! 光の子に情でも沸いたのですか、人の子を守り続けるなど貴方らしくもない」
光の子が通う学校の屋上。ここから見える範囲に、澄麗の家がある。先程ローブァイトは、澄麗を殺そうとしていたのだが、同じようにバイレンに阻止されここまで飛んだのだ。
ローブァイトは遂に逃げずに詰め寄ると、バイレンはこてんと首を傾げて返す。
「それを言うならお前もそうだろ。お前の性格上、暗殺は好きじゃないだろ?」
「マーダトもそうだったんだぞ。ずる賢い手なんか使わず、正々堂々戦うのが好きな奴だ。俺が少し小細工してみりゃ『お前それはないだろ!』つってキレやがってさ。少しばかし心弄ってアイツの光を弱めただけなんだがな。そういや昔お前等も似たような事してたよな? 懐かしいなぁ」
「……本当に、よく似ている」
ローブァイトの頭にぽんと手を置き、彼は目を細めた。
それを言うのであれば、彼もヘルツと同じような顔立ちをしている。数多く子どもがいる中で、ヘルツの容姿は最も彼と似ているだろう。
だから猶更、複雑であった。
ローブァイトが目を逸らすと、バイレンは小さく笑う。
「あと、そうだな。お前の言う事は強ち間違ってない。多少なりとも、あの者達への情は沸いている」
「意外ですね。いくら光ある魂とは言え人の子は人の子、貴方は嫌悪すると思いましたが」
「おいおい、そりゃ心外だぞローブァイト。ライツの時だって俺はその存在を嫌には思わなかったぞ。要は魂の問題だ、器が何かは大して問題じゃない。ほら、ヘルツだって缶コーヒーを飲んでいるんだろ? 中身がよきゃ何に入ってたっていいんだ」
何気に、こちら側のちょっとした事が彼に伝わっているのに肝が冷えたが、主の言葉に口を挟む事はしなかった。
「だがなぁ、それはそれなんよな。魂の振り分けシステムはどうもポンコツで困る。光の子はまだ天使にしちゃ光が微少だからわかるが、なんでたって俺の子として出来たはずの魂が下界に送られるんだ? 納得いかん。マキャーの魂はこちら側に来たから良かったが、あのポンコツシステムの事だ、ありゃかなり危うかっただろうな。魂が産まれるべく所に産まれないのはどうにかならんモノか……」
バイレンはフェンスに頬杖を付いてぼやく。ローブァイトが応えるより先、夜風が吹いて彼に言葉を返したようだ。
「ふっ……はは! 分かってるってディア。お前のせいだって言いたい訳じゃねぇから心配するな」
笑った彼が話しかけた先には誰もいないが、恐らく運命の女神が見ていたのだろう。
バイレンは魂の産まれる先に関してを「運命」と呼ぶが、残念な事にそれは運命を管理する神の管轄ではない。彼女とて謂れの無い事で非難されたくはないのだろう、元よりプライドが高い女神であるから。しかしまぁ、バイレンもそんな事は分っている。
不服そうな女神に対して一頻り笑うと、バイレンは再びローブァイトに目を移して尋ねる。
「ローブァイト。今日は逃げ帰らないのか?」
「逃げ帰るなど人聞きの悪い。俺には貴方を押し切って事を成す程の実力はありません。貴方が現れた時点で、撤退するのが賢明でしょう」
「そうか? ワンチャンあると思うけどな。どうだローブァイト、ここで一戦やっとくか?」
「遠慮しておきます。ワンチャンスに賭けるのは好きではありませんし、負けの見え透いた戦闘は体力を消耗するだけでしょう」
「そっかぁ。分かった」
「じゃあ、明日もやるか?」
出来ないと解っていて、彼は意地悪く問いかけた。ローブァイトは直ぐに返答せず、誤魔化すように雲に隠れている月を見た。
「それは、ヘルツ様次第です」
答えると、バイレンは笑った。その時ローブァイトは、まるで我が子でも見ているかのような主の笑みを見てしまわないように、その場から消え去ったのだ。
「ローブァイト、もういい」
帰って来たローブァイトは、開口一番にそう言いつけられた。
「命令とは言ったが、そんなガチにならなくていい。どうせアイツ等は俺の所に来るんだから、そん時に俺がやる」
「申し訳ありません」
「気にするな。俺はここまできて親父が介入するなんて思ってなかった、俺の判断ミスだ。んだから敬語はやめろ、気色悪い」
結局、行きつく所はそこのようだ。そりゃずっと親友として遊んでいた奴に一歩下がる態度を取られるのはあまり嬉しくはないだろうが。
「ま、命令撤回なら仕事は終わりだな」
ローブァイトは繕わない声で言う。
「そうだヘルツ。大神様に缶コーヒー飲んでるのバレてたぞ」
「え? まぁ、バレて困る事じゃねぇけどよ……え、なんで?」
「俺が知るか」
こんな事ですらお見通しなのだから、神と言うのは恐ろしい。
しかし、ヘルツも神である。勝算は、十二分にあるのだ。
「じゃあ、後は頼んだぞ。ヘルツ」
「あぁ。待ってろ。俺が終わらせる」
後に残るは仕上げのみ。覚悟は、とうの昔に決まっているのだから。
〇
八月十日、天界心の世界。バイレンの手のひらに浮かんだ小さな透明な球体には、光輝く力が液体のような目に見える形で溜まっていた。
光の子が狩った……と言えど、本人達にそのつもりはなく、彼女等の力の元である天色宝石が自動的に吸収しこちらに送って来た、闇の子達の光だ。
哀れな事に、人の心に表立つのは闇の方だ。昇順を定めずに力を狩ろうとすれば、得られる闇と光は七と三の割合だろう。しかし、人間に光となる感情ががない訳ではない。「力」を使うそれ即ち心を動かす事、力として行使されるモノが闇でも、釣られて光も湧き立つのだ。
そうして狩られた光が、今彼の手にあるこれだ。
「まだ足りねぇと思っていたが、ローブァイトと戯れてたら一気に溜まったな」
どこか嬉しそうに頬を緩ませる。そんな主に、マキャーは会話の為に知っている事を訊く。
「念のためお尋ねしますが。そちらの光は、何にお使いになるのですか?」
「あぁ、導きの術だ。ヘルツ達は時空の狭間にいるだろ? あんなとこ普通に歩けど辿り着ける訳がない。増してや人の身の脚ではな。俺だってんな場所にに自力で行けなんて酷い事は言わねぇ。マキャー、これを優雷にやれ。アイツなら説明せずとも察してくれるだろう」
大分久しぶりに見る猫の姿でないマキャーに、その球体を受け渡す。
「承知しました、大神様」
マキャーは恭しく頭を下げ、命を成しに下界に転移する。光と共に姿を消した側近を見届け、バイレンは執務室の椅子から立ち上がる。
執務室であるから、勿論仕事をする為の部屋だ。この心の世界の統治と、あとは下界の人類達の心を管理する事が心の神の仕事、なのだが……この大神、前者は抜かりなくこなしていると言うのに、後者の仕事は全く手を付けていない。この状況を舞明が知れば、彼女はイラつきを隠そうともしないだろう。
そう、舞明はこの大神様たる者に対しての「気にくわない」と思っているのだ。そんな事、心を読まなくとも分かる。澄麗に関しても同じだ、表情に出さないだけで内心は違う。忠誠を誓われるべき存在である彼からすれば、本来その心は歓迎するべきではないのだが。
「たまには、慕ってこない所有物ってのもいいモンだ」
彼は浮かれた声でそう口にして、同時に五年前の事を思いだす。
闇に呑まれた息子が見せた反抗の意思……最も優秀な息子が、父であり主たる己に刃を向けたあの時の目を思い出す度に、気持ちが昂る。
息子の反抗期、すっごい可愛い。と。
「んだけど。そろそろ止めいてやらないとな」
窓の縁をなぞった。
初めての反抗期を楽しむのも、そろそろ終わりにしなければならないのだ。
その頃マキャーは、言いつけの通り優雷に光の弾った球体を渡した。主の言う通り、彼女はそれだけで察しがついたようだ。
「お。光溜まったんだ。これでヘルツ様の所に行けって?」
「話が早くて助かるよ。そういう事」
手の上で転がし、優雷は「りょーかい」と笑った。
「勿論、マキャーは最後まで見届けてくれんでしょ?」
「うん。それが僕の役目だからね」
この任務にあたるにおいて、主たる大神から言い渡された命令はこうだ。「人類こがのまま生かすに値するかどうか、お前の目で見てみろ」。だから、見届けなければならない。例え、一種の恩人である彼女等が、絶大な闇を前に倒れる結果となろうと。マキャーは、最後まで見ていなければならない。
「光の子を集めて。僕から、皆に話がある」
マキャーが告げると、優雷は分かっていたと言わんばかりに笑い、うんと一言だけ返した。
それから三十分程して、集中訓練を行った尾内場所に集められた光の子は、少年姿のマキャーの前に並んで立っていた。
マキャーは全員が集まった事を確認すると、口を開く。
「皆、ここまでよく頑張った」
「正直ね、僕もそこまで期待してなかったんだ。優雷がいるとは言え、優雷の力だけじゃ『人類』の存在意義は証明できない。大神様も君達に賭けたのは最後のお遊び程度だったんだけど。……君達には驚かされた。見直したよ」
微笑んだマキャーから感じた力は、彼女等に取ってなぜだか親近感のようなモノが湧いた。それもそのはずだろう、彼の力量を底上げしたのは、光の子達の清らかな心の光なのだから。
マキャーの今この姿が証明だ。光の子は、その肩書に相応する希望だと。
「いいかい。僕等は君達に『勝て』と言いたい訳ではない。戦闘は手段の一つであり解決方法ではない。その事を忘れないように」
そう告げると、マキャーは優雷を見やり、視線の意味を察した彼女はそれに応えて受け渡された透明な球体を取り出し、それで術を発動させた。
光は彼女等を導き、先を進んで行く。これが導きの術、光に従えば目的地に辿り着くはずだ。
「さ、行こうか。最終決戦ってね」
先を歩く優雷。それを追いながら、舞明は気合を入れるように両手をグッと握る。
「ここまで来たら、やるっきゃないわね! 気合入れて行くわよ!」
「おー!」
「おー……」
拳を上げた舞明に応じて沙宵が笑顔で同じ事をすれば、澄麗も渋々ながら付き合ってくれる。
「ははっ。えいえい」
優雷のその返しに舞明が「なんでエイエイの方だけとってんのよ」と突っ込むと、優雷は満足気に笑った。
それから意気揚々と歩く彼女等だったが、道のりは長かった。物理的な話、この時点で三十分は歩いている。しかし、不思議と体は疲れていなかった。
光の子は、舞明の好きなアニメの話だったり、沙宵の弟の話だったりと普段通りの女子高生らしい会話をしていた。心の中にある緊張感を誤魔化したいのだろう。優雷でさえ、三人とはまた違った形のそれを抱いているのだ。
まぁ無理もない。マキャーもその心に同意できない訳ではない。
「まだそれなりに掛かりそうだね」
「実際、どこに向かってんのよ、これ」
マキャーに問いかけ、舞明は目の前でふよふよと浮いて飛ぶ光を突く。光はその衝撃が小さく揺らいだが、軌道がズレる事はなく同じ道を進み続けた。
「『時空の狭間』としか言いようがないかな。魔界と天界を繋ぐ、世界になりきらない空間だね」
「まだ天界内の狭間の中だから、あと一時間はかかるかな」
「長い」
「長い、ね……」
ぼやいた澄麗に、微苦笑を浮かべ頷く。
「遠いわね、マジで」
「ま、仕方ないねぇ……」
四人の心が一致したのは、ここで初めてだったかもしれない。
優雷はぼりぼりと首を掻き、何かを閃いたようだ。
「あ、そうだ。マキャー、結局まだこの子達に事の経緯説明してないでしょ? ちょうどいい、ただ歩いているのも暇なんだから、説明してやってよ」
その時、三人が同時にハッとした。
契約時に大方の概要は教えてもらったが。思い返してみれば、バイレンはこうとしか言っていない。息子が禁術を発動しようとしているから、お前らがどうにかしてみろと。
それぞれがもしかしたら他の子は聞かされているんじゃないかと顔を見あうが、誰一人として知っている顔はしていなかった。
だが、それに対して不思議そうに首を傾げたのはマキャーだった。
「禁術って言ったら魂の甦生以外ないじゃないか?」
「だから人間に神様界隈の常識は分からないっての!」
「それもそうか」
こればかりは仕方のない事だ。舞明はすでに飲み込むという事を覚えている。
「そうだな、確かに教えておく必要がある。じゃあ教えるね、どうしてヘルツ様が闇の神となったか」
歩きながら、マキャーは語り始める。それは五年前の天界心の世界の、ある日の出来事だ。
心の大神バイレン・レザー・ユーベルには多くの子供がいる。彼、ヘルツ・ユーベルはその内の一人だ。当時の心の女神ミイツの弟でもあり、次期心の神となる存在――そんなヘルツは、父である「大神様」とそっくりで、そして実力ですら他の子供の群を抜いて優秀であり、正しく将来有望と言える子 だった。
彼が生まれた当初は、マキャーも一般的な天使としてその噂をよく耳にしていた。何しろ、生まれて直ぐに両親から受け渡された力で五歳ほどにまで成長したというではないか。一般的には二・三歳ほどまでだというのに、これだけでも彼の優秀さが伺える。
マキャーからすれば、ヘルツは今後も関わる事もないであろう高貴なお方だった。しかし それから数年経って、バイレンの側近であるマーダト・クライムが下界にて消滅してしまった際、何の因果か次の側近に選ばれたマキャーは、噂のヘルツとも関わるようになった。
実際に話した印象としては、身分相応のしっかりとした御子と言った所だろうか。少し不器用な所もあるが、優しいお方だった。だが、そんな彼も年相応に恋をしていると、マキャーは一目で分かった。
ヘルツが恋をしていたのは、そのマリスという五歳年下の天使だ。
その時、城には、父の消滅に重ね母が行方不明になり、居場所をなくした彼等の息子ローブァイトと、その妹のマリスが住まわれていた。一緒に生活しているその間、普段通りに振る舞う彼からちょっとした恋心が感じ取れた時、マキャーは微笑ましく思っていて、同時にもどかしく思っていた。
明らかに、彼らは両想いだったのだ。
そして同時に、マリスは彼からの想いに気が付いていた。その上で、知らぬふりをして兄妹のように接している。
一回だけ、マキャーはマリスに問うたことがある。
「マリス様は、ヘルツ様に告白をなされないのですか?」
学校にも入り立派な少女となったマリスは、紅茶を飲んで朗らかに笑う。
「しないよ。だって、どうせなら、告白されたいじゃん? 女の子の夢なんだよ」
そう。あとはヘルツ自身が、好きですの一言を告げれば済む話だった。だが、ヘルツはずっと、肝心の一言を口にしなかった。端的に言えば、恥ずかしがっていたのだ。奥手な所は、父によく似た彼の、父と似ていない部分だろう。だがずっと、彼女は待っていた。大好きな相手から、異性として「好きだ」と言われるのを、ずっとずっと待っていた。
しかし、事の進展がないまま彼等は大人になり、時はヘルツが神の座へ就く目前となった。その時ヘルツは、初めてその想いを口にして告げた。
「好きだ。その、家族としてじゃなくて、男として。お前を好きだって思ってるんだ!」
必死に告げられたその一言で、マリスは花のように可愛らしい笑みを零した。
「やっと、言ってくれた」
マリスは力強く彼に抱き着いた。大好きと気持ちを露わにして、彼等はここで初めて結ばれた。それが、五年前の事だ。
マキャーがここまで話すと、沙宵は少女漫画を読んだ時のように顔を綻ばせていた。
「いい話だね」
「だけど、きっとこっから雲行き怪しくなるわよ……だって、ねぇ?」
今この状況と、マキャーが言った魂の甦生という言葉。この先の展開を想像する事は、アニメと漫画をよく知る彼女からすれば容易いことだ。
「その通り。問題は、この後なんだ」
マキャーは舞明の思考が正しいと言うように頷き、続きを話す。
事は、ヘルツが告白した次の日。並びに、彼が心の神へとなったその日だった。
神事も終わり、一息ついたころ。マキャーは、バイレンの隣でその光景を見ていた。心の世界で罪人への処罰を行う、刑罰班と呼ばれる三人の天使が、顔を青くしてバイレンに跪いている光景を。
「申し訳ございません。全て私の責任です。どうぞ、何なりと処罰を」
班のリーダーである彼は、打ち震えながら懇願した。
そこには、恐怖もあった。彼等は自分の犯した取り返しようのない罪の意識で、主に伏していたのだ。
「もう一度訊くぞ。レヒト、お前は三回の徹夜の後に仕事を始め、たまたま耳にした魔界での事件の容疑者であるマリスを、あのマリスと勘違いをしそのままロアに伝えた」
「ロアはその伝達を聞き調査を始めた。ただ、集めた資料では肝心の『魔界での話』だというのが分からず、伝達事項が間違いでないと判断しそのままノモスに伝え、深夜零時前、ノモスは二人の判断に間違えはないだろうと、処罰を実行した……と?」
バイレンが問うと、「間違いありません」と答える。
場はかなり緊迫していた。
当たり前だ、今回起こったのは彼等のミスによる誤った処刑。それにより、一人の天使が消滅した。その天使は……紛れもない、マリス・クライムなのだ。
平伏す三人の天使は、既に自分たちに下される処罰を分かっていた。心の世界では二番目に高貴であるクライムの存在、大天使を間違いで消滅させた……それは、消滅を科されて然るべき罪である。刑罰を学びその執行者と選ばれた彼らは、誰よりもそれを理解している。
彼等は決して、罰から逃れようとしていない。しかし、それでも消滅は怖いのだろう。
バイレンは難しい顔をしていた。それは傍で仕えてから長いマキャーでも、初めて見た表情だった。
「誰か一人の責任にはしない。こうなれば、皆平等に罰せられると思え」
まず一言、彼はこう言った。
「処罰は考えておく。一先ず、今日は帰っていいぞ」
そう言いつけると、バイレンは立ち上がり執務室から出る。
マキャーは天使達を横目に一見し、直ぐにその後を追う。
「マキャー。俺は、また……殺さないといけないのか」
先を歩くバイレンが、ぽつりと問うた。
「ご命令とあれば、僕が致します」
その時、マキャーに答えられたのは、これだけだった。
空気が沈んでいた、まだ神事が終わった後なのがよかったのだろう。廊下を歩く靴の硬い音が響いている。
そんな中、不意に同じ靴の音が増えた。早く、駆けてくるその足音に振り向くと、ヘルツが焦った様子で息を切らしている。
「父上……! 父上! お話がっ」
「どうしたヘルツ。んな慌てて……」
なんとなく察したバイレンだったが、これでも平常を装っていた。
「マリスが……マリスが、いないんです。待ち合わせしていた場所に来てないし、近くを探しても、気配すら感じなくて。ローブァイトに訊いても昨日以来見ていないようでして……」
気が付いてしまったようだ。バイレンは静かに息を吐き、ヘルツの肩を掴む。
「ヘルツ。まずは落ち着け。落ち着いて、よく聞け。マリスはな――」
バイレンは、優しい声で事を告げた。
……長い間、内に止めていた心を告げ、ようやっと実を結んだ恋だった。
「父上。それは……」
「んな事、冗談で言わない」
いつだって、寿命がない天使にとっては消滅が作り出す別れはあまりにも突然で、残酷なモノだ。そんな事、バイレンは誰よりも知っている。
それから、たった一瞬の事だった。ヘルツの心に闇が沸いた。それもほんの少しではない、大きな心。
神となった彼は、分かってしまったのだろう。大好きな恋人は、もういない、二度と戻って来ないのだと。そんな残酷な結末が、現実であると。
一気に溢れた闇は、ヘルツ自身が持てるモノを大きく超えた。
暴発だ。
一早くそれを感知したバイレンは、素早く手を動かし、心の世界全体に自身の力を張り巡らさせる。
「マキャー、至急緊急事態だと伝えろ。皆への対応は任せた」
飽くまでも、彼は冷静に対処をしていた。見据えていたのは、悲しみに呑まれ正常な意識を失った息子だ。
「承知いたしました、大神様」
マキャーはただ頭を下げ、命令を成しに飛んで行った。
その日、心の世界では非常に激しい戦闘が行われた。心の大神と、その最も優秀とも言える息子が、世界を飛び交い戦っていたのだ。
ほんの一瞬で闇の身と化し、正常な意識を失った息子に対峙する。バイレンは、一体どんな気持ちで戦っていたのだろうか。マキャーには分からない。しかし、あの光景を忘れる事はないだろう。
激しく交わり、ぶつかり合う光と闇は、皮肉にも美しく見えたのだ。
「結果、その勝負はヘルツ様が勝たれたんだ。大神様は多くの力を皆を守るために使っていて、半分の実力でしかヘルツ様の相手を出来なかった」
「その後すぐ、ヘルツ様はローブァイト様を連れて天界を出ていかれた。それから、マリス様の魂を甦らせるために人々の闇を集め始めたんだよ」
マキャーが語り終えると、光の子はそれぞれの反応を見せていた。
「それで、結局そのやらかしちゃった三人はどうなったの?」
「ヘルツ様が暴発した際に、その闇にやられて死んだみたいだね。ついこの前生まれ戻って来ていたようでね、大神様が会いに行ってたよ」
「まぁ、本人の意思に拘らず生まれ戻りをさせるのも刑罰の一種だからね。それに加えて、これから大人になった時に前と同じ役職に就かせない事と、実力問わず中級までにしか昇進できない事が彼等への主な処罰となったんだ」
これがどれ程重い罰なのか、舞明には分からない。如何せん神様界隈での話だ、そもそも死んだ人が「生まれ戻る」とかいう、その単語も初耳だし。まぁ、それでも察しは付くが。
「じゃあ、後はそのヘルツをどうにかして説得したいって訳ね……」
言って、舞明は思った。
「いや、無理じゃんそれ」
ついでに口にもした。
「それは、わたしも思った……」
「うん」
同意する沙宵と澄麗。そりゃ皆そう思うだろう、考えてもみろ、恋愛絡みの問題はぽっと出の他人が介入して解決するようなモノでない。
魂さえ残っていれば再び同じ存在として生まれ戻ってくる。しかし、それすら残されず消滅してしまった。二度と戻って来ない恋人を取り戻す唯一の手立てが禁術なら、いくら自分達が説得した所でじゃないか?
例えば、バイレンのように人類がすこぶる嫌いで、嫌いだから滅ぼしてやろう! とか企んでいる相手だったらなんとかなったかもしれない。だが色恋が絡んでくると話は全く別だ。それは人類が愚者だろうが賢者だろうが関係ないだろう。彼はこうして、天使にとってどんな事があっても逆らえない存在に刃向かっているのだから。
「……ま、そこも含めて君達の腕の見せ所さ」
目を逸らされた。これは確信犯だ。
舞明はジト目をマキャーに向けるが、こちらを見てくれない。
「安心しなよ。なんとかするから」
優雷はそう言う。導く光を見据えている彼女の表情は分からなかった。
歩き続けると、段々と闇の力を濃く感じるようになった。狭間が繋ぐ世界が魔界に近寄ってきた証拠だろう。
彼女等は継続的に闇にあてられ気分が悪くなりはじめていた。まるで船酔いしたかのような感覚、それでもまだ軽度なモノだが気持ちが悪い事には変わりない。
「優雷、アンタはなんで平気そうなのよ」
「ま、魔界には個人的に何度も遊びに行ってるからねぇ」
なんて唯一ケロリとしている優雷が笑うと、三人に「呼びな」と伝える。
「宝石。天使になれば闇への耐久も上がる」
「もっと早く教えてよ、それ……」
思いつかなかった自分も自分だが。舞明がそう言うと、澄麗も同じ事を思ったようで訝しげに優雷を見た。
「まぁ、方法があるならよかった」
沙宵は早速宝石を呼んで、天使へと変わる。続けて舞明と澄麗も、その方法があるならと即座に事を済ませた。
光を持った瞬間、確かに体内の気持ち悪さは消えた。しかし同時に、サヨイの頭に闇から感じ取った心が一斉に雪崩れ込んできた。
サヨイの短い唸り声に、マキャーはすぐさま彼女に近寄りその手を取る。
そうすると、マキャーの手から伝わった光が、頭に渦巻いた誰かの悲痛な声をかき消した。
「これでよし」
「今のってもしかして、闇の元の感情?」
「うん。ヘルツ様が狩った闇だろうね。感受性の強い子天使にはよく起こる事さ、気にしないで」
マキャーに言われ、サヨイは頷く。
この感受性については前にもマキャーに個別で教えてもらった事だった。
気を抜かないようにしなければいけない。きっと、これから感じる闇はとても悲しい。同調して泣く訳にはいかないのだ。
感じる闇が濃くなっていき、それから間もない頃だった。
「着いたね」
「ここが、ヘルツのいるところね……」
ユウライが一言呟いた時、目の前には洋館を思わせる建物が佇んでいた。
マイミが扉に手をかけると、力を入れる間もなく開かれる。入ってこいとでも言うようだ。扉の奥から続く廊下を目に、光の子は顔を合わせて頷く。
行こう、彼女等の心はその一つだった。
意を決して先に進むと、背後から扉が閉まる音が響く。
「こりゃ、よく見るやつねぇ……」
「ま、逃げ道があろうとなかろうと、ここで引き返すのはクソダサいからねぇ」
ユウライはそう言って笑ってマイミを抜かすと、「付いてきな」と先陣を切って歩く。
「奥の部屋が、ヘルツ様が狩った闇を集めて管理している所かね。皆もこの闇の発生源がそこだってのは分かるでしょ? ヘルツ様はそこにいるはず」
「ユウライちゃん、なんで知っているの?」
「まぁ、ここにはラキくんがいるからねぇ。ユウくん伝いでラキくんの記憶を見ただけだよ」
それは本当に「だけ」なのだろうか。ここれらの基準は恐らく彼女とは違うだろうから、サヨイは「そうなんだねぇ」と当たり障りのない返答だけをした。
奥の部屋までいくのには大して歩きはしなかった。奥に向かっていくと、どこかの部屋から聞き覚えのある声がはしゃいでいるのが耳に届き、また別の部屋からは優雅なピアノの音が聞こえた。途中で分岐する地点もあり、中々に広い家なのだろう。しかし、真っ直ぐ進むだけであれば、そう驚く程ではない距離に最奥はあったのだ。そりゃ、普通の家の廊下と比べれば長いだろうが。
扉の前にたどり着くと、マキャーは手を出し一旦四人を止め、その扉を叩いた。
「失礼します、ヘルツ様。マキャーです。入ってもよろしいでしょうか?」
声をかけると、向こうから一度聞いた声で「入れ」と聞こえる。
「失礼します」
マキャーが今一度挨拶をして扉を開け、四人を中に入れた。その部屋は、一足入れた瞬間に膨大な闇を感じられたが、天使としての状態になっているお陰で気持ち悪くはならなかった。
部屋は広いにも拘らずほとんど何もなく、闇に満たされた巨大地球儀のような透明な器のみが鎮座している。
ヘルツは器を目にしながら膝を立てて座っていた。
「よく来た、光の子」
訪問と共に立ち上がり、彼女等を横目で見た後にその体を向けた。
「知ってるとは思うが、ここでしっかり名乗っておこう。俺はヘルツ、お前等が相手をした奴等の所有者だ。アイツ等が世話になったな、奴等、お前等と遊んで楽しかったと言ってたぞ」
「それはそれは……ヘルツ様の契約者にそう言ってもらえるとは、本当に光栄。頑張った甲斐がありましたねぇ、私はほとんど相手してないですけど」
ユウライはニコニコと笑いながら彼に歩み寄り、最後の一瞬仲間に視線を送る。
そのほんの一瞬の横目の後、彼女は真っ直ぐとヘルツを見やり、用意した言葉を話す。
「ヘルツ様、お分かりでしょう? 私達は貴方に勝てない。貴方と武力で真っ向勝負となれば一瞬にして吹き飛ぶ命です。ですからどうか、ここは一つ話し合いをさせてはいただけませんか」
「悪いな。生憎、俺の意思は決まってんだ。話し合いの余地もない」
しかし、ヘルツはきっぱりと言い切り、自身の力を手に浮かべ剣を生成する。闇で築かれた刃が空を切る、しかし彼はユウライに襲うことはせず、彼女を横切り真っ直ぐと三人へと切りかかった。
サヨイが咄嗟にバリアを張り、同時に左右に散ったマイミとスミレが応じて彼の背後に回り込み光を投げつける。
「ほう。足掻くか、時間の無駄だと思うが」
どう見たってその光は命中したが、全く効いている気配がない。ヘルツが埃を払うかのように手を振ると手にしていた剣は闇に戻り、殺意を闇に乗せた波動となる。しかし間一髪、光の子は翼で飛び上がってそれを交わした。
一撃でも食らったら死ぬと、光の子は感覚で察知していた。
「こうなりゃ悪あがきよ! 死んだらムダになる時間もクソもないでしょう! ユウライ、アンタも見てないで手ぇ貸しなさい!」
「よく言った。じゃあ、ここは一つ見せてあげましょうかね」
ユウライは地に足をつけると同時に手をひょいと動かし、十の光弾を宙に浮かべ、一斉に嗾ける。それを合図に、最後の戦闘が始まった。
彼女等が持つ光はどれも形質が違う、サヨイに至っては明らかに戦闘に不向きな素質だからか光が優しく、本人もそれを分かっているのか力は主に味方を守るために回していた。一方マイミは些か納筋とも言え、後先の分量を考慮しているとは思えない一発を次々と出してくるが、その分スミレが彼女の力を支える事で補われているのだろう。スミレはそんな風に周りのサポートを行いながら、その場に合わせた攻撃を冷静に繰り出していた。そしてユウライは、そんな彼女等を助長するように自身の光を動かしている。
強者を前にした時、弱者は力を合わせるしかない。これはローブァイトからの教えだろう。彼女等を訓練したのは自身の側近であると、ヘルツは知っている。であるのならこの位は出来て貰わないと困る。
それからも攻防が続いた。刻む時間は体で感じる物より大分長く、普通の人間であれば動き続けられない程だ。神を相手に、中々粘っている方だろう。
(あまり期待はしていなかったが。ローブァイトが訓練しただけある)
それぞれで絶えなく飛ばしてくる術を対処しながら、ヘルツはそう考えていた。
正直、この程度であればその気になれば一瞬で押さえ付けられる。だがだからこそ、彼は遊びを入れていた。もう少しだけ、あの人間嫌いの父が認めた人の子がどんな者か、真っ向から感じたかった。
「ユウライ! 受け取りなさいっ!」
その時、マイミは突如宙に飛んだ光弾を更に力を籠め蹴り飛ばした。ヘルツに嗾けた訳ではない。ユウライに勢いを持ったまま向かったそれは、彼女に片手で受け止められ、更に彼女の力を注がれる。
その力は、光ではない。ユウライが生まれながらに持ち合わせた唯一無二のそれだ。ヘルツは肌で感じた気配でそれを察知し、身構える。
「ヘルツ様は、『光縛り』とは言わなかったですもんね?」
「さぁさぁ、私の本気をご覧あれ! これより生み出されるは何か、私にも分かりません、これぞエンターテイメントでしょう!」
ユウライは愉快気に笑うと、手を薙ぎ光と創造の力が込められたそれを放つ。力は宙でグルグルと回るとその姿を露わにする。それはアニメや漫画に出てくる如何にも「女神」と言った風貌の、光り輝く一人の美しい女だった。大きな翼をはためかせ、創り出された彼女は目を開くと共に聖剣とも言えそうな剣を手にヘルツに正面から切りかかった。
身構えていたヘルツはすぐさまそれに応え、自身の剣を手に相手の一撃を迎える。
四人分の力で創られたその存在が放つ一撃は、正直重い。か弱そうな女の細い腕にどうしてこんなにも力が入るのか……可笑しい話ではない、それが彼女等の光の影響で女神を模しているというのなら、攻撃の為に創造されたそれは闘神とも言える。
「創造の力か。話は聞いていたが、こりゃまた、随分とでけぇなっ!」
ヘルツは自身の闇のみでそれを押し切り、打ち消す。
未知の力相手に消耗した所を、ユウライは「今だよ!」と合図を出し、サヨイとスミレにより力を増幅させたマイミが自身の活性化させた光を拳に殴りかかる。
向かわせた拳は、その寸の所で彼の力により静止させられた。
「見事だ。親父が気に入るのも頷ける」
彼女の手を掴んで光を吸収し、彼はゆっくりとその手を下げた。
「だが、悪いがここで終わらせるぞ」
その宣言と共に、彼は最後の闇を狩ろうと手を下す――
しかし、その時、ユウライの声が静かに言葉を唱えた。
「『破壊せよ――』」
ユウライが持つ「地球上唯一の力」は、創造の力だけではない。創造の対局には、「破壊」という概念があるのだ。その事を知っていたヘルツは、聞こえた言葉にハッとし振り向くと、ユウライは薄墨色に変わった瞳を細め、身を翻す。
ユウライが駆けた先には、五年間の間に狩られた人々の闇が集まり溢れたその器。大きく飛び上がると、浮かび上がったウィスタリア色の力を透明な器に突き付けた。
彼女の「破壊の力」により、器に一つの亀裂が入る。そのヒビを始めに器は一瞬にして壊され、中に溜めていた闇を溢れ返させる。
「こんの、バカ野郎……っ!」
ヘルツは殺そうとしていた相手を他所にその闇の中に飛び入り、それらを自身の身で受け入れた。
一瞬にして、溢れかえった闇は全て収まった。サヨイは少しホッとしたが、彼女はこれが嵐の前の静けさだとは知らない。
「皆、こっちに!」
マキャーが慌てて光の子を呼び掛けてる。何かと思い駆け寄ったその矢先、振り向いた背後から多大なる闇の力を感じ取る。
闇の発生源は、間違いなくヘルツだ。彼は闇の力を使えるのだからなんら可笑しい話ではない。しかしこの場合、違ったのだ。その闇が、力が、異常なまでに悍ましく、膨張していたのだ。
「な、なに、これ……」
「暴発だ! ラキの時にもあっただろ、それだよ!」
怯えるマイミに、マキャーが言う。
暴発――聞いた事のある言葉だ。確か、自身に収められる力が許容量を大きく上回り、それらが暴走する現象だ。
三人は呼ばれるままにマキャーに駆け寄ると、彼はその場しのぎではあるが周りに光を張り巡らせ闇を防いでいた。しかし、ユウライはその場に立ったまま、やってくる気配がない。
「ユウライちゃん! 危ないよ!」
サヨイが大きな声で彼女を呼び掛けた。あまり聞いた覚えのないサヨイの大声に、瞳の色を戻したユウライは小さく笑い、手を振る。
「待ってなサヨイ! 一か八か、賭けてみるからさ!」
彼女は笑顔を見せ、そのままヘルツに向かって走る。
無謀だと分かっていたはずだ。そんな事をして何が起こるか、ユウライであれば察しが付いていたはずだろう。しかし、彼女は構わず突っ込んでいき、そして、正常な意識を失ったヘルツの攻撃を諸に食らった。
闇が魂を貫いた。特別とはいえ飽くまでも人間の魂が闇に打たれ砕かれる。そうなると、当然訪れるのは、「消滅」である。
「っ――、ユウライ!」
マイミは叫んだ。しかし、既にその魂は消えている。天使の状態である光の子には、冷酷にもそれが伝わった。
「な、え……え……? ま、マキャー、違うよね? わたし達の、勘違いだよね……?」
「……勘違いだよ、って、言えたら良かったね」
あまりにも一瞬の事で頭が追い付いていないが、それが事実だと、口にされた言葉から理解した。
マイミは顔を上げ、ヘルツを見る。彼は何も言わない。苦しそうに唸りながら、正常さを失いかけた意識で闇をどうにか制御しようとしていた。
「ヘルツっ!」
そんな異常な闇に気が付いたのだろう。突如扉が勢いよく開かれ、ローブァイトが駆け行ってくる。そうして彼は、見えた状況に目を見開く。
「報告しろマキャー! 何があった!?」
「ユウライが自身の力を使い、闇がたまっていた器を破壊しました。ヘルツ様はその闇を一身に受けられ、暴発が起こりました。ユウライは暴発したヘルツ様に立ち向かって……」
説明の途中、マキャーは言葉を詰まらせた。
ローブァイトはそんな彼の様子から察しが付き、続きは求めなかった。
「もういい、状況は分かった。マキャー、大神様を呼べ」
「え……よろしいのですか?」
ローブァイトの指示に、マキャーは驚いてしまい思わず聞き返す。
「つべこべ言うな! こうなればもう他に手はない、いくらヘルツでも二度目の暴発は持たないんだっ! このままじゃっ、ヘルツまで居なくなるだろ!」
ローブァイトはきっと、必死だったのだろう。マキャーに訴えかける彼は取り乱していて、マキャーは始めてみるそんな彼に少し戸惑っていた。
そんな時、一つの強い光を感じた。光の方向を見やれば、まさに今懇願された大神、バイレンが立っている。
「大丈夫だローブァイト。来てやったぞ」
バイレンはそこにいた不安そうなローブァイトの頭を撫で、闇に蝕まれる我が子を見やる。
五年間人の子から狩り続けた闇は、どれ程の量だろうか。少なくともそれは、術を返せば全人類の心を狂わし、最大の争いを招く程のものだ。いくら優秀な神でも、身一つに受け止めきれるものではないだろう。
「光の子もここまでよくやった。後は俺に任せろ。これは流石に、お前等には荷が重過ぎるからな」
バイレンは放心気味の光の子に声をかけ、息子の前に立つ。
最も優秀な我が子とだけあってまだ辛うじて理性を残しているが、もう崖っぷちだろう。それも最早無いに等しい。今の彼は、誰が誰かの判別も付いていないのだから。
「よぉヘルツ、久しぶりだな。お父様、ずっと会いたかったんだぞ? つっても、今のお前に言っても分かんねぇか」
「よしヘルツ。ここは一つ、お父様が相手をしてやろうか」
バイレンは父としての笑顔のまま自身の力を引き出し、自身の存在を認識させる。するとヘルツは、相手が誰かも判断付かないまま父の狙い通りに襲い掛かった。
光の子は、その時ヘルツが出した力を見て、先程の戦闘がいかに彼にとってお遊びであったかを知った。マキャーの光によって守られているお陰で身に害は出ないが、それでも伝わる力の強大さ。今の彼は、本気のそれ以上なのだ。
しかし、バイレンはそれを見事に迎え撃って相手をしていた。しかも彼は、それでこそ先ほどヘルツが光の子の相手をしていた時と同じように余裕そうで。むしろ楽しんでいる節もあるように見えた。
「ははっ! やっぱつえぇなぁ、お前は。流石俺の子、ここまで出来るようになっていたとは。俺は嬉しいぞ」
実際、彼は楽しんでいた。重なり合う刃の音が絶えず響き続け、お互いを散らしあう闇と光が舞う。その光景は一種の剣舞にも見えてしまい、不謹慎にも美しいと思ってしまう。
(ユウライなら、口にしてただろうな。綺麗だねって。そしたらアタシは、今言う事じゃないって突っ込んだかしらね)
マイミはぼーっとその光景を目に映し、思い浮かべる。
しかし、ユウライは消えてしまった。あんなにも殺しても死ななそうな奴だったのに、あんなにも呆気なく。何だか、実感がわかない。
(ってことは、ラキも消えたのよね。そりゃ、ユウライが死んだらラキもユウも、人格達も消えるか)
目の前で壮大な戦いが繰り広げられているというのに、マイミの思考はそればかりだった。しかし、それはマイミだけではない。サヨイも、そしてスミレもそうだ。
バイレンは、そんな彼女等の心に気が付いていた。一度ヘルツを薙ぎ払い、彼から取った闇の一部を手に口を開く。
「消滅は、辛いよな。大切に思った者は一生戻って来ない。もう二度と、同じ笑顔を見せてくれない……嫌だよな。俺だって辛かったよ。父様もマーダトも、よりによって俺の目の前で消えて行きやがった」
闇は光を籠めた手で握り潰せば一瞬にして消えてなくなった。しかし、未だヘルツの暴走は収まらない。
まだだ。まだ全然取り除けていない。
「俺だって、取り戻せるなら取り戻したい。だが、ダメなモンはダメなんだ。分かるか? まぁ、理性で心を制御出来るなら俺達は存在しないってもんだ」
「とまぁ、今のお前に言い聞かせても意味はないな。まずはその闇、全部俺に寄越せ」
バイレンは息子に一突き、光で出来たその刃を突き立てる。光は彼の中に満ちる闇を我が身に移し、ヘルツはその痛みに唸る。たった数秒で闇は全て明け渡され、ヘルツは大きく息を継ぎ、前屈みに息を切らした。
「親父……」
「おう、お前のお父様だぞ。もう苦しくないだろう? あの闇によく耐えたな、並みの天使なら死んでいたぞ」
よく頑張ったなと、小さな子どもに対するかのように頭を撫でたその手を離すと、バイレンは真っすぐと息子を見据え、不貞腐れるように顔を逸らす息子にこう告げる。
「ヘルツ。知っての通り、俺は下界も人間共も大嫌いだ。お前の術によって下界が滅びようが正直どうでもいい。寧ろ好都合ってもんだ、仕事が減って俺もライツも楽になるしな。だが、俺はお前を護る義務がある。父として、大神としてな」
一歩歩み寄ると同時に、彼は自身の神としての力を放つ。
たった一瞬にして、彼は子をこよなく愛する一人の父から「絶対的な大神様」へと変わった。
場の空気がバイレンと言う名の神に支配され、統治されるような感覚。それは、光の子ですら従わなければと本能から思わせる程の力であり、マキャーはその瞬間にその場に跪いた。そんな中で、ヘルツが感じたそれは、一体どれ程だっただろう。
張り詰めた空気の中、バイレンは言う。
「これ以上続けたいのなら、俺を殺してみろ」
「ただし、あの時とは違う。今なら俺も、全力で応えられる」
それは冗談ではなく、戯れでもない。鋭い目つきで息子を見やるその彼は、正真正銘の「心の大神」たる男。それは、絶対に逆らってはいけない――否、逆らえない存在だ。
そんな相手を前にして、ヘルツは何も出来なかった。本能が、主を前にして「従え」と訴えていたのだ。
「では問おう。お前は誰の息子で、誰の所有物だ?」
「……バイレン・レザー・ユーベル」
ヘルツは自身の手を強く握り、本能が促すがままに答える。
「じゃあ、お前の名は?」
「ヘルツ・ユーベル」
そうして再び、彼は自分が何者かを自らの意思で認めた。
しかし少しだけ、悔しそうだった。
「正解だ」
バイレンはそう告げると同時に表情を和らげ、息子を腕の中に引き寄せる。
「いい子だな、ヘルツ」
張り詰めていた空気が解放され、光の子の中にあった本能からの畏怖もすっかりと消え失せた。この時、バイレンはただ一人の父親として、愛する息子を抱きしめていたのだ。
「あぁー……もうっ、可愛いっ! 寂しかったんだぞ、五年間もお前が傍にいなくてさぁ。もう、これから五年分撫でるぞ! お前が俺の手元からいなくなったのが悪い!」
場の空気の緩急が酷い。追い付かない頭で理解出来たのは、この大神が親バカである事の再認識だ。
立ち上がったマキャーは、どこかホッとした表情になり、呆れたようなジト目をしているマイミに寄った。小さな声で三人に「お疲れ様」とだけ先に言ってやり、相変わらずの親子を見た。
「流石に鬱陶しいわっ! てかなんだ、大体俺以外にも子供はいっぱいいるだろうが!」
「一人手元にいないだけで大分萎える体質なんだよっ!」
「そりゃ随分と不便な体質だなっ!」
ヘルツは父の手を払い、一歩身を引く。そんな息子にけらけらと笑い、バイレンは「あぁそうだ」と口にした。
「後々処罰の話もしなきゃなんねぇが。それより先に、お前にプレゼントがあるんだ、そっちを渡してやろう」
何を考えているのか、バイレンは愉快気に口角を上げ、次に誰もいない場所に向かって呼び掛ける。
「そういう訳だ。優雷、もういいぞー」
「はぁーい!」
その時場に響いたのは、今ここで聞こえる訳もない軽やかな返事。光の子が信じられないと顔を上げると、その視界の中には、どこからか降り立った優雷がいた。
マイミはその光景に目を見開き、彼女を呼ぶ。
「優雷……!」
彼女だけではない。その場にいた者のバイレン以外が目を丸くしていただろう。そんな反応を見て、優雷は軽やかに笑う。
「はは、サプライズ大成功ーって所ですね」
「ヘルツ様。この優雷、貴方様の為に頑張らせていただきましたよ。結構痛かったんですからね」
「ですが、これで全ての条件は満たされました」
優雷は一歩前に足を突き、その中央に魔法陣を展開させ、いつものような愉快そうな笑みで告げる。
「それではヘルツ様、ご覧ください!」
陣が光を放ち、優雷はひょいと跳ねてその外に出た。
目をふさいでしまう程に眩しい光が止んだ時、ヘルツが目に映したのは大好きだった彼女の笑顔。
「……久しぶり、ヘルツ!」
天使である証を持つ少女は笑顔を弾けさせる。そんな彼女は、正真正銘のマリス・クライムである。
それは、本来であれば有り得ない光景。当の昔に消え失せた魂が、確かにそこに形を持って立っていたのだ。
愛した彼女がそこにいる。言うべき事は沢山あったはずだ、話したい事など山ほどあった。だが、言葉が出なかった。それは、ローブァイトも一緒だったようだ。
信じられないと目を見開き、愛した彼女を見る。マリスはそんな彼等に「もうっ」と笑う。
「ヘルツもお兄ちゃんも、反応悪いんだからっ! 折角優雷ちゃんががんばってくれたのに」
「ははっ、まぁ驚くのは無理ねぇな。それじゃあ先に俺が言おうか。マリス、よくぞ戻った。お前とまた会えた事を嬉しく思うぞ」
「はい! 大神様。私も、また会えてうれしいです」
マリスは自身の主と言葉を交わしてから、未だ頭が追い付いていなさそうなヘルツに向き直り、彼の手を取った。そうする事で彼もようやっとハッとし、彼女の名を呼ぶ。
「マリス……なん、だよな」
「もー、最初に言う事それー? せっかくまた会えたのにさ。そういうとこほんと変わってないねっ。お兄ちゃんも! 妹が生き返ったんだから、もっとそれらしい反応してよー!」
それらしい再会の喜びを見せてほしかったと膨れるマリス。だが、こんな反応になってしまうのも無理はないだろう。だって、彼等にとってその存在は、何よりも絶対的な主に背き禁術を使わなければ取り戻せない存在だった。力を変え天使である事を止める事によってようやっと、ここまで来たのだ。
だというのに、優雷はやってのけた。これは当事者であった彼等にとって猶更信じがたい事なのだ。
「あ、あぁ。すまない、あまりにも予想外過ぎて……優雷。これはどういう事だ? お前は、魂の甦生が出来るのか?」
ローブァイトの目に映された優雷は、ニコリと笑ってその問いに答える。
「条件は三つあります。一つは、甦生対象者自身が生きる事を望んでいる事。二つは当人以外の誰か一人でも、対象者の生を強く望む者がいる事。そして三つは、術者である私が、対象者と同じ死因で死ぬ事です。ちなみに、三つ目の条件は対象者が死んで一か月以内であれば無視して発動出来ますよ」
「創造術の応用編みたいなものですねぇ。だけど何せ甦生ですから、タダでは出来ないようになってるんですよ、上手い事出来てますよねぇ世の中」
「いやー、苦労しましたよ。何せ消滅となれば中々出来ないもんでして、刺殺とかだったらうちの人格に頼んで刺してもらえばいいんですけどね。消滅となると一筋縄ではいかないモノでして、理性を失った神様に襲ってきてもらえばまぁ消えるだろうって、悪いですけど溜まってた闇を利用させてもらいました。思ってた通りに進んで良かったですよ」
つらつらとネタバラシをしする優雷は、なんだか楽しそうで。どことなく悪戯に成功した子どものように思えた。
そんな彼女に、口を開けていたマイミがカッと声を上げる。
「良かったですよ~じゃないのよっ! 優雷アンタっ、そんな計画してるなら言いなさいよ事前にぃ!」
「相談は、してほしい」
「そ、そうだよ優雷ちゃん! ほんと、びっくりしたんだよ……」
マイミの文句を皮切りに一斉に詰め寄ってくる三人。優雷はそんな彼女等に目を丸くしたと思えば、小さく笑いながら「ごめん」とだけ返す。
そんな光の子を目に、マリスは優しく微笑む。
「ふふっ。ほんとうに、ありがとうね。優雷ちゃん。あと、マキャーくんと光の子ちゃん達も。がんばってくれてたの、見たらわかるよ」
彼女は、頭を下げたマキャーをなでなでする。天使のような笑みだった。これは比喩として用いられる天使でもあり、そもそもが実際の天使でもある珍しいパターンだ。
「それに、ヘルツとお兄ちゃんも。私のためにありがとう!」
笑顔を咲かせた彼女に抱き着かれ、ヘルツの顏がほんの少しだけ赤くなった。「あぁ」と短い返事だけを返しそっと目を逸らすその反応は、正に恋だ。
そんな彼にころころ笑い、マリスは「お兄ちゃんも~」とローブァイトにぎゅっとする。
マイミはそんな彼女を見て、絵に描いたような妹キャラだなと思っていた。禁術なんて如何にも危ない物を使ってまで取り戻したがるのも頷ける、実際、マイミの読んでいた漫画でもそんなパターンの敵がいたのだ。まぁそれは男女が逆だったが。
完全に面倒事に巻き込まれたが、終わり良ければ総て良し。そうしてやる事にしよう。ヘルツとローブァイトは愛しの相手を取り戻せ、下界もこのまま平穏無事に存続される。誰も犠牲にならずにこの結果にたどり着けたのなら、それはとてもいい事だろう。
マイミは、何事もなかったかのようにピンとしている親友を目に、小さな微笑みを浮かべる。
そんな時だった。彼女の横目に、マリスが男二人の後ろに回ってその背を押しているのが見えた。
不意打ちだったのだろう。彼等は同じタイミングでよろけ、一歩先に足を突く。その方面には、なぜだか物凄くニコニコしているバイレンがいる。
それで、彼等は察したようだ。マリスが何を意として、背を押してきたのか。
「だけど……大神様に迷惑かけたのはよくないからね。ごめんなさいした方が良いと思うな」
二人の察しを確認に変えるように、マリスはそう告げる。
ヘルツは無言で三歩後ろに下がり、父から距離を取る。
「……ローブァイト。お前が先にやれ」
「は、はぁ? 待てヘルツ。普通はお前が先だろ」
「いや、これは善意だぞローブァイト。こういうのは、先にやった方がいいじゃんか。だから譲ってやるよ。うん。そういう事だ」
とかなんとか言っているが、こいつ、少しでも先延ばししたいだけだ。そんな事は心が読めずとも明確だ。実際、サヨイはこういったやり取りに見覚えがある。弟達が小さい頃、母親に怒られた時にしていた責任のなすりつけ合いとほとんど同じなのだ。
「お前が嫌だから良いように言って押し付けたいんだろ、とっくの昔に分かってんだぞその意図! だけど俺は仕方なくだな」
「じゃあ今回も仕方なく受け入れろ!」
「今回ばかりは嫌だ! 俺の立場を考えろ、お前より気まずいんだぞ分かるか!?」
延々と続きそうなやり取りは完全に昔に見た弟のそれで、サヨイは懐かしさ混じりに微苦笑を浮かべた。しかし、当の本人はこんな反応をされているという事に気付かず、ギャーギャーと言い合いを続けている。
「こうしてみると、結構子どもっぽい感じね」
「あはは……マイミ、それお二人に直接言っちゃダメだからね?」
マキャーは軽く注意をしたが、否定はしなかった。
男は何歳になっても男の子という訳だろう。マリスは変わらない彼等にふうと息を吐き、兄に視線を向けてこう言った。
「お兄ちゃん。覚えてる? 昔、私がお友達とケンカしちゃった時に、お兄ちゃん言ったよね。『少しでも自分に非があるって思うのなら、とりあえず謝ったほうが良い』って」
「うっ……い、言ったな。確かに」
ローブァイトは言葉を詰まらせた。まさか、ここに来て昔の自分の発言が言質になるとは思ってもなかったのだろう。これは暗に、実の妹に「自分で言った事だろう?」と突かれているようなものだ。
ちらりとバイレンを見れば、愉快そうにニコニコしている。怒ってはいなさそうだ、だが、そういう問題ではない。これは、怒られるのが怖いとかそんな幼稚な心で嫌がっている訳ではないのだ。しかしまぁ、今抱いているこの感情も、幼稚だと言われれば否定は出来ないが。
だがローブァイトには、兄としてのプライドがあった。ヘルツの肩を押し、バイレンの前に立つ。
「大神様」
「おう、何だ?」
わざとらしくも問い返してくる主。彼の意地が悪いのは、昔からだ。だからローブァイトは覚悟を決め、自身の赤銅色の宝石を掴み、闇と化していた自身の力を光に戻す。そうして光の力を持つ存在となった彼は、紛れもない「大天使」ローブァイト・クライムだ。
ローブァイトは天使として、主に跪く。
「この度は、俺の勝手で大変ご迷惑をおかけしました。申し訳ございません、大神様」
彼の謝罪に、心の大神は考えるような仕草を見せた。
「お前にも問おう。お前は誰だ?」
「心の大天使ローブァイト・クライム。貴方様の所有する天使であり、ヘルツ様の側近でございます」
「では誓え。お前は一度俺の加護を拒んだからな。俺への忠誠を確かに、ここに宣言しろ」
「はい……この俺、ローブァイト・クライムは、心の大神バイレン・レザー・ユーベル様の所有物として、今ここに貴方様の名に誓います。……我が魂は、大神様の為に」
一層深く頭を下げ、誓いを口にする。バイレンはその答えに微笑み、彼の頭にぽんと手を置いた。
「その誓い、確かに受け取った」
「心の天使の肩書を持つ者は全て俺の所有物であり、クライムは俺の側近として作られた血だ。故に、お前がどんな姿だろうが俺の天使である事には変わりない。その事は、今後も忘れないように。話は以上だ、もういいぞ」
ローブァイトは主の言葉に「御意」と控えめな声で返し、すぐさま立ち上がる。ツカツカとヘルツの隣まで歩くと、彼の背を裏手で思いっきり押す。と言うより、この強さは最早叩いたと言えるだろう。
「俺は、やったぞ」
そのたった一言にちょっとした圧があったのは、恐らく気のせいではない。彼の気恥ずかしさをいたたまれなさは、全て今の一撃に込められていた。
そんな彼をマリスが「お兄ちゃんがんばったね!」と宥めている最中で、ヘルツはタイミングを見計らうように実父を見詰めている。
謝りたくない。なぜか? それは、彼なりのプライドだ。
「だから反抗期って言われるんだよ、ヘルツ」
「……っう」
マリスからの会心の一撃を諸に食らったようだ。ヘルツは短く唸り、頭を押さえる。そんな息子でさえ可愛いと感じるバイレンは思わず頬を緩ませ笑顔になった、その反応すら不服で、ヘルツは半場自棄になったのだ。
「分かった、分かったよ!」
胸に飾った宝石をガッと掴み、同じように闇を元の光に戻す。
その姿を見て、マイミは思わず感嘆の声を漏らした。光の身と化したヘルツは本当にバイレンにそっくりで、隣に並べば一目だけでどちらがどちらか区別が付かなそうな程だったのだ。最初から似ていると思ったが、カラーリングが同じになるだけでこれほど近くなるとは。
いつものヘルツであれば、そんな彼女の内心に文句を言っただろう。だが、今の彼にそんな余裕はない。一度自ら拒んだモノを再び受け入れるのは、気持ちの面で簡単ではないのだ。
「ち、父上。その……ごめんなさい」
やっと引き出せた謝罪は、ごめんなさいのたった一言だった。だが、その一言がとても大きい。
小さく目を逸らした息子。その心に隠すことが出来ずに伝わった感情は、気まずさと気恥ずかしさ、罪悪感と、そしてほんの少しの……父への好意だ。
「かっわいい……」
バイレンは可愛いの言葉を噛みしめるように口にして、ヘルツを再び抱きしめる。
「大丈夫だ、お父様は怒ってないぞ。ただ、心配だったんだ。禁術なんて使ったら、それでこそお前の身が滅びかねない。あんだけ膨大な闇を扱うのは、しんどかっただろう?」
「……すまない。今回は、俺の監督責任だ。刑罰班が本来の役割で動くような事態は滅多にないもんでな、気を抜いてたんだ。アイツ等がどれ程真面目な奴か、分かってたはずなのにな」
その腕に、小さく力が入った。ヘルツからその表情は伺えなかったが、触れ合った体からは、確かにその心が伝わってくる。それは、彼の神としての責だ。
ヘルツは彼の胸を押して腕から脱出し、そうして咄嗟に姿を闇のモノに変えた。
「それで。俺への処罰は?」
バイレンは忘れていたと言わんばかりにおっと声を漏らし、考える。
「じゃあそうだな……五年分溜まった、俺の下界管理の仕事。手伝え」
「……おい、どんだけ溜めてんだよ。てかそれ、今捌いても意味ねぇだろ」
「仕方ねぇだろ、嫌いな奴の世話なんてしかたねぇんだよ。けど、一応処理しておかないと後々面倒だ」
肩をすくめた彼に、ヘルツは頭を抱えながらとても大きなため息を突き、「分かった」と返す。
ちなみにこの時、マイミもため息を突きたい気分になっていた。この大神、緩いのかしっかりしているのかよく分からないな、と。しかし視線をやって見てみれば、バイレンはそれでこそ優しい神様のような微笑みを浮かべて、我が子に向き合っていた。
「感謝しろよ? 本当は、二人とも一回殺して俺の所で生れ戻そうとしてたんだ。だが、考え直してやった。お前等がいなくなると、闇の子が路頭に迷う事になるだろうからな。そりゃ可哀想だろ? だから、そのまま闇の身である事を許可してやる」
「お前が、自分で選んだ所有物だ。ちゃんと責任取れよ」
バイレンは同じ神として、我が子に言い聞かせた。
ヘルツとローブァイトが何かしらで消え去った時、闇の子に居場所は残るだろうか。サヨイは、バイレンの言葉を聞いて考えてもいなかったと気付く。
ヘルツは、「分かってる」と一言だけ答えた。バイレンはその答えに頷き、ようやっと光の子達に顔を向けた。
「光の子、待たせて悪かったな。ついて来い、報酬と今後の契約について話そうか」
その言葉は、光の子が事を成せた事を示していた。
天界、心の世界。大神が住まう城の執務室で、光の子は見覚えのあるソファーに四人で並んで座っていた。机を一つ挟んだ先にある一人用のソファーにはバイレンが足を組んでおり、その隣で人型のマキャーが控えている。
「まずは、よくやったと言っておこう。正直大した期待はしていなかったが、想像以上の結果だ。とりあえず認めてやる、人類もまだ見捨てたもんじゃねぇ。お前等のような存在が生まれ育つのであれば、まだもう少しは世話しといてやる」
変わらない上から目線だったが、それは確かに彼なりの称賛だ。だがそれでも言い草が気に入らないと、姿を戻した舞明が顔を顰める。澄麗からしても、バイレンの上から目線は少々いただけないようで、口にはしないが無表情の中に不機嫌さがあった。
「アンタねぇ……もう少し、優しい感じで褒められないの?」
「十分に優しいだろ? なぁマキャー」
「えぇ、おっしゃる通りです」
マキャーに話を振るのは卑怯だろう。が、これ以上文句を言っても水掛け論に等しい事が起こる。だから舞明は何も突っ込まず、優雷はそんな彼女に軽やかに笑う。
「大神様が人間を褒める、ってこと自体まぁないからねぇ。それだけで優しいよ、今の大神様は」
「優しいのレベルが低い……」
「あはは、まぁまぁ……それで、大神様。本題をきいていいでしょうか?」
無の表情を顰めた澄麗を宥めてから、沙宵は肝心のそこに移る。先程は報酬と今度の契約についてだと言っていたから、想定が付かない訳ではないが。雑談が長引いてしまうのはなんだ。
「おう。じゃあ、報酬についてだな。契約の時点では金を用意してやる事にしてたが、お前等全員が拒否をしたからな、どうしたものかと考えていたのだが。ぶっちゃけ、金以外で人の子が何を欲するのかが分からんくてな」
「そうですねぇ。私は正直お金がいいんですけどね。やっぱり、一般女子高生的には突然の大金を貰うと怪しまれるってのが大きい物ですし。分割払いでお願いできますか?」
他三人の言葉が出てくるより先に、優雷がそんな提案をし出す。するとバイレンは、名案だと言わんばかりに手を叩いた。
「お、その手があったか!」
「いや、その手があったかじゃないっ! そもそもの話、そのお金……合法なの?」
そのまま「じゃあ分割でお支払い」といった流れになる前に、舞明が勢いよく突っ込んだ。
すんなりと合法だよと答えられたら、それでよかった。だがバイレンは直ぐに答える事はせず、意味深にニコリと笑う。
「神に、人の子が作った法が通じると思うなよ」
それはもう答えだと、沙宵は声を漏らす。
「あ、使っちゃダメなタイプのお金なんだ」
「違法物は、受け取れない」
澄麗がズバリ言い捨てると、バイレンは小さく笑う。
「絶対足はつかねぇけどなぁ。実際、天使達が下界出張の時に使ってる奴だ。それで捕まってる奴はこれまでで一人もいない」
「そういう問題じゃないのよ……」
「そうか? まぁ、いらねぇってんなら別に良いが……じゃあ仕方ねぇ。お前等、要望を言え。余程の事じゃなきゃ叶えてやる」
行きつく所はそこのようだ。間違いなくそれが一番手っ取り早いのだろうが。しかし、これは要するに神様に本当にお願い叶えて貰おうキャンペーンだ。頬杖を突いたバイレンは、さて光の子が何を言ってくるかと内心楽しみにしていた。
何でもと言われ、舞明は真っ先に答える。
「ほんとになんでも? 買ってくれるのよね? じゃあさ、絶対零度の特装版ブルーレイ! これ買ってほしいわ、アニメート得点がアタシの推しカプのアクスタなのよ! だから絶対、アニメートで買うのよ!」
ご丁寧にスマホに販売ページを映して見せてくる。税込み一万七千円+送料という中々にお高く購入を悩んでいた物だ、この機会に頼まず何を頼めと。さて、舞明が早速要望した所で、それならと沙宵が言う。
「じゃ、じゃあ。あの衣装デザインしたときみたいに、描いたお洋服を実際着れるようにしてほしいです! 出来ますか……?」
「そんくらいなら構わねぇぞ。また適当にデザイン描いた紙をくれればいい感じにやっといてやる。そうだな、優雷経由すんのが一番楽か? ま、何らかの形で俺まで持ってこい」
そう言えば、天使としての状態になった時のあの衣装は、沙宵がデザインしたものだったか。最初こそ戸惑った舞明だったが、案外気にならなかった。そう言えば、今までこれに触れられた事がなかったような……。そんな事を思いだし、ハッとする。
(もしかして、皆気使ってた……? もしくは、それどころじゃなかったとか……)
そう言えば、最初にセーシャの前で変身した時、どことなく苦笑いされたような、されてないような。正直、一か月も前で相手がどんな表情をしていたかは曖昧だ。だがなんとなく、そんな気がする。
舞明がそんな思案をしているのは、勿論バイレンには筒抜けだが。それを笑ってやらなかったのは彼の良心だろう。
また澄麗もそんな彼女に気付いていたが、沙宵の名誉を守る為にも一切触れずにいた。触れずに、端的に伝えた。
「私は、特にないです」
「っとぉ、そう来たか。無欲な奴だな、なんかあるだろ、欲しい物とかそういうの。何でもいいってんなら、手っ取り早いのは俺からの加護になるぞ?」
最も、彼女は加護なんて欲しがらないだろうと冗談で言っていた。だが、予想外にも澄麗はそれに応じて問い返した。
「内容は?」
「お、案外興味あったりしたかぁ? そうだな。例えば、悪い事を企んで近づいてくるような輩がいたら、本能的に察知して避けられるようになるかもな。心が読めるって言うと少し違うけどな」
「それ、沙宵にお願いします」
さらりと告げた澄麗に、目を丸くしたのは沙宵本人だ。
「え、わたしに? いいの?」
「沙宵は、騙されやすい。だから、必要」
こくりと頷く澄麗に迷いはなかった。騙されやすいと言われると少し戸惑ってしまうが、本人からしても否定は出来ない気がした。
「そ、そうかなぁ……えっと。大丈夫ですか、大神様?」
「ははっ、なんら問題はねぇな」
澄麗への報酬としてのモノを自分が与えられるのは良いのだろうかと、そっと尋ねてくる。しかし、元よりバイレンは、沙宵への想いを利用して澄麗と契約した訳で、選んだ時点で知っていた事だ。バイレンは笑って要求に応じ、澄麗への報酬を決めた。
さてそうした所で、残るは優雷だが。
「それで、優雷はなんかあるか?」
訊けば、彼女は少し考えた後、にこりと笑みを浮かべる。
「それじゃあ。ラキくんの事、少し贔屓目にお世話してくれませんか? 実の所、私自身で制御してあげられるモノではなくて」
「あぁー。すまんな、元よりお前は贔屓目に気にかけてやってるんだ、それは無しだ。悪いが、これ以上はアーテル様に叱られ兼ねん」
「あぁ、そうですか……」
「何、そう落ち込むな。俺は無理だが、ラキに関してはヘルツが契約を結んでいる。頼まなくともアイツが世話すんだろ。実際、この五年はそうだった。俺は一切下界の管理に触れてないからな、ヘルツが何もしてなきゃ、まぁお察しだ」
沙宵は分からなかったが、この優雷は落ち込んでいるようだ。相変わらずの笑顔に見えるのだが……恐らく、こういう所が澄麗に騙されやすいと思われる要因なのだろう。
心の中で自身に苦笑を浮かべる沙宵。その他所で舞明と澄麗は同じワードで引っかかり、それぞれ訝しげな表情を見せた。
一切触れてないとはなんだ、この大神は。そんな思念も一切無視して、大神本人は話を続ける。
「代わりと言っちゃなんだが、優雷。今度美味い飯奢ってやるよ。お前のご一行連れて来い。天界の刺身も結構うめぇぞ?」
「お、刺身ですか! それは良いですね、それで行きましょう! 皆も喜びますよ~」
優雷は好物である刺身に大きな反応を示し、顔を綻ばせる。報酬の件は全員まとまり、次は契約についての話だ。
「報酬も決まった所だ。最後に契約についてだが。気づいていると思うが今日が期限最終日、契約満了だ。そうなると、優雷以外の三人は俺達の事を認知できなくなるだろう。それがお前等にとっていい事か悪い事かは知らねぇがな。ま、普通の人の子に戻るだけだ。不都合はねぇだろ」
そうだ、今日であれから丁度一か月だ。すっかり忘れていたが、契約書にははっきりと一か月間の契約だと書かれていたのだった。改めてそれに気が付くと、舞明の中に本当に少しだけ、寂しく思ってしまいそうな自分がいた。
「これにて契約は終了だ。任務ご苦労、光の子よ。改めて礼を言おう。中々良いもの見せて貰ったぞ」
バイレンは柔らかな笑みを浮かべ、そう告げる。話はそれで以上だったようで、マキャーが四人を町まで送った。
時刻としては既に夕方だが、まだ日の暮れる気配はない午後四時過ぎ頃。どうやら、マキャーに召集をかけられてから、あれよあれよでいつの間にか五時間も経っていたみたいだ。
地上に降り立った途端、湧き上がる蒸し暑さに早速嫌気がさす。やっぱりお願いは暑いのを何とかにしてにすれば良かっただろうか、いや、きっと専門外だろう、あの大神は。
冷たい水を浴びたい。そう心の中でぼやく舞明に、マキャーは小さく笑を零し、「人の子」である四人を目に映す。
「それじゃあ、気を付けて帰るんだよ。今日は疲れただろうから、しっかりご飯を食べてお風呂に入ってからゆっくり寝る事! あと、君達もう夏休みが終わるまでそんな日にちもないだろ? 宿題はきちんとする事。天界の事情で大分時間使っちゃったけど、君達の本文は勉学なんだから」
マキャーの視線は、主に舞明に向けられていた。それに気づいた宿題をやっていない人(舞明)は、しれっと視線を逸らしたが、まぁそれが答えだろう。
マキャーはそんな彼女にころころと笑い、改めて別れを告げる。
「じゃあね、皆。元気で、また次会う事があった時に変わりないようにね」
「そっかぁ、マキャーとも会えなくなるのか」
沙宵はほんの少しだけ悲しそうに目じりを下げた。
「まぁ、そう遠くないうちに会えるさ」
慰めでも冗談でもない。しかし、彼が考えている事は人の子である三人には伝わらず、唯一「神」というのをよく知る優雷だけが察していた。
マキャーはそんな彼女と顔を合わせ、頷く。それから天使である事を示す純白の翼を広げ、最後にもう一度「またね」と残して飛び立ったのだった。
彼を見送り、四人は家に帰る。今を生きる普通の女子高生として、それぞれの帰路に付いたのだった。
舞明が歩くいつもの道。そこですれ違った一人の天使が彼女に向かって手を振った。しかし、そんな天使が彼女の意識に捉えられる事無く通り過ぎる。それもそのはず、今の彼女に、人ならざる存在を見る事は出来ない。だって彼女は、普通の人の子に戻ったのだから。
天使は少し残念そうにしたが、直ぐに思い直し仕事に戻った。
「今、何かいたような気が……ま、いっか!」
舞明は一瞬だけ足を止めて振り返ったが、気にしない事にして再び先に進む。
こうして彼女等の光の子としての契約は幕を閉じ、その身には天使に近しい「光ある魂」だけが残った。
さて、見出された人類の希望は、存在意義が証明出来ただろうか。少なくとも彼女等は、最後のチャンスを掴み取った事だろう。
「掃き溜めに鶴、ってやつだな」
バイレンは、書類に調印しながらそう呟く。
「折角見つけた鶴を、ここまで来てまた掃き溜めに戻す訳ねぇだろ。なぁ、マキャー?」
小さく口角を上げた主。なんとも思っていた通りの彼の意思に、マキャーは小さく微苦笑を浮かべ、同意を口にする。
「おっしゃる通りです。大神様」
分かりきった事だ。従来、神はそういう生物なのだから。
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