麗かに澄む桔梗

 本来であれば、澄麗はこんな如何にも面倒事には首を突っ込まないだろう。例え「大神」を名乗る者に煽られようとだ。しかし、

「そうか。残念だ。柏木沙宵って奴は、快く引き受けてくれたんだがな」

 向い合せのソファーで足を組んだ彼が告げた言葉だけは、私の知った事ではないで聞き逃せなかった。

 沙宵は、優しいから。つけ入られるだろう。きっとこの大神とやらは、そこを利用したのだ。

 だから、柄にもなく面倒事を被ったのだ。

 しかし、こんな事になるとは。少々考えていなかった。

 今見える空は異様に澄んでいて、足元には短く整備された草地が広がっている。しかし、道がない訳ではなく少し向こうにどこに続くかは分からない石畳の道が見える。ここは、マキャー曰く天界と下界の間に存在する空間。集中訓練は天界共通でこの場所で行われると決まっているようだが、澄麗の知った事ではない。

「皆、揃ったっキュね。これまで大分時間がかかったっキュが……今日を持って、集中訓練を開始するっキュ! 心して掛かる事」

 マキャーの気合は十分だ。集中訓練、その文字だけでも如何にも体育会系で嫌になって来る。舞明と違って澄麗は顔にこそ出さなかったが。そう思っていた。しかし、顔に出ようと出まいと、その心は間違いなくマキャーに伝わる。

「気乗りしないのは分かるっキュ。僕も集中訓練は苦手だった……だけど、仕方ないだろ。はっきり言って、君達は訓練学校に入る前の子天使のレベルっキュ。それをこの三・四週間以内にせめて中級間際の初級天使くらいにまでしないといけないんだから、こうするしかないの!」

 とにかく、今は急を要するのだ。何せ期間は一か月とされている。契約時に説明された状況と繋げて察するに、大神の息子が発動しようとしている「禁術」とやらが発動出来る用になる目安がその辺りなのだろう。

「なぁんでもっと余裕持って話持ち出してくれなかったのよ……こうなったらもうやるけど」

「そ、そうだね! 皆でがんばろ!」

 沙宵が皆を励ましで、頑張ろうと思える。可愛い子の応援というのは偉大なモノだ、なんて。舞明はそう思いながら、腹を括る事を決める。

 しかしどうも、この猫に教師が出来るイメージがない。

「キュー。それでは、始めるっキュ! とは言え、残念ながら僕は君達を指南するには実力不足っキュ。だから、講師をお呼びしたっキュ」

 別で講師を用意したようだ。知り合いの天使とか呼んで来たのだろう。そいつは言葉で挑発してくるような奴じゃないといいのだが……。まさかこんな所であの大神が出てきたりはしないだろうし。

「じゃあ、宜しくお願い致します。ローブァイト様」

 マキャーは、どこかで待機しているのであろう講師に声を掛ける。

 沙宵と澄麗からすれば、そこで何か不思議に思う所はなかっただろう。しかし、舞明は知っている。ロクに会話はしてないが、会った事ならあるから。

「……は?」

 舞明が漏らした疑問符を他所に、呼ばれた彼が光の子の前に現れる。

 赤い瞳。まずこの時点で、天使ではない事は分るだろう。その事を知らずとも、澄麗は雰囲気で大体の事を察した。

「あぁ。まずは、おはようと言った方がいいか。マキャー。それと、光の子よ」

「今はヘルツ様の側近をしている、ローブァイト・クライムだ。今回、この集中訓練でお前等の講師をさせてもらう。よろしく頼むぞ」

 その時点で、誰もがこれからの訓練が異様か解っただろう。

 舞明は色々言いたい事があった。例えば、よくある魔法少女モノのアニメで、敵の幹部が魔法少女を指導する展開というのは中々ないだろう。もしかしたら、どっかではあったかもしれないが。

「そういう訳っキュ。ローブァイト様、この子達の事、よろしくお願いいたします」

「あぁ。後は俺がやっておく、お前は一旦大神様の所に戻るといい。報告事項も溜まっているだろう?」

「えぇ、おっしゃる通りです。それでは、任せました」

 まさかこの猫、帰ろうとしているのか。この状況で、置いていくつもりかと。

「ちょ、マキャーまっ――」

 舞明の訴えは届かず、マキャーは一瞬で姿を消した。その傍らでは、澄麗も何か言いたい事がありそうな雰囲気を醸し出していた。

「説明が必要か?」

「必要」

 ローブァイトが問うと、澄麗は即座にそれに返す。

「天界の規則では講師を正式に務める者は上級以上である事が定められている。中級者が認められているのは補佐教員までだ。今回の集中訓練は大神様の許可を得た、定義上公的な物となっている。よってマキャーは講師をする資格を満たしていない。彼がやらないのはだからだ」

 違う、そうじゃない。それを伝えたのは、優雷だった。

「ローブァイト様。多分こいつ等が説明してほしい部分はそこじゃないですよー」

「ああ。何故ヘルツの側近である俺が、光の子であるお前等を指導するかの部分か」

 彼の中で二択だったようだ。言うと、その通りだと言う意味で澄麗が頷いた。

「告げておくが、術は完成間際だ。その間にお前等にヘルツの相手を出来る程の実力を付けてもらうには、俺が指導するのが手っ取り早いと判断した。マキャーもその考えあって、俺を誘ったのだろうな」

「ヘルツには何も言ってないが、まぁ普通にバレているだろう。アイツが何も言わないのなら、黙認したと取って良い。だからこちらとしても何ら問題はない。どうだ? 他に質問は」

 一番疑問に思っているようだった澄麗も、何となく理解してくれたのだろう。特段何も言わず、舞明は「だいじょぶでーす」とやる気があるとは思えない返答をする。沙宵も言いたい事はないようだ。

 それならと、優雷が手を上げ発言する。

「はいはーい! ローブァイト様。ローブァイト様は悪魔のままなんですかー?」

「優雷、その質問は今関係な……くはないか。安心しろ、光も闇も本質は同じだ。この俺でも教えるのに差支えはない」

 答えて、質問者を見る。するとどうだ、彼女はどことなく不満気だ。

「なぜ不満そうなんだ。俺の目の色が変わるだけだぞ。一応服も変わるっちゃ変わるが……」

「まぁいいです。見る機会はいつか来るでしょうし。始めちゃってください」

「色々気になるが。まぁ、いいだろう。では、これより訓練を行う。これまでのお前等の戦い方は多少見ていたが、今一度ここで見せてもらおう」

 優雷の言った内容は完全に置くそうだ。ローブァイトはそのままの訓練を開始させた。

「とりあえず簡単に、俺に嗾けてみろ」

 そして、開始早々これだ。

「やっぱりすっごい体育会系っ!」

 舞明が抑えきれず言うと、沙宵も「そうだねぇ」と苦笑いを浮かべる。

 とりあえずやってみろは、体育会系のそれだ。舞明は好かない。とは言え、座学であーだこーだ説明されても分かるもんでもないから、結局それがいいのかもしれない。

 そんな中で唯一優雷はノリノリで、

「じゃあ、やらせていただきますよ~!」

 変身もしないまま飛び掛かろうとした。

「待て優雷! 使うのは光だけだ、それ以外は無しだ」

「えぇー!」

 案の定言われ、優雷はわざとらしくも残念がるような表情を浮かべる。

「えぇーじゃない! 当たり前だろ」

「はぁい。ちなみに人格は」

「なし」

 即答も即答だ。逆になんでアリだと言われると思ったのだろうか。いや、彼女の場合は無しと言われる事を知っていてわざと問うたのだろうが。

 優雷が手を軽く動かすと、それに応えるように宝石が飛んでくる。三人も変身しない事には話が始まらない為、宝石を呼びだしその手に取る。

「なるほど。確かに、光だな……」

 天使と同じ状態に化けた光の子を目に、ぽつりと呟く。

 次の瞬間、四人がそれぞれの光を術として投げかけ、ローブァイトは直ぐさまそれを手で弾く。

「良い感じだ。このまま一先ず十分だ、やり続けろ」

 その宣言通り、それから十分間、光の子は休まず戦い続ける。攻め具合や一発ごとの光の強さは四人ともまちまちだが、一つ言える事がある。

「時間だ」

 ローブァイトが告げると同時に、四人は攻撃の手を止める。皆、かなり疲れたようだ。まぁ、ユウライはそうではなさそうだが。

 マイミ疲れで地面に勢いよく座り、涼しい顔で立つ彼を見る。

「んで、今ので何か分かったの?」

「あぁ。十分理解した。講評に移ろう」

「まずマイミ。威力は、まぁ悪くはない。ただそれはお前の力の配分が悪いから起こっている事だ。実際、後半お前はかなり失速していただろ? まずは、自分の力量を覚えろ。どうせ勢いで嗾けるなら、一発で仕留められる程のモノを出せ。だが、この場においてあまりお勧めできる方法ではないからな。配分を考えて、その中で尽くせる全力でやりなさい」

「とまぁ、そうは言ったが恐らくお前には難しいだろう。だから、お前に必要なのは場数だ。体で覚えろ。お前のような奴にはそれが一番手っ取り早くて良い」

 間接的に頭が悪いと言われたような気がしたマイミだったが、直接そうとは言われた訳じゃないから何も言わず、素直に頷いた。

「次はサヨイだ。お前は……優しすぎる。元より光が戦闘向きではないが、これは珍しい事ではない。天使だって皆戦闘が得意という訳ではないからな。お前は以前にレチャーの闇から心を通じて記憶を覗いたらしいじゃないか。そもそも、素質がそっちの方面なんだろうよ。だから、どちらかと言えば前に出ない方が良い。出来れば後方で支援に回れ。他人の闇に共感でき、涙を流せる程に優しい奴は……必ずどこかで死ぬ羽目になる。相手に敵意や殺意しかない場合、命取りだ」

「どうしても自分が前に出ないといけない状況になったら、自分の光で相手を救うんだと思え。光の質自体は一番良かったぞ。最も天使に近しい魂だろう」

「あ、ありがとうございます」

 これでサヨイへの講評も以上のようだ。

 ローブァイトは一息を入れた後、スミレに視線を向け少しだけ考える。

「スミレだな。お前は、潔いな。威力も質も、お前が人の子であるという事を配慮すれば中々良いと言える。ただ、お前……面倒くさがっただろ」

 ズバリ言われたスミレは、表情一つ変えずにそっと目を逸らす。

 面倒くさがったと言うのは、間違いではない。スミレは、基本的に体を動かしたくないのだ。体育の授業でだって、本気でやっていない。やった所で運動神経は良くないのだから。

「本番でもないのに本気は出したくないのは分かるぞ。全力を出すのは疲れるからな。俺も子どもの頃はちょっと思ってた、練習は手抜いてやってもいっかって。だけどな、手抜きは普通にバレるモンだぞ。実際、俺もバレた。そして普通に怒られた。『将来神の側近なる者がこんな所で手を抜いているようじゃいけませんよ』って……自慢ではないが、俺も優等生と呼ばれる部類だった。お前もそうだろ? 若干、本当に若干、プライドが傷付くからな。これ注意されるの」

「練習まで本気の本気を出せとは言わない。ただ、手を抜くな。普通にやればそれでいい」

 スミレに対しては、アドバイスの方面が違うようだ。しかし、言い方からなんとなくそれが切実に伝えたい事なのだと分かる。

 確かに、手を抜いた事がバレて叱られるのは、「優等生」からすればかなりプライドに来るだろう。

 スミレは一見無のままだったが、その事を思い浮かべると若干嫌な感じがして、分かる人にしか分からない程度に顔を顰めていた。

「それでそれで、ローブァイト様。うちはどうでした?」

「あぁ、そうだな。お前はな……」

「俺から言う事はない。ただまぁ、間違っても暴走するなよ。お前の心は、些か複雑過ぎる」

「ははっ、大丈夫ですよぉ!」

「……まぁ、ヘルツが面倒見てるから大丈夫か」

 本当に、安心できるかは要審議だが。

「疲れただろう。一旦休憩としようか。十五分後に再開する、しっかり休むように」

 そう告げると、彼は一瞬にして姿を消す。

 どっと疲れが来た光の子達は、いつの間にか用意されていたベンチに座り、一休憩とした。

「ユウライ、アンタは全然疲れてないの?」

「んー、まぁそこそこかな。うちちょっとそこら散歩してくるから、君達で休んでいるといいよ」

 ユウライが一番動いていたはずだが、彼女は全く疲れているようには見えない。座る三人を背に、石畳の道が向かう先に沿って歩く。

「ユウライちゃんって、結構体力あるんだねぇ……わたしはもうヘトヘトだよ」

「アイツはねぇ……まぁ、なんか色々よく分からないのよ」

 サヨイとしては純粋に褒めた訳だが、マイミは頬杖を付きながら含みがあるように口にする。

 しかし、実際そうとしか言えないのだ。もし彼女を一文字で表せと言われたら、真っ先に思い浮かぶのは「謎」になるだろう。

 それから、適当な事を駄弁る三人。喋っているのは主にマイミとサヨイで、スミレは黙々と水を飲みながら耳を傾けている。

「絶対零度ってマンガ! めちゃおススメ! アニメも結構出来が良くてね――」

 サヨイは、マイミの語りをよく聞いてくれた。話しているうちに十分は過ぎ、ローブァイトが戻って来る。

「お前等、時間になったぞ。……って、ユウライはどうした?」

「どっか行った」

 答えたスミレは、彼女が歩いて行った道の先を見る。この先がどこに続いているかは分からないが、恐らく直ぐには戻って来ないだろう。

「なるほど……まぁアイツはいいか。集合しろ、訓練を再開する」

 ローブァイトの号令で、訓練は再会された。その間、ユウライは全く姿を見せなかった。

 それからは一時間区切りで十分の休憩を挟み、昼頃にご飯の為の一時間程の休憩が入った。

 用意されたお弁当を食べ、午後に使う英気を養う。元気が復活した所で午後は更なる訓練を行い、夕方になる頃には皆してバテバテだった。

「四時になったな。ご苦労だ光の子。ヘルツには到底敵わないが、良くなったと思うぞ。人の子であるお前等が俺についてこれたという事だけ、称賛に値するだろう」

「また明日会おう。遅れるなよ」

 挨拶を終えると、ローブァイトは直ぐに帰っていった、それと同時に入れ替わりでマキャーが飛んでくる。

「キュー。お疲れ様っキュー、その様子だと、頑張ってくれたみたいだね」

「じゃあ、君達に泊ってもらうホテルまで案内するっキュ。ちょっと眩暈がするかもだから、目瞑るっキュよ」

 言われた通り、目を瞑る。ここに来る際も使われた、所謂瞬間移動の類いの術だ。

 前もって説明が合った通り、集中訓練と言うのは泊まり込みで行われるモノだ。当然、光の子である四人もこの場所に用意されている宿泊施設に泊る事になっている。

 保護者にはユウライの伝手で北海道に一週間の長めの旅行をすると説明されているようだ。それだったら本当に北海道旅行に行きたかった、なんて。そう思っている事は内緒、にしたところでマキャーには伝わっているだろうが。

 マキャーの術で一瞬にして連れて来られたホテル。それを目にした途端、普段は無表情に等しい澄麗の目が微かに見開かれ、サヨイは感嘆の声を漏らした。

 それは、彼女達の思っていた数倍も豪勢なホテルだったのだ。修学旅行で行くようなそのレベルの物を想定していたのだが、そこには外見から伝わる高級感があった。

「すっご……え、これマジで?」

「キュー。集中訓練は厳しい物っキュからね、生徒達の気持ちを少しでも良くする為に、ここの宿泊の施設は天界で一番いいと言っても過言じゃないモノになってるんっキュ」

 マイミから漏れた疑問符に、マキャーはこくりと頷いて答える。

 このホテルは、集中訓練が無い時は一般開放もされているがお値段はお察しの通り。集中訓練の期間、生徒はこの中の施設を無料で使える為、厳しい訓練も楽しい思い出に出来るようになっているのだ。

「食事の時間とかは部屋に開いてある案内をよく見て、間違えないように気を付ける事。大浴場もあるから、四人でゆっくり入ると良いっキュよ」

「施設内の物は全部勝手に使ってくれて構わないっキュが、夜更かしはしないようにね。明日困るのは君達っキュから。それじゃあ、中に入るキュー。しっかりついて来てね」

 マキャーについて行って、無駄に大きな自動ドアを通る。そうして真っ先に目に飛び込んだのは、天井にある巨大なシャンデリアと、そして、

「っ――ドールキャット様! 丁度よい所にっ」

 マキャーの事を苗字に様付けで呼び、駆け寄ってきた少年天使だった。

「ど、どうした? 何かあったのか?」

「あの暴れ娘をどうにかしてくださいっ!」

 少年が必死の形相で叫ぶその声に答えるように、大理石の床に二つの影が勢いよく足を付ける。

「おいおい、聞き逃せねぇなその『暴れ娘』ってのはよぉ。てか、オレ等は男だ!」

「そーだそーだ! 主が女だからってその人格が全員女だって思わないぜほしいぜ!」

 マイミは、彼等を知っていた。あの不思議ちゃん優雷の中に存在する人格――その内の正しく問題児である、狂雷と陽雷だ。顔つきはどことなく優雷に似ている、が、本人が言う通りこいつ等は男体である。男性版優雷と言った訳だ。

「あぁ、なるほど……優雷!」

 状況を察したマキャーは溜息を突き、どこかでにやけているのであろう優雷を呼ぶ。

「はぁい、何でしょうか? ドールキャット様」

 優雷は吹き抜けの中、二階にあるキャットウォークとも呼ばれる廊下の手すりの部分に座り、頬杖を付いていた。

「人格の面倒は自分で見て、僕の後輩困らせないでよ」

「ははっ。ごめんねぇ、ここに来てからうちの人格達が遊びたがって仕方なくて。訓練の時に出してやれれば良かったんだけど、ローブァイト様に人格はダメって言われちゃったからさ。ここにいた天使くんに相手してもらってたの」

「そうなんですよ! この娘ったら、まだ訓練時間だというのにやって来て、いきなり僕にコイツ等の相手をしろとか言うんです! 僕仕事中だったのに!」

「まぁ、仕方ないね。とりあえず続きは僕が面倒見るから、休んで来な。昼頃から動きっぱなしだったんでしょ?」

「ドールキャット様ぁ……ありがとうございます! では、後はよろしくお願いします!」

 少年天使はマキャーに礼を言うと間髪入れずに去っていく。余程疲れていたのだろう。そんな彼の後に、物理的な高みの見物をしていた優雷はそこから飛び降りて着地する。

「っと……狂、陽。遊びはここまで、皆帰って来ちゃったからね」

「はぁい」

 あまり気は乗っていなさそうだが、主の言う事は素直に聞くようだ。二人で同時に返答をすると、大人しく彼女の中に戻る。

「よっ、舞明。訓練お疲れー」

「お疲れー、じゃないのよ! なんでアンタは途中で抜けてるのよ」

「だから言ったでしょ? 中途半端にうちだけ戦ったせいで、狂と陽のフラストレーションが溜まってたんよ。施設の管理の天使いるはずだから、相手してもらおうって思って」

 そんなふざけた事を言ってころころと笑う。それが抜けて良い理由にはならないだろとスミレが内心舌打ちをするが、表には一切出さない。

「やだなぁもう。べっぴんさん、そんな怒らないでよ。サボりたかったのは分かるけどさ」

「……」

 知ってか知らずしてか、澄麗に笑いかけた優雷。二人の間に妙な空気が流れたが、それはマキャーの手を叩く音に遮られた。

「はい、そこまで。とりあえず、部屋を案内するっキュ。皆三階の部屋を使ってね、舞明が一号室、沙宵が二号室、澄麗が三号室、優雷が四号室だから。オートロックだから、部屋の外に出る時はカードを忘れないように。毎年一人はいるから、そういう子」

 オートロックあるあるは天使の中でも健在のようだ。

「マキャーやってそぉー」

「失礼なっ、なんの印象だよそれ! まぁ確かに、一年生の時はやったけど……」

 舞明はここぞとばかりに彼をいじってみたが、やはりマキャーもやった事があるようだ。かく言う舞明も、言われなければやらかしていただろうが。

 そんな会話をしながらも部屋のある三階までエレベーターで上がり、澄麗は皆と別れて部屋に入る。

 一人で使うにしては広いベッドに、充実した室内設備。小さめな冷蔵庫もある。それを確認した後、マキャーの言われた案内の紙に目を通した。

 夕食までまだ小一時間ほど時間がある、お風呂は後でゆっくり大浴場に行くにして、汗を流す為にシャワーだけ浴びる事にした。

 部屋に備え付けられたバスルームには、広めの湯船も設けられている。大勢で風呂に入る事に抵抗のある者への配慮だろう。ユニットバスではない事がとても嬉しい。こんな如何にも高級そうなホテルがそれだったら、ガッカリも良い所だ。

 シャワーでさっと汗を流し、後は部屋で音楽でも聴く事にする。

 静かな旋律のクラシック音楽は、正に心落ち着く音と言えよう。

 まるで水の中、心地の良い静寂だ――

「っと、お邪魔しますぜぇー」

 静寂、だったはずなのだが。

 閉められていたはずの窓から、誰かが乗り込んで来た。視線を向ければ、そこには見覚えのない男、もっと言えば、黒い翼を背から生やした「悪魔」がいた。

 何故澄麗が彼を悪魔だと分かったのかと言えば、一目瞭然だからだ。天使の真っ白な翼とは対照的な黒い翼に、赤い目と胸元に飾られた同じ色の宝石。悪魔でなければ何だと言う? それに、彼女も分かるようになっていたのだ。闇というのが、どう感じる力なのかを。

「おっ、お前が光の子か! ははっ、見に来て正解だった。いいモン見れたぜ」

「俺は黒星(こくせい)、上級悪魔だ。つっても人の子に上級も初級もわからねぇか。それなりにつえぇ悪魔だって思えばいい」

 勝手に部屋に上がり込んで来たと思えば、勝手にベッドに腰を下ろす。

 澄麗のどう見たって良く思っていない視線に気が付いたのか、黒星はわざとらしく肩をすくめて笑う。

「おいおい、そんな睨むなよ。何も悪魔だからって悪い事するわけじゃねぇんだぜ? 悪魔も天使も、元を辿ればアーテル様の創り出した使者だ。持ってる力が闇か光か、主がデアル様かアーテル様かってだけでよ。だから、そう警戒すんな」

「誰」

 たった一言だが、疑問を伝えるには十分だ。人物を示すであろう固有名詞は二つしか出て来ていないのだから。

「人の子って、んな事も知らねぇのか……」

「彼等は二人まとめてこの地球の星神だ。簡単に言えば、星そのものを象徴する神のこった。アーテル様は光と天界を、デアル様は闇と魔界の統治者って所だな。ま、神の中で一番偉いって覚えればいい」

 呆れつつも、しっかり教えてくれる辺り、彼は優しい奴なのだろう。しかし、どう足掻いても上から目線気味なのが癪だ。あの大神もそうだが、普通人と話す時、目線は対等にするものではないか。偉いからって調子乗りやがって、畜生が。

 そんな内心の澄麗を知ってか、黒星は笑う。それは正しく、悪魔のような悪い兄ちゃんの笑みであった。

「ほんじゃ、訓練ガンバレよ~」

 彼は何しに来たのだろうか。それ以上得に何もせず、同じ窓から飛んでいく。

「なんだったの……」

 囁いた言葉に答える声はなく、部屋にはクラッシック音楽の管楽器の音だけがあった。

 実の所その黒星という悪魔は、ただ単に暇つぶし来ただけなのだが。舞明の家ではしょっちゅうそれらが顔を出しては直ぐに帰って行っているが、それを知る由もない澄麗は、ただ怪訝に思っていた。

 そんな事がありつつも、少しゆっくりしているとあっという間に夕食の時間間際になった為、併設されたレストランに向かう。

 入口付近には、長い髪をしっかりと結んだ女の天使が立っていた。その奥に広がっている広々とした空間の、直ぐ視界に入ってくる円卓に沙宵が座っている。

「お疲れ様です、光の子よ。どうぞ、あちらのお席に」

 天使に手でえ示された席は、沙宵がいる円卓と同じ場所だ。澄麗は「はい」と一つ頷くと、親友のいるその机に付く。

「あ、澄麗。はいこれ、ディナーのお品書きだって。ディナーはフルコースだって!」

 シャワーを浴びたのであろう沙宵は、嬉々としてお品書きを見せてくれる。名前だけではどういった食べ物か予測しづらいが、大体のフルコースの順番は知っているから、大体それだろう。

 澄麗はそう考えながら、笑顔の沙宵に「いいね」と一言返した。

 沙宵を見てかわいいかわいいと騒ぐ男子達の気持ちはよく分かる。思わず、澄麗の表情にも緩みが出る。

 そんな時、舞明が優雷をつれてやって来て、その間にはマキャーも付いて来ていた。

「キュ。全員時間通りっキュね、偉いっキュよ」

 二人も同じ円卓に案内され、これでメンバーは揃った。

「ドールキャット様も、お席にどうぞ」

 入口に立っていた天使が言うと、マキャーは驚いたように問い返した。

「え、僕の分も用意してくれたの? なんかごめんね、気使わせちゃったね」

「いえいえ、今回はドールキャット様もお客様ですから。お気になさらず、ごゆっくりどうぞ」

「うん、ありがとう」

 マキャーが笑顔でお礼を言うと、天使は「恐縮です」とはにかむ。マキャーがマスコットのような見た目をしているせいで、そうは見えないが、お偉いさんと従業員のような立場なのだろうかと。

「ドールキャット様、ねぇ。マキャー、アンタここの経営者の御曹司かなんか?」

 舞明が冗談半分でそんなことを口にする。しかし彼女は、マキャーが「大神様の側近」であるから、ある程度敬われているくらいの事だと思っていた。

「まぁ、おじい様は創設に関わったお方だけど……。そんな関係ないよ、大体、年上にはあんな感じの対応するモノだよ」

「ふん。アンタ、あの人達より年上なんだ。そんな見た目して」

「失礼な奴だな……天使は君達と違って一定以上の容姿年齢は過ぎないんだよ。僕だって、これでも三百歳さ」

「へぇー……へ?」

「三百……」

 何気ない会話、だったのだが。どうも引っかかってしまった舞明。それは澄麗も同じ、誰がこのマスコット白猫を見て、三百歳だなんて思うか。

 驚かれて不服そうなマキャー。しかし、彼とて否定は出来ない。

「じゃあ、昼間に教えてくれたローブァイトさんも、それ以上なの?」

 沙宵はそれが真っ先に気になったようだ。

 不老不死の生物の年齢は見た目じゃ推測出来ない。他人の年齢を勝手に話すのは良くない事だと後から気が付いたが、言わなかった事にはならない。

「ううん。僕達の中では年齢より身分の方が大事なんだ」

「そっか、君達はそういう事も分からないよねぇ。本当は、集中訓練中に座学はやらないんだけど……社会常識の授業も入れる?」

 どうやら、沙宵の問いは何も知らない幼子のような問いだったようだ。常識のない奴等と遠回しに言われているようなモノだが、これは彼のいつもの煽るの為の言葉選びではなさそうだ。

「アンタねぇ……」

「ん?」

 この本気で分かっていなさそうな顔が、何よりの証拠だ。

「ははっ、それならその授業もうちは不参加でいいね? 知ってるもん」

「あんま一人の生徒を特別扱いするのは良くないんだけどね」

 マキャーがそう答えたと同時に、前菜が運ばれる。量こそ少ないが、ここから来るメニューの数を考えると妥当だろう。量の代わりに、盛り付けが如何にも高級レストランで、見栄えがいい。

 食事は大満足。デザートのミニケーキを食べ終わった頃には、お腹も大満足だった。

「おいしかったねぇ……もうお腹いっぱいだよ」

「良かった」

 澄麗の言葉もどこか満足気だ。

「うん、それならよかったよ。じゃあ皆、後は自由時間だけど、夜更かしだけはしないようにね。あと、お風呂では泳がないように」

「ちょっとマキャー、アタシ達を何歳だと思ってんのよ。そんな子どもじゃないわよ」

「はいはい、いいから出る出るー。片付け出来ないでしょ」

 正しく引率の先生だ。マキャーは不服そうな舞明に言って、四人を部屋に戻らせる。これから大浴場に行くのだろう。沙宵の「準備したら集合ね」という言葉が聞こえた。

 その予測通り、光の子は四人で大浴場に行った。今日一日今までにない程に動いたお陰で効能付きの湯は良く体に染みるようだ。

「あぁー、いい湯ぅ」

 おっさんのようなセリフを言い放つ程、舞明もリラックスしている。

 そんな時、

「ふふっ。気に入ってくれたのなら何よりですわ」

 同じ湯の中から、優美な声が飛んで来た。

 その方向を見れば、色艶の良い金髪をお団子にして、お湯につかっている一人の女がいた。彼女達に取っては知らない人……否、知らない天使であろう奴であったが、またしても何故だか優雷は知っているようで、ごく平然と彼女の名を口にする。

「お、ラーチェ様ではありませんか。奇遇ですね」

「えぇ、久しぶりね優雷ちゃん」

 浮かべられた穏やかな笑みは、何とも可愛らしくも美しい。彼女が聖女だと言われても疑いやしないだろう。

「そこの三人は初めましてですわよね。わたくしはラーチェ。バイレン様の、妻です」

 何処か照れたように、はにかんで告げた彼女。そのバイレンという男が誰か、舞明は一瞬だけ思い当らなかったが、直ぐに思い出した。自分達の契約相手、あの大神だ。

 少々驚いたが、彼には息子がいる。それでこそ、自分達が説得しないといけない相手も、彼の息子の一人らしい。それならば奥さんがいるのは必然だろう。それに、あの大神、態度はともかく確かに顔はとても良い。その相手も相応の美女に決まっている。

「バイレン様は、とっても優しい方なのですわよ? 人の子でもある貴女たちには、少し厳しいかもしれないけど……少なくとも、嫌ってはいないわ。それはわたくしが保証しますわ」

 舞明の心を読んでか、彼女はそんな事を言ってくる。

「それはいいんですけどー。やっぱ気にくわないんですよ、あの態度!」

 相手が優しそうだからか、舞明は本人がいないのをいい事にはっきりと物申した。

「まぁ、許してあげてとは言わないですわ。あの方の人の子に対する態度が良くないのは、わたくしも否定は出来ないもの」

 苦笑いすら美しく、ラーチェは微笑みながら舞明の手を取る。

「だけど、大丈夫。貴女達は本当は天使に産まれていたっておかしくないの。バイレン様も、そんな貴女達を過度に嫌う事はしないわ。少し運命が違っていたら、貴女達だってあの方の所有物だったかもしれないもの!」

 こうも自信ありげに断言されると、少したじろいでしまう。

「天使に産まれてたかもしれないって、そんな事あるんですか?」

 ラーチェの言葉が少し気になり、沙宵は尋ねた。確かに「素質がある」だとか「人の子なのに光を持っている」とか言われた事はあるが、天使に産まれていたかもしれないと言うのは規模が違うきがした。

 するとラーチェは、寂しそうに眉を下げる。

「魂はね、どこからか自然と芽生えて、誰の意思でもなくそれぞれの世界に振り分けられる。基本的に、光があれば天使に、闇なら悪魔に、何も無ければ人の子に産まれるの。だけど、それは正確ではない」

「貴女達はまだ、天使としては光が微量だから、人の子として産まれても、しっかりと生きられている。だけど、例え神の子となるはずの魂ですら、時には人の子として産まれてしまう……そうなると、魂の持ち主に待ち受けるのは厳しい現実ですわ」

 とても悲しそうに話す彼女を見るだけで、なぜだかとても胸が痛んだ。

「そう、なんですね……」

 沙宵がぽつりと言葉を返した。

 その時、しばらく口を噤んでいた優雷が、ふと呟くように言う。

「人間、光だろうと闇だろうと、『力』を持つ者を『同族』と見なさない。本能的にね。産まれたのが神の子の魂の持ち主となれば、いくら子供の生誕を心待ちにしていた両親でも、それを己の子としては見ないだろうね」

「えぇ……悲しいけど、わたくし達は本質から違う。相逸れる事はないのですわ。光がある、ない、たかがそんな事でも、大きな溝を作るのですわ」

 仲良く出来るのならしたいのだけれども。ラーチェはそうぼやいて、湯船から立ち上がる。

「ごめんなさい、もっとお話ししたかったのだけれども、バイレン様からお呼び出しがありましたの。また今度ゆっくりお茶会でもいたしましょう? 勿論、女の子だけでね」

 流れるようにウインクを決め、結っていた髪を解く。お団子で固められていたはずの髪は解放された途端にさらりと流れ落ち、彼女の背に垂れた。

「きれいな人だったね……」

「うん」

 見惚れたような彼女等も、負けず劣らず可愛らしい美少女なのだが。アンタ等も十二分に「綺麗な人」だと、舞明はそんな言葉が咽から出かかったが、言わないようにした。あまり友達に容姿に関する褒め言葉を使いたくない。

 ラーチェが上がってからは、四人だけでのんびりとしていた。のぼせる前に湯からあがり、ホテル内の探索に行こうと廊下に出ると、直ぐそこにあったソファーにマキャーが座っていた。

 マキャーは牛乳と饅頭を頬張り、幸せそうな顔をしている。

「あ、マキャーじゃん。アンタも風呂?」

 そんな彼に尋ねると、マキャーは驚いたように尻尾の毛を膨らませ飛び上がる。

「な、なんだ君達か。驚かせないでほしいっキュ!」

「アンタの事だから気付いていたと思ってたわよ。心とか読んで」

「僕だって油断している時は人の心読んでいないっキュよ。常時聞こえてる訳じゃないんっキュ」

 意外そうに言われたのが不服だったのだろう。マキャーは少しだけ残っていた牛乳を飲み干し、専用のゴミ箱に入れる。

「ここのお湯は、訓練に疲れた生徒うってつけの効能っキュ、君達も良く浸かって少しでも光を強めるっキュ!」

「そうだねぇ、確かに是が非でも強くならなきゃいけないうち等にもうってつけだ。それで、マキャーは、光は増えたのかい?」

「……優雷。分かってて訊くのは良くない事っキュよ」

「はは。ごめんね、ついつい」

「他人のコンプレックス突いといてよく言えるよ……まぁいい。君達、ホテル内の探索でもするつもりなんだろ? 僕も付いて行くよ。下手に君達だけで動かせて、迷われでもしたら探すのが面倒っキュ」

「アンタはアンタで失礼な奴ね!」

 館内案内図は持っている。方向音痴でもない限りこれさえあれば迷う事はないだろう。しかし、マキャーは何だか癪に触る表情で「どうだか」と笑った。

 訓練期間は一週間、光の子は昼間にみっちりと訓練を行い、夕方はホテルでゆっくりと疲れを癒した。施設内のゲームセンターで行ったエアホッケー大会は見事優雷の優勝となったが、彼女は人格を使うという不正をしていた為取り消しとなり、繰り上げで沙宵の優勝となったりと、そんな普通の旅行のような出来事もありながら、一週間はあっという間に過ぎ去る。

 七月二十二日、最後の訓練も終わりに差し掛かり、四人は最終試験と言う名の名目のローブァイトとの一対一での手合わせを終えた。

「悪くない。光の子、よく頑張ったな。お前等は、この一週間でよくここまで成長出来た。そこらの天使にお前等を人の子だと紹介しても信じない者もいるだろう」

 集中訓練最後の手合わせを終え、ローブァイトはそう告げる。意外にも高評価で、ユウライを除く三人が驚いた顔をした。

「しかし、お前等は未だヘルツの足元にも及ばない。何、最初からそこまでは期待していない。少なくとも、俺達の『闇の子』達とは対等に渡り合えるだろう」

「……いや、すまない。お前等がまだ対峙してない奴等は、純粋に殴って来るようなタイプではなかったな」

 言った後に、何かを思い出したのかそんな訂正を入れてくる。

 なんだか不穏な気配がする言葉だが、大丈夫だろうか。そんなサヨイの心配を感じ取り、ローブァイトは付け加える。

「最後に一つだけ、お前等に教えてやろう」

「心は、経験や記憶により蓄積された感情の結集体。故に、非常に不安定な存在だ。ちょっとした刺激で全てが崩れる事もあれば、何気ない一言で救われたりもする……心の天使でもその動きを完全に理解する事は難しい。お前等のような人の子には猶更、理解しがたいだろう。しかし、その者の心の要点さえ掴めれば、それは単純な攻略になる」

「お前等のその光は、何も武力行使するだけの武器ではない。ここまで成し遂げたお前等には、使い方が分かるはずだ」

 そう言う声はどこか優しく、目に映った彼は微笑んでいた。

 それに気付いたサヨイが、柔らかい笑みを漏らす。

「なんか、ローブァイトさんって、お兄ちゃんって感じですね」

「お兄ちゃんか……懐かしいな、その響きは」

 言われたお兄ちゃんという言葉を繰り返し、ローブァイトは目を細めた。

「また会える事を願っているぞ、光の子よ」

 訓練を終えると、彼はいつも通り直ぐに帰っていった。

 そして、これまたいつも通り入れ替わりでマキャーがやって来る。

「お疲れ様っキュ、よく頑張ったっキュね。ローブァイト様のおしゃっていた通り、君達はすごく成長出来たと思うっキュよ」

「それじゃあ……これにて集中訓練は終了とするっキュ! 下界までは僕が送るっキュが、その後は各自気を付けて帰るように」

 こうして、訓練は締めくくられ、光の子の平穏な夏休みは戻って来る。

 帰り道、舞明は背伸びをして声をあげる。

「はぁ、つっかれたあ! だけど、あのホテルはめちゃよかったわね。特にあの温泉とか!」

「そうだねぇ、わたし心なしか肌がよくなった気がするの!」

「効能感じられた」

 沢山動いた後の温泉と、ふかふかベッドのコンボはとても癒されて、疲れを引きずる事無く次の日の訓練を始められたモノだ。それに、この一週間で少し痩せた気がする。

 それぞれの感想を口にする三人。その中で優雷は、珍しくも一切口を挟まずに、彼女等の横を歩いていた。



 天使にとって、神は己が使えるべき最高かつ絶対的な主である。主である神が「カラスは白い鳥だ。よって、あの色は白である」と言えば、その所有物である天使達にとって、今まで黒であったその色は白と化する。

 天使は神に揺らぐことのない忠誠を誓い、神は己の所有物である天使を深く愛し、護る。これは義務や「そうしなければいけない事」などではなくごく普通の「当たり前」であり、本能から約束された事。これを、「忠誠本能」と「加護本能」と呼ぶ。

 人類は、この事に関してどんな感想を抱くだろうか? 可笑しいと思うのだろうか。

 しかし、神から言わせれば可笑しいのは人の方である。

 考え方が可笑しいあぶれ者は、人類の方だった。主に対しての忠誠心もなければ、主は民に対する愛情もない。それらがあったとしても、それは絶対的なモノではなく、壊そうと思えば直ぐに壊れる代物だ。

 仕方のない。彼等には、本能が無いのだから。生物にあるべき脳が、存在しないのだから。

 今、マキャーはそんな話を光の子四人にした。

 集中訓練を終え、少しの時間が経った。連日襲って来ていた闇の子も、休憩期間だと言わんばかりに現れないまま三日が経ち、光の子とマキャーは優雷の家で集まっていたのだ。

 マキャーが話すと、舞明は顔を顰める。

「なぁんかムカつく言い草ねぇ……アンタ達はなんで一々人類下げするのよ。アンタ等の本能の話するだけならいらなかったでしょそれ」

「そりゃ、実際君達は愚かだからっキュよ」

 本当に、頭に来る。言葉選びがどうも怒らそうとしているようにしか思えない。

「この扱いは君達が受け入れてほしいっキュ。逆に、人類を好く方が少数派なんっキュから」

「アタシ達になんの罪があるって言うのよ……」

 分っていた事だから、今更多くの文句は言わない。しかし、こうも恨まれてはツッコみたくもなるだろう。

「『神殺し』っキュね」

 予想だにしていなかった返答に、一同から同時に「え」と声が漏らされる。唯一反応を示さなかった優雷の、オレンジジュースを飲むストローの音が小さく反響した。

「神殺しって、またまたそんなぁ。人間にそんな事出来る訳じゃないじゃないの。ねぇ沙宵」

「そ、そうだね。ちょっと考えづらい事だよね」

 お前等はヘルツに勝てないと何度言われた事か。その言葉もあり、人に神が殺せるなんて考えられなかった。

 そんな彼女等の反応は最もだ。しかし、マキャーは苦い顔をして首を振る。

「君達は、一生断食を続けて、もしくは毎日毎日一切眠らずに生きられるっキュか?」

「無理」

「それと同じっキュ」

 澄麗の当然の返答に、重ねるように言う。

「さっきも言ったけど、忠誠と加護は『本能』っキュ。これは君達で言えば、三大欲求に等しく、満たされなければ死んでしまう。そして、神の加護本能は、相手の忠誠本能があって初めて成り立つんキュよ」

「かつて人類は、いつしか神を傲慢な支配者だと勘違いして拒みだした。もたらした恩恵すら忘れられ、それでも一方的な本能で君達人類を愛した結果、この世界の神は消滅なされた……こんな歴史を聞いて、人類の事を好く思う者がいると思うかい?」

 マキャーの言葉は問う形であったが、実際は違った。

 何気ない舞明のぼやきだったのに、空気が重くなってしまった。

 ここで話題を明るいのに変えるという気遣いは、マキャーの中には無かったようだ。彼は、そのまま話を続ける。

「この下界、かつては地上界と呼ばれていたこの地の神だったソル様が消滅なされた後、怒った神々が人類を滅ぼして、その後に出て来た新人類が君達の祖先キュから。正確に言えば君達はソル様を殺した奴等じゃない。だけど、それでも、嫌悪は拭えないっキュよ。君達だって、どの国の人間だってだけで他人を嫌うだろ? それと同じ。だから受け入れろって言ってるんっキュ」

 マキャーは怒っているわけではない。ただ、自分の知る歴史を、彼女等に教えているだけだ。しかし、言葉からは怒りや恨みに似た物を感じ、沙宵は思わず謝ってしまう。

「ご、ごめんなさい……」

「あぁ、別にそういう意味で言ったんじゃないっキュよ? ただの雑談っキュ。君達は何も悪くない」

「当時、僕はまだ産まれていないから、僕自身はそこまで人類を嫌悪していないさ。ただ、大神様があんな感じだから、どうしてもね」

 主があぁも人間嫌いだと、自分が大して何とも思っていなくとも同調してしまうモノだ。とは言え、マキャーも同様に人類を愚かだとは思っているが。

「ま、歴史に対する感情なんてそんなもんだよ」

 ジュースを飲み干した優雷が、グラスを弾く。その一言で、この話題は終了となった。タイミングよく、ユウがお菓子を詰め合わせたお盆を持って来たのだ。

「優雷、お菓子持って来たよ」

「お、ユウくんありがとぉ。置いといてー」

「うん。ゴミはまとめておいてね、ボクが後で捨てとくから」

 ユウはそう言うと、女子達の邪魔をしないように直ぐに部屋を出ていく。

 普通の人は彼を優雷の兄だと思うのだろう。一応、世間には従兄というていで通しているようだが。

 女子会……いや、一名男がいるが。彼は猫の姿をしているからノーカンとしよう。女子会は他愛もない会話を延々と続け、夕方を迎える。

「じゃあ。私はここで」

 四時になった途端に、澄麗が静かに立ち上がる。

「あぁそっか。澄麗、今日予定あるんだっけ?」

「うん」

 沙宵の問いかけに頷くと、小さなバッグを肩にかけて「じゃあね」と一足先に帰った。

 住宅街にある一件の家には、植えられた花が上品に住宅を飾っている。大理石調のデザインの標識には明朝体の「篠崎」の文字が刻まれており、文字の横に花をイメージさせる模様が施されている。ここが澄麗が住んでいる家だ。

「あら、澄麗ちゃん。お帰りなさい」

 ただいまという声に反応して出迎えてくれた上品なご婦人といった雰囲気のマダム。彼女は篠崎花、澄麗の育ての親である。

「花さん。手伝う」

 そう、今日澄麗が一足早く帰宅したのは、庭の手入れを手伝う為だ。昼間の暑い中での草むしりは地獄に等しいが、伸びて来た雑草を野放しにすると景観が悪くなる。折角綺麗に咲いている花たちが台無しになってしまう。

 しかし、花もそれなりにご高齢だ。動けない程ではないとは言え、中腰で草むしりを行う事は厳しい。

「いつもごめんなさいねぇ。私も、腰が悪くなっちゃって」

「大丈夫。たまには、いい運動になる」

 澄麗は汚れてもいい服に着替え、伸びて来た草を摘み取る。正直澄麗も得意な事ではないが、これも一種の恩返しだと思ってやっている。

 草むしりはもう直ぐ終わる。あとこの数本を抜いたら、花に終わったと報告するだけだ。そうしたら、お風呂でゆっくりできる。

 湯船への期待を込めて、一本に手を添えた時、部屋の中から花の咳き込む様子が覗いた。

「花さん、大丈夫」

「だ、大丈夫よ。心配しないで、澄麗ちゃん」

 花は心配させまいとそう言うが、咳は段々と酷くなり、彼女はぜぇはぁと息を切らす。そして、血を吐いた。

「っ――! きゅ、救急車……!」

 その光景に、澄麗は目を見開く。何が原因かは分からない。花にこれと言った持病はなく、比較的健康体だ。しかし、彼女の体は多くの歳を重ねている。

 急がなければ。その一心でスマホを取り、電話を開く。

「ムダだよ」

 その瞬間、そんな少年の声が耳に届く。

「それね、どんな医者でも治せないの」

 続けて告げる声。同時に、花の横にふわりと現れたのは、穏やかな顔立ちのどこか儚さも感じる少年だった。

 飾られた赤銅色の宝石で察しが付く。彼は、闇の子だと。

「花さんに……その人に手を出すのは、違う」

 静かな言葉には、湧き立つような怒気が含まれていた。そうして。闇の子は肩をすくめる。

「大丈夫、死にはしないよ。たまに息が苦しくなるし、血を吐いちゃうけど、死ぬことはできない。どんなにつらくても死ねないんだ、心配しないで」

 それは、どこか幼さの残るような、可愛らしい少年の笑みだった。

「こーら。バマル、意地悪しちゃ駄目だよ」

 今度は先ほどまで草むしりをしていた庭の方から落ち着いた一声が響く。

 開かれたままの窓から床に上がってきた、もう一人の闇の子。男にしては少し長い髪をしている彼は、家に入り込むと目が合った澄麗に微笑む。

「いじわるじゃないよ、エレン。ほら、いい闇とれているでしょ?」

「人間、自分にちょかい出されるより大切な人に手を出されたほうが怒るんだよ」

 自身の胸の宝石に触れ、首を傾げる。

「それもそうだ。だけど、ご年配のマダムをいじめるのは駄目。レディーは丁重に扱うものだよ」

「そっかぁ……じゃあ、今のなしだね」

 宙でいくらか手を動かすと、花は息が通ったように元気さを取り戻す。

「あらやだ、私ったら寝ちゃってたわ……」

「あれ、澄麗ちゃんがいない……どこ行ったのかしら……」

 彼女には闇の子と澄麗の姿か見えないようで、消えた澄麗を探しにスリッパを履いて庭に出ていった。先程の事が嘘かのようだ。

 気にせず、闇の子達は会話をしている。

「だけどエレン。エレンの話だと、澄麗ちゃんにも手を出しちゃだめって事になるよ? この子もレディでしょ」

「このお嬢さんは殺してもいいって言われてるでしょ? だけど、さっきの婦人は関係ない。その違いだよ」

「なるほどねぇ。さすがエレンだ。じゃあ、このお嬢さんはやっちゃってもいいね」

 二人の会話はどこかふわふわしていて、なんだか女子みたいに感じる。しかし、きちんと聞けば言っている事は殺すやらなにやら物騒だ。

「何。戦うの?」

 澄麗が問うた。訓練で多少できるようになったとはいえ、体を動かすのは得意ではない。特に今は、草むしりをした後だ。

 しかし、幸運な事に、それは相手も一緒だったようだ。

「ごめんね、そうできたら良かったんだけど。僕もバマルも殴り合いは得意じゃなくて……だからお嬢さん、僕とゲームをしよっか。確か、そうだ、デスゲームってやつ」

「あったあったぁ。僕、ちょっとだけ読んだことあるよ、そういうマンガ」

「え、本当に? 病院に置くには向いてないと思うけど」

「だって、ちょっと興味あったんだもん。それに、教会にデスゲームマンガの方が不釣り合いだとおもうなぁ」

 正直言えば、澄麗は彼等がきゃっきゃと話しているうちに逃げたかった。戦うのも嫌だが、面倒な予感しかしない。しかし、そんな事はしなかった。

 逃げてはいけない。神や天使の妙に癪触る上から目線をどうにかするには、証明するしかないのだ。

「じゃあ、始めようか。こっちの時間は止めておくからね」

 エレンが指を鳴らすと、地面がぐらりと揺れるような感覚がする。そうして、気が付けば見知った家のリビングだった辺りの景色が切り替わっていた。

 そこは、プロテスタントの教会をイメージさせる内装をしているが、この一室には椅子が二脚と四角い机が一脚しかない。壁に掛かる振り子時計がカチカチと音を立てている、静かな場所だ。

 エレンは椅子に腰を掛け、澄麗にも座るように促す。一先ず素直に従うと、彼は清らかな笑みを浮かべる。

 こうして見れば、なんだか彼は神父のように見えた。いや、プロテスタントの教会なら牧師の方か。澄麗にとってそこはどちらでもいいのだが。

「さて、お嬢さん。これからするのは、小さい子でも出来るような簡単なカードゲームだ」

 どこからか現れたトランプの札を切り、それを机上に扇型に広げた。その内の一枚、ジョーカーを手にその絵を見せる。

「ババ抜き?」

「うん。正解。大体そんな感じ」

「ジョーカーは必ず用意して、残りの三札は伏せたカードからランダムに選出し、山札は四枚。そこからお互いに、二枚の札を引くんだ」

 エレンは、ジョーカーと伏せられたカードから引いた三枚を合わせた四枚をシャッフルし、その内からカードを抜き取り、澄麗にも見せてやる。今の彼が引いたのは、ジョーカーとハートのエースの二枚のようだ。

「お互いに持ち札は二枚、どちらかが必ずジョーカーを持っている。持っていない方が相手の手札から一枚引いて、それがジョーカーだったら負け。そうじゃなかったら勝ち。簡単でしょ?」

 要するに、一発勝負の簡易版のババ抜きだ。一回行動する分の運命が、ターンの勝敗をそのまま決めてしまう。

 至ってシンプルだ、ルールに疑問に思う余地はない。澄麗はこくりと頷き、そこにあった札を一枚手に取る。

 触った感じ、細工はなさそうだ。

 そんな澄麗の意図が分かったのだろう。エレンはニコリと微笑んで告げる。

「警戒しなくとも、小細工はしてないよ」

 彼の言葉は無視して、最も大切な事を尋ねる。

「それで。負けたら、どうなるの」

 彼はさっき、これをデスゲームと表現した。確実に、負けて「負けちゃった~!」とはしゃぐだけのゲームではないのが確かだ。

「そうだね。そこの説明もしなきゃだよね」

 エレンは笑みを浮かべ、机の上に一丁の銃を置く。

 おもちゃ、ではなさそうだ。一目でわかる重厚感とそのオーラが、本物である事を語っていた。

「お嬢さんは、ロシアンルーレットって言うのは知っているかな? 六発中五発は空発。だけど残りの一発は、実弾入りだ」

 理解した。これは確かに、デスゲームの一環とも言えるだろう。

 負けたらロシアンルーレットを一回。六分の一の確率で、死ぬ事になる。

「悪趣味」

「そうだね、僕も趣味が良いとは思ってないよ。だけど、君達を殺すにはこうしないと。僕、運動だけはすこぶる駄目で。それ以外は大体出来るんだけどね」

 吐き捨てた彼女に苦笑いを浮かべると、慣れた手つきで札を切る。

「あぁそうだ。お嬢さんの守護神は心の大神様だろ? それなら、心を読むのもありにしよう。自分の潜在能力を使う事は、ズルではないからね」

 ジョーカー含む四枚を選定し混ぜ、先に取れと言うように澄麗手を差し向けた。

 澄麗は近くにあった二枚を手に取った。スペードの三とハートのクイーンだ。柄は関係ない、自分の手札にジョーカーがないという事は、相手の持つそれを引かないようにするだけだ。

「じゃあ、お嬢さんが引く番だね。ほら、好きな方を取りな」

 エレンが差し出して来た二枚。手始めに右の方に指を掛け、相手の表情を窺う。エレンは依然と笑みを浮かべ、左に移しても変わらない。

 心を読んでもいいと言われたが、そんな事は出来ない。しかし、物は試しだと意識を集中させてみる。

 まぁ、聞こえる訳がないのだが。

 一先ずここは勘だと、右側を引く。

「残念。ジョーカーだ」

「……」

 内心、悔しくてたまらなかった。しかしルールはルールだ。致し方なしにと置かれた銃に手を伸ばすが、どうしても彼女は普通の女子高生。分かりやすく表情に出ないだけで、恐怖はしっかりと心の中にあった。

 震える彼女の手に気付いたのだろう。エレンは先に何の戸惑いも無しに銃を取り、澄麗に向けて一発引き金を引く。

「お、運が良かったね。空発だ」

 まさか、こうも簡単に人に銃口を向けられる奴がいようとは。それは人としてどうかと思う、なんて。殺人を厭わない闇の子に言うのはあまりにも今更な事だろう。

「あぁ、ごめんね。お嬢さん、怖がってるみたいだったから。やってあげようと思って」

「よく出来る……」

 浮かべられた笑みだけであれば優しい青年に見える彼に、悪態に似た言葉をぽつりと呟く。勿論、その言葉は本人にも聞こえていた。

 エレンは目を丸くする。しかし、本人も分かってはいるようだ。心外そうな顔をしたのは一瞬で、次には「そうだね」と目を細める。

「僕も最初は戸惑ったよ。正確に打ち抜けば、たった一発で簡単に殺される。ある意味、刃物を向けられるより怖いよね」

「だけど、ヘルツ様とも契約した時に言われたんだ。今までお前等が従ってきた法律は、俺と契約した時点で無効となる。安心して殺せ、人の子一人死んだ所で神は気にしゃしない。ってね」

 全く常識から外れた教えだ。澄麗は心中でそうぼやく。しかし、想像に難くない。例えるならあの大神、本当に何とも思わないだろう。

「少し慣れれば、躊躇なんてないさ」

「ほら、次のターンだ。好きなのを取って」

 元より、その法律に従って生きていたのであろうエレンも、今やそうなのだろう。話は直ぐに切り上げられ、ゲームに戻る。

 次は、澄麗が最初にジョーカーを引いた。ここでエレンがジョーカーを取ってくれるかどうかが今度を大きく左右する。

 澄麗は死にたくは無いが、何も彼に死んでほしいとは思わない。しかしデスゲームにおいて誰も死なないと言うのはあり得ない。そんな事、漫画はあまり読まない澄麗でも分かる。

 澄麗はとにかく自分が生きて帰る事だけを懸命に祈り、相手が引くのを待つ。幸いな事に、彼女は自分が考えている事が滅多に表情に出ないと知っている。所謂ポーカーフェイスは出来ているだろう。

 エレンは彼女の表情を窺ったが、そこでは分からないと察しているのか、そこを判断材料にはしなかった。多少の思考の後に、澄麗の手にあるジョーカーを引いた。

「お、ジョーカーだったか。ついてないな」

 なんて、そんな事は思っていなさそうな口ぶりで言うと、自分に対しても躊躇なく引き金を引く。

 その時、先程は鳴らなかった耳をつんざくような鋭い音が響く。確かに、彼は「ハズレ」を引いたのだ。

「っ――」

 弾けるように立ち上がる澄麗。

 何も言わずに目を見開き、感じたのは恐怖だった。無理もない、彼女は一般女子高生。目の前で人が、自らを撃って倒れる光景なんて、恐ろしくない訳がない。

「あーあ。残念、僕の負けだ」

 しかし、彼の声は平然と背後から現れた。

 彼は平然とそこに立ち、拍手を送る。それは、先程自らかの頭をぶち抜いた奴だとは思えなかった。

「おめでとう、お嬢さん。そして、ありがとうね。殺せたら一番良かったんだけど、君の恐怖、とてもいい闇だよ」

「ゲームクリアだ。案外あっさり終わっちゃって、拍子抜けしちゃったかな? まぁ、これもまた運命だったって事だよ」

「このまま、女神様達が味方をしてくれるといいね」

 意味ありげな言葉を残すと同時に、エレンはにこりと微笑む。本当に、言葉さえ聞こえなければ彼は好青年そのものだった。それでこそ、「神父様」のような。

 そんな澄麗の思考を他所に、先程と同じ感覚が体に過り、今度は病室のような場所に切り替わる。

 ここは、個人部屋だろう。絵本から一般文芸の本まで並んだ本棚と、しかもおもちゃも用意されていて、ここに入院していたのは子どもなのかもしれない。だとしても、随分と高待遇だ。

 病院らしい白いベッドの上には、バマルが座っていた。彼は待っている間、直ぐ横にある窓から景色を眺めていたようだが、澄麗の気配に気が付いて振り向く。

「あ、澄麗ちゃ~ん。生きていたんだ、エレンに運ゲーに勝つなんてね。あれだね、マンガでよくあるやつ! 『運命の女神が微笑んだ!』ってやつだね」

「あれ、だけどあの女神様がエレンの味方しないなんてな……あ、わかったぁ。エレン、君の目の前で死んだでしょ?」

 問いかけに、澄麗はこくりと頷く。

「やっぱそうだぁ。やっぱ、エレンは不思議だなぁ。殺した方が絶対いいの狩れるのに……。あ、もしかして僕に譲ってくれたのかな! それなら僕がいい方もらっちゃおっかなぁ。さ、澄麗ちゃん。もっとこっちおいで」

 バマルは小さく手招きをして澄麗を呼ぶ。

「さて、問題です。治療方法が不明、どこから湧いて出てきた何の病気かすらも全く分からない。そんな病気を持った子どもは、どうなるでしょうか」

「……隔離?」

 真っ先に思い浮かんだのは、その答えだった。

 何か分からないのであれば、感染症かも分からないのだ。であれば、隔離しておくのが正解だろう。その子どもの事を思うのであればそうではないが。

「正解。まぁ、隔離なんかされなくとも外には出れないだろうね。だって、走ったりすると、直ぐ血を吐いちゃうんだ。刺激物なんて持っても他さ、辛い物とか好きなのにさ」

「だからさ、澄麗ちゃん。変わってくれる? 昔の僕とね」

 バマルは微笑んだ。そうして、澄麗のおでこに小さく指先を触れる。

 触れた瞬間、心臓が握りつぶされるような、そんな痛みが走り、その場に蹲る。ほんの一瞬の痛みだったが、確かに痛みはあった。

「大丈夫、直ぐに慣れるよ」

 先程とは違う声に、顔を上げる。目の前に座っていたのは、幼い頃の自分だった。

「ふふ、健康な体だぁ……! ほんの少し借りるだけだから、後でちゃーんと返すからさ! あ、君は絶対ここから出ちゃダメだよ? 皆に迷惑かけちゃうから」

 手を伸ばして嬉々としてはしゃぐ幼女は、その場に蹲まったままの「幼い少年」に目を細め、姿を消す。

「……なんだっていうの」

 澄麗が漏らした言葉は、確かにあどけない男の子の声として発せられた。

 そんな時、後ろから扉が開かれる音が聞こえる。

「芭蕉くーん。ほしいって言ってた本、用意できたよ~」

 やって来たのは、若い看護師だった。子どもに対する柔らかい言葉遣いで顔を出した彼女は、ベッドから降りている少年を目に一瞬にして焦ったような表情になる。

「芭蕉くん、ごめんね。少し来るの遅れちゃったもんね。だけど、私は絶対に来るから。横になっててね?」

「ごめんなさい」

「いいんだよ。ほら、これ。読みたがってた本だよ。こんな難しそうな本が読みたいなんて、芭蕉くんは、将来は学者さんかな?」

 まるで、教育番組に出てくる歌のお姉さんだ。子どもの扱いに慣れているかのようで、目線を合わせて笑顔を見せてくれる。

 渡された本は、看護師の言う通りこの歳の子どもが読むとは思えない、難しそうな小説だ。しかも見る感じ、これはイタリア語で書かれている。

「芭蕉くん。他にもほしいものがあったら言ってね? おもちゃでも本でも、用意してあげるからね」

 彼女の言葉で、澄麗は大体察しがついた。

 この優しさは、大人達がせめてもと与える慈悲なのだろう。彼女のそれは、可哀想な子どもに対する目だった。

 それには、澄麗にも覚えがある。

 可哀想に。まだ幼いのに。そんな同情するような声が脳裏に過った。きっと、この看護師だって同じような事を思っているのだろう。不遇な幼児を前にして、多くの大人はそう思うモノだ。

「うん、ありがとうございます」

 だから、少年は笑顔でお礼を言った。

 病室には本がたくさんあり、元よりインドアな澄麗が退屈する事はなかった。むしろ、読書家にとっては良い環境といえるだろう。

 しかし、ふと横を見てみれば目に映る、小学校の校庭、元気にはしゃぎまわる同い年くらいの男子達は、この一室に留まらざるを得ない少年にとっては目に毒だっただろう。実際、この体の中で一人の少年としての心が言っていたのだ。「僕も、一緒に遊びたいな」と。

 だが、幼い自分の体を貸した所で、彼が望んだ幼少期は得られないだろう。絶対に人選ミスだ。しかし、沙宵にこんな目にあってほしくはない。澄麗はそう思いながら、何故だが読めるイタリア語の小説から目を外した。


 健康な体。どうやら体力は少ないようで、走ったらすぐに疲れてしまうが、動けるだけ充分だ。

「澄麗ったら、今日はやけに元気ね。いつも公園に来てもお砂遊びばっかやってるのに」

「ははっ。ま、体を動かす事はいい事だ。公園での一時的な友情っていうのは、案外大人になった時に活きる……かもしれないだろ」

 そう広くはない公園で、見知らぬ男子と走り回る娘を、両親はベンチで微笑ましそうに見守っていた。

 楽しい。その一心だ。こうして大っぴらに走りまわって遊べるのは、幼いうちの特権だろう。

「ママ。お茶ちょうだい」

「うん。はい、どうぞ」

 持ってきていた水筒からお茶を飲む。運動した後の麦茶は最高だ。特段美味しい飲み物でもないが、とても美味しく感じる。

 バマルはニコニコとしながら、先程から一緒にいた女の子とお話をする。

「ねーねー、すみれちゃん! れかね、きょうおねーちゃんときてるの!」

 少し年上であり、澄麗にとってお姉さんとも言える彼女は、木陰に重なったベンチで座っている少女を指さす。

 小学校高学年か中学生か。そのくらいの少女だった。彼女は妹が友達に自分の事を話していると解ると、微笑みを浮かべて小さく手を振る。

「ふふっ。麗華(れか)、今だけはお姉さんね。あなたも、妹と遊んでくれてありがとう」

 麗華と呼ばれた幼女は、澄麗の手を引いて姉に駆け寄る。

 紫色の瞳をした、黒髪の女。まだ大人に成り切らないその顔立ちだが、バマルは感じた面影に首を傾げる。

「あれ……セーシャ?」

 思わず素で問いかけると、その女子は聞きなれない呼び名に不思議そうな顔をした。

「? それは、あなたのお友達のあだ名?」

「おねーちゃんは、せなっていうんだよ~!」

「えぇ、私は瀬那(せな)よ」

 瀬那と名乗った彼女は、確かに見知った仲間とそっくりだ。そう、よくエレンと喧嘩している相手……いや、喧嘩と言うより、エレンが煽って怒らせた結果彼が投げられているだけなのだが。とにかく、見知った彼女にしか見えなかった。

「澄麗、そろそろ帰るよ」

 そんな時、パパに呼ばれて咄嗟に振り返る。一時的な友情を分かち合った姉妹に手を振って、両親の下に走った。

 これも縁と言う事なのだろう。まさか、仲間が人間だった頃に光の子と出会っていたとは。世間は広いようで狭い。

 澄麗の中のバマルはなんとなく感慨深く思いながら、自身の二つの手を両親と繋ぐ。

「澄麗。今日は、四歳の誕生日だったな。帰ったら、パパとママからプレゼントがあるんだ」

 帰り道の途中、パパはそんな事を言いだした。

 なんていいタイミングなのだろうか。狙ってこの日に設定した訳ではないのに、誕生日を引き当てたようだ。

「うん!」

 運がいい。目的は光の子の闇を狩る事だが、狩りをしながら自分が楽しめるなんて、これぞ一石二鳥ではないか。

 その時、バマルは浮かれていた。ママとパパがどっちもいて、それでいて一緒に暮らせいる。そして、自分が健康で――ずっとずっと、望んでいた事だったから。

 親子は、しっかりと青になった信号を渡った。

 確かに信号は歩行者に進んで良いと告げていたのだ。

「――!」

 不意に手を離され、背中に衝撃が走る。尻餅をついた最中、何事かと慌てて両親を見やる。

 その時、幼い少女の目に映ったのは――


 少年の体に不意に鋭い痛みが走った。ゆったりと本を読んでいた意識の中の澄麗は、その痛みに顔を顰め、息を切らす。

 またこれだ。時間が経つにつれ、発作のスパンが短くなってきている気がする。

「はぁ……きつ」

 しばらく耐え忍び、痛覚が引いて行った時、溜息を突く。

 何となく察していた。あの闇の子は、こうする事で自分の欲求を満たすだけではなく、死と隣り合わせにして闇を狩っているのだ。時折目に見えるこの黒い靄がそれだろう。

 しかし同時に、澄麗の目には時折、光輝く何かも見えていた。この黒いのが闇ならば、これは光の力だろう。そしてこの光は、自分の中に吸い込まれていっている。

 これはどこから発生しているのだろうか。しかし、息を切らした幼い自分が目の前に現れると同時に、目に映る光が散乱した。

「はぁ、はぁ……ねぇ君、聞いてないよ。いや、僕も聞かなかったし、疑ってなかったのが悪いけど……」

 幼い自分が、同じベッドの上に膝を突き、自分に文句を言っている。その中にいるバマルが何を見たかは、訊かずとも分かった。

「……だけど、楽しめたんでしょ」

 それは、先程見えていた光が証拠だ。

 頷かれると同時に、姿はもとあるべき場所に戻る。

「もういいよ。本当は君が僕として死ぬまでやりたかったけど。あんま長く一人でいると、ローブァイト様にまた怒られちゃう」

 さらりと恐ろしい事が聞こえた気がするが、聞かなかった事にして澄麗はそれを流す。

「じゃあ、帰して。花さんに心配かける」

「安心して。エレンが時を止めていたから、心配される程時間は経ってないよ。精々、知らない間にトイレに行って戻って来ていたくらいの感覚だよ。多分ね」

 バマルが微笑むと、またもや同じ感覚で元の場所に戻される。

 先程と同じリビング。花はそこで、すっかり綺麗になった庭を眺め、紅茶を嗜んでいる。

「――あら、澄麗ちゃん。急に見えなくなるから、どうかしたのかと思っちゃったわ」

「草むしり、ありがとうねぇ。お風呂沸いてるから、先入っちゃいなさい」

 花はいつものように品の良い笑みを浮かべた。

「うん。ありがとう、花さん」

 彼女は元気なようだ。その事実に一安心した途端、温かい湯船への欲望が湧き出た澄麗は返事をすると直ぐさま風呂場へ直行した。



「ヘルツ。エレンとバマルがまだ帰ってこないんだが……」

 奥の部屋、ローブァイトは地面に胡坐をかいて目を閉じる「主」に話しかける。

「まぁ、そこらで狩りでもしてるんじゃね?」

 声を掛けられた彼は、集中させていた意識をローブァイトに移し、若干適当になっている返答をする。

 頬杖を付いた目線の先には、巨大な透明地球儀のような器があり、その八割程を黒いドロッとした液体が満たしている。

「それもそうだが。もう直ぐ夕飯の時間だ。そろそろ帰ってこないと、時間が遅れる」

「別によくね?」

「よくないんだよ。毎日決まった時間に食べるから、腹時計が正確に動くんだ。そしたら、わざわざ注意しなくても時間通りに帰ってくるだろ?」

 ちょっとした工夫だと告げる彼に、ヘルツは少しの呆れを含んだように笑った。

「お前は、母親か」

 それに対してローブァイトは、真面目な表情で言う。

「どちらかと言えば俺は『お兄ちゃん』だ」

「あーそうですか。だったらお兄ちゃん、今日の俺の分の飯からゴーヤは抜け。ゴーヤチャンプルだろ、今日」

「お前、よく分かったな……いや、ゴーヤチャンプルからゴーヤを抜ける訳ないだろ。お前がそうしたらマタールが真似をする。しっかりしてくれよ、ヘルツ様」

「はいはい分かりましたよー、お母様」

 彼等がそんな会話をしていると、話しにでていた二人が帰宅したようだ。ただいまという声を察知し、ローブァイトは彼等の迎えに出る。数分すると、彼等は嬉々として狩ってきた獲物を報告してくる。

 宝石に集まった闇を指で掬えば、それは霧と化し宙に浮かび、器に入り込むと少量の液体に変わる。

「あぁ、確かに受け取った。中々上質な闇だ。よくやったぞ、エレン、バマル」

 褒めてやれば、彼等は素直に喜ぶ。その心に裏はなく、そんな彼等が愛らしく思えるのは、否定しがたい神としての本能だろう。

 二人はローブァイトにもうすぐご飯にすると言われ、部屋に向かった。しかし、ローブァイトはいつものようにその後を追う事はしない。

「どうした、ローブァイト。他に何か要か?」

「いや。真面目な話……光の子の天色宝石は、自動的にアイツ等の光を狩っている。使っている奴等は意としていないが、集約先は大神様の所だろう。大神様があれを何に使うつもりか、分るか」

「さぁな、親父の考える事はよく分からねぇ。ま大方俺等の居場所を突き止めてんだろ。ここ、普通には来れねぇし」

「気にするな。ここまで来れた所で、人の子に何が出来る? まぁなんだ。優雷には、少し注意しないといけないが……」

 ヘルツはコーヒーの缶を開ける。それを一気に飲み干すと、そのまま床に置く。しかし、床は綺麗に何もない……ように見えていた。

「ヘルツ。それ全部、自分で捨てろよ」

「……隠してるのに」

 立てた膝に頬杖を付き、面倒くさそうに目を逸らされる。先程の子ども達に見せた主らしさはどうしたのだろうか。まぁ、神が常時それらしい立ち振る舞いをしている訳じゃない事は大昔から知っている、ツッコむのも今更だろう。

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