清三さんの願い
なんという時代なのだろう。
愛する人を死地に駆り出され、それに抵抗する声さえもが、罪になってしまうなんて。
私は胸の奥を掴まれたように息を詰めたまま、膝を折って蹲った若い菊緒さんを見守っていた。
一緒に此処へ来た九十八歳の菊緒さんは、当時の心を清三さんに投げ掛けられただろうか。
もはや時空が違ってしまった二人だけれど、せめて空耳でもいいから清三さんに届くといい。
耳の奥で、遠くの警笛が伸びていく。
まるでそれは恋人を残していかねばならなかった清三さんの、声にできない心残りのようだった。
それが消えると、あたりを包んでいた喧噪がすっと引いていく。
周囲の景色がゆっくりと遠ざかるように消えていく――。
瞼を開けると、柔らかな光が差した。
土煙の匂いの代わりに、清浄で爽やかな緑の匂いが広がっている。
「お帰りなさい」
テーブルの向こうで、先程と何も変わらない花月さんが微笑んでいた。
ああ、そうだ。私たちは幻を見ていたんだ。
いや、花月さんに体験させられていた。
いま流行のVR体験などというものより、もっと生々しい、本物の時空の世界を。
「少し休憩しましょうか。弓美さんは少し、巻き込まれてしまいましたね」
そう言ってお茶を淹れてくれる花月さんの周囲が、まるで湯気そのものが光を孕んだように淡く滲んで見えた。
私はもう花月さんを普通の人とは思わなかった。
催眠術や手品などとは違う、人知を超えた力を、彼は持っている。
もしかしたら人ではないのかもしれない。
だとすればそれはそれで素直に頷ける。
「……いえ、貴重な体験でした。入居者さんの過去とか、よく想像はするんです。でもああして目の当たりにしてみると、やっぱり皆さん、菊緒さんは特に、本当に沢山の苦労をしてきたんだなって」
「弓美さん、そうじゃないのよ」
ハンカチで瞼を拭った菊緒さんが、咎める響きもなく柔らかく言った。
「あの時代を生きた人たちはね、皆が同じような苦労をしたの。わたくし一人が特別な苦労をしたわけじゃないのよ。……でも、あなたもそうでしょう? 今の方には今の時代の苦労が、同じほどに降り掛かって来るでしょう。人生って、そういうものですもの」
「菊緒さん……」
その言葉に何となく、頭を撫でてくれる祖母の掌を思い出したのは何故だろう。
「さぁ、どうぞ」
湯気の立つお茶が、私たちの前に置かれた。
「……清三さんに、久し振りに会えましたわ」
私の隣で、菊緒さんが小さく頷いた。
目の縁が赤くなっていたが、その表情にはどこか穏やかさがある。
「わたくし、認知症なんて病気のせいで、暫くあの人を忘れていましたの。ここに来た時には、不実なことだったと自分を責めましたけれど……久し振りに清三さんを見て、あの人はそんなことを責めるような人ではなかったことを思い出しました」
彼女の声は、震えながらも澄んでいた。
その前に立つ花月さんは、静かに微笑し続けている。
祈るように受け止めている。
「時は形を変えても流れ続けます。その中で人の想いというものは、いつでも変わらず側にあるものですから」
菊緒さんが深く頷いた。
「日本が負けて、そこらじゅう焼け野原になって、私は呆然としたものです。清三さんの戦死の報せが届いたのは、そんな時でしたわ」
良い香りの薄い湯気が、三人の間を漂う。
それはまるで、時の狭間を漂う霧のようにゆらめいていた。
「でも貴女は生きた」
「ええ、花月さんが連れて来てくださったから」
「清三さんは怖いほど真剣でしたからね。菊緒さんに、必ず届けてくれと」
花月さんが言葉を継ぎ、菊緒さんが悪戯っぽく笑う。
まるで幸福な思い出を語り合うような二人の会話が見えない。
「――ああ、すみません弓美さん」
「えっ」
思い出したように花月さんに名を呼ばれ、上ずった声が出た。
「いえいえ、ごめんなさい、ちょっとお二人の話が見えなくて」
お茶を手に二人を交互に眺める私を、花月さんと菊緒さんは可愛いものを見るように見詰めてくる。
なんだ。
なんなのだ一体。
「――そうですよね、混乱しますよね」
眉を下げた花月さんが、小首を傾げて笑みを深めた。
「弓美さん、もう少しだけお付き合いくださいませんか。菊緒さんに起きたことを、見届けて差し上げてはくださいませんか」
「あ、はい、もちろん」
一も二もなく、私は頷いた。
ここまで来たら知りたいではないか。菊緒さんがそれからどうしたのか。先程の花月さんとの会話の意味は何なのか。
「……あの方の想いも、まだ終わってはいないんですよ、菊緒さん」
花月が穏やかに微笑む。
「このお菓子を僕に依頼したのは、清三さんですから」
彼の言葉と共に、またあの風車がカラカラと回る音が聞こえて来た。
茶器の湯気がふっと揺れ、空気が変わってゆく。
次の瞬間、菊緒さんと私は、またあの闇の中へ沈んでいった。
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