26.鬼虫
それは死者のような顔ではなく、間違いなく、死者の面相であったのだ。腐敗し始めている肌はところどころで肉が裂け、湧き出した蛆がぽとぽとと地面に落ちた。
「これは、鬼ではない……? だがいずれにせよ……仏刀で斬らねばならぬ、この世ならざる不浄の存在……!」
意気込んだ雉猿狗が、桃源郷の美しい刃の切っ先を女の左胸に向けた瞬間。
「やめてェェッッ!!」
大声を張り上げた桃姫が雉猿狗の背後から走り抜け、女の前に立ちはだかった。
「桃姫様……何を!?」
「母上を殺さないでッッ!!」
「……っ!?」
血相を変えた桃姫の顔。そして発せられた言葉に雉猿狗は絶句した。
「いけませんッ! 離れてください桃姫様ッ!」
「雉猿狗は顔を知らないんでしょう! 間違いない! 母上だよッ!」
桃姫は雉猿狗の警告も無視して、女の長い黒髪をかき分けた。
そこには腐敗はしているが、美しい顔つきをした女の顔が現れる。そして、その顔は正しく小夜の顔であった。
光を失い濁りきった黒い目、悪寒を催す腐敗臭、そして、湧き出てくる蛆虫。しかし、桃姫にとっては今まさに自分の目の前に現れてくれた愛する母親に他ならなかった。
「桃姫様っ! この方は、既に母君ではありません……! ──魔物ですッ!」
雉猿狗は鬼気迫る表情で叫ぶと、桃姫の小さな体を右手で力任せに押しのける。桃姫はよろめいてその場に尻もちをついた。
「やめて……やめて……やめてぇッ!」
「──っ!?」
桃姫は叫びながら雉猿狗の腰に両手でしがみついた。
「母上を殺さないで……! 雉猿狗、お願いぃぃい……!」
「桃姫様ッ! 気を確かにしてくださいッ!」
両目を見開いて懇願する桃姫に雉猿狗は動揺しながら叫んだ。
「母上……ねぇ、桃姫だよ……ねえ……わかるよ、ね?」
桃姫は雉猿狗の腰を掴みながらよろよろと立ち上がると、物言わぬ小夜に声をかけた。その時、小夜の顔がグイッと動き桃姫の顔を向く。
「母上──」
次の瞬間、小夜の口内から真紅の鬼の角が伸びた。
「へっ……?」
「くッッ!!」
呆然として声を漏らした桃姫の顔面に向けて高速で伸びた鋭利な鬼の角を雉猿狗が咄嗟に右手で握りしめて受け止めた。
真紅の鬼の角は熱を持っており、雉猿狗の手がジウウウウと焼け、黒煙を放った。
「桃姫様……!」
雉猿狗は激痛に苦悶の表情を浮かべながら茫然自失状態の桃姫に向けて叫んだ。
桃姫は眼前の口の端が引き裂けるほど大口を開けて喉奥から鬼の角を伸ばす小夜のその顔の歪な状態に対して、全く脳が受け入れることが出来ない状況でいた。
「──生きたいと言いなさい……!」
しかし、雉猿狗は何とかして桃姫に問い掛ける。正気に戻すために、死者に引っ張られないために。
「──生きたいと言いなさいッ! 桃姫ッ!」
「っ……!」
雉猿狗の桃姫に対する力強い問いかけに桃姫の震えていた濃桃色の瞳に光が戻る。
「いきたい──生きたいッ! 死にたくないッッ!!」
「……ふっ」
雉猿狗は桃姫のその言葉を聞き届け、弥勒菩薩のような慈悲深い笑みを浮かべた後。
「──よくぞ言えましたッ!」
鬼の角を手放した雉猿狗は、小夜を全力の回し蹴りで後方に蹴り飛ばした。
「この姿……もはや、鬼ですらありません……」
雉猿狗は地面に仰向きで倒れ込みながらガクガクと四肢を動かして藻掻く小夜を見ながら言った。
「もっと別の……何か別の、禍々しい呪いの力を受けている邪悪な存在……」
小夜は仰向けの体勢で、両手両足を逆にした犬のように四つん這いになった。
「桃姫様……見てはいけません」
「うぅ……」
雉猿狗の忠告を受けた桃姫は固く目を閉じた。次の瞬間、小夜の頭だった部位が赤い花弁のように八つに開き、小夜の両肩だった場所に赤い複眼がメキッと現れ、真紅の鬼の角を空に向けて高く掲げた。
「キシャアァァァアア……!」
人の殻を被った奇怪な甲虫のように見えるその物体はうなじの部位に作った口から奇声を上げた。
先端が鋭く尖った真紅の鬼の角からは、フツフツとあぶくを立てる灼熱の赤い血が垂れ、ポタポタと地面に滴ると煙を立てた。
「こんなの……こんな冒涜が許されるわけが……」
雉猿狗はあまりの禍々しさに声を震わせる。
「ですが……そんなことは、今はどうでもいい。桃姫様に害を為す存在ならば、ただ斬るだけ」
赤い手甲をつけ、桃源郷を握りしめる左手に力を込め直した雉猿狗は、人の皮と服を被った呪われた甲虫に向けて決意を固める。
「仏の加護を受けたこの桃源郷であるならば……それは容易いことですッ!」
雉猿狗はギンと濃翠色の瞳を光り輝かせると、桃源郷を両手で構え持ち、軸足を移動させ瞬時に駆け出せるようにする。
「御館様……どうか私に桃姫様をお護りする勇気をお与えくださいッ! デヤァァアッッ!!」
裂帛の声を上げた雉猿狗が全力で駆け出し、桃源郷を甲虫の胴体に向けて振り下ろそうとしたその時。
「なっ!?」
甲虫の背中、小夜の胸の部分がバクリと大きく裂けると、中にある臓物が蠢き、灼熱の鮮血を大量に雉猿狗に向けて吹き掛けた。
「ウウッ! アアアアッッ!!」
灼熱の血液に怯んで大声を上げた雉猿狗が煮えたぎる血の霧の中で目を開けると、左右に裂けた胸の皮膚が既に硬質化しており、キチン質の四枚羽根と化していた。
更に胴体から一対の鋭く長く黒い鉤爪のような節足が伸び、いよいよ六本脚で羽のある鬼虫の姿と化した。
「まずいッ……!」
視界を灼熱の血で潰されている雉猿狗は、危機的状況に声を上げた。雉猿狗の体は汚れはしないが損傷は受ける。灼熱の血液による攻撃によって雉猿狗の視界はモヤが掛かったように霞んでいた。
怯んだ雉猿狗に対して、鬼虫は二本足でムクリと立ち上がると、肩の部分に生じた赤い複眼で雉猿狗を睨みつけ、胴体から伸びる鉤爪のような黒い節足を左右から大鋏を閉じるように雉猿狗に向かって振るった。
「いやッ……!」
「キシィィィイイイッッ!!」
雉猿狗の引きつった声と、それに覆いかぶさるように鳴く鬼虫の奇声。次の瞬間、もう一人の声が辺りに響き渡った。
「──ヤァァァアアアッッ!!」
裂帛の声を張り上げた桃姫の桃月による上段突きが鬼虫の胴体を刺し貫いた。
「ッ……!」
雉猿狗は桃姫が鬼虫を貫いたのだと瞬時に理解し、桃源郷を持つ手に力を込めた。
「デヤァァァアアッッ!!」
そして、雉猿狗が桃源郷にて間髪入れずに鬼虫の心臓を刺し貫く。
前後から二本の仏刀で刺し貫かれた鬼虫は一瞬完全に沈黙した後、人ならざる虫の断末魔を鳴いて絶命した。
「クィィィイイイイッッキュ……!!」
桃姫と雉猿狗が同時に刀を引き抜くと、赤黒い血をドロッと体から垂らし、鬼虫は地面にドサッと倒れ込んだ。
「桃姫様……ありがとうございます……」
雉猿狗は、小さな手に桃月を握りしめる桃姫を見ながら感謝の言葉を述べた。
「桃姫様が、勇気を振り絞って頂けなければ、雉猿狗は──」
「──斬ったのに……大好きな母上を斬ったのに……」
桃姫は赤黒い血のついた桃月の刃を見ながら、呟くように声に出した。
「──母上を斬った感覚が、ないよ……悲しいはずなのに……涙も、出ない……私、おかしくなっちゃったのかな」
桃姫は言うと、雉猿狗を見た。雉猿狗は首を静かに横に振った。そして、桃姫の目をしっかりと見て答える。
「桃姫様。それは、既に母君ではなかったからです……母君は天界に居られます──桃姫様は、鬼を斬ったのです」
「そう……鬼を、斬ったんだ」
桃姫は言うと、雉猿狗が桃姫に歩み寄って胸元に抱き寄せた。
「……御立派でしたよ……本当に、御立派でした……」
「…………」
雉猿狗は桃姫の柔らかな桃色の髪の毛を撫でると、桃姫は頷いて胸に顔をうずめた。
「行きましょう……桃姫様。ここにいたら、すぐに次の鬼がやって来ます」
「……うん」
雉猿狗の言葉を聞いた桃姫は雉猿狗の身体から離れると、桃月の血を振り払って白鞘に納めた。
「──桃姫様」
その姿を見ながら、雉猿狗は確信と共に言葉を告げる。
「あなた様は、誰よりも強くなります。雉猿狗には、それがわかります」
雉猿狗も桃源郷を振り払い鬼の血を飛ばすと、白鞘に納める。そして、人がやってきて騒動になる前に、二人はその場を離れるのであった。
「──ほう……桃の娘と三獣の化身か……これは、たまげたのう……」
感心したような嘲笑っているような老人のしゃがれた声。遠くに去っていく二人の姿を見ながら、役小角が黄金の錫杖をチリンチリンと突きながら現れた。
「ふん……無様じゃのう」
役小角は息絶えた鬼生虫を見下ろして吐き捨てるように言ってから、黄金の錫杖の先端でその亡骸を突くと、突かれた箇所から瞬く間に灰になった鬼虫は風に吹かれて消えた。
次いで、役小角は宿屋の前に倒れ伏している巨漢の鬼人兵の前まで歩み寄ると左手で白装束の懐から一枚の呪札を取り出し、右手で黄金の錫杖を構え、マントラを唱える。
「──オン──アミリテイ──ウン──ハッタ」
そして、紫光した呪札を巨漢の鬼人兵に向けて放り投げると、ひらひらと舞った呪札が鬼人兵の心臓の穴を塞ぐように貼り付いた。
「……ヴゥ……ウグゥァガガアア……」
息を吹き返した鬼人兵は、唸り声を上げて赤い目に光を取り戻すと役小角はふんと鼻を鳴らして口を開いた。
「おぬしは運がいいのう……いんや、死ねなかったのだから、運が悪いのか……? かははははッ!」
役小角は高笑いの声を上げると、呪札の束を空中にばら撒いて門の形を作り出す。
そして、巨漢の鬼人兵を先に呪札門の向こう側に映る鬼ノ城の広場に送り込むと、自身も呪札門をくぐろうとして直前で振り返る。宿場町の中に入っていき、微かに見える桃姫と雉猿狗の姿。
「……千年に及ぶ総仕上げの直前だというのに……よもや、このような楽しみが増えるとはな」
役小角は漆黒の眼球が隠れる目を細め、満面の笑みを浮かべながら呟くように言う。
「まったく、長生きはしてみるものだのう……桃よ──くかかかかかッッ!!」
役小角は笑いながら白装束の裾を持ち上げて呪札門を跨いで入り込む。そして、次の瞬間に門を形作っていた呪札は、フッと紫光を失い、バラバラに崩壊して地面に落ちた。
そして、赤い呪文が書かれた黒い呪札の群れは、独りでにボッと火がついて燃え上がると灰になって早朝の秋空を舞うのであった。
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