25.鬼人兵

「──ああっ!」


 顔に汗をかいた桃姫は声を上げながら目を覚ます。視線の先には雨漏りの黒いシミだらけの見慣れぬ天井。そして、カビ臭い布団の匂いにすえた畳の匂い。

 桃姫は起きた瞬間からズキズキと頭痛が響く脳を懸命に動かして、ここが播磨の宿屋であり、雉猿狗と宿泊したのだと自分が置かれている状況を把握した。


「雉猿狗……どこ……?」


 そうなると、雉猿狗の姿を探したくなる。しかし、隣の布団はもぬけの殻。よく見るとまるで飛び起きたかのように掛け布団が乱暴に剥がされていた。

 いつも真面目で真剣な雉猿狗がこのような粗雑な状態で自身の布団を抜け出すとは桃姫には到底思えなかった。


「……何があったの……雉猿狗」


 桃姫の脳裏に嫌な予感が波のように押し寄せ、ただでさえ痛む頭を更に苦しめた。


「うう……雉猿狗……どこ……」


 桃姫はふらつきながら立ち上がると、左手で頭を抑えながら、開け放たれている引き戸から二階の廊下に出た。

 そして、急な傾斜の階段を一歩一歩、右手を壁に押し当てて降りていくと、鼻にツンと嫌な臭いが入り込んだ。


「この臭い……いやだ……こわいよ……」


 桃姫は、嗅いだ覚えのある臭いに対して恐れの表情を浮かべながら、それでも階段を降りて居間が覗ける場所まで来ると、台帳が置かれている受付台に倒れ込んでいる女性の下半身が目に入った。

 女性は使い古した着物にたすきをかけており、その格好から昨晩挨拶をした宿屋の女将だとわかった。


「……うぅっ」


 そして、桃姫が階段を降り切って全貌を確認すると、その女性は首から上が無かった。血溜まりが受付台を赤く染め、ぽたぽたと土間に血を落としている。

 吐き気を催した桃姫がその場にしゃがみこもうとしたその時、土間の奥、台所のほうから桃源郷を握りしめた雉猿狗が姿を現した。


「なッ!? 桃姫様……!?」

「雉猿狗……っ!?」


 驚愕した表情の雉猿狗に桃姫も驚きで返す。


「雉猿狗、何やってるの!? 何が起きてるの!?」

「部屋に戻ってください……! 桃姫様! ……くッ!」


 桃姫の言葉に雉猿狗は焦ったように返すと台所をふっと振り返った。その瞬間、一息発しながら、飛び跳ねるようにして台所から土間へと移動する雉猿狗。


「鬼です! 桃姫様!」

「……っ」


 雉猿狗の叫ぶような声、それに対して桃姫は絶句すると、台所から大鉈を握りしめた巨漢の鬼人兵が姿を現した。


「グゥガガッガアガガ……!」


 赤い眼をぎょろぎょろと動かしながら唸る巨漢の鬼人兵は、右手で太い柄を握った血濡れた大鉈を左手で支え持ってのしのしと雉猿狗へと距離を詰めた。

 雉猿狗は両手で桃源郷を構えながら鬼人兵を睨みつける。そして、後ろにいる桃姫に向けて声を発した。


「女将さんの悲鳴を聞きつけて、降りてきたら……既に……! この鬼の狙いは……間違いなく、桃姫様です……!」

「……ッ」


 雉猿狗の言葉を受けて桃姫は恐怖で体を強張らせると、巨漢の鬼人兵は階段の下にいる桃姫の姿をぎょろぎょろと回していた赤い眼の視界の中に入れた。そして、その瞬間眼を回すのをやめて、桃姫一人に標的を絞る。


「ギグァァア! ガァッギャアアッ!」


 目当ての標的を見つけたとばかりに狂喜しながら奇声を張り上げて桃姫に迫る鬼人兵。

 それに対して、雉猿狗は濃翠色の目をギンと光らせると、自分の前を通り過ぎようとした鬼人兵目掛けて咆哮した。


「桃姫様に近づくなァッ!」


 今まで聞いたことのない獣のような大声を張り上げた雉猿狗は巨漢の鬼人兵を全力で蹴り飛ばした。


「グッガァギッ!」


 肥えた胴体を憤怒した雉猿狗に全力で蹴り飛ばされた鬼人兵は、玄関の木戸ごと外に弾き飛ばされ、ごろごろと地面を転がった。


「桃姫様はそのままッ!」


 目をギンと光らせた雉猿狗が桃姫に告げると、巨漢の鬼人兵を追って桃源郷を握りしめた雉猿狗も外に飛び出していく。


「……雉猿狗っ」


 桃姫の心配の声は雉猿狗の耳には一切届かなかった。鬼人兵を追いかけた雉猿狗が宿屋の外に出ると、鬼人兵が呻きながら立ち上がっている所であった。


「グゥゥウッ! グゥオガガアァ!」


 鬼人兵は蹴りの直撃を受けた青黒い肌の脇腹を左手で抑えながら、頭に歪な赤い一本角の生えた鬼の顔で雉猿狗を睨みつけた。


「すぐ楽にしてさしあげます。あなただって、鬼になんてなりたくなかった……こんなことしたくなかったでしょうに……!」


 雉猿狗は巨漢の鬼人兵に対して嘆き悲しむように言うと、桃太郎の愛刀、桃源郷を赤い手甲を付けた左手を軸に白い数珠を付けた右手を添えて構えた。

 早朝の朝日が照らす街道は人通りが一切なく、大鉈を振り上げる鬼人兵と桃源郷を構える雉猿狗のみが対峙していた。

 この播丸という安宿屋は、宿場町の入り口に位置している。それ故に騒ぎが起きているのに他の宿屋まで騒動は届かないという距離であった。


「……雉猿狗」


 桃姫は、そのままと言われた雉猿狗の言葉を脳裏で泳がせつつも、しかし、雉猿狗に対する心配が勝って女将の亡骸が倒れる居間を越えて、土間に降りて雪駄を履き、そして破壊された玄関の引き戸からちらりと顔を出して外の様子を覗き込んだ。


「──御館様……どうか雉猿狗に、この桃源郷で鬼を退治する力をお与えくださいませッ!」


 雉猿狗は仏の加護を受けた銀桃色の刃の切っ先を鬼人兵に向けながら祈るように声を発すると、しびれを切らした巨漢の鬼人兵が唸りながら腹の肉を揺らしてドシドシと地面を蹴って迫ってくるのを全身の意識を集中して待ち構えた。


「グヴォガオオッッ!!」

「ふぅッ……!! エイヤアアアアッッ!!」


 鬼人兵の大鉈による大振りの一撃を一呼吸で身軽にいなし、体勢を低くした雉猿狗は、気合の声を張り上げながら鬼人兵の心臓一点を目掛けて桃源郷の切っ先を流れるように伸ばして刺し貫いた。


「……わっ」


 その光景を見ていた桃姫が思わず声を漏らした。それはまるで麗人の雉猿狗が軽やかな舞踊を舞っているように見えたからだ。

 雉猿狗は即座に桃源郷を鬼人兵の心臓から引き抜くと、飛び跳ねるようにして距離を取った。

 自分が死んだことすら気づいていないような顔の鬼人兵は尖った歯を見せつける口から生暖かい息を吐いた。

 そして、赤黒い鬼の血液を左胸に穿たれた穴からドバッと一気に流出させたあと、ようやく後ろ向きにドスンと倒れ伏した。


「……はぁ……はぁ……やった……」


 雉猿狗はその様子を最後まで見届けてようやく安堵の声を漏らした。


「雉猿狗っ!」


 宿屋の引き戸から雉猿狗に向かって思わず飛び出した桃姫。その姿を見て雉猿狗は驚きの声を上げる。


「桃姫様ッ!? そのまま、階段に居てくださいって……私──」

「──良かった……! 雉猿狗、無事で良かったよぉ!」


 雉猿狗が桃姫に対して言っている最中に桃姫は雉猿狗に抱きついて強く抱きしめた。


「も、桃姫様」

「私、雉猿狗が死んじゃったんじゃないかって……死ぬんじゃないかって……怖くて」


 桃姫の疲れ切った表情と言葉から雉猿狗は桃姫の感情を汲み取ると、雉猿狗は微笑んで答えた。


「ははは。私は死にませんよ、桃姫様……死んでしまったら桃姫様をお護りできないではありませんか」


 雉猿狗は強がりながら言ってみせると、胸元に抱きついている桃姫が首を横に向けて、何かを見ていることに気づいた。


「……桃姫様?」

「雉猿狗、あれ……」


 桃姫の引きつったような声、雉猿狗は桃姫が見ている方向に顔を向けると、そこには一本の立派な松が立っていた。

 そして、その一本松の太い幹の陰に、一人の女性が幽鬼のようにして立ち、こちらを長い黒髪の隙間からじっと見ていることに気づいた。


「雉猿狗、あの人も……鬼、なの?」


 怯えた桃姫が雉猿狗に尋ねると、雉猿狗は目を凝らしてよく見る。しかし、その額に角は無く、目も赤くはない。何より肌に鬼人特有の青黒さはなく、むしろ、死者のような土気色をしていた。


「私が……確認、してみましょう……桃姫様はこちらに」


 そう言った雉猿狗が桃姫を身体から離すと、銀桃色の桃源郷の刃を振り払って鬼人兵の赤黒い血を地面に飛ばし、怪しい女に向けて両手で構え直し、ジリジリと警戒しながら距離を近づけた。


「雉猿狗……気をつけて……!」

「はい……!」


 後方で見守る桃姫に対して、雉猿狗は背中越しに答えた。ゆっくりと、しかし着実に一本松に近づき女と距離を近づけた雉猿狗は、その顔を見てゾッとする。

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