雷光優しく洋紅を育む

 いくつもの感情を一個体として存在させ、尚且つその心や記憶までもを一つの個体とさせた人の子がいる。前例のない「創り出す」力を持ち合わせ産まれた、特別な子。天使も神も悪魔も、全ての生物をその眼に映し、分け隔てなく接する――そんな彼女にとっては、人間(どうるい)と関わるよりも、人外と関わる方が幾分か気も楽なのかもしれない。

 しかし、彼女にとっても、自分はよく分からない存在だった。

「化け物と人間の友愛劇は、バッドエンドで終わるもんだよ」

 ある時、映画を見終わった後、彼女は余韻に浸る舞明にそう言った。

 浮かべていた笑顔から感じた何かは、親友である舞明にも分からなかった。何時もの事だ。舞明は、彼女の事を……優雷の事をよく知らない。知らなくとも、友達でいる。


 七月も終わりに近づいた、二十九日。舞明はこのクソ暑い中、外を出歩いていた。何故かと言えば、愛するアイスを買い求める為だ。

 コンビニは徒歩十分。母とのジャンケンに負け、これから一週間分のアイスのストックを買いに行かなければならない。数分前にチョキをだした自分を恨みながら、彼女は焼き付くようなアスファルトの上のうでうでと歩いていた。

 そんな時だった。曲がり角から、見知った長身の男の姿が見えた。舞明があっと声を漏らすと同時に、彼もこちらに気が付いたようだ。

「あ、舞明ちゃん。この前ぶりだね」

「ユウじゃない。あれ、優雷はどうした? 一緒じゃないの?」

「優雷はこんな暑い中外に出たがらないよ。ボクは、ちょっと野暮用っていうかね。色々あって」

 ユウは苦笑を浮かべながらそう話す。

 詳しくは話してくれないようだが、まぁ訊こうとも思ってない。

「そっか。じゃ、熱中症になって倒れるんじゃないわよー」

「うん、ありがとね」

 ちょっとした会話終え、舞明は再びコンビニに向かった。

 ユウは小さく手を振り、今にも暑さで溶けてしまいそうな彼女の背を見送った。

 そして、自分にもまた目指す場所がある。

 ユウは、「記憶」を頼りにその場所まで歩いた。歩くには多少遠い場所だが、人ではない彼にとっては造作もない事だった。

 懐かしくも感じる小さな公園。遊具は全て取っ払われてしまい、辛うじて砂場が残っているがそこにはビニールシートがかけられ、最早ただの広場だ。そんな場所に、片割れは立っていた。

「おい、ラキ」

「ユウ、来てくれたんだ。ははっ、君の事だから無視して来ないかと思っていたよ」

「ボクを何だと思ってるんだ。言いたい事は山ほどある、だけど、先にお前の要件を聞こう」

「あぁ、そうだね。そうさせてもらうよ」

 いつもに増して冷たい態度のユウ。それも当然の事だと受け入れて、ラキは本題に入る。

「単刀直入に言うとね、ここ最近、いつも以上に不安なんだ。ボクは感じた心しか感受出来ないけど、君なら知っているだろ? この短い間に、一体何があった」

 彼の表情は、至って真剣だった。

 傍にいないお前が何を言うか。そうも言いたくなったが、ユウだって分かっている。コイツは、投げ出す為に離れた訳ではない。

「特別嫌な事が起こった訳じゃない。優雷自体は毎日楽しそうに過ごしている。あえて言うなら、近しい対人関係が新たに出来た」

「やっぱり、信じられないか?」

「……信じられるなら、信じたいけどね」

 ラキは笑った。

 微笑めば、全ての心を隠し通せると思っているのか――そんな言葉を喉の奥で噛み潰して、己の心を見やる。

「ありがとうね、ユウ。特に嫌な事があった訳じゃないならいいんだ。引き続き頼んだよ」

 そう言って、ラキは一瞬にして姿を消した。こちらの言葉も一切待たずに。

「なんで、お前は……」

 ボクにですら、弱みを見せてくれないんだ。そんな文句を思い浮かべても、彼には伝わらない。自分が持っているこの心と、アイツの発生源である主の心、そしてアイツ自身の心は、全てが別個の「心」なのだから。


 一般民家と比べると大きく、そこそこの金持ちの家族が住んでいそうな家が、優雷とその一味が日々を過ごしている場所だ。そりゃそうだろう、七名の人格と、記憶の具現化、今は不在だが心の具現化もここで住んでいるのだ。加えて、天使と悪魔が一名ずつ仮住まいとして居候している。これは、一種の大家族とも言えるだろう。

 しかし、今この涼しい部屋の中でのんびりとしているのは、優雷一人だけだった。人格達は揃いも揃って彼女の中で戻って寝ているし、ユウは出かけている。居候の悪魔と天使――黒星と白星は頻繁に帰って来る訳ではなく、今日も立派にお仕事中だろう。

 一人気ままに過ごす優雷の下に、窓をすり抜けてマキャーがやって来る。

「優雷」

「んぉ、マキャーじゃん。どした?」

「いや……至って元気そうっキュね。とりあえずはよかったっキュ」

 何を心配していたのか、マキャーはいつも通りの優雷を目に安堵の表情を浮かべた。

「どしたん、また闇の子の襲撃かい?」

「今の所、闇の子は来ていないっキュ。だけどまぁ、気を付けるに越した事はないっキュね。君達の闇は、禁術の要はうってつけだから」

「あーねぇ」

 その事に関してはとっくに知っている為、適当な返答で流した。

 それじゃあ何故マキャーはやってきたのか。用もないのに何となくで会いに来るタイプではないだろう。マキャーだってそれなりに忙しいはずだ。

 マキャーは優雷を見据え、口を開く。

「優雷。僕から言わせれば、沙宵も澄麗もいい子だ。そこらの人の子とは比べ物にならない、愚か者の中に産まれた奇跡だと思っている」

「このマキャーミティールル・ドールキャットが約束する。だから、信じてあげてほしい」

 その言葉に、優雷はただ「そうだね」と目を細めた。その心底にあるモノは読めない。あまりにも深く、深淵を思わせるようだったから。

 半場出来損ないの中級天使には、些か荷が重い。マキャーは自身の中に渦巻く少ない光と向き合い、自身での対処は賢明ではないと判断した。

 飛び去る白い猫に手を振り、それと入れ替えに、別の窓から白星が帰ってきた。

「あれ、今マキャー様いたよね?」

 白星は、時と運命の三大女神に仕える最上級天使であり、マキャーとは階級も所属も違うはずだが、知り合いみたいだ。何気に、優雷はこれを初めて知った。

「おー、白星。お帰り。うん、マキャーなら一瞬だけ来て帰って行ったよ。てか、知り合いだったんだ」

「うん、交流会でお話したね。僕には側近って明確な肩書はないけど、女神様のお傍にいる事は多いからね。結構話しが合うんだよ」

「そうなんだぁ。世間は狭いね」

 なんて、誰でも抱くような感想を呟き、マキャーが去っていた空を見上げた。

 その視線の遠く遠く先に、天界はある。

 マキャーは主の下に帰還すると同時に、相変わらず息子を愛でているバイレンが真っ先に目に映る。

「お、お帰りマキャー。丁度良い所に来たな、饅頭を食べようと思ってたんだ、一緒にお茶でもしようぜ」

「お帰りなさい、マキャーさん。マキャーさんは、緑茶がお好きなのでしたよね。僕、持ってきますよ」

 まさか一介の天使が神にお茶を淹れさせるなどあってはならないと、慌てて引き留める。

「あっ、お待ちくださいライツ様! 貴方のお手を煩わせる訳にはいきません、どうかお気遣いなさらず……僕は一つ報告しに来ただけなので、それだけ聞いていただければ」

「あぁ、いくらでも聞いてやる。言ってみろ」

「はい。報告は優雷についてです。大神様もお気付きでしょうが、彼女の心は寸前の所で耐えている状態です。暴走しだす可能性が非常に高くなってきています。ヘルツ様の件の結果は彼女に託されているようなモノです、今の状況下でこのような事態が起これば契約結果に不都合が起こりうるでしょう。こちらから対処にあたる事を考えたほうがよろしいかと思われます」

 マキャーの報告に、バイレンは考える素振りをするまでもなく返答する。

「マキャー。その一件は、放っておけ」

「よろしいのですか?」

「あぁ」

 バイレンは持っていたコーヒーカップを机に置き、口角を上げる。

「いい機会じゃねぇか、心の天使として、本当の意味での実力試験だ」

「なぁに、本当に無理そうだったら流石に俺が介入してやる。優雷が壊れる事自体には俺にデメリットしかないからな」

「いいか、マキャー。俺が良いと言うまで光の子に手を貸すな。そうだな。これは、命令だ」

 微かに不安を見せていたマキャーだったが、主の命令の一言で意を決する。

「承知しました、大神様」

「それでいい」

 頭を下げた彼に一言告げると、ひょいひょいと手招く。やって来た側近の彼を掴むと、猫でも愛でるかのように膝に乗せた。

「さ、仕事の話は以上だ。お前も一緒に食えよ、時と運命の世界限定、天翼饅頭きなこ餅味だ。今はもう売ってないやつな」

「なんですって……! ありがとうございます大神様! いただきますっ!」

 先程の遠慮も、好物のしかも今はもう食べられない味を前では呆気なく吹っ飛び、マキャーは手渡された饅頭にかぶりつく。

「ところでお父様。どうやって手に入れたんですか? これ、もう売ってないのでしょう?」

「そりゃ、ディア達に貰ったに決まってるだろ。今頃機嫌がいいだろうと思って尋ねたら、案の定三人そろって上機嫌だったんだ、『エレンが久しぶりに我等の力を使ってくれたのだぞ!』つってな。交渉はかなり簡単だった」

「流石です、お父様」

 ライツは父を称賛し、同じ饅頭を口に運ぶ。あまり紅茶に合うようなお菓子では無いが、これはとても美味しい。マキャーと同じように頬を緩めると、そんな彼等を見てバイレンも綻んだ。

 そんな平和な空間だが、少し気を配れば、不穏な空気が下界の方から漂ってきていた。バイレンはとっくにそれに気が付いていたが、一切を無視して目の前にいる可愛い子を撫でたのだった。

――心の大神があえて無視をした一つの「心」は、人気のない路地裏で一人えづいていた。

 この状態では戻るに戻れない。闇に身を落したとは言え心の神であった存在には、いくら取り繕えど見破られてしまう。

「ぅあ……っ、はぁ……」

 上手く出来ない呼吸を繰り返し、ようやっと少し落ち着いた頃。しかし、今はまだ帰れない。完全に落ち着いてからでないと悟られる。心配を掛けるのは不本意だ、増してや、泣いている所など見られたくはない。

(ここ最近、頻度が上がっている。特別大きな事があった訳じゃないのなら、なんで……)

 寒い訳でもないのに震える手を握り、付いた背を滑らせた。

 日差しがないだけ幾分かマシだが、閉鎖的な裏路地はかなり蒸し暑く、その熱さすら精神を削って来る始末。この世界は、心に優しくない。

 疲れてしまった。心地が良い場所ではないが、ここで少し休むとしよう。目を瞑った時、道の方から誰かが歩いてくる気配を感じ、再び世界を視界に映す。

「だ、大丈夫ですか……?」

 心配そうに顔を覗いている、整った顔立ちの少女。彼女には見覚えがある、確か、沙宵と言ったか。

「えっと。確か、ラキさん……でしたよね。お水飲みますか? あっ、勿論、わたしは口を付けてない完全新品です!」

 沙宵は買ったばかりなのであろう冷えたペットボトルをトートバックから取り出し、手渡して来る。熱中症でへばっていると思われたのだろうか。何にせよ、ラキは彼女の好意にいつものように微笑みを浮かべた。

「ありがとう。だけど、大丈夫だよ。それは君が飲みな」

 まだふらつく足で立ち上がった時、不意に近くから「ワン!」と聞こえ、大きく跳ね上がる。

「あ、こらコタロー! ダメでしょ?」

 犬だ。しかもチワワだし、よりによって三匹もいる。

「は、はは。元気なワンちゃんだね、うん」

「ご、ごめんなさい! この子達、かなり人懐っこくて……」

 沙宵は慌ててコタローのリードを引き、ラキから少し離れさせる。

「熱中症になりやすい気候だから、気を付けてください。それじゃあ、これ置いときますね」

 冷えた水と塩飴その場に置き、沙宵は三匹を連れて足早に去っていく。

 別に熱中症ではないのに。しかし、こんな場所にそのまま置いておく訳にもいかないだろう。飴はとりあえず口にいれ、ゴミをポケットに突っ込んでおく。どうせ少しはここで休もうと思っていたのだ、水があっても損はしない。

 見れば分かる、彼女の良心に裏も表もなく、彼女は本当に「優しい子」なのだ。それが光の子たる所以、その時点で、この自問の答えは分かり切っている……分ってはいる。

 しかし、自分の判断は当てにならない。


「だって、ママが『そうかばな』とはなかよくしとけっていうから。そうじゃなきゃあんな子と、ともだちになんてならないよ」


 一番の友だった相手は、こちらを友だとは思っていなかった。

「ほんとうに、あの子と仲良くしてて大丈夫なの……?  だって、望月さんだって見たでしょ? あの子は、人間じゃないよ……」


 本当を知られた時、友であるはずの者は己を遠ざけようとした。

 信じていた。与えられた「友達だよ!」と言う甘い言葉を、馬鹿みたいに信用して、友情があると一切疑わずに遊んでいた。

 何も知らずに、無邪気に笑えていた。それは、さぞ楽しかっただろう。何も知らなかったからこそ、素直になれていた。

「ねぇ、ラキくん」

「うちって、なんで人間なんだろうね」

 そう言って、まだ幼い主は微笑んだ。

 痛みを誤魔化す為には、笑うしなかったのだ。

(まだ、苦しいな。なんで、こんな気持ちにならなきゃいけないんだろ)

 また一人になった裏路地で、ラキは痛む頭を押さえた。

(ヘルツ様なら……いや、ダメだ。昨日も頼ったばかりじゃないか。今日は、自分でどうにかしないと)

 全てを呑み込み、抑え込んだ。痛みを加速させる過去の傷も、不安も絶望も、全ての闇を奥底にしまい込み、何事も無かったかのように消化してしまおう。いつもの事、慣れた作業だ。自分が受け入れなければ、主に苦しみが行く。もう、彼女が泣く顔を見たくはない。

(ボクが……ボクが、受け入れないと)

 しかし、抑えようとしても尚湧き立つ闇は心の最奥を苛め、

「ははっ……もう、ムリ……」

 その「心」は、遂に限界を超えた。


「……あー。ダメだこりゃ、ラキくん、限界突破しちゃった」

 椅子の背を揺らした。何年も使っているそれはギシギシと小さな音を立てたが、気にするような事ではない。

「皆、ラキくんに付いて、好きに暴れて来な。うちはユウくんと留守番してるよ」

 つまらなそうな表情のまま、そこに立つ七人の人格に告げる。その時、内なる存在が彼女に訴えかけたようで、おっと小さく声をもらして頷く。

「やっぱちょっと待って。壊雷も行きたがってるから」

 優雷は、自身の胸に手を突っ込んで薄墨色の力の球体を取り出し、宙に放り投げる。不規則な動きを見せていた力は、地に足を付けると風を巻き起こしながらその姿を現した。

 薄墨色の瞳を持つその人格は、確かに優雷に似た顔立ちをしていたが、短く切られた髪と直線的な肉体は男性的で、言うなれば優雷男版。人格で言えば、狂、陽、怨と同じ顔立ちだ。

「珍しいな、優雷。表に出してくれるなんてよ、普段は憑依だけじゃねぇか」

 彼は久しぶりの実体で背伸びをし、そこにいる優雷を見やる。

「今は動きたくない気分なの。肉体貸し出すだけでもまぁ疲れるんだからさ」

「ま、俺としちゃこっちの方がいいから全く構わんがな。お前等、行くぞ」

「おうよ! 久しぶりに大暴れできるなっ」

「うぉぉ、スッゲェ愉しみぃ!」

「おれは、体動かすつもりはないからな……」

 男体として顕在している人格達は、揃いも揃って乗り気で壊雷に付いて行く。

「全く、野蛮な男達ねぇ……清くないわ」

「仕方ないわよ、ラキに壊れられたらワタシ達も死んじゃうじゃない!」

「まぁ、わたしたちは三人で観戦してようよ~。わたし、良い感じの所しってるよ~」

 女体の人格達もまた彼等の後を追い、この広い家に残ったのは優雷と、ユウだけとなった。

「結局、こうなるんだね」

 洋紅色の瞳が微かに揺らぐ。部屋には、快晴の空から差し込む陽光が十分すぎる程に存在を主張していた。


 その時、舞明は買ったアイスを頬張誌ながらパソコンのアニメ配信サイトで絶対零度の一期を一気見していた。もう直に二期が始まるという吉報を手に入れ、今までのストーリーの復習をする為だ。

 シーンは、兄弟の二度目の再会の時。一回目の再会で闇落ちした兄にこっぴどくやられた霰だったが、再び垣間見えた兄に声を掛けるシーンだ。

『兄ちゃん――! やっと見つけた。一緒に帰ろう!』

『……それは、無理な頼みだ』

 氷河は冷たい一言を言い放ち、顔を背けると、一瞬にして姿を消す。

 推しの行動に、舞明は悶えた。

 そんな時だ、窓の外から大っぴらに、悲鳴が聞こえた。

「何事よもぉ……こっちはお楽しみ中だってのに……!」

 がらりと窓を開けて様子を見てみる。するとどうだ、真っ先に目に飛び込んで来たのは、あからさまな殺人現場だった。しかもその殺人鬼は、見知った人格だ。

「お、舞明じゃねぇか! この前ぶりだなぁ」

 目が合ってしまった。よりによって憂さ晴らし中の狂雷と、これは不味い。流石に、自分は殺されないだろうが。そう思った矢先、彼はごく自然な流れて、舞明にナイフを投げた。

「っちょ、何すんのよ! アタシまで殺すつもり?!」

 間一髪のところで避けたが、今のは見事なヘッドショットを決めていても可笑しくない軌道だった。

 おふざけにしても危なすぎる。しかし、狂雷の目は本気だった。

「ま、お前はオレが殺すべきじゃねぇわな」

「は?」

「背後に気を付けろよ。今のラキ、見境が付く程正気じゃねぇから」

 狂雷はそれだけ言い残すと、手にした死体を放り投げて道を進む。

「は……?」

 舞明は今一度、同じ音を漏らした。

 脳裏に少しだけ昔の光景が思い浮かんだ。学校の屋上で、積み重なった児童の屍を赤い瞳に映す男の姿――それは、ラキだ。

 彼が涙を流しているのを、舞明は見逃さなかった。ただ一声かけようとすると、彼はそんな舞明に笑顔を向けた。

「優雷を庇ってくれて、ありがとう。君なら、信じられる気がするよ」

 その底冷えしたような言葉は、今でも鮮明に思い出せる。

 その次の日、何事もなかったかのように振舞う学校。久しぶりに登校してきた優雷が、自分の事を「舞明ちゃん」でなく「舞明」と呼び出したのを、忘れる事はない。

 悪い予感が頭中を埋め尽くす。

「マキャー! ちょっとマキャー! 来なさい!」

 呼びかけたら来てくれそうなマスコットを呼び掛けた。しかし、当のあの白猫はやって来ず、溜息を突いたその時、机の上に一枚の紙が落ちている事に気が付いた。

 何もない紙だった。しかし、何となく勘付いて光を当てて見ると、文字が浮かぶ上がる。

 僕は手出し無用と言われているから、君達だけで頑張ってみて。きっと出来るはずだよ。マキャーミティールル・ドールキャットより。

 そんな置手紙だった。

「手出し無用って言われてるって、誰に……」

(いや、どう考えたってあの大神よ! ほんっと、ムカつく奴……っ)

 しかし、アイツは最初からそんなスタンスだった。嫌いだから手を貸してやるつもりはないが、挽回のチャンスをくれてやると言わんばかりに。

「やってやるわよ、えぇ……そもそも何回目だと思ってるのよラキの発作! 慣れっこだわっ!」

 舞明は一人気合を入れた。

 舞明と優雷はそれなりに長い付き合いだ。小三の頃、転校してきた彼女に声を掛けてから一緒に遊んでいるのだから。その間に、大なり小なり似たような事が三回起きている。一番大きかったのは小四の時、クラスの奴等が優雷の特殊能力をたまたま目にしてしまい、彼女を「化け物だ」と言いだした時だった。

 その時は、舞明は呆気にとられるだけで何も出来なかった。しかし、ラキは言ったのだ「君なら信じられる気がする」と。それは恐らく、舞明の言葉を聞いたからなのだろう。

 あの子と遊んでて大丈夫なの? あの子は人間じゃないよ。心配そうな顔をしてそんな事を言ったクラスメイト。舞明は妙にその表情が頭に来て、思わず机を叩いて立ち上がった。

「うるさい。誰とあそぶかはアタシが決めるの、アンタは口出ししないで!」

 思わず飛び出た言葉と同時に、大きく揺れた地面。そして、飛んだ目の前の彼女の首。

 それが、舞明が最初に目にした「発作」であり、一番大きかった事態。学校中を巻き込んだ憂さ晴らしは、次の日には何事も無かったかのように元通り。しばらく休んでいた優雷はひょっこりと顔を出し、普通にクラスメイトと話していた。

 やるだけやったら、ラキは――優雷の心は落ち着いていた。しかし、今回に関しては違うと、光の子としての勘が告げているのだ。

 舞明は決意して玄関から飛び出そうとした。

 ラキがどこにいるかは分からないが、優雷なら確実に家にいる。どの発作の時も、優雷は決まって現場にいなかった。きっと家に籠っていたのだろう。それなら、尋ねてみるのみだ。

 しかし、ドアに手を掛けたその時、舞明は不意に不安になった。

 優雷は、言わば人間不信に近しい所がある。直談判で乗り込んで、それでこそ逆効果ではないか? こういう時は、そっとしておく方が正解ではないだろうか。

「いぃや、そんな事知ったこっちゃないわ!」

 仮に放置が正解だとしても、舞明はこうするしか方法はないと考えていた。彼女は心理学者ではない、どうするのが一番良いかなど知らない。

 邪魔な思考は取っ払って駆けだした。彼女の家までの道は知っている、大体十分くらい歩けばつく場所だ。

 このクソ暑い中走りたくはない。しかし、今は走るしかなかった。そんな舞明の視界の端で、不意にサヨイの姿が見え、脚に急ブレーキをかける。

 サヨイは光の子として変身した姿で、飛んでくる闇を防いでいた。

「サヨイ!」

「ま、舞明ちゃん!」

 闇を辿れば、そこにいたのは闇の子なのであろう青年だ。舞明はあった事がない奴だが、こうして天使としてのサヨイと戦っているからには闇の子で間違いないだろう。

 一般的な男性と比べて長い髪をもっている彼は、舞明に気が付くとふわりと降り立つ。

「また光の子と出くわすなんて、今日の僕は運がいい。女神様に感謝しないとね」

 彼は舞明を見やると、何を思ったのか愉快そうにニコリと微笑み、手を伸ばす。

「Enchanté de vous rencontrer, jeune femme. Je suis « Lesouor Lubajar Rena Baïda Ellen» J’aimerais que vous puissiez m’appeler Ellen」

「……は?」

「vous ne savez pas ? C’est français」

 何を言われているかは全く分からない。しかし、馬鹿にされている事だけは伝わってきた。

 英語だろうか。英語だったら知っている単語の一つ出て来てくれてもいい気がするが。これは何語だ。いいや、そもそも日本人が日本人相手に外国語で話す事自体がちゃんちゃら可笑しい事だろう。どう考えたって、おちょくっているようにしか思えない。

 舞明が不愉快そうに睨み、サヨイはそんな彼女を宥めるようにまぁまぁと小さく手を動かす。そんな彼女等に彼は楽しそうに微笑んだ。

「ははっ、面白い。やっぱり、君はセーシャと同じタイプだ」

「今のはフランス語ってやつ。ちょっと自己紹介をしただけだよ。僕の名前、聞き取れた?」

 わざとらしく首を傾げて尋ねてくるが、聞き取れているのならこんな反応はしていない。

「聞き取れている訳がないでしょうがっ! 普通に名乗りなさい、日本人は日本人に話しかけるのに日本語を使うものなのよ!」

 舞明として、これはド正論だ。しかし、エレンの反応は思っていたのと違った。

「もう、お嬢さん。僕は日本人ではないよ。じゃあ何人かって訊かれると困るけど……」

「じゃあこのまま日本語で言おう。僕はレズオールバジャルレナバイダーエレン。エレンって呼んでね」

 ツッコみたい所は山ほどあった。しかし、口にするのは一つにしておこう。

「名前長いわね……アンタの親どういうセンスしてるのよ。あんま言いたくないけど」

「女神様達が僕の名付けで揉めそうになったから、全部採用したんだって。父さんが言ってた。全部繋げるのは天界じゃよくある事みたいだよ? どうせ一つ掻い摘んで呼ばれるんだから、同じ事だよ」

「寿限無みたいだね……」

 サヨイの呟いた感想に、エレンは「そうそう」と笑いながら頷いた。

 確かに、寿限無もそんな感じだったような……舞明は少ない知識からその事を思いだすが、同時にそんな場合ではない事も引き出される。

「って、アンタの名付け秘話はどうでもいいのよ! 何でこのタイミングで来ているのよ、こっちはラキの相手するのに忙しいの! あの人間不信、また発作を起こしてるの」

「だからに決まってるじゃない? 見守りがてらちょっとした協力をしているの。僕等、ラキと結構仲いいんだよ」

「僕『等』……?」

 エレンの言葉選びに突っかかった舞明がオウム返しをすると、サヨイがあっと声を上げる。

「舞明ちゃん避けて!」

 声に反応して一歩後ずさると、先程まで自分がいた場所にギロチンの刃部分のような刃物が突き刺さっていた。それは目的から外れた事を察すると、闇へと姿を戻し、持ち主の所に戻る。

「あーあ、外しちゃった。結構行けたと思ったのになぁ……」

 またもや舞明は見た事がない闇の子だ。エレンよりかは幼く見えるが、この前会ったカーチャルという奴よりかは年相応の大人に見える。

 黒い翼を広げて、ふわりと降りて来た彼は、エレンと目配せをして、二人に可愛らしく笑いかけた。

「Ciao, sono Bamal. Piacere di conoscerti, Figlio della Luce」

「日本語で!」

「あははっ。うん、ごめんね。僕はバマル。会えて嬉しいよ、光の子」

「だけど、不意打ち失敗しちゃったからもう手を引こうかな。相手が沙宵ちゃんだけなら何とかできたかもだけど……折角だけど、やめとくよ」

 バマルの視線は、はっきりと舞明に向いていた。

「うん。多分、この子セーシャと同じタイプだから、戦ったらバマル体壊すよ」

 何だろう、なぜだか若干ムカつく気がする。暴力的な女と言われているようなするような……いや、何もセーシャが暴力的な女だと言いたい訳ではないのだが。

「そうだよねぇ……残念」

「ま、次で仕留めればいいじゃない」

「また後でね、お嬢さん」

「ちょ、」

 舞明は止めに入った。会話を聞く限り、この後何度も不意打ちで襲ってくるんじゃないかと推測できたから。しかし、エレンとバマルは聞こうともしなかった。

「だから、今はラキの相手で忙しいって言ってるでしょうが!」

 舞明は聞こえないとわかって尚叫んだ。言わないと気が済まなかった。

「ね、ねえ。舞明ちゃん。その、ラキさんが、どうしたの?」

 動揺したように恐る恐る尋ねたサヨイ。それもそうだろう、彼女はつい数分前、犬の散歩の途中で彼と会ったのだ。

 犬を家に帰した途端、闇の子に襲われそのまま戦っていた。だから闇の子がいる事は知っていたが……。

「えぇ。あの男、人間不信なの」

「まぁアイツは優雷の心だから、優雷がって言った方がいいだろうけど……。ラキ、ほんっとにたまに癇癪だか発作だか起こして、憂さ晴らしで全部壊そうとするの! 今が正にそれ。しかも歴代最大規模の起こそうとしている、気がするのよ!」

 舞明は必至になっていた。そんな彼女の状況説明は、「とにかく今はヤバい!」と語彙力の欠片もない言葉で締めくくられた。

「だ、だけど、さっき会った時は……」

 そんな感じでは無かった。そう続ける前に、サヨイは一つの事を思いだす。

 犬の散歩中、普段寄らない路地裏に入った訳は、そこから強い闇を感じたからだった。何かあってからじゃ遅いと様子を見に行けば、見知った人がぐったりとしていたから、熱中症になったのだろうと思って水と塩飴をあげた。しかし、どう考えても外から感じた闇の発生源はラキだっただろう。

「まさか……」

 思い当たる節を見つけ、顔を青くする。

 あの後直ぐに舞明の言う発作が起きたのなら、引き金になったのは自分じゃないか、と。

 そんなサヨイの様子から察した舞明は、何かヒントにならないかと彼女に尋ねる。

「ラキに会ったの?」

「うん。実は……」

 サヨイはつい先ほどの事を話した。そして同時に、自分の心配も一緒に告げる。

「なぁるほどねぇ……仮にそれが要になっていたとしても、サヨイは悪くない。ただ、アイツは優しさを素直に受け取れる状態じゃなかったってだけ! だからほら、気にしない気にしない!」

「そ、そうだね! うん!」

 舞明に励まされ、サヨイは改めて状況を目に映す。

「とにかく、一回優雷ちゃんとお話してみよう。澄麗も呼んで……あ、だけど。わたし達がいたら、逆にダメかな……」

 またもや気が沈んだように目を伏せる。

 彼女の言う事は間違いない。何せ、新しい友達の存在が不安を誘っている事は間違いないのだから。しかし、ここは少し考え方を変える事にしよう。

「いいや。こうなったら、ワンチャンに賭けるのよ!」

「どうせアイツはアタシの事ですら完全には信用していないのよ。それなら、ご新規が首突っ込んだ所で同じ事! サヨイも今後優雷とつるんで行く予定なら、ラキの宥め方は覚えておいて損はないわ!」

 彼女のこれは無理矢理テンションでごり押ししている感は否めないが、この場に置いては相応しかっただろう。

「それじゃあ、澄麗を呼んで。いや、その前に、また奇襲をかけられるといけないから」

「緊急事態! とっとと来なさい!」

 舞明の呼び掛けに応じ、宝石はお呼びかとすっ飛んでくる。勢いよく突っ込んで来たそれを視事受け取り、天使の姿へと変わる。戦闘服とも言えるだろう。

 グラデーションのかかったツインテールが風に揺れた。そうしてマイミはよしと頷く。

「じゃあ、行くわよ!」

「うん!」

 乗じてサヨイも力強く口にした。

 ある時優雷は言った、「化け物と人間の友愛劇はバッドエンドで終わるものだ」と。しかし、そんなテンプレートに沿った物語、面白味にかけるだろう? 覆してやるってモンが粋なのだ。

 まぁ、マイミの好きな絶対零度はファンタジー漫画のテンプレをなぞられているが。それは言わないお約束だ。

 腹を決めた所で、二人は澄麗を探そうとした。しかし、その必要はなかったようだ。

「サヨイ、マイミ」

 既に変身を済ませたスミレが、純白の翼を広げて地に舞い降りた。

「ナイスタイミングっ!」

「緊急事態だって、伝わった。サヨイは、大丈夫だった?」

「うん、わたしは大丈夫だよ!」

 サヨイが無事である事にほんの少しの安堵の表情を浮かべると、スミレは優雷の家とは別の方向を見やる。

「闇が強いのは、あっち。だけど、こっちもあるみたい」

 彼女の示した「こっち」こそ、優雷の家の方向だった。となれば、「あっち」にいるのはラキだろうか。

 マイミも意識して感じてみる。確かにどちらからも闇を感じた。「あっち」の方面から伝わるモノは、濃く強く渦巻いている。そして「こっち」の方からは、闇自体は強くないのに底なし沼のような深さがあるように感じた。

「どうする?」

 スミレが問うて、マイミは考える。そんな時、彼女等の前に一人の男が現れた。フードのせいで一瞬誰だが分からなかったが、確かにユウだ。

 突然の登場に足を止めると、ユウは被っていたフードを脱ぎ三人に顔を見せる。

「マイミちゃん。ごめんね、迷惑かけて」

 きっと、彼の言葉は紛れもない本心なのだろう。申し訳なさそうで、そして、どこか悲しそうな表情を浮かべていた。

「ユウ。今、アタシ達がラキに話しにいって大丈夫そう?」

 マイミの問いに、ユウは小さく首を振った。

「止めた方が良い……本当は、そう言うべきなんだろう。今の状態は、本当に危ない。今回は今までの比じゃないんだ。だけど……」

「身勝手を承知でお願いしたい。ラキを、宥めてほしい」

 ユウの願いは切実で、三人に頭を下げた。

 ラキが「心の存在」であるのなら、ユウは「記憶の存在」。彼等は別の個体を持っているが、実質は一心同体だ。だからこそ分かるのだろう。今回のこれが、どれ程深刻なモノかを。そして、自分だけで消化できる問題ではないという事も。

 マイミは、彼の誠意を受け取った。

「いいわよ、元よりそのつもりだった。ラキの状況は? 今アイツはどうなってるの?」

 ユウは、直ぐにはその問いに答えなかった。

「……このボクがどれ程力を尽くしても消せなかった記憶がある。親友だと思っていた子に裏切られた記憶だ。それが、邪魔するんだ。ボク達だって疑いたくなんてない。優雷と友達でいてくれるような優しい子を嫌悪するなんて、そんな事はしたくない。だけど……無理なの」

 ユウは小さく微笑んだ。少しでも、安心させたいのだろうか。そういう所は、彼もラキと同じだった。しかし、彼の手には力が籠っていた。そこにあるのは、悔しさだったのだろうか。マイミは確かに、それを感じとった。

「ラキは、優雷の全部の心を受け止めている。だからね、たまに抑えきれなくなるんだ。つまるところ、今回もそれだよ。ただ、溜め込んでいたモノがいつも以上に多い。矛盾した心ばかりで、最早なにも見えてないんだ」

「だからもう、殴っていいよ」

 そう告げたユウは、吹っ切れたようにも見えた。

「い、いいの……?」

「うん。そうでもしないと分からないよ。アイツは、バカだから。大丈夫。優雷を殴られちゃ困るけど、その為にボク達は男の姿をしているんだからさ」

 殴ってでもいう事をきかせろと言うと昭和くさいが、今回はそうするのが早いのかもしれない。

「ま、殴るかどうかは本人を見てから決める。安心なさい、ユウ。アタシ達がどうにかしてみせるから!」

 マイミは何も濁す事なく言い切り、サヨイとスミレも頷いた。彼女等は進む先を決め、闇を強く感じる方向に走る。その背中からは、不安に感じる要素は一つもなかった。少なくとも、ユウにとってはそう見えたのだ。

 今後こそ――いいや、過度な期待は止しておこう。結局、それが苦しさを招くのだから。

「いっそのこと、全部壊せば楽だ……なんて。分からなくはないけどさ」

 ちらほらと見える血痕を踏み、主の下へと帰る。ユウはただ、事が収まる所に収まるよう願っていた。あわよくば、少しでもこの心が救われるのなら、どれ程素晴らしい事だろうか。なんて。希望は光の子に託されていた。

 そうして走る彼女等を、その天使は自身の使える主の下で眺めている。

 マキャーの心配は、確かに表に出ていた。心を潜ませる事も得意な心の天使であるが、今の彼にそんな余裕はなかったのだろう。

「心配か?」

「だって、成せる訳ないじゃないですか。あの子達は、人の子ですよ。暴走した心を治められる訳がない……それに、闇の子までいるのですよ」

「ま、確かに状況はかなりマズいが。なんだマキャー。俺の知らない間に、アイツ等に情が湧いたか?」

「……否定は、出来ないでしょうね」

 彼は、主のように人類を嫌悪している訳ではない。いい印象はあまりないが、それだけだ。だからこそ、たった三週間程でも共にいてみれば情は湧く。少なくとも、死んでほしくないと思う程には。

 そんな側近に、バイレンは少しだけ面白くなさそうな反応を見せた。

「なんだか、複雑だな。お前が人の子を大事に思うようになったら。ちょっとばかし嫉妬するぞ」

「ご心配なさらずに。どんな感情も、大神様への敬愛に勝る物はありません」

「ははっ、可愛い奴め。じゃあ、そんな可愛いお前に、一つチャンスをくれてやろう」

「……? 昇級のですか?」

 不意に告げられたチャンスの一言に、マキャーが思い当ったのはそのくらいだった。しかし、それは違ったようだ。

 頬杖を突き、彼は口角を上げる。

「マキャー。人型に戻りたくはないか?」

 その問いに、マキャーは微かに息を飲んだ。


 その頃、光の子である三人は、道中をひたすら走っていた。天使と同じ状態である為か、これ程走っても疲れる気配はない。運がいい事に、人格と出くわす事はなかった。これが偶然か必然かの判断は付かないが。

 しかし、殺したがりの人格達はどこに潜んで何を仕掛けてくるか定かではないし、闇の子であるエレンとバマルはいつ奇襲をかけてくるか分からない。警戒は怠らずにしていた。

 それは、賢明な判断だろう。

 術者の姿は見えないが、明らかに殺意を持った闇が化けながら襲ってくる。本当に、純粋に殴りに来る気はないようだ。

 今度は矢の雨だった。降り注ぐ前に感知したスミレは咄嗟に光を集め、相手の攻撃を姿の無い力に変換し宙に還す。

 そんな時、しびれを切らしたマイミは足に急ブレーキをかけ、声を上げる。

「あーもうっ! ほんっとうに奇襲しかかけないつもりなの!? 正々堂々正面切って戦いなさいよっ!」

「まぁまぁマイミちゃん、落ち着いて……」

 取り鎮めようとするサヨイに対し、マイミは憤っていた。状況も状況だ、一層もどかしかったのだろう。

 しかし、闇の子は姿を現さない。変わりにナイフが飛んで、地面に突き刺さった。

「返答のつもり、なのかな?」

「多分」

 サヨイとスミレが顔を合わせる。本当に返答のつもりならば、随分と物騒なものだ。

「だけど、わたしがずっとバリア張っているから大丈夫だよ! 先に行こう?」

「そうね。相手にしてたらキリがないわこりゃ」

 今回、敵に成り得る奴が多すぎる。相手にする奴はしっかり分けなければ、永遠に終わらないだろう。

 その為には、まず人格とはエンカウントしないようにしなければならない。ただでさえ闇の子二人が常時仕掛けてくるのだ。そのせいで度々足止めを食らっているのだから。

 しかし、人格を避けるのは案外簡単だった、何故なら彼等は感情の具現化、心の天使としての状態の今なら、近くにいる事がなんとなくわかるのだ。

 住宅街を抜け、駅のすぐ近くまで行く度に、感じる闇が強くなる。直感で察した、もう直ぐそこに、ラキがいるのだと。

 本来であれば人が集まっているはずのその場所に溢れかえっているのは、人は人でもその残骸。刺されたのであろう者もいれば、殴られたのであろう者もいる。外傷こそ一つもないモノもあれば、見るも無残なモノまでもが転がり、お世辞にも心地良いとは言えない臭いが酷く漂っている。

 こんな風景の中、一人佇んでいる男はやけに目立った。場所は離れているが、もう直ぐ傍だ。

(周りに人格の気配は感じない……今なら、行ける――!)

 一歩を踏みしめた、その瞬間だった。一際大きい植木の根本が壊れ、倒壊した。

「きゃぁ!」

 悲鳴を聞きつけ、スミレは慌てて彼女を呼びかける。

「サヨイ!」

 幸い、サヨイは驚いて尻餅をついてしまっただけで下敷きにはなっていなかった。

 闇の子か? しかし、それは間違いなく、闇の力ではなかった。

 悍ましさに身を震わせ背後を見やると、優雷に似た誰かがいた。

「アンタも……優雷の人格なの? 初めて見るけど」

 彼が口を開く前にマイミが問う。すると彼は小さく笑い飛ばして、それに答えた。

「こうして合うのは初めてだな、マイミ。俺は壊雷だ。確かに俺も、優雷から生れた『人格』だろうな」

 壊雷――その名前には聞き覚えがあった。

 唯一実態を待たない人格だ、と。かつて本人からそう聞かされた。しかし目の前の彼は一人の男の姿をしていて、他の人格と等しく優雷の兄弟だと言われても納得できる見た目をしている。

 壊雷は手の平に浮かんでいるのは、光でも闇でもない力だった。それは、紫のような、ウィスタリアの色をしている。

「わりぃな、マイミ。だが、ラキに構わないでくれ。流石の俺も、『主』の心を壊したくはないんでな」

「これは忠告だ。それでも踏み入ろうってんなら、俺はお前を破壊する」

 力が彼の合図と共に動き出し、今度は街灯を破壊した。

 彼なりの威嚇だ。堅い物質が地面に崩れる音を聞き届け、マイミは目を閉じる。そして静かに、勢いをつけて光の力を投げ飛ばした。

「それで『分かりました』って答える程、アタシは聞き分けのいい子じゃないんだよっ!」

「やれるもんならやってみなさい。アタシ達の意思は、強いわよ」

 マイミの睨みつけるかのような目に、壊雷はポカンと一驚した後、弾け出すような笑い声を上げる。

「ははっ! そうか、そう来るか! 流石『我が友』、いい度胸をしている」

「それじゃあ遠慮なく、そっちのべっぴんさんから壊してやろうか」

 力が向かった先は、サヨイだった。サヨイは自分に殺意が向けられた事を察知し、光のバリアを張る。

 壊雷は直ぐ傍まで詰めて来ていた。破壊の力が光を打ち砕き、彼女の身体をよろけさせる。

 手首を掴んだ男らしくもしなやかな手は、ギリギリと力を籠められていた。

 痛みに顔を顰める。仲間のピンチにスミレとマイミが動き出そうとする刹那、足元に浮かびあがった魔方陣が、彼女等の動きを奪った。

 しまったとマイミが視線を上に向けると、木の上に座る怨雷の姿が見える。相変わらずやる気のなさそうな表情、しかし、確実に力を操り、呪いをかけていた。

 気付けなかったと悔やむマイミ。そんな後悔も最中、壊雷は愉快そうに笑う。

「あぁ、べっぴんさんよ。その美人な顔で、さぞかし愛でられただろう……だが生憎、俺は美しいものは壊したくなる質でなっ!」

 浮かべられた破壊の力。その手がサヨイに突きつけられる直前、

「とまれっ!」

 どこか聞き覚えがあるような少年の声が制止を告げ、彼は動きを止める。

 声に反応するように、同時に呪術も解ける。再び動かせるようになった体で空を見やると、そこには天使の翼を背に浮かぶ、少年の姿があった。

 少し跳ねた栗色の髪に、天使である事を象徴する天色の瞳と宝石……それは、見知らぬ少年、のはずだ。しかし、その声と似ても似つかないはずの容姿は、見知った天使と重なった。

「アンタ、まさか……」

「心の中級天使及び大神バイレン・レザー・ユーベル様の側近、マキャーミティールル・ドールキャットだ。光の子、ここまでよくやった。今の所、妥協点ギリギリと言った所かな」

 変わらない頭に来る物言いは、彼の名乗りが嘘ではない事を示していた。しかし、考えられない。マキャーは、白猫だったはずなのだ。

「ま、マキャー? どうして、姿が変わってるの……?」

「詳しい話は後にしよう。サヨイ、スミレ、マイミ。僕が抑制できるのは人格達までなんだ」

「君達の実力を見せてみな。他人の心を統率してこそ心の天使だ。この状況を打破するのは天使でも難しいけど……君達なら、出来るだろう?」

 言いながら、虚ろに立っている心を目に映す。今下手に触れようものなら一瞬で崩れて壊れるだろう。人の子が手を出すには、些か繊細過ぎる。

 しかし、彼女等は光の子だ。

「見てなさい、マキャー。今度こそ、アンタのそのムカつく態度を改めさせてもらうわ」

「行くわよ! サヨイ、スミレ」

「うん!」

 光の子は迷い事なく突っ込んで行く。それは、些か滑稽にも見えただろう。しかし、マキャーは信じていた。この身が元の姿に戻れたのだから、間違いなくその光は紛い物ではない。

 意気揚々と立ち向かい、マイミは彼の直ぐ前に立つ。どんなにぼーっとしていても、生きた人間が視界の中に入れば意識が戻る。

「あぁ、マイミちゃんか」

 見慣れた笑みを浮かべた彼は、どうしてか生きているようには見えなかった。

「なんで、ここに来たの」

 問いかけと共に、彼の笑みが消えた。眼に宿されたその闇に、ゾッとした感覚が背筋に走る。

「来ないでよ。なんで踏み入るの? 終わったら全部元通りにするさ。前と同じように、全部無かった事にする。だから、いいだろ」

「良くない。今までアタシが首を突っ込まなかったのは、突っ込めなかったからよ」

 マイミだって、普通の女の子だ。本物の血を前にして、怖くない訳がない。今だってそうだ。しかし今は、力がある。

「作り笑いをする余裕もないのね。アンタは、アタシですら信じられないの? それなりに長い付き合いだってのに。それで一度でも、アタシが優雷を泣かせるような事した? 少なくとも覚えはないわ」

 続けられたマイミの言葉。何を話せば効果的かなんてわかりゃしない。自分は少しだけ天使に近しい女子高生、心理学者でもなければ増してや本当の心の天使でもない……だから、思い浮かんだ言葉を紡いだ。

 そんな彼女には、光があった。紛れもない光り輝く心が、ラキの目には映っている。それはまるで、彼女等が善人であると告げているかのようで、この疑心が愚かだと嗤っているかのようで――

「あぁ……本当に、酷い人達だ。いっその事、心の底から嫌える人間だったら、こんな気持ちにならずに済んだのに……」

「ねぇ、マイミちゃん。残酷な人になってよ。そうしたら、心置きなく殺せるから」

 浮かべた闇をナイフに変え、力なく微笑んだラキに、マイミは小さく息を吐いた。

「嫌よ、死にたくないもん」

「関係のない人まで殺して、それでアンタの気が晴れた事はあるの? 晴れないからアンタはいつまでもそうやって苦しんでいるんでしょ? アタシでも分かるわよ。てことは、その方法は根本的に間違ってるって事じゃない!」

 きっと、図星だったのだろう。ラキは言葉を詰まらせたまま、視線を逸らす。

「じゃあ、どうしろって言うんだ……君には分からないだろうね。どれだけ大丈夫だと言い聞かせても、次の日には何も分からなくなる。僕だって信じたい。確かに感じた友情を、疑いたくなんてない。だけどどうしても出来ないんだ、この気持ちが分かるかい?」

「君達の心は清らかだ。分かっているさ。光の子に選ばれたのが何よりの証明だろ。あの子達とは違う……分かってる。きっと、君達なら大丈夫なんだ。そんな事は分ってるんだよ!」

 悲痛な心が叫ばれた時、発生する闇が更に色濃くなり、まるで強風のように放たれ苦しみだす。強すぎた闇が、心を超え体を蝕んでいた。

 そうなれば、どこかで見ていたのであろう闇の子も静観は出来なくなったようだ。急いで姿を現しては、ラキを庇うように間に立つ。

「ラキ、大丈夫、じゃないよね? ど、どうしようエレン。こうならないように僕達もいたのに……」

 あわあわとしているバマルを片手でいなし、エレンは少しの剣幕をマイミに向けた。

「お嬢さん、言葉は選んでくれるかな。光の子ならわかっただろ、刺激したらこうなるって」

「分かってるからそうしたの! ラキ、苦しいんでしょ、だったらその闇全部出しなさい!」

 その言葉は、悶える彼に届いただろうか。どちらであろうと、彼は自分の闇を制御できる状態では無く、苦しみの要員を取り除く為その力を動かす。

 素手で襲い掛かってくるラキに正気があるようには思えなかったが、一先ずこれでいいと、マイミは身を引いた先で仲間を鼓舞する。

「ここまできたらやり遂げるわよ! アタシのしたい事、何となく分かるでしょ!」

「う、うん! わかったよ、マイミちゃん!」

「私も、付き合う」

 彼女等は三方に散り、光を嗾ける。

 闇に正気を奪われた心の化身は、背に黒い翼を生やし、光の子に飛び掛かる。それはまるで、狂った獣のようだった。そうれもそうだろう、溜め込まれた過ぎた闇は理性を食いちぎり正気を奪っていた。

「どうしよどうしよ。あんなラキ、はじめて見るよ……これ、前にローブァイト様が言ってた暴発ってやつだよね。エレン、どうするの?」

「教えられた通りなら……多分、今は下手に手出ししない方が良い」

 自身を蝕む闇が収まるまで、暴発は続く。終わるのを待つしか出来る事はない。

 しかし、本当に大丈夫なのだろうか。その闇に、終わりはあるのだろうか。エレンは宙で飛び交いラキと対峙する光の子を目に、不安を浮かべる。

「ヘルツ様に報告しよう。そうした方が絶対に良い」

「そ、そうだね! 僕行ってくるよ」

「うん、お願いねバマル」

 バマルが急いで呼びに向かうと、エレンは指先を動かし自身の闇を光へと変え、指を鳴らす。軽やかに響いた音と同時に、光の子以外の時がパッと止まる。

 意外な展開に驚きを見せる光の子。闇の子が入り込んで来る事は予想済みだったが、まさかこちらに加担してくれるとは思っていなかったのだ。

「割り込んでごめんね、お嬢さん。僕が手を貸すのはなんだけど、ラキを鎮める事が優先だ」

「ま、感謝するわ!」

 動かない的に当てるだけなら集中訓練で散々やった。百発百中とは行かずとも、それなりに上手く出来る。

 マイミは溢れる闇を掬い、変換して出来た光の弾丸を飛ばす。相手の攻撃が一時的に止んだ今、サヨイはバリアに回していた光を引っ込め、花のように散らせた。それらの光を強くするため、スミレは自身の光を加担させ、より一層闇を打ち消す要とさせる。

 光がラキを撃った後、彼は術を破り再びマイミに飛び掛かった。その闇は今だ消えず、心の中に渦巻いてばかり。赤銅色の宝石は最早黒と化し、戻る気配がない。

「ダメだ、永久機関になってる……」

 マキャーは口から言葉を漏らし、険しい表情でそれを見た。

 彼のだけではない、殺された人間達の恐怖から生じた闇やこの場に溜まっていた人々の小さな闇達を、たった一つの心が意地になったかのように全てを受け止めていた。そうして心は人々の闇に同調し、自身を苦しめる。そうなるだろう。彼は、たった一人の少女が持つ、一つの「心」でしかない。

 しかし、その瞬間、場に満ちていた闇が一瞬にして全て無くなり、マキャーははっと顔を上げる。

 闇が集まり、ほんの数秒でそれは黒い玉へ化し神の手に落ちた。静かにそれを受け止め、その神は目を開く。

 悪魔を意味する赤い瞳。しかし、光の子はその彼が「神」であると、直感的に理解した。

「ラキ。その心、俺に開け渡せ」

 神は、今だ闇に苛まれるラキに手を差し伸べ、その次に強引にその手を取る。繋がったそこから流れた闇は神の中へ渡され、力の抜けた彼をそのまま受け止め地に降りた。

「バマル、エレン。よくやった。ラキはもうしばらくは大丈夫だ、直に目が覚めるだろう」

「ありがとうございます、ヘルツ様」

 ヘルツと呼ばれたその神は、光の子の見知った大神と瓜二つレベルで似ていた。

 彼は、その場で控えるマキャーに歩み寄る。

「任務ご苦労。すまないな、今回のは完全に俺の監督不行きだ」

「滅相もございません。今回の件は、大神様も光の子を試すのに丁度良いと申しておりましたので」

 頭を下げたまま返すと、ヘルツは少しだけ怪訝そうな顔を見せた。

「親父の奴人の所有物をなんだと思って……まぁいい。顔を上げろ。俺はお前の主じゃない」

「闇の神になられようと、貴方は大神様のご子息であり、僕等の使えるべき主です。ヘルツ様」

「ま、好きにしろ。帰るぞ」

 彼は光の子を一瞥したが、三人に対しては何も言わず、闇の子を引き連れて帰って行った。

 完全に姿が見えなくなった後、マキャーは光の子を招く。

 ひょいひょいと手で招かれ、三人は顔を合わせてからそれに応える。彼女等が若干渋ったのは、お説教が目に見えていたからだ。

「とりあえず……マイミ! 君、どんな無茶をしたか分かっているのかい!? わざと暴発させて闇を発散させようだなんて、やっていい事と悪い事がある!」

 案の定、マキャーは目を見開いてマイミを叱りつけた。

「だけど、手っ取り早いじゃない」

「手っ取り早いよ確かに! 下手に言葉で宥めるより効果はある。だけどそれは全て上手く行った場合はだ! 君達は未熟な天使なんだ、最低でも上級くらいの実力がないと万が一の対処出来ないんだぞ!」

 一頻り叱った後、マキャーはふうと一息突いた後に表情を緩める。

「だけど、まぁその方法が思いついた事は褒めてあげよう。君達、よくやってみせた」

「まぁ、最終的に収めたのは、ヘルツさんだったけどね……」

「ラキの闇は積年性だ。溢れ出させたら最後、君達がどれ程尽くしても終わらなかっただろう。だから、ヘルツ様に任せるのが正解だったんだよ。そもそもこういった場合、闇の子が取った行動の方が本来は正しいんだ。分かる?」

「大神様は君達を試すためにわざと放っていたけど、そうしてもヘルツ様に良い事は無いからね」

 その辺りの神様事情は説明されても分からない。しかし、結果良い方向に進んだのならそれでいいと、そう思えた。

 それよりも、一つ文句を言わなければ気が済まない。試すとかそんな上から目線に、本当にムカつく。そんな苦情をマイミが口にするより先きに、マキャーは目を細めて告げた。

「安心しな。今回の試験は、合格のようだ」

 マキャーは空から飛んで来た光の鳥に手を添える。すると、鳥は形を変え、その場にバイレンの姿を映し出した。

『よぉ、光の子。ご苦労だったな、いいモノ見せてもらったぞ』

 現れたバイレンは、愉快気に笑ってそう告げた。その顔立ちは、改めて見てもヘルツと似ている。

『過去の傷が痛み、信じたいのに信じられないと嘆く者にどれだけ「私は大丈夫」だとか「私を信じろ」と訴えた所で余計闇を掻き立てるだけだ。となれば、一番効果的な方法は強制的に闇を吐かせる事だ。暴発させれば闇は勝手に解き放たれるからな。上手い事やれば確実に闇を取っ払える。ま、本来これは、闇も光も操れる心の管理者だから出来る事で、人の子が真似すれば心が壊れる事待ったなしだがな』

『お前等がやるには、リスクが高すぎる手法だ。今の状態では、失敗が目に見えたような作戦だな。だが、お前等はいずれ成せるようになるだろう。中々良い筋だったぞ、光の子よ』

 珍しく、彼は人の子を褒めた。完全には成せなかったと言うのにと、マイミは不思議に思った。しかし、それでいいと言われるのなら、良いかとも思う。

 最後に数回手を打ち、彼を写し取っていた光が消える。それを見送ると、マキャーは続けて祝福の言葉を口にした。

「という訳だ。おめでとう」

 心なしかマキャーのその笑顔が柔らかいように見えたのは、気のせいだっただろうか。ただ単に、人と同じ形をしている分表情が解りやすくなっただけかもしれない。

 そうして事を終え、次の日に街には再び命が戻り、全てが元通りになっていた。

「なぁんか、実感が湧かない。あれだけ大きな事があったはずなのに」

 公園の木陰、ベンチに座った舞明はお茶を片手に足をなげうった。

「ねー。何事もなかったみたいで、夢だったんじゃないかって思っちゃうよ」

「うん」

 澄麗も頷き、時計を見る。時間は朝の八時。彼女等は、本当に元通りになっているのかの調査もかねて朝の比較的涼しい内に辺りを回っていたのだ。

 あれ程血と死体に溢れホラーゲームさながらだった住宅街の道は、いつもと同じく出社する社会人たちを見送り、顔を出した太陽が残酷なまでの暑さを地上に齎しはじめていた。どこでも見かける日本の夏だ。

 暑くもなってきた事だ、早々に帰ってしまおう。舞明がそう決め立ち上がろうとした、そんな時、

「やぁやぁ、奇遇だね」

 ベンチの後ろに、優雷がひょっこりと顔を出した。

「優雷! アンタいつの間に」

「ついさっきね。歩いてたらたまたま、君達のぼーっとしている背中を見つけたもんで。何、三人そろって。散歩?」

「ま、まぁそんな所かな。優雷ちゃんも、お散歩?」

 沙宵の言葉が少しだけたじろいだのは、仕方のない事だろう。何せ、彼女の闇を知ったのは昨日の今日の事だ。

「うん、そんなところ」

「……昨日は、ごめんね」

「え……」

 思ってもいなかった謝罪に、澄麗がその一文字を溢す。振り向けば、後ろめたそうに目を伏せた優雷がいた。

「ま、もうしばらくはあそこまでのはないと思う。人格達も、昨日散々殺してスッキリしていたから。それに、ラキくんもね」

「それで、お詫びと言っては何だけど、見せたいモノがあるんだ」

 優雷はそう言うと、公園の広い所に立ち、足元に陣を展開する。その力は、輝くブロンズ色をしていた。

「さぁ、おいで!」

 大きく手を上げ合図を出し、広がった陣から飛び出したのは、赤い鱗を持つ一匹の巨竜だった。

 竜は上空を一周回り、優雷の下に降り立つ。

「舞明。沙宵。澄麗。君達は友達だから、特別だよ」

 その時の優雷の笑みが、三人には無垢な子どものように見えていた。


 同じ頃、狭間の世界。布団にくるまったまま一向に出て来ないラキを、バマルとエレンが数分前からずっと呼びかけ続けていた。

「ラキー? 大丈夫だから出て来てよ、なんも恥ずかしい事じゃないよー! もう朝ごはんの時間だし、出て来てよー」

「うん、起きた方が良いと思うけど。ラキ、その気はない?」

「……ボクはね、構造上食べなくても生きられるんだ。そもそも、元はと言えば生物じゃないからね。だから大丈夫、僕の分はマタール辺りが食べてくれるはずさ」

 布団から手だけを出し、そんな事を言う。だから大丈夫と言いたいのだろうが、エレンが伝えたいのはそういう事ではない。

「そういう問題じゃなくて、多分このまま出て来ないとローブァイト様が」

 その時、扉を開けられる。ノックをしなかったと言う事は、これはヘルツの方だろう。その予想は正しく、そこに立っているのはヘルツだった。

「あ、やっぱりヘルツ様の方でしたか」

「なんだその言い方は……おいラキ、起きろ。考えている事は分る、分かった上で言う。んな事どうでもいいからとっとと起きろ」

 盛り上がった布団に向かって言いつけると、ふくらみがもぞっと動く。迷っているようだが、出てくる気配はない。

「命令だと言ったら?」

「うぅ……分かりましたよ……」

 渋々布団から起き上がり、痛む頭を抱える。寝すぎか、もしくは昨日の後遺症か。この場合どちらもあるような気がする。

「それでいい。何、昨日の事は気にするな。溜め込むのはよくねぇ、自分で吐き出せないってのなら促してやるのが俺の役目ってモンだ」

 ぽんぽんと頭を撫でる。今の彼からは闇を感じないが、変わりに振り切った羞恥があった。例えるならそう、夜中に呟いた病みポエムを親に見られたような、そんな気持ちだ。それが伝わらない訳がなく、その可愛らしさにヘルツは微笑んだ。

「そんな、ボクが幼児みたいに……」

「幼児みたいなもんだろ、お前は」

 何食わぬ顔でさらりと言われ、ラキは言葉を詰まらす。

「なっ……ヘルツ様! いくらなんでも幼児扱いは不服です! 優雷は十七歳ですよ!」

 と、三桁生きている神からすれば十七歳というのは幼いのだろうが。現役高校生の心としては見過ごせなかったのだろう。そんな彼をヘルツは笑いながら軽くいなし、

「あー、ラキって最年少だっけ? 一番身長高いのに。だけど身長は自由に操れるのか」

「バマル、それは言わないの。ラキ、案外気にしてるみたいだから」

 真後ろで見ていた二人が、小さな声でそんな会話をしていた。

 そんな最中、誰もいない最奥の部屋では、透明器の中で闇が揺らいでいた。

 昨日の一件で蓄えられた闇は大きく増え、器の九割以上が満たされている。

 一時間後、ヘルツは巨大な器に手を添える。

「あと少しだ……昨日の件は予想外の事故だったが、お陰で闇が大量に集まった」

 その声には隠し切れない喜びがあった。待ちに待った完成が、もう目の前まで来ている。

 そんなヘルツの言葉を耳に、ローブァイトは感慨深げに顔を緩める。

「そうか、もうそんな所まで行ったんだな。ははっ、長かったような、早かったような」

「ようやっとマリスと会えるんだ。ここまで来て邪魔されてたまるか……」

 添えられた手を握り、体の横に落とす。

 振り返った「主」を目に、ローブァイトは跪く。今目の前に立っているヘルツは、神としての彼であったからだ。

「ローブァイト。光の子を殺せ、これは命令だ。分ってるな?」

「承知しました、ヘルツ様」

 この慣れた闇の者としての体も、全ては愛する者を取り戻す為。彼等は同じ人を想い、満ちた闇を見据えていた。

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