黄色い星

 焦げ跡の街に、煤けた風が吹いていた。

 瓦礫と煤の匂いを含んだ不穏な風は、どこか遠い海の方角から来ているようだ。

 人々は沈黙のまま、割れた瓦を踏みしめながら行き交っている。誰もが着物の裾を汚し、誰もが何かを失った目をしていた。

 不意に大きなクラクションが鳴り、幌を下ろさずオープンカーにしたモスグリーンのジープが通り過ぎていく。

 軍服を着たアメリカの兵士たちが、これ見よがしに英語で何か叫んでいる。

 その後部座席から白蛇のような両腕をアメリカ兵の頭に巻き付かせて笑っているのは、絹のスカーフを巻いた日本人の若い女性たちだった。

 きついパーマを掛けた髪に縁どられた白い顔の中心に、花のような真っ赤な唇が笑っている。

「パンパンだよ」

 誰かが吐き捨てたのが聞こえた。

「恥知らずのパン助どもが」


 パンパン?

 聞き慣れない言葉に首を傾げた私の隣に、菊緒さんが立っていた。

 くっと背筋を伸ばして、まるで貴婦人のようだ。

「弓美さんは知らないでしょう」

 何処か哀れみを含んだその声は、通り過ぎていったジープの行き先を見詰めている。

「戦争で家族を亡くしたり、お金が無くて食べる物に困った女性たちは、アメリカ兵に身体を売ったの。少しでも高く買って貰えるように、派手な格好をして綺麗にしてね」

「……え?」

 その言葉を理解したくなくて、飲み込むまでに数秒かかった。

 敗戦国の女性が、家族や恋人を殺した占領者に身体を売る。

「そんな……」

 そんな惨めなことが、と言い掛けた唇を噛んで、周囲を見回した。

 ジープに乗って通り過ぎていったパンパンの女性たちを見る人々の目は、あからさまに侮蔑的だ。

 一歩間違えれば自分も、或いは自分の妻や姉妹さえ、そうなっていたかもしれないのに。まるで自分だけは特別な階級にいるかのように見下し、睨み付けている。

 しかし上目遣いのその表情は、何故か卑屈だった。


「惨めでしょう? でも仕方なかったのよ。明日食べる物も、着る物もなくて、不安で、お腹が空いていたら。食べさせていかなければならない守るべき者が、いるとしたら。持っていても一銭にもならない誇りなんか、売ってしまうかもしれない」


 何処か憐れむようにジープの方を見ていた菊緒さんが、周囲の人々をも同じような視線でやるせなく見つめる。


「それをせずに済んでいる人たちはね、粉々にされた誇りを必死に搔き集めて、それを売り払った女たちを蔑むの。自分は立派だからそうしなかった。だから彼女たちよりは上等な立場だ。……そうやって誰かを見下すことで自分を認めていないと、惨めで悔しくて生きていけなかったのよ」


「だって!」

 私は思わず声を上げた。


「どっちも理不尽な暴力に叩きのめされた人たちじゃないですか」

「……清三さんも、そう言っていたわ」


 ゆっくりと、菊緒さんが私に微笑した。


「人が平和に、満たされて生きていくために、法が必要なんだ。人々を理不尽なことから守るために、法の番人になるって」




――僕はずっと、人々が平和に生活するためには、何が大切かを考えてきたんだよ。豊かさ、美しさ、思いやり、沢山あるだろう。その中の一つに、法律があると思った。


 出征前夜、菊緒さんにそう言った清三さんの姿が脳裏に甦る。


――でも、戦争が起こって分かった。圧倒的な暴力の前には、何も敵わないんだ。この世で一番強いものは結局、暴力だ。人々がどんなに知恵を振り絞って作り上げた決まりごとも、どんなに美しいものも、命に代えても守りたいものも、生きていくために必要な肉体さえも、強大な力の前には全ては無意味で、無力だ。……こんなに理不尽なことがあるかい、菊緒さん。


 彼の憤りが、胸に迫る。

 清三さんは、戦争が終わってもなお、人々が傷付き苦しめられ――今度は同胞同士で争い合わねばならなくなる世界を見ていたのだろう。



「ああ、来た。弓美さん見て、私よ」


 菊緒さんの指先が示す先に、十八歳の菊緒さんが俯き加減に歩いてきた。

 おかっぱの髪が伸びて、二つに結んでいる。痩せて頬がこけた生気のない表情の中で、縋るような瞳は絶えず何かを探しているようにキョロキョロと動く。

 この時代の菊緒さんがあれからどんな苦労を耐えてきたのか、その姿で理解できた。

 きっと彼女は清三さんの生存を信じている。

 きっと何かの間違いで、必ず無事な姿で戻ってくると希望を掛けている。

 あの瞳がそれを雄弁に語っていた。


「うちは焼けてしまったけれど、離れの方はかろうじて残ったから、両親とそこに住んでいたの」

「離れって、清三さんが下宿していた……?」

「そう。守ってくれたのよあの人は」


 それはきっと、菊緒さんの言う通りなのだろう。

 燃え盛る空襲の中で母屋は守り切れなくても、自分が住んでいた離れに菊緒さんと両親が住めるように、清三さんは守ったのだ。

 屋根と壁のある家の中で、雨風を凌げるようにと。 


「でもお腹は空いて空いてね、この時も配給の噂を聞いて行ってみたんだけど、あまりの人に押し出されて帰ってきたの。そうしたらね――風が止んで、時が止まった気がして」

 ふっと菊緒さんが笑った。

「……そこに、あの人がいたの」



 ふと、目を疑った。

 俯いて歩いてきた菊緒さんが脚を止めた、その目の前に。

 何ら変わらない姿の花月さんが佇んでいたのだ。

 汚れ一つない黒い着物に、襟元から覗く赤い襦袢。

 桜のようなピンクベージュの髪もそのままで。



 驚いて目を見張っているのは、当時の菊緒さんだけだった。

 瓦礫と煤の中で、こんな姿をしていれば目立つはずだが、行き交う人々の目には花月さんは映っていないようだ。


「筒井菊緒さんですね?」


 花月さんの問い掛けに、菊緒さんは怪訝そうに頷く。


「……誰、ですか」


 空腹と乾燥に掠れた声で問い掛けた菊緒さんに微笑して、花月さんは風呂敷に包んでいた小さな濃紺の和紙の包みを取り出した。


「僕は神楽木花月と申します。ただの甘味処店主ですよ」

「……甘、味……?」


 まるで切望した夢を聞かされたかのように、菊緒さんの喉が鳴り、声が裏返る。


「松尾清三様から、あなたへお預かりしておりました」


「えっ?」

 差し出された包みを受け取るように両手を差し出した菊緒さんが。その名を聞いた瞬間、全身に生気を漲らせたのが分かった。

 無事の生還に希望を託していた恋人は、今どこかで生きているのかと。

 その問い掛けを理解していたように、花月さんが険しい表情で頭を振る。

 一瞬で、菊緒さんは花が萎れるように項垂れてしまった。


「解いてください、その包みを」


 言われるままに菊緒さんは、小さな包みを解いた。

「……!」

 その瞬間、中に入っていたものに吸い込まれるように見入っていた菊緒さんは、絶句したまま蹲ってしまった。

 掌の包みを、大事に大事に胸に抱いて。



「あそこに入っていたのはね……」

 私の隣で、懐かしむように今の菊緒さんが教えてくれる。

「黄色い金平糖」


 金平糖?

 それを聞いた瞬間だった。

 私の脳裏に、夜空のような濃紺の和紙の上に、ポツンと光っている一粒の大きな黄色い金平糖が過ぎった。


――死んだなら……星になってあなたを見守ることにしよう。菊の色をした、黄色い星になろう。それなら分かるだろう?


 そう言った清三さんの言葉と共に。


――これが僕だと、きっと分かるようにするから。もし、その星が見つかった時は……いいね、もう僕のことは諦めて、僕の分まで幸せになるんだよ。生きて帰って来られたなら、必ずあなたを幸せにする。駄目だった時には、空からあなたの幸福を守らせて欲しい。


――わかるね、菊緒さん。死んでしまったら、もうあなたにどうしてあげることもできないんだ。そんな僕に、せめてあなたが幸せに生きる姿を見せて欲しい、これは、僕の最後のわがままだ。


 きっと蹲っている菊緒さんの胸の内にも、清三さんの言葉が響いているのだろう。

 最後まで約束を守った、恋人の優しい声が。



 漸く顔を上げた若い菊緒さんは、泣き濡れた瞳で金平糖を見つめ、そして恋人にそうするように唇に押し当てた。

 尊いものへ、言葉にならない想いと祈りを届けるように。

 そして金平糖をもう一度見つめると、震える指先で唇に押し込んだ。



「優しい、甘さだった……」

 蹲ったまま、清三さんの心を味わう昔の自分を見つめながら、菊緒さんが微笑んだ。

「優しい、泣きたいほど真面目な味がしたの」

 


 ずっとそうしたまま動かない菊緒さんに、何も言わずに花月さんは頭を下げ、踵を返して歩いていく。


 あの日――清三さんを戦地に送り出した時のように、蹲ったまま動かない菊緒さんは、しかしあの時とは対照的に、とても幸福そうだった。

 まるで金平糖を口の中で溶かす間のうちに、清三さんと再会し、結婚をして、二人で生きていく――そんなあり得なかったもう一つの人生を生きているかのように。

 誰一人、路肩で蹲った菊緒さんに視線も向けずに通り過ぎてゆく。

 花月さんの力が働いているのか、それともこの時代、誰も他人のことに構う余裕がないのか。


 どれだけそうしていただろう。

 やがて菊緒さんが、きっぱりと顔を上げ、力を振り絞るように立ち上がった。

 夕暮れの空を見上げ、強く拳を握る。


「……清三さん、見ていて」


 瓦礫の向こうに、子どもたちの声が聞こえた。

 遠くでジープのクラクションが響く。

 不安と焦燥に追い立てられた人々。

 その全てを見回して、十八歳の菊緒さんは、太腿の脇で震えるほどに拳を握り締めていた。


「――生きてみせるから。もう泣きません。もっと強くなる。私は、貴方の護ってくれたこの国で、幸せに生きる。……誓います、清三さん」


 沈みかけた太陽が、瓦礫の中に立つ彼女を金色に染め上げていた――。

 


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