「いつか王子様が」
朝の空気は、どこまでも澄んでいた。
これから少しずつ日差しを増していくことを予感させる光の中で、昨日のことを思い出す。
菊緒さんと、不思議な店主の営む甘味処で時空を超える旅をした。そして菊緒さんと清三さんの再会を見送り、私自身も祖母に会って来た。
だがその全てが夢であったかのように、あれからどうやって帰ったのか、全く記憶がないのだ。
花月さんにテーブル越しに「おかえりなさい」と言われた所までは覚えている。
だがその次の瞬間には、気付けば私は自分のマンションの床に、着替えもせず、靴さえ履いたまま、まるで泥酔したかのように寝ていた。
しかしあの出来事が決して夢ではないと分かるのは、口の中に僅かに残った寒天と餡の甘みと、頬が引きつるほど残った涙の痕――。
私は、この世ならざる場所に行ってきたのだ。
きっともうあの店には辿り付けないだろう。
何となくだが、そんな確信があった。
念のため昨日菊緒さんを追っていた道を出勤途中に歩いてみたのだが、それらしい店は何処にも無かった。
それどころか、確かにここに暖簾が翻っていたと思われる場所は、コインパーキングだったから。
私は施設の門をくぐりながら、ふと空を見上げた。
青い、少し淡い空。
あの河原で見た、水面の色によく似ている。
更衣室でエプロンを着け、髪を結んでいると、先輩の吉田さんが私を見つけて駆け寄ってきた。
「弓美ちゃん……! 沢本菊緒さん、昨夜のうちに」
言葉の続きを聞かずとも、胸の奥が静かに震えた。
ああ、やっぱり――。
私は、そっと目を閉じた。
「眠ったまま、穏やかにね。信じられないくらい穏やかな顔で、頬が少し赤くてね。こう言うのもなんだけど、いい最期だと思うわよ。弓美ちゃんも会いに行ってあげて。午後にはご親族の方が来られるから、それまで準備しとかないとだよ」
それを聞いた瞬間、昨夜の光景がありありと蘇ってきた。
まるで菊緒さんと長年連れ添った夫のように、上品な老紳士の姿で現れた清三さん。
あれは――菊緒さんのためでもありながら、きっと清三さん自身の切なる願いだったのだろう。
愛する彼女と生きて再会し、一緒に年を重ねていきたかった、清三さんの夢。
そんな清三さんに抱かれ、少女の姿に戻っていった菊緒さん。
分かっていた。
私は心の何処かで、こうなることを分かっていたのだ。
勤務が始まる前に、菊緒さんの部屋へ行ってみた。
白いカーテン越しに、柔らかな光が差し込んでいる。
きれいに整えられたベッドの上には、和菓子のような甘い香りが残っていた。
困ったお姫様だった菊緒さんは、夜中にシーツを巻き付けて何処かへ行こうとしていた菊緒さんは、まるで眠り姫のように穏やかに横たわっていた。
吉田さんが言う通り、信じられないぐらい穏やかな顔だ。心なしか若返ってさえ見える。
きっと今頃は、懐かしい人々に囲まれて、清三さんの隣で笑っているのだろう。頬に赤みが差しているのは、きっとそのせいだ。
「……王子様が、迎えに来たんだよね。菊緒さん」
声に出すと、涙が溢れた。
悲しい涙ではなかった。
温かく、柔らかく、胸の奥で何かが溶けて溢れ出してくるような涙だった。
「ご結婚おめでとうございます。……向こうでたくさん、笑っていてくださいね。良ければ私の祖母とも、会ってみてください」
深く頭を下げて部屋を出た。
明るさを増して来た日差しが、明かり取りの窓から廊下に差し込んでいる。
まるでそれは私の歩む先を導く光のようだと思った。
私はきっとこの先、何人もの入居者さんをこうして見送っていくのだろう。
仕事に慣れていくうちに、綺麗ごとだけじゃない感情も、そのうちに湧いてくる。
でも、このことを忘れないでいようと思った。
どんな入居者さんにも、若かった青春があり、人に言えない苦しみがあり、癒えない悲しみを抱えているということを。
――おばあちゃんは、頑張ってる優しい弓美を、いつも応援してるからね。
祖母の声が優しく甦る。
次に祖母の筑前煮を食べる時、よくやったんだと誇れる自分でありたい。祖母の応援を裏切らない生き方をしたい。
「見ててね、おばあちゃん。コロ」
私はそっと笑って、窓から見える空を仰いだ。
(第二章・完)
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