第30話 おばあちゃんとコロ

 長い沈黙のあと、花月さんがゆっくりと顔を上げた。


「――さて、弓美さんの番ですね」

「え?」

「あなたにも、蛍の夜のお菓子を依頼してくださった方がいらっしゃるんです」


 言葉の意味を理解するより先に、ぎゅっと胸の奥が締め付けられる気がした。

(まさか、おばあちゃん?)

 そうだといい。

 祖母には、どうしても謝りたい。

「さぁ、お菓子をどうぞ」

 花月さんに勧められるままに、星空の金玉羹を口に入れる。

 

――いい加減にしてよ、私には私の世界があるの!

 鞭を打ち付けるような鋭い声が、もう一度耳の奥を走り抜ける。

 そう、これは、高校生の頃の私の言葉だ。


 あの頃の私は――まだ反抗期を引きずっていた。

 身体の中がいつも安定しない感覚があり、それに引きずられるように心も安定しなかった。

 友達と遊ぶのが楽しくて、両親の小言がやけに耳に障り、どうしても反抗せざるを得ない、そんな時期だった。

 当時の私の家は、夏休みには必ず祖母の家を訪ねて行くことが毎年の恒例となっていたのだが、高校生の私にはそれがたまらなく苦痛だったのは何故だろう。

 子供の頃には珍しかった田舎も、あの頃に大好きだった繁華街に比べて、格段に色褪せて見えていた。

 

 そしてあの日のこと――。

 明日は祖母の家に行くと決まっていた日に、以前から友達に誘われていた泊り会に行くと言ってしまったのだ。

 当然だが両親には叱られ、私も言い返すうちに大喧嘩になり、私は家を飛び出してそのまま友達の家に避難してしまった。


――いい加減にしてよ、私には私の世界があるの!


 あれは、家を出る時に吐き捨てた言葉だ。

 その時には、もはや既に祖母は畑に倒れていたらしい。

 「明日は孫が遊びに来るから、あの子の好きな筑前煮を沢山作っておいてやるんだ」と近所の人に言い、はりきって畑に野菜を取りに行ったのを目撃されたのが最後だったと聞いた。

 身体の小さな祖母は、次の日の朝、畑のビニールハウスの裏で事切れている所を発見された。

 熱中症だったらしい。

 筑前煮なんて――当時の私は「ダサい」などと言って食べなくなっていたのに――。



 カラカラと風車の音がする。

 気付けば私は、どこかの夜の河原に立っていた。

 空には一面の星空が広がり、その下では青い光を帯びた水面が、ゆるやかに流れている。

 川幅は広く、星空を映したような水は煌めき、対岸には柔らかな灯が瞬いている。

 それはまるで、夜空と地上がひとつになったような風景だった。

 あまりの美しさに呼吸さえ忘れたように周囲を見回していた、その時。


「弓美やぁ」


「……うそ……」

 名を呼ばれて向こう岸を見た瞬間――涙が溢れて立っていられなくなった。

 最後に見たままの、記憶の中の祖母が、そこにいる。

 隣には、小さな柴犬がちょこんと座って尻尾を振っていた。

 コロだ。

 私が子供の頃、おばあちゃんが飼っていたコロだ。

 おばあちゃんとコロ、一緒にいる――。


「……おばあちゃん……! コロ……!」


 祖母は穏やかに笑い、手を振ってくれた。

 昔と変わらない、皺だらけの日焼けした手のひら。

 その隣でコロが立ち上がり、嬉しそうに尻尾を振って、子犬のようにキャンッと短く鳴いた。


「いいんだよ、弓美」

 その声は、風のように優しく届いた。

「いいんだよ。気にすることないんだよ。お前が楽しく幸せに生きてくれることが、おばあちゃんは一番嬉しいんだから」


 おばあちゃん。おばあちゃん。おばあちゃん。

 涙が止まらなかった。

 祖母の姿が歪んで見えるほど、涙が後から溢れて止まらない。

 もっと目に焼き付けたいのに。

 もっとちゃんと見ていたいのに。


「おばあちゃん、ごめんね! ごめんなさい! ごめんなさい!」

「いいんだよ」

 祖母は微笑んだまま、首を横に振る。

「おばあちゃんは、頑張ってる優しい弓美を、いつも応援してるからね。――お前はいつでも、いつまでも、ほんとにいい子なんだから。おばあちゃんが一番よく知ってるんだから」


 

「ありがとう、おばあちゃん! ありがとう! ごめんなさい!」

 涙の向こうで微笑む祖母に向けて微笑むと、私は立ち上がり、深く頭を下げた。

「筑前煮、またいつか作ってね! おばあちゃんの筑前煮、大好きだから!」


「わかったよ」

 おばあちゃんの笑い声がこちらの岸に届いた途端、風が吹いた。

 水面に蛍のような光がいくつも流れ、祖母とコロの姿がその中に溶けていく。


「元気でな、弓美。お前が幸せに生きる姿を、ちゃんと見てるからね。筑前煮いっぱい作りながら、見てるからね――」


 その声が遠ざかると同時に、ふっと闇が訪れた。

 お茶の香ばしい匂いと、花月堂の暖かい灯が戻ってくる。


 テーブルの向こうで、花月さんが静かに微笑していた。

「お帰りなさい」


「……有り難う、ございます」

 私は涙で霞んだ視界のまま、頭を下げた。

 花月さんだけでなく、もう行ってしまった菊緒さんに、清三さんに。

 そして、おばあちゃんに。

「本当に、本当に、有り難うございました……!」



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